ねえ、神さまってどんな人なの?

 幼いころ、ユリウス少年は例によって疑問に思ったことを解決しないと気が済まない知りたがり屋の子供で、にそんな質問をしてみたことがある。

 そうですねえ……わたくしもお会いしたことはありませんから。

 と乳母は困った顔で答えた。

 偉い人たちは神さまに会ったことがあるのかなあ?

 ええ、そうですね、ロウたちは神さまのお言葉を直接たまわる方々ですから。坊ちゃんも将来ロウになられるかもしれないんですよ。

 乳母の答えを聞いてユリウス少年は目をかがやかせた。神さまと会えたら、オレ、いろいろおねがいしたいことがあるんだ。レアカードがもらえますようにとか、もっと強くなりたいとか、あとオレ、犬が飼いたい。それと、それと……。次々とがんぼうを並べたてるユリウス少年に乳母は苦笑して、あらあら坊ちゃん、神さまはお願いをかなえてくださる方ではないんですよ。神さまは見守り、愛し、ゆるしてくださる方なんです。

 そ、そうなの……?

 ええ、そうなんですよ。

 そうなんだ……。乳母の説明にユリウス少年はさっきまでの勢いもどこへやらしょんぼりと頭を垂れる。オレ、もっとお願いがあったのにな。父さんや母さんやばあやがずっと仲良くいられますようにとか、それから……惑星中で困ってる人がいなくなって、みんなが悲しんだりおなかをすかせたり凍えたりしませんように、って。

 でも、そうか、神さまはそういうお願いは聞いてくれないのか……。


 神サマナンテイラナイ 神サマナンテ何モシテクレナイ


 脳裏によみがえる少女の台詞せりふが、しんぞうにずしりと重く突き刺さった。

 長老の連続死事件と化け物そうどう、どちらも教会上層部は大ごとにせずに処理しようとしている。長老会は欠員のまま、トップの管理のうは混乱状態。混乱が表面化しないようつくろうのが精いっぱいで、化け物騒動については現在のところなんの公式見解も出ていない。一般市民にせいしやが出ているというのに。〈にん狩り〉が動いているので長老会がなんらかのかかわりを持っているか、少なくとも情報を得ていることはかくじつであるはずなのだが、その情報は街のけいかいにあたっている治安部のほうまでは降りてきていない。

 教会に対する不信感が自分の中で日に日にいろくなっていることをユリウスはどうしても無視することができずにいた。ゆうだと思いたい。それでも……。



 春を迎える時期だというのにいまだ寒気がゆるまない、どんよりとくもったその日。「迎えにこい」というたかしやな連絡を受け、ユリウスは教会関係者が乗り降りするための総本山近くにある駅にやってきた。列車が駅舎に滑り込むのが見え、少ししてから普段ふだんよりもどこかせわしなく駅舎から乗客たちが流れでてくる。

 せいしよくしやがまとう黒いがいとうに身を包み帽子をかぶった人々がほとんどを占める中、比較的目立つ赤毛の長身を見つけることはそれほどむずかしくなかった。行き過ぎる人々の中で向かいあって立ちどまり、ユリウスは開口一番、

「似合わない」

「やかましい」

 それがあいさつだった。

 悔しいことに未だユリウスより頭半分は高いせんからげんそうに見おろしてくるその赤毛の男はしつこくの神官服の上から外套をはおり、外套のフードを深く降ろしている。首にかかっているのは以前も見たことがある古ぼけた小型ラジオ。よくかんさつすればポケットに入れているみぎそでが空であることに気づく者もあるだろうが、一見したところでは一応地方巡礼から帰ってきた神官の格好だ。〈門の街〉で治安部支部の事務官として働いているだん(ユリウスにとってもわりあい親しい〝おじさん〟にあたる)のツテで用立てたものらしい。

 すらりとした長身にえりの高い長衣は似合わないわけはないはずだが、かもしだす雰囲気が決定的にアウトローなのでユリウスに言わせれば不良神官にしか見えない。神官の格好をさせたら自分のほうが百倍男前だ(たぶん)。だいたいほおにあきらかにかたではないてつさびのようなただれを張りつけて左右非対称のひとみを持つまともな神官なんてどこの世界にいるんだ。……相変わらずこの男は、見るたびに身体からだのどこかが欠けていく。

「その目……どうしたんだ?」

くんしよう

 えんりよがちにくと相手はにやりと口の端で笑った。心配して訊いてやったのにからかわれたみたいでユリウスはむっとして、

「なんだよそれ、ぜんぜんカッコよくないぞ」

「ああ、おれは今いろいろ悪あがきしてるから、カッコ悪いよ」あっさり認めるのでユリウスは絶句する。こんなに素直なやつだっただろうかと意外に思ったが、「体裁つくろってる余裕はないから、利用できるものはする。お前に助けてもらったほうが都合がよかったから連絡とった。お前なんかに借りを作るなんて本当はまっぴらご免でも、だ」

「……」

 やっぱりいやな奴だった。ユリウスはぜんとして口をとがらせた。〈砂の海〉の船で最初に出会ってからもう二年あまり、ユリウスはそれなりに成長したつもりだが、としをとるということがないこの男の性格のひねくれ度はやっぱりぜんぜん変わっていない。

 駅舎の出口から教会総本山に向かって幅の広い連絡橋が延びている。同じような格好の人々の流れにまぎれて二人並んで橋を歩きだす。

「……キーリは?」

 二人とも前を向いて歩きながらぼそっとした質問があった。本当は最初からそれをきたくて仕方がなかったに違いない。ユリウスは口の中でちぇっと舌打ちして答える。

ひとじちに会いに、シグリ・ロウの自宅に行ったって聞いた」

「ビーと合流したんだな……」

 ほっとしたつぶやきとともに胸もとのラジオを見おろすぐさはまるでラジオとうなずきあっているかのように見えた。

「そっちに行くか?」

「いや……ビーと会えたんなら急がなくてもいい。その前に、」

 と、途中でふいに調ちようをゆるめて端のほうへと若干よろっと曲がっていくので、ユリウスはげんに思いつつあとについていく。「どうした?」「ちょっと一服」「はあ?」何をするのかと思ったら連絡橋のらんかんに寄りかかってフードの陰で煙草たばこを吸いはじめたのであきれ返った。

「余裕ないってさっき言わなかったか?」



「ないよ。だから、」煙を深く一つ吸って吐きだしてから、「ニコチンでドーピングしとかないと途中でくたばる」じようだんで言っているわけではないらしく、半身を投げだすようにらんかんにもたれかかって息を吐くようは本気でつらそうに見える。憎まれ口をたたいてかろうじて精神力をつなぎとめながら、ぎりぎりで動いているのがわかる。

「で、化け物さわぎの話」

「ああ」

 ユリウスもとなりで欄干に背中を預けてひと休みしながら話すことになった。連絡橋を行き交う人々が時折りこちらにせんを送ってくるが、ハーヴェイのほうは人波に背を向けているので喫煙にまゆをひそめられることはない。

「ラボにもぐり込めるか? あそこから流出してるのは間違いない」

「やろうと思えばルートは作れると思う。父さんに頼ってもいいところだけど、オレ個人のツテでもあてができたから……」

 てきぱきと答えるユリウスに、ハーヴェイが煙草たばこを吸う手をとめ、こっちに横目を送ってまばたきをするのでユリウスはいったん言葉を切った。また何かからかう気かと条件反射で身構えてしまう。

「な、なんだよ」

「お前がやろうとしてることって、背信行為なわけだけど、わかってるのか?」

「そっちから協力ようせいしといてよく言うな」

「別に無理にとは言わない。お前をひとじちにして自力でなんとかする」

「……」

 それを無理にと言わずしてなんと言うのか。

「冗談だ」

うそつけ」

「うん。本気」

「……」

 少し思案してから、ユリウスは視線を足もとに落として重々しく口を開いた。

「……オレはただ、本当のことを知りたいだけだ。オレが今まで信じてきたものが、疑わなかったものが、本当にそこにあったのかって……もしかしたらそこには何もなかったのかもしれないって……」今まで見ていた場所に、目指していた場所に、神はいたのだろうか。


 神サマナンテイラナイ 神サマナンテ何モシテクレナイ


 脳裏に聞こえるキーリの声。

「人々を助けるために、教会はあるんじゃなかったのか……?」

「……お前、おれに教会は必要なのかなんていて、なんて言って欲しいわけ? 俺の答えなんて決まってるだろ」

 ちんうつな問いをばっさりとって捨てられ、しかし今のは自分のほうが無神経だったと納得して言い返すことができなかった。教会に追われているにんに教会の神なんて敵でこそあれ必要であるわけがない。


