時間跳躍者事件



 騒がしくそれでいて孤独な空間。あたしはテーブル上の皿に入ったそれを目をらして見ていた。今日もまたあれを試みる。

 どうもうなまでの湯気を立てるそれは粘性が強く、まるで黒ずんだ溶岩だ。鮮烈な香りがあたしの本能を刺激し、精神的揺さぶりをかける。見ているだけでほおに汗がにじしろものだ。

 それを口に含むと多分またあれが始まる。例のごとく──始まってしまうだろう。

(だが状況が状況だ。いつまでも座視している訳にはいかない。手をこまねいている訳にもいかない。試みない訳にはいかない……)

 手首の計測器にチラリと目をやる。時刻は今のところ正常で、この流れの恒久性が保証されていれば──否、それは言ってもせんき事だろう。

 あたしは手を伸ばし、テーブル上のそれを静かに口に運んだ。

 ドクン!

 その瞬間、口内に広がる得も言われぬ感覚と、脳をてつついで殴られたような衝撃──一体何が起こったか? いや、それは言わずもがなだ。例のあれが発動した。

 風景が希薄化する。今ここにある世界は変容する。現実の裏側に隠されたもう一つの現実が現れ、更に一つ、二つ、三つ、四つ……。

 否、そんなじんじような数ではない。重なり合った無限数の世界があたしを取り囲み、高速回転しているのだ。時間のスピンドルのように。

 腕の計測器に目をやると、時計の針がものすごい速度で逆回転している。時は巻き戻っている。あたしは再びこうしている。

 どこに?

 何の為に?

 なる仕組みで?

 それが解明されるまで、あたしはこのループから逃れられないのか。いつまでこんな事が続くのだろう。まいが更に激しくなり、やがて意識がスウッと薄れ──


      1


 七月半ばの蒸し暑い放課後の事である。

 料理事件部のドアをいつものように勢い良く開け放ったじよううちしろは、室内に展開する光景を前にカッと目を見開き、しばらく部室の入口で立ち尽くしていたが、やがて小さくせきばらいするとこんな風に言った。

「いやはや、これが王者の振るまいか。壮観だな、ボス!」

「その声は部長っ? 壮観って何が……」

すごいよ凄い、流石さすがの一言だ! いや、そんな風に言ってはへいがあるか。そう、以前から料理人としては凄いと思っていた。卓越した技術と知識をあわせ持つ高校生料理人。わたしと同格の達人だとね……。くふふ! しかし──。しかしだ。君が男としてもここまで圧倒的な支配力を秘めていたとは今の今まで気づかなかったよ。ちゃんとくらちゃんだけでは飽き足らず、まさに王様状態じゃないか。そう──つまりはあれか。君の体からほとばしおすの強いフェロモンが周囲のあらゆる女を骨抜きにしてしまうのか」

「ああ? 一体何を言ってんすか、部長」

ちまたでは何と言うんだっけ。えーと、草食系じゃなくて、粗食系でもなくて、肉食──。そうそう、肉食恐竜! 言うなればこんな時代だからこそ、ティラノサウルスのような男が求められるという訳で……」

「誰がティラノサウルスだ!」

 誤解を招く表現はやめてくれませんかね!

 と、突っ込むほん玄人くろと。だがその切れ味はいささか精彩を欠いており──状況が状況だから仕方無い。玄人くろとは今料理事件部の部室中央でに座っているのだが、それをあまの美少女が環状列石のように取り囲み──逃がす気が無いという意思表示だろうか──そしてバサバサと団扇うちわで扇いでいるのだった。

 しろでなくても、大抵の者にはこのように見えるだろう。

 はべらせまくり。

 一見、夏の暑さを心地良くやわらげてくれそうな光景だが、近くで見ると意外とそうでもないのは、彼女達の繰り広げている変な会話が原因だ。謎めいたおうしゆうが繰り広げられている。

「わたしのカレーが一番しいわよね、玄人君っ?」

 づきが泣き出さんばかりの表情で玄人を扇ぎつつ訴える。

「お願い、わたしの味が一番良いって言って!」

「いえいえ、一番美味しいのはわたしのですよ。なんたって高級ホテルの味ですもん」

 と、あかが優美に微笑ほほえみ、巨大な団扇をぶん回しながら言う。

「わたしのカレーだって美味しいわっ」と額に汗してくらさとが主張すれば、

「美味しいだけじゃダメさ。やはりカレーは美しくないと」とそらさきが言い、

「だからこそグリーンカレーだろう。色彩が美しいし、美味しいし」と各務かがみうなずき、

「ですよね」とユキが疲れたような声で締めくくる。

 ……一体カレーが何だというのか?

 ともあれ、計六人。

 玄人くろとを取り囲んだ美少女達は団扇うちわを一生懸命振って、さながら競うように──

 というか、実際口論しているのだった。か玄人をバサバサと扇ぎつつ。

 経緯はこうだ。

 夏休みを間近に控えた金曜の放課後、例によってやる気なさげに玄人が部室に顔を出すと、まだくらは来ておらず、代わりにあかが待ち受けていた。

「よう、赤座。早いじゃねえか」

「はい。玄人様をお待ちしておりましたもので」

 赤座伊衣子はしゆしような顔で両手を前で組み、妙に改まった言葉遣い──彼女が玄人を様付けで呼んでいるのには理由がある。

 先日解決したばかりの『魔術師事件』で赤座はせんざい意識に暗示を入れられ、玄人にこれでもかと攻撃(的な意味ではなく文字通りの直接打撃)を加えた。ところが後になって罪悪感に駆られたらしい。罪滅ぼしに当分優しく接したいと宣言し、そんな事はしなくていいと言う玄人に無理矢理つきまとい、何かとご奉仕しているのだった。

 赤座伊衣子は変な性格の女だが、決して悪人ではないし、玄人もその辺はわかっている。

(こいつは一度言い出したら聞かないからな……)

(とはいえ、反省する事自体は悪くない。何かしなけりゃ気持ちが収まらないなら、突っぱねるのも大人げ無い話だ。こいつが楽になるまで勝手にさせておくさ)

 ボリボリ耳を穿ほじりつつ玄人はに腰掛け、それを赤座がうれしげに団扇で扇ぐ。この日はいつにもまして暑く、そして料理事件部の部室にはエアコンが無いからこのサービスは結構気持ち良いのだった。

 やがて部室に未百合と血倉がやってきて──彼女達も事情は知っているから普段なら見逃せないこの状況にもノーリアクション。正確には未百合は文庫本に目を落とし、血倉はノートPCのモニターに向かいつつ、赤座の様子を横目でうかがっているのだが、(未百合は本を上下逆に持ち、血倉が操作中のワープロソフトには宇宙からのメッセージが打ち出されている)──何はともあれ、表面的には平静を装っていたのだ。

 そう。

 聞き捨てならない、こんなやりとりを聞くまでは。

「ところで玄人様、夏休みは何かご予定があったりするんですか?」

「あ? 別にねえけど」

「それは良かった! おひまな玄人様に朗報ですよ。わたし、実は割とアウトドア派なんですけどね。いつも夏は自主トレを兼ねてキャンプに行くんです。一緒に行きません?」

 赤座伊衣子は団扇で玄人をぱたぱたしつつ、あっけらかんとそんな風に誘ったのである。

 血倉はPCの画面をカッとにらみ付け、未百合は本を持ったまま雷に打たれたような顔で固まっていた。

「おいおい、キャンプって……。このクソ暑いのに物好きなやつだな」

「自然の中でワークアウトするのって、すっごく気持ち良いんです。一緒に行きましょうよ、玄人くろと様ぁ」

めんどうくせえなあ。せっかくの夏休みだぞ。家でごろごろしてりゃいいだろ」

「またまた、本当は行きたいくせに。遠慮しなくていいんですよ。わたし、ツーリング用の良いテントを持っていてですね。これの寝心地が最高なんです。あと、秘蔵のダッチオーブンでしい美味しい自慢のカレーを作って差し上げますから」

「何っ? ……お前、ダッチオーブンを持ってるのか?」

 ダッチオーブンとはちゆうてつせいふたなべの事だ。蓋に炭火等の熱源を載せて上下から熱する事ができるから、鍋としてだけでなくオーブンとしても使用可能なすぐれ物である。

「……ふうん。どうすっかな」

 微妙に食指が動いている玄人。料理の事となるとやはり無関心ではいられず、頭の中では早くもダッチオーブンで作れる各種料理が首輪を外された犬のように駆け回り始めていた。

 が、

「あ、あのっ、わたしもカレーは大得意よっ! カレーは絶品なのっ!」

「うぉう?」

「だから、わたしもキャンプに……!」

 驚異の瞬間移動──いつの間にかづき未百合が玄人の隣に陣取り、部室に備え付けの団扇うちわを振っていた。大きな瞳をうるませて切実な表情だ。いつも反応がワンテンポ遅い葉月未百合、時折こんな風に予想外の速度を見せるからあなどれない。

「えーと、未百合さんはカレーが得意なんですか?」あかたずねると、

「はいっ、そうなんです! 食べる方が得意ですけど、カレーには自信あるんです。お母さん仕込みのカレーなので最高に美味しいの。だからわたしも一緒に……っ!

「どんなカレーなんです?」

すごい彼! あ、いえ、ごめんなさい……。どんなカレーっていうか、そんなにった事はしていない、所謂いわゆるスタンダードなカレーなんですけど」

 未百合は若干決まり悪そうに体を震わせながら、

「でもでも、とっても丁寧に作るんです! とりにくをヨーグルトにひたしてお肉を柔らかくしたり、たまねぎあめいろになるまでバターでいためたり、それからそれから、じゃがいもを背徳感にさいなまれそうなくらいたっぷり入れて……。あ、わたし、カレーのじゃがいもって大好きなんですよね。ねえ赤座先輩、あれって凄く美味しくないですか?」

「カレーのおじゃが? んー、どうでしょう……」赤座が天井を向いて考え始めた時、

「あら、未百合さんはカレーにじゃがいもを入れるというの?」

 それはオススメできないわね、とくらがすくっと立ち上がった。団扇うちわを手にして玄人くろとそばに歩み寄ると、ぶんぶんぶんぶん、涼しい顔に似合わないもうれつな扇ぎぶりをろうして言う。

「じゃがいもは煮崩れしやすいから、わたしは入れないわ。だって、どうしてもドロッとしちゃうもの。うちのレシピを教えてあげるわ。南瓜かぼちや、いんげん、、トマト、ピーマン。これだけでも充分良い味が出るのよ」

「そっかあ。血倉さんの家ではじゃがいもを入れないのね」

「ええ、うちの野菜カレーはいつもこれよ。いんげんが色鮮やかですごく食欲を誘うの。さんも一度試してみて」

「ン……。でも血倉さん、じゃがいもが入っていないと食べ応えというか、もっさり感が足りない気がしない?」

「あら、そこが良いんじゃない。カレーはさっぱりしてる方がしいわ」

「そ、そうかしら。何となく物足りないような……」

「そんな事ないわよ。他の野菜だけでも食べ応えあるわ」

「だけど、あのじゃがいものホクホク感は捨てがたいと思うし」

 そんな事ない、そんな事ある、と未百合と血倉のカレー論争は加熱していく。

(どうでもいいが……俺を扇ぎながら討論する?)

