時間跳躍者事件
騒がしくそれでいて孤独な空間。あたしはテーブル上の皿に入ったそれを目を
それを口に含むと多分またあれが始まる。例の
(だが状況が状況だ。いつまでも座視している訳にはいかない。手を
手首の計測器にチラリと目をやる。時刻は今のところ正常で、この流れの恒久性が保証されていれば──否、それは言っても
あたしは手を伸ばし、テーブル上のそれを静かに口に運んだ。
ドクン!
その瞬間、口内に広がる得も言われぬ感覚と、脳を
風景が希薄化する。今ここにある世界は変容する。現実の裏側に隠されたもう一つの現実が現れ、更に一つ、二つ、三つ、四つ……。
否、そんな
腕の計測器に目をやると、時計の針が
どこに?
何の為に?
それが解明されるまで、あたしはこのループから逃れられないのか。いつまでこんな事が続くのだろう。
1
七月半ばの蒸し暑い放課後の事である。
料理事件部のドアをいつものように勢い良く開け放った
「いやはや、これが王者の振るまいか。壮観だな、ボス!」
「その声は部長っ? 壮観って何が……」
「
「ああ? 一体何を言ってんすか、部長」
「
「誰がティラノサウルスだ!」
誤解を招く表現はやめてくれませんかね!
と、突っ込む
一見、夏の暑さを心地良く
「わたしのカレーが一番
「お願い、わたしの味が一番良いって言って!」
「いえいえ、一番美味しいのはわたしのですよ。なんたって高級ホテルの味ですもん」
と、
「わたしのカレーだって美味しいわっ」と額に汗して
「美味しいだけじゃダメさ。やはりカレーは美しくないと」と
「だからこそグリーンカレーだろう。色彩が美しいし、美味しいし」と
「ですよね」と

……一体カレーが何だというのか?
ともあれ、計六人。
というか、実際口論しているのだった。
経緯はこうだ。
夏休みを間近に控えた金曜の放課後、例によってやる気なさげに玄人が部室に顔を出すと、まだ
「よう、赤座。早いじゃねえか」
「はい。玄人様をお待ちしておりましたもので」
赤座伊衣子は
先日解決したばかりの『魔術師事件』で赤座は
赤座伊衣子は変な性格の女だが、決して悪人ではないし、玄人もその辺は
(こいつは一度言い出したら聞かないからな……)
(とはいえ、反省する事自体は悪くない。何かしなけりゃ気持ちが収まらないなら、突っぱねるのも大人げ無い話だ。こいつが楽になるまで勝手にさせておくさ)
ボリボリ耳を
やがて部室に未百合と血倉がやってきて──彼女達も事情は知っているから普段なら見逃せないこの状況にもノーリアクション。正確には未百合は文庫本に目を落とし、血倉はノートPCのモニターに向かいつつ、赤座の様子を横目で
そう。
聞き捨てならない、こんなやりとりを聞くまでは。
「ところで玄人様、夏休みは何かご予定があったりするんですか?」
「あ? 別にねえけど」
「それは良かった! お
赤座伊衣子は団扇で玄人をぱたぱたしつつ、あっけらかんとそんな風に誘ったのである。
血倉はPCの画面をカッと
「おいおい、キャンプって……。このクソ暑いのに物好きな
「自然の中でワークアウトするのって、すっごく気持ち良いんです。一緒に行きましょうよ、
「
「またまた、本当は行きたいくせに。遠慮しなくていいんですよ。わたし、ツーリング用の良いテントを持っていてですね。これの寝心地が最高なんです。あと、秘蔵のダッチオーブンで
「何っ? ……お前、ダッチオーブンを持ってるのか?」
ダッチオーブンとは
「……ふうん。どうすっかな」
微妙に食指が動いている玄人。料理の事となるとやはり無関心ではいられず、頭の中では早くもダッチオーブンで作れる各種料理が首輪を外された犬のように駆け回り始めていた。
が、
「あ、あのっ、わたしもカレーは大得意よっ!
「うぉう?」
「だから、わたしもキャンプに……!」
驚異の瞬間移動──いつの間にか
「えーと、未百合さんはカレーが得意なんですか?」
「はいっ、そうなんです! 食べる方が得意ですけど、カレーには自信あるんです。お母さん仕込みのカレーなので最高に美味しいの。だからわたしも一緒に……っ!」
「どんなカレーなんです?」
「
未百合は若干決まり悪そうに体を震わせながら、
「でもでも、とっても丁寧に作るんです!