 神サマナンテイラナイ──


 でも……本当にそうなのだろうか。

「オレは、教会はこの惑星に必要ないものなんかじゃないって、やっぱり今でも思ってる。戦争が終わったとき、えと略奪が横行してめちゃくちゃになってたこの惑星の街々に、食べ物を配って暖房を作って、秩序を回復することに手を貸したのはたしかに教会だった。それは、それだけは本当に本当だったんだ。オレも、そんなふうに惑星の助けになれたらって、ずっと思ってきた……」けれど今、あこがれてきたものがもやっとした灰色のかすみに包まれてよく見えなくなっている。自分が今まで信じてきたものはなんだったのだろう。

 聞いているのかいないのか、となりの男はただらんかん越しに眼下に広がる首都の街並みを左右で色の違うひとみで何気なく眺めて煙草たばこを吸っている。回答がもらえるはずもない。そもそも回答があることを期待して話したわけではないけれど、それでも何かの返事を期待してしまう。

 しばらくちんもくが降りた。せわしない人の流れがれることなく連絡橋を行き過ぎる。

「ユリウス」

 と、思いがけずふいに反応があったのできんちようして次の台詞せりふを待っていると、

「お前さ、自分が本気で惑星中の人間を助けられるなんて思ってんの?」

 素で理解できないという調ちようで言われて、高まった期待が心の中でがらがらと音を立てて崩れ落ちた。憤慨としゆうのあまりユリウスは顔をにして、

「なっなんだよ、悪いかよっ」

 のそり、

 ハーヴェイの向こう側で何かのかげが動いた。向こう側──欄干の外側から。声をかけるのが間にあわずきようがくの形に口をあけただけのユリウスの反応で察したようでハーヴェイはとっさに避けようとしたが、横からがれたかぎづめを食らって欄干沿いを滑るように吹っ飛ばされた。

 いつの間にいあがってきたのか、橋の下からあの化け物が、欄干をってちようやくするように姿を現した。

「う、うわっ……」

 とっさに反応できずにユリウスはうわずった声をあげて数歩後ずさったのみ。連絡橋の通行人たちにもあっという間にさわぎが広がりほうぼうで悲鳴があがる。

 ぐぅ……ぅ……ぅあ……

 人間のうめき声に似た音をのどから漏らし、べた、べた、と張りつくような足音を引きずってそいつがこっちに近づいてくる。どうこうの見えないそいつのひとみぎようしたままユリウスは足がふるえて逃げることができない。

 べた……べた。

 足音を引きずりながら、そいつがつめに引っかかった赤い肉片をべろりとめた。

「ユリウス、伏せろ!」

 聞こえた声に身体からだが反応する前に、後ずさったかかとつまずいてしりもちをついた。その頭上ぎりぎりを間一髪、風を切って何かが通り過ぎ、目の前に迫ってきていた化け物が側頭部を殴られて横に吹っ飛ぶ。しかしさほどダメージは入らなかったようですぐに身を起こす。殴られたしようげきで片方の眼球がぼこりと異様に飛びだしていたが、自分の状態がよくわかっていないのかそいつは小首をかしげただけで、標的をユリウスから割り込んできたハーヴェイへと変更してゆらりと立ちあがった。

「下がれ。じやだ」

 ぶっきらぼうな調ちようで言ってハーヴェイがユリウスの前に出る。折れたらんかんの一部とおぼしき鉄パイプのようなものを持った左手のがいとうそでが裂けて血が流れている。ぎりっとみをして一度だけ目を閉じると、コールタール状の黒い血液が傷口から浸みだしはじめる。いったんは傷口がふさがりはじめたがコールタールの血液はすぐにえて、ハーヴェイがいつしゆんふらつくのがわかった。

「あ、う……あ……」

 助けないと。なんとかしないと。

 動揺と恐怖とで言葉が出ないまま、頭でめいかくに考えるより先に身体のほうが動いた。

「うわあーっ」

 大声をあげ、身体全体を使って化け物に突進。体当たりを食らわせて化け物の身体を欄干に押しつけ、そのまま欄干を越えて突き落とそうとしたが、敵の爪がえりくびに引っかかり一緒に転げ落ちそうになった。「ユリウス!」声と同時にぎりぎりで腕をつかまれ、化け物だけが橋の下へと転落していく。ハーヴェイに腕を抱えられ欄干に取りすがった格好で息を切らせながら橋の下へとせんを巡らせ、

 背筋をせんりつが駆け抜けた。

 都市を隔てる切り立ったないへきのところどころに、街全体をって流れる水路の出口がアーチ形の口をあけている。そのすべての出口から、水死体に似たあの緑色の化け物たちが大量にいだしてくるのが見えた。あたかも腐った水が浸みだすように、内壁がよどんだ緑色にしんしよくされていく。連絡橋の上を逃げまどう人々の恐慌をBGMにユリウスは硬直してそのおぞましい光景を凝視する。

 ないへきって迫り来る化け物の群れにどこからか火が投げ込まれた。化け物たちが火だるまになってかべを転落していく光景に、あんする以上におうかんがこみあげる。

 純白の僧衣に装甲板を身につけた治安部の兵士たちが眼下の街に現れるのが見えた。連絡橋のほうにも火がついたたいまつを掲げた兵士たちの一部隊が駆けてくる。

 その先頭に見知った心強い顔を見つけた。

「父さん!」

「ユリウスか! 無事か?」

「何が起こって……」

 部隊を率いて駆け寄ってきた父親が、ユリウスとともにいる長身そうの男の姿に気づいて足をとめた。きよをおいていつときにらみあう二人。しかし対立している場合ではなく、たいまつの火でいったんは退いた化け物たちがまた押し寄せてきつつある。らんかん越しに眼下にせんを投げて父親が舌打ちする。

「水路の出口からいっせいに出てきた。一般居住区のほうにも現れている」

「キーリたちは? シグリきようの家に行ったって──」

 ユリウスが言ったしゆんかん、ハーヴェイが唐突に欄干を越えて飛び降りようとするのでユリウスは慌てて「待て、待てよ! こんなとこから飛び降りるな!」引きとめようとしてとっさにがいとうえりくびつかんで首を絞める格好になり、「殺す気かっ」欄干に足をかけた格好で首をさすりながら相手にられた。

「待ちなさい。シグリ卿の家にれいじようはいない。逃げたと連絡があった」

 父親のほうがハーヴェイの腕を取り冷静に説得にかかる。

「逃げた?」

「一般居住区の市民は大聖堂にゆうどうしている。そっちへ行ってみろ」

 睨むような目つきで父親の話を聞いたあと、ハーヴェイは一つうなずいて総本山の方向へきびすを返した。「ユリウス。お前も行きなさい」「父さんは?」「これがおれの仕事だ」部隊を率いて残る父親に促され、後ろ髪を引かれながらもユリウスもあとに続いて走りだす。混乱の中、逃げまどう人々と時折りぶつかったりして走りながら、前を行く長身瘦軀の神官服に向かってユリウスは声をあげる。

「なあっ、あんな化け物、治安部の装備で倒せるのかな」

「倒せない」

 前を走る背中が振り返りもしないで即答した。

しんぞうを貫いてかいするしかない。あれは……俺の同族だから」

 無感情な、しかし吐き捨てるような最後のひと言。

 連絡橋を抜けた先にせんとうが林立する首都総本山の正面ゲートが見えてくる。正面ゲートは市街から逃げ込んでくる人々であふれ返ってぎゅうぎゅう詰めになっていた。我先にゲートを抜けようと押しのけあう人々、混乱の中で転ぶ老人、親とはぐれてわめく子供──。

 自然とユリウスの足は途中でとまっていた。

「……オレ、戻る。なんゆうどうくらいは手伝えるはずだ」

 いぶかしげに振り返るハーヴェイをまっすぐえ、強い調ちようで。

「お前はキーリを捜しに行け。大聖堂はまっすぐ行けばすぐにわかる」

「……言われなくても」

 いい加減れてきた憎まれ口に軽く片手をあげただけでこたえ、ユリウスはもと来た方向へ身をひるがえす。

「ユリウス」

 その背中に声がかかった。振り返るとハーヴェイがまだ立ちどまってこっちを見ている。奇妙な顔でいったん足をとめるユリウスに、ぞんざいな口調で次の台詞せりふが続く。

おれは、お前のそういう、自分なんかが本気で惑星を救えるなんて思ってるところはほんとに笑えると思うけど」

「わ、悪かったなっ。そんなことで呼びとめるなっ」

 ほおこうちようさせてるユリウスに、相手はふいにみを見せた。「でも……そういうことを本気で信じられるお前は、素直にすげえと俺は思うよ」普段ふだんのにやりとしたうすわらいよりもやわらかい笑い方。こういうふうにも笑えるのかと、意外な一面と意外な台詞にユリウスはぽかんとして口をつぐむ。

