ひそひそ。
授業が終わると、クラスメイトは遠巻きに私を見つめてささやき合った。
視線を感じた。教室から。廊下から。教台から。HRを終えた担任の先生さえ、その瞳の奥に興味を滲ませているように思えた。
私は目を伏せて、脇坂さんの言葉を思い出した。
「先輩。僕は、嫌じゃないです」
後輩の手前、精一杯強がってみせたけれど、うまくできただろうか。
救われた気がしたのは本当。
ただし、現実はそう甘くない。
教室に戻れば、彼女の温もりはすぐに冷めていった。
ひそひそ。
じろじろ。
ささやく声が聞こえる。視線を感じる。
まるで私という存在が辱められているようだ。
すべての声が、私のことを言っているようだった。
すべての目が、私のことをにらんでいるようだった。
錯覚だ。
すぐに支度を終えて、立ち去ればいい。
そう思っても、もつれた指は机から離れなかった。気づけば私は、机に縋りついて奥歯を噛みしめていた。熱気と寒気が押し寄せ、脚は棒のように固まっていた。
私の奇異な様子を見て、教室はますます騒がしくなっていた。キーンと耳鳴りがして、身体がすくんだ。震えることさえ、咎められるような気がした。
いつだったか、前にもこんなことがあった気がする。
違う。正確に覚えている。
目を閉じれば、あの時の記憶は鮮烈に蘇る。
去年の冬のことだ――生徒会長に就任したその日、私は全校集会で話す挨拶文の原稿を書いていた。生徒会室の隅のほうで、夕闇が空に溶けても、私はどうしても原稿が起こせずにいた。
私は生徒会長に、なりたくなかった。
流されるままに推薦された。クラスの盛りあがりに流されて、他人が作った公約を読んだ。そして、なんとなく投じられた票で当選した。たぶん、真面目そうだったとか――そんな理由だろう。
だから挨拶なんて、なにもなかった。
情熱も指標も、私にはなにも。
そんな時、ちょうどこんな風に目を閉じて、私はずっと椅子に座っていた。
俯いて、涙も震えも隠して、私は流れるのを待っていた。
私が選択しなくても、時が動き出すのを。
選択肢の、時間制限が過ぎるのを。
ずっと。
待っているのだ。
今も。
結局、私はそれを求めて――
「理子」
その声で呼びかけられるのを、知っていた。
思わず振り向くと、悠美が教室の戸に立っていた。
肩で息をして。視線で喧噪を黙らせて。
悠美は私を真っ直ぐに見つめて優しく微笑んだ。
「一緒に帰ろう」
まるで子犬みたいだ――駆け寄ってくる悠美を見て、思わず頬がゆるんだ。
心臓がどきどきと高鳴った。身体は柔らかくなっていた。ひそひそも、じろじろも、気にならなくなって、ただ悠美の姿だけが視界に映った。
鼻立ちのとおった美しい顔に、世界を凍らせたような冷たい瞳。栗色の髪は肩を流れて、放課後の陽光を受けてきらきらと輝いていた。
私を救う王子様は、空気を読まない。
今こうして私に近づくことが、なにをもたらすのか。
わかっているはずなのに、我慢ができない。
本当に、仕方のないやつ。
「ごめんね、理子。どうしても心配で」
「私は伊織が心配だよ。大丈夫なの? 連絡しても、返事がなくって」
「伊織のことは大丈夫。アタシに任せて」
「でも」
悠美はクラスメイトが遠巻きに見つめるなか、手を差し伸べて笑った。
私はその手をぼんやりと見つめて、呆れてしまった。
「噂になるよ」
「覚悟してる。理子が嫌じゃなければね」
「私は――」
いまそれを悩んでるところ。
なんて言えずに、思わず口ごもってしまう。
卒業を選択したはずだった。別れを告げるはずだった。
けれど、窮地に立たされた時、私を救ってくれるのは悠美だった。
私の心臓を強く打つのは、いつだって彼女なのだ。
「理子、一緒に帰ろう」
悠美はいつだって、甘くささやく。
彼女の言うとおりにすれば、なんだってうまくいった。全校集会の挨拶も。行事の会議も、設営も。悠美が耳元でささやくとおりに、私はやってきた。
楽だった。心地よかった。今だって、悠美さえいれば、まわりなんてどうでもよくなっていく。
だから、その手を握れば。
もう戻れなくなる。
優しくて。頼もしくて。甘くて。私が嫌いな私を愛してくれる。
そんな夢のような話に、包まれて縋りついてしまう。
喜色と憂色が見守るなか、私と悠美の時間だけがスローモーションのように穏やかに流れた。私は、目を伏せると手のひらをかざして――
悠美の指先を、そっと押し戻した。
「今は、伊織を優先して」
「でもアタシは」
「私は大丈夫。ありがとう、悠美」
悠美に笑いかけると、私は鞄を持って椅子から立った。
両脚は震えていたけれど、私は悠美とすれ違って、教室を飛び出した。
そこらかしこの目が私を見つめる。怖い。そのすべてがいやらしく思えた。それでも、私はひとり生徒会室に向かう。脇坂さんの声を思い出して、奥歯を強く噛みしめる。
「先輩。僕は、嫌じゃないです」
彼女は私を〝嫌じゃない〟って言った。
でも、私はこんな自分が嫌だよ。
あの日、茫然と佇む伊織を見て、なにもできないって悟った時。
奥歯を噛みしめても溢れ出る涙を遮れなかった、あの。
私は変わらなくちゃって思ったんだ。
伊織のこと。悠美のこと。噂のこと。進路のこと。考えて答えを出すから。
だから、もう少しだけ、悠美。
私に時間をください。
去り際、哀しそうな目をした恋人のことが気がかりだった。ふと廊下の窓から覗いた冬色の空には、暗い暗い雲がかかっていた。