 未百合、血倉、あかのいる三方向から扇がれて髪型が変になっている玄人。この手のやつかいそうな話には加わりたくないので乱れ髪のまま静観を決め込もうとしていたが、

「ねえ、玄人君っ!」

 話を振られてしまった。

「玄人君はどっちが好きっ? 未百合カレーにはじゃがいもとジューシィなお肉がいっぱい入っていて、ボリューム満点なのよっ。食べたいでしょ。食べてくれるわよねっ……?

 力いっぱい団扇を振り回し、その勢いで豊かな胸をゆさゆさ揺らしつつ、切迫した表情でたずねる未百合さん。みような迫力が漂っている。

 だが血倉も負けてはいない。

「フフン、こちらはじゃがいもは入ってないけれど、他の野菜がいっぱいよ。ピリッと刺激的なさとカレーは凄く良い味なんだから。こちらの方が好きよね?」

「そんな事ないわ。玄人君はこっちの方が好きよっ」

「こちらよねっ?」

「わたしの方が美味しそうでしょうっ?」

「わたしのだって良い味よっ?」

「も、もぉ! 玄人君はわたし達のどっちを食べたいのっ?」

(……何なんだこいつら……。たまにこんな風に変になっちまうんだが)

 ジト目で風に吹かれている玄人──何故か胸がザワザワする。この状況、何をどう答えても火に油を注ぎそうな気配が濃厚だが、しかし、そこはそれなりにしゆをくぐってきた男だ。

「と、ところであか! お前はどんなカレーが好きなんだっ?」

「わたし?」

 決して華麗とは言いがたいものの、どうにかスルーパスを送る事に成功した。くらはぷりっと唇をとがらせるが、しかし口論は収束し、玄人くろとは内心胸をで下ろして言う。

「お前さっき言ってただろ。秘蔵のダッチオーブンでまんのカレーを作ってくれるってよ。そう言われると気になるじゃねえか。赤座家のカレーはどんな物なんだ?」

「あーはい、それはですね」

 ふふふ、我が家の自慢のカレーは……ともつたいぶって微笑ほほえむ赤座。誇らしい物について語る時、人はとても魅力的な顔をする。赤座は『垂れ目の柔和令嬢』の二つ名にじない優美さで目を細め、ほっそりした人差し指を立てて──

「レトルトです」

 と、言った。

「……おい!」

 玄人はこぶしを握り締めた。

「お前、これだけあおっといてレトルトか!」

「あら? レトルトと言っても最近のはすごいんですよ。基本、売れ線のやつなら何でもあります。百貨店の専門コーナーに行くと、種類があり過ぎていつも迷っちゃうんですよね。高級カレーにご当地カレー。ホテルのカレーなんかは味だけじゃなく、お値段も結構な物ですし」

「や、そりゃ知ってるけどよ……。せっかくのダッチオーブンの意味がねえだろ」

 レトルトならった道具は不要。お湯を沸かせればそれで良い──のだが、そこは予想外の女、赤座伊衣子である。

「や、玄人さん。早とちりしないでくださいよ。ダッチオーブンではナンを焼くんです」

「ナン? 何……だと?」

 と、言ってしまってから、ちいっと舌打ちする玄人。これが若さというものか。

 だがしかし、玄人のかましてしまったボケに気づく事なく、赤座は意気ようようと語り続ける。

「本当にしいカレーを野外で作るのは大変ですからね。それなら割り切ってレトルトにした方がかしこいってもんです。んでもって、ダッチオーブンでは熱々のナンを焼く。出来たてホヤホヤの香ばしくてほのかに甘いナン! あれはほんとに美味しいんです」

 レトルトカレーなら色んなお味が楽しめますし、ナンをちぎってよりどりみどりのそれに付けて食べた方が楽しめます──と言う赤座伊衣子の理屈は存外まともであった。

「ううむ、言われてみれば確かに。野外で手軽に楽しむなら、それが上策かもしれねえ」

 と、玄人が納得しかけた時だ。不意に部室のドアが開いて、

「本当にそうだろうか? キャンプでレトルトカレー。その行為が果たしてビューティフルと言えるのかい?」

「……めんどくさいヤツ来た!」

「それは美しく咲くのかい?」

 現れたのは陸上部のそらさきであった。

 美咲はそばにあった団扇うちわを手に取り、さつそうと歩み寄ってくる。あかくらの輪に加わると、玄人くろとを扇ぎながらりゆうちように語り始めた。

「いや、キミ達のおかげでスランプも脱した事だし、お礼を言いにきたんだけどね。それより一言言わせてほしい。キャンプでレトルトカレーは行為として美しくない。本末転倒さ。青空の下で野菜を切ったり焼いたり……そんな風に青春してる僕達のほおを伝う清らかな汗! 輝く太陽! 素敵な筋肉! そういうのがビューティフルなんじゃないか!」

 この人は基本的に体育会系だが、独自の美意識を持っているのだ。いやいや、清らかな汗とかどうでもいいよ、と玄人があしらおうとした時、再び部室にちんにゆうしやがやってきて、

「ふむ、ビューティフルなカレーか。ならばグリーンカレーが一番だな」

「わたしもそう思います」

「……こいつらまで来た!」

 各務かがみユキ──先日仲直りして更にきずなを深めた、占い研究会の暗示遣いコンビであった。

「お前ら、一体何の用なんだ?」

「いや別に。たまたま通りかかったものだから」

 そうしたら楽しげな声が聞こえたものだから、と各務はサラリと髪をき上げ、雪花菜ユキと共に室内に入ってくる。近くにあった団扇を持って玄人の傍に陣取った。

「わたしはタイカレーがとても好きなんだぞ。あの独特の風味とココナッツミルクのまろやかさはたまらない物がある。汁気多めのカレーソースに、大きな柔らかチキンがごろごろ入っているんだ。すごしいよな、からくて。グリーンカレーあり、レッドカレーありと色彩もれいだし、美しいカレーといえば、これはやはり外せないんじゃないのか?」

「イエローカレーもありますけど、わたしは黄色があまり好きじゃないので」

「そんな事はいてねえよ、会長さん……。ていうか、何なんだお前らは、ほんとによ」

 各務と雪花菜も扇ぐメンバーに加わり、玄人は全方位から間断なく風を浴びせられている。

「そんな! わたしのが……未百合の愛妻カレーが一番美味しいわよね、玄人君っ?」

「いえいえ、わたしのが!」

 そんな他愛ない口論と共に。

 うらやましいのかそうでないのかみような光景だが、玄人は乱れた変髪のまま、ひたすら黙し──選べと言われても選べない。国民食に優劣なんか付けた日には血を見るのは明白だ。

 ともあれ、やがて部室の主であるしろがやってきて、前述のティラノサウルス発言につながるのだった。

 そして。

「くふふ」

 と、じよううちしろは不敵に笑んで言った。

「ボスが肉食竜ティラノサウルス。ならば……わたしは差し詰め翼手竜プテラノドンというところかな」

「あああ? まだその意味不明なネタをふくらませる気ですか、部長」

「くふふ、そうじゃない。これは謎かけだよボス。ほん玄人くろとがティラノサウルスとかけて、城之内白奈がプテラノドンと解く。その心は? ボスに対抗できるのはドンしかいない」

 ギャーッス! 今わたしうまい事を言ったー。

 と、のたまい両手を広げ、白奈は翼手竜よろしく白衣をばたつかせる。……超残念。ようぼうがスーパーモデルなだけに、それは心底、掛け値無しに残念な姿であった。玄人を団扇うちわで扇ぐ美女軍団──もとい、美少女軍団もカレーの話を中断してこおり付いている。

 が。

 不意に白奈は腹部を押さえ、ピタリとその動きを止めた。

 突然どうしたのだろう? 雰囲気は一転してシリアスだ。か白奈は無言できびすを返し、優雅なモデルウォークで部室を出て行こうとする。

「どうしました、部長?」

「トイレ行ってくる」

 玄人はズルッと落ちした。白奈はそのまま足早に部室を出て行った。

 しかし、何故かすぐに引き返してきた。

 モグラたたきのように廊下から顔だけのぞかせ──

 そして言う。

「別にカレーの話題に触発された訳ではないよ? つまりその……大きい方ではないから」

「どうでもいいよ、そんな事は!」玄人は声を荒らげた。

「わたしがしたいのは、おしっこの方なんだからねっ」

 何故かツンデレ風に言い放ち去っていく城之内白奈──カレーの話に水を差したかもしれないとしたのだろうか。だとしたら気配り上手だが……否、やはり気配りにも程がある。これぞありがた迷惑の最たる物だ。

 ともあれ、白奈の発言で場の空気は沈静化し、カレー談義を続けようとする者は皆無。玄人を取り囲んでいた美少女達はヨロヨロと力なく定位置に戻っていくのだった。


      2


 歓楽街の外れの外れ──怪しげな雑居ビルがひしめき合う場末のペンシルビルの屋上に奇妙なペントハウスが建っている。

 物置小屋だろうか?

 こぢんまりとしたたたずまいゆえにそう判断されがちなのは致し方ないが、いささか早計というものだ。近くで見ると三角屋根から煙突が突き出し、TVアンテナも設置されているとわかる。エアコンの室外機こそ見当たらないが、れっきとした人のすみだ。

 季節は七月半ば。蒸し暑い夏の夕暮れ時。

 冷房の無い、そのプレハブのペントハウス内でもんもんとしているのはほん玄人くろとだった。

「……暑い」

 彼は過去に起こった、とある料理事件のせいで親元を離れ、ここで何年も一人暮らしをしている。この住居はビルのオーナーからの提供だ。無料に近い家賃で借りられているのは問題ありの物件だからで──というのも、このペントハウスは建築基準法に違反していないか、検査を受けた後で建て増しした物なのだ。よって、知り合いにしか貸す事ができず、だからこうして玄人が居座っている訳だった。

(それにしても暑い……)

 玄人は上半身裸でベッドに腰掛け──隣にが裸身を横たえていたりはしない──団扇うちわで自分を扇ぎながら渋い顔をしている。学校から帰宅後、かれこれずっとだった。

(クソッ。俺とした事が……この暑いのに何てこった)

(カレーが食いたくて食いたくてたまらねえ)

 先程学校で繰り返し話を聞かされたせいか、舌がすっかりカレーを欲していた。料理心理学でいうプライミング効果──特定の単語が意識に作用し、その後の行動に影響を与える──なんてうんちくつぶやいても状況は変わらない。

 玄人は軽くかぶりを振り、上着を着て立ち上がった。

(そう言えば、近くの商店街に新しい洋食屋ができたって聞いた)

うわさじゃあ、そこのカレーがかなりうまいらしい)

 一度行ってみたいと思っていたのである。

 経済上の理由から普段はあまり外食しないが、丁度良い機会だ。部屋を出た玄人は素早くビルの階段を下りていった。自他共に認めるめんどうくさがりだが、食べ物の事となると彼の積極性は七倍にアップする。セブンアップ──が、扱われている自販機の前を通り過ぎ、角を曲がって大通りへ。交差点を渡って雑踏ひしめく商店街へと繰り出した。

 そして。

(確かこの辺だと思ったんだが)

 ネオン看板がまぶしい商店街のアーケードの下で、玄人くろとは周囲をきょろきょろ見回していた。

 何となくこの辺だろうと当たりを付けて来たのだが、目当ての洋食屋は見つからない。いや、そもそも目的地を調べてから出発しろよ、と彼がもう一人いたら突っ込んでいるところだ。

「調べるか……」

 玄人が携帯を取り出したその時だった。突然心臓が強く打つ。ある人が目端を横切った気がしたからだ。はじかれたように振り返ると、人混みの中に懐かしい女の後ろ姿があって、

(まさか)

(いや! こんな所にいるはずはない。他人の空似に決まってる!)

