◆ ◇ ◆


 さて、会長である二年の雪花菜ユキ、一年の各務、同じく一年のしん宿じゆくたか──占い研究会はこの三名で構成されているとの事だった。

 どれもひとくせありそうな人ばかりで、身長も体格も同じくらいだし、見ただけでは魔術師かどうか解らない。あるいは全員が犯人でもおかしくないが、流石さすがにそんなアンフェアな事は言っていられないので、玄人は会長の雪花菜ユキに一連の話をした。

「俺達はもりぎんに出没する占い師の事を調べていてですね。というのも……」

 ──陸上部のそらさきが近頃調子を崩している。九森銀座の魔術師に魔法をかけられたせいらしい。調査の結果、魔術師が高度な心理スキルにけた人物だという事。魔法の正体はそれを利用した何かだと判明したのだが──。

「どうですか会長さん。心当たりの程は?」

「……うーん」

 会長は首を横に振った。

「すみませんが、わからないです。確かに魔術師という占い師の話は聞いた事ありますけど、それはあくまでもうわさを聞いただけであって。うちの同好会とは何の関係もありませんよ」

「や、別に魔術師の事じゃなくてもいいです。そうだな……。例えば部活中に変な事が起きたとか、部員と少しばかりめたとか、何でも構わないんですが」

「いえ、特に……」

 玄人くろと達がここに来たのは、魔術師がかぜもり学園の生徒である以上、占い研究会と何らかの関係があるとにらんだからだ。さいな事でも構わない。とにかく情報を引き出そうとあれこれいてみるが、いずれの問いにも会長は首を横に振るばかり。

「お役に立てずごめんなさい。占いの事なら何でも教えてあげられるんですけど」

「いやまあ、知らない物は教えられないし、仕方ないっすね会長さん。……ううむ、これは俺の推理が間違っていたのか? 今日のところは出直した方がいいのかもしれねえなあ」

 そうつぶやいた瞬間、会長の口端がわずかに上がったのを玄人は見逃さなかった。解りやすい人だと思いながら素早く言う。

「あ、忘れてた! もう一つ質問!」

「は、はいっ? 何でしょうっ?」

 会長はあからさまにビクッとした。必死に落ち着いた態度をよそおおうとしている。

「お、お話しできる事はもう全部言ってしまったんですけどっ……!

「大した事じゃありませんよ」玄人は笑みを浮かべて言う。「そのメイド服はどこからレンタルした物ですか?」

「え?」会長は不思議そうに目をまたたくと、「家でよく着てるものですけど?」

「自前かよ!」

 と、こんな具合で有益な手がかりを何一つ得る事ができないのだった。

ユキ……。この人は何か隠してる気がする)

(もう少し揺さぶってみるか? だがこういう天然タイプは微妙にやりにくいんだよな。おどおどムードのメイド先輩にあまり強く出るのもどうかと思うし)

 腕組みする玄人。隣ではくらと未百合が彼と同様にどうしたものかと小首をかしげ、そばではさきが申し訳なさそうに胸元のいじっている。

 一方──

「ほっ! この大きく口を開いた文字はもしかして『食べる』って意味じゃないか?」

「おお、その通り。なかなか解りやすいだろ。トンパ文字は世界でゆいいつ現役の象形文字だからね。長く愛される理由があるんだ」

「くふふ、確かに。こういう感性を料理に取り入れていくと新しい発見があるかもしれない」

 しろしん宿じゆくはいたってのんに、壁際でトンパ文字の一覧表ポスターを眺めていた。出会い頭にやり合ったせいで意気投合したらしい。上半身裸でウォーボネットをかぶった部族長と、白衣をまとったスーパーモデルが並んでしやべっている姿は異様だが、この部屋には合っている。

 そして反対側の部室の奥では──

「ムフフ。ほんと、警察官って格好良いですよね」にこにこ。

「確かに格好良い。あれは正義の味方だから」にこにこ。

「うんうん、あなたとは気が合います。何だか他人という気がしません。メルアド交換しましょう、各務かがみさん。あ、わたし実は警察マニアのサイトも運営していてですね。アドレスを教えますから是非見にきてください。あ、今ケータイで見せてあげます、ぽちぽちっと」

「ほほう、これは確かにいい出来。ありがとうございます、あか先輩」

 部室の奥まった場所でにこにこにこ──興味が無い者のテンションを著しく下げがちな赤座の警察トークをいやな顔一つせず聞いている各務麻戯香。どうやら先程と同様、ペーシングをしているようだが、この二人は相性が良かったらしい。現状いたって和やかな雰囲気だ。

 もつとも、今日の赤座は最初から妙に機嫌が良さそうではあったが──。

(珍しい)

 と、玄人くろとは思う。

(初対面でいきなり赤座がこの事を打ち明けるなんてよ。しかもあんな大声で)

 赤座は将来警察官になるのが夢である。だがそれは一部の親しい者──後輩であるそらさきや料理事件部のメンバーにしか教えておらず、おおやけの場では隠している。そんな風に猫を被っているからこそ《垂れ目の柔和令嬢》という割と表層的な二つ名で呼ばれたりする訳だ。

 ふと玄人は思う。

(ん? そういや赤座は二年生で、この会長さんも二年生……。最初に会った時も面識があるようなあいさつをしていたな)

 何気なくいてみた。

「ところで会長さんは知ってましたか? 赤座のヤツが警察官を目指してるって」

「えっ? あ、いや……。わたしはその」

 何だろう。会長は妙に歯切れが悪い。玄人が再度たずねようとした時、今の玄人の言葉が耳に入ったらしい赤座伊衣子が部室の奥から声を張り上げた。

「勿論知ってますよー! だってユキちゃんとわたしは同じクラスですもん」にこにこ。

「あ? 何だよそれ」玄人は目を丸くする。

「おまけにとっても仲良しです! 今日もですね、わたしが帰りのHRホームルームの最中、うとうと居眠りしてたら、終わった時にユキちゃんが起こしてくれまして。いやー、あやうく皆が帰った後も眠り続けるところでした。持つべき者は友達ですっ」にこにこにこ。

 玄人は会長を見た。サッと不自然に顔をらされた。

(この人……何だってその事をそうとした?)

 理解に苦しむ。隠す意味が解らなかった──玄人くろとが会長の横顔を凝視していると、ひどく決まり悪そうに彼女は言う。

「ご、ごめんなさい。特に意味は無いんですけど、何となく言いそびれて……。あかさんの言う通り、わたしと彼女は同じクラスですよ。席もすぐ近くです。まあ、それがどうしたって言われたら、別に何でもないって答えるしかないんですけどね」

 怪しい。会長はやはり何かを隠していると玄人は確信した。

(口を割らせるか?)

(いや、ここはあれだな。先に赤座から会長の事をいた方が良さそうだ)

(そうと決まればてつしゆうするか。本人がいる前だと突っ込んだ話はしにくいし──)

「おーい、お前ら。今日はこの辺で帰るぞ」玄人は言った。「何だかんだで手がかりもないし、これ以上粘ってもあれだからな。また別な方向から考えよう」

 くらは確信めいた表情の玄人に何かを感じたらしい。てきぱき仕度をすると、しろと赤座とさきを引き連れ、全員で占い研究室の部室を出ようとする。

 そして玄人がドアを開けようとした時──。

「ちょっと待った、ほん君」

 彼らを呼び止めたのは各務かがみだった。

「何だよ、各務?」玄人は振り返った。

「美咲さんが最近調子を崩しているのはもりぎんの魔術師に魔法をかけられたせい……それは心理スキルによる物だとさっき言っていたよな?」

「ああ、確かに言ったが……心当たりでもあんのか?」

 すると各務は会長をいちべつし──それは不思議な目つきだった。疑念、不安、後悔、いずれとも判別しがたい複雑な色が一瞬オッドアイに浮かんで消える。会長はその視線に気づかなかったようだが、続く言葉を聞いてギクッと体をこわらせた。

「暗示の心理スキル──」

 と、各務は言った。

「それをうまく入れる事ができれば、人を操り、意のままに動かせるという」

「あああ……? 何だって?」

 またさんくさい事を言いやがる、と思って玄人は苦い顔をした。暗示と言われても。

「そりゃフィクションの話だろ? 映画とかドラマでよくある……あ、こないだもTVでそういうのをやってたぜ。ヤバめの精神科医が色んなヤツにさいみんじゆつをかけて犯罪者を量産しまくっていた……って、まあ再放送だったんだが」

「そういうせんぱくな物ではないっ」

 各務はまゆをキッとり上げた。

「現代の暗示にはちゃんとしたスキルの体系がある。どう入れるかはテクニック次第だが、成功すればすごい効力なんだ。ならせんざい意識に入れた暗示は表層意識に浮かび上がるに従い、強くなるからだ。これは誰にも止められないんだぞ」

 各務かがみはどこか必死な顔でこう語る。暗示を入れて古い性格を修正し、自分の望む理想の性格を構築する。それがNLPの本質──神経言語プログラミングのわたしなりの解釈だ、と。

「いやあ……そう力説されてもよ」玄人くろとは軽くほおいて、「俺にはまゆつばな話っていうか」

「確かにほん君みたいな人には解らないかもしれない。わたしはただ……。いや、そもそも人を操りたいという欲求の核にあるのは──」

 と、各務が更なる主張をしようとした時だ。異様なたけびが部室にとどろいた。

「ほおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉう!」

「どうした!?

 全員思わず我が耳を疑う。何だ何だ、と流石さすがの玄人も口をあんぐり開けてきようがくしているのはしん宿じゆくたかが奇声をあげているからだ。ウォーボネットを激しく揺らし、裸の胸をドカドカとこぶしたたきながら、彼はその場でステップを踏んでいた。

「ぼんぼぼんぼん! ぼんぼぼんぼん! ほおおう! ほおおおおおおおう!」

 さながら未開人の舞踏である。

 おいおいおいおい新宿よ、脈絡もなく頭のが外れてしまったのか、と玄人はドン引きしていたが、驚きはそれだけに留まらなかった。

「アパパネ、パパネネ、アパパネポネ……」

「そっちも!?

