Ⅱ/Ⅲ 斉藤 悠美

 

 

 

 何度、手を差し伸べても首を振られた。

 アタシはそのたび、空っぽの手のひらを撫でた。

 理子を取り巻く噂は日に日に彼女を蝕み、当たり前となっていった。

 理子も、そしてアタシも、いまでは奇異と好奇の対象だ。

 既成事実は積み重なり、アタシたちの恋愛関係は公然の秘密となっていた。やがて理子は手さえ取らないものの、隣に並ぶようになった。アタシはそのたび目を細めて、笑いを噛み殺した。

 着々と近づいている。アタシはただ待っていればいい。

 いつもどおり声をかけて、手を差し伸べて、笑っていればいい。昼休みのたび、放課後のたび、アタシは笑顔で理子に選択肢を与えるのだ――そうすれば、噂と嘘に憔悴した彼女は、いつか手を取るだろう。

 アタシには、その確信があった。

 とはいえ――邪魔者がいないわけではない。

 昼休み、アタシは最近お決まりのスポットである体育館裏の段差に座っていた。隣には理子がいて、暗い顔で前を見つめている。

「斉藤先輩、高梨先輩」

 ともすれば逢瀬の真っ最中。

 にもかかわらず、声の主はパンが詰まった袋を抱えて走り寄ってきた。アタシも空気は読めないほうだけど――コイツには、勝てる気がしない。

「脇坂、パン置いたら行っていいよ」

「こら悠美。そういうこと言わないの」

 アタシのため息を、隣の理子は不満げな声で諭した。

 脇坂は冗談だと思ったのか一層笑みを浮かべて、アタシの隣に座る。脇坂は理子と仲がよいはずなのに、何故かアタシを挟んで座りたがった。

「高梨先輩はいつもの?」

「うん、メロンパン」

「斉藤先輩は三角トースト」

「ん。もらうわ」

 いつの間にか、パンの好みさえ覚えられている。

「そういえば、真城さんはどう?」

「なにを話せばいいか、わからなくて」

「そっか。そうだよねえ」

 脇坂は毎日、真城とかいう伊織のセフレと会っているようだ。事件の後、アタシの妹とソイツは自宅謹慎を続けている。

「悠美、伊織は?」

「こっちも相変わらずだよ」

 アタシに言わせれば、あんなのは引きこもりだ。

 部屋から一歩も出ずに、塞ぎこんでいる。

「一度学校に来るよう伝えてって、言われてるんだよね」

「なんで理子がそこまで。学校の仕事でしょ」

「ま、そうなんだけど」

「すみません、僕が巻き込んだばっかりに」

「いや、それはいいよ」

 理子は力なく笑うと空を見あげて、吐息をついた。

 昼休みは理子に互いの進捗を報告する会合となっていた。

 アタシは伊織の様子を、脇坂は真城の様子を、理子に伝える。理子は必要があればアタシたちに必要事項を言い渡し、あとはだらだらと雑談を繰り返す。

「でも僕は、そろそろちゃんと話したいんですよね」

「難しいよね。ちゃんとご飯は食べてるの?」

「それは大丈夫みたいなんですけど、ご両親にも話さないみたいで――」

 脇坂の相談に乗ることも多い。

「無理矢理入って、面と向き合ったらいいじゃん」

 アタシがそう言うと、

「斉藤先輩だって、伊織先輩と話してくださいよ」

 脇坂はムッとした顔で返した。

「まあ、さ。実際どうなのか、私たちわからないんだし。結局、様子を見ていくしかないよね」

 理子はそう言うと、手持ち無沙汰にメロンパンを頬張る。

 アタシもまた三角トーストをかじりながら、そっと理子の横顔を覗いた。

 憔悴している。目の下には隈ができて、日々の苦悩を思わせた。アタシがやったのだ。アタシが強いたのだ。理子に選択をさせるために。選択肢をアタシの自由にするために、学校に悪い噂を流した。

「そういえば」

 隣の脇坂が、パンの袋を丸めながらアタシを見た。

「斉藤先輩って」

「なに?」

 何気ない日常だった。アタシは鬱陶しくなって、適当に相槌を打った。

「高梨先輩のどこが好きなんですか?」

「――は?」

 だから不意打ちだった。

「いや、僕。邪魔してるなって気はしていて」

「そんなこと気にしなくていいよ」

「いや、でも純粋に気になるんです」

「そりゃ、私も――気になるけども」

 理子と脇坂は頷き合うと、じっとアタシを見た。

 脇坂の心臓の鼓動が聞こえた。理子の頬の熱さが響いた。冬の冷たい風が体育館裏を吹き抜けて、アタシたちは身を寄せあった。

 アタシは、わからなかった。

 様々な言葉が浮かんでは消えた。

 理子の顔、声、匂い、味、触り心地――五感が刺激されるばかりだ。

 なにも思いつかない。

「あのさ、その質問はやめない?」

「えーなんでですか」

「ちょっと悠美、なんでよ」

 ふたりが詰め寄ってくるから、アタシは混乱した。

 どこが――どこが? そんなの、決まって――アタシは唇を震わせ、それに答えようと喉を詰まらせた。

 だから、ちょうどよいタイミングだったのかもしれない。

「ねぇ見てあれ」

「うわあんなところにいたんだ」

「三人? 誰あの子」

「一年の子じゃない?」

 校舎の影から声がした。

 女子の集団がこちらを見て、ひそひそとささやき合っている。

「なんか見てません?」

「――ほんと、やんなっちゃうね」

 脇坂と理子が顔をしかめるなか、アタシはどっと力を抜いた。

 思えばこの会合の噂も流していたので、彼女らは確認に来たのだろう。

「文句言ってきてあげるよ、待ってて」

 アタシは理子に微笑むと、その女子の集団のもとへ走り出した。

 どこが好き? 

 そんなのわかってたら、こんなことしてないよ。

 アタシはとにかく理子が欲しい。

 脇坂の邪魔が消える頃、伊織と真城の事件が終わる頃、理子がアタシの手を取ってくれたら、それでいい。そのために、アタシはこうして学校を弄んでいる。噂を流して、既成事実を作って、選択肢を狭めて、選ばせる。

 そんなゲームをプレイしているのだ。

「ねえ、そんなことして楽しい?」

 アタシは侮蔑を浮かべて、噂好きの女子の集団に微笑んだ。

 彼女たちは嫌そうな顔をして散っていったけれど、アタシはしばらくその場で笑っていた。

 冬休みだ。

 そこまで待てば、脇坂の邪魔もなくなる。理子は受験と恋愛の間に揺れる。噂から解放される代わりに、より大きな選択の岐路に立つ。そこで勝負――アタシは冷たい手を撫でると、心配そうに見つめるふたりに駆け寄った。