「カレーのおじゃが? んー、どうでしょう……」赤座が天井を向いて考え始めた時、
「あら、未百合さんはカレーにじゃがいもを入れるというの?」
それはオススメできないわね、と
「じゃがいもは煮崩れしやすいから、わたしは入れないわ。だって、どうしてもドロッとしちゃうもの。うちのレシピを教えてあげるわ。
「そっかあ。血倉さんの家ではじゃがいもを入れないのね」
「ええ、うちの野菜カレーはいつもこれよ。いんげんが色鮮やかで
「ン……。でも血倉さん、じゃがいもが入っていないと食べ応えというか、もっさり感が足りない気がしない?」
「あら、そこが良いんじゃない。カレーはさっぱりしてる方が
「そ、そうかしら。何となく物足りないような……」
「そんな事ないわよ。他の野菜だけでも食べ応えあるわ」
「だけど、あのじゃがいものホクホク感は捨てがたいと思うし」
そんな事ない、そんな事ある、と未百合と血倉のカレー論争は加熱していく。
(どうでもいいが……
未百合、血倉、
「ねえ、玄人君っ!」
話を振られてしまった。
「玄人君はどっちが好きっ? 未百合カレーにはじゃがいもとジューシィなお肉がいっぱい入っていて、ボリューム満点なのよっ。食べたいでしょ。食べてくれるわよねっ……?」
力いっぱい団扇を振り回し、その勢いで豊かな胸をゆさゆさ揺らしつつ、切迫した表情で
だが血倉も負けてはいない。
「フフン、こちらはじゃがいもは入ってないけれど、他の野菜がいっぱいよ。ピリッと刺激的な
「そんな事ないわ。玄人君はこっちの方が好きよっ」
「こちらよねっ?」
「わたしの方が美味しそうでしょうっ?」
「わたしのだって良い味よっ?」
「も、もぉ! 玄人君はわたし達のどっちを食べたいのっ?」
(……何なんだこいつら……。たまにこんな風に変になっちまうんだが)
ジト目で風に吹かれている玄人──何故か胸がザワザワする。この状況、何をどう答えても火に油を注ぎそうな気配が濃厚だが、しかし、そこはそれなりに
「と、ところで
「わたし?」
決して華麗とは言い
「お前さっき言ってただろ。秘蔵のダッチオーブンで
「あーはい、それはですね」
ふふふ、我が家の自慢のカレーは……と
「レトルトです」
と、言った。
「……おい!」
玄人は
「お前、これだけ
「あら? レトルトと言っても最近のは
「や、そりゃ知ってるけどよ……。せっかくのダッチオーブンの意味がねえだろ」
レトルトなら
「や、玄人さん。早とちりしないでくださいよ。ダッチオーブンではナンを焼くんです」
「ナン? 何……だと?」
と、言ってしまってから、ちいっと舌打ちする玄人。これが若さというものか。
だがしかし、玄人のかましてしまったボケに気づく事なく、赤座は意気
「本当に
レトルトカレーなら色んなお味が楽しめますし、ナンをちぎってよりどりみどりのそれに付けて食べた方が楽しめます──と言う赤座伊衣子の理屈は存外まともであった。
「ううむ、言われてみれば確かに。野外で手軽に楽しむなら、それが上策かもしれねえ」
と、玄人が納得しかけた時だ。不意に部室のドアが開いて、
「本当にそうだろうか? キャンプでレトルトカレー。その行為が果たしてビューティフルと言えるのかい?」
「……めんどくさいヤツ来た!」
「それは美しく咲くのかい?」
現れたのは陸上部の
美咲は
「いや、キミ達のおかげでスランプも脱した事だし、お礼を言いにきたんだけどね。それより一言言わせてほしい。キャンプでレトルトカレーは行為として美しくない。本末転倒さ。青空の下で野菜を切ったり焼いたり……そんな風に青春してる僕達の
この人は基本的に体育会系だが、独自の美意識を持っているのだ。いやいや、清らかな汗とかどうでもいいよ、と玄人があしらおうとした時、再び部室に
「ふむ、ビューティフルなカレーか。ならばグリーンカレーが一番だな」
「わたしもそう思います」
「……こいつらまで来た!」
「お前ら、一体何の用なんだ?」
「いや別に。たまたま通りかかったものだから」
そうしたら楽しげな声が聞こえたものだから、と各務はサラリと髪を
「わたしはタイカレーがとても好きなんだぞ。あの独特の風味とココナッツミルクのまろやかさは
「イエローカレーもありますけど、わたしは黄色があまり好きじゃないので」
「そんな事は
各務と雪花菜も扇ぐメンバーに加わり、玄人は全方位から間断なく風を浴びせられている。
「そんな! わたしのが……未百合の愛妻カレーが一番美味しいわよね、玄人君っ?」
「いえいえ、わたしのが!」
そんな他愛ない口論と共に。
ともあれ、やがて部室の主である
そして。
「くふふ」
と、
「ボスが肉食竜ティラノサウルス。ならば……わたしは差し詰め翼手竜プテラノドンというところかな」
「あああ? まだその意味不明なネタを
「くふふ、そうじゃない。これは謎かけだよボス。
ギャーッス! 今わたし
と、のたまい両手を広げ、白奈は翼手竜よろしく白衣をばたつかせる。……超残念。
が。
不意に白奈は腹部を押さえ、ピタリとその動きを止めた。
突然どうしたのだろう? 雰囲気は一転してシリアスだ。
「どうしました、部長?」
「トイレ行ってくる」
玄人はズルッと
しかし、何故かすぐに引き返してきた。
モグラ
そして言う。
「別にカレーの話題に触発された訳ではないよ? つまりその……大きい方ではないから」
「どうでもいいよ、そんな事は!」玄人は声を荒らげた。
「わたしがしたいのは、おしっこの方なんだからねっ」
何故かツンデレ風に言い放ち去っていく城之内白奈──カレーの話に水を差したかもしれないと
ともあれ、白奈の発言で場の空気は沈静化し、カレー談義を続けようとする者は皆無。玄人を取り囲んでいた美少女達はヨロヨロと力なく定位置に戻っていくのだった。
2
歓楽街の外れの外れ──怪しげな雑居ビルがひしめき合う場末のペンシルビルの屋上に奇妙なペントハウスが建っている。
物置小屋だろうか?