 会長である。

「アネパパ、パパネネ、ネポポアポネネ、アネネパパパネ……」

 青天のへきれきとはまさにこの事、会長のユキも意味不明のじゆもんを唱え始めていた。神に祈りを捧げるように両手を組んで床にひざをつき、一心不乱に謎の文言を繰り返す。

 いや、本当に何だというのか? 新宿と会長によるとうとつ極まりないこの奇行、未知なる部族が儀式のセッションでもしているようだ。くらはおろか、あのしろまでもがあごが外れんばかりにポカーンとしているが、

(あ?)

 玄人は見逃さなかった。

 部室の隅の各務が左右のこめかみに指を当てて、カッと目を見開いていた。

 黒と茶のオッドアイ──神秘的な光彩で誰かをにらむように──いや、単にこの騒ぎに仰天しているだけかもしれないが、いつも無表情気味な彼女にしては間違いなく珍しい姿だった。

 三人とも変!

 やがて新宿がおどりながら玄人に近づいてきた。間近まで来るとこんな風に言う。

「チベットの奥地に不思議な部族が住んでいる。ン・ュフ族というんだが──」

すごい発音した!」思わず突っ込む玄人くろと

「その部族はおどる事でトランス状態に入り、未来を予知できる。有名なトンパ文字の古文書にその技法が記されていた。そして──今のぼくはまさにそのトランス状態にある。せっかく来てくれたのに手がかり無しで帰すのは忍びないからね。一つ予言をしてあげようと思うんだ」

「予言?」

「何でもいいから質問してくれ。確信を持って答えよう。それは必ず的中する

「……」別にぼうてんを振ってまで意味ありげに言う事じゃないだろう。

「さあ遠慮せずにどうぞ! ほおおう、ほおおおう! この予言は絶対に外れない!」

 いや、マジでどうすっかな、と玄人は大量の汗を流しながら思った。


      5


 それから五分後──

「なあ、ちょっと待てよっ?」

 先に立って一人さっさと歩いていくあかを玄人達は小走りに追いかけていた。

 ひょっほひょひょひゅーん! と鼻歌交じりに進む赤座から返事はない。

 部室棟から校舎へ続く長い道だった。わきのケヤキが地面に濃い影を落とし、飛び石の上を渡るように影の部分だけを選んで歩きたくなる──それくらい放課後の日差しはまだ強いのだが、より強いのは玄人達の困惑だ。

 占い研究会の部室を出た途端、赤座が校舎に向かって一人ずんずん歩き始めたからである。

(ったく、一体どうしたってんだ? ったくよぉ)

 玄人は先程の一幕を思い出す──。

 踊る事でトランスに入り予言するという、しん宿じゆくたかの申し出を受けて玄人はこう頼んだ。

「色々あれだが、せっかくだからやってもらうか。魔術師の正体を占ってくれ。いや、心配すんな。話半分に聞いておくから、外れても文句は言わねえよ」

「ノンノン、この占いは今まで外れた事がないんだよ! 的中率は百パーセントだ」

 自信たっぷりにそう言うと、新宿はウォーボネットに手を突っ込んで羽根をむしり取った。

 その羽根の先端はダーツのようにとがっている。

 そして新宿は軽やかに身をひるがえし──

 カッ! カッ! カッ!

 続けざまに三本投げた。……忍者研究会に入った方が適性をかせそうである。

「ほっ! これはこれは」

 しろものすごうれしそうに感心していた。ツボだったのだろう。

 壁にられたトンパ文字の一覧表に羽根ダーツは刺さっているのだった。新宿はそれに近づくとめ回すように見て、ダーツが刺さっている箇所は『一』『美』『女』の文字だと告げる。

 そしてうつむくと物々しいタメを作り──突然クワッ!

「つまり、魔術師の正体は一人の美しい女……要するに美少女だったんだよ!」

 しーん。

 ドン引きしている室内の面々。そっか、犯人はわたし達だったんですね、とボケるのも忘れて放心している。ったく、予想通りの適当な予言しやがって、と玄人くろとが苦虫をつぶしていると、予想外のリアクションをした者がいた。

「あーあーあー! 成程、そういう事だったんですか!」

 予想外の人、あかであった。

「了解致しましたっ。犯人が美少女だと判明した以上、これからするべき事は明確です。学園の美少女をかたぱしから捕まえて尋問しましょう。本官はさつそく調査に行って参りますっ!」

「おい? 待てよ赤座っ」

 と、そんな流れで部室を出て行った赤座伊衣子を玄人達は追いかけているのだった。

 行けども行けどもこちらの言葉に耳を貸さない彼女にたまりかねて玄人は言う。

「おい赤座、いい加減にしろよ! こんな事してる場合じゃねえだろ」

 玄人としてはしん宿じゆくたかの適当な予言は考慮の対象にならない。それより赤座に、会長ことユキの事を色々ときたかった。同じクラスだという事をさりげなく隠そうとしていたあの女には絶対に何かある──。

「止まれって! この暑いのに鹿馬鹿しい事させるなよ」

 と、言った時である。不意にぴたりと赤座が歩みを止めた。

「おっ、やっと話が通じたか。面倒な事にならなくて良かった──って、うぉうっ?」

 駆け寄った玄人の鼻先をチリッとかすめていく豪腕。赤座が振り向きざまにすさまじい勢いの裏拳を見舞ったのだ。紙一重でどうにかかいしたが、玄人でなければ鼻を潰されていた。

「ななな、何すんだ赤座! 危ねえだろおおっ?」

「……今、わたしの事バカって言いましたね」

「あ?」

 その場の皆がギョッとした。振り向いた赤座の目が別人のように据わっていたからだ。

 けんのん──酔っ払いでもこんな目つきはなかなかしない。

「わたしの事をバカって言うのはすなわち、警察官をバカにするのと同じ事ですよ、玄人さん。いくらあなたでも言って良い事と悪い事があります。んー、仕方ありません。悪い人には正義のてつついを下して、お仕置きしなくちゃいけないです!」

「お、おい……」

 言ってる事がいつにもまして無茶苦茶である。

 ブンッ! ブンッ! と赤座は豪腕をぶん回し──裏拳とフックの中間のような打撃だ。当たったら対象と同時に己のこぶしもぶち壊しそうな勢い。

(こりゃどう見ても普通じゃねえ。一体何だってんだ? ……ああ、そうか。普通じゃないから一人でずかずか勝手に行っちまったのか)

 かはまるで不明だが、今のあかは変になっている──玄人くろとくらをかばって前に出た。しろさきは回り込むように左右に動く。密集していると攻撃のかつこうじきだ。

「なあ赤座、するからやめろよ。な? ほうな真似はよせって」

「ホーラ、またアホって言った。駄目ですよ玄人さん、アホって言う人がアホなんです」

 その瞬間、ごうおん──。

 ド迫力のストレートが玄人のほおかすめ、り傷を作った。鳥肌が立つ。一般人に出せる速度をはるかにりようしていた。

ほん君! これってさっき言ってたあれじゃないの? 暗示の心理スキルとかいう」

「暗示? これが?」

 血倉に負けじと、未百合も心配そうな声を張り上げた。

「そ、そうよ! きっとそうだわ。占い研究会の人達がさっきやってた不思議な……あれよ! 赤座さんはあの時に悪い暗示を入れられちゃったんだわっ」

 言われてみれば滅茶苦茶怪しい事をしてやがったよな、と玄人は思う。

(暗示のスキル──あの時にうまく入れたってのか? 一体誰が? 正直まゆつばだが、しかし、この身体能力は異様だ。せんざい能力とやらを引き出されたと考えれば納得がいく……)

 その間も轟音と共にぶん回される赤座のロシアンフック。よけたつもりでもパラッと頭髪が数本宙に舞う。一瞬ごとに激しくなる迫力の攻防。と言っても玄人は回避しているだけだが、赤座──この女、間違いなく強い。そして空気が読めない。

「カモン! 玄人さん、そうやってよけてばかりじゃ今に限界が来ますよ。一発くらい打ってきたらどうなんですか?」

「ふん、俺は女は殴らねえ──って、ベタな事を言わせんな。これは料理の話なんだぞ。多分、いや、おそらくそのはずだったんだが……とにかくやめろ!」

「ほんと、玄人さんは強がりばっかり言っちゃって。そういう可愛い男の人は……」

 赤座は一瞬かがみ込むように身を沈めると、

「愛しちゃいますぅっ!」

 跳躍した。

 陸上部の美咲がショックを受ける程の跳躍力だった。

 そのまま重力加速度を加えて玄人を押しつぶそうと、赤座は大きく両腕を広げて突っ込んでくる。せんりつのフライングボディアタック! かわせないと判断して玄人は足を止めた。プロレス技なのだ──受け止めないと赤座が怪我をする。してもいいが、

(いや! こうなったら仕方ねえ。なるようになれだっ)

 つぶれるか、持ちこたえられるか。腰を落として巨大いんせきの落下を待ち構える玄人くろと

 だが、それが予想もしない結果を招いたのだ。

「だめぇ! 危ない玄人君っ!」

ほん君の為なら、わたしっ!」

 ドンッ! 突然背後から突き飛ばされ──それに続く派手な衝撃音。

 振り返った玄人が見たのは立ちこめるつちぼこりと、あかの下敷きになったくらだった。

「なっ……? 未百合……血倉ぁっ!」一瞬視界が赤くなった。

 あわてて駆け寄ると、赤座はバッと後ろに飛び退いた。未百合と血倉は口から泡を吹き、ぐるぐる目を回している。玄人をかばったはいいが、ボディアタックを受け止めきれず、後ろに倒れて頭を打ったのだ。揺さぶっても起きる気配はなく──

(……いや、大丈夫らしい。傷とかはついてない。気絶してるだけだ)

 ホッとあんの息をいた。

 とはいえ、と玄人は思う。ずいっと前に出た玄人の迫力に赤座ちゆうちよした。

「あ、あれ? 玄人さんとたわむれていたはずなのに、どうして未百合さんと血倉さんが……?」

「黙ってろ。心配すんな赤座。今のお前は少し変になってんだ。悪いのは妙な暗示を入れたやつだから、俺の怒りは全部そのクソヤローにぶつけるとして……。ほら、何も考えずにとりあえず打ってこい。もう避けないから、思う存分ぶん殴りな」

「そ、そうなんですか? 何だかよくわかりませんが、せっかくですので──」

 ズドォン!

