じゅうがつついたち

    こころのてんき どんてん


 今日、ビー姉ちゃんもハー兄ちゃんもいない時間に、六年生のベッカ姉ちゃんの友だちがたくさん遊びにきた。ベッカ姉ちゃんに命令されて、めんどくさいなあと思いながらエフィーくんがお部屋にジュースを持っていくと、みんなでビデオを見ながらきゃあきゃあさわいでいた。

 男の人と女の人がはだかでプロレスしているビデオだった。ハー兄ちゃんがそういうビデオをベッドの下に隠しているのをエフィーくんは知っていた。いいかエフィーこれはこどもが見るものじゃないんだぞこどもが見たら目が腐ってつぶれるんだぞとハー兄ちゃんが言っていたのでエフィーくんは怖くなって逃げようとしたが、

「エフィーもいつしよに見なさいよ、ほら」

 とベッカ姉ちゃんにネックロックをかけられて取っ捕まった。必死で目をつぶろうとしたが、床に組み伏せられてむりやりビデオを見せられた。女の人のはだかが目に飛び込んできてどきどきした。

「エフィーくん、赤くなってるう」

「かわいーい」

「やっぱり男の子なんだあ」

 ベッカ姉ちゃんだけでなくベッカ姉ちゃんの友だちにも取り囲まれてほっぺをつつかれたりつねられたりした。ベッカ姉ちゃんの友だちはベッカ姉ちゃんと同じでうるさくって怖い女ばっかりだ。

「これはね、エフィー。おとなになるための勉強のビデオなのよ。悪いビデオじゃないのよ」

 ベッカ姉ちゃんが言った。だんこどもに見せないようにおとなたちがビデオを隠しているのはおとなの世界のいんぼうなんだって。

 ビデオの中で行われているそれはなんだかすごく生々しくてグロテスクなしきで、たしかに何かの陰謀っぽかった。

 ベッカ姉ちゃんが言うには、これは結婚して赤ちゃんを作るときにおとながみんなやる儀式なのだそうだ。エフィーくんもベッカ姉ちゃんもビー姉ちゃんもハー兄ちゃんも、みんなこうやって生まれてきたんだって。

 エフィーくんはうそだと言い返した。だって幼稚園のキーリ先生は、ミツバチがおしべからめしべに花粉を運んで赤ちゃんができるんだって言っていた。キーリ先生は絶対に噓なんてつかない。

 キーリ先生はベッカ姉ちゃんみたいなガサツで乱暴な女とは種類が違うからあんなグロテスクな儀式なんてしないのだ。キーリ先生はとても優しくておしとやかで、春に咲くお花みたいな人だもの。キーリ先生のところにはきっと本当にミツバチが花粉を運んでくるのだ。

 でももし、ビデオが本当におとなになるための勉強に必要なものだとしたら……ビデオを見たらはやくおとなになれるのかな?

 エフィーくんははやくおとなになりたいと思っていた。

 ハー兄ちゃんくらい背が高くなって、自分でお金をかせげるおとなになったら、キーリ先生に……。


  じゅうがつふつか

    こころのてんき どんてん


 エフィーくんは牛乳が苦手。でも牛乳を飲まないと大きくなれないわよってビー姉ちゃんやベッカ姉ちゃんにいつも怒られる。大きくなれないのは困る。

 今日の給食の時間、がんばって牛乳を全部飲んだ。ちょっと涙目になったけどがまん。コッペパンを口に詰め込んでもぐもぐごくんと飲みくだす。

「せんせーい」

 手をあげるとエプロン姿のキーリ先生がエフィーくんの机の横にやってきた。

「はーい。どうしたの、エフィーくん」

 キーリ先生はエフィーくんたちステゴザウルス組の担任の先生だ。ちょっとドジなところもあるけど優しくてかわいくてステゴザウルス組のみんなの人気者。みんな何かにつけてキーリ先生にめてもらってポイントを稼ごうとしている。

 エフィーくんは誇らしげに鼻を持ちあげて、

「見て、先生」

 牛乳ぜんぶ飲んだんだよ!