「頑張れ」

 エールを最後に、神官服の長身をひるがえした。いつときその場に突っ立って見送るユリウスのせんの先、人々の混乱の中へとしやくどういろの髪の後ろ姿が消えていく。

 頑張れ──。

 追いつきたいとずっと思っていた相手から言われたそんな言葉に、だか泣きたくなった。自分のほうがぼろぼろでふらふらのくせに、人にエールなんか贈ってる場合か。

「……お前も頑張れ」

 すでに相手に聞こえるはずもない。それでもきっと届くようにとねがってつぶやき、ユリウスも反対方向へときびすを返して走りだした。


   


 となりに座るベアトリクスがふいにきょろきょろと周囲を見まわした。

「どうしたの?」

 いぶかしげにキーリがたずねると、

「……ん、なんでもない。大丈夫よ」

 かぶった黒のショールの下で、自慢の金髪を惜しげもなくショートヘアにしてしまった彼女が安心させるように微笑ほほえんだ。切ってしまった彼女の髪のひと房はお守りになってキーリの手首に結ばれている。おしやべりをしていたら前に座る中年女性にじろりとにらまれたので二人で顔を見あわせて口をつぐんだ。

 二人とも黒い服に黒のショールを被った格好。パイプオルガンのBGMがゆるやかに流れる大聖堂のホールいっぱいに並べられたながに、暗色の帽子を被った巡礼者たちがひしめきあって座っている。アーチ形の高いてんじように囲まれた大ホールは大勢の人がひしめいているわりには冷んやりとせいひつな空気に包まれていた。かすかに漂う油絵のにおいは自分やベアトリクスの服に染み込んだ匂いだろうか、シグリ・ロウの自宅の匂いと同じ。

 パイプオルガンのBGMが終わり、前方のバルコニーの上に純白の地に金の飾りがふちられた長衣をまとった神経質な感じの老人が現れた。キーリからしてみればなんらの神がかった力も感じられないその老人に対して、周囲の礼拝者たちから崇敬のいきが漏れる。

「シグリ・ロウじゃないのね」

 前をえたままベアトリクスがささやいた。たしかに、先日見学した礼拝のときはシグリ・ロウがだんじように立っていたが、今日は別の長老が説教を行うようだ。目をらすとバルコニーの奥の目立たない場所に控えているシグリ・ロウの姿を見つけた。右腕をり包帯で吊っている。なるほど、あの姿で壇上に立ってもいたずらに民衆を不安にさせるだろう。

「あんたが意外とおじようさまだったなんてねえ」

 からかい半分の囁きにキーリがいやそうにまゆをひそめると、ベアトリクスは軽く肩をすくめてウインクしてみせ、

「まあよかったじゃないの。親が見つかって」

 キーリはぶんぶんと首を振った。被ったショールが左右に振れてほおにぶつかった。

うれしくないの?」

 うなずく。

「なんで?」

「……だって、教会はハーヴェイやベアトリクスの敵じゃないか」

 うつむいて暗い声で言うキーリに対して、となりの彼女から返ってきたのはあっけらかんとした明るい笑い声。

「そんなのちっちゃい問題だわ」

「ちっちゃくないよっ」

 つい声が大きくなってしまい、前に座るさっきの中年女性にまた睨まれてまた二人で顔を見あわせ身をすくめた。再び声のトーンを落としてベアトリクスが囁く。

「エイフラムがそんな細かいこと気にすると思う?」

「思わない……けど」

「あんたの幸せをいつもさいゆうせんに考えてる。あいつも、私も。あんたが、あんただけは前を向いて進んでくれればいいと思う。……だから、たいへんなことはこれからもたくさんあると思うけど、たまには逃げても立ちどまってもいい、でも……目を背けるな」

 となりささやく彼女の声が、小声だけれど力強く耳にみる。お守りを結んだ左手でキーリは隣に置かれた彼女の右手を、彼女のれいな指を握った。

「……で」

 かすれた声で囁く。

「みんな、みんなそんなふうに遺言みたいなこと言わないで。いやだよ。一人にしないで……」

 自分の声が弱々しくて情けなくて、それでも口に出したその言葉は心からのねがいであり祈りであり、涙がこぼれそうになって唇をみしめた。彼女の手が強く握り返してくる。はっきりと自信に満ちた、いつもの彼女の声。「大丈夫よ。一人になんかならない。あんたはエイフラムと会える」

「……うん。ベアトリクスともずっと一緒だよ」

 目の奥に涙を押し込め、キーリも彼女の手をきつく握り返してうなずいた。

 ふと気がつくとさわさわと周囲がざわつきはじめていた。おしやべりするたびににらんできていたあの中年女性まで隣の男性と何やらまゆをひそめて会話を交わしている。

 もともと聞いていなかったので気づくのが遅れたが、いつの間にか長老の説教の声が中断していた。げんな空気が前のほうから波紋のように礼拝者たちのあいだに広がっていく。

 なんだろう……。ながに座ったまま背を伸ばして人々の頭のすきから前方のバルコニーをのぞきみる。礼拝者や周囲に立つ神官たちがいぶかしげに顔を見あわせる中、バルコニーの上に立つ白い長衣の長老は説教など頭から吹っ飛んだように棒立ちになり、おびえたようなあおい顔をしてくうぎようしている。

 その頭上にひとかげが浮かんでいるのがいつしゆんだけ見え、

「ベアトリクスっ……」

 はっとしてベアトリクスの腕をつかんだとき、前方で女性のかんだかい悲鳴があがった。

 突如、長老が前のめりに身体からだを折って手すりを乗り越えバルコニーから転落した。自分から飛び降りたように見えたかもしれない──しかしキーリの目には老人の服を摑んで突き落とした黒っぽい影がはっきりと見えていた。キーリの位置からでは落下地点は見えないが、ホールまでの高さは十数メートルはあるだろう。どさっという重苦しい嫌な音。悲鳴が放射状に拡大しホール中の礼拝者が総立ちになった。

「ベアトリクス、見た? 今っ……」

「見えたわ。はなれないで」

 一気に混乱が広がる中、二人も立ちあがって手を強く握り身を寄せる。


 何が起こったんだ、どうして急に落ちたんだ……?

 足を滑らせたのか?

 違う、見たぞ、だれかが突き落としたんだっ……。


 人々のおんなささめき──絵画の中に見た赤ん坊のころの事件がキーリの脳裏ではっきりと重なった。ざわつく礼拝者たちの人払いにあたりはじめる神官たちの姿にせんめいな既視感。そうなると次に起こるのは──。

 神官たちにゆうどうされて人々が退きはじめたとき、大ホールを照らす電灯に大きなかげが落ちた。

 けたけたけたけたっ。

 きゃきゃきゃきゃきゃっ。

 アーチ形のてんじように何かの動物を思わせる異様な笑い声が重なりあってこだまする。かべに並ぶ飾り灯が点滅してばちばちと火花をあげ、掃射を浴びたように前方から後方に向かってはじけとんだ。ふっとすべてのあかりが消え、ステンドグラスからす淡い戸外の光のみがホールを照らす。うすやみにまだれない視界の中で悲鳴をあげる人々、おびえて身を寄せあう人々、頭をかかえてうずくまる人々。ベアトリクスとはなれないよう手をつないだキーリは混乱する人々に四方から押しのけられ突きとばされてあちこちによろめいた。

 親に置き去りにされたのか、人々の足のあいだで泣き声をあげている赤ん坊を見つけ、「あっ」「キーリ?」とっさにベアトリクスの手を振り払って赤ん坊に駆け寄り、誰かの足に踏まれる寸前のところを抱き寄せてした。

「大丈夫?」

 うぶに包まれた赤ん坊の顔をのぞき込んだしゆんかん息を飲む。一歳にも満たないと思われる赤ん坊がぱっちりと目をあけ、闇が沈んだようなどうこうのないひとみでこちらを見あげて。

 にたり……と頰をゆがめた。

 ひゃはははははっ。

 狂ったようなかんだかい声で赤ん坊が笑いだし、ふっくらした幼い顔がみるみるしわを帯びて老人の顔へと変化する。「いやあっ」赤ん坊を放りだそうとしたが、赤ん坊は幼い両手からは想像できない握力でキーリの服にしがみついてどんなに振りほどこうとしても離れない。群衆の混乱の中、場違いに笑い続ける赤ん坊の甲高い声がこだまする。

 鮮明な既視感に再びおそわれた。

 次に起こるのは。次に起こるのは──。

あくの子だ! あの子の仕業だ!」

 誰かが叫んでこっちを指差した。ヒステリックな叫び声はすでに恐慌の頂点に達していた人々のあいだをってあっという間に伝染する。こうふん状態に陥りぼうと化して赤ん坊を奪おうとする人々に取り囲まれてキーリはもみくちゃにされる。

 自分の状況が、過去の母セツリの状況と完全に重なった。

 過去の再現。あのときと同じ。

 四方から服や髪をつかまれ引っ張られる中、キーリにしがみついてはなれなかったうぶの中身がふいにするりと消失した。老人の顔をした赤ん坊が黒い霧状のかげと化し、相変わらず狂った笑い声を立てながらするするとてんじようへと昇っていく。頭上を振り仰ぎ、バルコニーのわきのほうでそうはくな顔で立ち尽くして事態を見守っている細面の眼鏡めがねの男と──父親である男と目があった。しきのうちに助けを求めてキーリは人々のすきからそちらに手を伸ばす。

 差しのべられたキーリの手から、

 男はついとせんを背けて、バルコニーの陰へと姿を消した。

 いつしゆんだけ期待しかけた何かが、キーリの中でぷつりと音を立ててぶつ切れた。母親と同様の絶望が心の中に広がっていく。


 あくの子! 悪魔の子!