 ちようきゆうの大砲を思わせる右ストレートが玄人の胸板に直撃した。続けざまにズガン、ドゴォン! 右、左、右、左、と赤座伊衣子は交互に正拳突きを繰り出し、玄人は全て受け止める。

「す、すごいですっ……! 玄人さん、料理人ってここまでタフなものなんですね!」

「勉強になったか? だがタフなだけでも案外務まらねえんだ、これが」

「どういう事です?」

「今解る」

 正拳突きに専念している赤座伊衣子の背後に向かい、玄人は目配せをした。やれ──。

 こくりとうなずいたのは赤座の後ろに忍び寄っていたじよううちしろだ。

 そう、玄人はばくぜんと殴られていた訳ではなく、注意を引きつけていただけ。相手が攻撃に夢中になっている時こそ反撃の最大のチャンスなのだ。

「城之内流、はだかめーっ!」

 おんぶのように背中にしがみつき、白奈は両腕を赤座の首に絡ませてけいどうみやくめた。プラス、すいやくを染み込ませたハンカチを赤座の口元に当てている。

「むがぐーっ? むー! むー! むーっ!」

 赤座は振り解こうと暴れるが、そこは白奈だ。簡単に引きがされる事はなく、更に玄人とさきけんせいに入った事もあり、やがてあかは電池が切れたように静かになった。

「すーっ、すーっ」

「いい気なもんだな、おい……」

 気持ち良さそうな寝息を立てる赤座に疲れた顔で突っ込む玄人くろと。気絶しているくらを左右の腕に抱え、むすっとした顔で歩き始めた。占い研究会の部室に戻るのだ。二人を地べたに寝かせておけないし、何より──

『誰が赤座に暗示を入れたのか?』

 突き止めて、仕置きをしてやらなければ気が済まない。せんじ詰めればそいつが今回の事件の犯人──そら美咲の精神に悪戯いたずらした人物でもあるのだから。魔術師許すまじ。しろは赤座をおぶり、美咲がそれを気遣いながら、足早に進んでいく玄人の後を追う。


      6


 玄人が占い研究会のドアをやぶるように開けたのと、そいつが動いたのはほぼ同時だった。

「おい、誰でもいいから答えろ。誰が赤座に暗示を入れた?」

「ひいっ!」

 悲鳴と共にそいつは走り出していた。

 走って窓際へ。シャッと窓を開け放ち、ジャンプして部屋から脱出する。あっという間だ。

 占い研究会の部室は一階だからをする事もなく──会長ことユキは玄人の顔を見た途端、有無を言わさず部室から逃げ出してしまったのだった。

 しん宿じゆくたか各務かがみは何が起こったのか解らず、口をぽかんと開けている。

(クソッ、やっぱ会長か! 最初から怪しいとは思っていたが)

 当然玄人は後を追おうとする。だがその前に──。

「部長は残ってこいつらに説明をっ。皆で未百合と血倉を手当てしてやってください。多分寝かしとくだけでいいでしょうが。で、美咲と俺はヤローを追う。取っ捕まえるぞ」

 おおざつなようで意外と細かい事に気が回る人、ほん玄人である。

「了解だ、ボス! 君の嫁二人はこちらで看病する。安心して行ってくれ!」

 何か聞き逃せない白奈のほう発言があった気がするが、突っ込んでいる暇はない。玄人は美咲と共に窓から飛び出し、部室棟からすごい速度で逃げていく会長を追った。

 会長のスピードは予想以上だった。追い詰められて火事場の鹿ぢからが発動しているのか、とにかく速い。陸上部の美咲と玄人が本気で追っても追いつけないのだから、相当な物だ。

 とはいえ、かなりの距離を全力疾走し、やがて校舎が見えてきて──

「も、もう……駄目だあっ!」

「え? お前がへたばるのっ?」

 意外にもそらさきが脱落した。もう息が続かないという。

 陸上部のビューティフルランナー、せっかくの見せ場なんだから頑張れよ……と玄人くろとはげましたが、例の暗示をかけられたせいで美咲はスタミナが続かないらしい。思い返せば本来の依頼はそういう物だった。美咲は地べたに両てのひらをつき、ハアハアと苦しげに息を切らせて、

「ご、ごめんよ。僕に構わず彼女を追ってくれ、ほん玄人君っ!」

「悪いがちゆうちよなくそうさせてもらう」

(って、あん……?)

 ふと玄人は気づいた。否、それはばくぜんとした思いつきに過ぎなかったのだが、へたばる美咲の姿を見ていて感じた事があったのだ。

(あれだ。こいつはもしかしたら……)

(検証する価値はあるかもしれねえな)

 だが今はそんな場合ではない。玄人は美咲に背を向けて会長の追跡を再開した。全力疾走しながら会長の名を大声で呼びまくり、プレッシャーをかける。

 すると会長が校舎内へ逃げ込むのが見え──玄人はうなずいた。これで決まりだった。


「た、助けてくださいっ! わたしは何も悪い事はしていません。本当ですっ!」

「お前、これだけ派手に逃走しといて、よくそんな事が言えるな……」

 校舎の屋上で、会長ことユキは玄人の足にまとわり付き、弁解を繰り返していた。

 屋上──青空の彼方かなたに桃色がかった雲が浮かんでいる。ここより先のフロアは無い。会長は校舎内に逃げ込み、二階、三階と上に逃げていく過程で失策に気づいたはずだ。建物内に逃げ込んだら、追い詰めてくれと言っているような物だという事を。

 ──という訳で、会長は屋上に出た瞬間、掌を返したように謝り始めたのだった。

「わたしは本当に何もしていません! 暗示と言われても何の事だか……。そもそもわたしは逃げた訳じゃないんですっ。保健室に先生を呼びに来ただけっ。だって、あなたがしてる女子を連れていたものですから」

「あ? だから窓から飛び出したってのか? 過剰反応にも程があるだろ。ていうか、保健室を思い切り通り過ぎてるじゃねえか」

 この時間、保健教師はとっくに帰っている。

「わたし、気が弱いので、その……ビックリしちゃって。動転しちゃったんですっ」

「そんなな言い訳があるかっ。やましい事がなけりゃ、あそこまでぶっ飛んだ行動はしねえだろ。ここまで来たら素直に認めろ。お前が暗示を入れたんだよな、天然先輩?」

「い、入れてません! それにわたし、天然じゃないです!」

「そこには別に食い付かなくていいよ。ったく、くらをあんな目にわせやがって。とにかく、来い! 何でそんな事をしたのか、動機は皆の前で告白してもらう」

「ひいいい」

(ふう。今回はマジで色々あったけどよ。これで後は犯人の告白を残すのみだ)

 素直に罪を認めないのは業腹だが、何はともあれしゆにんは確保した。玄人くろとは弁解を続ける会長を半ば引きるようにして占い研究室に向かう。


      7


 玄人が会長を引き連れて戻ると、部室棟にはさきを含めた全員がそろっていた。

「話はじよううちさんから全部聞いたよ」しん宿じゆくたかが沈痛なおもちで言った。「大変な事になっちゃったね。暗示の心理スキル、か。人を襲わせたりとか、そんな事が本当に可能だなんて」

「……」

 各務かがみはいつにもまして無表情だ。心中はうかがい知れない。

 室内を見回すと、あかは床でぐうぐう。くらは各々ソファーに横たえられ──何やかやで機転のきくしろがうまくやってくれたようだ。足の下にクッションを置き、頭の位置を低くして寝かせている。血の巡りが良くなるのだ。二人はいまだ気がついていないが──

 否、玄人の気配を察知したかのように血倉のまぶたがピクッと動いた。

「血倉っ!」玄人は横たわった彼女の顔をのぞき込み、「大丈夫か?」

「ん……」

 血倉の反応は意外なものだった。

 彼女は突然はじかれたように上半身を起こすと、玄人の手を両手でくるむように握ったのだ。

 そしてじっと彼の手を見る。理解不明の行動。これは打ち所が悪かったのか、と玄人は冷水を浴びた気分になるが、やがて血倉はホッと息をいた。

「良かった……」

「え?」

「どこにもはないみたいじゃない。本当に何よりだわ、ほん君! あなたが無事でいてくれて、わたし今とてもうれしいわ」

 あの時の赤座さんはとんでもない暴れぶりだったでしょう。あなたがもし手を怪我していたら大変だって思っていたのよ、と血倉は言う。

「だって手は料理人の命だもの。傷一つだって負わせられない。命に代えても守らないと……なーんてね。フフッ。わたしにあなたを守らせてくれてありがとう」

 心底嬉しそうにそんな事を言う。

「血倉、お前」

 いじらしいやつだな、と玄人は思う。かばって気絶した側が普通そんな風に考えられるだろうか。何かグッときてしまった。

「あなたの周りって個性派ぞろいじゃない? わたしって影が薄いから、あまり役に立ててないんじゃないかと思って、実は気にしていたの。日陰の身とはよく言ったものよ。だけど、できれば長い目で見ていて。こんな風に少しずつ恩返ししていくから」

 それがわたしの一番の望みよ、と澄んだ笑顔で言うくら玄人くろとはぶっきらぼうに答える。

「ふん、影は別に薄くねえだろ。むしろ濃いし……日陰の身でもねえよ。俺が保証するからもっと胸を張れよ」

「え……っ?