こぢんまりとした
季節は七月半ば。蒸し暑い夏の夕暮れ時。
冷房の無い、そのプレハブのペントハウス内で
「……暑い」
彼は過去に起こった、とある料理事件のせいで親元を離れ、ここで何年も一人暮らしをしている。この住居はビルのオーナーからの提供だ。無料に近い家賃で借りられているのは問題ありの物件だからで──というのも、このペントハウスは建築基準法に違反していないか、検査を受けた後で建て増しした物なのだ。よって、知り合いにしか貸す事ができず、だからこうして玄人が居座っている訳だった。
(それにしても暑い……)
玄人は上半身裸でベッドに腰掛け──隣に
(クソッ。俺とした事が……この暑いのに何てこった)
(カレーが食いたくて食いたくて
先程学校で繰り返し話を聞かされたせいか、舌がすっかりカレーを欲していた。料理心理学でいうプライミング効果──特定の単語が意識に作用し、その後の行動に影響を与える──なんて
玄人は軽くかぶりを振り、上着を着て立ち上がった。
(そう言えば、近くの商店街に新しい洋食屋ができたって聞いた)
(
一度行ってみたいと思っていたのである。
経済上の理由から普段はあまり外食しないが、丁度良い機会だ。部屋を出た玄人は素早くビルの階段を下りていった。自他共に認める
そして。
(確かこの辺だと思ったんだが)
ネオン看板が
何となくこの辺だろうと当たりを付けて来たのだが、目当ての洋食屋は見つからない。いや、そもそも目的地を調べてから出発しろよ、と彼がもう一人いたら突っ込んでいるところだ。
「調べるか……」
玄人が携帯を取り出したその時だった。突然心臓が強く打つ。ある人が目端を横切った気がしたからだ。
(まさか)
(いや! こんな所にいる
と思いながらも、遠ざかる背中から目が離せない。
都会的なスーツを
(……まさかとは思うけどよ)
玄人は女の後を追った。
人波を
見失ってしまった。
玄人は大きく息を
(やれやれ、俺は何をやってるんだ。あの人がこんな所にいる訳は無いってのに──)
「……って、ん?」
思わず目を
◆ ◇ ◆
そこは洋食店カシミア、という。
一ヶ月前に開業したばかりながら、既に何十年も前からあったような雰囲気を
とはいえ。
(ううむ……。これじゃ店主も気が気じゃないだろうよ)
黒ずんだカレーをスプーンで
ちょっとした問題が起こっていたのだ。或いは料理事件とも言う。
店内──カウンター席以外には、四人掛けのテーブル席が適度な空間を
ベレー帽を
ストレートの髪に自己主張の強いデザインの眼鏡。
着ている制服には見覚えがあった。
(あれはうちの学園の中等部の制服だよな。二年……? いや、三年だったか)
どちらにせよ、
食べない。
それどころか微動だにしない。
彼女のテーブルには玄人が食べているのと同じビーフカレーが載せられているのだが、先程からそれを

「あの、店長さん」
「何でございましょう?」
と、答えてから男がギョッと目を丸くしたので、玄人は素早く先回りして答えた。
「や、従業員の視線を追うと、あなたに向かうものが一番多いですからね。つまり責任あるポジションだ。あと、キャリアの長い料理人独特の身のこなしをしているし」
「ああ、それで店長だと……」男はぽんと手を打ち合わせて、「ていうか、突然話しかけられてびっくりしただけなんですけどね」
「やっぱそうすか」
「店長の
根が律儀な玄人も思わず、どうも、と自己紹介したりなんかして──。
「ところで一体何なんです、あれは?」黒目だけを例の少女に向けて玄人は
「実は、そのぉ……」
樫宮の話によれば、彼女が来たのは一時間程前だ。この店
「この辺じゃ有名らしいんですよね、あのベレー帽の娘……。何が目的かは知りませんが、カレーを扱う新しい店ができると現れて、
災難でしたね、と玄人は言う。
「でもそうか。ありゃ嫌がらせなんですね。ふん、飯がまずくなるような真似をする。で、樫宮さん。
「ええ、幾度か控えめに声をかけてみたんですけどね……。体調でも悪いのなら大変だと思いまして。ところが話をしてくれないんですよ。あんな調子で料理を見つめたまま、こちらに顔を向けもしない。……カレーもとっくに冷めちゃってるだろうになあ」
どうしたものか、と玄人は思う。嫌がらせだと確定したなら対応は限られる。ヤのつく稼業人の振る舞いに置き換えて考えれば解り
が、こうしていても
(ったく、仕方ねえ。だったら同じ学園の先輩である俺が……)
と、
「いや! もうこうなったら四の五の言っていられない! お嬢様に頼るしか!」
そう言って
「はい? お嬢様……?」
「あっ、いやそのですね。こういう時に頼りになる御方を知っていまして。私の修業先の娘さんなんですが、とにかく無茶苦茶良い人なんですよ! 人徳があるというか、度量が大きいといいますか、食に関する知識も豊富で……。ええ、あの御方なら事態を
ちなみにこの世のものとは思えない、女神様みたいな美人なんですよ──
と、微妙に事態と関係無い事を付け加えて奥へ引っ込む店主樫宮。余程そのお嬢様とやらに心酔しているらしい。
電話をかける声が
(ふうん、お嬢様ねえ)
気勢を
(人望があって、食の知識豊富で、おまけにこの世のものとは思えない美人……? そんな
我が道を行くタイプだが、玄人も高校生男子。そんな女が来るなら一目だけでも見たい。
カレーを食べる速度を微妙に落とし、さりげなく待つ事しばらく──やがてその女が店のドアを勢い良く開いたのだ。
「イエーイ! みんな、ノッてるかーい?」
残念な、あまりに残念過ぎる
「おや、返事が無いな。どうしたのかなー」
耳に手をあてがい、味のある表情で店内の様子を
「そこにいるのはボスじゃないか。君も人が悪い。先に言ってくれれば良かったのに」
「……や、そういう訳にも」
それだけ言うのがやっとの玄人。そう──店主樫宮に
「お、お嬢様ぁーっ!」
「わざわざご足労頂きまして申し訳ございません! 誠にありがとうございますっ!」
「
「わたくし
二人のやりとりを見て
「ところで樫宮」白奈は店内をぐるりと見回すと、「例の子というのは?」
「はっ! あちらでございますっ」
先程の残念発言の影響で、
「うり」
「ヒャッ?」
白奈はベレー帽の少女を前触れも無く抱き上げた。そして──
ずだだだだだだだだだっ。電光石火の
3
「くふふ。城之内家は料亭を複数経営しているんだが、樫宮はその一つで働いていた料理人でね。昔はよく一緒に料理を作って味比べをしたものだよ。彼の好物は日本風西洋料理。つまりは気持ちのほっこりする
そう言って白奈は肩を
ここは洋食店カシミアのバックヤード──最奥にある殺風景なスタッフルームだ。
玄人と白奈はチェアに座り、例のベレー帽の少女に話しかけていた。
やがてベレー帽の少女はハッと我に返り──そして意外な行動に出た。
「くっ……。しくじっちゃったよ!」
少女は手首に巻いた腕時計的な何か──最新の電子ガジェットか? その側面部のボタンを押した。カバーがスライドして数字が並んだ液晶が露出する。マイクと
「オレンジゼリー、こちらコードネーム・レモンゼリーだけど、少々まずい事になったよ。どうやら敵に
ボイスメモ機能を使っているらしい。
「彼らが《組織》の者かどうかはまだ
そして少女はスイッチをオフにしたのだ。が、
ポカーン。
(な、何だこいつはああ……?)
