6
白奈がその場から消えると場の空気は驚く程に鎮まった。
「……じゃ、あたし、ちょっとメールチェックとかしてるから」
真菰は一人部屋に引き上げていく。先程玄人に突っかかったせいで顔を合わせているのが気まずくなったのか、ドアをばたんと閉め、入ってくるなオーラを漂わせた。
玄人と未百合と血倉は残された食器を洗うと、テーブルを拭いて後片付けをした。
ダイニングテーブルについて、所在なく時が過ぎるのを待つ。
「ねえ、ちょっと良いかしら」
やがて血倉が声を潜めて言った。
「実はわたし、あの真菰さんって女の子の事、前もって少し調べてきたのだけれど」
「何、マジか?」
昨日の今日だというのに調査済みとは、流石フットワークの軽い血倉知里。持つべきものは有能な助手である。
血倉曰く、昨夜白奈から招集があった後、知人に電話をかけてそれとなく情報を集めた。クラスの人気者だから人脈豊富なのだ──その中に中等部に弟がいる者がいて、色々と真菰について聞かせてくれたという。
「教えてくれよ、その話」
「あ、でも、あまり良い類の話じゃないかも……」
「解ってる」
想像はつく、と玄人は言う。
「俺は白奈と考え方が違う。事実を事実として認めるところから真の解決が始まるんだ。なあ血倉、これは事件の捜査であって陰口なんかじゃねえから、知ってる事は全部教えてくれ」
それじゃ又聞きになるけれど、と前置きして血倉は語り始めた。
「あの子……噓吐きという事で、中等部でもちょっと有名みたいね」
「やっぱそうか」
「どう言えばいいんだろう……微妙に浮いてるっていうのかしら。イジメとかそういうのとは違うようだけれど、変な目で見られているそうよ」
虚言癖という程ではないが、何故そんなどうでもいい噓を吐くんだろう? と、首を傾げたくなるような噓を吐くのが習慣化しているという。例えばこういったものだ。
「黄瀬さん、数学の宿題やってきた?」
「やってきた」
「あっ! だったら写させて!」
「噓。実はやってきてない」
「……何それ?」
「噓。やっぱりやってきてる」
というような他愛も無い噓なのだが、それが日常会話に満遍なく鏤められれば誰だってイラッとするだろう。
「そういう子って……たまにいたりするわよね」未百合が眉を寄せて呟く。「決して悪い子じゃなかったりするんだけど……」
血倉の話では、真菰が正否を曖昧にしたままでも平気なのがまた厄介らしく、例えばそれはこんな風だ。天気予報は晴れなのに雨が降ると言ってみたり、車に酔わないのに酔い止めの薬を飲んでみたり、タクアンは沢庵和尚が考案した物ではないと言ってみたり。
つまり、目的が判断し難いから、人間関係にも支障をきたしがちなのである。
その中には例の思い出のカレーの話もあって──
『小学生の頃に食べた幻のカレー。それを食べるとあまりに美味しくて脳に新たな回路が開かれ、人生観が変わるんだ。何か情報を知ってたら教えて。もう一度食べてみたいから』
真菰さんの吐く噓で一番有名なのがそれなんですって、と血倉は締め括った。
(ふん、なーるほど)
と、玄人は自分の顎を摘んで考える。
(何故かは知らないが、やっぱその件には拘りがあるんだな。木を隠すには森って言うが、真菰にとってはその噓が相当重要な事なんだろう。だから誤魔化す訳だ。どうでもいい噓の中に大事な噓をまぶすのは、精神ダメージを軽減する為のシンプルな心理メカニズムだ)
玄人は推察を進める。
(で、突き詰めるとどうなる? 真菰の動機……)
(小さな噓は大きな噓の迷彩で──そして大きな噓はカレーとタイムリープに関する事で)
(その心理は、要するに)
(注目を集めたい……か? 普通に考えればそういう事になる。時間跳躍云々は引き起こされている結果から鑑みれば話が早い。色んな店で騒ぎを連続で起こしている以上、真菰は自分の振る舞いを誰かに向けて発信し続けている事にもなる。要は……その思い出のカレーをご馳走してくれた謎の人とやらに、もう一度会いたいってのが真の動機なんじゃないのか?)
(そう。店で暴れたりすれば警察沙汰だが、食べないだけなら強行策を取りにくい。その上、タイムリープ云々みたいな話をすれば、頭の螺子が外れた子だと思われ、お咎め無しの確率も高まる。大体カレーと時間跳躍なんてミスマッチな要素をくっつける辺りが巧妙だ。料理心理学でいう認知的不協和理論──セオリーに無い物事の組み合わせは人の注目を呼ぶってこった。ちょっと変な子? と思われた方が印象に残る。勿論真菰がその理論を知っているとは思わないが、無意識の内に効果が高いと解っているんだろう)
つまり。
真菰はタイムリープという噓で騒ぎを引き起こす事により、誰かにメッセージを発し続けているのでは──?
という推論を買い物から戻ってきた城之内白奈に話してきかせた玄人だが、意外にもあっさり一笑に付された。
「くふふ、相変わらず君はやるなあ。凄い男さ。だがその前に冷たい物が欲しい。って、水道水っ? まあいいけど。ごくっごくっごくっ……プハーッ。生中もう一杯!」
「はい、水」
「何てスピードだ……」
ごくごく水を飲む白奈。無意味に麗しい美貌が汗で輝いている。
ここまで相当重かったのだろう、床には色んな物が詰め込まれたビニール袋が無造作に置かれていた。中には香辛料の瓶が目白押しで──クミンシードぎっしりのキャニスター、透明袋に入った唐辛子など、とにかく盛り沢山だ。
白奈はコップの水を飲み干すと、玄人の胸にこつんと拳を当てた。
「人の行為から深層にある動機を読み取る……プロファイラーも顔負けだね、ボス。場合によってはそれも必要な事なんだろう。だが今回は素直に信じてあげないか? だって悪い子には見えないよ。わたしは真菰ちゃんを信じてあげたい。それにタイムリープなんて考えただけで心躍るじゃないか。ほんとの事だと思ってた方が楽しいだろう?」
「いや、だからですねぇ。俺は信じるとか楽しいとか、それ以前に」
グシャグシャと髪を搔き毟る玄人。真菰をどうにかしてあげたいのは共通しているが、アプローチの方法が相容れず──料理事件部発起人城之内白奈と一般部員本間玄人。二人とも結構強情なのだった。
とはいえ、そんな白奈の言葉を聞いているとイラッとする反面、微妙に気分がほっこりしてくるのもまた事実で──俺の心って実は汚れてんのかな、なんて考えたりする玄人である。
「さあ真菰ちゃん、今度はわたしがカレーを作ろう。見てくれ、この絢爛たるスパイスを!」
「わ!」
台所に様子を見に来た真菰がぴょこんと飛び跳ねる。白奈の買ってきたスパイスが今まさにテーブルに並べられているところなのだ。
「何これ、凄ぉーい!」
「はっはっはっ! これはクミンに赤唐辛子にナツメグにターメリックに黒胡椒に、その他色々さっ。君の思い出のカレーは絶対にわたしが食べさせてあげるよ!」
わたしは君の事を信じてるからね、と白奈はにっこり笑んで言う。
「……白奈さん」
真菰は唇の端を嚙んだ。
「まだまだスパイスは沢山あるんだ。ジンジャーにカルダモンに──」
「あ、この緑のやつは?」
「粉ジュース」
「何に使うんだ!?」
玄人は思わず突っ込んだ。
「そんなの飲むに決まってるだろう」白奈は不思議そうに言う。
「……やっぱそうっすよね。隠し味とかじゃなくて」
「とりあえず一杯やるといい。マスター、皆の分を作ってくれ」
「マスター? あたし? ……別にいいけど」
白奈にだけは意外と従順な真菰──信じる者は好かれるという事か。ジュースなのに粉だなんて面白いね、なんて言いながら真菰はコップに水と粉末を入れてグリグリ搔き混ぜている。
「さて、その間にわたしはカレーを作らせてもらうかな」
バチンと玄人に目配せすると、白奈は波打つ長髪を艶やかに搔き上げた。……無駄にゴージャスなその仕草を見て、とても微妙な気分になる玄人である。
~真菰~
──あたしは戻ってきた。
テーブルに突っ伏したくなるのを堪え、あたしは鼻をヒクヒクさせる。
目の前の深皿に入っているのは白奈さんの力作だ。大量のスパイスを買い込み、全てをゼロから作ったという鶏もも肉のインドカレー。サラッとした明るい色のカレーソースに大きめの鶏肉がごろごろ浸かっている。香りはぴりっと鮮烈で、その辺のカレーとは全く違うシャープな旋律を奏でていた。
「さあ真菰ちゃん、遠慮せずに食べてくれ!」
「うん……」
「あ、手で食べてもいいんだよ? くふふ、本場インドでは手で食べるのが流儀なんだ。何なら裸で体中にカレーを浴びながら食べてもいい。泥レスならぬカレーレスリングさ!」
……白奈さんのこの残念な台詞を一体何度聞いた事だろう。
四回だ。
あたしは既にこのカレーを食べている。繰り返しこの時間内をループしているのだ。
最初はほんとに期待した。見た目も香りも似ていたし──とうとう思い出のカレーと再会できたんだと気が逸り、ライスにかけるのも忘れてスプーンでひょいと口に放り込んだ。
だが。
(う)
(これは……何というか)
(味が──?)
白奈さんの作ったインドカレー、多彩なスパイスを炒めて香ばしく仕上げているのは良いのだが、微妙に首を傾げたくなる味なのだ。決してまずい訳ではなく、むしろその辺の店の物より余程美味しい。それは確かなのだけれど──どう表現したらいいのだろう? 個性的というか尖っているというか……よく解らない。色んなスパイスを使っているせいで具体的にどこがおかしいとは指摘し難いのだ。とにかく舌の上で響き合うオーケストラのような、あの思い出のカレーとは違う。食べる事が凄く好きそうな未百合さんも釈然としない顔をしているから、きっとあたしと同じ事を感じているのだろう。
そして再び、あれが始まる。
(あ!)
