Ⅲ/Ⅲ 高梨 理子

 

 

 

 私になにができるだろう。

 空席の目立ちはじめた授業中、ずっと考えていた。

 校章を外した今――私にできることなんて、なにもない。それでも私は、あの時頷いてしまった。

 縋りつく手のひらから、涙が滴る瞳から、恋を感じたから。

 迷いのない、閃光のような眩しさに目が眩んで、手を伸ばしてしまった。

「理子」

 ふと声をかけられて、私は瞬いた。

 いつの間にかHRは終わっていた。

 ひそひそ。じろじろ。ざわざわ――視線とざわめきが踊る日常の最中に放りだされた私は、目を細めて廊下を見やった。

「理子、一緒に帰ろう」

 悠美は戸を押し開け駆け寄ると、陶磁器のように白い指先を私に差し伸べた。私は呆れたように笑みを返すと、その手のひらにそっと首を振った。

 代わりに肩を寄せて、教室を後にする。

 並んで廊下を歩くことは、もう当たり前になっていた。すべてのざわめきを無視する悠美の働きで、私たちの関係は公然のものとなりつつあった。

「どうして」

 悠美は廊下を歩きながら、窓を見やって呟いた。

「うん」

「あんなこと言ったのさ」

「昨日のこと? うーん。なにかできる気がして」

「ばれたら退学だよ」

「家に入っちゃえば、わかんないよ」

「そうかもしれないけど」

 悠美は呆れてため息をつくと、髪をかきあげた。

「でも、伊織の気持ちもあるでしょ」

「問題はそこだよね」

 私は顔をしかめて言う悠美に頷いた。

「真城さんは、それでもって言うけどさ」

「会えないでしょ、ふつう」

「ふつう? まあ、そうだよね」

 私は鞄を握る手を強めて、眉を曲げた。

 そうだ。伊織の気持ちを考えると、それは正しい。真城さんがどう言ったって、伊織は過ちを犯した加害者なのだ。会えないだろう。

 〝ふつう〟は――だけど。

「でも、ふつうじゃダメなんだよ、きっと」

 だって真城さんは、あんなに眩しい瞳で、願っていたのだから。伊織が正しいんだとしたら、きっと真城さんだって正しいに違いないのだ。

「とりあえず、説得してみる」

「やめといたほうが」

「わかってる。あんまりよく思われてないってこと」

「だったら」

「でも、話してみたいんだ」

 私は悠美に笑いかけて、歩く速度をはやめた。

 昇降口は、生徒であふれている。ひそひそ。じろじろ。悠美から少し離れただけで、それが気になった。

 私は振り向いて悠美を見つめた。

 彼女は私から視線を外すと、頬をかいた。

「アタシは、理子が心配だよ」

「ありがと。でも大丈夫」

 下駄箱で別れる間際、ぽつりとささやかれた悠美の本音に、私は笑みを深めて手を振った。靴を履きかえるまで、しばしのお別れ――でもすぐにまた並び合って、私たちは同じ通学路を歩く。

 街路に並ぶ木々はすっかり枯れて、冬の風が私たちを凪いだ。そろそろコートが欲しい。私が震えると、悠美は身を寄せて細い指先を私の手のひらに絡めた。

 温かい。まだ視線はあるのに、ささやきが聞こえるのに、私は思わずその手を握りしめてしまった。

 身体はどきどきと躍動していた。頬は滴るように熱を帯びていた。

「やっと握ってくれたね」

「やめて。恥ずかしい」

 耳元でそっとささやかれると眩暈がして、私は顔を背けて大袈裟にため息をついた。そして前を向く。だらしなく蕩けている場合じゃない。私は、伊織と話さなければいけないのだから。