 言おうとしたとき、飲みほしたはずの牛乳がなみなみと復活していることに気がついた。

 はっとしてとなりの席を見ると、知らん顔でコッペパンを食べているヨアくんの机に空っぽの牛乳瓶が置かれている。がくぜんとしてエフィーくんは自分の席の牛乳瓶とヨアくんの席の空の牛乳瓶を見比べた。

「わあ、ヨアくん、今日は牛乳全部飲めたのね。えらいえらい」

 キーリ先生の声にエフィーくんはさらに愕然。こくんとうなずきながらヨアくんがこっちに横目を送って口の端で笑った。

「はい、今日のよくできましたスタンプ」

 とキーリ先生がヨアくんの手の甲にヒヨコの形のスタンプを押す。ヨアくんの手の甲にはもうスタンプが三つ。エフィーくんは今日はまだスタンプをもらっていない。

「キーリ先生、違うよ、その牛乳はオレが飲んだの。知らないうちにヨアが取りかえたの」

 あせってエフィーくんは真実を訴えた。本当なの?という視線をキーリ先生がヨアくんに向ける。ヨアくんは「オレ、知らないよ」としらばっくれて首を振る。

「うそだっ。キーリ先生、そいつにだまされちゃだめっ」

「エフィーくん、お友だちのことをそいつなんて言ったらでしょう。ヨアくんは知らないって言ってるわよ?」

 めっという顔でキーリ先生にたしなめられて、エフィーくんは唇をんで口ごもった。ヨアくんはつんとしてそっぽを向いている。目に涙がにじんだ。

 キーリ先生はオレの言うことよりもヨアのほうを信じるの? キーリ先生なんか、キーリ先生なんか。

「キーリ先生のばあーか、ブース!」

 悔しまぎれに叫んでエフィーくんはまだ途中の給食をそのままに教室から飛びだした。「エフィーくんったら!」キーリ先生の声が追いかけてきた。食べそこねたプリンへの未練も追いかけてきた。ほかのものを食べてから最後に食べるのを楽しみにしてたのに。

 プリンへの未練を振り切ってエフィーくんは走った。


 キーリ先生なんて大っ嫌い……。

 お昼休みのあいだじゅう、お庭の滑り台の下でひざを抱えていた。給食を残したのでおなかがぐうぐう鳴った。

 お昼休みが終わる時間、滑り台の向こう側にだれかの足が立った。しゃがんでのぞき込んできたのはキーリ先生だった。

「エフィーくん、教室に帰りましょ。エフィーくんのプリン、とってあるから」

 キーリ先生が手をさしのべる。エフィーくんはぷいとそっぽを向いた。でもプリンのゆうわくこばみきれず、まだぶつちようづらのままだけれど、そうっと手を伸ばしてキーリ先生の手を握った。

 キーリ先生と手をつないで教室に帰った。キーリ先生の手はやわらかくて、ビスケットみたいないいにおいがした。

「キーリ先生……」

「ん?」

 キーリ先生がほほえんでこっちを見る。エフィーくんは首を振って下を向いた。

「なんでもない……」

 キーリ先生、けっこんして。

 心の中だけでそう言った。


  じゅうがつみっか

    こころのてんき いちごぱんつ


 もうすぐ幼稚園の運動会。今日は校庭で運動会の練習をした。行進やかけっこや玉入れ。順位によって決まった数のヒヨコえんぴつがもらえるのでみんな真剣に練習する。

 エフィーくんはかけっこが得意だった。かけっこではぜったいに一等賞になって、キーリ先生にいいところを見せたかった。

「いちについて、よーい」

 ピー。

 キーリ先生の笛の合図でかけっこの練習がスタート。エフィーくんとヨアくんの二人が一番に飛びだした。お互いに負けるまいと肩を並べて走る。

「エフィー、知ってるか?」

 走りながらヨアくんが話しかけてきた。

「なんだよ?」

「運動会でたくさん一等賞をとったら、キーリ先生がごほうびくれるんだぞ」

「ごほうび?」

 ついつい興味を覚えてエフィーくんはき返す。そのあいだも二人は足をゆるめずに走り続けている。ゴールはもうすぐ。

 もったいぶった間をおいてから、ヨアくんが言った。

「キーリ先生がチューしてくれる」

「えっ?」

 足がもつれた。すてんとすっ転ぶエフィーくん。「一等賞はオレがもらう」そのすきにヨアくんが一番でゴールを抜けていった。


 転んだときに膝をき、キーリ先生が保健室で消毒液を塗ってくれた。エフィーくんの前にかがんだキーリ先生の髪からシャンプーの匂いが漂ってきた。

「はい、これでだいじよう

 キーリ先生が顔をあげた。うっすらとピンクに色づいたやわらかそうな唇につい視線が吸い寄せられた。

 キーリ先生がチューしてくれる……。

 ヨアくんの声が頭に浮かぶ。身体からだぜんぶが心臓になったみたいにどきどきして頭ががんがん脈打った。

「エフィーくん、顔が赤いわね。お熱があるのかしら」

 キーリ先生が首をかしげて顔を覗き込んでくる。ピンク色の唇が近づいてくる。キーリ先生の冷たいおでことエフィーくんのおでこがぴたっとくっついた。

「うーん、熱はないみたい」

 おでこがはなれて、ほんのりした冷たさといい匂いが残った。

「あの、キーリ先生、訊いてもいいっ……?」

 思いきってエフィーくんは切りだした。キーリ先生がほほえんで「なあに?」と小首をかしげる。

「キーリ先生は、好きなひと、いる?」

 言った!