(俺は変人への
そんな玄人のヒキッぷりにも
「あんた達、
と、言い終わった途端スタッフルームに満ちる
「……あー、時間が何だって?」
するとベレー帽少女はハッと
「そ、そう……。バレてしまったんじゃ仕方ないかな。あたしの名前は
「何だ。三年か」
「何だって何よ?」
「や、てっきり二年かと──って、それはまあいい。制服がうちの学園のやつだもんな。俺達は風乃森の高等部一年だ。俺は
「あ、やっぱりっ? 城之内家のお嬢様っていうのは本当だったのねっ?」
「お嬢様……。その言い回しが微妙にしっくりこないのは、多分俺のイメージがステレオタイプだからなんだろう。とはいえ、事実関係だけを客観的に
「わああ!」
真菰は眼鏡のブリッジを指で上げると、
「確かに学園の構内で、白衣を着たこの人を幾度か見た事ある気がする。でも、まさか城之内家の人だったなんて……!」
どうしよう。サインとか
瞳を大きくしてそんな事を言う
「まあその辺はお前らの好きにしろよ……。それより質問に答えてもらおうか。真菰、お前は何だってあんな真似をしてたんだ? カレーに手も付けずに、ずっと店に居座りやがって」
途端、真菰はきゅっと口を
「なあ、こっちは金を払って
と、言いながらもしっかり味わって食べた
と、不意に真菰は手首のデバイスを操作した。ぱかっと
「オレンジゼリー、こちらはコードネーム・レモンゼリー。現在十八時三十五分、敵に
「また始まった!?」
面倒くさっ、と玄人は思う。
「尋問相手は妙にハードボイルドな感じの男で、頭も回りそう。きっと
プツン。真菰はボイスメモを録音し終えると大きく息を
「じゃあ言うけど」
「おう、言え言え」
びっくりしても知らないからね、と真菰は不敵な表情で前置きすると、
「あたしね……実は、普通の人間じゃないんだ」
「何だって?」
能力者なのよ、と重苦しい声で言う。
「何を隠そう、あたしは……『時間跳躍者』なの。手首のこの機械は専用のマルチ
──あれは嫌がらせをしていた訳ではない。『時間跳躍』していたのだ。自分はある種の限定的条件下でのみ発動するタイムリープ能力者で、記憶だけを過去に『飛ばす』事ができる。外見上は何の変化もないが、思念は時空間を移動しているのだ。あれは未来でカレーを食べ、それがまずかったから、まだ食べていない過去に記憶だけが戻ってきたところなのだ──
と、そんな風に真菰は語った。
「ふうん」
玄人は目を
(クソッ。要はかまってちゃんだったって事だな。参ったぞ。こんな面倒な
(仕方ねえ。後は
何だかんだで白奈なら最終的にはどうにかするだろうと思い、だるそうに振り向いた
「ふひゃああー!」
「……部長っ?」
いきなり奇声を発したので、白奈の頭がいかれたのかと一瞬ギクッとした玄人だが、
「これは
白奈はいたって真剣だった。息を荒らげて
「いやー、凄いっ。凄いぞ! 時間跳躍は別名タイムリープとも言うんだがね! これはほんとに凄い能力なんだ! 何たって、走ってジャンプするだけで過去に戻れるんだから! わたしはあの映画を観て心底感動したんだよ! こないだもTVの再放送でやっているのを観たんだが、えーと、何て題名だったっけ。えーっと……」
やがて白奈は頭上にピコンと電球を灯らせた。そして──
「時そば!」
と、言った。
「そりゃ落語だ!」
時かけそば──みたいな。
とはいえ、浮かれまくる白奈の耳に玄人の突っ込みは届かない。ビヨーン、ビヨーンと時をかける白奈のポーズで四方八方ジャンプしまくり、残念ここに極まれりという光景だ。
「ったく……。はいはい、もうおふざけはその辺でいいんで」
「ほっ?」
白奈の耳元に顔を寄せて玄人は
(や、部長だって本当は
(チュー……。って、何それ?)
(知らねえのかよ!)
澄んだ目をして
「……や、端的に言えば思春期に
「無いなあ。だがまあ、もともとわたしは変な女だからね! えっへん!」
「両手を腰に当てて言う事か……」

思春期に人は己の自意識と相対するが、その際に素の自分を許容できないと、外的な何かを過剰に取り入れ、補強しようとする。本質的には自分を確立したいという欲求の
「かくいう俺も中学一年の時に発症したんですがね。時間が
ふうむ、と白奈は
「しかし、彼女は時間跳躍者なんだろう?」
「や! だからあ……」
「とにかく、興味深い!」
白奈は
「真菰ちゃん。良かったら時間跳躍の話、もっと詳しく聞かせてくれないか? くふふ、わたしはそういう
(おいおいマジか……。白奈の
「で、真菰ちゃん。君のタイムリープ能力は生来の物なのかい?」
「そうじゃないけど……」
「ひゃあ! となると
二人の話は長時間続いた。最初は警戒心を
「でもさ。実際こんな能力があると意外と大変なんだよ……?」
「そうなのかい?」
「うん、結構大変」
なんて言いながらも、真菰は口元を
「よくよく考えればそうかもしれないな。わたしは根が楽観的だから、大変な事すら楽しんでしまいそうだが。さておき真菰ちゃん、君が能力を身につけたきっかけは?」
「えっと、あれは三年前だね。あたしが小学六年生だった時の事なんだけど。学校から帰ると家に見知らぬ人がいて……うちは電器店だから、お得意様とかお客さんがしょっちゅう出入りしてるんだよ。で、その謎の人が、お
カレーをトリガーとしたタイムリープ──
まずいカレーを食べた時、記憶だけが強制的に過去へ転移するのだと真菰は言う。
「ああ? 見知らぬ人がカレーを作ってくれて? それで力が目覚めただって?」
「ていうか、そもそも何でカレーなんだよ?」
「あたしはライスで食べる派」
「何でって、そのナンじゃねえんだよ……」
「え? どういう意味?」
「お前、今絶対
どうでもいい
「
「……物は言い様だな」
玄人は
真菰
意識だけのタイムトラベル──。
真菰の思念は
とはいえ、こんな突拍子も無い話を誰も信じてくれず、概して
「……なあ、その設定ほんとに必要かっ?」
と、
「もう一度あのカレーを食べる事ができれば──そうすれば材料とレシピが
今日この店に来たのは割引券が家の郵便受けに入っていたからだよ、と真菰は言う。
「うちは割引券が配られる地区じゃなかったんだけど……。
「いやいや、全然変じゃないさ。それはきっと伏線だ! わたしが思うに、それは未来の真菰ちゃんが
「や、あたしの時間跳躍は記憶を飛ばすだけだから、券とかは持っていけないし」
(クソッ。……二人とも飛ばしまくってやがる。これは厳然たる料理の話だってのに、空想科学しやがって!)
