Ⅰ/Ⅵ 斉藤 伊織

 

 

 

 まったく忌々しいあの子が、私の目の前で教科書を読んでいる。

 その声は涼やかで鬱陶しい。悠美に不釣り合いな短い背丈。地味で化粧気のない顔。すべてがいやらしい。その制服の中身はずぶずぶに濡れた果実なのに、授業中は眼鏡までかけて清楚を装っている。

 まったくどうして皆は気づかないの?

 この生徒会長が本当は性に溺れた卑しい奴隷だって。

 なんでわからないの?

 叫び出しそうになるのを、ぐっと堪えた。

 わたしだって本当はわかっているの。悠美はわたしのものじゃない。同じお腹から生まれた家族で、大事な姉――でも、そんな常識的な話は、自問自答で聞き飽きていた。

「次、斉藤」

 大体、家族を愛さないひとなんている?

 わたしはただ、それが少し行き過ぎているだけ。

 悠美には悠美に相応しい相手がいる。たとえば、それはわたしだっていい。心からそう思っている。だから許せないのだ。許せない。わたしは高梨理子が許せない。

「おい、斉藤?」

「えっ? あ、なんでしょう」

「――おいおい、教科書。147ページ。聞いてなかっただろ」

 どっと教室が沸いた。呆れる担任の女教師。「やだー伊織また天然?」なんてわたしを笑いものにするクラスメイト。

 別段、いじめられているわけではない。

 でも当然、本当は天然なんて言われたくない。

 ましてや。

「伊織、ここから」

「――ありがとう」

 前の席に座る嫌悪対象に、気遣われるなんて。

 わたしは気が狂いそうになりながら微笑み返すと、教科書を広げた。

 文字が躍ってみえる。視界がふらついて、頭がうねる。

 それは怒りのせいだと思った。もしくは、身体の奥からこぼれ落ちる熱が悪さをしているのかもしれなかった。

 

 

 

「大丈夫?」

 まぶたが閉じている。

 それに気づいて目を開くと、隣から爽やかな声が響いた。

「理子」

「貧血だって。練習がんばりすぎだよ」

「――わかっているわ」

 わたしは頭を押さえて起きあがろうとした。けれど、ふらついてうまくいかない。それを理子は、穏やかな手つきで支えてくれた。

 本当は振りほどきたい。だけど、今は難しい。わかっているのだ。本当は。

「今日は帰ったほうがいいよ」

「いま、何時間目?」

「もう放課後」

「嘘」

 わたしと理子は、友達だ。

 具合の悪いことに、そういう関係を続けている。

「鞄、持ってきてるから」

「ありがとう」

「家までついていこっか?」

「ひとりで帰れるわ」

 だから本当はわかっているのだ。

 彼女は、悪い人間ではない。

 すべては、わたしの嫉妬に過ぎないのだ。

 でも――許せない。わたしは理子を絶対に許さない。

 どれだけ優しくされたって、許さない。どれだけ謝られたって許さない。

「ほんとに大丈夫?」

 大丈夫なわけ、ないでしょう。

 だって、あなたはわたしの姉を奪った。

 友達の顔をして、わたしの大事な家族を盗ったのだ。

「大丈夫よ」

 わたしは理子にそれだけ言うと、具合が悪いふりをしてベッドに倒れ込んだ。

 理子が諦めて帰るまで、ずっとそうしていた。

 許さない。許さない。許さない。

 いつしか昂ぶりを覚えて、わたしはふらふらと体育館へ向かった。渡り廊下から空を見あげると、沈みかけた陽が赤く赤く燃えあがっていた。