 途端にその場を逃げだしたくなったけれどみとどまり、心臓をばくばくさせてキーリ先生の返事を待った。

 おどろいたようにキーリ先生は少し目を丸くしたあと、ぽっとほおを赤くした。

「やあね、エフィーくんの前じゃ、恥ずかしくって言えないわ」

 何やら意味ありげな返事とはにかみ笑い。今度こそどかんと熱がでたような気がしてエフィーくんはひっくり返りそうになった。

 え? ええ? オレの前じゃ恥ずかしくって言えない……って、どういうこと? キーリ先生の好きなひとって、もしかして……。


 キーリ先生は、オレのことが好きなのかも。

 その日は夕方までそのことばっかり考えていた。オレのプリンとっておいてくれたし、迎えにきてくれたし、牛乳を飲むと誉めてくれるのはオレにはやくおとなになってほしいからかもしれないし、そういえばオレが帰るときいつもなごり惜しそうにしてるし。

 そう考えるといろんなことに納得がいってしまった。キーリ先生はオレがプロポーズするのを待ってたりするのかも。キーリ先生の気持ちに答えるためにも運動会では一等賞をとらないと。

「オレ、運動会で一等賞になったら、キーリ先生にプロポーズする」

 声にだしてそう宣言したのはエフィーくんではなくてヨアくんだった。

 夕方、教室で保護者のお迎えを待っているとき。残っている園児はもうエフィーくんとヨアくんの二人だけだった。エフィーくんを迎えにくるのは一番上のハー兄ちゃんだが、働いているのでお迎えはいつも遅くなる。

 積み木でお城を作っていたエフィーくんはヨアくんの言葉に目を丸くした。

「おとなになるまで待つつもりだったけど、コンヤクだったらもうできるだろ。エフィー、おまえ、じゃまするなよ」

「オ、オレだってっ……」

 積み木を挟んでにらみあうエフィーくんとヨアくん。ヨアくんがふふんと鼻で笑って言う。

「エフィー、おまえ、将来のビジョンとか考えてるのかよ?」

「び、びじょんって?」

「おまえ、将来なにになりたいんだ?」

「ラ、ライダー仮面タテガミっ」

 真剣な顔で身を乗りだしてエフィーくんは答えたが、「バッカじゃねーの」とヨアくんに笑いとばされた。

「ヒーローなんて日本にそんなにたくさんいらないんだぞ。一年に二人とか三人くらいしか募集してないんだぞ。それにおまえ、ライダーの年収知ってるのかよ。キーリ先生を幸せにできるくらいの収入があるのか?」

「む……」

 難しいことを言われてエフィーくんは口ごもる。しかし言い負かされるのはしやくなのでがんばって言い返した。

「そうゆうヨアは将来なんになるんだよ。びじょんっていうのがあるのか?」

「オレは東京都公務員」

 偉そうにヨアくんは答えて、積み木で二つの高い塔を作ってみせた。

 都庁ビルだった。

「と、都庁ビルなんて怪人にこわされちゃうんだからな。ライダーのほうがぜったい偉いしすごいんだ。怪人を倒す正義の味方なんだから」

「ライダーなんて日曜日の八時から八時半までしか働いてないじゃんか。ぜんぜん偉くなんてないんだぞ。月曜日から金曜日まで毎日会社に行くひとのほうがずっと偉いんだぞ。ライダーみたいのはフリーターっていうんだ。フリーターはだめにんげんなんだぞ」

「ライダーはだめにんげんじゃないっ」

 お互い一歩もゆずらずおでこをつきあわせて火花を散らすエフィーくんとヨアくん。

「エフィーくん、ヨアくん。遊んでるところ悪いけど、ちょっとお手伝いしてくれる?」

 キーリ先生の声に、二人そろって背すじを伸ばして「はいっ」と返事をした。教室の後ろにを運んできたキーリ先生がにっこりして、

「いいお返事ね。先生、模造紙をりかえるから、二人で椅子を押さえててくれる?」

「はーいはいはいっ」

 ヨアくんがエフィーくんを押しのけて駆けだしていったのでエフィーくんも負けずに追いかけ、両側から取りあうみたいに二人で椅子をがっしりつかまえた。

〝こんしゅうのもくひょう おともだちをおもいやりましょう〟という模造紙を持ってキーリ先生が椅子にのぼり、背伸びをして掲示板の模造紙を貼りかえる。オレは今キーリ先生の安全を預かってるんだ、キーリ先生にしんらいされてるんだという誇りと責任感を胸にエフィーくんは椅子をしっかり押さえた。