「家に行くね。今日こそ話したいから」

「一筋縄じゃいかないよ?」

「わかってる」

 目の前に、あの夜の情景が浮かんだ。

 私はなにもできずに泣いて、茫然と佇む伊織の肩を掴んでいた。あの時は、泣くことしかできなかった。私にはなにもできないって諦めて、伊織がふらふらと職員室に向かうのを、黙って見ていることしかできなかった。

 でも今は違う。私は変わる。皆、変わっているってわかったから。真城さんの閃光のような恋に肩を押された気がして、私は頷いて吐息をついた。

 

 

 

 二回ノックして開いた扉の奥に、伊織はうずくまっていた。部屋着のまま、ベッドのうえで、寒そうに震えて怪訝な瞳を揺らしていた。

「理子?」

「伊織、ごめんね急に」

 扉を開けた悠美は、私たちの対面を見やって吐息をついた。

「アタシさ、バイトあるから」

「うん。ありがと悠美」

 私は悠美に頷くと、部屋のなかに入った。

「ごめん、一緒にいてあげられなくて」

「大丈夫だよ」

 扉が閉まる間際、寂しげな顔で見つめる悠美に笑いかけた。私は伊織に向き直った。彼女は身をすくめて、首を彷徨わせていた。

「どうして、来たの。わたしは」

「ごめん。急なのはわかってる。でも電話に出ない伊織が悪いんだよ」

 私は苦笑って、スマートフォンをかざしてみせた。伊織は嘆息するとそれ以上なにも言わずに俯いてしまった。

「座るね」

「好きにして頂戴」

「うん」

 適当な場所に腰かけると、会話は途切れていた。

 部屋は凍るように冷たかった。私は目を閉じて言葉を探した。真城さんの笑顔が真っ先に思い出されて、気づけば口を開いていた。

「真城さんとは」

「ええ」

「電話してるんだよね」

「――してるわ」

「うん、じゃあもう色々聞いてる?」

「大変そうね」

「そうでもないよ」

 私が力なく笑うと、伊織は穏やかな視線を向けた。

 そして数瞬の躊躇の後、唇を開いてくれた。

「真城のこと」

「うん」

「助けてくれてありがとう」

「なんの話? 私はなんにもしてないよ」

 むしろ、あの明るい存在がどれだけ救いになってることか――私は今日の昼休みを思い出した。しぜんと笑みがあふれた。

「成り行きでね。今日は四人でご飯食べたよ。なんか変なグループだよね。一年と三年って」

「あなたのおかげで、真城ったら楽しそうにしてるわ。脇坂とも仲よくしてくれているのね?」

「脇坂さんは、色々教えてくれるよ。あの子すごくいい子だよね」

「ええ、才能もあるのよ。きっとバスケ部が再開したら、成績を残すと思うわ」

 伊織は何度も頷きながら、視線を彷徨わせた。きっとイメージしてるんだと思った。脇坂さんを。真城さんを。学校を。私はそれを沈黙で見守った。緊張した空気は影をひそめていた。静けさが続くたび、冷たい部屋に暖かさが戻っていくようだった。