 するとどうした事か。途端にボッと血倉の白い顔に火が灯るのだった。

「そ、それってつまり……」血倉のほおがみるみる赤く染まっていく。「や、やだっ。何言ってるのよほん君。そんな優しい事を言われたら、わたし思わず期待しちゃうじゃない!」

「うおっ?」

「もう、にくいヒト!」

 真っ赤な顔で玄人の腕をぞうきんのようにぎゅうっとしぼる血倉。よくわからない反応だ。手は料理人の命なんじゃないのか、と玄人が言おうとした時、背後にただならぬ気配があり──

 振り向けば。

「ハッ?」

 が目を覚まし、こちらを見ていた。

 ガクガクガクガク……。せつまった顔で震えているから、また変な事を考えているのだろう。何でもないから心配すんなよ、と玄人が安心させようとすると、未百合はソファーから飛び降りて駆けてきた。

 血倉と玄人にそっと触れ、未百合は黒い瞳をうるませて言う。

「ねえ玄人君、血倉さんはとっても良い人よ……。わたし、彼女の事が好き。血倉さんには絶対幸せになってほしいわ。だからやっぱり愛人ではいけないと思うの」

 だってお嫁さんになるのは女の子にとって最高の喜びなんだもの……ととうとつな意味不明発言をする未百合。意表を突かれた玄人は五秒くらい固まっていた。

「……あ? っていうか、何だよお前、まだ寝ぼけてるんじゃねえのか?」

 仕方ないヤツだな、と未百合の頭をぽんぽんたたくと、幸せそうにうっとりと目を細める。彼女の頭頂部は黒髪がつやつや、たまのようになめらかだから、触れた玄人もかなり気持ちが良い。

 でられた未百合は気分が安らいだのか、ようやく落ち着いた態度になって、

「それでね、玄人君。世界の……」

「ん?」

「世界のどこかにね? 一夫多妻制の国があるらしいんだけど」

 落ち着いた口調で変な事を語り始めた。……放っておこう、と玄人は思う。基本的に未百合も血倉も自分より相手を思いやる優しい子なのだが、もう少しこう、何というか。

 さておき。

「まあいい。とにかく事件は解決だ。くらも無事だったし、犯人もほれ、この通り捕まえたからよ。あかさきにくだらん暗示を入れたのは占い研究会会長こと、このユキだ。さあ会長さん、今から犯人の告白タイムだ。そんな事をしたのか、皆の前で動機を語ってもらおう」

「だ、だからわたしは犯人じゃないです。さっきのは逃げたんじゃなくて、先生を呼びに行っただけで……」

「もうよせ。言い逃れできる状況じゃねえんだよ」

(まあ、あれだけのスキルの持ち主だ。大方、自分の力を誇示したかったんだろうが)

 前に押しやると、皆の注目を浴びた会長は震え始めた。口をぎゅっとみ締めて、浅い呼吸を繰り返す。よくを誘うメイド姿という事もあって、全員でお仕置きしているおもむきだ。

 とはいえ、しぶとく数分経過。会長はいつまでっても口を割らない。

 やがて──。

「ねえボス、わたしは思うんだが」

 しろが手を上げて躊躇ためらいがちに口をはさんだ。

「この人は……本当に犯人なんだろうか?」

「あ? 何ですって?」玄人はまゆひそめた。こんな時に何を言い出すのか。

「いや、だってこんなにおびえているし……そもそも本人がやってないと言ってるじゃないか。ひょっとしたら本当に無実なのかもしれないよ? ボスの迫力にびびり、言いたい事が言えなくなっているだけで」

「え……。俺が悪いのっ?」青天のへきれきだった。「や、部長。俺は別に普通ですよ」

「いやいや、ボス。さっきまでの君は結構怖い顔をしていた。未百合ちゃんと血倉ちゃんが傷つけられたんだから、そこで怒らなければ君ではないが、とはいえ、いつもの君ならもっと冷静に事態を検証しているように思う」

 玄人は思わずジト目になった。

 じよううち白奈は一見スーパーモデルながら、性善説を地で行く大のおひとしだ。会長の怯える姿を見ているうちに可哀想になったのだろう。そこは白奈らしいのだが、

「ほっ! 会長ちゃんが正直に言っている可能性は否定できないよ。彼女は犯人ではなく、ましてや逃げたのでもなく、本当に先生を呼びに行っただけなのかも……。怒ったボスに追いかけられた事で動転し、とつな行動をとっていただけかもしれない」

 と、そんな風に言うのだった。

「だったら部長、この事件はどう収拾するつもりなんです?」玄人はいた。

「うん。実はここで君を待っている間、ずっと考えていた事があってね。それは──しん宿じゆくたか君の予言についてだ」

「予言?」

 意外な着眼点だった。

「あー……何かありましたね、そんなの。トンパ文字の表を使ったやつだ。『一』『美』『女』にダーツが刺さったから、犯人は一人の美少女だ! とかいう」

 何という適当な予言だと玄人くろとは思ったものだが、しろはそうではなかったらしい。

「くふふ、くだんの予言を考慮すれば容疑者は絞られる。美少女とは希少なものだし……偶然ここには極上の美少女がそろっているが、占い研究会のメンバーには会長ちゃんと各務かがみちゃんの二人しかいないからね。そしてここがポイントなのだが……」

「何です?」

 ミスリードだよ、と白奈は得意げな顔で言った。

「犯人は美少女である、と誘導すれば結果的に容疑者から外れる存在があるだろう? いいかい、ボス。これは真犯人によるミスリードなんだ。あれは予言じゃなくて狙った場所にダーツを投げたんだよ。すなわち、事件の犯人は男子だ。疑いを美少女に向けようとしたしん宿じゆくたか君こそが、この事件の真犯人なんだ!」

「なっ、何だってえええー?」

 新宿貴志は雷光に打たれたような顔をした。

「な、何という事だっ! ぼ、ぼくが暗示を入れた犯人だったのか!」

 と、両手で頭を抱えてワナワナしている。……いや、どう見ても犯人とは言いがたいのだが、天才白奈のほう推理は絶好調だ。

もりぎんに出没するのはみようが関係してるんじゃないのか? 銀座と新宿だから何か語呂合わせ的なネタがあるんだろう。そもそも彼の格好が怪しい! 上半身裸にウォーボネットって、ちょっとしゆつが過ぎるじゃないか。したら捕まるよ。暗いところで見たら驚いておしっこをらしているところだ!」

 と、ノリノリでそんな事を言う。白衣を脱ぎ忘れて帰路につき、そのまま電車に乗ったりする人の発言とは思えない。(その時はモーゼが海を割るように人が避けていった)

「……やー、部長。そんな薄弱な根拠で人に容疑をかけないでくださいよ」

 玄人の言葉を華麗にスルーし、白奈はどこまでも確信的に語り続ける。

「さあ新宿君、犯行の動機を! それと心理スキルのからくりも教えるんだ! あかちゃんとさきちゃんに入れた暗示もしっかり取り除いてもらうからねっ」

 状況は混迷をきたしている──。

 が、やがてどんてんから水滴が落ちてくるように冷静な事を言う者がいた。

「あの、ちょっと待って」

 くらさとだった。

「何か変じゃない? 新宿君が暗示を入れたって言うけれど、それって一体いつやったの? 動機以外の見地からも考えた方が良いわ。もう一度落ち着いて流れを整理してみない?」

 さきさんの件は置いといて今はあか先輩の件に絞って考えるの、とくらは言う。

「わたし達がここ、占い研究室に来た時……まあ最初はばたばた色々あったけれど、全員集合してからは比較的落ち着いたわよね? それからは基本的に──」

 玄人くろとははっとした。

(そうだ)

(暗示を入れるとしたらチャンスは限られている……。赤座が部室から出て行っちまうまでの間、俺とと血倉と美咲は、ずっと会長から話を聞いていたんだ。つまりあの時間の会長にはアリバイがある。確かしろしん宿じゆくは壁際でトンパ文字のポスターを眺めていたから、こっちにもアリバイがあるな。で、赤座と各務かがみは部室の奥まった場所でにこにこしやべっていた。あれは例の何だっけ……そうそう、ペーシングをしていたんだと思うが)

(ペーシング?)

 まさか、とつぶやいた玄人が振り向こうとした瞬間、

「……チッ」

 各務が短く舌打ちした。

 こいつか、と玄人は思った。

 そう、各務だけがアリバイがない。というより、物理的に考えれば赤座に暗示を入れるタイミングがあったのは各務麻戯香しかいないのだ。

「お前がやったのか、各務……?」玄人はいた。

 部室内は静まり返り、緊張感が満ちている。料理事件部と占い研究会のメンバー全員がこぞって各務を見つめていた。各務の顔色は真っ青だ。うつむき、腹部を抱えるように押さえ、ギリッとみ締めた唇は白くなっている。

「……答えろ各務。やったのはお前か? あの時お前は赤座にペーシングをしていたんじゃなく、暗示を入れていたのか?」

 玄人の問いに皆が口をそろえて追従した。

「各務さん!」

「ねえ、各務っ」

そんな事を……」

「各務さん、黙っていたら解らないわ」

「なあ各務。ほんとにお前が暗示を……」

 やがて舌打ち一つ。──チッ。

「うるさい」

 突然各務はって立ち上がった。ごうぜんと細いあごを反らし──そのひようへんぶりは見る全てをギョッとさせるのだった。

「確かにあか先輩に暗示を入れたのはわたしだ。だが……それがどうした? 素人しろうとさいみんをかけたから何だ。そんなのはわたしの勝手だろう。文句を言われる筋合いは一切ないな」

 全員ぜん

 開き直った各務かがみはむしろ誇らしげに悪事を認めた。普段のもくな仮面を脱ぎ捨てて、切れ長の瞳を不気味に輝かせながら感じの悪い微笑を浮かべる。魔女顔負けのたたずまいだ。

 あまりの変わりぶりに会長のユキもしん宿じゆくも啞然とした表情だが──

(……だが、これで事件は終わりだ)

 玄人くろとは息をいた。

 かくして暗示の使い手、各務麻戯香は皆の前で自分が真犯人だと自白したのだった。


      8


 それからすぐに空模様が崩れた。今は雨──。

 ピアノ線のような細い雨が静かに降るトラックをそらさきは一心不乱に走っていた。

 ここはもりちよう総合運動公園陸上競技場。

 先程まではたたき付けるような土砂降りだった為、また、もうすぐ七時になるかならないかという時間帯という事もあって、走者は美咲以外誰もいない。うすやみのトラックを雨に打たれつつ、走っては休み、走っては休み、まるで何かを振り払おうとするように美咲は練習を続けていた。