「エフィー、エフィー」

 向かい側で椅子を押さえているヨアくんが話しかけてきた。

「なんだよ、うるさいなあ」

「上、上。見てみろよ」

 何やらにやにやしながら耳打ちしてくる。「上?」エフィーくんはいぶかしんで視線をあげた。

 イチゴだった。

 キーリ先生のフレアスカートの中にイチゴのプリントのパンツが覗いていた。

「……わあっ」

 真っ赤になって思わずエフィーくんはその場を飛びのいた。その拍子に押さえていた椅子ががたんと揺れた。「きゃっ」キーリ先生が椅子の上でバランスを崩す。フレアスカートがひるがえりイチゴパンツが丸見えになる。

 危ない、キーリ先生……!

 宙に舞ったキーリ先生の身体を、誰かがふわりと抱きとめた。

 エフィーくんもヨアくんも目と口をまんまるにして固まっていた。キーリ先生の身体を軽々と腕に抱いて床におろしたのは、スーツ姿の背の高い男の人。

「ハー兄ちゃん……」

 ぜんとしたままエフィーくんはつぶやいた。

 会社帰りのハー兄ちゃんだった。弟のエフィーくんと同じ赤茶けた色の髪、でもエフィーくんよりもずっと背が高くてスーツが似合う、働いている立派なおとなだ。ベッドの下にえっちなビデオは隠してるけど。

はありませんか、先生」

「あっ……、ありがとうございました。なんともありません」

 ハー兄ちゃんの問いかけに、あたふたした感じでスカートのすそをなおしながらキーリ先生が答える。

「キーリ先生、大丈夫っ?」

 慌てて駆け寄るエフィーくんとヨアくん。しかしエフィーくんたちの存在なんて頭からさっぱり消し飛んでしまったみたいにキーリ先生は周囲に白い花びらを飛ばしてうるんだひとみでハー兄ちゃんだけを見つめている。ハー兄ちゃんのほうも真剣なおもちで「先生、そのとしでさすがにイチゴはどうかと……」……ハー兄ちゃんも見てたんだパンツ。

 ハー兄ちゃんのツッコミは耳に入っていないっぽく、キーリ先生の視界にはハー兄ちゃんを中心とした何やらキラキラした別世界が形成されていて、小さなエフィーくんが入り込む余地などなくなっていた。

 なんだか嫌な予感がした。

 キーリ先生はオレのことが好きなんじゃないの……?


  じゅうがついつか

    こころのてんき あめもよう


 エフィーくんのおうちは四人兄弟だ。家長は一番上のハー兄ちゃん。ビー姉ちゃんは短大を卒業してOLさん。ベッカ姉ちゃんは小学校六年生。そして幼稚園児のエフィーくん。

「ビー姉ちゃん、しんちゃんみせてよ。ビデオなんていつでもみれるじゃん」

 金曜日の夜。キャミソールにスパッツ姿でトレーニングビデオにあわせてエアロビクスに励んでいるビー姉ちゃんにエフィーくんは訴えたが、

「うるさいわねえ」

 といつしゆうされた。末弟のエフィーくんにチャンネル権が与えられることは普段からめったにない。「ちぇ。ダイエットなんかより性格ブスをきれいにしたほうがいいと思うけどな」「なんか言った?」ぼそっとエフィーくんが毒づくとすかさず後頭部にスリッパが飛んできた。

 ベッカ姉ちゃんはきゃらきゃら笑って友だちと長電話している。「なんだ、ジュース何もないじゃん。エフィー」冷蔵庫を覗いたベッカ姉ちゃんが電話を耳から離してエフィーくんを呼んだ。

「下の自販で飲み物買ってきて。私、オレンジ。つぶつぶ入ってるの」

「やだよう、オレ」

 ふてくされてポテチをあけながらエフィーくんは反抗したが、

「逆らったらコブラツイストだからね」

 と言われてぐっと口ごもった。ベッカ姉ちゃんのプロレス技は本当にようしやがないのだ。ビデオにあわせて両手のダンベルを交互に持ちあげながらビー姉ちゃんまでもが「じゃあ私アクエリ。あとコーヒーの無糖の、ミルクだけ入ってるやつ」と細かい注文をつける。ビー姉ちゃんのトレーニングはただのエアロビではない。あのダンベル、片方が十㎏あるのだ。

