Ⅱ/Ⅳ 真城 加奈

 

 

 

 思い返せば、一目惚れだった。

 高校に進学して目標を失ったあたしは、日々の空虚さに呻いていた。友達も、学業も、それなり。ただし熱中するものはなにもない。大好きだった少女漫画も、なんとなく読まなくなってしまった。

 現実との差異に、耐えきれなくなったのだ。

 あたしは高校生になっても、恋をしていなかった。まわりは男子生徒の名前で色めき立っているのに、あたしは誰を見てもなにも感じなかった。むしろ男子の一挙一動に苛立ちさえ覚えるようになって、なるべく視界から消し去るよう努めていた。

 あたしは、きっと欠陥品だ。ひとと同じではないのだ。少女漫画のような恋愛ができないって思うと、高校生活はどんどん色褪せていった。

 部活に入ろうと思ったのは、バスケットボール部に所属する友達の背が高かったからだ。

 それがなんとなく羨ましくて、気づけば見学を申し出ていた。友達は困ったように「ウチは厳しいよ」なんて言って、体育館にあたしを招き入れた。

 あたしは放課後の体育館に、不思議な空気を感じて――瞬間、見惚れた。

 扉を開けた先に、王子様がいた。

 見間違いだ。そのひとは後ろで髪をひとつに縛っていた。栗色の髪は汗にまみれ、水銀灯の光を受けてきらきらと輝いていた。細くしなやかな身体は私の瞳のなかで躍動、伸びあがり、手にしたバスケットボールを空気のなかに浮かびあがらせる。

 そのひとの瞳は、燃えるようだった。

 もちろんあたしなんて見ていない。ボールの行く末も。ゴールさえも。彼女は見ていない。そう思った。なにか遠く遠く手に入らないものを、永遠に求め続けているような――それは孤独の炎だった。

 どうしてそう思ったのかはわからない。

 だけどあたしは、その日のうちにマネージャーとして部活に所属することを決めていた。

 思い返せば、一目惚れだった。

 あたしはその恒星のような瞳に、恋をしたんだ。

 

 

 

 その日、家族は留守だった。

 あたしは放課後に押しかけてきた茜を迎え入れると、部屋に案内してベッドに座りこんだ。

「窓」

「え――?」

「閉めないで」

「あ、うん」

 あたしは蹲ったまま目を開くと、茜にそう言った。

 茜はわずかに笑みを浮かべると開けっぱなしの窓から離れ、あたしの向かいに座る。大して仲がよいわけでもないのに、どうしてあたしに構うんだろう。わからない。それでも茜は、毎日のようにあたしの部屋を訪れた。

「ご飯食べてる?」

「うん」

「ならいいけど、心配だよ」

「うん」

 会話は、特にない。茜はなにごとか言っているようだったけれど、あたしは聞いていなかった。色々なことを考えるので精一杯だった。だから居心地が悪くなるまで放っておいて「もう帰って」と彼女を追い出すのが常だった。