真菰と
(もしかしたら白奈のあの振る舞いはフェイクで──真菰のトンデモ話を信じまくっている風を装い、カウンセリングしてるんじゃねえのか?)
なんて最初のうちは深読み等していたのだ。だが、やがてそうではない事に気づいた。
(俺の認識が甘かった。お人好しだとは思っていたが、ヤツは
そして真菰が、もう一度あのカレーを食べる事ができれば……的な悩みを打ち明け始めた時には頭を抱えてしまった。
「うんうん、真菰ちゃんは時間跳躍者だって事を誰にも信じてもらえず苦しんでいるんだね。解る。解るよっ! 噓吐き呼ばわりされるのは誰だって
今我々って言った、と
「料理……事件部?」しぱしぱと
「料理事件部! それはだねえ。読んで字の
そう言って玄人にこれ見よがしの目配せをする
彼と裏腹に、真菰は
「そっかあ、お洒落カリスマ集団……! 何か納得っ。だって滅茶苦茶スタイル良いし!」
「お褒めに
くっふっふっ! と、白衣を
とはいえ、それが平穏な日々に風雲急を告げる事態の引き金になるとは、この時の玄人は夢にも思わなかった。
4
「うわ! 何か
「美味しそうだろう? 最近のお気に入りメニューなんだよ」
「な、何これーっ?」
真菰が目を
「くふふ、食べてみれば解るよ。絶対に美味しいから、どうぞ召し上がれ!」
スタッフルームのテーブルには出来たて熱々のカレーが載せられていた。
先程の助けてあげる宣言の後、
──真菰の求める思い出のカレー、それがどんな物かはともかく、わたしの作ったカレーの方が美味しいんじゃないかな? という、ある意味非常に白奈らしい楽観的な──ともすれば自信過剰と言えなくもないやり口だったが、とりあえずカレーは
バナナ、メロン、
それら極彩色のトッピングのおかげでこのカレー、フルーツパフェも顔負けの豪華さなのだ。見ているだけで胸が高鳴り、舌がワクワクしてくる。……
「さあ
「や、でも」真菰は鼻をヒクヒクさせている。
「遠慮しないで早く早く! 見た目と同様、味も最高なんだから!」
「んー……」
ほくほく顔の
「そ、それじゃ、ありがたく食べさせてもらうよ」
いただきまーす!
そう言ってスプーンを握ると、カレーに向かい身を乗り出した。
が、
その小さな口は半開きのままで──まるで時が止まったようだ。
十秒経過。二十秒経過、三十秒経過。
そして約一分が
「……ふうっ!」
真菰は大きく息を
「ご
何言ってんだこいつは、と玄人は思う。
「や、食べてみたってお前……。どう見ても食ってねえだろ」
「もう。だから言ってるじゃない。あたしは時間跳躍者なの。これは記憶
要はたった今タイムリープしてきたところなの、と真菰は言う。もしもここにバナナの皮があったら玄人は
「フルーツがいっぱい盛られてるから、あのカレーと別物だってのは最初から解ってたんだけどね……。うん、それにしても今回の時間跳躍は
このかまってちゃん、予想以上に
「なあ真菰、そんなシュールな
「シ、シュールな噓芝居って何よぉっ?」
図らずも、
「あんたもあたしの事を
「や、俺はそういう事を言ってる訳じゃなくてだな」
食ってかかる真菰に玄人は鼻白む。
迫真の芝居を論破するのは
「オレンジゼリー、こちらはコードネーム・レモンゼリーだけど、今、敵からかなりの
「またそれ!?」
「でも相手は解ってないみたい。あたしがこれくらいで傷つく女じゃないって事をね。うん、大丈夫。あたし負けないし! 頑張るよ。それではっ!」
そしてスイッチを切る真菰。……俺はすっかり悪者にされているようだ、と玄人は思う。勝手にしろよという感じだが。
(まあ、一見突拍子もないカレーだからな。食うまでもなく、見た目で解ったって事だろう。この果物てんこ盛りの珍妙フルーツカレーは、自分の探してるカレーとは別物だと)
要は
だが真菰の方はそれで良いとして、せっかく作ったカレーを食べさせずに済ますのは料理人としてどうなのか?