 今や人々に取り囲まれなんの的になっているのはキーリ一人だけだったが、かれたように叫び続ける人々のこうふんは収まる気配けはいがない。そこは惑星中に浸透する権威ある教会首都の大聖堂というよりは、まるで正反対のぼうりよくてきな異端宗教の集会場のごとく。

「キーリ! キーリ──」

 ベアトリクスの声が人垣の向こうから遠く聞こえるが姿は見えない。狂気を帯びた人々の顔が四方を取り囲み、すでに意味のない乱暴な打楽器のようにしか聞こえない不快な音を叫びののしり続ける。怖い……怖いっ……。恐怖心でキーリはもう抵抗することも声をあげることもできなくなる。

(助けて、助けて、ハーヴェイっ……)

 この場にいないその名前にどうしても助けを求めてしまった、そのとき、

「やめろ! やめろ!」

 叫びながら人々をき分けてくる人物がいた。ベアトリクスでもハーヴェイでもない、しつこくの長衣のすそらして、細面の眼鏡の男が暴徒たちを乱暴に押しのけ駆け寄ってくるなりキーリの腕を取った。

「やめろ、放せと言っている、鹿もの!」

 キーリの髪を引っ張っていた暴徒の一人を、男が叫んで殴りつけた。

 最高位の神官で人格者であるべき人物が。一般信者を。とうして。殴った。グーで。

 まだ収まらない混乱の中心、自分の上におおかぶさってかばおうとする父親の必死な顔を、キーリはぽかんとしてまるでごとみたいな気分で見つめていた。間近で取り囲んでいた人々のかれたようなぎようそうも周囲のさわぎも、さっきまで怖くて怖くて仕方がなかったものがひどく遠くて現実味がない。父親が何やらぼうげんを叫んでいるがよく聞こえない。ただ、自分を抱きしめる父親の体温がそこにあることだけが感じられる。

「シグリきようがご乱心に!」

「今はロウのご遺体をっ──」

 だれかの叫び声が遠く耳に届く。

 それに対して父親が叫び返す声だけが、突然せんめいに耳に聞こえた。

「老い先短いけ老人の一人や二人、放っておけ!」

 最高位の神官で人格者であるべき人物が。なんてことを言うのだとキーリは耳を疑った。



「なんでこんなに人が多いのよ!」

 行きたい方向を遮る群衆をいらいらと殴りつけながらベアトリクスはわめいた。礼拝中のホールにここまで人間が入れたはずはないのだが、だか外からどんどん流入してきて今やほとんど身動き取れないだんご状態。こんな状況ではさっきの長老の転落死体はつぶされているのではないか。

「キーリ!」

 そのへんにいたじやな人間を適当に(グーで)殴って叫ぶ。シグリ・ロウと一緒にホールをだつするのが見えたので一応大丈夫だとは思うが。

「あーっ、見つけましたよ!」

 人込みをぎゅうぎゅう押しのけて、あのヨシウという神官が顔を出した。もう逃がさないとばかりに着ていた服のウエストのあたりを捕まえようとするので「どこつかんでるのよっ」「えっ、あっ」怒られて神官は慌てて手を放し、放してしまってからそれじゃあどこを捕まえればいいのだろうと両手を泳がせて困惑した顔をする。そうこうしているうちに人込みに突きとばされて「ぷっ」と胸に突っ伏してきた。「すっ、すみません」ぱっとはなれてぶつけた鼻を押さえながら、

「あれ? 髪、れいに切ったんですね」

 きんちようかんが抜ける男だ……。ベアトリクスはげんなりといきをついた。

「なんの騒ぎなの、いったい。なんでどんどん人が増えてるのよ」

「あっ、そうです! それがですね、たいへんなことが」

 神官の説明を遮ってどこかで悲鳴があがった。聖堂の入り口のほう──そっちのほうからさくらんした人々が押し寄せてくる。人々の波の向こうに、緑色っぽい大柄なひとかげが見えた。「うわわわっ、ここまで来たっ」情けない悲鳴をあげて神官がベアトリクスの背後に隠れる。人々がドーナツ状にきよをあけて逃げまどうその中心点、がどろっと溶けかけた水死体のような化け物が一体、ゆらゆらと身体からだを揺らして歩いてくる。……あれがキーリが言っていた、にんできそこないか。

「やんなっちゃう」

 だれにともなくを漏らし、ショールの下で握ったものの感触をかくにんした。

「に、逃げましょうっ」

 最初から逃げる気満々の神官に促され、人の流れにまかせてひとまず化け物から逃げる方向へ走りだす。化け物のしゆうげきのせいというよりは我先にと逃げる人々のあいだで押しのけあいや転倒が起こり各所で悲鳴があがっていた。今しがたまでせいひつな空気に包まれていたはずの大聖堂が、まるで人々にあのあくりようどもが乗り移ったかのように人心のみにくさがていしたしゆと化している。

 と、先を走っていた神官があっと小さな声をあげ、振り返って何やらためらいがちにその場で足踏みをはじめたので危うくぶつかりそうになった。

「何よっ」

 文句を言おうとするベアトリクスのわきを抜け、神官はたった今通り過ぎた場所を数メートルばかり駆け戻っていく。さつばつとしたこんとんの中、転んだきり立ちあがれなくなったのかうずくまっている老婆がいた。

「おお、神よ……神よ……」

 床にひたいをこすりつけ、ふるえる両手を組んで祈りの言葉をつぶやき続けている。その上を人々の足が今にも踏みつけんばかりに越えていく。

ばあちゃん、何やってるんです、立って!」

 神官がその老婆を抱きかかえて起こそうとする。そのとき、二人の頭上にのそりと大きなかげが落ちた。老婆を抱えたまま顔をあげ、そうはくになって固まる神官。その頭上に化け物のつめが振りおろされる。

「ったく、もうっ」

 ショールの下で持っていたハサミを握りなおし、ベアトリクスはちゆうちよなく化け物のふところに踏み込んだ。

 きん!

 ハサミの刃先で爪をはじき返し、返す手で化け物の目玉に刃先を突きつける。あれが不死人であるのなら致命傷などにはならないだろうが、視界を半分奪われいつしゆんひるんだ化け物の胴体に肩から思いきり体当たりを食らわせてはじきとばした。「もう、こっちはこんな武器しかないんだからっ」文句たらたら言いつつ抜いたハサミを構えなおし、すぐに体勢を立てなおすであろう敵とたい

 自分の肩口にちらりとせんを投げて舌打ちした。爪の先を食らってしまったらしく大きく服が裂け、あらわになった腕にざっくりと傷が入っている。化け物の目玉の再生と自分の傷の修復、両者の現象が同時に進行し、周囲でいったん立ち尽くしていた人々のあいだで動揺のどよめきが起こった。

「ば、化け物っ!」

 だれかの叫び声。どっちに対して言ったのか──考えるまでもなく化け物然とした化け物に対して今さら言ったわけではなく、自分のほうを指差して言ったのだろう。あっという間に恐慌がでんし、立ち尽くしていた人々が再び四方へと逃げはじめる。

 いつものこととはいえどうしても舌打ちが漏れた。うっとうしい、どいつもこいつもこれくらいで動揺して化け物呼ばわり──。

「あのっ」

 自分を避けて逃げていく人々とは反対に、すぐ近くからふと気弱な声がかけられた。うずくまっていた老婆をした神官がながの背もたれの陰からあおざめた顔をのぞかせている。いらたしげに横目でにらむと神官はひっと小さく身をすくめながら、