 姉ちゃんたちみたいな女どもとは絶対に結婚すまいと心に誓うエフィーくんである。優しくてせいで、守ってあげたくなるような女の人と結婚するんだ。そう、キーリ先生みたいな。決して弟に電気あんまを食らわせてもんぜつする姿にげらげら笑い転げたり、十㎏のダンベルを窓からぶん投げて電信柱の陰にひそんでいたストーカーに命中させ病院送りにしたりする女じゃなくて。うちの姉ちゃんたちはどうしてこんなのばっかりなんだろう。

 ちなみに今度の月曜日の運動会、ビー姉ちゃんは連休を利用して旅行、ベッカ姉ちゃんは友だちと買い物。ハー兄ちゃんは仕事があるらしくて、エフィーくんにはお弁当を作って応援に来てくれる家族はいない予定だ。午後には保護者参加競技もあるからほとんどの園児の家族は誰かしら見に来てくれるのに。エフィーくんの小さなガラスのハートはずたぼろだ。こんな冷たい家族じゃなくて、キーリ先生と幸せであったかい家庭を作るんだと決意を新たにする。そのためにも最近は毎朝がんばって牛乳を飲んでいた。

 渋々小銭を持って外の自販機にでかけようとしたとき、ちょうどハー兄ちゃんが帰ってきた。スーツの上着を腕に引っかけ、ネクタイをゆるめたワイシャツ姿。ハー兄ちゃんの仕事はフィールドエンジニアというやつだ。よくわからないけどかっこよさそうな仕事だ。

「おかえり、ハー兄ちゃん」

「ああ。ただいま」

 玄関先で靴を脱ぎながらハー兄ちゃんがコンビニの袋をこっちに渡した。ずっしりと重い袋の中を覗き込んでエフィーくんはわあと声をあげた。つぶ入りオレンジとスポーツドリンクのペットボトルと、砂糖なしミルク入りの缶コーヒー、それにエフィーくんが好きなグレープジュース。

 ハー兄ちゃんは超能力者だろうか?

「すげー。なんでわかったの? 今買いにいくところだったんだよ」

「コンビニの前で、なんとなく虫の知らせが」

 ハー兄ちゃんがこめかみを引きつらせて苦いめ息をついた。

 女のほうが発言権が強いこの家でハー兄ちゃんは何かと苦労性だ。男兄弟どうしでふうと溜め息をつきあった。

「そうだエフィー、月曜の運動会、昼から行けるから」

「本当?」嬉しい知らせにエフィーくんは表情をかがやかせたが、「あ、でもお弁当……ビー姉ちゃんいないから作ってくれないよ」

「キーリ先生が、弁当作るのでぜひ一緒にどうぞって」

「キーリ先生が?」

 心臓がどきっと跳ねた。キーリ先生の手作りのお弁当。エフィーくん、はい、あーん、なんてキーリ先生がミートボールを……そんな妄想がいつしゆんにして駆けめぐる。

 ゆううつ半分だった運動会が途端に楽しみになってきた。


 その夜、エフィーくんは夢をみた。場所はもやがかかったおだった。ベッカ姉ちゃんたちが見ていたあのビデオにでてきた場所だ。白い靄とさあさあと流れるシャワーの向こうにビデオにでていた女の人が立っている。

 ビデオの女の人の顔がキーリ先生になってエフィーくんはたいそう焦った。

「エフィーくん……」

 なんだか背中がぞくぞくする声でキーリ先生がエフィーくんの名前を呼ぶ。靄が晴れて、イチゴパンツ一枚のキーリ先生の姿が……。

「うわあっ」

 飛び起きて夢は覚めた。

 パジャマのズボンがじっとりとなまあったかい。はっとしてとんをめくりあげると、

「あー……」

 シャワーの音はおねしょの音だった。

 朝、エフィーくんの家の窓にはくっきりと世界地図が描かれたき布団が干されることになった。ビー姉ちゃんにげんこでなぐられ、ベッカ姉ちゃんにげらげら笑われた。


  じゅうがつようか

    こころのてんき おおあらし


 ぽん。ぽぽぽん。ぽんぽん。

 十月の青い空に花火があがる。いよいよ運動会の日がやってきた。

「負けないからな」

「こっちこそ」

 ヨアくんと顔をつきあわせて睨みあい、意気込んで臨んだものの、最初のほうはクラス対抗の団体競技が続く。

 エフィーくんたちステゴザウルス組のつなきの対戦相手はティラノザウルス組。でかい図体の園児が集まっている屈強なクラスだ。中でもユドくんはとても幼稚園児とは思えないガタイを誇る。だんのチューリップの世話が好きなぼーっとしたやつだけど強敵なのは違いない。