 と思いながらも、遠ざかる背中から目が離せない。

 都会的なスーツをさつそうと着こなした女だった。どこかミステリアスな空気をまとっている。髪が少しウェーブしているせいか、周囲の空気をねじ曲げ、ともすればしんろうを発生させているような──いや、もちろんそんな筈ないのだが、女は地面から数センチ浮いているような足取りで人混みをすり抜け、商店街の奥へ進んでいくのだった。

(……まさかとは思うけどよ)

 玄人は女の後を追った。

 人波をき分け、搔き分けて、見失ってなるものかと急ぎ、それでも女との距離は開いていくばかりだ。やがて横道に入るとすでにそこに女の姿は無く──

 見失ってしまった。

 玄人は大きく息をくとけんみほぐした。

(やれやれ、俺は何をやってるんだ。あの人がこんな所にいる訳は無いってのに──)

「……って、ん?」

 思わず目をみはる。すぐそばに探していた洋食屋があったのだ。


    ◆ ◇ ◆


 そこは洋食店カシミア、という。

 一ヶ月前に開業したばかりながら、既に何十年も前からあったような雰囲気をかもし出している温かみのある店だ。もりちようには奇抜な飲食店が多いから、むしろぼくさを武器に激戦区へ切り込むべし──という意図があるか無いかは不明だが、そんなレトロな雰囲気の店を持つのが主人であるかしみやの夢だったらしい。店内の壁に飾られたボードにはそのむねがオブラートに包まれて書かれている。

 とはいえ。

(ううむ……。これじゃ店主も気が気じゃないだろうよ)

 黒ずんだカレーをスプーンですくい、よく煮込まれた牛肉のうまみ締めつつ、玄人くろとはカウンター席の隅から、店内中央のテーブル席にちらりと目をやった。

 ちょっとした問題が起こっていたのだ。或いは料理事件とも言う。

 店内──カウンター席以外には、四人掛けのテーブル席が適度な空間をはさんでバランス良く配置されている。そしてど真ん中の一番良い席に風変わりな客がぽつんと座っていた。

 ベレー帽をかぶった少女だった。

 ストレートの髪に自己主張の強いデザインの眼鏡。ようぼう自体は整っているものの、り上がり気味の大きな目は妙に思い込みの強そうな印象を与える。か鼻をヒクつかせ、更に奇妙な事に腕時計に似たごつい何かを手首に巻いていた。

 着ている制服には見覚えがあった。

(あれはうちの学園の中等部の制服だよな。二年……? いや、三年だったか)

 どちらにせよ、かぜもり学園に通う中学生なのは確実。同じ学園の先輩として声でもかけた方が良いのだろうか? 風変わりなのは彼女の容姿でなく行動なのだ。

 食べない。

 それどころか微動だにしない。

 彼女のテーブルには玄人が食べているのと同じビーフカレーが載せられているのだが、先程からそれをにらむように見ているのだった。何の真似だろう……? 周囲の客は見ないふりをしつつも気にしまくり、せっかくの落ち着いた店の雰囲気が完全にぶち壊しになっていた。

 玄人くろとはカウンターの奥でそわそわしている男に小声で話しかけた。

「あの、店長さん」

「何でございましょう?」

 と、答えてから男がギョッと目を丸くしたので、玄人は素早く先回りして答えた。

「や、従業員の視線を追うと、あなたに向かうものが一番多いですからね。つまり責任あるポジションだ。あと、キャリアの長い料理人独特の身のこなしをしているし」

「ああ、それで店長だと……」男はぽんと手を打ち合わせて、「ていうか、突然話しかけられてびっくりしただけなんですけどね」

「やっぱそうすか」

「店長のかしみやです」

 根が律儀な玄人も思わず、どうも、と自己紹介したりなんかして──。

「ところで一体何なんです、あれは?」黒目だけを例の少女に向けて玄人はいた。

「実は、そのぉ……」

 樫宮の話によれば、彼女が来たのは一時間程前だ。この店まんのビーフカレーを注文し、料理が運ばれてくるや否やその皿に見入った。以後ずっと、今の今まであの状態をキープし続けているという。

「この辺じゃ有名らしいんですよね、あのベレー帽の娘……。何が目的かは知りませんが、カレーを扱う新しい店ができると現れて、いやがらせするそうで。や、青天のへきれきと言いますか、正直面食らってます。確かにうわさにはちらほら聞いてましたよ。でも、念願の店を持って一ヶ月。まさか自分がこんな目にうなんて」

 災難でしたね、と玄人は言う。

「でもそうか。ありゃ嫌がらせなんですね。ふん、飯がまずくなるような真似をする。で、樫宮さん。やつと話はしてみましたか? こうしようというか、何が目的なのか解れば今からでも穏便に解決できるかもしれない」

「ええ、幾度か控えめに声をかけてみたんですけどね……。体調でも悪いのなら大変だと思いまして。ところが話をしてくれないんですよ。あんな調子で料理を見つめたまま、こちらに顔を向けもしない。……カレーもとっくに冷めちゃってるだろうになあ」

 どうしたものか、と玄人は思う。嫌がらせだと確定したなら対応は限られる。ヤのつく稼業人の振る舞いに置き換えて考えれば解りやすいが、要は店の評判が落ちる事態を招くのが目的だから、強く出ればますます相手の思うつぼなのだ。

 が、こうしていてもらちが明かないのもまた事実で──参ったなあ、本当に参った、と店長樫宮は額に手を当てて困り果てている。

(ったく、仕方ねえ。だったら同じ学園の先輩である俺が……)

 と、玄人くろとが思いかけた時である。

「いや! もうこうなったら四の五の言っていられない! お嬢様に頼るしか!」

 そう言ってかしみやはグッと力強くこぶしを握るのだった。玄人は思わずぽかんとする。

「はい? お嬢様……?」

「あっ、いやそのですね。こういう時に頼りになる御方を知っていまして。私の修業先の娘さんなんですが、とにかく無茶苦茶良い人なんですよ! 人徳があるというか、度量が大きいといいますか、食に関する知識も豊富で……。ええ、あの御方なら事態をつつがなく収めてくれるはず。ありがとうございます。お客さんのおかげで電話する踏ん切りがつきました!」

 ちなみにこの世のものとは思えない、女神様みたいな美人なんですよ──

 と、微妙に事態と関係無い事を付け加えて奥へ引っ込む店主樫宮。余程そのお嬢様とやらに心酔しているらしい。

 電話をかける声がちゆうぼうからかすかに聞こえてくる。

(ふうん、お嬢様ねえ)

 気勢をがれた体の玄人だが、樫宮の言葉には興味を覚えた。

(人望があって、食の知識豊富で、おまけにこの世のものとは思えない美人……? そんなすごいお嬢様がこの町にいたのか。どんなヤツなんだ?)

 我が道を行くタイプだが、玄人も高校生男子。そんな女が来るなら一目だけでも見たい。

 カレーを食べる速度を微妙に落とし、さりげなく待つ事しばらく──やがてその女が店のドアを勢い良く開いたのだ。

「イエーイ! みんな、ノッてるかーい?」

 残念な、あまりに残念過ぎる台詞せりふと共に。

 ぜんぼうぜん……。夏だというのにシベリア寒気団が襲来したように店内の空気はこおり付き(当然であろう)、例のベレー帽の少女もあんぐり口を開けて固まっていた。

「おや、返事が無いな。どうしたのかなー」

 耳に手をあてがい、味のある表情で店内の様子をうかがっているその女──やがて皆が無反応なのであきらめたのか、制服の上にまとった白衣をひるがえして悠然と歩み寄ってきた。カウンターに突っ伏している玄人をいちべつして、ほっ? と目を丸くする。

「そこにいるのはボスじゃないか。君も人が悪い。先に言ってくれれば良かったのに」

「……や、そういう訳にも」

 それだけ言うのがやっとの玄人。そう──店主樫宮にすけとして呼ばれたのはじよううちしろなのだった。

「お、お嬢様ぁーっ!

 あわただしく奥から樫宮が駆けてきた。ひざがしらに頭が付きそうなくらい深くお辞儀して、

「わざわざご足労頂きまして申し訳ございません! 誠にありがとうございますっ!」

かしみや。元気そうで何よりだ」

「わたくしなどにありがたきお言葉、もつたいくて涙が出そうですっ!」

 二人のやりとりを見て玄人くろとは思う。そう言えばしろはこの町一番の名士、じよううちしようろうそうそん。忘れられがちだが、実はものすごいお嬢様でもあるのだ。自由過ぎるのが玉にきずだが。

「ところで樫宮」白奈は店内をぐるりと見回すと、「例の子というのは?」

「はっ! あちらでございますっ」

 先程の残念発言の影響で、いまだ凍結しているベレー帽の少女を樫宮が指差すと、白奈はこくんとうなずいた。優雅なモデルウォークでそのテーブルに近づいていき、

「うり」

「ヒャッ?」

 白奈はベレー帽の少女を前触れも無く抱き上げた。そして──

 ずだだだだだだだだだっ。電光石火のすさまじい速度で奥の部屋へ運んでいったのだった。


      3


「くふふ。城之内家は料亭を複数経営しているんだが、樫宮はその一つで働いていた料理人でね。昔はよく一緒に料理を作って味比べをしたものだよ。彼の好物は日本風西洋料理。つまりは気持ちのほっこりするたぐいの洋食だ。コロッケとかエビフライとか……うむ、それは決して高級かいせき料理に劣る物ではないんだよ。だから独立して洋食屋をやりたいと言い出した時はお父様も止めなかった。快く送り出し──いや、それどころか豪快に資金援助する始末。いやはや、あの人のおひとしにも困ったものさ」

 そう言って白奈は肩をすくめる。完全に自分の事を棚にあげていた。

 ここは洋食店カシミアのバックヤード──最奥にある殺風景なスタッフルームだ。

 玄人と白奈はチェアに座り、例のベレー帽の少女に話しかけていた。いまあつに取られている彼女の硬直をほぐす為だ。まだ営業時間内なので白奈が店長から事態を任されたのである。

 やがてベレー帽の少女はハッと我に返り──そして意外な行動に出た。

「くっ……。しくじっちゃったよ!」

 少女は手首に巻いた腕時計的な何か──最新の電子ガジェットか? その側面部のボタンを押した。カバーがスライドして数字が並んだ液晶が露出する。マイクとおぼしきしよに顔を近づけ、張り詰めた声で少女は言った。

「オレンジゼリー、こちらコードネーム・レモンゼリーだけど、少々まずい事になったよ。どうやら敵にされてしまったみたい!」

 ボイスメモ機能を使っているらしい。

「彼らが《組織》の者かどうかはまだわからない。二人一組ツーマンセルで、一人は城之内家のお嬢様を語っているんだけど、果たして本物かどうか……。いや、でもどうにかしないとね。まずは情報を引き出すのが先決だと思う。やってみる!」

 そして少女はスイッチをオフにしたのだ。が、

 ポカーン。

 流石さすが玄人くろとも開いた口がふさがらなかった。

(な、何だこいつはああ……?)