ドクンと強い動悸と共に、あたしの世界は歪み始めるのだ。
目眩と共に世界もくるくる回転する。腕の計測器の時間が巻き戻り始める。タイムリープが発動して、あたしの意識は重なり合う複数の世界を突き抜けて転移する。一体どこへ向かうのか? 勿論、始まりの場所へ向かうのだ。
つまりそれはタイムリープ開始前の時間座標であり、ループのスタート地点であり──
──そして、あたしは戻ってきた。
テーブルに突っ伏したくなるのを堪え、あたしは鼻をヒクヒクさせる。目の前の深皿に入っているのは白奈さんの作ったインドカレーだ。
それは今まさに作ったばかりの熱々ホヤホヤで、スパイシーな香ばしい湯気を立てている。
「さあ真菰ちゃん、遠慮せずに食べてくれ!」
「うん……」
「あ、手で食べてもいいんだよ? くふふ、本場インドでは手で食べるのが流儀なんだ。何なら裸で体中にカレーを浴びながら食べてもいい。泥レスならぬカレーレスリングさ!」
……白奈さんのこの残念な台詞を一体何度耳にした事だろう。
思い返して数えれば、もう七回目だ。
だんだんイヤになってきた。いい加減このループから抜け出したい。
脱出する方法は簡単だ──このカレーを食べなければ良い。あたしのタイムリープは食べなければ発動しないのだから。
でも。
それをする事に躊躇いがある。……また人を傷つけてしまうからだ。
『このカレーはもう未来で何度も食べた。だからもう要らない。ご馳走様!』
いつものこの台詞が何故か今は言えない。
白奈さんを傷つけたくないのだ。
だって……こんなに良い人に会ったのは初めてだから。
言動は少し、いや、相当残念な人だと思うけれど、表面的な虚飾に惑わされずに行為のみを取り出して考えれば真価が解る。
善意の人だ。
それも物凄く一生懸命だ。
一見楽しげだからそうは見えないが、見ず知らずの人を助ける為にこんなに骨を折ってくれる人が他にいるだろうか? 報酬もなければ見返りもないのに形振り構わず全力で取り組む。そうそうできる事じゃない。この暑い中わざわざ料理しに来てくれて、その味が違うと解ればすぐさま他の材料を買いに出かけ、汗だくになって帰ってきて──
第一、白奈さんはあたしの言う事を信じてくれたのだ。
あたしは噓を吐いてない。
あたしは凄く嬉しかったのだ。
そんな白奈さんが作ってくれたカレーを食べずに済ませる訳には絶対いかない!
……まあ、実際は食べているのだけれど。
いや、自分でも解ってはいる。記憶だけのタイムリープなんて話は、客観的に考えれば明らかに法螺話だ。ソースはあたしの頭の中にある経験だけで、客観的証拠が一切存在しないのだから、どうしたって噓に聞こえてしまう。
そう、白奈さんといつもやりあっている玄人さんの反応の方がどう考えても正常なのだ。あたしが噓吐きのかまってちゃんで、大した理由もなく噓の為の噓を吐いているのだと。
玄人さんはポーカーフェイスだが、内心煮えくり返っているに違いない。
もっと厳しく糾弾してきても良さそうなものだが……何故そうしないのか? 女だからといって容赦するタイプには見えないけれど。
いや……ここまで来たら認めよう。あの人は性格的に大人なのだ。無愛想だが、バランスの取れた懐の深い精神を持っている。それ故の振る舞いだろう。
或いは玄人さんは遠慮しているのかもしれない。思えばその可能性はある。勿論あたしにではなく、意見を違える白奈さんにだ。
だってあの人、何故か白奈さんにだけは敬語を使っているし、何だかんだで顔を立ててやっているし……実は密かに好きだったりするのだろうか? え、まさかそうなのか?
確かに白奈さんのルックスは抜群だ。性格も表層部分はともかく、本質は限りない人類愛に満ちている。あたしが男だったら絶対好きに──
……いや、どうだろう。それは正直どうかな?
一緒にいたら相当うるさそう。普通の人では神経が三日と持たない気がする。言い過ぎか? 否、あのノリがずっと続くと考えれば決して過言ではないだろう。だとしたらやはりあの心臓が鉄で出来ていそうな玄人さん以外に相手はいないのではなかろうか。
そんな事を考えながら現実逃避していると、
「真菰ちゃん、早く早く! 冷めないうちに召し上がれ!」
ホクホク顔の白奈さんに急かされてしまった。
ああ、食べないと。
これで八回目。あたしが求めているカレーと違うって事は解っているのだが。
でも、やっぱり……。
7
「さあ真菰ちゃん、遠慮せずに食べてくれ!」
「うん……」
「あ、手で食べてもいいんだよ? くふふ、本場インドでは手で食べるのが流儀なんだ。何なら裸で体中にカレーを浴びながら食べてもいい。泥レスならぬカレーレスリングさ!」
白奈と真菰がそんなやりとりをしてから既に数十秒経過。玄人達は固唾を吞んで状況を見守っていた──
というのも例によって、真菰がスプーンを口に運ぶような格好のまま、ピタリと動きを止めてしまったからだ。瞬き一つしない時間凍結。それは迫真の演技といってもいい。
(白奈がわざわざスパイスを買ってきて作った特製インドカレー)
(食うのか食わないのか……一体どっちなんだっ?)
充満する緊迫感と、かぐわしい芳香。玄人の頰を汗が伝い、未百合も血倉も拳を握って真菰を見つめていた。白奈だけが確信的な笑みを浮かべている。
が、やがて真菰がとうとう限界を迎えたのだった。
「……うううぅっ!」
魂を絞り出すような声をあげ、真菰はばたんとテーブルに突っ伏した。
「真菰ちゃん!」
「大丈夫っ?」
「ハアーッ……ハアーッ……ハアーッ!」
座っていただけだというのに恐ろしく息を切らし、真菰は汗だくだ。やがて最後の力を振り絞るかのように手を伸ばして、
「……オレンジゼリー、現在十五時四分、こちらはレモンゼリー……。たった今タイムリープから帰還……」
ガクッとして玄人は思う。何なんだこいつは、と。
(筋金入りだな。ていうか、もしかして──いや、まさかのまさかで、ひょっとしたらひょっとして、ほんとに本当だったりするんじゃねえだろうな……?)
いや、そんな事は有り得ないと玄人は首を横に振った。真菰は途切れ途切れに語る。
「これはあたしの思い出のカレーじゃなかったけど、美味しいカレーだったよ……。それは確かなんだけど……。ううう、今回は流石に無茶し過ぎたみたい。ループした回数は今までの最多で、何と五十三回……。あ、五十四回だったかな……? とにかくもう限界! 頭がぼうっとしちゃって、完全なタイムトラベル酔いだよ……」
明日は二日酔いで学校行けないかも、と色んな意味で芯の通った女、真菰はいつものようにボイスメモの録音を終えると、ガクンと精根尽き果てるのだった。
「ち、ちょっと! 真菰さんっ?」と血倉。
「イヤァ! 真菰ちゃん、死なないでぇーっ!」と未百合。
「……別に死んじゃいないけど」
テーブルに突っ伏したままボソリと呻く真菰。突っ込む元気があるなら命に別状はない。
それよりも、と玄人は目の端でチラッと白奈を見る。──眉尻を下げ、無念そうに肩を落としていた。流石の白奈も落胆を隠せないらしく、やがてしょんぼり俯いてしまう。
とはいえ、それは当然だろう。客観的に見ても白奈は凄く頑張っていたからだ。スパイスを溢れんばかりに買い込み、炎天下を汗だくになりながら……しかしそれでもウキウキ、美味しい美味しいと喜んでもらうのを想像して、鼻歌交じりにここまで歩いてきたに違いない。真菰に食べてもらうのを心底楽しみにしていたのだ。
(クソッ! 真菰のヤツ、なんで食わねえんだよ)
(このカレー、白奈は悪戦苦闘して作っていたが、相当いい線いってるぞ。香りなんか最高だ。これを嗅いだだけで味が判別できるとしたら……真菰は俺と同等の嗅覚を持っているか、本物のカレー中毒者って事になる)
いや、そんな事はこの際もうどっちでもいい、と思いつつ玄人は徐ろにカレーを食べ、むぐむぐ……旨い、と低い声で呟く。そして真菰の耳元へ顔をぬっと近づけるのだった。
「おい、真菰」
「ヒャッ! 何っ? 脅かさないでよ」
「お前が勝手に驚いただけだ。次は俺に挑戦させろ。せっかく白奈が調達してくれた材料を無駄にするのは、料理人として看過できねえ」
今度は俺の番だ、と玄人は言う。
「こういうのは柄じゃねえんだが、まだるっこしいんだよ。うだうだしてるのはもうやめだ。この料理事件は俺がケリをつけてやる!」
と、珍しくやる気を漲らせて宣言する。それより珍しい事が起きたのは直後だった。
きゃーっ、と横から黄色い声があがり、
「本間君が本気になったわ! 本気モードの本間君はやっぱり良い!」と血倉。
「ほんとねっ。最高! クラクラしちゃう!」と未百合。
「……何それっ?」
そんな妙な反応するなよ、と玄人は汗をかく。盛り上がった気分が早くも元に戻ってしまった。未百合と血倉は顔を赤らめてモジモジしている。
「まあいいや。とにかく後の事は俺が何とかする。この大量のスパイスを無駄にはしない。だから部長、そんなに落ち込まないでください。気を落とさないで」
「へ?」
顔を上げた白奈は意外にもキョトンとしていた。その反応に玄人もキョトンだ。
「気を落とさないで……って、何を言ってるんだボス? どうしてわたしが落ち込まなきゃならない? わたしはただ真菰ちゃんが今のタイムリープで大変な思いをしたらしいから、それを不憫に思っていただけだよ。五十四回だっけ。可哀想になあ。わたしのカレーが正解じゃないと解っても、それだけの回数、時間跳躍を繰り返してくれたんだ。彼女の思い遣りは心から嬉しいよ。本当にありがたい!」
玄人は腰が抜けそうになった。
事ここに至っても白奈の真菰を信じる気持ちには些かの揺らぎもないらしい。この城之内白奈という女、どこまで並外れたお人好しなのか? お人好しを通り越して超残念。いや、それすら通り越して──凄い女である。
(いいさ。白奈が何を信じていようが、それはこいつの勝手だ。こいつはこいつ、俺は俺。好きにしてればいい)
(とはいえ、俺はそんな白奈本人の事は意外と信じていたり……。ふん、矛盾してるかな。だが残念極まりない事に、それが俺の本音だったりするんだ)