「よーいしょ、よーいしょ! がんばれ、がんばれ!」

 キーリ先生がかけ声とともに大旗を振る。キーリ先生の声にあわせてみんなで力いっぱい綱を引く。エフィーくんもヨアくんも今だけは休戦して力をあわせる。

 しかしティラノザウルス組の一番後ろに構えたユドくんが軽く綱を引っ張った途端、ステゴザウルス組の園児たちはたたらを踏んで引っ張り寄せられ、ドミノ倒しみたいにばたばたと倒れ込んだ。

 ピピー。審判の笛が鳴って競技終了。

 続く競技は大玉転がし。クラス全員で長い列を作って大玉を送っていく。ステゴザウルス組の大玉が先行したが、ユドくんのひと突きでティラノザウルス組の大玉が一気にゴールを突っ切った。

 ピピー。競技終了。

 ドッヂボール。ユドくんが振りかぶって投げる剛速球に、ステゴザウルス組全員しゆんさつ

 ピピー。競技終了。

 団体競技ではことごとくティラノザウルス組にかなわないエフィーくんたちステゴザウルス組。一種目くらいは勝てるはずと臨んだ紅白対抗玉入れでは、エフィーくんとヨアくんの二人で玉のぶつけあいになり退場。

 一等賞どころか二人ともいまだヒヨコえんぴつを一本も獲得できずにいた。

 午前中の最後の種目、障害物競走。パン食い、あみくぐり、跳び箱、平均台、最後にパジャマ着替えを経てゴールするという種目。ようやくやってきた個人種目にエフィーくんもヨアくんもとうを燃やした。

 一等賞を目指して二人で競うとして、まずはスタートラインに並んで立つユドくんをどうにかしないといけない。こっそり視線を交わして頷きあう二人。

「ガキども、準備はいいなあ?」

 へいちよう園長先生が空に向かって鉄砲を掲げる。

「いちについて、よーい……」

 ぱあん!

 鉄砲の合図と同時に全員が飛びだし、校庭を囲む保護者たちから声援があがる。

 最初のパン食いでは案の定、背の高いユドくんが真っ先に頭上にるされたあんパンに食いついた。ひと口でパンを食べきって先行するユドくん。あんパンを口に詰め込みながらエフィーくんとヨアくんがほとんど並んでそれを追いかける。

 続く網くぐり、ユドくんよりも小柄な二人ははらいで網の中を進んできよを詰める。ユドくんに追いつくと、ユドくんの左右の足をそれぞれ摑んで「せーの」で引っ張った。

 ユドくんがべちゃっと転んだ。網目にからまってもがくユドくんを左右から追い越して二人同時に網を抜けた。「ざまあみろ」ヨアくんが振り返ってせせら笑う。エフィーくんはちょっとだけ罪悪感を覚えたが、この際きれいごとは言っていられない。

「ここからが勝負だぞ!」

「負けないからな!」

 お互い譲らず次に待ち受ける障害へ。周囲からの声援を受けながら、得意な跳び箱を軽々と越えて平均台を渡る。

 肩を並べてパジャマ着替えコーナーに飛び込んだ。レジャーシートの上に並べられたパジャマの中から自分のものを探していると、「ほら」とヨアくんがエフィーくんのパジャマを投げてよこしてくれた。「あ、ありがと」一瞬びっくりしてからエフィーくんがお礼を言ったときにはヨアくんはもう自分の着替えをはじめている。

 けっこういい奴なのかも……?

 ヨアくんのことを見なおして、エフィーくんも着替えはじめた。運動着を脱いでパジャマをはおり、前ボタンをとめるのに少し手間どった。そのあいだに残りの園児たちも追いついてきて着替えはじめる。焦ってズボンに足を突っ込んだとき、

「わっ」

 何かに引っかかってバランスを崩し、すてんと後ろに転んだ。

「???」

 何が起こったのかとっさにわからずきょろきょろしてから、ズボンの片いっぽうの足が固結びにされていることに気がついた。

「あーっ」

 いちはやく着替えを終えたヨアくんがこっちを見てにやりとし、「バーカ」と言い捨ててコースにでていった。急いでエフィーくんは結び目をほどきにかかったがこれでもかとばかりきつく結ばれている。

 どうにか結び目をほどいて着替えを終え、くしゃくしゃになったパジャマで残りのコースを必死で駆けたが、ゴールにたどり着いたときにはヨアくんは余裕で一等賞の旗とヒヨコえんぴつを持って立っていた。

「オレのほうが一歩リードだ」

 勝ち誇るヨアくん。歯嚙みするエフィーくん。

 勝負は午後の競技に続くのだった。


 午前中の競技が終わり、お昼休憩の時間になってもハー兄ちゃんはまだ来なかった。仕事が長引いているのだろう。午後の競技の最後には保護者参加の仮装競走があるから、それまでには行くって言ってたけど。