「だ……大丈夫ですか?」

 えんりよがちに気遣う言葉に、ベアトリクスはぽかんと間抜けな顔をしてしまった。おそるおそるというように神官がこっちの顔色をうかがっている。

 淡く苦笑を浮かべ、

「大丈夫よ。相手が不足なくらいだわ。じやだからとっとと逃げなさい」

「は、はいっ」

 老婆に手を貸して聖堂の奥へと移動しはじめる神官を横目で見送り、あらためて化け物と向かいあう。正面から現れた化け物に追われるように、人々の多くは大聖堂の奥の通路へとなんしていた。あらかた避難したようで悲鳴が遠く小さくなりつつある。

 さて、どうしようか……。相手が不足などと軽口を言ってみたものの、自分と同じ不死の属性を持つ敵相手にどう対抗するか正直あまり考えていなかったりする。

「げ……」

 敵の肩越しにせんを投げて、つい下品なうめき声が出た。

 大聖堂の入り口へと続く階段をさらに数体の化け物がゆらりゆらりと身体からだを左右に揺らしながら登ってくる。注意がれた寸秒のすきに、相手にしていた化け物が二足歩行生物とは思えない動きで床をって跳びかかってきた。「くそっ」六人がけのながこんしんの力でつかみ横にぐように投げとばす。敵の身体にぶちあたって長椅子が砕ける。しかし跳び込んでくる敵の勢いを若干いだ程度で、砕けた長椅子が床についらくしたときには敵は目前に迫っている。あごがはずれているのではないかと思うほど垂直にあけた口から粘性のえきとぶつぶつした突起物がついたざらついた舌が覗く。

「ビー!」

 呼ぶ声が聞こえた。ずっと昔、家族に呼ばれていたはずの名前。現在ではすでに一人しか呼ぶ人間はいないはずの省略しまくった愛称で。同時に何かが回転しながら床を滑ってくる。頭でにんしきするより先にせきずいはんしやがその物体の正体を見極め、敵の下をかいくぐるように腰を落として拾いあげた。

 弾帯がぶらさがった大口径の黒い銃。ずっしりと重い銃を両手で構え、敵のしんぞうめがけてねらいを定める。

 ぎゅぼっ!

 炭化銃独特のにごった銃声がとどろいた。至近きよから銃弾を食らった敵の胸部一帯が消し炭と化して消失し、

 ぐらり、と力を失った敵の身体からだが真正面から倒れてきた。

「きゃーっ」

 重量級の死体のしたきになってベアトリクスは悲鳴をあげた。水死体そっくりののっぺりとれてぶよぶよと沈むの感触に寒気が走る。「うぎゃーっ、いやあーっ、気持ち悪い、どけーっ」「ビー!」ひっくり返って起きあがれないこうかくちゆうみたいな格好でもがいていると、さっきと同じ呼び声とともに駆け寄ってきただれかに腕をつかまれ、どうにか死体の下から引きずりだされた。

 半泣きで相手の腕にしがみつき座り込んだ格好で死体を振り返ると、黒焦げになった石のしんぞうが胸の穴からごろりと転がった。

 死体は死体に戻ってもう動くことはない。

「ぐはー……」

 品のないいきをつくとろつこつが軽く痛んだ。死体につぶされて折れたか……すぐに治るだろうと痛みを遮断しただけで意識から追い払い、すけに来た相手と顔を見あわせた。

 お互いににやりと笑いあい、

「よう」

「久しぶり。生きてた?」

 至極あっさりした再会のあいさつを交わしてこつんと軽くこぶしをあわせる。二年ぶりの再会の感動がこの程度なのはいつものこと。例によって変わってないなとあきれながら(まあ自分だって変わっていないのだが)、それにしてもこいつはまた五体満足からかけはなれたな、というのが第一印象だった。二年前は義手がついていたはずの右腕はなく、左目は入れ替えたのか色が違う。

 少々呆れつつ見つめていると相手のほうもこっちを見つめてまばたきをし、

「お前なんか変わった。あ、髪が少ない」

「少ないってどういう言い方よ」

 殴る。

 それから肩をすくめて軽く笑い、殴ったその手でしやくどういろの髪をくしゃくしゃとでた。「相変わらずおんぼろなんだから。あんたらしいわ」「やっ、やめろ」ぶっきらぼうにエイフラムが手を払おうとするのがおもしろくてもっとやりたくなる。

「おっさんも元気だった?」

 せんを落としてエイフラムの首からぶらさがったラジオに問うと、おっさん言うなとでも言いたげなノイズだけがスピーカーから返ってきた。「……? おっさん?」首をかしげて視線をあげる。

こわれて、調ちよう戻らない……」

 ちんうつそうに視線を落として下唇をむエイフラムのよういつとき言葉を失ったが、「……そんな顔するな。なんとかなるわ。なんとかなるだろ、ってあんたがいつも言ってる」うつむいた相手の前髪をくいと引っ張ってベアトリクスは微笑ほほえんだ。「あんたが来てくれてよかった、はやくキーリのとこに行きなさい。たぶん聖堂の裏のほうへ行ったわ。これ、まだ弾あるわよね。借りるわよ?」行きあった兵士から奪いでもしたのか、炭化銃独特の大振りの弾帯にはまだ十分に残弾がある。

「ビー?」

 炭化銃を拾って立ちあがったところでエイフラムに腕をつかまれた。しやくどういろひとみが心配そうにのぞき込んでくる。気づかれてたか……ちよう気味にベアトリクスは自分のわきばらに手を触れた。折れたろつこつの損傷はすでにほとんど治りかけている。

「平気よ。私、ちょっとまだようがあるのよ。あとで追いつく」



 死体につぶされたりして手間取っているあいだに、後続で現れたできそこないどもが一般巡礼者たちを追って聖堂の奥へと向かっていったのが見えていた。あの神官が老婆を連れて逃げていった方向。しょうがない……一度助けてしまったからには最後までめんどうみないと後味が悪いったらない。

「ベアトリクス」

 炭化銃を肩に提げ走りだそうとしたところをもう一度呼ばれた。「ん。何?」立ちどまって気軽な調ちようで応じたが、こいつが略さないでちゃんと名前を呼ぶときはな話をしようとしているときだとわかっている。

 次の台詞せりふがあるまでに一拍の間があり、

「……みんなで帰ろう」

 体裁悪そうにせんを落として照れたようなぶつちようづらで、そいつはそう言った。ぽかんとしてまばたきをしてから、ベアトリクスは内心でぷっと吹きだした。

 中身は何も変わっていないように見えて、やっぱりいつの間にか変わったのだなと実感する。前はこんなに素直に感情が表面に出てくるやつじゃなかったのに。百年近い年月の中のたったの数年。それでも、ずっと変化もなくだらだらと続いていたものが多少なりとも変わるくらいに自分たちにとっては密度のい出会いがあった、数年。

「当たり前よ。すぐに追いつく」

 片手を伸ばし、自分の頭よりも高い位置にあるしやくどういろの髪を軽く抱き寄せて。

「あんたはあんたで頑張るのよ」

 ずっと昔、幼い弟に言った台詞を。

 少女だった自分がうまく感情を伝えられずに突き放すように吐き捨ててしまった台詞を、今はやわらかくあたたかく言いなおすことができた。

 自分にとっても間違いなく変化があった、たったの数年。その数年に、後悔はない。

 再会を約束してきびすを返し、二人それぞれ別の方向へ走りだした。


   


 教会兵はどうして来ないんだ。

 こんなときに市民を守るのが治安部の仕事じゃないのか。

 ああ、神さま……。

 人々が逃げ込んだ用具室の入り口、ながみあげて作ったバリケードがぎしぎしがちがちと異様な音を立ててきしむ。バリケードの向こう側にいる化け物は一体のみ。しかし男連中が総出で押し戻そうとしてもバリケードは今にも突破されそうな軋みをあげている。一般巡礼者のほかに若い神官も何名かおり、ヨシウも彼らと一緒にバリケードを押さえる側に参加しながら、用具室の奥で身を寄せあって見守る女性や子供、老人たちから次第にこぼれはじめる不満や泣き言を片耳で聞いていた。

 おそらく治安部だって精いっぱいの努力をしているだろう。市街のほうには比べようもなくもっと多くの化け物の群れが出現しているが、あの化け物どもを治安部の装備で容易に食いとめられるとは思えない。それでも聖堂まで登ってくるのが数匹程度で済んでいるのは治安部の必死の働きがあるからこそだと、こんなとき不満を言うことしか思いつかない人々は気づきもしないのだろう。とはいえ自分だっての一つや二つこぼしたいので他人をなんする資格はない。

