僕は意気地なしだ。
あの夜、真城が伊織先輩に襲われているのに、ひとりでは声が出せなかった。高梨先輩を巻き込んで、彼女に事後処理のすべてを任せてしまった。
情けない。僕は〝僕〟であるはずなのに、真城の手を握ることしか、できなかったんだ。
先生が来ても、真城から引き離されても、僕は動けなかった。ただ失意と失望に溺れた心で、高梨先輩を見つめた。彼女は力なく笑って、僕に言った。
「ありがとう」
わからない。僕にはわからない。なにも。
伊織先輩の事情も。真城の心情も。高梨先輩の感情も。わからない。ただ立ちすくむばかりで、なにもできなかった。
その結果が、これだ。
事件は、噂のなかで歪曲してしまった。
登場人物は、高梨先輩。伊織先輩。そして真城――
彼女らの〝痴情のもつれ〟は、平凡な公立高校を一晩にして塗りかえた。
噂の全貌はこうだ――
伊織先輩は真城と〝浮気〟をしていた。
あの夜も体育倉庫で〝淫行〟を行っていた。
それを〝告げ口〟したのは、伊織先輩と〝恋愛関係〟にあった高梨先輩だった。
淫行したふたりの生徒は、自宅謹慎。
高梨先輩だけが、なに食わぬ顔でひとり学校に来ている――
違う!
僕は校内を叫んで回りたい気分だった。
僕が盾に使った高梨先輩は、悪者にされていた。レッテルを貼られていた。名誉を汚されていた。教室では、誰もが高梨先輩の悪口を語って、凍るような冷笑を浮かべている。
僕は教室を飛び出して、それで――それで。
結局なにもできなくて、今は校舎裏の非常階段から、空を見あげている。
なにかしなくちゃってスマホを握りしめて、秋の終わりの最中で迷っている。
高梨先輩とは、あの後LINEを交換していた。だから僕は、いつだって彼女と連絡を取ることができた。行動するなら、いましかない。
『お昼ご飯を一緒に食べませんか』
たった一言の稚拙な文を送る頃、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
風の音だけが響く非常階段で、僕は高梨先輩の返答を待った。
「ダメだよ。非常階段は立ち入り禁止」
「――ご、ごめんなさい」
高梨先輩は表向き、ごくふつうの〝生徒会長〟だった。
非常階段でだらりと座る僕を叱ると、腕を引いて生徒会室まで導いてくれた。
手にはパンが詰まった袋が、ふたつ。それで僕は、昼食をなにも用意していないことに気づいた。
「先輩、パン」
「いいよ。どうせサボってたんでしょ」
「うっ」
高梨先輩は力なく笑うと、窓側の椅子に座った。
そして僕を向かいの椅子に促して、小さくため息をついた。
「なんか個人面談みたい」
「すみません、急に」
「いいよ。どうせ教室じゃ食べられなかったし」
「――そうですか」
僕は縮こまりながら、先輩から受け取ったパンの包みを開ける。これは、三角トーストだ。揚げて砂糖をまぶした食パンに、クリームを挟んだ僕の大好物だ。
ひょっとして、高梨先輩はエスパーかなにかだろうか。
僕が顔をあげると、彼女はにっこり微笑んだ。
「好きかと思って」
やっぱり。先輩は超能力者に違いない。
僕はなんだか情けなくなって、ますます縮こまってしまった。これでは本当に、なにか悪いことをして怒られているみたいだ。
しっかりしろ。僕。パンを頬張りながら、自分を奮い立たせた。
「あの」
「なんかさ、不思議だよね」
「えっ?」
「昨日までぜんぜん知らなかったのに、お昼一緒に食べてるなんて」
「そう、ですね――あの、ウチは先輩が心配で」
「ありがとう。正直、嬉しかったかな。誰かに声かけるのしんどかったから」
「それなら、よかったです」
高梨先輩は力なく笑うと、メロンパンを片手に窓のほうを見た。そしてなにかを噛みしめるような顔をして、目を閉じた。
「本当なんだよね」
「えっ」
「知ってると思うけど、あの噂」
「でも、先輩は――違うじゃないですか。あんな噂、嘘で」
「うーん、でもね」
高梨先輩はこちらを見やり、穏やかな声で続けた。
「私は、別の女の子と付き合ってるんだ」
僕は知っていた。
それでも、なにも言えずにいた。
「噂は嘘。だけど、女の子と付き合ってるのは事実――だから、今悩んでるんだ。どうしようって」
「先輩――」
「脇坂さんは、どう思う? やっぱり、嫌?」
高梨先輩は僕に向き直ると、真っ直ぐに僕を見つめた。僕は口をぱくぱくとさせてしまって――思い悩んだ。言うなら今だと思った。
「先輩、ウチは――本当は〝僕〟なんです」
「ん?」
「えっと、その。自分を、僕って」
「え、男なの?」
「いえ、そういうことじゃないんですけど」
高梨先輩には、どうやら通じないようだった。先輩はそれ以上考えることを止めたようで、ぼんやりとした顔で吐息をついた。
「皆、色々あるよねえ」
「――ですねえ」
それだけ通じれば、いいか。
僕は思い直して、先輩に同意した。誰も来ない生徒会室は静かで、喧噪は遠く――まるでふたりだけの世界のようだった。
「お互いさ、悩もっか」
「そうですね」
それで会話は途切れた。やがてチャイムが鳴って、高梨先輩は椅子から立ちあがる。僕は少し焦って、彼女の腕を掴んだ。
「先輩。僕は、嫌じゃないです」
このまま彼女を帰してはいけない気がした。
「僕は、見たんです。先輩と、斉藤先輩がキスしてるところを、それを見て、素敵だって思ったんです。だから、僕は」
「――そっか。あの時の」
「はい。僕は、見たんです」
高梨先輩の顔を覗き込んで、僕は頷いた。
あの時、僕は確かに〝青春〟を見た。羨んだ。嫉妬した。僕にとって先輩は、憧れのひとつとなった。だから、僕は嫌じゃない。むしろ僕は。
「ありがとね。救われたよ」
高梨先輩は、掴んだ手を握って、笑ってくれた。
その笑みの奥底には、涙が覗いていた。
僕は、なにかできただろうか。
悔しさと情けなさが同居する胸に込みあげるものを感じた。
始業のチャイムが鳴るまで、僕と先輩は言葉にできない心を伝え合った。