 それぞれの保護者が校庭を囲んでレジャーシートを広げ、気合いの入ったお弁当を並べている。お正月料理みたいなとりわけ豪華なお重が並んでいるのはユーリくんのうちだ。

「エフィーくん。お兄さん、まだいらしてないのね」

 お花柄のしきづつみのお弁当を抱えたキーリ先生が残念そうに言った。

「仕方ないわ。先に食べましょうか。保護者の方が来てない子は先生と食べましょう」

 キーリ先生が声をかけ、保護者が来ていないステゴザウルス組の園児たちが一つのレジャーシートに集まった。みんなおうちから手作りのお弁当を持たされていたが、レジャーシートの端っこでヨアくんがだしたお弁当は菓子パンが二つだけ。

 ヨアくんのおうちはかていほうかいというやつだと聞いたことがあった。

 障害物競走でズルしたばつだ。ざまあみろとエフィーくんは思ったが、

「ヨアくん、先生のお弁当、たくさんあるから一緒に食べましょ」

 とキーリ先生がヨアくんを手招きした。少しだけむっとしたが、キーリ先生の優しさにあらためて感動するエフィーくんだった。キーリ先生は天使みたいな人だなあ。

「本当はオレとハー兄ちゃんのために作ってきてくれたんだからな。感謝しろよ」

 エフィーくんがひじでつつくとヨアくんはべえっと舌をだした。

「がんばって作ってみたの。あんまり上手じゃないけど……」

 キーリ先生がお花柄の風呂敷包みを二人の前に広げる。現れたのは三段重ねのお重だった。早起きして作ったのかもしれない。キーリ先生の目は少し赤い。

 キーリ先生の手作りのお弁当。

 期待に胸がふくらんだ。たまご焼きとかからあげとかタコさんウインナーとか、かわいいおかずが並んだお弁当を想像し、エフィーくんもヨアくんも身を乗りだしてお重を覗き込んだ。

「うっ……」

 異様な刺激臭が鼻をついた。

 三つのお重にはそれぞれ茶色っぽくてどろどろしたなぞの物体が……。

「せ、先生……これ、なに?」

 訊かないほうがいいような気もしたがおそるおそる訊いてみる。キーリ先生は恥ずかしそうにもじもじと身をよじって、

「精がつくものを選んでみたの……」

 スッポンの丸ごと煮、ニシキヘビのからあげあんかけ、マグロの目玉……キーリ先生の説明に従ってエフィーくんとヨアくんの顔色はあおくなっていく。

「それから飲み物は赤マムシドリンク」

 と、最後にキーリ先生は水筒をだした。

「お口にあうといいんだけど」

 頰を赤らめつつキーリ先生はにこにこしている。にこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこ。

「い、いただきま……す」

 にこにここうげきに根負けしておそるおそるはしをつける二人。マグロの目玉とやらを口に入れた途端、「う」と箸がとまった。

 キーリ先生はにこにこしている。にこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこにこ。

 ……。

 …………。

 ………………ごくん(吐)。

「お、おいしい、です」

 涙目になりつつ二人はだいぶぎこちない作り笑いを浮かべた。

「そう、よかった!」

 両手をぱんとあわせてキーリ先生が満面の笑みになった。「たくさんあるからえんりよしないでどんどん食べてね!」キーリ先生のキラキラした期待のまなざしには逆らえず、おいしいです、おいしいです、と二人はだくだくと涙を流しながらやけくそ気味に怪しさいっぱいの料理を口に詰め込んだ。

『午後の競技、かけっこに出場する園児の皆さんは、集合場所に集まってください』

 放送がお昼休憩の終わりを知らせた。

 助かった……もとい、いよいよメーンイベントだとエフィーくんはヨアくんと視線を交わして立ちあがった。障害物競走で負けたので今のところエフィーくんが遅れをとっている。かけっこではぜったいに負けるわけにいかない。

「キーリ先生、オレ、ぜったい一等賞になるから応援してて!」

 ヨアくんがキーリ先生の手をがっしり握って宣言した。「はいはい。がんばってね、ヨアくん」無邪気な笑顔で答えるキーリ先生。エフィーくんに肩をぶつけるようにしてヨアくんは集合場所に駆けていった。

「エフィーくんもがんばってね」

 レジャーシートに正座して見送るキーリ先生にエフィーくんは無言で頷いた。ヨアくんみたいに手を握って宣言したかったけど、ヨアくんのっこになるのは嫌だった。

 ヨアにはぜったい負けないからね、キーリ先生。

 心の中だけで宣言して、集合場所に向かった。

 保護者たちの声援が飛ぶ中、かけっこに出場する園児がスタート地点に並ぶ。隣に並んだヨアくんにエフィーくんはちらりと視線を送った。余裕ぶってにやりと笑ってみせるヨアくんを睨みつけ、前を見る。地面を踏む足にぐっと力を入れる。

「いちについてえ、よーい」

 兵長園長の声に続いて、

 ぱあん!