何にせよ宣言してしまった以上、この料理事件を解決しない訳にはいかないだろう。
「お前ら、《振幅》という言葉を聞いた事があるか?」
玄人は唐突に言った。
「ん……? 何だって、ボス?」
白奈も聞き覚えがないらしく不思議そうに訊き返す。当然他の者が知るよしも無く。
「もともとこれについて教えてくれたのは俺の……。いや、何でもねえ。それは今回の事件とは無関係だった。とにかく、全てを解決するキーになるのはこの振幅って概念なんだ。その真髄を理解した料理人はあらゆる食材を自在に操り、無限の新料理を創り出す事ができる! と、一部では唱えている者もいる。解決できない料理事件は無い、ともな」
お前らにその一端を見せてやるよ、と玄人は言う。
他の者は完全に呆気に取られ──耳慣れない言葉を聞いたせいか、狐につままれたような表情だ。この我が道を行くハードボイルドな人は何を意味ありげにのたまっているんだろう、と真菰だけが微妙に口を尖らせている。
とはいえ、その真菰は後にこう語る事になる。
──玄人がとった行動はおよそ自分の予想だにしないものだった、と。
~真菰~
厨二病だとたまに言われる事がある。遺憾ながらその指摘は的外れだ。何故ならあたしは中学に入る前……小学生時代から、少し変わった子だと言われ続けてきたからである。
あの頃は結構苦労した。
クラスの子によくからかわれ──陰口を言われる程度なら構わないのだが、直接行動に出られるとやはり困る。特に男子の中には遊び半分にちょっかいを出してくる者もいて……。それは真菰ちゃんが可愛いからだよ、と慰めてくれる女子もいたが、可愛いならそれなりの接し方をする筈だ。あたしの苦手な昆虫図鑑を見開きにして、ずんずん迫ってきたりはしない。
で、その日の放課後も。
昆虫図鑑で責め立てられ、あたしは鬱々としながら小学校から帰宅したのだった。
と、我が家の軒先で──
日陰に佇んでいる不思議な人に遭遇する。それが運命の出会いだった。
うちの一階は電器店だから、よく見知らぬ人が出入りしている。実は殆どが顔見知りなのだけれど、それは完全に初対面の人だった。
女の人だ。顔立ちの整った美人だが、どこか謎めいたオーラを纏っている。凄く年上にも見えれば少女のような雰囲気でもある。
(私服姿だし、大学生だろうか)
あたしが目を瞬いていると、
「ねえ、どうして泣いているの?」
突然その人に優しく言われ、カッと頭に血が上った。──恥ずかしかったのだ。
「……関係ないっ!」
袖で目元を拭い、衝動的に悪態をついたあたしにその人はくすっと微笑んだ。とても不思議な種類の笑みだ。人差し指を立てて、出し抜けに変な事を言う。
「君、お腹が空いているんだよね? 解ってる。そういう時は気分が落ち込んでしまうよね。私が良い物を作ってあげるわ」
一瞬ぽかんとした。何を言っているんだろうと思ったのだ。不思議な女性はここが我が家であるかのように悠々と二階へ進んでいく。
「ち、ちょっと……っ? 何なのあなたっ、警察呼ぶよっ?」
「防衛的にならないで。防衛とはイコール攻撃的な物の見方で、それは心の内側に恐れがある事を意味する。怯えずに心を開き、美味しい物を食べると幸せになれるわ」
ほんとに何なんだろうこの人は……?
理解不能な事を言いながら、その女性は台所で手提げ袋から料理道具を取り出し始める。いつも持ち歩いているのだろうか。強引というか変人というか、とにかく超マイペース人間なのは確かだ。後ろで罵詈雑言を浴びせ続けるあたしを気にも留めず、悠然と料理を続ける。
カレーを作っているんだよ、とその人は言った。
「最近スパイスと生薬の共通点を研究していてね。生薬って解る? 漢方薬なんかで使われる天然の医薬原料の事よ。例えば、鬱金はターメリック、クミンは馬芹、フェンネルは茴香、クローブは丁字とも言い換えられる。医食同源という言葉があるように食べる事は人を癒す事にも繫がる訳だね。要するに……ふふ、私が何を言いたいか解るでしょう?」
「全然っ! 何が何だか、ちんぷんかんぷん!」
声を張り上げても、その人は静かに微笑むばかりだ。多分本当に少し変な人なんだろう。
だが、出来上がったカレーの味は凄まじかったのだ。
「……っ」
こ、これは一体。
何たる味か!
形容し難い前代未聞の味わい。今まで食べた事のあるカレーとはパラダイムが違っていた。圧倒的口福っ! 本当は文句をつけてやる気まんまんだったのに声が出せない。あまりに美味しくて、つい頰張り過ぎたからだ。そんなあたしを謎の女性はにこにこしながら見ている。
「どう? 美味しい?」
澄んだ声で言う。
「どんなにへこんだ時でもね、ご飯を食べれば元気が湧いてくるんだよ」
沢山食べて、また頑張りなさい──。
そんな風に優しく諭す女性と裏腹に、あたしは食べる事しかできず、はぐっはぐっはぐっはぐっはぐっ! ひたすらカレーを貪るのだった。
学校であった嫌な事は根こそぎ頭から吹っ飛び、周囲の風景はいつしかインドに早変わり。巨大なゾウが我が物顔で辺りを闊歩し、マハラジャが腹鼓を打ち、ガネーシャが雲に乗って虚空を飛びまくる──
「……はっ?」
気がつけば。
あたしが居たのは自宅二階のリビングで。
他には誰もいなかった。
そう、あたしがカレーを食べ終わると同時に謎の女性は霞の如く姿を消していたのだ。
(……何だったんだ?)
(あの謎の女の人は本当に誰だったんだろう?)
それ以後、あたしは何かにつけてその女性を捜した。両親もそんな人は知らないと言うのだ。
誰に訊ねても、どこを徘徊しても手がかりは摑めず、それどころか噓吐き呼ばわりされる始末。見知らぬ人が留守宅にあがってカレーを作ってくれるなんて有り得ないと──まあ冷静に考えればそうなのだけれど、あたしは断じて噓なんか吐いていないのだ。
一体どこに消えたのだろう?
もしかしたらもともと九森町の住民ではなかったのかもしれない。どこかに向かう途中でたまたま立ち寄っただけなのかもしれない。
だとしても。
また会いたい──。
あたしはいつもそう思っている。
(会って、あの時言えなかったお礼を言いたい)
そう、今のあたしは巧くカレーを食べる事ができないが、この状態を治してまたあの時みたいなあたしに戻りたいのだ。
あの人の気持ちを受け入れる事ができた、素直な自分に。
そしてあたしは元気でやっていると伝えたい。
その為にも今は頑張らなければ! 玄人さんの言う通りにしながら。
「いいか真菰、この数値を暗記しろ」
「了解っ!」
「CHが四分の一から二分の一、GIが二分の一から四分の一、MUが二分の一、PEが二分の一から四分の一、ALが二分の一から四分の一……」
「えっと……CHが二分の一から二分の一」
「や、初っ端から違ってんだろ。四分の一から二分の一だ。紙に書いて覚えればいい」
「CHが四分の一から二分の一、GIが二分の一から四分の一……」
今あたしが何をやっているかと言うと、時間軸を股に掛けたスパイス配合比率の調整──暗号を用いた最適化プロジェクトだ。リビングのテーブルでメッセージを暗記している。
傍には玄人さん作成のインドカレーが入った深皿があり、異国的な良い香りを発していた。
今回の作戦を発案したのはその玄人さんだ。
「なあ真菰、お前の意識だけが時間遡行……? タイムリープしていると仮定してだな。それを活かすちょっとしたアイデアがあるんだが」
アイデア。
「いや、ちょっとした遊び心っていうか……暗号メッセージのやりとりだ。俺が俺だけに解る暗号を使えば、過去と未来を行き来した経験を蓄積させる事ができる」
「どういう意味?」
訝しむあたしに玄人さんはこう言った。
「インドカレーの本質はスパイスの配合比率だ。インドでは各家庭の好みでスパイスを調合するって前に説明しただろ? 今回の場合は真菰、お前が一番美味しいと感じる比率に調整するのが一番いい。で、それを実現する方法は単純だ。何度も試せばいいんだよ」
「いや、だからいくら繰り返そうが、記憶を持ち越しできるのはあたしだけで……。過去に戻っても、玄人さんはあたしの言葉を信じてくれないでしょ?」
「当然だ」
「……あなたねー……」
「や、だからこそ過去の俺に暗号メッセージを運んでもらいたいんだ。俺にしか解らない暗号を見れば、俺はそれを書いたのが自分だと信じざるを得ない。自分自身に読心術を試みる筈だからだ。自分の行動から自分の真の心を読み取る……料理心理学における自己知覚理論だ。お前は未来の俺からのメッセージだと言い、過去の俺にこれを伝えろ」
玄人さんは遊び半分のアイデアだと言ったけれど、あたしは藁にもすがる気持ちで、そのアルファベットと数字の組み合わせを覚える事にしたのである。
先程暗記するのに必死になっていた、謎の呪文がそうだ。
──CHが四分の一から二分の一、GIが二分の一から四分の一、MUが二分の一……。
正直あたしは紙に書きながらでも覚えるのに四苦八苦する代物なのだが、玄人さんには一瞬で解るらしい。
反省しよう。今まであたしは料理人を侮っていた。まさかここまでの知力を備えた凄まじい存在だったなんて──。
「や、そんなぽうっとした目で見んなよ。調子が狂う。俺は別に暗記が得意な訳じゃない。生物学者が長ったらしい学名を苦も無く覚えているのと同様、料理人も専門分野の事には長けてるってだけの話だ。実体がある物を略してるだけだよ」
要は簡略化だ、と玄人さんは言い、チラシの裏にペンを走らせて暗号の内容を説明する。
「まずは最初のCHだが、これはチリペッパーを意味する。GIはジンジャーで、MUはマスタード、PEはペッパー……。要はスパイスを英語読みした時の先頭二文字だな。カレーのスパイスには系統が大まかに四つあって、『辛み』『芳香』『ガラムマサラ』『着色』とカテゴリー分けされるんだが、この暗号も基本そのルールで分類して並べてある。だから俺にとっては、この並びがカレーのスパイスだと一目瞭然なんだよ」
例えばCA、CL、CI、BAという塊で並んでいるのは、それが同一カテゴリーである『ガラムマサラ』作成の材料だから。上からカルダモン、クローブ、シナモン、ベイリーフの先頭文字だという。
