聞いた。僕は聞いてしまった。
ひきずりこまれた女子トイレのなかで。
エンカウントした見知らぬ上級生相手に、ついに聞いてしまった。
「貴女は、〝僕〟なんですか?」
それは、僕にとってある種の告白だった。
それを聞くということは、すなわち僕が〝僕〟であるということを、明かすことに他ならない。
目を固く閉じて答えを待つ間、ほんの五分前の出来事を思い出した。そうだ、僕はそもそも聞いてしまったのだ。目の前で難しい顔をする上級生の、淫らな嬌声を――
「聞いてた?」
「ええ、まあ」
僕は顔を真っ赤にして、俯いた。なんで素直に答えてしまったのだろう。僕は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。あんなにがんばろうって誓ったのに、昼休みの練習をサボっていた。女子トイレから響く掠れた声に興味を抱いて、窓を見るふりをして全部聞いていた。
「ちょっとこっち来な」
だから、思いっきり首を掴まれても仕方がない。
「いてて」
せめてもの抵抗に声をあげたものの、抵抗はしなかった。僕は見知らぬ上級生に引っ張られ、女子トイレにひきずりこまれた。ここは嫌いだ。僕にとって、あまりよくない空間だ。思い出せば聞こえてくる女子の声。声。声。その声のせいで、僕はいつも集中できない。ただ排泄するだけなのに、どうして気を遣う必要があるんだ。僕は個室に放りこまれながら、気分の悪さに呻いた。それを勘違いしたのか上級生は鼻を鳴らすと、腕を組んで僕をにらみつけた。
あれ?
この顔。見たことがあるぞ。
僕は上級生をしげしげと見つめ返した。
「あれ、生徒会長とキスしてたひとだ」
いけない。慌てて口を塞ごうとしたけれど、僕は大馬鹿野郎だった。考えるより先に口から声が漏れていた。やってしまった。僕はいつもこうだ。
「それも見てたわけ? アンタ、ストーカー?」
上級生は頬をひきつらせて、栗色の髪をかきあげた。その顔はまるで陶磁器のように白くて、化粧気もないのに華やかだった。
「違うんです。偶然。たまたま」
両手を振って慌てると、上級生はそのまま黙り込んでしまった。
おかしいな。一発くらい殴られると思っていたのだけれど――僕は便座に座りながら、ぼうっと彼女を見つめた。
「あの」
「なに」
「誰にも言いませんから」
「そう? ならいいけど」
だからはやく解放しておくれ。僕は切に願ったけれど、上級生は腕を組んだまま眉をひそめていた。これはあれだ。勢いで引っ張ってきたけど、どうしていいかわからないってやつだ。僕は察しがよいのですぐに気づいた。
「名前は?」
「脇坂、茜です。先輩は?」
「はあ? 斉藤だけど」
お互いなんとなく名乗り合って、僕はまた考える前に口から声を漏らした。
「斉藤――伊織先輩と同じだ」
「なに、知ってんの? 妹」
訝しげに僕を見つめる斉藤先輩は、言われてみればどことなく伊織先輩に似ていた。けれど「同じ学年なのに姉妹ってどういうことだろう」
「双子なんだ、あんまり似てないけど」
「なるほどね」
「さっきからなんでタメ語なの」
「あ、ごめんなさい」
僕は頭を抱えながら謝った。同時に斉藤先輩とは、何故か馬が合う気がしていた。
僕がしげしげと顔を眺めても、顔芸をしても、斉藤先輩はなにも言わなかった。始終、自分のことで精一杯という顔をしていた。そういう人間は好ましい。僕と同じだから。
「とにかく、言いふらさないこと」
先輩はぎろりと僕をにらんで、会話を打ち切ろうとする。
「あの」
僕は思わず声をあげた。これは運命だ。だって偶然会った上級生が好ましい相手の双子の姉で、どうしようもなく僕に似ているなんてこと――あるだろうか。ないに決まっている。だから僕は、聞いた。
女の子とキスをして、恋をしている彼女に。
「貴女は〝僕〟なんですか?」
答えはしばらく、かえってこなかった。僕は閉じていた目を開くと、斉藤先輩を見た。彼女はとても答えにくそうな顔で唇に指をあてた。
「――違うね。アタシは〝僕〟じゃない」
「そうですか」
はじめて、伝わった。
僕は「違う」と言われたのに、それだけで涙腺をゆるめた。
涙があとからあとからあふれてきた。もうそれを止める手立てはなく、ただ疑問だけが涙声となって口からこぼれた。
「じゃあ、どうして」
「女同士っていうのも、あるの。わかるでしょ」
「そうなんだ。そうなんですね」
それで僕もすべてを悟った。僕と先輩は〝違う〟けれど同じだった。なんらかのことに抑圧されていた。学校なのか。社会なのか。世界なのか。
知らない。わからないけれど。
「先輩。LINE交換、しませんか」
僕は繋がりたいと思った。
「っ……ちょっと待って。なにそれ」
斉藤先輩は突然吹き出すと、わなわなと唇を歪めた。僕も笑った。女子トイレの個室で、スマホを互いにかざし合いながら、くすくす。くすくす。こんな関係のはじまりが現実にあるなんて思わなかった。
「運命なんですよ」
僕は笑いすぎて痛むお腹を抱えながら、苦し紛れにそう言った。
LINEのリストに、斉藤先輩の名前が並んだ。そこには、あの伊織先輩の名前もあった。
「伊織先輩とも、運命が繋がればいいのに」
僕はついつい頭のなかの言葉を口にした。悪い癖だ。
すぐさま後悔して、取り消そうとする。
「あ、今のは」
なにかの間違い――そう口にしようとして、斉藤先輩と目があった。
彼女はなにかを悟ったのか、辛そうな目をして嘆息した。
「妹はやめな。襲われるよ」
「え?」
聞きたくなかった。僕は聞きたくなかった。
なのに女子トイレのなかで、盟友の口からそれを聞いてしまった。
「知らないの? あの子、部活の後輩に――」
斉藤先輩の言葉は、〝青春〟を終わらせる魔法のようだった。昼休みの終わりを告げるチャイムを聞いても、僕はしばらくその場から動けなかった。