 鉄砲が青い空に鳴り響いた。

 ヨアくんが真っ先に集団から抜けだした。エフィーくんもすぐに隣に並ぶ。二人とも少しも譲らずまっすぐに駆ける。

 駆ける。

 駆ける。

 駆ける。

 駆け……


 ぎゅるるるるるるるるるうううう


 おなかが奇妙な音を立てた。

 前かがみになってエフィーくんはその場に崩れるように倒れ込んだ。先行したヨアくんが走りながら振り返り、勝ち誇って笑う。しかしその途端ヨアくんも急に顔色を変えてばたりと倒れた。

 おなかを抱えてうんうんうなる二人の左右を後続の園児たちが追い抜いていく。意識がかすんで声援の声が遠くなる。

 思いあたる原因は一つしかなかった。

 キ、キーリ先生のお弁当……。

 おなかの中で強烈なあらしが吹き荒れる。水道の蛇口(イメージ映像)が破裂するのを歯を食いしばってこらえながら視線をめぐらせ、キーリ先生の姿を探した。

 さっきまで声援を送っていたはずのキーリ先生は競技をしりに保護者たちの隙間を駆けてどこかを目指している。競技のゆくえもエフィーくんやヨアくんの容態もまったく眼中にない様子でキーリ先生が一直線に駆け寄っていった先には、スーツ姿で遅れて現れたハー兄ちゃんの姿があった。

 今さらだけど理解した。

 キーリ先生、あのお弁当をハー兄ちゃんに食べさせたくて作ったんだ。スッポンやら赤マムシドリンクやらを成人男子に摂取させて、キーリ先生、いったい何をするつもりだったのデスカ……?

 おなかの堤防がとうとうけつかいした。


 運動会をしめくくる最後の種目、保護者参加の仮装競走がはじまっていた。園児の保護者や先生たちが二人一組になり、二人三脚でコースの半分を走ったあとくじを引いて、くじに書いてある衣装に着替えてゴールを目指す。

 ハー兄ちゃんとぴったり密着して二人三脚で走るキーリ先生はそれはもう幸せそうで、こどもの目にも〝恋する乙女おとめ〟そのものだった。

 ……キーリ先生が好きなひとって、ハー兄ちゃんだったんだな。

 木陰に敷かれたレジャーシートにぐったりと寝転がりつつ、エフィーくんは腹痛と失恋の苦さを同時に味わっていた。隣には同じくしようすいした顔で横になっているヨアくん。

 ハー兄ちゃんとキーリ先生ペアが引いたくじは新郎新婦の仮装のようだった。なんでそんな衣装が幼稚園にあるのか知らないけどハー兄ちゃんはタキシード、キーリ先生は純白のウエディングドレスに着替えてゴールに向かう。ヴェールをかぶったキーリ先生は今までに見たことがないほどきれいな笑顔を振りまいていて、本当の花嫁さんみたいだった。

「好きな女の幸せを見守るのも男の役目っていうもんさ……」

 ヨアくんが何やら人生を悟ったようなことをぼそっと言った。

「うん……」

 エフィーくんも頷く。

 さっきまで対立していたのもどこへやら、失恋園児二人は意気投合し、二人揃ってげっそりした顔で校庭の様子を眺めていた。

 ぎゅるるるるるう。

 いい加減全部だしつくしたのにおなかがまたおんに騒ぎだした。

「オレ、もういっかいトイレ……」

「オレも……」

 よろよろと立ちあがり、肩を組んで支えあいながらトイレに向かう二人の背中に、ふいに声がかけられた。

「おっ。エフィー、ヨア、いいところに」

 嫌な予感を覚えつつ振り返る二人。

 ずんぐりしたハムスターの着ぐるみに身を包んだ兵長園長とハンニ先生ペアだった。ハンニ先生が手にしているくじには〝ハムスター一家〟。

 兵長園長が子供用のハムスターの衣装を二着掲げてわははと笑い、

「子ハムスター役を二人探してたところだ」

「園長先生、オレ、腹の調子が……」

「ト、トイレ……」

 二人の言い分をまったく聞く様子もなく兵長園長が両肩に二人をかつぎあげる。腹に力が入らず情けない悲鳴をあげて連れていかれる二人だった。

「たーすーけーてーえー……」


おしまい