ああ、白奈……と玄人は思わず
「な、何という事だろう……! わたしは真菰ちゃんの時間
ワナワナしていたのは感激のせいだったらしい。無言でこめかみを押さえる玄人を
「なあ真菰ちゃん、時間を超えるのってどんな感じがするんだ? やっぱりこう、ビューンって感じかい?」
「ううん、そういうんじゃないかな。どっちかって言うと、ブウーンって感じで」
「ブウーンかあ! 成程、確かにそっちの方が雰囲気が出る!」
白奈は真菰の与太話をまるごと信じ、受け入れているようだ。何かもう、とても残念な人としか言い様がなく、そして真菰はというと、玄人に対する態度とは対照的に、白奈には友好的な笑顔を向けている。世の中持ちつ持たれつという言葉が頭に浮かばなくもなかった。
(ったく、あんな
(白奈のアホたれ……)
と、思いながらも
ある意味この結果は
一言だけ白奈の肩を持たせてもらうなら、記憶のみのタイムリープは外部から真偽を判定するのが難しいという事。全ては本人の自己申告によるもので、時間跳躍していない証拠を出せと言われても出せないのだから──つまりは悪魔の証明だ。無い物が無いと立証する事は基本的にできない。
「まあいいや。とりあえず部長、
「ブウーンっていうより、ギューンかも!」「くふふ、ギューンか。とても速そうだ!」
盛り上がるあまり、白奈の耳には届かなかったようだから、勝手にさせてもらう。玄人はカレーと果物をスプーンで
「んぐんぐんぐ……。うっ! 何だこりゃあ。すげえ
予想外の
(そうか、この果物は生じゃない。バターで表面を軽く
(お、干し
そんな
とはいえ、どちらかと言えば女の子の方が好みそうな味だな、と玄人は思う。
(これで
(ふん、俺は食べながら感想をごちゃごちゃ言う柄じゃない。だが無言っていうのも寂しいものがある。未百合が自由
普段はそんな事を考えもしないのだが、今は少しだけ感じていた。食べる係こと未百合の重要性──店に来る前に一声かけても良かったか、なんて今更ながらに思ったりして。
(いや、俺はあくまでも食べる係としての未百合を欲しているだけであってだな。別に美味しい物を食わせて、喜ばせてやりたいなんて思ってる訳じゃない……)
色んな事を考えながら黙々とカレーを食べている玄人。
面白い男である。
5
そこでは何が研究されているのか?
否、ラボラトリーというのは
そんな怪しげな黄瀬ラボラトリーの正式名称は『黄瀬電器店』──今では珍しくなった個人経営の家電小売店である。要は町の電器屋さんだ。
一階が店で二階が居住フロア。その二階へと続く直通階段の前に
玄人と
今日は土曜──。
ここで四人は待ち合わせをしているのだった。もう一人はまだ来ていない。
「ったく、遅えなあいつ……」
日差しの
「待ち合わせの時間は十二時だったでしょう。まだあと五分あるわ」
「や、普段の
正確には三十分前から待とうと
「今日は
と、レースの日傘を構え直して血倉が言う。ぱっちりした
そんな彼女は今日は土曜という事で私服姿。涼しげなゴス風の

「暑いから? って、何だよそれ。どういう意味なんだ?」玄人は
「あ、紫外線対策よ。UVカットスプレーとか、スキンケア関係みたいな」
「いやいや血倉、お前と違って未百合はそんなマメな女じゃねえよ。おっとり屋というか、のんびり屋っていうかさ。基本、いつもすっぴんの
「……っ!」
途端、
「何だよ、どうしたんだ?」
「も、もぅ……。
血倉は素早く
「くふふ、何にしても良い事だよ。我々だけではやはりクール系にバランスが傾きがちだからね。ここにぷりぷりの
「その言い方やめて!?」
途端に現実に引き戻される血倉。
……ていうか、そのネタ引っ張り過ぎだろ、と玄人は思う。
とはいえ、そんな風に自分達を持ち上げておきながらも、
「あ、そうだ!
「そこまでしなくてもいいだろ。待ってりゃそのうち来るさ」
ちなみに、知る人ぞ知る未百合のメールアドレスは結構
lovely_kuroto@xxx.ne.jp──
携帯購入以来変更した事はなく、これに関しては誰もがノーコメントを
そんな
討ち入り……
ではなく、
昨日洋食店カシミアで遭遇した自称時間跳躍者、黄瀬真菰は小学生時代に食べた謎のカレーのせいでタイムリープ体質になった。それを治すには同じ物を食べさせ、レシピから成分を分析しなければならない。
いや、時間跳躍
妙に真菰と親しくなった白奈はとんとん拍子に住所を聞き出し、土曜の昼食時、黄瀬家にカレーをご馳走しに行く約束を取り付けた。そして玄人の助手であるところの
(真菰がそのカレーにどれだけ深い思い入れがあるのかは知らねえが……食いたい物は食わせてやればいい)
(準備は万全。自信はある)
玄人は買い物袋を握った手に力を込める。自前の調理器具と食材が入っているのだ。
(昨日真菰に聞いた限りじゃあ、特に目を引くようなギミックの無い、標準的なカレーだったらしい。だとしたら……俺が思うにこれだ)
昨日白奈が作ったフルーツカレーは食べるまでもなく駄目出しされた(という事だと玄人は認識している)。真菰が言うには、そのカレーにトッピング等は皆無で、あくまでも本質で勝負する類の物だという。ならば上等。料理人としてそのオーダーには
「玄人君ーっ!」
と、そうこうしているうちに
全力疾走したようだ。玄人達の
「ったく、この暑いのにそんなに走んなよ。時間は一応ぴったりだぞ?」
「ごめんなさいっ。本当はもっと早い時間に着いて待ってるつもりだったんだけど……ハア、ハア、わたし、待つの好きだし……ハア、ハア……。でも今日は気合いを入れて頑張り過ぎちゃったみたいで……」
「何を頑張ったんだ?」
そんな彼女は本日、大胆に白い肩を出したキャミワンピースを着用。
「いやー、今日は悩ましい格好してるねえ、未百合ちゃん!
悩みとは
「大好きな彼の為に悩殺ファッションで決めてきたんだろう?
「……ああっ──」
とはいえ、白奈のフリーダムな
「くふふ。見れば見るほど
「お、おいし……そう……?」
「その乳、ちょっと
「はい……。って、エエエエッ?」
「な、何て事を言うんですか、白奈さんっ。……
「いやいや、わたしは気になった物は何でも食べてみる主義なんだ。人間の感覚器官で最も敏感なのは口なんだよ。正確には唇と舌な訳だが、少しだけカプッとやらせてほしい。そうすれば今どれだけの大きさなのか、正確に把握できると思うんだ」
未百合は完全に
「ダ、ダメ……。食べちゃダメッ!」
半泣きで言う。
「わ、わたしの胸は玄人君だけの……。お願い白奈さん、後生だから食べないで!」
「くふふ、一度は良いって言ったもんね……」
白奈は未百合の懇願に
かぷり!
