Ⅲ/Ⅱ 斉藤 伊織

 

 

 

 その子の声を聞くたび。

 フリックされた文字が躍るたび。

 わたしの血は凍った。心臓が収縮して世界を飲み込んだ。

 頬は笑顔の形に強張って、心に突き立てられた槍は赤く染まった。

『――それで、茜ったら言うんすよ。「僕、変わってるのかなあ」って。それがおかしくて』

『そうね。そういうところが』

『変わってますよね。でも優しいし、よくしてくれるから今じゃ頼りっきりで』

『学校は大丈夫なの?』

『ええ、割とふつうでした。色々聞かれると思ってたんすけど、なんかあたしってより』

『理子?』

『……ですね。なんで涼しい顔をしてられるんだか』

『強いのね、理子は』

『正直ちょっと憧れます。もう堂々としちゃってて』

 電話の相手――真城はそこまで言うと、呆れたように吐息をついた。

 わたしは言葉が続かず、視線を彷徨わせた。

『そうだ、朗報です』

『朗報?』

『バスケ部、一月から活動再開みたいなんすよ』

『――そう』

 よかった、なんて口が裂けても言えずに、わたしは目を閉じた。

 情景が広がる。光を反射するリノリウム。バスケットボールが弾け、バッシュがキュッと心地のよい音を立てる――それはかつて、わたしの世界だった。

『バスケ部、続けようかなって思ってます』

『そう』

『茜を助けたくて』

『あの子は才能があるわ』

 脇坂。あの子はきっと、わたしより跳べる。

 体育館のイメージのなかで、自分と脇坂の姿が重なった。

 わたしはもう跳べない。世界は壊れてしまった。

 わたしが、壊してしまった。

『先輩、あたしやっぱり――』

『ダメよ』

 わたしは電話越しなのに首を振ってしまって、スマートフォンを握る手を強めた。頬に押し当てたそれが灼熱に感じるほど、身体は冷たくなっていた。

『でも、先輩。あたしは』

『言わないで』

『先輩』

 もうわたしは、あなたの〝先輩〟じゃないの――奥歯を噛みしめて、言葉を胸に押し込んだ。逃避だ。なのに逃げ切れずに、わたしは今日も真城の声を聞いている。

『もう。切るわ』

『――また明日』

『ええ、また明日』

 わたしたちは約束をしていた。

 毎日、電話をするって。LINEを交換するって。

 それがどんなに浅ましい行為か、わかりつつも。

 一度スマートフォンの赤いボタンを指差せば、部屋は静寂に包まれた。もう咎める者は誰もいない。ここはわたしだけの世界。

「どうして」

 六畳一間。小さな世界で、わたしは独りごちた。知れずまぶたからあふれる涙。止まらない。身体はこんなに冷たいのに、胸に開いた大穴には虹色の水が溜まっていた。それが渦巻く。感情の連鎖が、止まらない。

 わたしはあの日――違う。最初から、罪を犯していたのだ。わたしを好きでいてくれる女の子を、汚して見立てて、欲望のまま辱めた。欲しいものが手に入らない苦しみを、ひとの心を踏みにじって満たしていた。そして、あの日わたしは言ったのだ。「これじゃない」と。

 わたしは最悪の人間だった。

 すべてを壊していく。

 体育館も。教室も。未来も――すべてを。

 そのはずだった。

 なのに、どうして。

「どうしてこんなに、胸が苦しいの」

 電話越しにどれだけ謝っても、彼女は笑った。

 あの日のことをどれだけ連ねても、穏やかな声でささやいた。

 先輩。先輩。先輩――嗚呼。それが苦しい。

「わたしは」

 どうしたらいいの。もうわからない。

 とにかく、今は会えなかった。だって、会ってしまえば、心に溜まった虹色は回転するから。それが廻ってしまえば、わたしにはどうすることもできない。

 同じ罪を重ねる。

 わたしは、醜くも求めはじめていた。押し留めた熱の吹き溜まりは、心臓の隣にあった。

 凍らせなければ。心の奥底に沈めて、醒まして、忘れなければ――頭で何度そう思っても。声が、文字が、嬉しかった。もう会えないのに去りがたく、虹色はあふれていった。

 呼吸を失って喘ぐように唇を震わせ、わたしは掃き溜めのような世界でうずくまることしかできなかった。