 振り払いたいのは先程の件の後味の悪さだろうか。そうかもしれない。各務麻戯香は自分が犯人である事を認めながらも、反省の素振り一つ見せなかったのだから。

 それどころか、暗示をくよう要求した玄人達に対し、

「無理だな」

 と、衝撃的な事実をさらりと開示したのである。

 あの時──。

「一度入れたら、暗示は解けない」

「……どういう事だっ?」

 食ってかかる料理事件部と占い研究会の面々に、各務麻戯香はこれ以上ない程まがまがしく口端をゆがめながら、こう言ってのけたのだった。

「暗示というのはうまく入るケースの方が珍しい。つまり、この暗示は偶発的にかかったものだ。くくっ、わたしは人を操るのが何より好きでな。機会があれば誰にでもこういう悪戯いたずらをする事にしている。今回は赤座が被暗示性の強い、思い込みの激しい性格だったのが影響したのだろう。偶発的に入った暗示を意図的に抜く事はできない。わかったな?」

「な、何それ……。元に戻せないっていうの?」が震える声で言う。

「そうだ」

「ひどいわ、各務かがみさんっ!」

 自分の事でもないのにが涙目でふんがいすると、各務こくはくそうに唇をゆがめ、

「ああ、わたしはひどい女だ。せっかくだから、もっとひどい事を教えてやろうか?」

 こんな風に言う。

「《魔術師》の正体もこのわたしだ。変装してもりぎんで好き放題やらせてもらった。動機は何かって? そんな事は決まっている。純粋な悪意……つまりは無差別の悪戯いたずらだな。暗示が入りやすそうな者を捜し、そういう人物がおかしくなるように負の暗示を入れていたのだ!」

 信じられないという表情で首を振る未百合。そんな彼女に冷ややかなオッドアイを向け、各務麻戯香は毒々しい口調を更にエスカレートさせる。

「そこのそらさきに暗示を入れたのももちろんわたしだ。……簡単だった! ペーシングで気分をシンクロさせ、オッドアイで両目を見つめ、潜在意識の深いエリアに送り込んだ。これもまた偶然成功したケースではあるが、偶然であるが故にもう二度と解けない」

 この目にったが最後、そいつのそうぼうは釘付けになるのだ──。

 と、各務は空野美咲に向かい、にいっと唇を歪めて言う。

「陸上はもうあきらめろ!」

 何というひどい女だろう。あまりのぼうじやくじんぶりに全員が怒るを通り越し、あつに取られていた。同じ高校の生徒にここまで人間離れした悪意のかたまりのような女がいたとは。

 凍り付いた空気の中、各務麻戯香はだれはばかることなくゆうゆうと部室を出て行く。

 未百合やくらぼうぜんとして動けず、玄人くろとは無言で彼女を見送った。妙に大人しくしていたしろは気絶したままのあかを心配していたらしい──ひとまずじよううちようたしの名医にせてみると言い残し、そそくさと赤座を背負って去っていった。

 ともあれ、修羅場は終わったのだ。

 各務はやっぱ退部ですかねぇ、と放心気味に話しているしん宿じゆくたかと会長を残し、料理事件部のメンバーはいつたん解散。それから美咲はふさいだ顔で競技場に向かい、雨の中を一心不乱に走っていたという訳だった。いやな気分を雨が洗い流してくれるとでもいうように。

(ふん、成程──)

 まえかがみになり、りようひざに手を当てて荒い呼吸を繰り返す美咲の様子を遠くから見ているのはほん玄人だった。その目は鋭く、表情は珍しく真剣である。

(あのフォーム……。やっぱそういう事だよな)

(事態は見えた。どうやら俺の思った通りの結論らしい)

 玄人は傘を差し、ゆっくりとトラックに近づいていった。

「よう美咲。こんな雨の中ご苦労さんだな」

「キミ……。本間玄人君」

「風邪をひくから、そろそろあがれよ」

「でも──」

 サアサアと静かな雨が降りしきる。

 びしょれのままうつむさきは唇を強くみ締め、そこから動く気配はない。今にも泣き出さんばかりに瞳は哀しくうるんでいるが、どうなのだろうか。雨が目に入っただけなのか。

 やがて美咲は消え入りそうな声で言う。

「陸上、あきらめたくないな……」

 各務かがみの言葉が余程こたえているらしい。ぽたりと大粒のしずくこぼれる。肩がかすかに震えていた。

「心配すんな美咲。俺が何とかしてやるよ」

「えっ?」

 顔を上げる美咲を大きな傘に入れてやり、玄人くろとはニヤッと笑んで言う。

「明日の放課後、学園の第一調理室に来な。うまい物をごそうしてやる。それで全ては解決だ。心理スキルだか暗示だか知らねえけどよ。世の中にはそれをはるかにりようする究極至高のスキルがあるって事を教えてやる!」

「え……?」美咲はぱっちりと目を見開いて、「そ、それは一体っ?」

「まあ明日まで待て」


      9


 どこから広まったのか定かではないが、翌日の学校は朝からそのうわさで持ち切りだった。

「知ってる? 各務さんって……」

「聞いた聞いた! やばい事してたんでしょ」

「洗脳? マインドコントロールだっけ? 怖いよねえ」

 かぜもり学園一年A組の教室も当然その例にれず、生徒達の話題は各務の件ばかりだった。いわく──彼女は人にさいみんじゆつをかけて悪行を働かせるという。

 気を遣ってか、あるいは単に関わりたくないのか、面と向かって問いただそうとする者はいないものの、不可視の空気の壁が彼女とクラスメイト達の間に堅固に形成されていた。

 だが当の各務麻戯香はいたって平然としたものだ。

 いつにもましてクールな無表情で一人超然としており、ささくれた空気を物ともしない。時折興味深げに近づいてくる者を冷たくにらみ付け、チッと得意の舌打ち一つ。またたく間に退散させる様子はまさに舌遣いの魔女だ。その日の午前中だけで数え切れない程の舌打ちをした。

「チッ」

 そして今、放課後の廊下を歩いている各務麻戯香が一際大きな舌打ちをしたのは道を開けろという行為である。魔法のように人波が引いた。

 帰りのHRホームルームが終わり、生徒でごった返す二階の廊下を各務かがみは超然と第一料理室に向かっている。料理事件部からの挑戦を受けたからである。

 ──放課後、第一調理室に来い。ごそうしたい物がある。

 と、同じクラスのほん玄人くろとが、帰りのHR前にさりげなく彼女に告げたのだ。正直何を考えているのかよくわからない人、というのが各務の本間玄人に対する評価なのだが、今回に限っては明白だった。

ふくしゆう

ただでは済まさないという事だろうな)

 昨日散々悪態をつかれた仕返しをするつもりなのだろう、と彼女は思う。ご馳走とはまた皮肉な言い方をする。一体どれ程の怒りを浴びせられるのか、どれだけの大人数が待ち構えているのか? 想像もつかないが逃げるつもりもない。

 そして各務は唇を引き結び、第一調理室のドアを開けたのだ。

「さあ、お望み通り来たぞ。くくっ、昨日の続きをしたいのなら──」

 と、思わず各務は言いかけた台詞せりふを飲み込む。大人数どころか室内には本間玄人とそらさきの他に誰もいなかったからだ。


 調理室には微妙な空気が立ちこめていた。

 入口でげんな顔をしている各務麻戯香と、テーブルについて困惑顔をしている空野美咲、ポケットに手を入れて突っ立っている本間玄人というこの三人──キャラ的にかなり絡みにくそうではあるが、そこは我が道を行くタイプの玄人だ。かなりアバウトな感じに各務を中に招き入れ、美咲の対面に座らせた。

「あ、あの……本間玄人君。一体どういうつもりなんだい?」美咲が戸惑い気味に言う。「僕はしい物をご馳走してくれるっていうから来たんだけど」

もちろんご馳走はする」

「でも、料理をしている気配はないし……。そのうえ、各務さんまで呼ぶなんて」

 各務を恨みがましくいちべつして美咲はうめく。彼女と一緒じゃ美味しい物を食べても楽しい気分になれないよ、と。暗示を入れられた側からすれば当然の反応だった。

「チッ」と各務。

「何さ! 舌打ちなんかして」

「別に。君の意志薄弱ぶりにあきれただけだ」

「何だと? キミは呆れると舌打ちをするのかいっ?」

「あー、よせよせ二人とも。ここでめんどうくさい事はやめろ」玄人は本当に面倒臭そうに言う。

「とりあえずだ。美味しい物はご馳走するが、その前に一つ、片しておきたい事がある。これは料理を心置きなく味わうための……言わば食前のいただきますみたいなもんだ」

「チッ、何がいただきますだ」

 ふざけているのかほん君、と各務かがみが冷たく毒づいた。

「わたしに仕返ししたいんだろう? つべこべ言ってないでやればいい。そこのそらさきと一緒に……いや、もっと仲間を呼んだらどうだ? わたしは逃げも隠れもしないぞ」

「よせって各務。そんなに自暴自棄になるなよ。俺には全部わかってる。仕返しなんかする気はない」

 ならお前が悪い事をしていないからだ、と玄人くろとは素っ気なく言う。

「なっ? そ、それはどういう……」各務は狼狽うろたえた。

「あまり料理人を見くびるなって事だよ。俺が何も知らないとでも思ってるのか? お前が魔術師でも何でもないって事はとっくにお見通しだ。単に悪ぶってるだけだろ」

 各務は絶句した。

「各務さんが魔術師じゃないだって?」美咲は混乱の極みのようだ。「そ、それはどういう事なのさっ? だって彼女は昨日言ってただろう。自分がもりぎんの魔術師だって! 暗示のスキルを僕に入れたって──」