ちなみにガラムマサラとはインドの各家庭に伝わる複合香辛料の事だ。カレー粉と混同されがちだから間違うなよ、と玄人さんにニヤつかれてしまった。別にいいけど。
「二分の一とか四分の一とかの数字は、小さじ……つまり分量の変遷だ。どのスパイスの量をどのように変えたのか? 俺なら頭の中にスパイスの配列を作り、順番に確かめていく。数なら小さい数から、アルファベットなら若い文字から。そんな俺的ルールで作った独自のテーブルを一つずつ順に潰していけば、いずれはスパイスの理想比率に行き当たるだろう」
「な、成程っ! 大体解った! 何となくだけど、微妙に理解できた気がする!」
「簡単だろ」
「……」ちょっとムスッとしてみたり。
ともあれ、このような経緯であたしは暗号メッセージを暗記し、玄人さんの作ったインドカレーを食べた。口に入れるとタイムリープが発動し、未食の過去に帰還するのだが──
あたしはその過去の時間軸で、何も知らない昔の玄人さんに例の暗号を伝えてみたのだ。
するとどうだろう。流石に自分で言っただけの事はある。
「おっ、おいおいおいおい……!」
玄人さんは突然凄い表情でガバッと頭を抱えた。
「マジかよ!? これは俺が独自に作ったスパイス用の料理暗号じゃねえか! まさか本当に時間跳躍者だっていうのか? 黄瀬真菰っ、お前はマジで未来の俺に会いやがったのかっ?」
「……え、えへへ……」
「クソッ! こんなの俺は認めねえっ。断じて認めないが……うーむ、このスパイスの比率で駄目な場合、次の比率はこうなるな。CHは二分の一のままで、GIが四分の一からゼロで、MUが──って、おい真菰。紙とペンを持ってきてこれを覚えろ。善後策として暗号を頭に叩き込んでおけ」
「う、うんっ!」
「まあ何だ。とりあえず俺は次の……新しい比率のカレーを作ってみる」
そして玄人さんは台所に行き、スパイスの配合比率を変えたカレーを作るのだった。それをあたしは食べ、またしてもタイムリープが発動して過去に時間遡行し──
と、こんな風にあたしは理想比率を求めて幾度も時間跳躍を繰り返した。食べては戻り、食べては戻り、でも着実にスパイスの比率変化の履歴は玄人さんの頭に蓄積していって、
やがて。
「そうか。そういう事か……」
と、未来の玄人さんからの暗号メッセージを聞いた玄人さんが静かに頷いた。遂に探り当てたらしい。
「今日はここまでにしておこう。明日もう一度ここに集まって、改めて全員でカレーを食おうじゃねえか。そこで全ての謎を解明してやる。この料理事件はそれでお終いだ!」
さっすがボスー、と白奈さんは軽やかに笑い、未百合さんと血倉さんは掌を合わせて飛び跳ねる。
かくして全ての解決は翌日の日曜へ持ち越しとなった。
8
「こ、これが……」
真菰は震える声で呟いた。小犬のように鼻をヒクヒクと蠢かせ、玄人の顔を見上げる。
「これがあの時のカレーなのっ?」
「ああ、それで絶対に間違いはない。さあ真菰、思いっきり食べろ。食べまくれ!」
日曜正午を少し回って──再び黄瀬家に集結した玄人、白奈、未百合、血倉、真菰。
五人の視線はテーブル上のカレーに注がれていた。
出来たてのそのカレーは一見、昨日の玄人が作った物と変わらないが、今日は最初からご飯にかけてある。白いライスの砂浜にカレーソースの黄色い波がとろとろと打ち寄せ、鶏肉の塊が漂着した流木のように浮かんでいた。エキゾチックな香りはツーンと刺激的で、空腹美少女達の鼻腔を可愛らしく広げさせる。
真菰の鼻のヒクヒクは次第に大きくなっていき、ヒクヒク、ヒクヒクヒクヒクッ。
「この香り……。もう──堪らないよっ!」
そして。
黄瀬真菰はもぎ取るようにスプーンを取ると、かあーっ──裂帛の気合いと共にカレーを口に放り込んだのだった。
「……食べた!」「食べたわっ!」「真菰さん、カレー食べた!」
はぐっはぐっ、はぐはぐはぐはぐはぐはぐ!
白奈と未百合と血倉が呆然と見つめる中、真菰は一心不乱にカレーを口に運ぶ。勿論タイムリープの気配など微塵もなく、彼女はご飯粒を飛ばして叫んだ。
「これだよ、これ! はぐっはぐっはぐっ、熱っ? 確かにこのカレーだよぉぉっ!」
(うむ、結局はそういう事だったんだ)
玄人は静かに頷いた。
(食うか食わないかは最終的に匂いで判別していたんだ。スパイスの香りを確かめていただけで、未来になんか行ってない)
(考えてみれば当然の結論だ。真菰はそれ程カレーに詳しい訳じゃない。正解はこの通りインドカレーだった訳だが、インドカレーだという絶対的な確信があれば色んな店に出没する必要はないからな。この配合比率のスパイスの香りだけが記憶に染み付いていたんだろう。匂いが過去の記憶を呼び起こす心理現象『プルースト効果』だ。ていうか、あれだよな。しょっちゅう鼻ヒクヒクしてたしな……)
無論、色んな店で騒ぎを起こす狙いもあったんだろうが、と玄人は思う。
「何だかよく解らないけど……。玄人君、わたし達も食べていいの?」
「おう、遠慮せずに食べろ」
禁じられた事でもするように怖々スプーンを持つ未百合。はもっとそれを口に入れ、
「──きゅああっ!?」
瞬間、釣り上げたばかりの魚のようにピクンとその身を跳ねさせた。黒目がちの瞳を大きく見開き、それがやがてじわじわと潤み出す。
「あ、ああぁ」スプーンを持つ手が小刻みに震えていた。「何て……何て凄い味なのっ! 美味しいぃ。これ、あまりにも美味し過ぎるわ! ねえ玄人君、わたし、泣いていい?」
「何で!? ……駄目だ」
「も、もぉ、玄人君の意地悪っ。せっかく嬉し泣きならぬ、美味し泣きをしたかったのに」
「や、美味しいなら笑ってくれよ」
どうせなら笑顔が見たいじゃないか。すると未百合は涙目から一転、それもそうね、と呟いてうっとりと目を細め、大輪の花のように表情を輝かせるのだった。
「ねっ。わたしは玄人君の言う事なら何でもきく女の子よ。ちゃんと解ってくれてるといいんだけど。それはそうとしてこのカレー、とにかく凄いわ! どう表現したらいいんだろう。複雑にして鮮烈、それでいてまろやかな味。まるで万華鏡よ! ぴりっとした刺激が色んな方向から攻めてくるんだけど、それが最終的にはふんわり溶け合うの。嚥下した時は柔らかく一つになっている。お肉もたっぷり! プルプルしてて凄くジューシィだし、最高だわっ!」
「た、確かに……。しかしボス、これはどういう事なんだ?」
未百合と同様にカレーを食べた白奈が訝しげな顔をする。
「ベースは昨日わたしが作ったカレーに似ている……。なのにどうだ。全体としてはまるで違う! 総合的な味の完成度が別物だ。一体どんな魔法を使えばこんな事が──?」
「ていうか、部長。そこまで大げさに目を剝いて驚かんでも。単に何度も繰り返して、ベストの比率を探り当てただけですよ」
昨日、試行錯誤した成果である。
玄人は真菰のタイムリープごっこに暗号メッセージのやりとりという形で付き合い、この比率を探り当てたのだった。
「だが、比率だけでこんなに変わるものか?」白奈が訝しげに言う。
すると玄人はニヤッと笑んで答えた。
振幅、と。
「その概念を念頭に置いて、何度も繰り返しましたからね。闇雲にやってもこの味にはならないでしょう。言うなれば、これは振幅の大きいカレーソースなんですが」
不意に血倉がバッと挙手した。
「それ、昨日も言っていたわよね本間君。わたし、家に帰ってから調べたのだけれど、意味が解らなかったのよ。一体どういう概念なの?」
「プロのテイスターが使う専門用語だから、一般的には知られちゃいないだろう。手っ取り早く説明すると、調和の度合いだ。人間が感じる味は大まかに五種類──甘味、塩味、苦味、酸味、旨味。その五つを組み合わせるバランスで味というのは成り立っているんだが」
玄人は言う。
「多くの構成要素を用いて料理する場合、それが調和しているかどうかが、最終的な味の評価を大きく左右する。刺激的な味を作るのは難しくねえが、調和を作り出すのは簡単じゃないんだよ。そして要素が増えれば増える程、調和の難度は高くなる。料理心理学でいうゲシュタルト──多くの要素を一つのまとまりとしてバランス良く調和させる事が即ち、完成度なんだ。プロのテイスターはその味を振幅が高いと表現するんだよ」
「え、えっと……つまり?」
「つまりだな。インドカレーの本質はスパイスを混ぜ合わせる事だって言ったろ? だが単に沢山のスパイスを使えば成し遂げられるかって言ったらそういうもんでもねえ。多くの要素を扱いつつ、調和するようにバランスを整える。甘味、塩味、苦味、酸味、旨味という五つの視座に立ち、振幅の高い調和のハーモニーを奏でるよう、配合比率を探っていくのが肝要って事だ。……それもこれも部長が大量にスパイスを買い込んできたからこそ、試す気になった訳ですがね」
白奈は意表を突かれたように瞬きした。
「ボス……」
「ふん、ありがとさんでした」
そう──これが玄人の探り当てた理想比率。
昨日真菰のタイムリープごっこに付き合ってやったのはこれを探るためだ。らしくもない小芝居をしながら。
チリペッパー、ジンジャー、マスタード、ペッパー、オールスパイス、コリアンダー、クミン、フェンネル、スターアニス、カルダモン、クローブ、シナモン、ベイリーフ。
その他諸々のスパイスを混ぜ合わせてカレーソースを作る。真菰に違うと言われたら比率を変えてまた作り、それを繰り返す事で好みのカレーソースを突き止める。
玄人がやったのは基本的にそういったシンプルな事である。
暗号メッセージを暗記させたのは真菰をその気にさせる為の方便だった。何度も試さなければならない以上、ある程度は協力の姿勢が必要だったからだ。
「結局、真菰さんはどうしてタイムリープなんて噓を吐いていたのかしら……」
血倉がボソッと呟いた。
直後失言だと気づいたのだろう、ハッと口を押さえ、ごめんなさいっと真菰を気遣う。
だが聞こえてしまったらしい。真菰はカレーを口いっぱいに頰張ったまま、ジロッと血倉を見た。ここでまた一戦始まってしまうのか?