(俺は変人へのめんえきがそれなりにある方だと思っていた……。だが参ったぞ。こいつは今まで出くわした中でも最高に変な女かもしれねえ)

 そんな玄人のヒキッぷりにもとんちやくする事なく、少女はベレー帽をかぶり直す。まるで親のかたきでも目にしたような──ちょっと待て、ここは現代日本なんだぞ、と突っ込みを入れたくなる程シリアスな表情でこう言ってのけるのだ。

「あんた達、やつらの手先でしょ? あたしをして一体どうするつもりっ? 言っておくけど、あたしは何をされたって口は割らないよ。時間跳躍の秘密は絶対に渡さない!」

 と、言い終わった途端スタッフルームに満ちるせいじやく。……気まずかった。ごめんなさい、こういう時どんな顔をすればいいか解らないの、という幻聴が聞こえてきそうな沈黙に、玄人は冷や汗を流しながら言う。

「……あー、時間が何だって?」

 するとベレー帽少女はハッとすごい勢いで口を押さえ、青ざめるのだった。しまった……とつぶやいているそれが一人芝居なのか天然なのか微妙なところだ。ともあれ、彼女は言う。

「そ、そう……。バレてしまったんじゃ仕方ないかな。あたしの名前はこもかぜもり学園中等部の三年生よっ!」

「何だ。三年か」

「何だって何よ?」

「や、てっきり二年かと──って、それはまあいい。制服がうちの学園のやつだもんな。俺達は風乃森の高等部一年だ。俺はほん玄人で、こっちはじよううちしろ

「あ、やっぱりっ? 城之内家のお嬢様っていうのは本当だったのねっ?」

「お嬢様……。その言い回しが微妙にしっくりこないのは、多分俺のイメージがステレオタイプだからなんだろう。とはいえ、事実関係だけを客観的にとらえればその通りだ。こいつは言わずと知れたこの町出身の食道楽、城之内しようろうそうそんだよ」

「わああ!」

 真菰は眼鏡のブリッジを指で上げると、どうけいまなしを白奈に向けた。

「確かに学園の構内で、白衣を着たこの人を幾度か見た事ある気がする。でも、まさか城之内家の人だったなんて……!」

 どうしよう。サインとかもらっちゃおっかな?

 瞳を大きくしてそんな事を言うこも。意外とミーハーなやつである。しろは部外者にこういう反応をされるのが珍しかったのか、変顔になってギクシャク頭をいていた。

「まあその辺はお前らの好きにしろよ……。それより質問に答えてもらおうか。真菰、お前は何だってあんな真似をしてたんだ? カレーに手も付けずに、ずっと店に居座りやがって」

 途端、真菰はきゅっと口をつぐむのだった。

「なあ、こっちは金を払ってうまい物を食いに来てんだぞ? せっかく楽しむ為に来てるのに、あんないやがらせされたら、気になって食事どころじゃねえだろうが」

 と、言いながらもしっかり味わって食べた玄人くろとだが、他の客はそうではないはず。そしてそれ以上に店の従業員は生きた心地がしなかっただろう。店長のかしみやは特に。

 と、不意に真菰は手首のデバイスを操作した。ぱかっとしゆつしたマイク部分に口を近づけ、

「オレンジゼリー、こちらはコードネーム・レモンゼリー。現在十八時三十五分、敵にじんもんを受けているところよ!」

「また始まった!?

 面倒くさっ、と玄人は思う。

「尋問相手は妙にハードボイルドな感じの男で、頭も回りそう。きっとじよううち家の用心棒ってところね! でも、ウン。こうしていても仕方ないし、今からこちらの情報を少しだけ開示して様子をうかがってみる。それでは!」

 プツン。真菰はボイスメモを録音し終えると大きく息をいた。

「じゃあ言うけど」

「おう、言え言え」

 びっくりしても知らないからね、と真菰は不敵な表情で前置きすると、

「あたしね……実は、普通の人間じゃないんだ」

「何だって?」

 能力者なのよ、と重苦しい声で言う。

「何を隠そう、あたしは……『時間跳躍者』なの。手首のこの機械は専用のマルチたんまつよ」

 ──あれは嫌がらせをしていた訳ではない。『時間跳躍』していたのだ。自分はある種の限定的条件下でのみ発動するタイムリープ能力者で、記憶だけを過去に『飛ばす』事ができる。外見上は何の変化もないが、思念は時空間を移動しているのだ。あれは未来でカレーを食べ、それがまずかったから、まだ食べていない過去に記憶だけが戻ってきたところなのだ──

 と、そんな風に真菰は語った。

「ふうん」

 玄人は目をすがめる。どうしてくれよう。……正直がっかりなうそだった。ばくだん発言をしたつもりらしい真菰は息を詰め、玄人の反応をひたと見守っている。

(クソッ。要はかまってちゃんだったって事だな。参ったぞ。こんな面倒なやからだと解ってたら関わるんじゃなかった)

(仕方ねえ。後はしろに任せて俺は帰らせてもらうか)

 何だかんだで白奈なら最終的にはどうにかするだろうと思い、だるそうに振り向いた玄人くろとが見たものは意外な光景──クワッとどうもくし、かくせいしたようにカタカタ体を震わせているじよううち白奈の姿であった。しかして、

「ふひゃああー!」

「……部長っ?」

 いきなり奇声を発したので、白奈の頭がいかれたのかと一瞬ギクッとした玄人だが、

「これはすごい事になったぞボス! 時間跳躍だ! この子は時間跳躍者だったんだよっ!」

 白奈はいたって真剣だった。息を荒らげてまくし立てるその勢いに玄人もたじたじである。

「いやー、凄いっ。凄いぞ! 時間跳躍は別名タイムリープとも言うんだがね! これはほんとに凄い能力なんだ! 何たって、走ってジャンプするだけで過去に戻れるんだから! わたしはあの映画を観て心底感動したんだよ! こないだもTVの再放送でやっているのを観たんだが、えーと、何て題名だったっけ。えーっと……」

 やがて白奈は頭上にピコンと電球を灯らせた。そして──

「時そば!」

 と、言った。

「そりゃ落語だ!」

 時かけそば──みたいな。

 とはいえ、浮かれまくる白奈の耳に玄人の突っ込みは届かない。ビヨーン、ビヨーンと時をかける白奈のポーズで四方八方ジャンプしまくり、残念ここに極まれりという光景だ。

「ったく……。はいはい、もうおふざけはその辺でいいんで」

「ほっ?」

 白奈の耳元に顔を寄せて玄人はささやいた。

(や、部長だって本当はわかってるんでしょう? あれはそういうもんじゃない。時間跳躍とか能力とか、ぶっちゃけ建前は何だって良いんですよ。所謂いわゆる、厨二病ってやつで)

(チュー……。って、何それ?)

(知らねえのかよ!)

 澄んだ目をしてうなずく白奈。本当に知らないと見える。

「……や、端的に言えば思春期におちいりがちなパターンの一つです。ほら、俺達だって覚えがあるでしょう。突然マイナーな洋楽聴き出したりとか。部長は経験無いすか?」

「無いなあ。だがまあ、もともとわたしは変な女だからね! えっへん!」

「両手を腰に当てて言う事か……」

 思春期に人は己の自意識と相対するが、その際に素の自分を許容できないと、外的な何かを過剰に取り入れ、補強しようとする。本質的には自分を確立したいという欲求のはつだから、悪いものではない。……しろのように明確な自己を生来持っている変人はかんしないようだ。

「かくいう俺も中学一年の時に発症したんですがね。時間がてば自然に消えます。だからあいつは放置しときましょう。放っとけばいいんですよ」

 ふうむ、と白奈はげんな顔で首をかしげると、

「しかし、彼女は時間跳躍者なんだろう?」

「や! だからあ……」

「とにかく、興味深い!」

 白奈は玄人くろとの肩を軽くたたくと、ワクワク顔でこもに歩み寄っていくのだった。

「真菰ちゃん。良かったら時間跳躍の話、もっと詳しく聞かせてくれないか? くふふ、わたしはそういうおもしろい話を聞くのが大好きなんだよ。非常に心躍る!」

(おいおいマジか……。白奈のやつ、本気であの与太話を信じたのか?)

 めんどうくさい人と残念な人が接触し、よりやつかいな化学反応を起こす気配が濃厚になってきた。玄人はけんみほぐしつつ事態を静観する──。


「で、真菰ちゃん。君のタイムリープ能力は生来の物なのかい?」

「そうじゃないけど……」

「ひゃあ! となるとすごいぞ。後天的に身につけられる訳だ。いやー、わたしも使えるようになりたいなあ。そんな能力があったらしい物を何度でも好きなだけ味わえる!」

 二人の話は長時間続いた。最初は警戒心をき出しにしていたこもも、おもしろいように話を信じるしろ──つい先程前まではあこがれのじよううち家の令嬢という認識だった──を前に、少しずつ口がなめらかになってくる。さながら内緒の目配せをするような表情で、

「でもさ。実際こんな能力があると意外と大変なんだよ……?」

「そうなのかい?」

「うん、結構大変」

 なんて言いながらも、真菰は口元をほころばせて何だかうれしそうに見える。

「よくよく考えればそうかもしれないな。わたしは根が楽観的だから、大変な事すら楽しんでしまいそうだが。さておき真菰ちゃん、君が能力を身につけたきっかけは?」

「えっと、あれは三年前だね。あたしが小学六年生だった時の事なんだけど。学校から帰ると家に見知らぬ人がいて……うちは電器店だから、お得意様とかお客さんがしょっちゅう出入りしてるんだよ。で、その謎の人が、おなかかせてたあたしにカレーを作ってくれたんだ。それが衝撃体験! すっごく美味しいカレーで、脳に新たな回路が開かれちゃったの。あたしが能力に目覚めたのは、それが始まり」

 カレーをトリガーとしたタイムリープ──

 まずいカレーを食べた時、記憶だけが強制的に過去へ転移するのだと真菰は言う。

「ああ? 見知らぬ人がカレーを作ってくれて? それで力が目覚めただって?」

 あやしい話にも程があるだろう。

「ていうか、そもそも何でカレーなんだよ?」玄人くろとくと、

「あたしはライスで食べる派」

「何でって、そのナンじゃねえんだよ……」

「え? どういう意味?」

「お前、今絶対わかってて言っただろ!」

 どうでもいいうそきやがって、と玄人は思う。とにかくああ言えばこう言うヤツなのだ。

じようだんはさておき──どんな事にでも引き金ってあるじゃない? それがあたしにはカレーだったって事だよ。『ある種の特別なカレー以外は受け付けないという願望がタイムリープ能力として発現した』……と、いえば聞こえはいいけど、うーん、実際は意識の中に感覚を暴走させるスイッチみたいな物ができちゃったんじゃないかな? ホラ、食べ物の味を感じるのは舌だけど、美味しいと思うのは意識だから」

