Ⅲ/Ⅳ 斉藤 悠美

 

 

 

 体育館の裏で三角トーストをかじった。

 恋人の悲鳴を、離れたところで聞いていた。

 理子はメロンパンを片手に下級生に抱きつかれ、おろおろと周囲を見渡して困っていた。

「ねえ、そろそろ離れてあげたら?」

 見かねて真城に声を向けると、

「嫌っす。悠美先輩はあっちいっててください」

 理子のお腹から嫌そうな声がした。

 なんだってんだ。まったく。

 アタシは嘆息すると、理子の顔を覗き込んだ。

 彼女は苦笑いを浮かべている。

 その表情に、孤独の影はなかった。

「真城さん、そろそろ離れよ。ご飯食べなきゃ」

「あ、加奈でいいです」

「えぇ?」

「理子先輩は命の恩人っすから」

「大袈裟だよ」

 理子が笑うと、真城はようやく彼女のお腹から離れた。ずびっと鼻を鳴らして、涙を拭う。理子はため息をつきながらも、優しい目をしていた。

「会いに行く時は、悠美にお願いしてね」

「えー。理子先輩がいい」

「ダメだよ。リスクがあることは知ってるでしょ」

「でも」

 真城はおずおずとアタシを見て、心底嫌そうな顔をした。なんだよ――睨み返すと、びくりと肩を震わせて理子に抱きついた。

「悠美。できる?」

 代わりに理子が聞いてきた。

 アタシは眩暈がした。理子が、アタシに求めている。

「――好きにしたら」

 そう言うのが、精一杯だった。

 顔を背けて、苦し紛れに脇坂を見やる。

 隣でパンを頬張る脇坂は、沈黙を続けていた。

「今日は静かじゃん」

 アタシが声をかけると、脇坂は口を開いた。

「いいんですか、あれ」

 小さな声だった。

「僕は会うの、まずいと思うんですけど」

「まあ、そりゃね」

 アタシは頷いて足を組んだ。

 膝で頬杖をついて、脇坂のささやきに耳を傾けた。

「ばれたら伊織先輩が退学になっちゃうんですよ。僕は反対です」

「そう言ってやったらいいじゃん」

 アタシが笑うと、脇坂は顔をしかめた。

「言えないですよ」

「まあ、わかるけどね。アタシも困ってんだ」

「ですよねえ」

 アタシは脇坂と一緒にため息をつくと、寒空のもと身を寄せあった。脇坂の不満げな横顔を見て、思う。

 理子のしたことは、決して正しくない。

 アタシにも妹にも両親がいて、今回の件はそれなりに痛手となった。品行方正なはずの妹が起こした過ちは、とっくに手を離れて大人の話になっている。

 だから、真城と妹は会えない。簡単なことではないのだ。それだけのことをした。過ちは消せない。二度と会うことは叶わない――そのはずだ。

 でも、それが変わろうとしている。

 アタシの恋人がやったのだ。

 流されるままに大きなものを背負い、震えるだけだった最愛の彼女が、未来を描いた。切れるはずだった縁が今、結びつこうとしている。

 レールが音を立てて、切り替わろうとしている。

「僕には、わからないですよ」

「アンタにはわかんないだろうね」

 ふてくされる脇坂を、アタシは笑った。

 脇坂は真っ直ぐに歪んだ瞳で、理子と真城を見つめていた。

 

 

 

「制限時間は――午後五時まで。それを過ぎたら責任は持たない。なにが起こってもアタシは知らない」

 わかるね?

 アタシはその扉を開ける前に、真城をにらんだ。

 彼女は緊張した面持ちで頷くと、震える手でドアノブを掴む。

 扉が開くと、そこには着飾った妹が立っていた。

 デートでもあるまいに――鼻で笑うと、ぎろりとにらまれてしまった。

「せん、ぱい」

 涙で塞がれた声がした。

 真城は部屋に一歩踏み入ると、吸いこまれるように伊織と抱きあった。

「ぁあ、真城。ううん、加奈――だったわね」

「そうです。先輩、じゃなくて伊織、さん」

「なんだかおかしいわ。さん付けなんて」

「でも」

 抱きあうふたりは目尻から涙を伝わせていた。

 アタシはうんざりして、開いたドアをノックした。

 ふたりはびくりと震えて振り返った。

「なに見せびらかしてんの?」

「ちょっと。悠美先輩、空気読んでください」

「誰がここまで案内したと思って――まあ、いいけど。アタシはもう行くよ。伊織、これでいいんだね?」

 ため息をついて伊織を見ると、彼女はいつになく真剣な目で頷いた。

「悠美。ありがとう。許してくれて」

「許したつもりないんだけど」

「それでも、連れてきてくれたわ」

「理子のためだよ」

 顔を背けて言い切った。横目でにらむと、伊織は目を伏せて吐息をついた。

「似てないわね」

「は?」

「双子なのに」

「ああ。本当だね。似てなくてよかったよ」

 双子だから仲がよい。幻想だ。同じ日にふたりも子供が生まれる苦労は、きっと親にしかわからない。先に生まれたヤツにしかわからない。

「双子だから、仲がいいってわけじゃない」

「そうね。でも」

 伊織は笑うと、真城を抱きしめた。

「いつか、隣を歩くわ――家族として」

 アタシは鼻で笑うと、無言で扉を閉めた。

 変わっていく。皆、変わっていく。

 階段を下りながら焦燥に駆られた。

 作戦は完全に失敗していた。

 変わるなんて思っていなかったのだ。

 誰もいない生徒会室で、理子がアタシから逃げようとしてると悟った時。高校を卒業したら〝卒業〟しよう。それが真実だとわかった時。

 噂を流せば。

 孤立させれば。

 なにもかも諦めると思っていた。

 進学。生活。人生――それらを諦めたなかにアタシがいれば、理子はアタシを求め続ける。傀儡のまま、流されるままに委ねて、手を取って微笑む。

 そう思っていた。

 アタシは失敗したんだ。

 理子はすべてを耐えた。アタシの手を掴むことなく、自分の力で歩きはじめた。噂をささやく声も。真偽を定める視線も。混沌とした喧噪も――理子は打ち消した。噂が真実となっても、決して震えたりはしなかった。

 玄関の戸を開くと、理子は柔らかに笑っていた。

「伊織、どうだった?」

「ふつうだったよ。なにも考えてない」

「考えてるよ」

「そうだといいんだけど」

 アタシは手を差し伸べることなく、彼女の隣に並んで歩きはじめた。もう失敗は明らかで、差し伸べる意味は失われていた。だから。

「今日はもう帰りな」

「うん」

「アタシもバイトあるし」

「だね」

 アタシは嘘をついた。

 このタイミングは――ダメだ。胸騒ぎがした。奥歯が軋んだ。身体が震えた。心がざわめいた。それでも、

「明日は一緒に帰れる?」

 もう逃げられない。

 去り際に理子は、瞳を揺らして言った。

 アタシは頷くと、涙を堪えて顔を背けた。

 冷たい指先は、空をなぞるだけ。

 作戦は、失敗していた。