否、それを玄人が手で制した。
「真菰は噓を吐いちゃいない」
「……エッ?」
ここにきて更に意外な台詞だった。
「噓吐きはもう一人の真菰の方だ。ここにいる真菰はそいつの言う事を真に受けていただけでだな。別に噓を吐いてた訳じゃねえんだよ。正直で良いヤツだ」
「も、もう一人の真菰さん?」
「一体何を言っているの?」
玄人の発言内容に全員ポカーン。当の真菰までもが啞然としている。
この男、普段はあれ程リアリストなのに突然何を言うのだろう? まさかカレーの食べ過ぎで頭が……否、そんなナイーブな奴ではない。玄人は確信ありげに語る。
「イマジナリーフレンドって言葉がある。それは自分であって自分じゃない、所謂、想像上の友達というもので──要はエア友達なんだが、実は欧米じゃあ割とメジャーな概念で、結構な割合の子供がこれを見るんだよ。で、成長するとその事自体を忘れちまうんだが」
これは料理心理学ではなく、主に発達心理学で扱われる用語である。
「そのイマジナリーフレンドって概念を踏まえて考えれば事は簡単だ。なあ真菰、お前は手首のメカで、よく誰か宛てにボイスメモを録ってたけどよ。あー、何だっけ……オレンジゼリーだったか? あれは妄想のごっこ遊びじゃねえ。頭の中のもう一人のお前に送るメッセージだったんだ。そうだよな?」
全員呆然。
語りの内容があまりに意外過ぎたのか、あの白奈が茶化す余裕もなく、
「な、何とまあ……! そうだったのか、真菰ちゃん?」
戦々恐々とした様子で訊くが、真菰は絶句したままで何も答えられない。
(そう、噓は全て真菰のイマジナリーフレンドが言った事だ)
(だから真菰は噓吐きじゃない──)
(って……んな訳ねえだろ!)
心の中でノリツッコミする玄人。とても器用だ。
(こんなのは今でっちあげた口八丁。もっともらしく聞こえる適当なエクスキューズだ。だがそんな風にでも言っておくしかないだろ。この場を無難に収めるためには……)
玄人はこめかみに手を当てる。白奈も未百合も血倉もこぞって今の言葉を信じてしまった風なのだ。
「真菰ちゃんは噓吐きじゃなかったのね!」
「わたし、信じてたわ!」
嬉しそうに微笑んでいる彼女達。何故こんな荒唐無稽な話を真に受けるのか? それは勿論、心の優しい人揃いだからで、結果的にその方が良いと薄々解っているからだ。
或いは騙されたふりをしてあげているのか……その真偽は窺い知れない。
(ちっ、こうやって真菰に逃げ道を与えてやるのは料理人としてのサービスだからな)
(俺達は真菰を追い詰めたり、傷つけたりしたい訳じゃない。せっかく美味しい物を作ったんだ。料理は食べた人を幸せにする為の物であって、それ以上でも以下でもねえ。こんなところで得意げに噓を暴けば、カレーがまずくなるだけだ)
仏頂面で腕組みしながらそんな事を考えている玄人──何だかんだで性格が良い。これが美少女ならツンデレ呼ばわりされている。
「それより真菰、お前の会いたかった人に会わせてやるよ」
「え?」真菰は目を瞠った。「何の話?」
「三年前、小学生時分のお前にカレーを食わせた謎の人だよ。お前、ほんとはそいつに会うのが目的だったんだろ? だから色々と巷を騒がせていたんだろうが、もう七面倒臭い事をする必要はねえ……。いや、つべこべ言わなくていい。当事者から聞いたんだ。こっちには全部解ってる。料理のアフターサービスって事で特別に対面させてやるよ」
(そう、根本的な解決は噓を暴く事じゃなく、こっちだからな──)
先生、来てください! と玄人は携帯で合図をする。
やがて二階のリビングに姿を現した人物を見て、真菰は度肝を抜かれたらしい。座った格好のままで椅子から飛び上がった。
「久しぶり」
その人物はさらりと言った。
「元気でやっていたみたいだね。良かったわ」
真菰は目を見開いて口をぱくぱく。捜していた人物にようやく巡り会えたのだ。
謎めいた微笑を浮かべているのは都会的なスーツを颯爽と着こなした女だ。優しく穏やかな目をした美人で、若干ウェーブした髪がどこか捉えどころの無い雰囲気によく合っている。
年齢不肖だ。十代後半にも、二十代前半にも、或いは三十代にも見える。
「な、何で……?」
玄人を振り返り、真菰はようやくそれだけ言う。
「古い知り合いでな。この人は霧ヶ窪純。普段はNYで官能分析の研究をしている。そして俺に料理心理学を教えてくれた先生でもあるんだ」
「霧ヶ窪……? NYで、官能……?」
目を白黒させている真菰に、その女──霧ヶ窪は柔らかく笑んで言う。
「官能っていうのは人間の備えた感覚の事よ。味覚、視覚、聴覚、嗅覚、触覚。つまり精神物理学で扱われるインターフェイス全般だよね。食べ物と感覚についてが私の研究テーマなんだけれど、その辺のしがらみで学会に招待されたものだから、久しぶりに来日したのよ。そうしたら、びっくり。昔の教え子から連絡が来るじゃない? とても嬉しいサプライズだったわ」
「……」
玄人はボリボリ頭を搔いて言った。
「昨日、カレースパイスの理想比率を散々探ったせいで、魔が差したっていうか……。官能分析、味覚、振幅、その他もろもろを教えてくれた先生に確認の電話をしてみたんだ。そしたらどうだ。あれよあれよと言う間にオフィスから携帯に転送されて、何と、今日本に滞在中だって言うじゃねえか。俺ともあろう者が床に尻餅ついちまったよ」
玄人が電話で事情を話すと、霧ヶ窪純は喜んで黄瀬家に同行すると申し出た。
合流した霧ヶ窪は真菰がカレーを食べ終わるまで外で待っていると提案し──生来の演出好きなのだ。こうして今の結果に繫がったのである。
「まさか、玄人さんの先生だったなんて……。そうだったんだあ!」
運命の悪戯ってあるんだね、これってホントに奇跡だよ! と真菰は心底感動したように言う。勇気を振り絞るように深呼吸し、霧ヶ窪へ走った。
二人は間近で目を合わせる。
真菰は瞳を潤ませて、
「ありがとうっ!」
と、しっかり言った。
「あの時は美味しい物を食べさせてくれて、本当にどうもありがとうっ!」
霧ヶ窪は微笑むと真菰を静かに抱き締めた。彼女の背中を優しく叩き、
「どういたしまして」
「……ぐっ……ひぐっ……」
緊張の糸が解けたのか、やがて肩を震わせる真菰──後に彼女はこう語る。
──最初は軽い噓を吐いただけだった。誰も自分の言う事を信じてくれないから、ちょっとした腹いせに。その結果は順当だ。噓吐きと言われ、それに抗する為にまた噓を吐き、ネガティブなスパイラルになる。いつしかそれが癖になってしまい、噓の上に重ねた噓を自分でも真実だと思い込むようになって、本当にカレーが食べられなくなってしまったのだ、と。
そう、全ては罪悪感混じりの思い込みによる物だったのだ──
タイムリープ云々はあくまでも真菰の主観内での出来事であり、つまりは妄想。ここまでの大ごとになったのは真菰が執拗に行動を繰り返したからである。度を超した執着、要は強迫観念となっていたのだ。
霧ヶ窪曰く──行動を繰り返せば根幹にある動機は強められる。心理学の基礎知識だ。タイムリープというのは同じ行為をぐるぐる繰り返し、どこにも行けないという事だから、真菰の心的状態をある意味比喩的に表していたのかもしれない、と。
やがて真菰は泣き止んで笑った。
「……玄人さんも皆さんも今日は本当にありがとう。凄いカレーを食べさせてもらって、おまけに会いたかった人にも会えて……あたし、今最高に嬉しいよ。最高に幸せだよっ!」
ほんとにほんとに、ありがとうございました!
