Ⅲ/Ⅰ 真城 加奈

 

 

 

 ねぇ、自分に酔ってるんじゃないの?

 身体に刻まれた傷を忘れたの?

 心に刺さった棘を無くしたの?

 何度も頭に語りかけた。散らばりそうな気持ちを縛り、留めようとした。

 だって、一度だって愛されなかった。

 身体さえ求めてもらえなかった。

 身代わりの砂人形のように扱われて、お腹のなかを抉られた。

 指が、舌が、腕が、脚が、襲い掛かって。

 何度も、何度も。

 ねぇ、だから。

 自分に酔ってるんじゃないの?

 脳味噌のなかで、冷たいあたしが叫んだ。

 冷静になって、落ち着けって、肩を揺すった。

 けれど声を聞くたび、フリックされた文字が届くたび、あたしの血は再び廻った。

 心臓が世界を激しくノックした。頬は落ちそうなくらい真っ赤に蕩けてしまった。身体に刻まれた傷は切なく疼いて、心に刺さった棘は虹色の花びらを纏った。

 あたしが欲しかった青春のイメージ。そのすべてを、あのひとは与えてくれた。夜の体育館。すえた倉庫の臭い。甘い唇の感触。布の擦れる音。奢ってくれた缶コーヒーの味――覚えてる。全部、覚えてる。

 だから、あたしは先輩が好き。伊織先輩のことが、大好き。

 傷は消えない。一生、残り続ける。この傷のせいでそばにいてくれるんじゃないかって、ずっと思い続けるのだろう。

 だけど、あたしは求めるって決めたから。

 いつかじゃない。今この瞬間、振り向いてもらうって。

 そう決めたから。

「だからお願いします、会わせてください」

 あたしは憎き恋敵に頭を下げた。

 その凶悪な外見の、どこに同じ遺伝子があるのだろう。クラスメイトと談笑していたそのひとは、面倒臭そうに一瞥をくれると、吐息を漏らして言った。

「無理だよ」

「そこをお願いしますよ、悠美先輩」

 そのひと――悠美先輩は、腕を組んで自分の席でふんぞり返っていた。

 あたしは頭を下げたまま両手を合わせ、拝む。

「窓からちょっと覗かせてくれるだけでも」

「無理だって。アンタ妹になにされたかわかってんの」

「そりゃわかってますけど」

「ああ――もう。こっちきな」

 悠美先輩はあたしの腕を掴むと、階段まで引きずっていく。踊り場で壁ドンされて、あたしは後頭部を強く打った。確かに似てる――乱暴なところが、そっくり。

 あたしは感心して、悠美先輩を見つめた。

「ああいうの止めてマジで」

「ああでもしないと、聞いてくれないかと」

「最近、電話してんのは知ってたけど」

「仲良くさせてもらってます」

「じゃなくて」

 悠美先輩はあたしのペースを掴みかねたのか、髪を引っ掻いてため息をついた。

「アンタさ、妹に犯されたんだろ」

「――そうです」

「噂になってんの知ってる?」

「でも、その噂じゃそういうことには」

「まあ、そうかもしれないけど」

「じゃあ」

「こっちは色々迷惑してんの。仲がよくないのは知ってるでしょ」

「でも、悠美先輩くらいしか頼るあてが」

 あたしは思わず悠美先輩の制服を掴むと、縋るように顔を覗き込んだ。

「妹はなんて言ってんの」

「会えないって」

「じゃあそういうことだよ」

「伝えたいことがあるんです」

「電話でいいでしょうが」

「それじゃダメなんですよ」

 あたしは振りほどこうとする手を、がっちりと掴んで追い縋った。

 悠美先輩は苛立ちを隠さず足を蹴るので、壁でもつれあうような格好で競り合う。

 悠美先輩はいい加減にしろとばかりに、思いきり手を振りあげて――

「なにしてるの、悠美」

 その一声に、ぴたりと動かなくなった。

 あたしが振り返ると、そこには手を振る茜と、元生徒会長の理子先輩が立っていた。

「加奈、助っ人連れてきた」

 茜はそう言って、理子先輩を指差した。

 

 

 

「うーん、会いたいかあ」

 理子先輩は難しい顔で頬に指を当てた。

 始業のチャイムが鳴ったあと、あたしたち四人は立ち入り禁止の非常階段に座っていた。悠美先輩はしきりに毒づいていたけれど、理子先輩に首根っこを掴まれてしまっていた。

 ふたりが付き合ってるのは、本当なんだ――あたしは伊織先輩の悪口の数々を思い出して、内心げんなりとした顔で理子先輩を眺めていた。

「僕は会えばいいと思いますけど」

 茜は理子先輩を見つめて手をあげた。

 あたしは頷いて賛同するけれど、理子先輩は難しい顔のままだった。

「一応ね。噂はさておき、実際のところを話すね。伊織はさ、無期停学ってことになってるんだ」

 わかるよね?

 理子先輩が促すので、あたしは頷いた。

 茜は知らなかったのか目を見開く。悠美先輩は顔を背けて、ため息をついた。

 理子先輩は続ける。

「外出はもちろん禁止。真城さんに近づくことも禁止されてる。破ったらどうなるか、わかるよね?」

「退学でしょ。今でさえ留年か無職だよ、アイツ」

「え。推薦って僕、聞きましたけど」

「消えたに決まってんでしょ」

「そんな」

 あたしは三人の話を聞きながら、目を閉じた。

 そんなこと知ってる。

 あたしのせいで、もっとひどいことになるかもしれないって。

 だから、これはあたしの我が侭。

「ねえ、真城さん。それでも、会いたい?」

 理子先輩の透きとおった目で見つめられると、胸が苦しくなった。

 この目、苦手だ。なんだか落ち着かない。あたしは視線を迷わせると、奥歯を噛んだ。

「我が侭だって、わかってるんですよ」

 しぜん、口からそんな言葉が漏れた。

「でも、会わないとダメなんです」

「電話は?」

「電話とかLINEとかじゃなくて」

「直接言わないとダメなこと?」

「決めたんです。言わないといけないって。だから」

「そっかあ」

 まるで自白させられてるみたい――それでもあたしは理子先輩に手を伸ばすと、縋りつく。

 彼女はそれを許すと、あたしの頭に手を置いた。すると心なしか、その瞳が大きくなった気がした。理子先輩は、ぼんやり目を見開くと、あたしの髪を撫でた。

 そして唇を開くと、

「じゃあ会おっか」

 にこりと笑って、平然とささやいた。

 茜が、悠美先輩が「は?」と声を漏らした。

 あたしも唖然として、そのビー玉みたいな瞳を見つめてしまった。

 もし、本当に会えるなら。

 あたしはなにを言おう。

 なんて言おうと思ったんだろう。

 理子先輩の瞳に映る冬の空を見つめて、思考は溶けるように加速した。

 ねぇ、自分に酔ってるんじゃないの?

 身体に刻まれた傷を忘れたの?

 心に刺さった棘を無くしたの?

 脳味噌のなかの冷たいあたしが笑う。

 どろどろに溶けた真っ黒な我が侭を掻き混ぜて「無駄だよ」とささやく。

 どんなに愛を伝えても。

 どんなに恋を連ねても。

 傷がある故にわかり合ないってささやく。

 だけど、あたしは求めるって決めたから。

 いつかじゃない。今、振り向いてもらうって。

 そう決めたから。

「お願いします、会わせてください」

 あたしは、想い人の恋敵にさえ頭を下げた。

 彼女は涼やかな顔で微笑むと、腕を組んで頷いた。