体育館の裏で三角トーストをかじった。
恋人の悲鳴を、離れたところで聞いていた。
理子はメロンパンを片手に下級生に抱きつかれ、おろおろと周囲を見渡して困っていた。
「ねえ、そろそろ離れてあげたら?」
見かねて真城に声を向けると、
「嫌っす。悠美先輩はあっちいっててください」
理子のお腹から嫌そうな声がした。
なんだってんだ。まったく。
アタシは嘆息すると、理子の顔を覗き込んだ。
彼女は苦笑いを浮かべている。
その表情に、孤独の影はなかった。
「真城さん、そろそろ離れよ。ご飯食べなきゃ」
「あ、加奈でいいです」
「えぇ?」
「理子先輩は命の恩人っすから」
「大袈裟だよ」
理子が笑うと、真城はようやく彼女のお腹から離れた。ずびっと鼻を鳴らして、涙を拭う。理子はため息をつきながらも、優しい目をしていた。
「会いに行く時は、悠美にお願いしてね」
「えー。理子先輩がいい」
「ダメだよ。リスクがあることは知ってるでしょ」
「でも」
真城はおずおずとアタシを見て、心底嫌そうな顔をした。なんだよ――睨み返すと、びくりと肩を震わせて理子に抱きついた。
「悠美。できる?」
代わりに理子が聞いてきた。
アタシは眩暈がした。理子が、アタシに求めている。
「――好きにしたら」
そう言うのが、精一杯だった。
顔を背けて、苦し紛れに脇坂を見やる。
隣でパンを頬張る脇坂は、沈黙を続けていた。
「今日は静かじゃん」
アタシが声をかけると、脇坂は口を開いた。
「いいんですか、あれ」
小さな声だった。
「僕は会うの、まずいと思うんですけど」
「まあ、そりゃね」
アタシは頷いて足を組んだ。
膝で頬杖をついて、脇坂のささやきに耳を傾けた。
「ばれたら伊織先輩が退学になっちゃうんですよ。僕は反対です」
「そう言ってやったらいいじゃん」
アタシが笑うと、脇坂は顔をしかめた。
「言えないですよ」
「まあ、わかるけどね。アタシも困ってんだ」
「ですよねえ」
アタシは脇坂と一緒にため息をつくと、寒空のもと身を寄せあった。脇坂の不満げな横顔を見て、思う。
理子のしたことは、決して正しくない。
アタシにも妹にも両親がいて、今回の件はそれなりに痛手となった。品行方正なはずの妹が起こした過ちは、とっくに手を離れて大人の話になっている。
だから、真城と妹は会えない。簡単なことではないのだ。それだけのことをした。過ちは消せない。二度と会うことは叶わない――そのはずだ。
でも、それが変わろうとしている。
アタシの恋人がやったのだ。
流されるままに大きなものを背負い、震えるだけだった最愛の彼女が、未来を描いた。切れるはずだった縁が今、結びつこうとしている。
レールが音を立てて、切り替わろうとしている。
「僕には、わからないですよ」
「アンタにはわかんないだろうね」
ふてくされる脇坂を、アタシは笑った。
脇坂は真っ直ぐに歪んだ瞳で、理子と真城を見つめていた。
「制限時間は――午後五時まで。それを過ぎたら責任は持たない。なにが起こってもアタシは知らない」
わかるね?
アタシはその扉を開ける前に、真城をにらんだ。
彼女は緊張した面持ちで頷くと、震える手でドアノブを掴む。
扉が開くと、そこには着飾った妹が立っていた。
デートでもあるまいに――鼻で笑うと、ぎろりとにらまれてしまった。
「せん、ぱい」
涙で塞がれた声がした。
真城は部屋に一歩踏み入ると、吸いこまれるように伊織と抱きあった。
「ぁあ、真城。ううん、加奈――だったわね」
「そうです。先輩、じゃなくて伊織、さん」
「なんだかおかしいわ。さん付けなんて」
「でも」
抱きあうふたりは目尻から涙を伝わせていた。
アタシはうんざりして、開いたドアをノックした。
ふたりはびくりと震えて振り返った。
「なに見せびらかしてんの?」
「ちょっと。悠美先輩、空気読んでください」
「誰がここまで案内したと思って――まあ、いいけど。アタシはもう行くよ。伊織、これでいいんだね?」
ため息をついて伊織を見ると、彼女はいつになく真剣な目で頷いた。
「悠美。ありがとう。許してくれて」
「許したつもりないんだけど」
「それでも、連れてきてくれたわ」
「理子のためだよ」
顔を背けて言い切った。横目でにらむと、伊織は目を伏せて吐息をついた。
「似てないわね」
「は?」
「双子なのに」
「ああ。本当だね。似てなくてよかったよ」
双子だから仲がよい。幻想だ。同じ日にふたりも子供が生まれる苦労は、きっと親にしかわからない。先に生まれたヤツにしかわからない。
「双子だから、仲がいいってわけじゃない」
「そうね。でも」
伊織は笑うと、真城を抱きしめた。
「いつか、隣を歩くわ――家族として」
アタシは鼻で笑うと、無言で扉を閉めた。
変わっていく。皆、変わっていく。
階段を下りながら焦燥に駆られた。
作戦は完全に失敗していた。
変わるなんて思っていなかったのだ。
誰もいない生徒会室で、理子がアタシから逃げようとしてると悟った時。高校を卒業したら〝卒業〟しよう。それが真実だとわかった時。
噂を流せば。
孤立させれば。
なにもかも諦めると思っていた。
進学。生活。人生――それらを諦めたなかにアタシがいれば、理子はアタシを求め続ける。傀儡のまま、流されるままに委ねて、手を取って微笑む。
そう思っていた。
アタシは失敗したんだ。
理子はすべてを耐えた。アタシの手を掴むことなく、自分の力で歩きはじめた。噂をささやく声も。真偽を定める視線も。混沌とした喧噪も――理子は打ち消した。噂が真実となっても、決して震えたりはしなかった。
玄関の戸を開くと、理子は柔らかに笑っていた。
「伊織、どうだった?」
「ふつうだったよ。なにも考えてない」
「考えてるよ」
「そうだといいんだけど」
アタシは手を差し伸べることなく、彼女の隣に並んで歩きはじめた。もう失敗は明らかで、差し伸べる意味は失われていた。だから。
「今日はもう帰りな」
「うん」
「アタシもバイトあるし」
「だね」
アタシは嘘をついた。
このタイミングは――ダメだ。胸騒ぎがした。奥歯が軋んだ。身体が震えた。心がざわめいた。それでも、
「明日は一緒に帰れる?」
もう逃げられない。
去り際に理子は、瞳を揺らして言った。
アタシは頷くと、涙を堪えて顔を背けた。
冷たい指先は、空をなぞるだけ。
作戦は、失敗していた。