思い返せば、一目惚れだった。
高校に進学して目標を失ったあたしは、日々の空虚さに呻いていた。友達も、学業も、それなり。ただし熱中するものはなにもない。大好きだった少女漫画も、なんとなく読まなくなってしまった。
現実との差異に、耐えきれなくなったのだ。
あたしは高校生になっても、恋をしていなかった。まわりは男子生徒の名前で色めき立っているのに、あたしは誰を見てもなにも感じなかった。むしろ男子の一挙一動に苛立ちさえ覚えるようになって、なるべく視界から消し去るよう努めていた。
あたしは、きっと欠陥品だ。ひとと同じではないのだ。少女漫画のような恋愛ができないって思うと、高校生活はどんどん色褪せていった。
部活に入ろうと思ったのは、バスケットボール部に所属する友達の背が高かったからだ。
それがなんとなく羨ましくて、気づけば見学を申し出ていた。友達は困ったように「ウチは厳しいよ」なんて言って、体育館にあたしを招き入れた。
あたしは放課後の体育館に、不思議な空気を感じて――瞬間、見惚れた。
扉を開けた先に、王子様がいた。
見間違いだ。そのひとは後ろで髪をひとつに縛っていた。栗色の髪は汗にまみれ、水銀灯の光を受けてきらきらと輝いていた。細くしなやかな身体は私の瞳のなかで躍動、伸びあがり、手にしたバスケットボールを空気のなかに浮かびあがらせる。
そのひとの瞳は、燃えるようだった。
もちろんあたしなんて見ていない。ボールの行く末も。ゴールさえも。彼女は見ていない。そう思った。なにか遠く遠く手に入らないものを、永遠に求め続けているような――それは孤独の炎だった。
どうしてそう思ったのかはわからない。
だけどあたしは、その日のうちにマネージャーとして部活に所属することを決めていた。
思い返せば、一目惚れだった。
あたしはその恒星のような瞳に、恋をしたんだ。
その日、家族は留守だった。
あたしは放課後に押しかけてきた茜を迎え入れると、部屋に案内してベッドに座りこんだ。
「窓」
「え――?」
「閉めないで」
「あ、うん」
あたしは蹲ったまま目を開くと、茜にそう言った。
茜はわずかに笑みを浮かべると開けっぱなしの窓から離れ、あたしの向かいに座る。大して仲がよいわけでもないのに、どうしてあたしに構うんだろう。わからない。それでも茜は、毎日のようにあたしの部屋を訪れた。
「ご飯食べてる?」
「うん」
「ならいいけど、心配だよ」
「うん」
会話は、特にない。茜はなにごとか言っているようだったけれど、あたしは聞いていなかった。色々なことを考えるので精一杯だった。だから居心地が悪くなるまで放っておいて「もう帰って」と彼女を追い出すのが常だった。
「絆創膏、とれたんだ」
「うん」
「身体は痛くない?」
「うん」
今日は茜が、やけに話しかけてくる。あたしはだんだん苛々して、腕の隙間から彼女をにらんだ。茜はそれに気づいて、優しい目であたしを見返した。
冷たい空気が、窓からさっと部屋に入り込んだ。身震いするけれど窓を閉めることはできない。
「寒くない?」
「……寒いよ」
「窓、閉める?」
「ダメ」
窓を閉めたら、誰も助けてくれない。
あたしは吐き気を覚えて、口を押さえた。
あの日、どんなに声をあげても、あたしは闇のなかで砕けていった。今も身体はひび割れたように痛む。
茜は震えるあたしを見て、口を開いた。
なにかを言い出そうとして、止めて――口ごもって、顎に手をあてて、あたしに声をかけようとしていた。
「あのさ」
それがなんだかおかしくて、
「恋したことある?」
あたしは、口を開いた。
どうして話す気になったかはわからない。
あのひとのことを、ちょうど思い出したからかもしれなかった。
「えっと」
茜は唇を噛んで首を傾げ、身をよじった。
なにか言いたそうにもがいたあと、観念したように肩を落とし、恨めしそうにあたしを見た。
「たぶん」
「うん」
「伊織先輩が好きだったんだと思う」
「やっぱり」
あたしは頷いた。