「ありゃ各務がいたうそだ」

 玄人はいとも簡単にそう言った。

「皆まんまとだまされていたようだが、俺にはすぐ解った。各務は魔術師でも何でもねえ。暗示のスキルも入れてなければ、九森銀座で美咲と会ってすらいねえんだ」

 おそらく暗示を入れる方法も知らないはずだ、と玄人は言う。

「……ほんとに?」美咲はこれ以上ないくらい目をみはって、「でも何故そんな事を……。どうして各務さんが噓を吐いたって解るのさっ?」

 目だ、と玄人は言う。

「美咲、お前が九森銀座に行ったのは何の為だった?」

「何のためって、それはもちろん占ってもらう為……」

「いや、俺が言ってるのはその日に占ってもらおうと思い立った大元の理由の方だ。片目だと距離感がつかみにくい。だから練習を休んだんじゃなかったか?」

 各務麻戯香はハッと顔をこわらせた。

 玄人は思い出す。最初に依頼を聞いた時、美咲はこんな風に言っていたのだ。

 ──丁度その前日から僕、ものもらいができていて、眼帯をしてるとコースを曲がる時に危ないから、練習を休んで眼科に行ったんだ──。

「その言葉を聞いていればかつな事は言わなかったんだろうがな。昨日の各務はこんな風に言っていた。『オッドアイで両目を見つめ、美咲の潜在意識に暗示を送り込んだ』と」

 ──この目にったが最後、そいつのそうぼうは釘付けになる。

「ところがどうだ? そのさきは片方の目が眼帯でふさがれていた訳で。な? 発言が完全にじゆんしてるだろ。それでうそいてるのがわかったんだよ」

 説得力が出るように自らのオッドアイを絡め、もつともらしく言ったつもりだったのだろうが、それが逆にあだとなったのだ、と玄人くろとは言う。

「そ、そんな発言は……していない……」苦しげに各務かがみが言うと、

「無駄だっ!」玄人は一喝した。「料理人の記憶力は常人をりようする。俺は世界各国あらゆる料理のレシピを暗記している男だ。記憶にはいささかの乱れもない。尤も、英単語や数学の公式はさっぱり覚えてないんだが……あ、いや、話がれた。ていうか、美咲も覚えてるだろ?」

 美咲はこくんとうなずいた。ほらな、と玄人は言う。

「その気になればあの場にいた全員が証人だから、とぼけるのは無理ってもんだ」

 各務は悔しげに唇をむと無言でうつむいた。

「各務さんは魔術師じゃなかった……」美咲が困惑げに言う。「でも……。だったら真相はどういう事なの?」

「つまり各務は罪をかぶっているだけ。一連の事件の犯人は、やはり占い研究会の会長なんだ」

 真犯人のユキを各務がかばっていた。これが事件の真相だと玄人は言う。

「で、でもちょっと待ってっ?」

 美咲が食い下がった。

「だったら会長さんはどのタイミングであか先輩に暗示を入れたんだいっ? あの時はそんなタイミング、まるで無かったじゃないか!」

「そうだな。だからあの時じゃないんだろう」

 玄人はあっさり言った。

「色々と混乱させる因子が多くて気づくのが遅れたが、落ち着いて考えれば簡単なこった。占い研究会の部室でチャンスが無かったんだから、当然その前の時点で暗示は入っていた。それしか有り得ない。赤座と会長は同じクラスらしいから、教室でHRホームルームの前後にでも入れたんだろう。居眠りしてたら起こしてくれた……とか言ってたし、大方その時じゃねえのか?」

「そう言えばそんな事を言っていたような」

「暗示の入れ方自体は流石さすがに俺も知らねえけどよ。入れたタイミングはそれだ。あの日赤座はずっとにこにこにこにこしていて変だと思ってたんだ。で、各務は赤座に暗示がかかっているのを見抜き──まあ会長をかばうくらいだから、その辺は情報を共有してたんだろう。仲が良いのか悪いのか……。ともあれ、各務は得意のペーシング技術で赤座と二人にこにこしながら、部室で変な真似をしないように沈静化させていた。そして暗示状態だって事をいんぺいしたんだ」

 あの状況からはそういう結論しか出てこない、と玄人は言う。

「なあ各務、何でそんな事をしたんだ?」

「……」

「あの場で言いにくかった事も今ここでなら言えるだろ? 俺がずっと黙ってたのはそれが理由だ。全部打ち明けちまえ。楽になるからさ」

 息詰まるような沈黙が満ち、各務かがみこぶしを握り締めて地面をにらんでいる。

 切れ長の目の縁には光る物が──助けてほしいようで拒絶したいようで、素直になりたいようでうそきたいようで、相反する感情に揺さぶられているのがはたから見ていても解る。

「可哀想にな。お前、本当は傷ついていたんだろ」

 玄人くろとがそう言うと、各務は突然ぼろっと大粒の涙をこぼした。

「うぐっ……?

 そんな自分に自分で驚いたらしく、各務はあわただしく目をこすってチッと舌打ち。それから深く息をくと神妙に語り始めた。

「そう……。全てはほん君が言った通りだ。あの日あの時、あか先輩が暗示状態にある事はわたしにはいちもくりようぜんだった。それについては会長に聞いてよく知っていたから。会長が入れたんだとすぐに解ったよ。でもその理由が解らない。一体どうして?」

 会長は妙におどおどしているし、この人達とトラブルでもあったんだろうか?

 だとしたら──。

 そう思って、各務は事情を知らぬまま、とりあえず刺激しないように赤座伊衣子を得意のペーシングスキルで大人しくさせていたのだった。

「でも……鹿だった。わたしの気持ちは物の見事に裏切られてしまって……」

「裏切られた?」

「ああ……。それが解ったのは本間君が気絶したさんとくらさんを抱えて戻ってきた時だよ。あの時は体が震えたな。目の前が真っ暗になるくらい、ものすごいショックだった。そんな事をするのかと思って」

 会長がわたしに罪を着せようとするなんて……。

 と、各務は苦しげにうめいた。

「だって、暗示を入れるチャンスがあったのはあの時わたしだけ。ペーシングをしていた事も疑惑をき立てるだろう。いや、むしろわたしがやったと言ってるような物じゃないか。会長の為に暗示状態を沈静化させていたのに、結果的には真逆の事をされて……。わたしは悔しくて……とても悲しかった……」

 玄人は無言でうなずいた。さきまゆを寄せている。

 やがて各務麻戯香はぽつりぽつりと語り始めた。

 ──自分は子供の頃から占いや心理に関する物事が好きだった。生来ドジだから、それを改善したくて色んな事を試した。当然その程度で何かが変わったりはしなかったが──

 いや、高校に入って凄い人に巡り会ったから、やはり効果はあったのかもしれない。

 占い研究会会長、ユキはそれくらい才能に満ちあふれた人だったのだ。

「見た目や態度からはそう感じられないけど……あの人は天性の素質の持ち主なんだ。わたし達には感じられない物を感じられる」

「そうなのか」玄人くろとまゆを持ち上げた。

すごいよ。わたしはそんな会長にいつもあこがれていた。こんな事ができたら素敵だな、楽しいだろうな、という特技をたくさん持っていて、ある意味理想の……他はともかく、占いの事にかけては間違いなく天才的な人なんだ。わたしは会長を尊敬していた。なのに──」

 最近けんをしたのだという。それ以来二人はうまくいっていなかった。

 理由は例の魔術師の件だ。フードと腹話術で別人になりすまし、一般人を相手に占いをするという計画である。プロでもないのに流石さすがにそれはどうなのか? と各務かがみが常識的に異を唱えると、会長は立腹した。そして今日まで仲直りしないまま──と言っても腹を立てているのは会長だけで、各務はむしろ心配しているのだが、微妙な冷戦状態が続いていたらしい。

 まあ確かにあの会長、そういう天然っぽい感じの人だよな、と玄人は思った。

「一般人に暗示をかけてコントロールするなんて、人を尊重しない行為だとわたしには感じられた。憧れの会長にそんな事をしてほしくなかったんだ」

 それなのに会長は、と各務は血がにじむくらい唇を強くむ。

「何もこんな事しなくたっていいじゃないか……! わたしは会長の事が心配だっただけ。あの人はわたしの憧れの人なのに……。こんなのって無い! だからわたし、何かもう全てがどうでも良くなってしまって、罪をかぶせたいならお望み通り被ってやろうと思ってしまって、それで犯人のふりをしていたんだ」

「成程な」

 玄人はうなずく。各務があく的に振る舞っていた理由がそれで理解できた。つまりは自暴自棄。会長に対する複雑な感情のせいで、自分を大事に思えなくなってしまっていたのだろう。

「わたし、これから……」各務は力なくこうべを垂れて、「一体どうすれば……」

「ああ、それはだ」

 と、玄人が言いかけたその時である。

「ご、ごめんなさいっ!」

 調理室のドアが開け放たれ、物凄い勢いで会長──ユキが飛び込んできた。

 玄人の横を通り過ぎて、各務にひしっと抱きつく。

「ごめんなさい! 本当にごめんなさいっ!」

 涙目で必死に謝る。

「会長……」各務は抱きつかれてぼうぜんとしながら、「どうしてここに?」

「ドアの外から、ちょっと……盗み聞きしていましたっ」

 玄人は説明する。放課後ここに各務を呼び出してきゆうだんするという情報をわざとリークした。会長は必ずや一部始終を見ようとするだろう。そうせずにはいられないだろうから、と。

「ごめんなさい……。傷つけて本当にごめんなさいっ。わたしが間違ってました! わたしは自分勝手なおくびようものでした。ほんとにほんとに、ごめんなさいっ!」

「そんな、会長」各務かがみは目を丸くして、「子供みたいに……泣かないで」

「わたし、つい頭にきちゃって。占い魔術師の活動は良い事のはずだから、絶対賛成してくれると思って! ちゃんにはめてもらえると思い込んでいましたっ。だからそれと真逆の反応されて、カッとなっちゃったんですっ。でも……こんな真似しておとしいれるなんて、本当にわたしはどうかしていましたっ。ごめんなさい!」