「うぎゃっ」

 そんなことを考えているうちに力がゆるんでいたのか、ながの脚のすきから化け物の腕が突っ込んできたのでのどから悲鳴が飛びだした。

 のっぺりとした緑色がかったするどつめを持つ骨張った指が、こうかくちゆうの肢がもがくようにうごめいてバリケード越しにものを捕まえようとする。周囲の男たちや背後の人々からも恐慌の悲鳴があがる。「うわあっ」すぐとなりでバリケードを押さえていた若い男がその腕にえりくびつかまれた。バリケードにへばりつくように引き寄せられさくらんしてあばれる男の身体からだをヨシウはこんしんの力でこっち側から引っ張り返す。ヨシウを含めて神官三人がかりでなんとか対抗して男を引っ張り返したとき、

 ごきっ。

 寒気を引き起こす奇怪な音とともに、化け物の腕がひじから折れてぶつ切れた。周囲の人々が悲鳴をあげ、床に落ちた腕を避けて付近を退く。

 肘からもげた不気味な腕が、それでもまだ獲物を探すようにぎしぎしと蠢いて五指の爪だけで床をう。遠巻きになってあおい顔でそれをぎようする人々。泣きだす子供のかんだかい声。バリケードが再びきしみはじめ、全員が必死でかべとなってバリケードを押さえる。

「助けてくれっ……」

 と、バリケードの向こう側から思いがけず人間の声が聞こえた。長椅子の隙間に顔を押しつけてのぞきみると、逃げ遅れたのか礼拝者とおぼしき男がバリケードの外側から取りすがっている。片腕を失った化け物が男に気づき、ゆらりと目標を変える。

「助けてくれ、入れてくれ、はやくっ」

 焦った要求にバリケードの一部がゆるんだが、

「やめて!」

 後ろで見守る人々の中から制止する声があがった。

「やめて、あけたらあいつまで入ってくるわ!」

 ヨシウは耳を疑った。逃げ遅れた一般人が外にいるというのにその女はバリケードをあけるなと言っている。さらに信じられないことにさんどうの声がいくつもあがる。「そ、そうだ、だ!」「仕方がないんだ。運がなかったんだ」「しかし……」はんろんしたそうな者も何人かいたが多勢に押されて口をつぐむ。

「何してるんだ、はやくあけてくれっ、助けてくれっ……」

 きしみを立てるバリケードの外ではいまだ助けをう男の声が聞こえていたが、中の人々は暗い顔を見あわせるだけ。バリケードをゆるめようとする者は結局一人もいなかった。外で男の悲鳴があがり、中の全員が身をすくめる。助けてくれ、助けてくれと請い続ける男の声が次第にか細く弱々しくなっていく。

 ほかの者と一緒にバリケードを押さえながらヨシウは頭の中でぐるぐると考えていた。どうしよう、助けなければいけない。しかしバリケードをゆるめた途端とたん化け物が入ってくるのも間違いない。どうしよう、どうしよう──。こんなとき神は救いの手を差しのべてくださらないのか、これすらも試練なのか。

「そのへん、どきなさい!」

 突然。外からするどい声が聞こえた。そのへんと言われても大ざっぱすぎてどくどころかだれも動くことができずにぽかんとする中、

 ぎゅぼっ!

 にごった空気を一気に解放したような破裂音がバリケード越しにとどろいた。バリケードの一部が外側からがらがらと崩れ、近くにいた者が悲鳴をあげてその場を退いた直後、あの緑色の化け物がこわれたながと一緒に倒れかかってきた。あちこちで悲鳴があがり人々がかべぎわまで後ずさる。

 よううかがうような一拍の静寂。しかし化け物は長椅子にうつぶせにもたれかかったきり動く様子がない。

 人々のあいだに恐怖よりもげんな空気が漂いはじめたとき、

 ばんっ! と化け物の背中を踏み台にして、バリケードの向こう側から跳び込んでくるひとかげがあった。どよめきとともに人々がその人影を振り仰ぐ。短くした金髪がふわりとあおられて光の粒を周囲に振りまき、金のつばさを帯びたように宙をうその姿はまるで──

 まるで。

「天使さま──」

 いきとともにだれかがつぶやくのが聞こえた。

 まさしく天使のごとく、彼女はひらりとれいに宙を舞い危なげなく床に着地した。しかし次のしゆんかん、人々の崇敬の溜め息はのどよめきに入れ替わる。化け物にいつかれたのであろう血まみれの男を肩に担ぎ、もう一方の肩に大口径の黒い銃を提げた彼女の姿に、

「化け物……」

 先ほどの異常な再生能力を見せつけられた人々のあいだでささやきあう声が漏れる。

 そんな中、彼女はにんの男をわりあいらんぼうな扱いで床に降ろし、周囲のおびえた空気など気にしたふうもなくきっぱりした調ちようで「だれか、医者とかいないの? はやく手当てしないと死ぬわよ」と人々の顔を見まわした。応急処置のしきを持つ神官たちが及び腰ながらにんに駆け寄っていく。

「一匹だけ? まだいたわよね?」

 すでに動くようのない化け物を手振りで示してさらに問う彼女。しかし人々の中から彼女の問いに答える声はなく、とっさにヨシウが声をあげた。「ほかの通路に逃げた人たちがっ。たぶんそっちを追っていったんだと……」透きとおった氷のような彼女のあおひとみがこちらに向けられヨシウはどきんとして口をつぐんだ。

 と、彼女はふわりと、相変わらず見る者のしんぞうく最上級の微笑ほほえみを見せ、

「そう。ありがと」

 いませんで遠巻きに見守っている人々をいちべつしただけで、身をひるがえして跳び込んできたときと同様に化け物の死体を踏み台にしてバリケードの外へと抜けていく。怪我人の手当てにあたる神官たちを除いて無反応に見送るだけの人々の中、

「……あっ」

 同じく彼女を見送っていただけのヨシウははっと我に返り、周囲の人々をき分けて彼女があけた穴に跳び込んだ。化け物の死体に触れるのにちゆうちよしたものの見ないようにして死体にいあがり(ぶよぶよと沈む感触と何やら生臭い異臭、それに混じった焦げ臭さに吐き気がして泣きそうになった)バリケードを越える。用具室の外の通路に飛び降りたところで、

「まっ、待ってください!」

 炭化銃を肩に提げて通路を駆けていく彼女の背中に声をかけると、彼女が足をとめて振り返った。

「何? 危ないから戻って、バリケードの補強でもしてなさい」

「いえ、あ、あの」

 彼女ときよをおいて立ちどまり、ヨシウはとっさにもごもごと言いよどんだ。立ちどまった彼女はいぶかしげに一つ二つまばたきをして、「ああ」とまだ何も言っていないのだが納得したような反応をした。

「そうか、私を捕まえないといけないのよね、あんた」

「いえ、そうじゃなくて……」

 慌てて首を振り否定する。……助けになんか行かなくてもいいじゃないですか。あんな恩知らずな連中放っておけばいい。そんなようなことを言おうとしてとっさに飛びだしてきた。しかしいざとなってみると、自分だって彼女に助けてもらった手前それはあまりに身勝手な言い分であり口にするのをためらう。自分の気の弱さと心の狭さにいやがした。おかしいな、おれは本当に神官けんをパスしたんだったか。そんなことまで疑ってくる。

「僕が、僕が捕まえないといけないのは、戦争のさつりく兵器で〈戦争のあく〉で〈トゥールースのじよ〉です。……あなたじゃあない」

 考え考え、口にした台詞せりふに彼女がそうな顔をする。考えて言ったわりに自分でも何が言いたかったのかよくわからなかった。言いたいことをうまく言葉に変換できない自分がもどかしくて唇をむ。

「あなたを最初に見つけたとき、町の子供たちが天使さまだって言ってはしゃいでて、僕は正直、鹿鹿しいって思って……。でも、」

 息を吸って、一拍おいてから。

「でも、あの日、おれのところに降ってきてくれたのは、本当に天使でした……」

 言ってから、もしかして今ものすごいくさいことを口走ったのではないかと猛烈に恥ずかしくなった。ぽかんとした彼女の顔をまともに見ていられずあわあわと下を向く。な、何言ってるんだ俺これじゃまるで告白みたいだ……!