「……物は言い様だな」

 玄人はぶつちようづらで与太話に付き合う。

 真菰いわく、彼女が世界を認識している意識に、未知なるカレーの美味しさの刺激が新しい心的機構を作り出した。それはこもの意識に形成されたシステムだから、当然真菰の意識にだけ作用する。

 意識だけのタイムトラベル──。

 真菰の思念はぶん前にタグの打たれた四次元時空間座標(x、y、z、t)に戻ろうとするのだが、世界とはリアルタイムで組織化され続ける永遠無限の分岐構造。タグを時空間検索するだけでも相当な処理時間を要し、その際のタイムラグが硬直──カレーを見つめたまま微動だにしない時間を作る。だから決して店にいやがらせをしていた訳ではない。

 とはいえ、こんな突拍子も無い話を誰も信じてくれず、概してうそき少女扱いされるので自分でも不本意なのだという。

「……なあ、その設定ほんとに必要かっ?」

 と、玄人くろとは突っ込んだが、真菰は華麗にスルーして語り続けた。

「もう一度あのカレーを食べる事ができれば──そうすれば材料とレシピがわかるでしょ? 成分を分析して、体に慣れさせる事で、この症状を治せるかもしれない。だけど、肝心のカレーを作ってくれたその人は名前も告げずに去って行ったんだ……。仕方ないから新しいカレーショップを見かけるたびに試食して、あのカレーを探し続けてるって訳」

 今日この店に来たのは割引券が家の郵便受けに入っていたからだよ、と真菰は言う。

「うちは割引券が配られる地区じゃなかったんだけど……。か入ってたの。変だよね?」

「いやいや、全然変じゃないさ。それはきっと伏線だ! わたしが思うに、それは未来の真菰ちゃんがとうかんした物だろう。多分これから真菰ちゃんは何かの理由で過去に戻り、自宅の郵便受けにそれを入れるんじゃないのかな? 時間跳躍とくれば、それが定番のネタだからね」

「や、あたしの時間跳躍は記憶を飛ばすだけだから、券とかは持っていけないし」

(クソッ。……二人とも飛ばしまくってやがる。これは厳然たる料理の話だってのに、空想科学しやがって!)

 真菰としろによる迫真のなりきりトークに玄人は入っていけずにいた。というより、リアリストの彼としてはついていけない展開なのだ。いや、正直なところ、

(もしかしたら白奈のあの振る舞いはフェイクで──真菰のトンデモ話を信じまくっている風を装い、カウンセリングしてるんじゃねえのか?)

 なんて最初のうちは深読み等していたのだ。だが、やがてそうではない事に気づいた。

(俺の認識が甘かった。お人好しだとは思っていたが、ヤツは鹿がつくおひとしだ!)

 そして真菰が、もう一度あのカレーを食べる事ができれば……的な悩みを打ち明け始めた時には頭を抱えてしまった。かんながら白奈の行動パターンは熟知しているのだ。

「うんうん、真菰ちゃんは時間跳躍者だって事を誰にも信じてもらえず苦しんでいるんだね。解る。解るよっ! 噓吐き呼ばわりされるのは誰だってつらい事だ。これを座視するようでは料理事件部の名がすたる。我々が助けてやろう!」

 今我々って言った、と玄人くろとは思う。

「料理……事件部?」しぱしぱとこもが目をしばたたいていると、

「料理事件部! それはだねえ。読んで字のごとく料理事件──飲食絡みのトラブルで困っている人を軽妙しやだつに助けてあげる、かぜもり学園のイカしたカリスマ集団なのさ! お洒落しやれなアンチクショウどもが料理で人の心をいやすんだよ!」

 そう言って玄人にこれ見よがしの目配せをするしろ。……好き放題ぬかしやがって、と玄人は額に青筋を立てる。何がアンチクショウだこんちくしょう──

 彼と裏腹に、真菰はほおを押さえてぼんやりこうこつの表情である。

「そっかあ、お洒落カリスマ集団……! 何か納得っ。だって滅茶苦茶スタイル良いし!」

「お褒めにあずかり恐悦至極。という訳で、真菰ちゃん。君の悩みはわたしと彼が解決してあげよう。思い出の、すっごくしいカレーとやらを何としても食べさせてあげるさ!」

 くっふっふっ! と、白衣をひるがえして笑う白奈。この流れ、どうやら玄人(カリスマ集団の一員)も無関係ではいられないらしい。後に時間跳躍者事件と呼ばれる珍事の始まりである。

 とはいえ、それが平穏な日々に風雲急を告げる事態の引き金になるとは、この時の玄人は夢にも思わなかった。


      4


「うわ! 何かすごいもん作りましたね、部長」

「美味しそうだろう? 最近のお気に入りメニューなんだよ」

「な、何これーっ?」

 真菰が目をみはって言う。

「くふふ、食べてみれば解るよ。絶対に美味しいから、どうぞ召し上がれ!」

 スタッフルームのテーブルには出来たて熱々のカレーが載せられていた。

 先程の助けてあげる宣言の後、さつそく部屋を飛び出していったじよううち白奈は十五分程待たせてから、これを手に意気揚々と戻ってきたのである。店長かしみやの仕込みがハイレベルだった為、ゼロから作る必要が無かったらしい。

 ──真菰の求める思い出のカレー、それがどんな物かはともかく、わたしの作ったカレーの方が美味しいんじゃないかな? という、ある意味非常に白奈らしい楽観的な──ともすれば自信過剰と言えなくもないやり口だったが、とりあえずカレーはざんしんばつだ。食欲を誘う香ばしいにおいと、植物性の甘酸っぱい香りのハーモニー。つややかに輝く黒みがかったカレーがご飯にトロリとかけられ、その上に果物がたくさん盛りつけられている。

 バナナ、メロン、西瓜すいか、オレンジ、キウイフルーツ……。

 それら極彩色のトッピングのおかげでこのカレー、フルーツパフェも顔負けの豪華さなのだ。見ているだけで胸が高鳴り、舌がワクワクしてくる。……しいかどうかは別にして。

「さあこもちゃん、冷めないうちに食べてくれ!」

「や、でも」真菰は鼻をヒクヒクさせている。

「遠慮しないで早く早く! 見た目と同様、味も最高なんだから!」

「んー……」

 ほくほく顔のしろかされ、若干気乗りしない様子で真菰はカレーと相対したが、

「そ、それじゃ、ありがたく食べさせてもらうよ」

 いただきまーす!

 そう言ってスプーンを握ると、カレーに向かい身を乗り出した。

 が、とつじよぴたりと硬直。カレーをすくうような格好で動きを止める。

 その小さな口は半開きのままで──まるで時が止まったようだ。玄人くろとと白奈はキョトン。意味不明に感じながらもそんな真菰を見ているしかない。

 十秒経過。二十秒経過、三十秒経過。

 そして約一分がった頃、

「……ふうっ!」

 真菰は大きく息をくと、カタンとスプーンを置き、ベレー帽をかぶり直すのだった。

「ごそうさまっ。食べてみたけど、うーん……ごめんなさい。これはあたしの思い出のカレーとは別物みたいだよ」

 何言ってんだこいつは、と玄人は思う。

「や、食べてみたってお前……。どう見ても食ってねえだろ」

「もう。だから言ってるじゃない。あたしは時間跳躍者なの。これは記憶こうで……要するに未来でこのカレーを食べたあたしの意識だけが、またここに戻ってきたんだよ」

 要はたった今タイムリープしてきたところなの、と真菰は言う。もしもここにバナナの皮があったら玄人はすべって転んでいただろう。

「フルーツがいっぱい盛られてるから、あのカレーと別物だってのは最初から解ってたんだけどね……。うん、それにしても今回の時間跳躍はすごくスムーズだったよ。多分この辺はぶん線が絡まり合う事のない、シンプルな時空構造体なんだと思う。すぐに帰還用のタグが見つかったし、おかげで硬直時間も短くて済んだし」

 このかまってちゃん、予想以上にやつかいだ、と玄人は思った。

「なあ真菰、そんなシュールなうそしばに付き合う趣味は俺達にはねえの。いいから食え。せっかく白奈が自慢のカレーを作ってくれたんじゃねえか」

「シ、シュールな噓芝居って何よぉっ?」

 図らずも、こも玄人くろと台詞せりふさいな部分に反応するのだった。

「あんたもあたしの事をうそき呼ばわりするわけっ?」

「や、俺はそういう事を言ってる訳じゃなくてだな」

 食ってかかる真菰に玄人は鼻白む。

 迫真の芝居を論破するのは容易たやすいが、別に彼女を傷つけたい訳ではないし──というか、こんなところに食い付かれても困惑だ。人のご機嫌取りをするのが不得手な玄人が苦い顔で頭をいていると、不意に真菰は手首のデバイスを操作した。マイク部分をぱかっとしゆつさせて、

「オレンジゼリー、こちらはコードネーム・レモンゼリーだけど、今、敵からかなりのじよくを受けたところよ。精神的にあたしを追い詰めようって作戦なのかな。うん、多分そうねっ」

「またそれ!?

「でも相手は解ってないみたい。あたしがこれくらいで傷つく女じゃないって事をね。うん、大丈夫。あたし負けないし! 頑張るよ。それではっ!」

 そしてスイッチを切る真菰。……俺はすっかり悪者にされているようだ、と玄人は思う。勝手にしろよという感じだが。

(まあ、一見突拍子もないカレーだからな。食うまでもなく、見た目で解ったって事だろう。この果物てんこ盛りの珍妙フルーツカレーは、自分の探してるカレーとは別物だと)

 要は物を食べたくなく、先程の芝居はそれ用のエクスキューズであるに違いない。

 だが真菰の方はそれで良いとして、せっかく作ったカレーを食べさせずに済ますのは料理人としてどうなのか? しろが意気消沈してないかと思い、玄人がチラッと目をやると、やはりワナワナと微弱に体を震わせていた。

 ああ、白奈……と玄人は思わずまゆを寄せたが、

「な、何という事だろう……! わたしは真菰ちゃんの時間こうの当たりにしてしまったんだな! かーっ、ブラボー! ありがとうっ。わたしは歴史の生き証人だ!」

 ワナワナしていたのは感激のせいだったらしい。無言でこめかみを押さえる玄人をはたに、白奈と真菰はやんやと盛り上がる。

「なあ真菰ちゃん、時間を超えるのってどんな感じがするんだ? やっぱりこう、ビューンって感じかい?」

「ううん、そういうんじゃないかな。どっちかって言うと、ブウーンって感じで」

「ブウーンかあ! 成程、確かにそっちの方が雰囲気が出る!」

 白奈は真菰の与太話をまるごと信じ、受け入れているようだ。何かもう、とても残念な人としか言い様がなく、そして真菰はというと、玄人に対する態度とは対照的に、白奈には友好的な笑顔を向けている。世の中持ちつ持たれつという言葉が頭に浮かばなくもなかった。

(ったく、あんなたらを信じやがって)

(白奈のアホたれ……)

 と、思いながらもかすかにほほゆるむのが自分でも不思議な玄人くろとだ。

 ある意味この結果はしろらしいのかもしれない。よくよく考えれば、白奈が冷静にこもうそを暴き立てたりなんかしたら、そちらの方がドン引きだ。

 一言だけ白奈の肩を持たせてもらうなら、記憶のみのタイムリープは外部から真偽を判定するのが難しいという事。全ては本人の自己申告によるもので、時間跳躍していない証拠を出せと言われても出せないのだから──つまりは悪魔の証明だ。無い物が無いと立証する事は基本的にできない。

