Ⅱ/Ⅰ 脇坂 茜

 

 

 

 僕は意気地なしだ。

 あの夜、真城が伊織先輩に襲われているのに、ひとりでは声が出せなかった。高梨先輩を巻き込んで、彼女に事後処理のすべてを任せてしまった。

 情けない。僕は〝僕〟であるはずなのに、真城の手を握ることしか、できなかったんだ。

 先生が来ても、真城から引き離されても、僕は動けなかった。ただ失意と失望に溺れた心で、高梨先輩を見つめた。彼女は力なく笑って、僕に言った。

「ありがとう」

 わからない。僕にはわからない。なにも。

 伊織先輩の事情も。真城の心情も。高梨先輩の感情も。わからない。ただ立ちすくむばかりで、なにもできなかった。

 その結果が、これだ。

 事件は、噂のなかで歪曲してしまった。

 登場人物は、高梨先輩。伊織先輩。そして真城――

 彼女らの〝痴情のもつれ〟は、平凡な公立高校を一晩にして塗りかえた。

 噂の全貌はこうだ――

 伊織先輩は真城と〝浮気〟をしていた。

 あの夜も体育倉庫で〝淫行〟を行っていた。

 それを〝告げ口〟したのは、伊織先輩と〝恋愛関係〟にあった高梨先輩だった。

 淫行したふたりの生徒は、自宅謹慎。

 高梨先輩だけが、なに食わぬ顔でひとり学校に来ている――

 違う!

 僕は校内を叫んで回りたい気分だった。

 僕が盾に使った高梨先輩は、悪者にされていた。レッテルを貼られていた。名誉を汚されていた。教室では、誰もが高梨先輩の悪口を語って、凍るような冷笑を浮かべている。

 僕は教室を飛び出して、それで――それで。

 結局なにもできなくて、今は校舎裏の非常階段から、空を見あげている。

 なにかしなくちゃってスマホを握りしめて、秋の終わりの最中で迷っている。

 高梨先輩とは、あの後LINEを交換していた。だから僕は、いつだって彼女と連絡を取ることができた。行動するなら、いましかない。

『お昼ご飯を一緒に食べませんか』

 たった一言の稚拙な文を送る頃、昼休みを告げるチャイムが鳴った。

 風の音だけが響く非常階段で、僕は高梨先輩の返答を待った。

 

 

 

「ダメだよ。非常階段は立ち入り禁止」

「――ご、ごめんなさい」

 高梨先輩は表向き、ごくふつうの〝生徒会長〟だった。

 非常階段でだらりと座る僕を叱ると、腕を引いて生徒会室まで導いてくれた。

 手にはパンが詰まった袋が、ふたつ。それで僕は、昼食をなにも用意していないことに気づいた。

「先輩、パン」

「いいよ。どうせサボってたんでしょ」

「うっ」

 高梨先輩は力なく笑うと、窓側の椅子に座った。

 そして僕を向かいの椅子に促して、小さくため息をついた。

「なんか個人面談みたい」

「すみません、急に」

「いいよ。どうせ教室じゃ食べられなかったし」

「――そうですか」

 僕は縮こまりながら、先輩から受け取ったパンの包みを開ける。これは、三角トーストだ。揚げて砂糖をまぶした食パンに、クリームを挟んだ僕の大好物だ。

 ひょっとして、高梨先輩はエスパーかなにかだろうか。

 僕が顔をあげると、彼女はにっこり微笑んだ。

「好きかと思って」

 やっぱり。先輩は超能力者に違いない。

 僕はなんだか情けなくなって、ますます縮こまってしまった。これでは本当に、なにか悪いことをして怒られているみたいだ。

 しっかりしろ。僕。パンを頬張りながら、自分を奮い立たせた。

「あの」

「なんかさ、不思議だよね」

「えっ?」

「昨日までぜんぜん知らなかったのに、お昼一緒に食べてるなんて」

「そう、ですね――あの、ウチは先輩が心配で」

「ありがとう。正直、嬉しかったかな。誰かに声かけるのしんどかったから」

「それなら、よかったです」

 高梨先輩は力なく笑うと、メロンパンを片手に窓のほうを見た。そしてなにかを噛みしめるような顔をして、目を閉じた。

「本当なんだよね」

「えっ」

「知ってると思うけど、あの噂」

「でも、先輩は――違うじゃないですか。あんな噂、嘘で」

「うーん、でもね」

 高梨先輩はこちらを見やり、穏やかな声で続けた。

「私は、別の女の子と付き合ってるんだ」

 僕は知っていた。

 それでも、なにも言えずにいた。

「噂は嘘。だけど、女の子と付き合ってるのは事実――だから、今悩んでるんだ。どうしようって」

「先輩――」

「脇坂さんは、どう思う? やっぱり、嫌?」

 高梨先輩は僕に向き直ると、真っ直ぐに僕を見つめた。僕は口をぱくぱくとさせてしまって――思い悩んだ。言うなら今だと思った。

「先輩、ウチは――本当は〝僕〟なんです」

「ん?」

「えっと、その。自分を、僕って」

「え、男なの?」

「いえ、そういうことじゃないんですけど」

 高梨先輩には、どうやら通じないようだった。先輩はそれ以上考えることを止めたようで、ぼんやりとした顔で吐息をついた。

「皆、色々あるよねえ」

「――ですねえ」

 それだけ通じれば、いいか。

 僕は思い直して、先輩に同意した。誰も来ない生徒会室は静かで、喧噪は遠く――まるでふたりだけの世界のようだった。

「お互いさ、悩もっか」

「そうですね」

 それで会話は途切れた。やがてチャイムが鳴って、高梨先輩は椅子から立ちあがる。僕は少し焦って、彼女の腕を掴んだ。

「先輩。僕は、嫌じゃないです」

 このまま彼女を帰してはいけない気がした。

「僕は、見たんです。先輩と、斉藤先輩がキスしてるところを、それを見て、素敵だって思ったんです。だから、僕は」

「――そっか。あの時の」

「はい。僕は、見たんです」

 高梨先輩の顔を覗き込んで、僕は頷いた。

 あの時、僕は確かに〝青春〟を見た。羨んだ。嫉妬した。僕にとって先輩は、憧れのひとつとなった。だから、僕は嫌じゃない。むしろ僕は。

「ありがとね。救われたよ」

 高梨先輩は、掴んだ手を握って、笑ってくれた。

 その笑みの奥底には、涙が覗いていた。

 僕は、なにかできただろうか。

 悔しさと情けなさが同居する胸に込みあげるものを感じた。

 始業のチャイムが鳴るまで、僕と先輩は言葉にできない心を伝え合った。