茜を見ていれば、そんなのすぐにわかった。
伊織先輩の前では男子みたいにはしゃいで、視線がはずれるとすぐにサボり出すのだ。まるで子供みたいだった。
「今は好きじゃない?」
「たぶん」
「なにそれ」
「わからないんだ。真城を見てると、わからなくなる」
「どうして?」
「だって――」
茜は目を閉じて、拗ねたように俯いた。
あたしはその顔を覗き込んで、ざわつく胸をきつく掴んだ。
「真城は、まだ恋をしている」
「うん」
「あんなことがあったのに」
「そうだね」
茜と視線が交わった。
彼女は真っ直ぐにあたしを見ていた。
視線を外そうとしたけれど、やがて観念して立ちあがる。
あたしは開けっぱなしにしていた窓を、そっと閉じようとした。
寒気が、吐き気が、背筋を伝う。視界が揺れて、崩れ落ちそうになる。
それでもあたしは震える手を指差して、茜と向き合った。
「窓閉めると、こうなっちゃうんだ」
「その手」
「馬鹿みたいに震えてる。もう吐きそうだよ」
心配そうに見つめる茜に笑いかけると、あたしは窓を少し開けた。それで心は落ち着いて、顔のこわばりもため息とともに抜けていった。
「真城、あの日」
「うん」
「もっとはやく助けに行けたんだ。でも、ウチは――勇気が、出せなくて」
「いいよ、そんなの」
茜は涙を噛みしめていた。
あたしは、そんな彼女を笑った。
「あたしさ、茜が助けてくれた時」
「うん」
「王子様がきた――そう思った。だから、ずっと考えてた。あたしにひどいことばかりする伊織先輩より、茜を好きになっちゃえば、幸せになれるって」
「――その答えは」
「わかるでしょ」
「だね」
茜は頷くと、目尻に溜まった涙を掬った。
「それは、恋じゃない」
あたしはため息をつくと、言葉を心で反芻した。
そう。恋じゃない。
誰かに縋って、楽になろうなんて気持ちじゃ、欲しいものはもらえない。
「あたし、先輩がしたことは許せないよ」
「それはウチも」
「あんなモノみたいにひとを使って。信じられない」
「最低だと思う」
「――でも、まだ好き」
「うん」
あたしは先輩が好きだ。
一目惚れだった。憧れだった。
あんなことをされても好きだなんて、自分に酔ってるのかもしれない。
それでも、あたしは間違えていたから。
「いつか振り向いてくれればって、思ってたんだ」
「うん」
「でも違ったんだね」
「そうだね」
あたしは伊織先輩の孤独とひとつになりたかった。
あの燃えるような瞳に映りたかった。
恒星に浮かぶひとつの惑星となって、一緒に輝きたかった。
「茜、ありがと。あの時救ってくれて」
おかげで、たくさんの考える時間をもらったよ。
窓を開けた部屋で、うずくまって、恐怖と絶望と、自責に震えて――くすぶる熱が胸からあふれそうだった。
あたしもまた、孤独の炎を抱えていたんだ。
「真城、あのね」
「うん」
茜は穏やかな顔で、あたしを見つめた。
「ウチは、〝僕〟なんだ」
「――えっと、それって」
「あ、男ってことじゃ、ないんだけど」
「違うの?」
きょとんとするあたしから、茜は目を逸らした。
「僕は、〝僕〟っていうか」
「なにそれ。それよりさ――名前」
「え?」
「こっちは名前で呼んでんのに、なんで苗字なの」
「そういえば」
なんでだろう? 首を傾げる茜の指先をぎゅっと包んで、あたしは顔を覗き込んだ。
「名前で呼んでよ」
あたしは茜の腕を、せがむように引っ張った。
「――なんだっけ、名前」
「おい」
苦笑する茜に肘を入れながら、あたしは少しだけ開けておいた窓を閉めた。
寒い寒い空気が、心に入り込まないように。
もう震えない。怖くない。
決めたから。
しばらく茜と話して玄関で別れたあと、あたしは放置されていたスマートフォンに、充電ケーブルを刺した。
やがて画面が真っ白に光り輝くと、一晩かけて送る言葉を悩む。
結局、ひとつだけハートマークのスタンプを送って――あたしは通話ボタンを押した。
もう待ってなんて、いられなかったから。