鍵をあたしに預けると、部長も先生も体育館から逃げ出した。
怠慢だ。本当はよくないことくらい、あたしでもわかる。
そこそこの実績を持つバスケ部のなかでも、伊織先輩は〝異質〟だった。先輩はホイッスルが鳴っても、帰りを促されても、練習を止めようとはしなかった。けれど〝異質〟のおかげで試合に勝てているから、なにも言えない。
あたしは先輩の、そういうところに憧れていた。
黙らすのだ。注意も。文句も。
先輩には関係ない。
いつしかあたしは先輩の付き人として認知されて、先輩と一緒に放置されるようになった。陰でなんて言われてるかなんて、知ってる。でも、仕方がない。
「――いい?」
「いいすよ」
それは事実なのだし。
今では体育倉庫の陰に隠れるのも、慣れたもの。
鉄扉は分厚く、閉めると頼もしく思えた。内側から鍵はかからなかったけれど、この時間にわざわざ開けるひともいないだろう。誤魔化しようはいくらでもある。
だからここは今、ふたりだけの世界――
あたしは目を伏せて、下腹部を這いまわる先輩の指に耐えていた。少しでも腰を引けば、爪を立てられるってわかっていたから。
痛いのは嫌だ。ただでさえ、強引すぎてひりひりと染みるのに。
先輩のご寵愛を賜るのも、楽ではないのだ。キスは身勝手だったし、たまに舌を噛まれた。呼吸ができなくて顔をよじると、壁に頭を打ちつけられた。爪があんまりにも肌に食い込むので、あたしの裸は、ひとに見せられなくなっていた。
きっと、理解なんてされないんだろうな。
これで〝幸せ〟なんて。
クラスメイトの誰に言ったって、きっと信じてもらえない。
好きなひとから求められる悦びなんて、君たちにはわからないよ――あたしは心のなかでくすくすと笑いながら、先輩の腕のなかでもがいた。壁にどっと打ちつけられて、後頭部がしくしくと痛んだ。何度も何度も押しつけられ、視界が歪む。
今日は、なんだか一段と激しい。
あたしは奥へ奥へ潜り込んでくる突き刺すような痛みに、薄目を開けた。先輩の顔。顔が見たい。あたしは首を傾げて、深く潜り込んでくる頭をどかそうとした。
「動かないで」
「でも」
ちょっと辛い。痛くて痛くて仕方がなかった。爪はとうに肌を突き刺して血が流れていたし、頭は殴られたみたいにズキズキと悲鳴をあげていた。先輩はあたしを壁に押しつけたまま唇を奪うと、吐息を交えて熱くささやいた。うっとりと、まるで恋こがれるように。
「悠美――」
待って。
これは、なにかの間違い。
急に目の前が真っ暗になった。全身を鈍痛が襲って、熱かった芯が凍えるように震え出した。汗は雨の雫のように身体にはりついて、ぐちゃぐちゃと音を立てた。
「悠美――どうして」
なのに先輩は、首筋に潜り込んでまたひとつ呟きを漏らした。
あたしは込みあげる吐き気に震えて、視界が反転していく錯覚に囚われた。
この時間だけは、求めてくれている。そう信じていたのに。
悠美。悠美って。
あたしは背骨が腐りそうな不快感に目を見開いた。
涙がとめどなくあふれて、呼吸が詰まった。
「せんぱ、くるし……」
「黙りなさい。声を出さないで――」
あたしは先輩を押しのけようとして、床に引き倒された。
馬乗りになった先輩はあたしの口を手のひらで塞ごうとする。抵抗すると髪を掴まれ、あたしは怖くなっていた。だって、これじゃあまるで――蹴りあげても身をよじっても、先輩は身体に指を這わせた。あたしは虚ろな目でそれを見つめた。もうなにもかもが終わっていた。
あたしは求められてすらいなかった。
そう気づいた時、すべてが苦痛に変わった。あたしは砂の詰まった人形のように潰されて、身体を弄ばれた。全身がすり切れて、内臓が引きずられていた。暗い体育倉庫の隅からじわじわと闇が迫って、あたしは動けなくなってしまった。恐怖と痛みに怯える時間は、いつまで経っても終わらない。ずっとずっと、先輩はあたしを、あたしに重ねた最愛のひとを、求め続けている。
「なに、してるの――?」
ふと声がして、あたしは虚ろな目を向けた。
大きく開いた鉄扉。きらきらとライトの灯った体育館から伸びるひとの影。
それは先輩を突き飛ばすと、あたしの顔を覗き込んだ。
ふたりだけの世界なんて、まやかしだった。
崩れる時は、こんなにあっけない。
「真城、大丈夫?」
影はクラスメイトの形をしていた。
片膝を折って手を差し出すその姿は、まるで王子様のようで――
あたしは恐怖を忘れて、ぼんやりと頷いてしまった。