「まあいいや。とりあえず部長、もつたいいからこのカレーは俺が食いますよ?」

「ブウーンっていうより、ギューンかも!」「くふふ、ギューンか。とても速そうだ!」

 盛り上がるあまり、白奈の耳には届かなかったようだから、勝手にさせてもらう。玄人はカレーと果物をスプーンですくい、ひょいと口に放り込んだ。

「んぐんぐんぐ……。うっ! 何だこりゃあ。すげえうまいぞ?」

 予想外のしさが口中に広がって目をみはる玄人。ここまでの物だとは思っていなかった。果物とカレーという普通に考えれば相反する要素が見事に互いを引き立て合っている。からいのに甘く、さわやかなのにコクがあるという、くせになる味だ。

(そうか、この果物は生じゃない。バターで表面を軽くいためてある。うまく高温でサッとやるとこうなるんだろう。その辺のタイミングを見計らうのは白奈の十八番だからな)

(お、干し葡萄ぶどうとかも入ってるぞ。いきな小技を……。ほんのり甘みが利いていて悪くねえ。やっぱ白奈のヤツ、料理に関しては相当なセンスがありやがる)

 そんなおもしろトークを心中で繰り広げつつ、玄人は一人黙々とフルーツカレーを食べ続ける。見た目も中身も独特だが、これはまごう事なきけつさくカレーだった。

 とはいえ、どちらかと言えば女の子の方が好みそうな味だな、と玄人は思う。

(これでがこの場にいてくれたら言う事無しなんだが……)

(ふん、俺は食べながら感想をごちゃごちゃ言う柄じゃない。だが無言っていうのも寂しいものがある。未百合が自由ほんぽうしやべりまくってくれたら、更に美味しくなるってのによ)

 普段はそんな事を考えもしないのだが、今は少しだけ感じていた。食べる係こと未百合の重要性──店に来る前に一声かけても良かったか、なんて今更ながらに思ったりして。

(いや、俺はあくまでも食べる係としての未百合を欲しているだけであってだな。別に美味しい物を食わせて、喜ばせてやりたいなんて思ってる訳じゃない……)

 色んな事を考えながら黙々とカレーを食べている玄人。

 面白い男である。


      5


 ラボラトリー。

 もりちよう電気街の入口から国道沿いに歩き、電気街が見えなくなってからもまだ歩き、辺りの風景が住宅街に様変わりした頃、民家の間にひそやかに建っているのが見える、くすんだ色の建物だ。

 そこでは何が研究されているのか?

 否、ラボラトリーというのはただの俗称で、口さがない近隣住民からそう呼ばれているだけなのだが、それもむべなるかなというもので、建物正面には古いTVがバリケードのようにうずたかく積み上げられ、近くにおかれた大量のボックスには用途不明のがらくたがやみなべさながら雑然と詰め込まれており、とりあえず怪しいのだ。

 そんな怪しげな黄瀬ラボラトリーの正式名称は『黄瀬電器店』──今では珍しくなった個人経営の家電小売店である。要は町の電器屋さんだ。

 一階が店で二階が居住フロア。その二階へと続く直通階段の前に玄人くろと達はいた。

 玄人としろくらさとである。

 今日は土曜──。

 ここで四人は待ち合わせをしているのだった。もう一人はまだ来ていない。

「ったく、遅えなあいつ……」

 日差しのまぶしさに目を細めて玄人が言うと、気の利く血倉が素早く時刻を確認した。

「待ち合わせの時間は十二時だったでしょう。まだあと五分あるわ」

「や、普段のなら、二十分前には来てるところなんだが」

 正確には三十分前から待とうとくわだて、少し遅れて二十分になるのだ。自分がワンテンポ遅い事を自覚しての時間的クッションをあらかじめ入れておく。

「今日はすごく暑いから、そのせいじゃないかしら?」

 と、レースの日傘を構え直して血倉が言う。ぱっちりしたり目が夏の日差しの下キラキラと輝き──普段はツンと澄ましているが、玄人を見る時だけは瞳が微妙にうるみがちなのだ。

 そんな彼女は今日は土曜という事で私服姿。涼しげなゴス風のはんそでと、シフォンフリルの黒いスカートを穿いている。すらりと伸びた美脚に薄色のニーソックスがよく映えていた。

「暑いから? って、何だよそれ。どういう意味なんだ?」玄人はいた。

「あ、紫外線対策よ。UVカットスプレーとか、スキンケア関係みたいな」

「いやいや血倉、お前と違って未百合はそんなマメな女じゃねえよ。おっとり屋というか、のんびり屋っていうかさ。基本、いつもすっぴんのはずだし……。その点、お前はちゃんとやってそうだよな。つるっとこう、色白だし。服とかも何気に趣味が良いしよ」

……っ!

 途端、くらの白いほおがカアッと赤く染まっていった。

「何だよ、どうしたんだ?」

「も、もぅ……。ほん君ったら……もぉっ!」

 血倉は素早く玄人くろとに背を向けると口元を押さえ、やだ……色白だって、服の趣味が良いだって……とうれしげにつぶやき続けている。らしくない反応に玄人は少し汗をかいた。

「くふふ、何にしても良い事だよ。我々だけではやはりクール系にバランスが傾きがちだからね。ここにぷりぷりのちゃんが加わる事で、真のお洒落しやれカリスマ集団となる訳さ!」

「その言い方やめて!?

 途端に現実に引き戻される血倉。

 ……ていうか、そのネタ引っ張り過ぎだろ、と玄人は思う。

 とはいえ、そんな風に自分達を持ち上げておきながらも、しろは制服の上に白衣という普段通りの姿なのだった。街を歩けば色んな意味で誰もが振り返る残念なモデル風美少女は、細い腰に手を当てて無意味にたいしようしている。

「あ、そうだ! ちゃんの携帯にメールしてみるかい?」

「そこまでしなくてもいいだろ。待ってりゃそのうち来るさ」

 ちなみに、知る人ぞ知る未百合のメールアドレスは結構ずかしいしろもので、

 lovely_kuroto@xxx.ne.jp──

 携帯購入以来変更した事はなく、これに関しては誰もがノーコメントをつらぬいているという。

 そんなまつな豆知識はさておき、ラボラトリー──略して黄瀬ラボ前で彼らが待ち合わせをしているかと言えば、それは当然乗り込む為だ。

 討ち入り……

 ではなく、しいカレーをごそうする為。そう、ここ黄瀬ラボはこもの家なのである。

 昨日洋食店カシミアで遭遇した自称時間跳躍者、黄瀬真菰は小学生時代に食べた謎のカレーのせいでタイムリープ体質になった。それを治すには同じ物を食べさせ、レシピから成分を分析しなければならない。

 いや、時間跳躍うんぬんばなしなのだろうが、しろが助けてあげたいと言ってきかないのだ。

 きような行動の裏には素直に言い表せない悩みがあるのかもしれず、否、そこまで深読みしなくても、色んな店を悩ませている料理事件なのは確かだし、何より部長命令だ。玄人くろととしてはやるしかない。

 妙に真菰と親しくなった白奈はとんとん拍子に住所を聞き出し、土曜の昼食時、黄瀬家にカレーをご馳走しに行く約束を取り付けた。そして玄人の助手であるところのくらにも声をかけ、今回のミッションと相成る訳だった。

(真菰がそのカレーにどれだけ深い思い入れがあるのかは知らねえが……食いたい物は食わせてやればいい)

(準備は万全。自信はある)

 玄人は買い物袋を握った手に力を込める。自前の調理器具と食材が入っているのだ。

(昨日真菰に聞いた限りじゃあ、特に目を引くようなギミックの無い、標準的なカレーだったらしい。だとしたら……俺が思うにこれだ)

 昨日白奈が作ったフルーツカレーは食べるまでもなく駄目出しされた(という事だと玄人は認識している)。真菰が言うには、そのカレーにトッピング等は皆無で、あくまでも本質で勝負する類の物だという。ならば上等。料理人としてそのオーダーにはいささかの不足もなく──

「玄人君ーっ!」

 と、そうこうしているうちにづき未百合が遠くから走ってきた。

 全力疾走したようだ。玄人達のそば辿たどり着くと、ひざがしらてのひらをついてまえかがみになる。玄人は思わず青空を眺めたりするが、未百合はひたすら激しく息を切らせていた。

「ったく、この暑いのにそんなに走んなよ。時間は一応ぴったりだぞ?」

「ごめんなさいっ。本当はもっと早い時間に着いて待ってるつもりだったんだけど……ハア、ハア、わたし、待つの好きだし……ハア、ハア……。でも今日は気合いを入れて頑張り過ぎちゃったみたいで……」

「何を頑張ったんだ?」

 は呼吸を整えるのに一生懸命で答えられない。

 そんな彼女は本日、大胆に白い肩を出したキャミワンピースを着用。玄人くろとが知らない服だから、これは買ったばかりなのだろう。未百合は新しい服で外に出るまで、鏡の前で延々と頭を悩ませるタイプ。そのせいで遅くなったに違いない。

「いやー、今日は悩ましい格好してるねえ、未百合ちゃん! かがんでると谷間がすごいよ!」

 悩みとはしようがい無縁そうな、あっけらかんとした声を出したのはしろだった。

「大好きな彼の為に悩殺ファッションで決めてきたんだろう? わかる解る! 効果はてきめんに違いない。だって走ってる時に揺れまくって、今にもはみ出しちゃいそうだったもの! けなな未百合乳、また少し育ったようだね。罪作りな果実はどこまでたわわに実るのだろう。これで高校一年生とは正直信じられないよ!」

「……ああっ──」

 れつなセクハラ発言にクラッとする未百合。足元が一瞬あやうくなったが何とかこらえた。

 とはいえ、白奈のフリーダムなしやべりは留まるところを知らず、

「くふふ。見れば見るほどしそうだよね」

「お、おいし……そう……?」

「その乳、ちょっとかじってみてもいいかい?」

「はい……。って、エエエエッ?」

 いつたん素直に返事をしてから、未百合の顔は青ざめた。

「な、何て事を言うんですか、白奈さんっ。……じようだんですよね?」

「いやいや、わたしは気になった物は何でも食べてみる主義なんだ。人間の感覚器官で最も敏感なのは口なんだよ。正確には唇と舌な訳だが、少しだけカプッとやらせてほしい。そうすれば今どれだけの大きさなのか、正確に把握できると思うんだ」

 未百合は完全にこおり付いていた。自分の身を抱くような格好でガクガク震え始め、

「ダ、ダメ……。食べちゃダメッ!」

 半泣きで言う。

「わ、わたしの胸は玄人君だけの……。お願い白奈さん、後生だから食べないで!」

「くふふ、一度は良いって言ったもんね……」

 白奈は未百合の懇願にとんちやくする事なく、

 かぷり!

 ふくよかな胸に荒々しくかぶりつき、ああああぁーっ……

 ──というのは玄人の脳裏を駆け抜けた幻想だ。現実には起こっていない。

「くふふふふ!」

「あああぁ……!

