Ⅰ/Ⅶ 高梨 理子

 

 

 

 赤い夕陽が遠くの谷間に消える頃、私はようやく顔をあげた。

 蛍光灯の明かりが照らす生徒会室には、私しかいない。

 いつもだったら、このタイミングで悠美が来る。

「まだやってるの?」

「他にやるひとがいないから」

 私は苦笑して悠美を迎えて、そしてキスを迎え入れる。彼女は私の王子様。流されてばかりの私に、がんばる理由をくれた。ご褒美も、たくさんの思い出も。海へ行ったことがある。山へ行ったことがある。出不精な私を悠美は引きずり回して、いつも最後はこう言ってくれた。

「好きだよ」

 どうして悠美は愛してくれるのだろう。

 私は手がつかなくなったアンケートの集計作業を片づけながら、自らの唇に舌を這わせた。乾いて、切れて、少しだけ血の味がした。

 悠美との出会いは突然で、関係も唐突だった。彼女は生徒会室で震える私に突然告白して、自信と勇気をくれた。彼女は私の、正真正銘の王子様だった。

 けれど、いまはそれが嫌。理由もわからないまま愛されて、受け入れて。

 それっていつもと同じじゃない?

 私はずっとずっと、流されている。なにも選択していない。自分から動こうとしていない。それがわかった時、焦った。なにかを必死で選択しようとした。

 だから〝卒業〟を申し出たのだ。

 進路だって、自分で決めた。

 でも――

 いま選択が私を苦しめている。

 私は目を閉じると、足元に置いた鞄を小さく蹴った。

 鞄のなかに押し込んだ模試の評価は最悪で、私の選択は否定されていた。生徒会長なのに――お母さんの呆れた声が耳にこびりついて離れない。

 個人面談で先生は言った。「このままでは難しい」そして私に新たなレールを提示して、私をまた押し流そうとしている。

 そんなの、嫌だ。

 悠美は私が「好き」と言うけれど、私は私が好きじゃない。

 好きになるために努力しているのに、彼女はそれを止めろと言う。

 レールに従えとささやく。

「こっちにだって大学は」

 そんなのわかってるよ。でも、そうじゃない。

 私は、私になろうとしている。

 それを邪魔しないで。

 天井をぼうっと見つめながら、私は涙をこぼした。ぽろぽろ。ぽろぽろ。涙が何度伝っても、悠美は私のもとへは来なかった。

 

 

 

「そういえば、伊織」

 私は時計の針を見つめ、窓の外を眺めた。

 彼女はちゃんと、家へ帰っただろうか。伊織――私の彼女の、妹。私の友達。

 最近、快く思われてないって知っている。彼女の姉と、私は付き合っているのだから。直接言ってはいないけれど、もし私が彼女だったら――女同士なんて。きっと困ってる。

「はあ、行けないよな。私からは」

 大丈夫よ。なんて言われちゃな。私はうじうじと悩みながら、涙まじりの鼻をすすった。悠美は来ない。こんな時にかぎって。彼女は王子様なのに、決して助けには来ないのだ。

「あのっ」

 生徒会室の引き戸がつんざくような音を立てて、私は思わず椅子から転げ落ちそうになった。悠美、じゃない。視界を塞ぐ涙を拭うと、髪の短い女の子が肩で息をしていた。

「あの、お願いがあって」

 その女の子は青色のタイをつけた一年生で、どこかで見たことがあるような気がした。彼女は焦っているのかも早口でまくしたてるので、私は小首を傾げた。

「もうちょっと、落ち着いてくれる?」

「でも――噂を聞いて、見に行って。最初は、そういうことかなって思ったんです。でも、違うんです。僕は、見て。それで」

 彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら、私に詰め寄った。

 まるでさっきの私みたいだ――そんな感傷は、次の一言で砕けた。

「友達が、襲われてるんです。助けてください」

 その一年生は真っ直ぐな目で私を見て、とんでもないことを言い出した。

「襲われてるって」

 私が言うよりはやく、彼女は私を引きずるように走りはじめた。

 嗚呼、流されてる。こうやっていつも流されていくんだ。その先になにがあるかもわからないのに。

 足のはやい一年生に引っ張られ、私はようやく自らの足で走り出した。