 あくまで、イメージ。それでも私は口を開いた。

「ねえ、伊織」

 彼女に向き直って、その瞳を見た。なにかを悟った伊織は口を開こうとしたけど、私のほうがはやかった。

「まだ私のこと嫌い?」

 悪戯っぽく笑って、私は聞いた。性格が悪い質問だって、わかってる。でも、そこからはじめないといけないと思った。

「わからない」

 伊織は俯いたまま、目を閉じた。

「ずっとあなたのこと、憎んでいたわ。わたしは悠美が好きだった」

 それって――私は瞬いて、大きく目を開いた。

「好きって、恋愛として?」

「恋愛としてよ」

 固まってしまった私を、伊織は苦笑う。

「でも今はわからないのよ? あなたのことも、今は嫌いじゃないわ。むしろ感謝してる。あなたは」

「うん」

「なにかをしようとしてくれた」

「できなかったけどね」

「でも、今もそうなんでしょう?」

 真っ直ぐな瞳だった。

 見つめられると身体がすくんだ。体育倉庫の情景がフラッシュバックして、無力感に囚われそうになった。

 それでも私は、頷いた。

「――真城さんと、会って欲しい」

 伊織を見つめ返して、その傷口に踏み入った。

「できないわ」

「わかってる。それでも会って欲しい」

「無理よ」

「わかってる。それでもね、会って欲しいんだ」

 首を振るたび言葉を連ねて、私は伊織に寄り添った。

 気づけば目の前に伊織の顔があった。私は冷たい両手でそれを包むと、背けようとする顔を押し戻した。

「できないのよ。理子。わたしは、どうしても会えないの。会ったら、また世界が崩れてしまう」

 指先に涙が伝った。

 それでも私は許さずに、心の隙間に手をかけた。

 開ける。

 私がすべきじゃないって、わかってる。

 それでも私は、開ける。

 そうすべきだって、ささやく声がするから。

「伊織はもう、わかってるはず」

「理子」

「もう伊織はいっぱい罰を受けてる。ダメになったこと、いっぱいあるの知ってる。でも、はっきりしないのは一番ダメだよ。相手を待たせてる」

 嗚呼、いけない。

 その言葉は、胸が痛い。

 自分のことだ。

 それは私のことだ。

 私は伊織に、自分を重ねてる。

「伊織は真城さんを、どう思ってるの?」

 私は悠美のことを、どう思ってるの?

「伊織はこれから、どうしたいの?」

 私はこれからを、どうしたいの?

「それは――」

「わからないよね。知ってる。でもね、電話してるんだ。LINEしてるんだ。会いたいって言われてる」

 毎日一緒に帰ってる。手を握ってくれる。キスだってそれ以上だってする。だから。

「決めないと。伊織は」

 私は。

 私たちは。

「どんなに間違っていたとしても」

 選択しなきゃ。

 でないとなにもはじまらない。

 ふつうになんて、していられない。

 私も、伊織も、変わっていく。罪を抱いていく。罰を受けていく。

 なにかを選んで、なにかを捨てていく。

「理子、わたしは怖いわ」

「私だって怖いよ。どうしていいかわかんない」

「それでも選ぶの?」

「選ばないとダメなんだよ。追いかけなきゃ」

「間違っているかも」

「間違っていたとしても」

 きっといつか辿り着くから。

「――わたしは、悠美が好きだった。ずっとずっと、愛していたのよ。けど、今は――もうわからないの」

「うん」

「電話が待ち遠しい。LINEの一文に胸が躍るわ。あんなことをしたのに、まだわたしを求めてくれる」

「ひどいことしたのにね」

「そう。わたしは自分が許せない。だからわからない。わからないの。こんな気持ち、はじめてなのよ」

「わかるよ」

 私は笑った。

「きっとそれってさ、恋だよ」

「これが? だとしたら、今までのはなんだったの」

「それもさ、きっと恋なんだよ」

「――まったく、わけがわからないわね」

「ほんとだね」

 伊織も気づけば笑っていた。

 本当にわけがわからない。

 こんな気持ち、制御できるわけがない。

「決めたわ。いつでも来てって伝えてくれる?」

「自分で伝えなよ。そのほうがいいよ」

「緊張するわ」

「大丈夫だよ」

 私がそう声をかけると、伊織は急にそわそわと身体を揺すった。傍らに置かれたスマートフォンをひったくると、私に縋るような視線を向ける。

「ねえ、理子」

「なぁに」

「今、いいかしら。そばで見ててくれる?」

「えぇ? 恥ずかしいよ」

「お願い」

「やだよ」

 呆れたようにため息をついても、伊織は制服の袖を離してくれなかった。やがて観念して肩をすくめると、伊織は震える指でスマートフォンを操った。

 私はその日、友達の恋の表情を知った。

 それは蕩けるように甘くて苦い、ふたつの涙の味がした。