 実際には含み笑いしながら手をワキワキする白奈を見て、未百合がけいれんしているだけである。

 何をやってるんだこいつらは、と玄人くろとは滝のような汗をかいて思う。おもしろ過ぎるだろう。真っ昼間から往来で愉快な事この上ない。

「……あのー、全員そろった事だし、そろそろ行った方がいいんじゃない……?」

 ジト目のくらが突っ込んでくれなければ、延々と茶番を繰り広げていたかもしれなかった。


    ◆ ◇ ◆


「さっきから通りでギャーギャー騒いでたけどさ、あれ、家の中まで聞こえてたよ? 暑いんだからさっさと入ってくれば良かったのに」

「こっちにも色々あるんだ。察してくれ」

 こもの案内で玄人達はラボ二階の広いリビングにいた。

 玄人達四名と真菰の他、家には誰もおらず──というより、一階店舗フロアも実は無人だ。ルームライトはいているが、店の主人である真菰の父も客の姿もなく、経営は大丈夫なのかと玄人は心配になるが、実のところ町の電器屋は家電量販店とは異なり、店頭販売以外から得る収益がすこぶる大きいらしい。地元コミュニティーの力が強いもりちようにおいては特にそうで、地域密着型の互恵関係──つまり、電気工事や修理等から得ているほうしゆう鹿にできず、真菰の両親は今日もどこかへ出張サービスに出かけているのだそうだ。

「うちは昔からそうなんだ。家族みんなでご飯食べた事なんか数える程しかないよ」

「そうなのか?」

 人の性格というのは基本的に生活環境が作り出す物である。

(成程。こいつがかまってちゃんなのは要するに……)

 玄人があごに手を当てて、少し気遣わしげに真菰の横顔を見ていると、

「何さ。……何か文句あるっ?」

「ねえよ。ていうか、家の中なんだから帽子くらい取れよ」

「やだ。だってこれ、いつでもかぶってるし。お風呂に入る時も取らないし」

「あ? そんなどうでもいいうそくなよ」

「ふんだ」

 口をとがらせて言う真菰。とはいえ、どこかソワソワした態度なのは、血倉を始めとする豪華来客陣のせいなのか。それに反応したが早くもモジモジしているが、

「まあいいや。とにかく今日は大人数で思う存分カレーを食べろ。俺は台所で料理してるからお前らは自己紹介がてら、しばらく遊んでればいい。この人数分作るのはそれなりに時間がかかるからな」

「あ、ウン。だったらあたしの部屋を見せてあげようかな……。皆さん来て!」

 はーい、と自室へと移動していく女の子達。ドア越しに聞こえてくる声を適当に聞き流しながら、玄人くろとは一人黙々とカレーを作るのだった。

 角切りにした肉をヨーグルトにけてぱらりと各種スパイスを振り、その間にじゃがいもとにんじんを乱切りに。並行して隠し味の準備をする。つぶした大蒜にんにくとバターをなべに入れていためる用意をしていると、そこに抜き足差し足、ソロソロと近づいてくる者がいて──

「だあ!」

 ビクン!

 と、け反ったのは玄人ではなくじよううちしろだ。目を丸くしているのは意外な光景を見たせい。背後から忍び寄る気配を察知して振り向いた玄人の瞳が、涙で派手にうるんでいたからだ。

「な、泣いているのか、ボス?」

 白奈はまゆを寄せて言う。

「そうか……。やはり一人でカレーを作るのが寂しかったんだな。確かに男の方からそれは言い出しにくいかもしれない。本当はわたしと一緒に料理がしたかったんだね?」

「いや、全然……。たまねぎ切ってるだけっす」

 なーんだ、はっはっはっ、と腰に手を当てて笑う白奈。気になって様子を見に来たらしい。

「手伝おうか?」

「や、俺一人で充分ですよ。部長は昨日作ったでしょう。今日は俺の見せ場ですから」

「うん、君の事だからそう言うと思っていた。頑張ってくれ」

 と、白奈はキョロリ。そこかしこに展開している様々な材料を見ると顔を輝かせて、

「ほほう、やはりこれか! 君ならこのカレーを選ぶ気がした」

「ふっ、今日は土曜日なんですがね」

「ああ……確かに。金曜なら最適だったんだろうけど」

 不思議な台詞せりふを交わしてニヤッと目配せする玄人と白奈。料理人にしか解らない何かがそこにはあるらしい。

「ってな訳で、料理の邪魔はしないでくださいよ。部長は適当に遊んでていいっすから」

「そう?」

 とんとんとんとん、と恐るべき速度と正確さ──プラス、涙目で玉葱を切っていく玄人。

「仕方ないなあ。どれ! わたしが涙をぬぐってやろう」

「手元が狂うっ。よせ部長!」

「泣かないでー。ほら、いい子でちゅねー」

「来るな!」

 じりに無理矢理ハンカチを当てようとする白奈を玄人は必死に振り解く。手に包丁が握られていなければあいあいとした光景だ。そんな心温まるシーンをドアから半分だけ顔を出したづきがガタガタと震えながら見ている。

 ともあれ、それから五十分後──ふんとうあって無事に玄人のカレーは完成したのだ。

(よし、うまく出来たっ)

 なべから立ちのぼる香ばしいにおいに思わずこぶしを握ったりなんかして。

 きらきらと白く輝くライスにカレーをたっぷりとかけ、そのわきふくじんけをちょこん。バランス良く盛りつけた皿をテーブルに並べ、玄人くろとは全員に招集をかけた。


    ~こも


 あたしはダイニングテーブルの上に置かれたカレーを眺めていた──。

 わざわざ家まで出張ってきて玄人さんが作ったのは、奇をてらったところがまるで無い、普通も普通のカレーだった。スタンダード・エディション。とはいえ、香りはすごく良い。どこか懐かしさを含んだ独特の香ばしい匂いが食卓にぷうんと漂っている。

 あたしが思わず皿に顔を近づけ、鼻をヒクヒク動かしていると、

「……あん?」

 玄人さんに不思議そうな顔をされた。

「な、何よ。何か問題っ?」

「別に。こっちの事だ」

 何はともあれ、普通のカレーなのである。

 さて、そんな何の変哲も無い料理を同じくテーブルについたしろさんと、学校の友達だというさんは背筋を伸ばし、瞳キラキラ状態で見ている。余程お腹がいている……あるいは料理人の腕を信頼しているのか。確かにしそうなカレーではあるけれども。

 ちなみにもう一人のくらさんという人はアレルギー体質らしく、あたし達とは別のカレーを割り当てられている。野菜がたくさん入っていて、これはこれで美味しそう。しかし、ここまで特別扱いされるなんて、この血倉さんと玄人さんは恋人同士なのだろうか? 否、ひょっとしたら全員とデキているとか? こいつはジゴロか? なんて観察と分析を重ねていると、

「……いいから見てないで早く食えよ」

 玄人さんが無愛想に言い、それを契機に皆がスプーンを握った。

「いっただきまーす!」

 もむもむもむもむ……!

 ぱくぱくぱくぱく……!

 皆さんびっくりするくらい食欲おうせいである。思わずあつに取られるあたしの隣では未百合さんが幸せオーラを全身からかもし出しつつ、夢中でカレーを食べていた。顔をほころばせ、うっとり黒目がちの目を細めて、女のあたしから見ても可愛い。食べ姿がとても様になる人だ。

 と、そんな未百合さんに不意にウインクし、こつこつと指でテーブルをたたく人がいて──

「さあ、未百合ちゃん! この辺で例のやつを頼むよ。食べる係こと君のアレが無いと気分が出ないんだ」

 何の事だろう?

 海外セレブも顔負けのぼうと、ちょっと──いや、かなり残念な性格をあわせ持つギャップの人、しろさんが何かをほのめかした。さんははじかれたようにハッと顔を上げ、

「い、いけない! わたしったら、あんまりしいから食べるのに夢中だったわっ。今すぐ盛り上げますから!」

 胸に手を当てると大きく深呼吸して、

「美味しいぃ! このカレー、とっても美味しいわぁ!」

 ……何なの?

 未百合さんは今初めて口にしたように、ワンテンポ遅いカレーの感想を言い始めた。

「カレーには色んな種類があるけど、これは王道中の王道ねっ。こんがり食欲を誘う良い香りと、まろやかなトロみ! とってもコクのあるカレーソースだわ。それを吸い込んだ柔らかなお肉を奥歯でみ締めると、じゅわっと得体の知れない快感が弾けるの。たまらない味だわ。時代がいくら変わっても決して変わらない物がある……。そうよ、これこそ日本のカレーよ。日本の夏、カレーの夏──。わたし、この味が好き。大好きっ!」

 幸せ気分を放出しまくっている未百合さん。先程言っていた『食べる係』とはこの事だったのか、とあたしは今頃得心する。要は皆の気分の盛り上げ役らしい。

「それにしても味が深いわ。一体どうやって作ったんだろう? ソースを舌でねぶっていると、しょっぱみとっぱみとコクのあるうまがどこまでも広がるの。そのせいでご飯がいくらでも食べれちゃうんだわ。ねえ玄人くろと君。できればご飯、もう少しだけよそってもらえない? 食べきってもいないうちにお行儀悪いんだけど、もっとアグレッシブに白米を攻めてみたいの」

「……何だか知らねえが、攻めろ攻めろ」

 玄人さんは未百合さんの皿を受け取り、白いご飯をグワッグワッと豪快によそった。すさまじい盛り具合──それを見て未百合さんはヒッと体を震わせたが、顔を赤らめて皿を受け取り、じらうような顔で食事を再開する。……見ていて飽きない人だ。

「これは所謂いわゆる、海軍カレーと呼ばれる物でな。小麦粉をいためてとろみと香ばしさを出すのがポイントだ」

 玄人さんが解説を始めた。

「どこか懐かしい感じの味だろ?」

「ご飯にとってもよく合うぅ」うれしそうにほおりながらこくんとうなずく未百合さん。

「これは日本風カレーのルーツなんだ。もともとは明治時代、日本海軍がイギリス海軍の糧食を参考に作った物だと言われている。というのもカレーパウダーで味付けしたビーフシチューとパン……その英国風のメニューが当時の日本人の口には合わなかったらしいんだな。だから小麦粉でとろみを付け、ご飯にかけてみたら、意外にもこれが好評だ。海軍の町であるよこから、あっという間に全国に広まったって訳だ」

「成程」くらさんが感心したようにうなずき、「料理人って何でも知ってるのね!」

「や、知ってるのは料理の事だけだって……。何にせよ、とろみたっぷりで船上でもこぼれにくいから重宝されたらしいぞ。海上自衛隊では今でも金曜日にカレーを食べる風習がある」

「え? それは?」

「くふふ、船上だと曜日感覚が無くなりがちだからね!」

 血倉さんの問いに、しろさんが横から得意げに答えた。

「特定の曜日に特定のメニューが出る事で感覚を取り戻すんだよ。いつも船上で頑張っている海上自衛隊の皆さんも土日は休み。要は休日前にカレーを食べてその週を締めくくる……」

「とまあ、そういう事だ」

 玄人くろとさんが言った。

「今の海上自衛隊ではその海軍カレーを元に、かくかんが工夫をらしたカレーを作っていてな。レシピは軍事機密! ってのは冗談だが、隠し味にインスタントコーヒーを入れたりタバスコを入れたり、どの部署どの艦隊も独自の創意工夫をしているらしい。基本、このカレーもそれに近い物だ。とろみのあるカレーをベースに、隠し味のチョコやケチャップを……って、しやべっちまったら隠し味じゃねえよな。後は自分の舌で確かめてくれ。ほらこも、お前もほうけてないで早く食べろ」

