Ⅱ/Ⅱ 高梨 理子

 

 

 

 ひそひそ。

 授業が終わると、クラスメイトは遠巻きに私を見つめてささやき合った。

 視線を感じた。教室から。廊下から。教台から。HRを終えた担任の先生さえ、その瞳の奥に興味を滲ませているように思えた。

 私は目を伏せて、脇坂さんの言葉を思い出した。

「先輩。僕は、嫌じゃないです」

 後輩の手前、精一杯強がってみせたけれど、うまくできただろうか。

 救われた気がしたのは本当。

 ただし、現実はそう甘くない。

 教室に戻れば、彼女の温もりはすぐに冷めていった。

 ひそひそ。

 じろじろ。

 ささやく声が聞こえる。視線を感じる。

 まるで私という存在が辱められているようだ。

 すべての声が、私のことを言っているようだった。

 すべての目が、私のことをにらんでいるようだった。

 錯覚だ。

 すぐに支度を終えて、立ち去ればいい。

 そう思っても、もつれた指は机から離れなかった。気づけば私は、机に縋りついて奥歯を噛みしめていた。熱気と寒気が押し寄せ、脚は棒のように固まっていた。

 私の奇異な様子を見て、教室はますます騒がしくなっていた。キーンと耳鳴りがして、身体がすくんだ。震えることさえ、咎められるような気がした。

 いつだったか、前にもこんなことがあった気がする。

 違う。正確に覚えている。

 目を閉じれば、あの時の記憶は鮮烈に蘇る。

 去年の冬のことだ――生徒会長に就任したその日、私は全校集会で話す挨拶文の原稿を書いていた。生徒会室の隅のほうで、夕闇が空に溶けても、私はどうしても原稿が起こせずにいた。

 私は生徒会長に、なりたくなかった。

 流されるままに推薦された。クラスの盛りあがりに流されて、他人が作った公約を読んだ。そして、なんとなく投じられた票で当選した。たぶん、真面目そうだったとか――そんな理由だろう。

 だから挨拶なんて、なにもなかった。

 情熱も指標も、私にはなにも。

 そんな時、ちょうどこんな風に目を閉じて、私はずっと椅子に座っていた。

 俯いて、涙も震えも隠して、私は流れるのを待っていた。

 私が選択しなくても、時が動き出すのを。

 選択肢の、時間制限が過ぎるのを。

 ずっと。

 待っているのだ。

 今も。

 結局、私はそれを求めて――

「理子」

 その声で呼びかけられるのを、知っていた。

 思わず振り向くと、悠美が教室の戸に立っていた。

 肩で息をして。視線で喧噪を黙らせて。

 悠美は私を真っ直ぐに見つめて優しく微笑んだ。

「一緒に帰ろう」

 まるで子犬みたいだ――駆け寄ってくる悠美を見て、思わず頬がゆるんだ。

 心臓がどきどきと高鳴った。身体は柔らかくなっていた。ひそひそも、じろじろも、気にならなくなって、ただ悠美の姿だけが視界に映った。

 鼻立ちのとおった美しい顔に、世界を凍らせたような冷たい瞳。栗色の髪は肩を流れて、放課後の陽光を受けてきらきらと輝いていた。

 私を救う王子様は、空気を読まない。

 今こうして私に近づくことが、なにをもたらすのか。

 わかっているはずなのに、我慢ができない。

 本当に、仕方のないやつ。

「ごめんね、理子。どうしても心配で」

「私は伊織が心配だよ。大丈夫なの? 連絡しても、返事がなくって」

「伊織のことは大丈夫。アタシに任せて」

「でも」

 悠美はクラスメイトが遠巻きに見つめるなか、手を差し伸べて笑った。

 私はその手をぼんやりと見つめて、呆れてしまった。

「噂になるよ」

「覚悟してる。理子が嫌じゃなければね」

「私は――」

 いまそれを悩んでるところ。

 なんて言えずに、思わず口ごもってしまう。

 卒業を選択したはずだった。別れを告げるはずだった。

 けれど、窮地に立たされた時、私を救ってくれるのは悠美だった。

 私の心臓を強く打つのは、いつだって彼女なのだ。

「理子、一緒に帰ろう」

 悠美はいつだって、甘くささやく。

 彼女の言うとおりにすれば、なんだってうまくいった。全校集会の挨拶も。行事の会議も、設営も。悠美が耳元でささやくとおりに、私はやってきた。

 楽だった。心地よかった。今だって、悠美さえいれば、まわりなんてどうでもよくなっていく。

 だから、その手を握れば。

 もう戻れなくなる。

 優しくて。頼もしくて。甘くて。私が嫌いな私を愛してくれる。

 そんな夢のような話に、包まれて縋りついてしまう。

 喜色と憂色が見守るなか、私と悠美の時間だけがスローモーションのように穏やかに流れた。私は、目を伏せると手のひらをかざして――

 悠美の指先を、そっと押し戻した。

「今は、伊織を優先して」

「でもアタシは」

「私は大丈夫。ありがとう、悠美」

 悠美に笑いかけると、私は鞄を持って椅子から立った。

 両脚は震えていたけれど、私は悠美とすれ違って、教室を飛び出した。

 そこらかしこの目が私を見つめる。怖い。そのすべてがいやらしく思えた。それでも、私はひとり生徒会室に向かう。脇坂さんの声を思い出して、奥歯を強く噛みしめる。

「先輩。僕は、嫌じゃないです」

 彼女は私を〝嫌じゃない〟って言った。

 でも、私はこんな自分が嫌だよ。

 あの日、茫然と佇む伊織を見て、なにもできないって悟った時。

 奥歯を噛みしめても溢れ出る涙を遮れなかった、あの。

 私は変わらなくちゃって思ったんだ。

 伊織のこと。悠美のこと。噂のこと。進路のこと。考えて答えを出すから。

 だから、もう少しだけ、悠美。

 私に時間をください。

 去り際、哀しそうな目をした恋人のことが気がかりだった。ふと廊下の窓から覗いた冬色の空には、暗い暗い雲がかかっていた。