ふくよかな胸に荒々しくかぶりつき、ああああぁーっ……
──というのは玄人の脳裏を駆け抜けた幻想だ。現実には起こっていない。
「くふふふふ!」
「あああぁ……!」
実際には含み笑いしながら手をワキワキする白奈を見て、未百合が
何をやってるんだこいつらは、と
「……あのー、全員
ジト目の
◆ ◇ ◆
「さっきから通りでギャーギャー騒いでたけどさ、あれ、家の中まで聞こえてたよ? 暑いんだからさっさと入ってくれば良かったのに」
「こっちにも色々あるんだ。察してくれ」
玄人達四名と真菰の他、家には誰もおらず──というより、一階店舗フロアも実は無人だ。ルームライトは
「うちは昔からそうなんだ。家族みんなでご飯食べた事なんか数える程しかないよ」
「そうなのか?」
人の性格というのは基本的に生活環境が作り出す物である。
(成程。こいつがかまってちゃんなのは要するに……)
玄人が
「何さ。……何か文句あるっ?」
「ねえよ。ていうか、家の中なんだから帽子くらい取れよ」
「やだ。だってこれ、いつでも
「あ? そんなどうでもいい
「ふんだ」
口を
「まあいいや。とにかく今日は大人数で思う存分カレーを食べろ。俺は台所で料理してるからお前らは自己紹介がてら、しばらく遊んでればいい。この人数分作るのはそれなりに時間がかかるからな」
「あ、ウン。だったらあたしの部屋を見せてあげようかな……。皆さん来て!」
はーい、と自室へと移動していく女の子達。ドア越しに聞こえてくる声を適当に聞き流しながら、
角切りにした肉をヨーグルトに
「だあ!」
ビクン!
と、
「な、泣いているのか、ボス?」
白奈は
「そうか……。やはり一人でカレーを作るのが寂しかったんだな。確かに男の方からそれは言い出しにくいかもしれない。本当はわたしと一緒に料理がしたかったんだね?」
「いや、全然……。
なーんだ、はっはっはっ、と腰に手を当てて笑う白奈。気になって様子を見に来たらしい。
「手伝おうか?」
「や、俺一人で充分ですよ。部長は昨日作ったでしょう。今日は俺の見せ場ですから」
「うん、君の事だからそう言うと思っていた。頑張ってくれ」
と、白奈はキョロリ。そこかしこに展開している様々な材料を見ると顔を輝かせて、
「ほほう、やはりこれか! 君ならこのカレーを選ぶ気がした」
「ふっ、今日は土曜日なんですがね」
「ああ……確かに。金曜なら最適だったんだろうけど」
不思議な
「ってな訳で、料理の邪魔はしないでくださいよ。部長は適当に遊んでていいっすから」
「そう?」
とんとんとんとん、と恐るべき速度と正確さ──プラス、涙目で玉葱を切っていく玄人。
「仕方ないなあ。どれ! わたしが涙を
「手元が狂うっ。よせ部長!」
「泣かないでー。ほら、いい子でちゅねー」
「来るな!」
ともあれ、それから五十分後──
(よし、
きらきらと白く輝くライスにカレーをたっぷりとかけ、その
~
あたしはダイニングテーブルの上に置かれたカレーを眺めていた──。
わざわざ家まで出張ってきて玄人さんが作ったのは、奇を
あたしが思わず皿に顔を近づけ、鼻をヒクヒク動かしていると、
「……あん?」
玄人さんに不思議そうな顔をされた。
「な、何よ。何か問題っ?」
「別に。こっちの事だ」
何はともあれ、普通のカレーなのである。
さて、そんな何の変哲も無い料理を同じくテーブルについた
ちなみにもう一人の
「……いいから見てないで早く食えよ」
玄人さんが無愛想に言い、それを契機に皆がスプーンを握った。
「いっただきまーす!」
もむもむもむもむ……!
ぱくぱくぱくぱく……!
皆さんびっくりするくらい食欲
と、そんな未百合さんに不意にウインクし、こつこつと指でテーブルを
「さあ、未百合ちゃん! この辺で例のやつを頼むよ。食べる係こと君のアレが無いと気分が出ないんだ」
何の事だろう?
海外セレブも顔負けの
「い、いけない! わたしったら、あんまり
胸に手を当てると大きく深呼吸して、
「美味しいぃ! このカレー、とっても美味しいわぁ!」
……何なの?
未百合さんは今初めて口にしたように、ワンテンポ遅いカレーの感想を言い始めた。
「カレーには色んな種類があるけど、これは王道中の王道ねっ。こんがり食欲を誘う良い香りと、まろやかなトロみ! とってもコクのあるカレーソースだわ。それを吸い込んだ柔らかなお肉を奥歯で
幸せ気分を放出しまくっている未百合さん。先程言っていた『食べる係』とはこの事だったのか、とあたしは今頃得心する。要は皆の気分の盛り上げ役らしい。
「それにしても味が深いわ。一体どうやって作ったんだろう? ソースを舌でねぶっていると、しょっぱみと
「……何だか知らねえが、攻めろ攻めろ」
玄人さんは未百合さんの皿を受け取り、白いご飯をグワッグワッと豪快によそった。
「これは
玄人さんが解説を始めた。
「どこか懐かしい感じの味だろ?」
「ご飯にとってもよく合うぅ」
「これは日本風カレーのルーツなんだ。もともとは明治時代、日本海軍がイギリス海軍の糧食を参考に作った物だと言われている。というのもカレーパウダーで味付けしたビーフシチューとパン……その英国風のメニューが当時の日本人の口には合わなかったらしいんだな。だから小麦粉でとろみを付け、ご飯にかけてみたら、意外にもこれが好評だ。海軍の町である
「成程」
「や、知ってるのは料理の事だけだって……。何にせよ、とろみたっぷりで船上でも
「え? それは
「くふふ、船上だと曜日感覚が無くなりがちだからね!」
血倉さんの問いに、
「特定の曜日に特定のメニューが出る事で感覚を取り戻すんだよ。いつも船上で頑張っている海上自衛隊の皆さんも土日は休み。要は休日前にカレーを食べてその週を締め
「とまあ、そういう事だ」
「今の海上自衛隊ではその海軍カレーを元に、
玄人さんに言われてあたしは我に返った。
皆の食べっぷりとユニークな反応に気を取られ、まだ一口も食べずにいたあたしだけれど、今の解説で
「ん……。じゃあ、食べるよ」
あたしは玄人さんのカレーを
と、その時である。
ドクン。
(やはり)
(やはり始まってしまった)
(いつものやつが──始まってしまったんだ)
あ? どうしたんだよ真菰っ? と玄人さんが目を丸くしているが、これが発動したらどうしようもない。だって始まってしまったんだから。
皆の姿がレイヤーの透明度を操作されたように希薄化し、
それは有り得ない、有り得なかった、有り
激しい
◆ ◇ ◆
「おい、どうしたんだよっ?