 とはいえ下を向いてだまっているのもすぐにいたたまれなくなり、少ししてからちらりと上目遣いにうかがうと、

「……ありがと!」

 彼女は笑って、あの最上級のとびきりれい笑顔えがおを自分だけに向けて笑って、そしていまだ化け物がはいかいする混乱の中へと走り去っていった。


   


「弾切れかー……」

 弾帯を使い尽くした炭化銃をごとりと重く床に落とす。聖堂の奥、柱が並ぶ通路。硝煙が沈殿する足もとにはしんぞういたできそこないどもの死体が数体転がっていて気分のいいものではない。武器は使い尽くしたが、聖堂内に入り込んだやつらはこれで全部倒しただろう。奥の総本山施設内へ行った奴らがいるかもしれないが、われさきにとっとと逃げだした長老や高位神官どもがおそわれるぶんには別に慈悲の心もわきはしない。

 ふうと深く息を吐き、柱を背もたれがわりに座り込んでひとまずきゆうけい

「あーあ……」

 あちこち破れてしまった服に舌打ちをした。シグリ邸に軟禁されて(居座って)いるあいだにいろいろ買ってもらった中で一番気に入っていたシンプルな黒のドレスだったのだが。服と同様に小さな傷やら大きな傷やらで身体からだのほうもだいぶぼろぼろだったが、服と違って身体のほうは取り返しがつくので気にしない(普通の感覚では逆なのかもしれない)。

 足もとに転がる死体たちに何気なくせんを流す。

「あんたたちもせいしやなのよね。供養してやりたいとこだけど、そこまでは私の仕事じゃないのよね。ここ、坊さんいっぱいいるんだしさ」

 エイフラムはキーリと会えただろうか。世話が焼けるんだからといきと苦笑が漏れる。天使だってここまで他人の世話を焼いたりしないのではないか。

(天使ねえ……)

 あの神官に言われた台詞せりふを思いだしちょっとばかりくすぐったい気分になる。トゥールースではじよ呼ばわりされていたかと思えば今度は天使さまだって。正直、天使よりも魔女のほうが気楽でいい。

(だって天使って、世の中のためにイイコトしないといけないじゃない)

 まあ今日に関しては上出来の天使かな、なんて思ったり。

 柱と柱のあいだに一枚の大きな絵画が掛けられていた。聖人を取り巻いて天上へと昇っていく天使たちの絵柄が、通路の底辺に漂う硝煙にかすんでいる。


 ──ありがとう、すてき! すてき!


 明るい声が絵の中から聞こえた。小ぎれいな白い家の庭、真新しい白いワンピースを着た金髪の少女が楽しそうに笑いながらくるくるくるくる踊りまわっている。幼い弟が姉を追いかけて走りまわり、すてんと前のめりに転ぶ。もう、あんたは男の子でしょ。ひざいて泣きべそをかきはじめる弟を抱き起こしてしつする少女。

 あんたはあんたで頑張るのよ──両親のそうで弟に言った台詞を、あのときエイフラムに言ってしまったのだろう。いつまでたっても世話が焼けて、本当はおくびようゆうじゆうだんで、意地っ張りなのにそのくせすぐ泣きそうな顔して、あいつもきっと自分にとって弟とおんなじようなものだったのだ。

 みんなで帰ろう。

 エイフラムの最後の台詞が頭に浮かぶ。そうだ、まだきゆうけいしてはいられない。みんなで一緒に帰るために。

「さて、行かないとね。もう少しめんどうみてあげなくちゃ」

 立ちあがろうとしたが、まだ疲れが残っている足が軽くよろめいた。「に働け」柱に手をつきふらつく足を叱咤する。

 と、視界の端、一つ向こうの柱のそばで、倒れていた化け物の死体がずるりと動くのが見えた。しんぞうち抜いたはずなのにまだ動くのかと信じられずに目を見張る。死体がうつぶせのままずるずると床をい、柱の向こうに消える。

 死体と一緒にケーブルの切れ端とおぼしき奇妙な物体が引きずられて柱の陰に消えた。そして聞こえはじめる、骨と肉をみ砕くしやくの音。

「……?」

 いぶかしげにその方向をぎようしたとき、

 ずんっ──

 しんぞうを真上から押しつけられるような不可解な圧力を感じた。立ちあがろうとした腰が崩れてしりもちをつく。

 柱の向こうにいびつな巨体のかげが見えた。おしゃかになったかいのように、太いケーブルや細いケーブル、大小の配管を身体からだの各所から引きずりながら、のそり、とそいつが柱の陰から姿を現す。

 床に座り込んだままベアトリクスはりつぜんとして目を見開いた。自分の視力を疑う思いで、つぶやいた声がふるえた。

「あんたは──……」


   


 自分の右手を引いている父親の左手の感触にキーリはひどく戸惑っていた。ハーヴェイの手ともベアトリクスの手とも祖母の手とも違う、触れたことのないこの感触をどんな言葉で表現すればいいのか頭の中で処理することができない。思考回路がぐちゃぐちゃだった。わからない。わからない。わからない……。

「は、放してくださいっ……」

 弱々しい声でようやく拒絶の意を表すと、

「あ、ああ。すまん」

 と父親はしやざいしてつないでいた手を放した。二人ともだいぶ息があがっていて、走るのをやめしばらくちんもくして足早に歩くのみ。あの狂信的な混乱の中でだれかのこぶしでも食らったのか、父親は眼鏡めがねくして口の端にあざを作っている。……キーリを助けにきたせいで。

 大聖堂の混乱を逃れ、二人は総本山施設内の塔と建物を繫ぐ柱廊を歩いていた。建ち並ぶ太い柱のすきから戸外の光が細くし込み、前後に長く延びる空間はほのぐらせいひつな空気に包まれている。少し前まで背後に遠く聞こえていた大聖堂のさわぎもいつの間にか聞こえなくなり、二人分の足音とまだ収まらない不規則な息づかいがひとのない柱廊にひびく。

はないか……?」

 えんりよがちにかけられた問いにキーリは強く首を振った。あんしたように父親が痣を作ったほおみを乗せる。自分は殴られて痣をこしらえて右腕のり包帯もいつの間にやらどこかに行ってしまって痛む腕を不自然に下げているというのに。それだけで会話がれてまたしばらく気まずい沈黙。

 キーリがふいに立ちどまったので、どうしたのかというように父親も足をとめた。

「こんな、ことで……」

 うつむいて自分の靴の先に向かって吐き捨てながら、キーリは父親からはなれるようにじりっと後ずさる。「こんなことで、なっ、なんで……私がかいじゆうされると、思わないでくださいっ」ひどいことを口走っていると自覚していたが頭の中がぐちゃぐちゃで何を言えばいいのかわからない。今すぐだれかに助けにきて欲しかった。いやだ、この人と二人きりにされたくない。ハーヴェイ、兵長、ベアトリクスっ……。つらそうに口を引き結ぶ父親の顔がさらに空気をいたたまれなくする。

「私……私、ベアトリクスのところに戻らないと」

「待っ……」

 引きとめようとする父親の手を振り切ってもと来た方向へ身をひるがえした。

 今度こそもう限界だ、これ以上一緒にいたら自分が何をやらかすかわからない。またハーヴェイが悲しい顔をするようなことを口走るに決まってる。ここに来てからどんどん自分が嫌いになる。

 いつもあんたの幸せをさいゆうせんに考えてる──。

 ベアトリクスはそう言ってくれたのに、キーリなんかのことをそう言ってくれたのに、そう思ってくれる人たちに顔向けができなくなる。


 ぐぅ……。


 けものうなり声に似た低い音がどこかで聞こえた。

 ぞくりとして足をとめる。柱廊の柱の陰に大柄なひとかげが見えた。動物のような前かがみの立ち姿勢でゆらゆらと身体からだを揺らしながら、こちらの姿をかくにんするように、ぐぅ?と首をかしげてまた唸り声を漏らす。できそこない──。

 走りだしかけた足が硬直して動けなくなるキーリの前に父親が立った。それでもキーリをかばって前に出した腕は小刻みにふるえている。できそこないが柱の陰から一歩踏みだし、父親の腕に押されるようにキーリは硬直した足でぎこちなく後ずさる。

 一歩踏みだしたところで、できそこないがふいに前のめりに身体を折って床に崩れた。突然のことにキーリはいぶかしげに目を見張り、「……!」直後、思わずせんらして食道を迫りあがってくるおうかんを飲み込んだ。

 床に倒れたできそこないの身体が、半分がたわれたようにくなっている。

いなあ、コレ……」

 柱の陰から別の声が聞こえた。血みどろの石のしんぞうを右手に持って、周囲にぶらさがった生体ケーブルの切れ端にこびりついた血と肉片を口の端でじゅるじゅるとすすりながら姿を現したのは──

「ヨア……ヒム……?」

 りつぜんとしてキーリはその名を口にした。

「あーあ」

 場にそぐわない妙に軽い調ちようで、黒い長衣の長身そうのその男が肩をすくめていき混じりにぼやく。「取り返しがつかないなんて言ったくせに、そんなのうそじゃん、おっさん。じゃあその背中に隠してるモノはなんだよ?」父親の肩越しにせんを向けられてキーリはびくりと身をすくめた。キーリを守るように父親の足が半歩前に出る。

