私になにができるだろう。
空席の目立ちはじめた授業中、ずっと考えていた。
校章を外した今――私にできることなんて、なにもない。それでも私は、あの時頷いてしまった。
縋りつく手のひらから、涙が滴る瞳から、恋を感じたから。
迷いのない、閃光のような眩しさに目が眩んで、手を伸ばしてしまった。
「理子」
ふと声をかけられて、私は瞬いた。
いつの間にかHRは終わっていた。
ひそひそ。じろじろ。ざわざわ――視線とざわめきが踊る日常の最中に放りだされた私は、目を細めて廊下を見やった。
「理子、一緒に帰ろう」
悠美は戸を押し開け駆け寄ると、陶磁器のように白い指先を私に差し伸べた。私は呆れたように笑みを返すと、その手のひらにそっと首を振った。
代わりに肩を寄せて、教室を後にする。
並んで廊下を歩くことは、もう当たり前になっていた。すべてのざわめきを無視する悠美の働きで、私たちの関係は公然のものとなりつつあった。
「どうして」
悠美は廊下を歩きながら、窓を見やって呟いた。
「うん」
「あんなこと言ったのさ」
「昨日のこと? うーん。なにかできる気がして」
「ばれたら退学だよ」
「家に入っちゃえば、わかんないよ」
「そうかもしれないけど」
悠美は呆れてため息をつくと、髪をかきあげた。
「でも、伊織の気持ちもあるでしょ」
「問題はそこだよね」
私は顔をしかめて言う悠美に頷いた。
「真城さんは、それでもって言うけどさ」
「会えないでしょ、ふつう」
「ふつう? まあ、そうだよね」
私は鞄を握る手を強めて、眉を曲げた。
そうだ。伊織の気持ちを考えると、それは正しい。真城さんがどう言ったって、伊織は過ちを犯した加害者なのだ。会えないだろう。
〝ふつう〟は――だけど。
「でも、ふつうじゃダメなんだよ、きっと」
だって真城さんは、あんなに眩しい瞳で、願っていたのだから。伊織が正しいんだとしたら、きっと真城さんだって正しいに違いないのだ。
「とりあえず、説得してみる」
「やめといたほうが」
「わかってる。あんまりよく思われてないってこと」
「だったら」
「でも、話してみたいんだ」
私は悠美に笑いかけて、歩く速度をはやめた。
昇降口は、生徒であふれている。ひそひそ。じろじろ。悠美から少し離れただけで、それが気になった。
私は振り向いて悠美を見つめた。
彼女は私から視線を外すと、頬をかいた。
「アタシは、理子が心配だよ」
「ありがと。でも大丈夫」
下駄箱で別れる間際、ぽつりとささやかれた悠美の本音に、私は笑みを深めて手を振った。靴を履きかえるまで、しばしのお別れ――でもすぐにまた並び合って、私たちは同じ通学路を歩く。
街路に並ぶ木々はすっかり枯れて、冬の風が私たちを凪いだ。そろそろコートが欲しい。私が震えると、悠美は身を寄せて細い指先を私の手のひらに絡めた。
温かい。まだ視線はあるのに、ささやきが聞こえるのに、私は思わずその手を握りしめてしまった。
身体はどきどきと躍動していた。頬は滴るように熱を帯びていた。
「やっと握ってくれたね」
「やめて。恥ずかしい」
耳元でそっとささやかれると眩暈がして、私は顔を背けて大袈裟にため息をついた。そして前を向く。だらしなく蕩けている場合じゃない。私は、伊織と話さなければいけないのだから。
「家に行くね。今日こそ話したいから」
「一筋縄じゃいかないよ?」
「わかってる」
目の前に、あの夜の情景が浮かんだ。
私はなにもできずに泣いて、茫然と佇む伊織の肩を掴んでいた。あの時は、泣くことしかできなかった。私にはなにもできないって諦めて、伊織がふらふらと職員室に向かうのを、黙って見ていることしかできなかった。
でも今は違う。私は変わる。皆、変わっているってわかったから。真城さんの閃光のような恋に肩を押された気がして、私は頷いて吐息をついた。
二回ノックして開いた扉の奥に、伊織はうずくまっていた。部屋着のまま、ベッドのうえで、寒そうに震えて怪訝な瞳を揺らしていた。
「理子?」
「伊織、ごめんね急に」
扉を開けた悠美は、私たちの対面を見やって吐息をついた。
「アタシさ、バイトあるから」
「うん。ありがと悠美」
私は悠美に頷くと、部屋のなかに入った。
「ごめん、一緒にいてあげられなくて」
「大丈夫だよ」
扉が閉まる間際、寂しげな顔で見つめる悠美に笑いかけた。私は伊織に向き直った。彼女は身をすくめて、首を彷徨わせていた。
「どうして、来たの。わたしは」
「ごめん。急なのはわかってる。でも電話に出ない伊織が悪いんだよ」
私は苦笑って、スマートフォンをかざしてみせた。伊織は嘆息するとそれ以上なにも言わずに俯いてしまった。
「座るね」
「好きにして頂戴」
「うん」
適当な場所に腰かけると、会話は途切れていた。
部屋は凍るように冷たかった。私は目を閉じて言葉を探した。真城さんの笑顔が真っ先に思い出されて、気づけば口を開いていた。
「真城さんとは」
「ええ」
「電話してるんだよね」
「――してるわ」
「うん、じゃあもう色々聞いてる?」
「大変そうね」
「そうでもないよ」
私が力なく笑うと、伊織は穏やかな視線を向けた。
そして数瞬の躊躇の後、唇を開いてくれた。
「真城のこと」
「うん」
「助けてくれてありがとう」
「なんの話? 私はなんにもしてないよ」