そう言って真菰は深々とお辞儀するのだった。
「くふふ、万事解決だね。これで何も問題はない!」白奈がこくんと頷く。
「今後はどんなカレーでも美味しく食べられるでしょうね」感慨深い口調の血倉。
「良かったわ。ほんとに良かったぁ……」何故か涙ぐんでいる未百合。
これ以後、黄瀬真菰が噓を吐く事は二度となかった──
……という事はなく、人間だからたまには噓を吐く事もあるだろう──しかし、それを拗らせて思い悩む事だけは確かになくなって、かくして事件は解決したのだ。
(そう、この料理事件は解決した)
(文句無しだ。奇跡の巡り会い付きの円満解決。……表面的にはな)
玄人は和気藹々とはしゃぐ皆を傍目に、チラリと霧ヶ窪を見る。彼女はいつもの不思議な微笑を浮かべており、内面は濃霧に包まれているように窺い知れない。
(先生は決して悪い人じゃねえ。俺の恩人だし、優しい人ではあるんだが)
(微妙に天然なんだよな……。心理学者だから仕方ないのかもしれねえが、なまじ人の心を読めるからだろう。どうも意図せず、操作する癖がある。今回の件もどこからどこまでが計算だったのか)
霧ヶ窪は、この解決シーンにもっていくところまでを計算していたという。
学会で来日した霧ヶ窪は、ふとした事からカレー屋で騒ぎを起こす少女の噂を耳にし、玄人なら解決できるだろうと考えた。二人が洋食店カシミアで遭遇するよう、多忙を縫ってさりげなく誘導していたのだ……。
(真菰の奴も言ってたしな。郵便受けに洋食店カシミアの割引券が入ってたってよ)
玄人は真菰の発言を思い出す。
──今日この店に来たのは割引券が家の郵便受けに入っていたからだよ。うちは割引券が配られる地区じゃなかったけど、何故か入ってたの。
(あの時点で気づいていれば……って、いくら俺でもそりゃ無理だ。だが気になる事がある。わざわざ俺に解決させた理由は何だ?)
(また渡米前の、あの話を蒸し返すつもりじゃあ──)
(いや……そもそも三年前のあの時、先生が呆気なく引き下がったのが今思えば妙なんだ。あの時、俺はまだ中坊だったから先生も無理だと踏んでたのかもしれねえ。だから時限爆弾式に再び接触する機会のタネを仕込んだ。真菰の件はそんな風に撒き散らした布石の一つで──)
(って、おいおい)
玄人は息を吐いた。
深読みし過ぎだろう。いくら俺の先生でもそこまで先を想定するのは不可能だ、と玄人が自らに突っ込みを入れた時、不意に霧ヶ窪が口を開いた。
「それにしても相変わらずだね、玄人は。抜群の腕とセンスをしている。素直に凄いわ」
「あ、そうすか? 先生に褒められると何かこそばゆいな……」
「やはり欲しい」
霧ヶ窪は迷いの無い口調でこう言った。
玄人、NYに来て。
「悪いようにしないわ。貴方はもっと然るべきところで大きく羽ばたく人間よ。それだけの素質と度量がある。私と一緒にNYに行きましょう」
(ほうら、やっぱり──)
9
長かった一日。西の空に日が沈み、辺りに夜の帳が下りる。明日の月曜に備え、九森町が微妙にメランコリックな眠りにつく頃──
しかし、そんな空気を読まずに小競り合いをしている男女がいた。電気街の外れ、取り壊し寸前の廃ビルの屋上で、ぎゃあぎゃあ騒いでいる。
「ったく、何考えてんですかっ? あの人は俺の先生なんですよ? その辺の料理人が束になっても敵わない、卓越した味覚を持っていてですね」
「そんなの問題じゃないんだよ、ボス。大事なのはもっと別の事さ。大体わたしだって食通、城之内正太郎の曾孫だぞ? 味覚ならご先祖様のエンブレム付きだ!」
やりあっているのは本間玄人と城之内白奈だった。
最初は路上で口論していたのだが──一見モデル風の、しかし何故か白衣を着た美少女と、妙に動じない無愛想男子が一歩も譲らない様子は誰がどう見ても興味深い。
痴話喧嘩? 変人対決? と、見物されているのに気づいた玄人が場所の変更を促すと、白奈は玄人を引っ張ってズカズカとこんな所へ。……そして今の今まで言い争っているのである。
発端は霧ヶ窪純の、例の誘いだった。
「玄人、私と一緒にNYへ来て。お願い」
突然のその勧誘に全員騒然。
霧ヶ窪曰く、今回の来日は学会の出席の他に玄人のスカウトも兼ねていた。研究が忙しくなり、テイスターとしての活動も多岐にわたり、支えてくれる有能な助手が必要なのだという。
「あ、あああ……」
未百合の顔色は離婚を告げられた妻のように真っ青だ。血倉は吸血鬼も顔負けの凄い目つきで霧ヶ窪を睨み付け、真菰は何が何だか解らないという風に狼狽している。
しかし白奈だけが沈着冷静だった。というより、むしろ脳天気な口調で、
「くふふ、NYってねえ。先生だか師匠だか知らないが、いくら何でも突然過ぎるだろう。ボスにだって都合がある。現実問題、彼の英語の成績は思わしくなく……。あ、夏休みは補習もあるんじゃなかったか? NYに行く気なんかサラサラないだろう?」
「英語くらい、死ぬ気で覚えれば何とかなる」
「……ボス?」
「恩師にここまで言われたんだ。俺はこれでも義理堅い男だぞ」
「う、うむ? 義理堅いのは知っているが……」
意外にも霧ヶ窪の誘いを断ろうとしない玄人に白奈は眉を寄せてたじろぐ。こうなるのが解っていたという風に未百合が首を横に振った。いきなり猛然とダッシュする。
「ダメよっ! 行かないで、玄人君!」
既に半泣きなのは、玄人と霧ヶ窪の関係を知っている幼馴染ならではの反応だ。必死に抱きつこうと両手を伸ばすが、しかし、あまりに気持ちが先走り過ぎたのだろう。ツルッと足を滑らせて前のめりにバランスを崩す。
「キャアアアッ?」
「……おごぉ!」
玄人の下腹部に顔面から突っ込む未百合だった。
鬼気迫る体勢──そして玄人はそれ以上に鬼気迫る表情だが、未百合は両足にしがみついて離さない。まさに執念の成せる業だ。一方の玄人は言語を絶する痛みで動けないが、そこに後ろから血倉も抱きついてきて、
「本間君……っ!」
胸に手を回して華奢な体を密着させる。
「冗談でしょう? 外国になんか行ったりしないわよね……?」
「血倉、俺が冗談言うタイプに見えるか?」
「たまに言ってるじゃない……!」
玄人の胸に爪を立てる血倉。その体は微かに震え──彼女もまた切羽詰まっている。
だが何故こんな展開に? 美味しいカレーを作って真菰を救い、見事に料理事件を解決したハッピーエンドから急転直下だ。霧ヶ窪は静かな迫力を湛えて笑んでいる。
「くふ。くふふふ」
不意に白奈が笑った。
「面白い! 実に面白いよこのやり口! 行き当たりばったりのようでいて、意外とそうでもないようで……わたしの直感は非常に巧妙だと告げている。ねえ霧ヶ窪さん。貴女、実は狙っていたんじゃないのか?」
「ウフフフ。もし、そうだとしたら?」
「だとしたら、わたしがこれから言わんとする事も解る筈だ」
「解るわよ、城之内家のお嬢さん。あなたは今からこんな風に言う……」人差し指を立てて、
勝負を申し込みたい!