「絆創膏、とれたんだ」

「うん」

「身体は痛くない?」

「うん」

 今日は茜が、やけに話しかけてくる。あたしはだんだん苛々して、腕の隙間から彼女をにらんだ。茜はそれに気づいて、優しい目であたしを見返した。

 冷たい空気が、窓からさっと部屋に入り込んだ。身震いするけれど窓を閉めることはできない。

「寒くない?」

「……寒いよ」

「窓、閉める?」

「ダメ」

 窓を閉めたら、誰も助けてくれない。

 あたしは吐き気を覚えて、口を押さえた。

 あの日、どんなに声をあげても、あたしは闇のなかで砕けていった。今も身体はひび割れたように痛む。

 茜は震えるあたしを見て、口を開いた。

 なにかを言い出そうとして、止めて――口ごもって、顎に手をあてて、あたしに声をかけようとしていた。

「あのさ」

 それがなんだかおかしくて、

「恋したことある?」

 あたしは、口を開いた。

 どうして話す気になったかはわからない。

 あのひとのことを、ちょうど思い出したからかもしれなかった。

「えっと」

 茜は唇を噛んで首を傾げ、身をよじった。

 なにか言いたそうにもがいたあと、観念したように肩を落とし、恨めしそうにあたしを見た。

「たぶん」

「うん」

「伊織先輩が好きだったんだと思う」

「やっぱり」

 あたしは頷いた。

 茜を見ていれば、そんなのすぐにわかった。

 伊織先輩の前では男子みたいにはしゃいで、視線がはずれるとすぐにサボり出すのだ。まるで子供みたいだった。

「今は好きじゃない?」

「たぶん」

「なにそれ」

「わからないんだ。真城を見てると、わからなくなる」

「どうして?」

「だって――」

 茜は目を閉じて、拗ねたように俯いた。

 あたしはその顔を覗き込んで、ざわつく胸をきつく掴んだ。

「真城は、まだ恋をしている」

「うん」

「あんなことがあったのに」

「そうだね」

 茜と視線が交わった。

 彼女は真っ直ぐにあたしを見ていた。

 視線を外そうとしたけれど、やがて観念して立ちあがる。

 あたしは開けっぱなしにしていた窓を、そっと閉じようとした。

 寒気が、吐き気が、背筋を伝う。視界が揺れて、崩れ落ちそうになる。

 それでもあたしは震える手を指差して、茜と向き合った。

「窓閉めると、こうなっちゃうんだ」

「その手」

「馬鹿みたいに震えてる。もう吐きそうだよ」

 心配そうに見つめる茜に笑いかけると、あたしは窓を少し開けた。それで心は落ち着いて、顔のこわばりもため息とともに抜けていった。

「真城、あの日」

「うん」

「もっとはやく助けに行けたんだ。でも、ウチは――勇気が、出せなくて」

「いいよ、そんなの」

 茜は涙を噛みしめていた。

 あたしは、そんな彼女を笑った。

「あたしさ、茜が助けてくれた時」

「うん」

「王子様がきた――そう思った。だから、ずっと考えてた。あたしにひどいことばかりする伊織先輩より、茜を好きになっちゃえば、幸せになれるって」

「――その答えは」

「わかるでしょ」

「だね」

 茜は頷くと、目尻に溜まった涙を掬った。

「それは、恋じゃない」

 あたしはため息をつくと、言葉を心で反芻した。

 そう。恋じゃない。

 誰かに縋って、楽になろうなんて気持ちじゃ、欲しいものはもらえない。

「あたし、先輩がしたことは許せないよ」

「それはウチも」

「あんなモノみたいにひとを使って。信じられない」

「最低だと思う」

「――でも、まだ好き」

「うん」

 あたしは先輩が好きだ。

 一目惚れだった。憧れだった。

 あんなことをされても好きだなんて、自分に酔ってるのかもしれない。

 それでも、あたしは間違えていたから。

「いつか振り向いてくれればって、思ってたんだ」

「うん」

「でも違ったんだね」

「そうだね」

 あたしは伊織先輩の孤独とひとつになりたかった。

 あの燃えるような瞳に映りたかった。

 恒星に浮かぶひとつの惑星となって、一緒に輝きたかった。

「茜、ありがと。あの時救ってくれて」

 おかげで、たくさんの考える時間をもらったよ。

 窓を開けた部屋で、うずくまって、恐怖と絶望と、自責に震えて――くすぶる熱が胸からあふれそうだった。

 あたしもまた、孤独の炎を抱えていたんだ。

「真城、あのね」

「うん」

 茜は穏やかな顔で、あたしを見つめた。

「ウチは、〝僕〟なんだ」

「――えっと、それって」

「あ、男ってことじゃ、ないんだけど」

「違うの?」

 きょとんとするあたしから、茜は目を逸らした。

「僕は、〝僕〟っていうか」

「なにそれ。それよりさ――名前」

「え?」

「こっちは名前で呼んでんのに、なんで苗字なの」

「そういえば」

 なんでだろう? 首を傾げる茜の指先をぎゅっと包んで、あたしは顔を覗き込んだ。

「名前で呼んでよ」

 あたしは茜の腕を、せがむように引っ張った。

「――なんだっけ、名前」

「おい」

 苦笑する茜に肘を入れながら、あたしは少しだけ開けておいた窓を閉めた。

 寒い寒い空気が、心に入り込まないように。

 もう震えない。怖くない。

 決めたから。

 しばらく茜と話して玄関で別れたあと、あたしは放置されていたスマートフォンに、充電ケーブルを刺した。

 やがて画面が真っ白に光り輝くと、一晩かけて送る言葉を悩む。

 結局、ひとつだけハートマークのスタンプを送って――あたしは通話ボタンを押した。

 もう待ってなんて、いられなかったから。