むしろ、あの明るい存在がどれだけ救いになってることか――私は今日の昼休みを思い出した。しぜんと笑みがあふれた。
「成り行きでね。今日は四人でご飯食べたよ。なんか変なグループだよね。一年と三年って」
「あなたのおかげで、真城ったら楽しそうにしてるわ。脇坂とも仲よくしてくれているのね?」
「脇坂さんは、色々教えてくれるよ。あの子すごくいい子だよね」
「ええ、才能もあるのよ。きっとバスケ部が再開したら、成績を残すと思うわ」
伊織は何度も頷きながら、視線を彷徨わせた。きっとイメージしてるんだと思った。脇坂さんを。真城さんを。学校を。私はそれを沈黙で見守った。緊張した空気は影をひそめていた。静けさが続くたび、冷たい部屋に暖かさが戻っていくようだった。
あくまで、イメージ。それでも私は口を開いた。
「ねえ、伊織」
彼女に向き直って、その瞳を見た。なにかを悟った伊織は口を開こうとしたけど、私のほうがはやかった。
「まだ私のこと嫌い?」
悪戯っぽく笑って、私は聞いた。性格が悪い質問だって、わかってる。でも、そこからはじめないといけないと思った。
「わからない」
伊織は俯いたまま、目を閉じた。
「ずっとあなたのこと、憎んでいたわ。わたしは悠美が好きだった」
それって――私は瞬いて、大きく目を開いた。
「好きって、恋愛として?」
「恋愛としてよ」
固まってしまった私を、伊織は苦笑う。
「でも今はわからないのよ? あなたのことも、今は嫌いじゃないわ。むしろ感謝してる。あなたは」
「うん」
「なにかをしようとしてくれた」
「できなかったけどね」
「でも、今もそうなんでしょう?」
真っ直ぐな瞳だった。
見つめられると身体がすくんだ。体育倉庫の情景がフラッシュバックして、無力感に囚われそうになった。
それでも私は、頷いた。
「――真城さんと、会って欲しい」
伊織を見つめ返して、その傷口に踏み入った。
「できないわ」
「わかってる。それでも会って欲しい」
「無理よ」
「わかってる。それでもね、会って欲しいんだ」
首を振るたび言葉を連ねて、私は伊織に寄り添った。
気づけば目の前に伊織の顔があった。私は冷たい両手でそれを包むと、背けようとする顔を押し戻した。
「できないのよ。理子。わたしは、どうしても会えないの。会ったら、また世界が崩れてしまう」
指先に涙が伝った。
それでも私は許さずに、心の隙間に手をかけた。
開ける。
私がすべきじゃないって、わかってる。
それでも私は、開ける。
そうすべきだって、ささやく声がするから。
「伊織はもう、わかってるはず」
「理子」
「もう伊織はいっぱい罰を受けてる。ダメになったこと、いっぱいあるの知ってる。でも、はっきりしないのは一番ダメだよ。相手を待たせてる」
嗚呼、いけない。
その言葉は、胸が痛い。
自分のことだ。
それは私のことだ。
私は伊織に、自分を重ねてる。
「伊織は真城さんを、どう思ってるの?」
私は悠美のことを、どう思ってるの?
「伊織はこれから、どうしたいの?」
私はこれからを、どうしたいの?
「それは――」
「わからないよね。知ってる。でもね、電話してるんだ。LINEしてるんだ。会いたいって言われてる」
毎日一緒に帰ってる。手を握ってくれる。キスだってそれ以上だってする。だから。
「決めないと。伊織は」
私は。
私たちは。
「どんなに間違っていたとしても」
選択しなきゃ。
でないとなにもはじまらない。
ふつうになんて、していられない。
私も、伊織も、変わっていく。罪を抱いていく。罰を受けていく。
なにかを選んで、なにかを捨てていく。
「理子、わたしは怖いわ」
「私だって怖いよ。どうしていいかわかんない」
「それでも選ぶの?」
「選ばないとダメなんだよ。追いかけなきゃ」
「間違っているかも」
「間違っていたとしても」
きっといつか辿り着くから。
「――わたしは、悠美が好きだった。ずっとずっと、愛していたのよ。けど、今は――もうわからないの」
「うん」
「電話が待ち遠しい。LINEの一文に胸が躍るわ。あんなことをしたのに、まだわたしを求めてくれる」
「ひどいことしたのにね」
「そう。わたしは自分が許せない。だからわからない。わからないの。こんな気持ち、はじめてなのよ」
「わかるよ」
私は笑った。
「きっとそれってさ、恋だよ」
「これが? だとしたら、今までのはなんだったの」
「それもさ、きっと恋なんだよ」
「――まったく、わけがわからないわね」
「ほんとだね」
伊織も気づけば笑っていた。
本当にわけがわからない。
こんな気持ち、制御できるわけがない。
「決めたわ。いつでも来てって伝えてくれる?」
「自分で伝えなよ。そのほうがいいよ」
「緊張するわ」
「大丈夫だよ」
私がそう声をかけると、伊織は急にそわそわと身体を揺すった。傍らに置かれたスマートフォンをひったくると、私に縋るような視線を向ける。
「ねえ、理子」
「なぁに」
「今、いいかしら。そばで見ててくれる?」
「えぇ? 恥ずかしいよ」
「お願い」
「やだよ」
呆れたようにため息をついても、伊織は制服の袖を離してくれなかった。やがて観念して肩をすくめると、伊織は震える指でスマートフォンを操った。
私はその日、友達の恋の表情を知った。
それは蕩けるように甘くて苦い、ふたつの涙の味がした。