と、言ったタイミングは二人同時だった。うぐっ? と僅かに狼狽える白奈。思考は完全に読まれていたらしい──。が、そこで萎縮する程、物分かりの良い女ではないのだった。
「……今、城之内家のお嬢さんって言ったけど」白奈はぎこちなく髪を搔き上げ、「わたしの事を知ってるのかい?」
「どうかしら」
霧ヶ窪はさりげなく話を逸らした。
「ねえ、そんな事より勝負を申し込むんでしょう? どんな内容なのか教えて頂戴」
「状況が状況だから内容は決まっているさ。……勝負はカレーだっ! ボスのこのカレーは師匠である貴女の教えを基に作った物らしい。ならばわたしはこれを超える味のカレーを作ってみせようじゃないか! それができたらボスを連れていくのは諦めてくれ。彼は料理事件部のメンバーで、わたしの大事な相棒なんだ。連れてはいかせないっ!」
と、口角泡を飛ばさんばかりの勢いで宣言するのだった。それに対して霧ヶ窪は、
「いいわよ」
意外にあっさりしたものである。
「私は料理人というよりは心理学者であり、官能分析者であり、味覚鑑定人でありたいと思っているからね。実のところ忙しくて最近はろくに包丁も握れていないし……料理の腕は玄人の方がずっと上だわ。オールライト、良いでしょう。玄人の作ったこのカレーより美味しい物を作れたら、それは即ち私に勝てるという事よ。今回はおとなしく引っ込みましょう」
「よし! 約束だぞっ」
「勝負成立ね」
と、とんとん拍子に……さながら最初からシナリオがあったかのようにお膳立てが整っていき、突然のカレー勝負が行われる事になったのだ。
場所は風乃森学園第一調理室、決行は二日後──霧ヶ窪が日本に滞在している期間がその翌日までなのである。
とはいえ、玄人は勝負の取り消しを白奈に要求し──自分の師匠に勝てる筈がないと踏んでいるのだ──それが気にくわない白奈は白奈で強情に突っぱね続けている。
「絶対勝負はする! わたしは決めたんだっ!」
「ああもう、墓穴を掘るってのはまさしく部長の事を言うんですよ。そもそもこんなの、しなくてもいい勝負じゃないですか。まんまと先生の思惑通りに動かされて!」
「口から飛び出しちゃったものは仕方ないだろうっ? 今回の料理事件、あまりにも君の独壇場だったから、わたしも見せ場が欲しくなったんだ。ていうか、今更引っ込みつかないし!」
とまあ、そんな訳で二人は長らく無益な口論を重ねていたのである。
「……そもそもだね」
ハアハアと息を切らして白奈は言う。
「あの女と君の間に何があった? あの霧ヶ窪というのはどういう人なんだ?」
「だから先生が自分で言ってたでしょうが。心理学者であり、テイスターだって」
「……」
夜の屋上に沈黙が落ちる。口を閉ざし、少し恨みがましげな瞳でこちらを見ている白奈に、玄人はクソッと呻いて頭を搔いた。こういうのをスルーするのは性に合わない。
「……今から数年前、九森町で大規模な料理事件がありましてね。俺はそれに巻き込まれたんですよ。広域組織絡みっていうか……本間組って聞いた事ないですか?」
「何?」ギョッと目を瞠る白奈。「それって──」
「大人の事情で詳しくは話せませんが、俺が一人暮らししてるのもその関係です。だから当時は微妙に荒れてたんですが、そんな時っすね。霧ヶ窪先生と出会ったのは」
前触れもなく突然訪ねてきた。そして俺を助けてくれたのだ、と玄人は言う。
「何でも俺の親父の幼馴染だそうで、当時は九森大学の心理学研究室で助手をしていたらしい。ヘッドハンティングされて、今じゃかなりの大物になっちまいましたが──穏やかで優しい人ですよ。俺の知識の大半はあの人が教えてくれたもので……微妙に操作主義的なところはありますが、天然です。とにかく俺にとっては恩人なんですよ。先生が困ってるなら俺は力になりたいし、助けてやりたいと思ってる」
「……そうか」
成程な、と白奈は息を吐いて言う。
「そういう事なら得心だ。要は更生させてくれた訳だな。ていうか、んん? 当時大学の助手って事は──あの人は一体何歳なんだ?」
「さあ。面と向かって訊いた事はないですが。なかなか訊けないでしょ、女の人に」
「それもそうだな」白奈はにこっと笑って、「とはいえ、あれだね。君の資質の一端──どんな事にも動じない精神力と、それでいて義理堅い理由が解った気がする。うむ、前々からその喋り口調、ハードボイルドというよりは任俠っぽいと思ってたんだ」
「は?」
何か勘違いしてんじゃねえのかこいつ、と玄人は思う。いつも敬語で喋ってるだろ、と。
「さておき」白奈は真剣な顔になった。「正直なところを訊かせてくれないか? 勿論、義理堅いのは良い事だと思うし、それは君の素敵な美点だ。でもね、わたしは君がどうしたいのかを聞きたい。他ならぬ君自身の意思というやつさ。なあボス、君は本当にNYに行きたいのかい? それとも──」
「行きたい訳ないっしょ」
と、玄人は言下に答えた。
「……そ、そんなあっさり」
白奈は目をぱちくり。気まずそうに頰に手を当てて、「や、ここはもっと溜めに溜めて、盛り上げてから答えるシーンではなかろうか……」
「あ? ベタなTVドラマじゃあるまいし、馬鹿言ってんじゃないですよ部長。俺はあくまでも先生を助けたいだけで、外国に行きたい訳じゃありません。未百合を残して行く訳にはいかないし、血倉だって……。いや、何を言ってるんだ俺は。とにかく、俺はこの町が好きなのっ。理由はそれだけあれば充分でしょう」
らしくない事を色々言ってしまい、眉間に皺を寄せている玄人と、若干キョトンとしている白奈。二人はしばらく無言で顔を見合わせ──
「ぷっ!」
と、同時に吹き出したのだった。
「くぷぷ、くーっぷぷぷぷっ!」
変わった笑い方をしている白奈。器用な人だ。
「面白い──。ああ、面白い! やはり君とやりあうのは楽しいな。この楽しい時間を終わりにする訳には絶対いかないぞ。NY行きなんて断じて許さない。カレー勝負は必ず勝ってみせるよ! もっとも、勝つ方法は現状見当もつかない訳だが……とにかく何とかするさ。確信をもって、わたしはそれを断言しよう!」
「はあああ? 何ですかそりゃあ」
論理性を欠く盛り上がりに眉を顰める玄人と、更にメラメラ燃え上がっていく白奈──背後で不可視のプロミネンスが高々と吹き上がる。何はともあれ、意欲だけは満々だ。こうなってしまった以上、白奈に全てを預けるしかなさそうである。
「わたしはやると言ったら必ずやる女だ。ボス、後の事は任せてくれ!」
「や、その言い方だと何か俺がお払い箱みたいな……」
でも程々に信じてますよ、と玄人はさりげなく言う。そして二人はニヤッと笑み、拳と拳を付き合わせるのだった。
10
城之内白奈と霧ヶ窪純の手合わせ。それは後にカレーケミストリーと呼ばれる世紀の一戦であり(もっとも、そう呼んでいるのは白奈だけだが)──世にも奇想天外な、それでいて論理的発想にのっとった料理の披露に繫がるのだが、流石の白奈も今回ばかりはいつものように飄々と勝負に挑む訳にはいかなかった。
翌日月曜、彼女は学校を休み──案じた玄人が電話をかけると、試作中だから邪魔しないでくれええええええと相当やばい調子で喚き立てた──また、その翌日も登校しないという異例の事態。対決は今日の放課後だというのにまさかまさか?
──そう、怖いもの知らずの城之内白奈も今回ばかりは相手が悪い。プレッシャーで体調を崩してしまったのでは……?
と、まことしやかに今回の事を知る一部の者は囁いたが、しかし、そこは自称・嵐を呼ぶヒロイン城之内白奈。やがて終業のチャイムが鳴り響く頃、彼女はヨロヨロと足を引き摺り、満身創痍の体で登校してきたのだ。
「く、くふふふ……」
目だけを妖しくギラつかせ、ばかでかい保温鍋を背負っている。纏った白衣はボロボロで、まるで大型トラックにでも轢かれた後のようだ。一体どれ程の努力をすればこんな風に……?

否、実際はテンパりすぎて転んだり、階段から落ちたりしたのが理由なのだが──
ともあれ。
時刻は夜八時。
止める者も邪魔する者もいない、夜の風乃森学園第一調理室で。
「目に物見せてやろう! 霧ヶ窪純さん、いざ尋常に勝負だっ!」
「望むところよ」
城之内白奈VS霧ヶ窪純の対決の火蓋がここに切って落とされたのである!
「ウフフフ、とても楽しみ。早く食べさせて頂戴」
調理台と食事用のテーブルを兼ねる長い卓につき、霧ヶ窪純は涼やかに笑んでいる。
彼女の対面に座っているのは立会人である葉月未百合と血倉知里だ。両者共に顔は青ざめ、体は微かに震えているけれど、それでも白奈が勝ってくれると思っているらしく、燐光じみた期待の色が瞳の奥で煌めいていた。
彼女達と白奈と玄人以外ここには誰もおらず──そう、静まり返った夜の調理室は緊迫の勝負をするには打ってつけなのだ。
「えーと、皿はどこだどこだー?」
「って、部長。手つきが恐ろしく危なっかしいな。丸二日寝てないんでしょう? 盛りつけくらい俺が手伝いますよ」
(ったく、こんなにフラフラになって……。白奈の奴、どんなカレーを作りやがったんだ?)
皿を片手に、玄人が恐る恐るカレーの入った巨大鍋の蓋をぱかりと開けると──
「な……っ!」
思わず瞠目。
「なんじゃこりゃあああああ!?」
「ほっ! これがわたしの閃いた究極カレー! 理想比率の──『寝かせたカレー』さ!」
玄人はしばらく絶句していた。
「って、いやいやいや!」首をぶんぶん横に振り、「寝かせたって……これ、俺が作ったカレーじゃねえかよ!」
「そうだけど?」
ぱっと見、同じなのである。
ケロリとした顔の白奈曰く──
あの日、玄人が作った理想比率のインドカレー。それより美味しいとはどういう事なのか、トイレにこもって延々と考えた。便座の上で逆立ちしたりしつつ──美味しさとは本来多様な空間的時間的広がりを持ったものであり、そこにおいて優劣とは何ぞや……? 頭に血が上って失神する寸前、稲妻のような閃きを得たという。
もともと玄人のカレーは自分が大量購入したスパイスを用いた物で、和歌に例えれば返歌だ。ならば自分はそのカレーの味を更にアップさせればいい。そう、さながら返歌の返歌の如く、二人の信頼の力が相互作用して美味しさを高め合う──これぞカレーケミストリー也!