だが動かない。
事態は約一分前に
「ほら真菰、お前も
「ん……。じゃあ、食べるよ」
そう言ってスプーンでカレーを
食中毒? それとも急性胃腸炎か? いや、まだ食べていないのにそんな事ある
「……ハッ?」
やがて開いていた真菰の
一同ホッと息を
「オレンジゼリー、現在十三時九分、こちらはレモンゼリー。今タイムリープから戻ってきたところよ。タイミングが良かったらしくて、カレントの時間軸近辺に着地できたみたい」
「何、またそれ!?」
転びそうになる玄人。
録音を終えると真菰は一仕事終えたように手首で
「カレー、ご
「……ああ、そう」玄人は頰を
無論、テーブルに置かれた真菰のカレーは盛り
だが、それなのに食べてきたって、美味しかったって、一体どういう事なのかしら……? と経緯を知らない未百合と血倉は首を
「あの、
「何かしら、込み入った事情があるようね?」と
玄人はどう伝えるべきか少し迷ったが、正直に伝えた方が最終的な面倒は少なくて済むと考えた。これは思春期特有の……と苦い顔で説明しようとすると、
「
横から
……本当に空気を読まない女である。
「ト、トキを、追いかける処女? それって恋の神話みたいな」
「未百合さん、違う違う! 少女って言ってたから!」
「キャッ! やだぁ。わたし……
ほうれ見ろ、と玄人は思う。
(ったく、
ずかずかと白奈の間近へ歩み寄って玄人は言った。
「いい加減にしてくださいよ、部長。タイムリープとか時間跳躍とか、そんな子供
「噓? でも本人はほんとの事だって言ってるよ?」
白奈は澄んだ瞳で言った。この女、本気で残念である。
「いや、だから……」
「あのねえボス。君は確かに切れ者だ。頭が回る料理人だよ。しかしながら、そうやって何でもかんでも疑ってかかるのは正直どうかと思うんだ」
「何でもかんでもは疑っていないでしょう? これがずば抜けてがっかりな噓だからで」
「いずれにせよ、わたしは常々思っているんだよ。人が人を信頼するのは素晴らしい事だとね。それこそが人生を輝かせる黒海の宝石キャビアのような物なのさ! ねえボス、真菰ちゃんが
「いや、だからですねぇ……」
微妙に正論
白奈のこういう点は嫌いではない。人を無条件に信じるのは本来良い事だ。実際かつての自分もそれで救われた訳だし──未百合が不良に
とはいえ、玄人は根っからの現実主義者なのだ。
(や、俺は噓吐きだから良いとか悪いとか、そういう事を言いたい訳じゃない)
(どうすれば
「いいですか部長。あいつは要するに寂しがり屋のかまってちゃんなんです。だからきっと噓を
「そうなのかい?」
「ちょっとぉ! 誰がかまってちゃんだって言うのよっ?」
タイミングの悪い事に、その
「そ、そうだ! インド行こう!」
白奈が
「インド……?」
「おっと、少々言葉足らずだった。次はわたしがインドカレーを作ろう。そんな風に言いたかったのさ」
あまりに突然の提案である。真菰は
「それは
白奈はバサバサと妖しげに白衣を
「真菰ちゃんが食べた思い出のカレーは何なのか? それを一発で当てるのは至難の
(何だよ。ちゃんと
玄人は鼻をぽりっと
実は白奈は頭そのものは悪くない。
「真菰ちゃん。さっきのカレー、見た目は合格だったんだろう?」
「あ、うん……。見た目はあんな感じだったと思うけど」
「ほっ! ならば話は早い。日本風カレーじゃなければ答えはインドカレーだ。カレーのスタンダードといえば、そっちの可能性の方がむしろ高いとわたしは考える!」
インドカレーといえば色鮮やかなカレーをナンに付けて食べるイメージがあるが、必ずしもそうではなく、ぱっと見、日本風の物もあるし、ライスと一緒に食べるのも当然ありなのだと
「確かにそうだな」
同意した
「インド風と日本風?」と未百合。
「それってどう違うのかしら……」と血倉。
「別に難しい事じゃねえよ。さっきも言った通り、日本のカレーってのはイギリスから伝わった物だが、そのイギリスのカレーはインドから来た物だ。元は植民地だったからな。で、そのインドでは日本の海軍カレーみたいに船上で
「エッ? カレー粉を使わないですって?」
血倉が目を丸くした。
「それじゃ、どうやってカレーを作るというの?」
「おう、そこが勘違いの元でな。カレー粉ってのはもともとイギリス人が発明した物だ。インドには無いんだよ」
「そ、そうなのーっ?」未百合は両手で自分の
「カレーというのは
だから業務用のカレー粉は万人受けする味になっている。それをアレンジする事で飲食店では独自の味を出す──出しているところもあるという話だ。
「とはいえ、そんな物が発明されるのは難易度がそれだけ高い事を意味する。正直、ゼロからカレースパイスの調合をするのは意外と難しいんだ。いや
「じゃ! 行ってくる!」
玄人の話を最後まで聞く事なく、そそくさと出かけようとしている
「ちょっと部長っ! 行ってくるってどこへっ?」
「いやだなボス、スパイスを買いに行くに決まってるじゃないか。城之内家
こうしてカレー大戦争(ちとオーバー)の前線には小休止がもたらされた。