Ⅰ/Ⅷ 真城 加奈

 

 

 

 鍵をあたしに預けると、部長も先生も体育館から逃げ出した。

 怠慢だ。本当はよくないことくらい、あたしでもわかる。

 そこそこの実績を持つバスケ部のなかでも、伊織先輩は〝異質〟だった。先輩はホイッスルが鳴っても、帰りを促されても、練習を止めようとはしなかった。けれど〝異質〟のおかげで試合に勝てているから、なにも言えない。

 あたしは先輩の、そういうところに憧れていた。

 黙らすのだ。注意も。文句も。

 先輩には関係ない。

 いつしかあたしは先輩の付き人として認知されて、先輩と一緒に放置されるようになった。陰でなんて言われてるかなんて、知ってる。でも、仕方がない。

「――いい?」

「いいすよ」

 それは事実なのだし。

 今では体育倉庫の陰に隠れるのも、慣れたもの。

 鉄扉は分厚く、閉めると頼もしく思えた。内側から鍵はかからなかったけれど、この時間にわざわざ開けるひともいないだろう。誤魔化しようはいくらでもある。

 だからここは今、ふたりだけの世界――

 あたしは目を伏せて、下腹部を這いまわる先輩の指に耐えていた。少しでも腰を引けば、爪を立てられるってわかっていたから。

 痛いのは嫌だ。ただでさえ、強引すぎてひりひりと染みるのに。

 先輩のご寵愛を賜るのも、楽ではないのだ。キスは身勝手だったし、たまに舌を噛まれた。呼吸ができなくて顔をよじると、壁に頭を打ちつけられた。爪があんまりにも肌に食い込むので、あたしの裸は、ひとに見せられなくなっていた。

 きっと、理解なんてされないんだろうな。

 これで〝幸せ〟なんて。

 クラスメイトの誰に言ったって、きっと信じてもらえない。

 好きなひとから求められる悦びなんて、君たちにはわからないよ――あたしは心のなかでくすくすと笑いながら、先輩の腕のなかでもがいた。壁にどっと打ちつけられて、後頭部がしくしくと痛んだ。何度も何度も押しつけられ、視界が歪む。

 今日は、なんだか一段と激しい。

 あたしは奥へ奥へ潜り込んでくる突き刺すような痛みに、薄目を開けた。先輩の顔。顔が見たい。あたしは首を傾げて、深く潜り込んでくる頭をどかそうとした。

「動かないで」

「でも」

 ちょっと辛い。痛くて痛くて仕方がなかった。爪はとうに肌を突き刺して血が流れていたし、頭は殴られたみたいにズキズキと悲鳴をあげていた。先輩はあたしを壁に押しつけたまま唇を奪うと、吐息を交えて熱くささやいた。うっとりと、まるで恋こがれるように。

「悠美――」

 待って。

 これは、なにかの間違い。

 急に目の前が真っ暗になった。全身を鈍痛が襲って、熱かった芯が凍えるように震え出した。汗は雨の雫のように身体にはりついて、ぐちゃぐちゃと音を立てた。

「悠美――どうして」

 なのに先輩は、首筋に潜り込んでまたひとつ呟きを漏らした。

 あたしは込みあげる吐き気に震えて、視界が反転していく錯覚に囚われた。

 この時間だけは、求めてくれている。そう信じていたのに。

 悠美。悠美って。

 あたしは背骨が腐りそうな不快感に目を見開いた。

 涙がとめどなくあふれて、呼吸が詰まった。

「せんぱ、くるし……」

「黙りなさい。声を出さないで――」

 あたしは先輩を押しのけようとして、床に引き倒された。

 馬乗りになった先輩はあたしの口を手のひらで塞ごうとする。抵抗すると髪を掴まれ、あたしは怖くなっていた。だって、これじゃあまるで――蹴りあげても身をよじっても、先輩は身体に指を這わせた。あたしは虚ろな目でそれを見つめた。もうなにもかもが終わっていた。

 あたしは求められてすらいなかった。

 そう気づいた時、すべてが苦痛に変わった。あたしは砂の詰まった人形のように潰されて、身体を弄ばれた。全身がすり切れて、内臓が引きずられていた。暗い体育倉庫の隅からじわじわと闇が迫って、あたしは動けなくなってしまった。恐怖と痛みに怯える時間は、いつまで経っても終わらない。ずっとずっと、先輩はあたしを、あたしに重ねた最愛のひとを、求め続けている。

「なに、してるの――?」

 ふと声がして、あたしは虚ろな目を向けた。

 大きく開いた鉄扉。きらきらとライトの灯った体育館から伸びるひとの影。

 それは先輩を突き飛ばすと、あたしの顔を覗き込んだ。

 ふたりだけの世界なんて、まやかしだった。

 崩れる時は、こんなにあっけない。

「真城、大丈夫?」

 影はクラスメイトの形をしていた。

 片膝を折って手を差し出すその姿は、まるで王子様のようで――

 あたしは恐怖を忘れて、ぼんやりと頷いてしまった。