「くふふ、寝かせたカレーの美味しさが増すのは周知の事実だからね! 試行錯誤を重ね、絶妙の寝かせ具合にしてある。今この瞬間に食べるのが、このカレーにとってベストなのさっ」
「って、アホかあああー!?」
凄い勢いで玄人は突っ込んだ。
「何が閃きだっ。考えが安易過ぎるんですよ部長! 寝かせたカレーが旨いのは、味が具に染み込んで馴染むからであって……や、確かに日本風カレーや洋風カレーには当てはまるかもしれませんがっ!」
インドカレーの場合その限りではない。というのも、肝である香辛料の刺激的な香りが飛んでしまうからだ。インドカレーの本質がスパイスにある以上、その醍醐味である芳香をスポイルしてしまうのは愚の骨頂というもので。
「あれ? もしかしてわたし……やらかしちゃった?」
「やらかした……。部長はとんでもない事をやらかしちゃいました!」
それも俺の進退をかけて──と、鬼の貌で泣いている玄人。気持ちはよく解る。
「あ、あらまあ……。食べるまでもなく勝負がついてしまったみたいだね。残念だわ。城之内家の跡取り娘だけに内心期待していたんだけれど」
と、霧ヶ窪が肩を竦めたその時である。不意に廊下から誰かが駆けてくる音がして、調理室の扉がシャッと開け放たれた。
姿を現したのは、いつも一緒のあの二人。
「勝ち誇るのはまだ早いぞっ!」
一人は各務麻戯香だった。オッドアイが燦然と輝いている。
「勝負は食べてみるまで解らないですっ!」
と、横にいる雪花菜ユキが藪睨みの顔で言う。
見知らぬ二人の唐突な出現に霧ヶ窪は何が起こったのかと戸惑い顔だ。間髪入れず、各務と雪花菜の背後から次々と闖入者が現れる。
怒濤の如く。
「ホピ族の予言によればっ!」
と、言ったのは新宿貴志だ。占い研究会の男子生徒である。
「立派な人は助けた方がいい! 城之内さんはいつも一生懸命皆を助けている。誰がどう見ても立派な人だ! ホピ族じゃなくてもそれくらい解るぞ。だからぼく達は応援に来た!」
「し、白奈さんの料理が美味しくない筈ありませんっ……ビクビク! この人はいつだって気持ちのこもった、素敵な物を食べさせてくれるんですっ……ビクビクビクッ!」
と、血倉のクラスメイト──気弱な円藤佐耶が勇気を振り絞って叫ぶ。
「ビューティフル。彼女は不可能を可能にする。このカレーにはきっと何か美しい仕掛けがあるに違いない!」
と、陸上部のエース空野美咲が力強く頷き、
「いやー、思った以上に手間取っちゃいました」と赤座伊衣子が後頭部を搔く。「玄人様の指示通り、全員に招集をかけたら遅くなってしまって……。ていうか、わたしが黄瀬さんを迎えに行く途中で道に迷っちゃったからなんですけどね! 大事な時にスミマセン。だけど、何とか間に合ったようです」
よくやった、と玄人は赤座に親指を立てる。土壇場の滑り込みセーフだ。
「白奈さぁん……っ!」
黄瀬真菰が声を張り上げた。
「そのカレー、絶対美味しいよねっ? 美味しいって信じてる! あたしは白奈さんの事を心から信じてるよっ!」
そして真菰の背後からも更に大勢の生徒達が──白奈に助けてもらった経験者だ──ゾロゾロと顔を出し、口々に激励の言葉を投げかけるのだった。十人、二十人、まだまだ来る。
彼らはドアから調理室の壁伝いに広がり、熱烈な応援団状態だ。思いもよらぬ展開に霧ヶ窪は眉を寄せておののいた様子だが──
「……ふわあぁ! 美味しいぃ!」
その辺りの空気を全く読まず、突然幸せいっぱいの声が響き渡るのだった。
葉月未百合である。
「やっぱり寝かせたせいかしら? カレーの味に深みがあるわ。とってもコクまろぉ……!」
うっとりと目を細め、恍惚の表情でぱくぱくカレーを頰張っている未百合さん。宜なるかな。料理対決という緊迫の状況下、誰も口にはしなかったが──この時間帯、実は誰もが空腹なのだ。カレーを盛りつけた皿を玄人に配られ、芳しいカレーの香りを嗅いでいるうちに我慢が限界に達し、彼女は思わずぱくっとやってしまったのである。
「最初の口あたりは優しくて、ちょっぴり甘め。でもお口の中で広がって、酸味と塩味が滑らかに溶け合うの。それから熱い辛味がカーッと押し寄せてきて……美味しいわぁ! お肉も柔らかくて、ソースがたっぷり染み込んでいて、嚙むとジュワッと旨味が滲み出す。緊張していたところにこれは嬉しい恵みよ。おなかがジワジワ温かくなって、どんどんほっこりしてきて……ううん、それだけじゃないわ。むしろ毛穴から汗が噴き出すくらい、気分が楽しくなってくるの! まるでマハラジャの宮殿にいるみたい!」
わたし、何だか踊りたくなってきちゃったわ! と、嬉しげに体を震わせる未百合をジト目で見ている霧ヶ窪。……何を言っているんだろうこのマイペース美少女は、という顔だが、不意に銀光一閃──
スプーンを短剣のように握り締め、血倉知里もまた勢い良くカレーを搔き込むのだった。
「もぐっ! 一口くらいならアレルギーも大丈夫……! って、んんんん! このカレー、ほんとに美味しいじゃない! 味のバランスが凄いわ。カレーに具を入れたというより、具がカレーから生まれたみたいに一体感がある!」
血倉の勇気ある食べぶりに感化されたのか、応援に来た生徒達が鍋を預かる玄人のもとへ殺到し、ぼくにも一口、わたしにも一口、とカレーの試食をねだる。そして未百合や血倉と同様の感想を調理室に溢れさせ、美味しい! 美味しい! の大連呼が響き渡るのだった。
「美味しいよぉっ……!」
真菰がカレーをぱくつきながら叫んだ。
「こっちのカレーの方が美味しいっ。絶対……絶対っ! 白奈さんの作ったこっちのカレーの方が美味しいっ……! あたしはこっちの方がずっといい! ずっと好きだよぉぉっ!」
そして。
「──そうかもしれないね」
霧ヶ窪が白奈のカレーを食べながら、存外静かにそう言った。
「この……何だっけ。ケミストリーカレー? 最初に話を聞いた時は呆気に取られたけれど、うん、こうして実際食べてみると美味しいわ。有りね。これは有り! 香りの強さと引き替えに、味の調和度は途方もなく上がっているもの。カレーソースから具へ、具からカレーソースへ味が浸透し──しかも香りの鮮烈さが皆無という訳でもない。つまりこれは」
「くふふ。そう、貴女の予想通りだよ。寝かせつつ、新しく作った物も混ぜているのさ。スパイスの調和、カレーソースと具の調和、寝かせたカレーと作りたてのカレーの調和、その全てを狙った。絶妙の寝かせ具合とは即ち、そういう事だよ!」
霧ヶ窪は静かに溜め息を吐いた。
「一本取られたみたいね」
「先生……?」玄人は目を瞬いた。
「確かにインドカレーはスパイスの香りが醍醐味よ。でも、これくらい香りを抑えて、味を高めたカレーの方が好きという人もいるかもしれない。いえ、ここにいる人はどうも皆そうらしいわ。かくいう私もこれくらいマイルドな方が好きだったりして。ああ、年は取りたくないものだよね。……オールライト、良いでしょう。玄人のスカウトは今回は諦める事にする」
霧ヶ窪はアメリカ風に肩を竦め、案外さばさばした様子で引き下がるのだった。
「いいんですか先生?」玄人が訊くと、
「もともと玄人の優しさに付け込むようで悪いような気もしてたんだよね。いいよ。今までやってこれたんだから、もうしばらく一人で頑張る事にするわ。尤も、完全に諦めた訳じゃないから、またそのうちスカウトしに来るかもしれないけれど」
とりあえず白奈さん、今回はあなたの勝ちで良いわ、と穏やかに言う霧ヶ窪。その途端、うわあああああああああああああああっと調理室を揺るがすような大歓声があがった。
閃きの料理人、白奈の執念が奇跡を呼んだ形である。
(まさか俺の恩師に勝っちまうなんて……)
(クソッ、凄え。凄えぞ! KYにも程がある! やっぱ白奈はミラクルな女だ)
皆の熱に浮かされて流石の玄人もテンションが上昇し、仏頂面を取り繕う事ができない。どうしても綻んでしまう顔をポーカーフェイスにしようと表情筋をピクピクさせている。
「……そんな顔するなよ、ボス」白奈は照れ臭そうに顔を紅潮させている。「わたしが勝てたのは君のカレーがあったからじゃないか。言い方を変えれば、君のおかげで勝てたんだ」
「部長」
「君という相棒がいる事──それがわたしの誇りであり、幸せなのさ」
そして。
ばんざーい、ばんざーい、と大盛り上がりの観衆があれをリクエストした。
「あれ……?」玄人は目を瞬き、「あれって何の事だよ……って、ええええっ? まさかアレの事か! な、なあ、ちょっと待ってくれよ! 何故ここでそれをリクエストする?」
「格好良いからに決まっているだろう。皆の期待には応えないとねっ!」
白奈は真っ赤な顔で恥ずかしがる玄人の手を引っ張って調理室中央へ。ノリノリポーズを求める歓声が止まない以上、収めるには行うしかない。
(え、ええい! もうヤケだっ!)
そして二人は人差し指を天に向けると、お尻とお尻をプニッとくっつけてXの字を描き、
「「わたし達は料理事件部っ! 人を幸せな笑顔にするのが何より好きなのさ!」」
と、声を合わせて勝利の喜びを表したのだった。
さて、それを最初に言い出したのは誰だったろう。
「……そうだわ、せっかくだから!」
多分、葉月未百合か血倉知里だった筈だが、その後の行動は圧巻だった。どさくさ紛れに一人が突然玄人に抱きつき、プニッ!
「アーッ、ずるいわ、わたしもっ……」プニッ!
「こうなったら僕も!」「城之内さんにも抱きついちゃえ!」「あたしも抱かれたい!」
と、その場の全員が玄人と白奈に飛びかかっていき、押しくらまんじゅうのように纏わり付いた。押し合いへし合い揉み合いながら、風乃森学園の生徒達はテンションに任せて大騒ぎ。中心の白奈が酸欠で失神するまでそれを続けたのだった。
◆ ◇ ◆
それからしばらく月日が流れ──後日談。
無事日本での学会を終え、NYに帰った霧ヶ窪純から、玄人宛てに葉書が届いた。
こちらは忙しくも元気にやっている旨のそれを読み、ホッとする玄人。とはいえ、末尾に見過ごせない文章があるのを発見し、大いに戸惑う事となる。
『そういえば対決した日の最後のあれ、面白かったね! 何とかポーズ? 部屋に飾って楽しみたいから、今度写真を送ってほしい』
……玄人の性格からして、その一文を見なかった事にはどうしてもできない。
と、踏んでの催促である事は想像に難くないのだが、何はともあれ玄人は義理堅い。それを要請したらまた厄介なトラブルを引き起こしそうな城之内白奈に、いつ言い出そうかと根気強く機会を窺っているという。
【件名】:時間跳躍者事件
【お客様】:黄瀬真菰、霧ヶ窪純
【料理】:カレー
【達成度】complete