 この人はきっとものすごく純粋な人なのだろうな、と玄人くろとは思う。それゆえに不可思議な心理スキルを自在に使いこなせるのだ。

「しかしあれだな、会長さん。いくら才能があるとはいえ、暗示とかそういうのを悪用するのは感心しねえ。そりゃ各務でなくたって反対するだろ。一体どこをどう都合良く解釈したら賛成してくれるなんて思い込めるんだ?」

「悪用なんかしてません!」会長は涙目で玄人をにらみつけた。「だって、わたしの心はいつもマザーと一緒ですもん!」

「マザー? 何だよ。お前のお母さん、そんな事をしろって教えてるのか?」

「違いますっ。わたしのお母さんは専業主婦です!」

「や、そんな事はいてねえ。だったらどこのマザーだ」

「マザー・テレサです!」

 玄人はがくぜんとした。予想のななめ上過ぎる発言だったのだ。

「わたしはマザー・テレサを尊敬しているんですっ。子供の頃に伝記を読んで以来、ずっとファンですっ。貧しい人の為に奉仕する……わたしの心はいつもマザーと一緒です!」

「あ……。ああ。そう、なのか?」

 流石さすがの玄人もどう反応していいのか解らなかった。

「わたしはマザー・テレサみたいに皆を幸せにしたいんです。たまたまわたしには暗示の才能がありましたから、それを使わない手はないでしょうっ。わたしは心の貧しい人達の為に奉仕したかったっ。良い暗示を入れてあげる事で、色んな人を幸せにしたかったんですっ!」

 いまだにポカンとしている玄人。さきも各務も同様だ。何というぶっ飛んだマザー・テレサ観だろう。このユキという人は心底ピュアで、心底変な人だったようだ。

 ともあれ。

「そうか。そういう事だったんだ」

 各務は誇らしげな顔で会長を抱き締めた。その手にギュッと力を込める。

「暗示で人を操るんじゃなく、幸せにしようとしていたのか……。それは間違った事だけど、そういう思いが根底にあるなら、やっぱり会長はわたしの思った通りの素敵な人だ」

「麻戯香ちゃん……」

「ねえ会長、わたし、これからもついていきます、ずっと」

「ううぅ……ありがとう。本当にありがとう、ちゃん……!」

 わだかまりは消え去り、かくして各務かがみ麻戯香とユキは仲直りする事ができた。

 途中玄人くろとには理解し難いスピリチュアルな展開があったが、当人同士が満足しているのだから、これはもう問答無用で良い結果なのだ。

「さて、事件の謎も解けたところで、会長さん。さきにかけた暗示を解いてくれ。ていうか、そもそも暗示ってのはどうやるもんなんだ?」

「そうですね。この方には良い結果を与えなかったみたいなので……いつたん抜きます」

 会長は美咲の隣に腰掛けると、てのひらをそっと肩に置いた。

「な、何を……?」戸惑う美咲。

「心配ご無用。今から暗示を抜きますので、リラックスしてください。気分がすっきりしますよ。はーい、息を吸って──いて──」

 リズミカルに深呼吸させながら、肩に置いた雪花菜ユキの手がソロソロと動く。指でのどの横の辺り──けいどうみやくをさりげなく圧迫していた。次第に美咲の目がとろんとし始める。

 玄人は思わず半眼になった。

(おいおい、思いっきり物理的な方法じゃねえかよ……)

 会長得意のやり方らしい。そういえば美咲も言っていた気がする。肩にぽんと手を置き、それを契機に記憶があいまいになってきたというのは、要するにこういう仕掛けだったのだ。

 そしてもうろうとした美咲の耳元で会長がブツブツ何かささやき続けること数十秒──。

「1、2、3……はい! 暗示はれいさっぱり抜けましたっ」

「ん……僕は一体」美咲はかくせいした。「あれ? 何だか気分がいいよ。ビューティフル!」

「良かったです」

 邪気の無い笑みを浮かべて会長はこう説明した。

 人を操るような強い暗示は短時間では入らない。いくつかの難しい条件をクリアしないと無理なのだ。美咲に入れたのは、自分の欲している物を更に欲するようになる軽い誘導暗示。でもそれが悪影響を与えるというのだから不思議な事もあるものですね、と会長は小首をかしげた。

「じゃああかに入れたのはどんなやつなんだ?」玄人はいた。

「うっ……! あれは完全にわたしのミスです。ごめんなさい!」

 あの日、料理事件部が占い研究会に乗り込むという話を教室で赤座から聞いた会長はひどくあわてた。学園一のならず者集団(と会長は思っていた)に、大切な占い研究会を好きにはさせない! だからそれを仲裁するような暗示を赤座に入れようとした。だが時間が足りなくて途中で中断。半端な状態だったから赤座は変になっていたのだった。

「要は副作用みたいなもんか」

「あれは本当に想定外でした。赤座さんの本能が解放されちゃったみたいで。反省です……」

「よし。だったらそれも抜いてもらおう」

 携帯で合図する玄人くろと。すると廊下から足音がして調理室のドアが開いた。顔を出したのはおみの面々──しろくらあかである。あらかじめ待機させていたのだ。

「ユキちゃーん、早くわたしを治してくださいよう……」

 情けない声でそう言う赤座は珍妙な巨大耳栓をしている。暗示で活性化した本能が外からの刺激を受けないよう、ちようかくを遮断していたのだと後に白奈から聞いた。

 その白奈はといえば、むひょおお? と思わず声が出そうなくらいてんこ盛りのステーキ肉を両手に抱えている。何に使うかはこれから解る。が、

「何はともあれ、色々と面倒事は片付いたようだね。くふふ、これで心置きなく料理ができるよ。決めポーズの出番という訳だ。未百合ちゃん、血倉ちゃん。これ持ってて」

 未百合と血倉に肉のかたまりを手渡すと、白奈は白衣をなびかせて走ってきた。

「さあボス、いつものアレだ!」

「アレ? ……って、うああーっ! ノリノリポーズっすか? 今回すっかり忘れてました。や、人も多いし、やめましょうよ。あの設定は無かった事にすりゃいいじゃないですか」

「だーめ。部のルールなんだから、料理の前はバッチリ決めないとね。行くよ!」

「んああああぁ……クソッ!」切ない声を出す玄人。でもルールだから仕方ない。

 しゆうしんで顔を真っ赤にしながら玄人は人差し指をビシッと立てて──完全に自暴自棄だ。白奈とおしりをくっつけると二人でXの字を象り、声をそろえて言った。

「「わたし達は料理事件部っ。しい物をごそうするのが何より好きなのさっ!」」

 ポカーン……。

 他はともかく、初見の各務かがみと会長とそらさきは当然ながらドン引きしていた。


      10


 それから三十分後。

「わあっ……。とっても美味しそうっ!」

 未百合が顔の辺りで両手をパアッと広げて言う。オーバーアクションは感激の証だ。

 調理室のテーブルについたお客様六名──未百合、血倉、赤座、各務麻戯香、ユキ、空野美咲の前には、できたての料理が盛りつけられた黒い鉄皿が置かれていた。

 皿中央にちんしているのは青々としたクレソンを御供に従えた迫力満点の分厚い肉塊──白奈が持ってきたステーキ肉を玄人が絶妙の加減で焼いた物である。

 肉の表面があぶらでたっぷりとぬめり光っており、見るからにジューシィ。今すぐどうもうにかぶりつき、天に向かってたけびをあげながら、思う存分肉のうまみ締めたい──と、そんな原始の本能が呼び覚まされそうになるくらいごうしやしろものだ。変な背徳感にさいなまれているらしく、は若干そわそわしている。

「それにしてもすごいお肉ですね。見てるだけでなまつばがじゅるりといてきますよ」

 無事に暗示を抜いてもらったあかが晴れ晴れとした顔で言う。両手に握ったフォークとナイフを垂直に立てて、早く食わせろのジェスチャーをしていた。

「くふふ、じよううち家にはありがたい事に毎年とんでもない量のお中元が届く。これはこうの牧場主さんが贈ってくれた非常に良い肉なんだ。ほっ! ボスが焼いてくれるというから家からごっそり持ってきてしまったよ」

 いつも楽しませてもらっている君達に心ばかりのごそうさっ、としろは白衣のポケットに手を突っ込んでカラカラ笑う。この人は残念な部分もあるが、基本的に性格は良い。

 しかし──。

「どうして」「お肉?」

 と、そろって素朴な疑問を発したのは各務かがみと会長だった。

「事件が解決したお祝いって事なのか? 要はお肉で打ち上げ?」「そうなんですか?」

「そうじゃねえよ」

 玄人くろとは首を横に振った。

「何か勘違いしてるらしいが、事はまだ終わってねえんだよ。そもそも最初に俺が受けた依頼はこうだ……『さきをスランプから脱出させよ』。それはまだ達成してねえ。つまりこの料理事件は今から解決するんだよ、本当の意味でな」

 一瞬全員キョトンとするが──元を辿たどればそうだった。

 赤座が料理事件部に持ち込んだ依頼は、魔術師の正体を暴く事でも、会長と各務を仲直りさせる事でもない。そら美咲が調子を崩している理由を探り、それを解消する事だった。

「いや、だけどほん玄人君。僕に入っていた暗示はすでに会長さんが抜いてくれたはずじゃ……」

「まあ聞け美咲、実はお前のスランプと暗示は直接的には関係ねえんだ」

「は……?」

 どういう事だいそれは、と目を丸くする空野美咲。他の皆も同様だ。この人は今更何を言い出すんだろう、とぽかんとした顔で玄人を見ている。

「だったら理由は何だって言うのさ?」美咲がいぶかしげにくと、

「お前がスランプにおちいっていた理由は──単純明快! 肉を食わなかったからだ」

 と、玄人は言った。

「いやマジで。お前、最近肉を食ってなかっただろ? ていうか、俺が訊いた時も自分でそう言ってたしな。体力を付けるために変なもん食ってるんじゃねえのかって質問に『最近は野菜ばっかり食べてるよ』ってさ。要はそれが度を超していた訳だ。お前のスランプの原因は占いのせいでも暗示でもない。間違った食事節制による、ただのタンパク質不足だ!」

「え……」

「この料理事件の真にすごいところはな、魔術師騒ぎ自体が巨大なミスリードだったって事なんだよ。本当の答えは肉不足! それが答えだ」

「「「「「ええええ~~~~~~~~~~~~~~っ!?」」」」」

 全員大困惑である。

「た……確かに僕は最近ほとんど肉を食べていなかったよっ。野菜中心! その方がお肌に良いって美容雑誌で読んだものだから!」

 ワナワナ震えながらさきは言う。

「だって僕は美しく咲くアスリート……ビューティフルランナーなんだもの。美しい走り手になろうと努力するのは当然じゃないか!」

 ……本気も本気の口調で言う美咲に皆がどう反応するべきか困っている。仕方ないので玄人がボリボリ頭をいて突っ込んだ。

「いやー、言いたい事は色々あるけどよ。とりあえず美咲。肝心の走りに支障をきたしたらそれはもうビューティフルランナーじゃねえ。ただのビューティだ」

「あれ? う、うん……。そう言えばそうだね」

 選手として最低限の肉体作りをおろそかにしていた事に気づいて美咲は首をひねっている。どうしてこんな事になったのだろう? 別にお肉が嫌いな訳ではないのに、と。

「ああっ!?