 玄人さんに言われてあたしは我に返った。

 皆の食べっぷりとユニークな反応に気を取られ、まだ一口も食べずにいたあたしだけれど、今の解説でぜん興味がき立てられた。これは食べない訳にいくまい。

「ん……。じゃあ、食べるよ」

 あたしは玄人さんのカレーをおもむろに口に運んだ。

 と、その時である。

 ドクン。

 とつじよ強いどうに襲われた。景色がぐにゃりとゆがんで構成密度を変容させる。

(やはり)

(やはり始まってしまった)

(いつものやつが──始まってしまったんだ)

 あ? どうしたんだよ真菰っ? と玄人さんが目を丸くしているが、これが発動したらどうしようもない。だって始まってしまったんだから。

 皆の姿がレイヤーの透明度を操作されたように希薄化し、くうに電気パルスを放出しつつ融解していく。否、融解というより世界自体が薄らいでいるのだ。数え切れない無数の光景が透明な層のように重なり合っているのが見えて──

 それは有り得ない、有り得なかった、有りべき、無限の可能世界だ。あたしの周囲をくるくると回転している。

 激しいまい。腕の計測器に目をやると、画面に表示された時計アプリの針がものすごい速度で逆回転している。やはりいつもの通りだ。タイムリープ発動。あたしの時間はまたしても巻き戻っている。世界のスピンは更に速度を増していき、やがて意識がスウッと薄れ──


    ◆ ◇ ◆


「おい、どうしたんだよっ? こもっ!」

 玄人くろとは真菰の肩を揺さぶった。

 だが動かない。まばたき一つしない。握られていたスプーンが落ちてみみざわりな音を立てる。一体何だというのか? しろくらも仰天して目をみはっている。──真菰は突然硬直してしまったのだ。

 事態は約一分前にさかのぼる。

「ほら真菰、お前もほうけてないで早く食べろ」

「ん……。じゃあ、食べるよ」

 そう言ってスプーンでカレーをすくった真菰だが、それを口に入れようとした途端、まるで時間がこおったように動きを止めてしまったのである。

 食中毒? それとも急性胃腸炎か? いや、まだ食べていないのにそんな事あるはずないのだが、ともあれ、あいあいとしたムードは一変、非日常的に様変わりした。

「……ハッ?」

 やがて開いていた真菰のどうこうが元に戻った。

 一同ホッと息をき、真菰は頭を左右に振って深呼吸──それからはじかれたように手首の計測器を操作すると、マイクに口を近づけるのだった。

「オレンジゼリー、現在十三時九分、こちらはレモンゼリー。今タイムリープから戻ってきたところよ。タイミングが良かったらしくて、カレントの時間軸近辺に着地できたみたい」

「何、またそれ!?

 転びそうになる玄人。家二階の床はフローリングだからよくすべる。

 録音を終えると真菰は一仕事終えたように手首でほおぬぐい、ニヤッと笑んで玄人を見た。

「カレー、ごそうさま! 未来で食べて、今記憶だけが戻ってきたところなんだけどね。ウン、なかなかしかったよ。でもゴメン。あたしの思い出のカレーとは別物だったみたい」

「……ああ、そう」玄人は頰をいた。

 無論、テーブルに置かれた真菰のカレーは盛りたくさんのままで、一口も食べられていない。

 だが、それなのに食べてきたって、美味しかったって、一体どういう事なのかしら……? と経緯を知らない未百合と血倉は首をかしげて目をぱちくりしている。

「あの、玄人くろと君。これって……?」と

「何かしら、込み入った事情があるようね?」とくら

 玄人はどう伝えるべきか少し迷ったが、正直に伝えた方が最終的な面倒は少なくて済むと考えた。これは思春期特有の……と苦い顔で説明しようとすると、

こもちゃんはねえ! 何と、タイムリーパーなんだよ! 時をかける少女なのさ!」

 横からしろがそう言い放つのだった。しかもものすごく得意そうに、決まったぞ、と言いたげな抜群のグッドスマイルを浮かべて。

 ……本当に空気を読まない女である。

「ト、トキを、追いかける処女? それって恋の神話みたいな」

「未百合さん、違う違う! 少女って言ってたから!」

「キャッ! やだぁ。わたし……ずかしい!」

 ほうれ見ろ、と玄人は思う。あんじよう、血倉も未百合もあたふた大混乱の様子。そこに白奈が時間跳躍者やタイムリープの話をするから更にカオスに拍車がかかる。

(ったく、めんどうくせえな!)

 ずかずかと白奈の間近へ歩み寄って玄人は言った。

「いい加減にしてくださいよ、部長。タイムリープとか時間跳躍とか、そんな子供だましのうそにいつまでも……」

「噓? でも本人はほんとの事だって言ってるよ?」

 白奈は澄んだ瞳で言った。この女、本気で残念である。

「いや、だから……」

「あのねえボス。君は確かに切れ者だ。頭が回る料理人だよ。しかしながら、そうやって何でもかんでも疑ってかかるのは正直どうかと思うんだ」

「何でもかんでもは疑っていないでしょう? これがずば抜けてがっかりな噓だからで」

「いずれにせよ、わたしは常々思っているんだよ。人が人を信頼するのは素晴らしい事だとね。それこそが人生を輝かせる黒海の宝石キャビアのような物なのさ! ねえボス、真菰ちゃんがうそき呼ばわりされて苦しんでいるなら、我々だけでも信じてあげようよ。ほんとに記憶だけが時間こうしてるのかもしれないじゃないか。わたしは信じてあげたい。そもそも料理人が食べる人を信頼しないでどうするんだ。そんな事でしい料理が作れると思うのか?」

「いや、だからですねぇ……」

 微妙に正論くさいのがやつかいだ。ああもう、と思いながら玄人は頭をむしる。

 白奈のこういう点は嫌いではない。人を無条件に信じるのは本来良い事だ。実際かつての自分もそれで救われた訳だし──未百合が不良にされた『卵事件』の事である。

 とはいえ、玄人は根っからの現実主義者なのだ。

(や、俺は噓吐きだから良いとか悪いとか、そういう事を言いたい訳じゃない)

(どうすればこもの抱えた問題を解きほぐせるのか……うそとか本当以前に、もっと根本の部分を解決した方がどう考えても建設的だ。もうげんに惑わされてたら、それができねえんだよ)

 玄人くろとしろに顔を近づけて耳打ちした。

「いいですか部長。あいつは要するに寂しがり屋のかまってちゃんなんです。だからきっと噓をくのがくせみたいになっちまってて……」

「そうなのかい?」

「ちょっとぉ! 誰がかまってちゃんだって言うのよっ?」

 タイミングの悪い事に、その台詞せりふが背後から忍び寄っていた真菰の耳に入った。途端に態度をハリセンボンのようにとがらせる真菰。自分は寂しがり屋でも噓吐きでもないとわめき立てて、やつかい千万な口論になり、やがて──

「そ、そうだ! インド行こう!」

 白奈がとうとつにそう言った。

「インド……?」

「おっと、少々言葉足らずだった。次はわたしがインドカレーを作ろう。そんな風に言いたかったのさ」

 あまりに突然の提案である。真菰はぶつちようづらで、何でインド……? とつぶやいた。

「それはもちろん、推理したからだよ」

 白奈はバサバサと妖しげに白衣をひるがえす。

「真菰ちゃんが食べた思い出のカレーは何なのか? それを一発で当てるのは至難のわざだが、幾度かふるいに掛けていけば決して不可能な事ではない。まずは見た目。カレーにはぼうだいな種類があるが、真菰ちゃんが欲するそれは極めてスタンダードな見た目だという。トッピングはしていないし、きような仕掛けもない。その前提からボスは日本風カレーの王道を作ってみせたんだ。可能性が一番高いと考えてね」

(何だよ。ちゃんとわかってんじゃねえか)

 玄人は鼻をぽりっとく。

 実は白奈は頭そのものは悪くない。ひらめき頼りで論理的に考える事はほとんど無いが(それはそれで大問題だが)、幼少期からじよううち家のエリート教育を受けてきたさいえんなのだ。学校の成績は玄人より良かったりする。

「真菰ちゃん。さっきのカレー、見た目は合格だったんだろう?」

「あ、うん……。見た目はあんな感じだったと思うけど」

「ほっ! ならば話は早い。日本風カレーじゃなければ答えはインドカレーだ。カレーのスタンダードといえば、そっちの可能性の方がむしろ高いとわたしは考える!」

 インドカレーといえば色鮮やかなカレーをナンに付けて食べるイメージがあるが、必ずしもそうではなく、ぱっと見、日本風の物もあるし、ライスと一緒に食べるのも当然ありなのだとしろは長髪をき上げて語った。

「確かにそうだな」

 同意した玄人くろとが助手の様子に目をやれば──あんじようくらは首をかしげていた。

「インド風と日本風?」と未百合。

「それってどう違うのかしら……」と血倉。

「別に難しい事じゃねえよ。さっきも言った通り、日本のカレーってのはイギリスから伝わった物だが、そのイギリスのカレーはインドから来た物だ。元は植民地だったからな。で、そのインドでは日本の海軍カレーみたいに船上でこぼれないよう、小麦粉でとろみを付ける必要は無い。更にはカレー粉自体も使わないんだよ」

「エッ? カレー粉を使わないですって?」

 血倉が目を丸くした。

「それじゃ、どうやってカレーを作るというの?」

「おう、そこが勘違いの元でな。カレー粉ってのはもともとイギリス人が発明した物だ。インドには無いんだよ」

「そ、そうなのーっ?」未百合は両手で自分のほおはさんでムギュッと寄せた。

「カレーというのはせんじ詰めれば、多種多彩なスパイスがせめぎ合う重層的なフィールドだ。インドでは各家庭の好みでスパイスを調合して食べるんだが、それがインドカレーの本質なんだよ。で、そのスパイスの調合が素人しろうとには難しいから、誰にでも作れるようにイギリス人がカレー粉を発明したんだ」

 だから業務用のカレー粉は万人受けする味になっている。それをアレンジする事で飲食店では独自の味を出す──出しているところもあるという話だ。

「とはいえ、そんな物が発明されるのは難易度がそれだけ高い事を意味する。正直、ゼロからカレースパイスの調合をするのは意外と難しいんだ。いやもちろん、部長は素人ではないんでしょうが、それでもこれは……」

「じゃ! 行ってくる!」

 玄人の話を最後まで聞く事なく、そそくさと出かけようとしているじよううち白奈だった。

「ちょっと部長っ! 行ってくるってどこへっ?」

「いやだなボス、スパイスを買いに行くに決まってるじゃないか。城之内家ようたしの専門店が近くにあるんだよ。近くと言っても往復すれば小一時間程かかると思うが、とにかく超特急で行ってくる。お腹をかして待っていてほしい!」

 ばなしでもろうして場をもたせてくれ、と言い放って白奈は外へ駆けていく。

 こうしてカレー大戦争(ちとオーバー)の前線には小休止がもたらされた。