ねぇ、自分に酔ってるんじゃないの?
身体に刻まれた傷を忘れたの?
心に刺さった棘を無くしたの?
何度も頭に語りかけた。散らばりそうな気持ちを縛り、留めようとした。
だって、一度だって愛されなかった。
身体さえ求めてもらえなかった。
身代わりの砂人形のように扱われて、お腹のなかを抉られた。
指が、舌が、腕が、脚が、襲い掛かって。
何度も、何度も。
ねぇ、だから。
自分に酔ってるんじゃないの?
脳味噌のなかで、冷たいあたしが叫んだ。
冷静になって、落ち着けって、肩を揺すった。
けれど声を聞くたび、フリックされた文字が届くたび、あたしの血は再び廻った。
心臓が世界を激しくノックした。頬は落ちそうなくらい真っ赤に蕩けてしまった。身体に刻まれた傷は切なく疼いて、心に刺さった棘は虹色の花びらを纏った。
あたしが欲しかった青春のイメージ。そのすべてを、あのひとは与えてくれた。夜の体育館。すえた倉庫の臭い。甘い唇の感触。布の擦れる音。奢ってくれた缶コーヒーの味――覚えてる。全部、覚えてる。
だから、あたしは先輩が好き。伊織先輩のことが、大好き。
傷は消えない。一生、残り続ける。この傷のせいでそばにいてくれるんじゃないかって、ずっと思い続けるのだろう。
だけど、あたしは求めるって決めたから。
いつかじゃない。今この瞬間、振り向いてもらうって。
そう決めたから。
「だからお願いします、会わせてください」
あたしは憎き恋敵に頭を下げた。
その凶悪な外見の、どこに同じ遺伝子があるのだろう。クラスメイトと談笑していたそのひとは、面倒臭そうに一瞥をくれると、吐息を漏らして言った。
「無理だよ」
「そこをお願いしますよ、悠美先輩」
そのひと――悠美先輩は、腕を組んで自分の席でふんぞり返っていた。
あたしは頭を下げたまま両手を合わせ、拝む。
「窓からちょっと覗かせてくれるだけでも」
「無理だって。アンタ妹になにされたかわかってんの」
「そりゃわかってますけど」
「ああ――もう。こっちきな」
悠美先輩はあたしの腕を掴むと、階段まで引きずっていく。踊り場で壁ドンされて、あたしは後頭部を強く打った。確かに似てる――乱暴なところが、そっくり。
あたしは感心して、悠美先輩を見つめた。
「ああいうの止めてマジで」
「ああでもしないと、聞いてくれないかと」
「最近、電話してんのは知ってたけど」
「仲良くさせてもらってます」
「じゃなくて」
悠美先輩はあたしのペースを掴みかねたのか、髪を引っ掻いてため息をついた。
「アンタさ、妹に犯されたんだろ」
「――そうです」
「噂になってんの知ってる?」
「でも、その噂じゃそういうことには」
「まあ、そうかもしれないけど」
「じゃあ」
「こっちは色々迷惑してんの。仲がよくないのは知ってるでしょ」
「でも、悠美先輩くらいしか頼るあてが」
あたしは思わず悠美先輩の制服を掴むと、縋るように顔を覗き込んだ。
「妹はなんて言ってんの」
「会えないって」
「じゃあそういうことだよ」
「伝えたいことがあるんです」
「電話でいいでしょうが」
「それじゃダメなんですよ」
あたしは振りほどこうとする手を、がっちりと掴んで追い縋った。
悠美先輩は苛立ちを隠さず足を蹴るので、壁でもつれあうような格好で競り合う。
悠美先輩はいい加減にしろとばかりに、思いきり手を振りあげて――
「なにしてるの、悠美」
その一声に、ぴたりと動かなくなった。
あたしが振り返ると、そこには手を振る茜と、元生徒会長の理子先輩が立っていた。
「加奈、助っ人連れてきた」
茜はそう言って、理子先輩を指差した。
「うーん、会いたいかあ」
理子先輩は難しい顔で頬に指を当てた。
始業のチャイムが鳴ったあと、あたしたち四人は立ち入り禁止の非常階段に座っていた。悠美先輩はしきりに毒づいていたけれど、理子先輩に首根っこを掴まれてしまっていた。
ふたりが付き合ってるのは、本当なんだ――あたしは伊織先輩の悪口の数々を思い出して、内心げんなりとした顔で理子先輩を眺めていた。
「僕は会えばいいと思いますけど」
茜は理子先輩を見つめて手をあげた。
あたしは頷いて賛同するけれど、理子先輩は難しい顔のままだった。
「一応ね。噂はさておき、実際のところを話すね。伊織はさ、無期停学ってことになってるんだ」
わかるよね?
理子先輩が促すので、あたしは頷いた。
茜は知らなかったのか目を見開く。悠美先輩は顔を背けて、ため息をついた。
理子先輩は続ける。
「外出はもちろん禁止。真城さんに近づくことも禁止されてる。破ったらどうなるか、わかるよね?」
「退学でしょ。今でさえ留年か無職だよ、アイツ」
「え。推薦って僕、聞きましたけど」
「消えたに決まってんでしょ」
「そんな」
あたしは三人の話を聞きながら、目を閉じた。
そんなこと知ってる。
あたしのせいで、もっとひどいことになるかもしれないって。
だから、これはあたしの我が侭。
「ねえ、真城さん。それでも、会いたい?」
理子先輩の透きとおった目で見つめられると、胸が苦しくなった。
この目、苦手だ。なんだか落ち着かない。あたしは視線を迷わせると、奥歯を噛んだ。
「我が侭だって、わかってるんですよ」
しぜん、口からそんな言葉が漏れた。
「でも、会わないとダメなんです」
「電話は?」
「電話とかLINEとかじゃなくて」
「直接言わないとダメなこと?」
「決めたんです。言わないといけないって。だから」
「そっかあ」
まるで自白させられてるみたい――それでもあたしは理子先輩に手を伸ばすと、縋りつく。
彼女はそれを許すと、あたしの頭に手を置いた。すると心なしか、その瞳が大きくなった気がした。理子先輩は、ぼんやり目を見開くと、あたしの髪を撫でた。
そして唇を開くと、
「じゃあ会おっか」
にこりと笑って、平然とささやいた。
茜が、悠美先輩が「は?」と声を漏らした。
あたしも唖然として、そのビー玉みたいな瞳を見つめてしまった。
もし、本当に会えるなら。
あたしはなにを言おう。
なんて言おうと思ったんだろう。
理子先輩の瞳に映る冬の空を見つめて、思考は溶けるように加速した。
ねぇ、自分に酔ってるんじゃないの?
身体に刻まれた傷を忘れたの?
心に刺さった棘を無くしたの?
脳味噌のなかの冷たいあたしが笑う。
どろどろに溶けた真っ黒な我が侭を掻き混ぜて「無駄だよ」とささやく。
どんなに愛を伝えても。
どんなに恋を連ねても。
傷がある故にわかり合ないってささやく。
だけど、あたしは求めるって決めたから。
いつかじゃない。今、振り向いてもらうって。
そう決めたから。
「お願いします、会わせてください」
あたしは、想い人の恋敵にさえ頭を下げた。
彼女は涼やかな顔で微笑むと、腕を組んで頷いた。