 そこで会長が声をあげた。

「ももも、もしかして、わたしの暗示のせいでは……っ!

「その通りだ。お前の暗示は直接的な原因じゃないが、間接的な原因ではあった訳だ」

 先程の会長の言によれば、美咲に入れたのは自分の欲している物を更に欲するようになる軽い誘導暗示。だがその働きがかんしようした。

 美咲の望みは走る事と美しくある事──。肉を断ち、野菜のみを食べ、美容に躍起になる一方で、ベストの走りができないと苦心さんたん。アスリートに必要なタンパク質が充分でないのにそれを大量に消費するハードな練習を重ねていればスランプになるのは当然だ。要はダブルバインドとして暗示が機能したのだ、と玄人は言う。

「そもそも美咲は短距離走の選手だろ? 短い間に最高のパフォーマンスを発揮するには瞬発力と爆発力が大事だ。それには良質のタンパク質をって速筋を発達させるのが肝要なんだよ。もちろん野菜も食べなきゃいけないが、野菜だけじゃパワーが不足するんだ」

 パワー不足。

 玄人は美咲の走りを幾度か見てそれに気づいた。──フォームが変に崩れている事。

 肩に力が入ったぜんけい姿勢で大きく手足を振るのだが、バランスがちぐはぐだった。その理由はこうである。

 パワーが足りないのに普段と同じパワーを出そうとするから力む羽目になり、力みはフォームを乱す。結果としてすぐバテるし、また筋力が落ちればストライドが小さくなるのは当然だ。専門家であるさき本人がその単純な事実に気づいていなかったのだった。

「という訳でだ……。今日はパワーを補給する意味でも、全員存分に肉を食べろ」

「い、いっただきまーすっ!」

 玄人くろとの説教が終わり、今度こそ本当の意味で料理事件は一件落着! 皆が思い残す事なくステーキ肉を食べにかかった。


「フワアアァッ……しいっ!」

 づきがうっとり目を細め、ステーキ肉を幸せそうにほおりながら言った。

「こんなに柔らかいお肉って、わたし初めて食べたわ。こんなにボリューミィなのにうそみたいに柔らかい! 歯が抵抗なくなめらかにお肉の中に入っていくわ。そうすると美味しいあぶらと肉汁がピュッと染み出してきて、香ばしい牛肉のうまがお口いっぱいに広がって……とろとろ、とろりん、とろりんこ。たまらない気分になるの。ほっぺたの内側が溶けてしまいそう!」

 と、得意のユニークなをここぞとばかりにろうしている。

「ねえ玄人君。今頃だけど、こないだの謎が解けたわ。ステーキのごそうの謎。しろさんが作った訳じゃないステーキを白奈さんが食べさせてくれた例のあれ。こういう事だったのね」

 その通りだ、と玄人はうなずく。

 答えは単純明快。しろにごそうする為に持ってきた高級肉を玄人くろとが焼いて、白奈に返したのである。それだけ。

「もう。ほんとに玄人君ってば、ぶっきらぼうなふりして優しいんだから……」

 知ってるけど! ウフフッ、とご満悦顔の未百合の向かい側では、

「確かにこれは滅茶苦茶柔らかいですね。たまりません!」

 と、あかが大きめに切った肉をワイルドに口に放り込んで、もむもむもむ……ごくんっ。唇の周りをはしたないくらいあぶらだらけにしながら甘やかな垂れ目をきらめかせていた。

「柔らかく、それでいてむと濃厚なお肉のうまがジュワッとほとばしります! わたしの全身の血が燃えてくるようですよ。何だかもう、獣の本能が目覚めちゃいそうです!」

「……や、それはもう勘弁してくれ」玄人はタラッと汗をかいた。

すごしい」

 と、静かな声でつぶやいたのは各務かがみである。

 各務は上品に食べているが、その顔は満ち足りた感でいっぱいだ。いつも何を考えているか解らない、我が道を行くタイプのほん君がこんなに優しい人だとは思わなかった、と誰にともなく小声で言う。

「こんなにちゃんとしたステーキって生まれて初めて食べたよ、本間君。本当に美味しい物なんだな……。半生っていうか、しっかりお肉を食べている感じがする」

 そんな各務の横で、美味しいですぅ、といかにも天然風の声をあげているのはユキ会長だ。ふぉふぉふぉふぉ、と得意の腹話術で笑ったりしてご機嫌である。皆はギクッと不気味がるが、全く気にしていない。

「とにかくもう、たまらなく美味しいです。お肉って最高っ!」

 そうですね、と各務と会長は顔を見合わせた。前にもまして仲良くなったようだった。

 一方──。

「フフン、わたしのは……これ、長ネギよね」

 アレルギーで肉が食べられないくらさとの皿にだけは別料理が載せられていた。ポロネギのマリネだと玄人は説明する。感激したように血倉はあごを引いて彼を見た。

「いや、もともとはこれも部長のお中元なんだがな。オリーブオイルで表面に少しげ目がつくまでいためた熱々のポロネギを、白ワインビネガーを使ったマリネ液で絡めた物だ」

「あれって買うと高いのよね……。いつも本当にありがとう本間君、白奈さん!」

 そして本日の肉料理を最も食べるべき者であるそらさきはというと──

 完全に無言だった。食事に夢中になり過ぎると人は大抵このモードになる。美咲は今までの分を取り返すかのように一心不乱にステーキをぱくついていた。

 軽くせきばらいして玄人は言う。

「なあ美咲、この肉が何でこんなにうまいか解るか?」

「ガツガツガツ、しいっ! ん。それはええっと……高級なお肉だから! と言いたいところだけど、あれだよね。料理の腕が良いからでしょ? 普通に焼いたんじゃ、絶対こんな風にならないもの。どうすればこんなに美味しく肉を焼けるんだい、ほん玄人くろと君?」

「くふふ! さきちゃん、それは口で簡単に説明できる事じゃないんだよ」

 横からしろが口をはさんできた。

「肉を焼くだけとはいえ、このスキルを身につけるのにどれだけの修練が要る事か。空手の正拳突きみたいな物で、基本技術に料理人の全てが表れる。切る、焼く、揚げる、等々。シンプルな技術こそが深く、そして至高の味を引き出すんだよ。言うなればこれはボス焼き……料理人の究極スキルの一つなのさ!」

「ああ! 成程! 心理スキルを上回る究極至高のスキルというのはそれだったんだね!」

 派手に盛り上がる美咲と白奈に、玄人はジト目を向けて言う。……ちげえよ、と。

「そんな大したもんじゃねえよ。この肉は基本、弱火でゆっくりていねいに焼いただけだ」

「え? 弱火でゆっくり?」美咲は目をしばたたいた。

「意外そうな顔してるな……? 大方、肉は強火で素早く焼いた方がうまいと思ってるんだろ? 確かに薄い肉ならそれで良いんだが、この分厚い肉の場合は当てはまらねえんだ。それだと中まで熱が通らないからな。熱が通らないとあぶらうまってのは出てこないんだよ」

 ここぞとばかりに玄人はうんちくを語り始めた。

 肉の表面を焼き固め、内側に全ての旨味を閉じ込めるようにする。美味しい脂と肉汁を一滴も逃がさないようにするのだ。コツは余熱を意識する事。それを利用して赤身に入ったサシを温めればいい。サシとはつまり脂身だ。弱火で時間をかけて優しく慎重に焼いたからこそ、この味が出る──。

「とはいえ、火を通しすぎると今度は肉が固くなっちまうから、何だかんだで言葉じゃ説明しきれないんだがな。とにかく肝心なのは美味しくしたいって気持ちだ。肉は丁重に扱え!」

 は美しく咲く。そして肉は優しさで焼くから旨いのだ──と玄人はもつともらしく締めた。

「美咲。お前もアスリートなら自分の体は優しく扱いな。美を求めるのはいいけどよ。バランスが取れるように野菜だけじゃなく肉も食べろ」

「オーケー、解ったよ! ありがとう、本間玄人君!」

 美咲はグッと力こぶを作った。じゃんじゃん食べて筋肉を取り戻すぞっ、と再びうれしそうにステーキ肉にかぶりつく。もう心配は要らないだろう。

 美咲の食欲おうせいぶりを見た全員がにこにこと幸せそうな笑みを交わし、良かったね、と仲良くうなずき合い──かくしてここに魔術師事件は完全な解決を見たのだった。


    ◆ ◇ ◆


 そらさき──彼女がビューティフルランナーの異名を返上し、美しきマッスルランナーとしてあまの高校陸上部を震え上がらせるのは、これより一年後の夏の事である。


【件名】:魔術師事件            

【お客様】:空野美咲、各務かがみユキ

【料理】:サーロインステーキ        

【達成度】complete