「あんたには取り戻したものがあったじゃねえか……噓つきだなあ」

 あの化け物たちそっくりのゆらりとした歩き方で、柱の陰からヨアヒムが歩みでてきた。ぎようと化したその姿を目にしてキーリは息を飲む。柱に隠れていた左半身は半ば緑色に腐った肉塊と化し、身体からだの横にだらりと下げた左手の指先から腐肉の塊がぼとっと落ちる。右手に持った石のしんぞうをまるで果実の汁をすするようにかじりながら、

 ひは、と奇怪な笑い声を立てた。

「なあ、どっちを殺してどっちを絶望させたほうがおもしろいかな」

 と、こっちに向かって問いかけて首をかしげるぐさをする。

「走るんだ」

 父親がささやいてキーリを後ろに押しやった。押されるまま身をひるがえすのもそこそこに走りだしたキーリだが硬直していた足がもつれた。転びかけたところを父親に支えられ、手を引かれて一緒に走りだす。

 ほのやみが降りる柱廊の突きあたりに鉄の扉が見えていた。背後からゆっくりした歩調で追ってくる気配けはい。背後を気にしながら柱廊を走り抜け、父親が扉に取りすがる。普段ふだん使われていない出入り口なのか扉はひどくびついていてきしむばかり。見かねてキーリも横から手伝い身体を押しつけてこんしんの力で錆びついた扉を押しあける。がこっ、と扉が軋んだかと思うと予想外に勢いよく向こう側に開き、勢いあまって二人は半ば転がるように扉の内側に跳び込むことになった。

 外の柱廊よりも闇が深く、さびほこりえたようなにおいがく漂っている。円筒形の塔状の建物の内部だった。頭上を振り仰ぐと、細かいひび割れがかべに沿って造りつけられたせん階段が闇の先へと消え入っている。

 ぼう────……

 上から下へと空気が吹き抜けるような低音が壁に乱反射してひびく。

 扉をあけるのに手間取っているうちに背後から追ってくる気配が迫ってきている。すでに息があがっていたが、父親に手を引かれ大人おとな一人が通れるほどの幅の狭い螺旋階段を駆けあがる。コンクリートの階段を駆ける二人分の小走りの足音。かつん、かつん……と、後ろから別の足音がゆったりと追いかけてくる。歩調はゆっくりなのにどんどんきよちぢまっているようなさつかくに気が焦る。

 どれくらい登ったか、すでにだいぶ重たくなっていた足がもつれて段差を踏みはずし、前のめりに転んですねをしたたか打ちつけた。キーリの手を引いて先を走っていた父親が巻き込まれてたたらを踏みながらも体勢を立てなおし、キーリに手を貸して起こそうとする。しかしそのすきに、背後から来る足音がすぐ近くまで迫っていた。

 前後数メートル程度しか視界がきかないうすぐらせん階段。下方のやみから長身の男が姿を見せた。

 男がいだ腕に父親が吹っ飛ばされ、階段のかべに背を打ちつけて倒れ込んだ。悲鳴を漏らしてキーリはとっさに駆け寄ろうとしたが、後ろから首を抱え込まれて父親からがされた。だつきゆうした肩を打ったのか、肩を押さえて倒れ込んだまま父親はうめき声を漏らすだけで起きあがらない。

「放してっ」

 あばれるキーリの首にまわされた手がぐいとキーリのあごを押さえる。手のひらのがぐちゃりと溶けて顎に食い込む感触にせんりつが走った。螺旋階段の手すりに背中を押しつけられ、半ばあおけに反ったキーリの頭の真下には底の見えない円筒形の闇が沈んでいる。

「やめ、ろ……」

 父親の呻く声が聞こえた。キーリを手すりに押しつけたままヨアヒムが背後に軽くせんを投げて舌打ちし、「なんだよ。あんたにはそんなふうに、必死になって守るものがあるじゃねえか。手に入れたものがあるじゃねえか。むかつく。裏切り者……」吐き捨てながら、キーリの首に手をかけて絞めあげた。「う……」キーリは必死でヨアヒムの手のあいだに自分の手を突っ込んで気道をかくしようとする。酸素が薄れ視界がちかちかとまたたく。

 苦しみもがくキーリの顔に自分の顔を近づけてヨアヒムが舌なめずりをした。死体が漂わせる腐臭が鼻をつく。

「ニンゲン、は、ったらウマイか……? さっきのニク、マズかった……」

「……ヨ、ア……?」

 わずかに力がゆるみ、呼吸を取り戻したキーリはき込みながら切れ切れの声で相手の名を呼ぶ。言動がおかしい気がした。夜空と同じれいなブルーグレイをしていたひとみは白っぽくよどんで焦点が定まっていない。「ヨアヒム……ヨアヒム!」まだ咳き込みながら名前を呼ぶと、青灰色の瞳が至近きよでぎょろりと回転するように動き、ようやく焦点をあわせてこっちを見つめてきた。

「キー、リ……助けてくれ……」

 ほおゆがめて悲しそうな苦しそうな奇妙な笑い方で、しゃっくりを引きずるみたいなおかしなしやべり方で。

「おかしいな、さっきからずっと身体からだじゆう痛くて、でも痛覚切れなくて……やり方思いだせなくて……考えられない、何も考えられない。なあ、おれ今どっかおかしいかな?」

「ヨアヒムっ……」

「なあ、ひとつ頼まれろよ、キーリ」

 キーリの首を絞めて手すりに押しつけながら、ヨアヒムは半ば腐肉と化したもう一方の手でキーリの手をつかんで自分の胸に押しあてた。ぎょろりとまた回転するように目をいて、そして悲しそうな顔でこちらを見つめ、

しんぞうえぐってくれ」

 と、そうあいがんしてきた。キーリはぎょっとして目を見張る。「えぐってくれよ……タスケテ、楽にしてクレ……」「やだ、やだ、できないっ、放してっ……」もがきながらキーリはけんめいに首を横に振って拒絶を示した。ヨアヒムの胸の中に自分の手が取り込まれるようにぐにゃりと沈み込み、かすれた悲鳴をあげて手を引き抜こうとする。


 裏切り者……。


 首を絞められもうろうとしはじめるしきの中、のろう言葉がちようかくではなく頭のしんのほうに聞こえてきた。

 首都に来てからヨアヒムと交わした会話が泡のように頭に浮かんでは消える。


 殺すよ? お前の父親。

 何泣いてんの?

 おれとお前は同類だよ。

 だから俺が手伝ってやる。お前の敵を殺してきてやる。

 お前なんか仲間じゃなかった。


 裏切った──自分は裏切ったのだろうか? 父親を殺してもかまわないと言っておいて、敵だと言っておいて、いざとなったらちゆうちよして結局とめようとした。父親の言葉に触れ体温に触れて混乱しかいじゆうされまいと必死で拒絶している自分がいた。今、父親が殴られて倒れたときとっさに駆け寄ろうとした。受け入れることは裏切り? わからない、どうしたらいいのかわからない。ダレカタスケテ──。

「ヨアヒム!」

 朦朧として膜がかかった聴覚に飛び込んできた声に、悪夢の中から引っ張りだされたように突然意識がはっきりした。

 ヨアヒムが動きをとめた。手すりに背中を押しつけられ首を反らした格好でキーリはせんを巡らせる。せん階段の下方に沈むやみから長身そうひとかげが駆けあがってくる。闇に溶け込むしつこくの神官服姿にいつしゆん別人かと思ったが、闇の中でわずかに明るく見える赤い髪と決して大声ではないのにキーリの耳にはよく届く声の主は間違いない。間違いない──。いまこうそくされながらも心の中に言いようのないあんの感情が広がっていく。

 現れたひとかげは息を切らせながら階段の少し下で足をとめた。

「よう、いいタイミングでヒーロー登場だなあ」

 からかい調ちようで言いながら、ヨアヒムがキーリのあごつかんでけんせいする。みして踏みだそうとした足をとめ、ハーヴェイが叫ぶ。

「何やってるんだお前は、ヨアヒムっ……」

「何? 見りゃわかるだろ、お前のキーリ姫と無理心中しようとしてるとこさ」

 さらにヨアヒムが力を入れてキーリを手すりに押しつけ、キーリの上半身があおけに手すりからずりさがる。キーリの視界の下方には黒いノイズに侵されたようなくらやみがどこまでも落ち込んでいる。ヨアヒムとハーヴェイ、階段の上と下で両者がにらみあう。

 睨みあいのすきに、ヨアヒムの肩越しに動く気配けはいがあった。

「娘を放せっ」

 倒れていたシグリがヨアヒムの背後からタックルをかけるように組みついた。ヨアヒムは若干おどろいた顔をしつつ「うぜえよっ」ひじちでシグリを突き放し、だつきゆうした右肩に容赦のない手刀を入れて殴り倒す。シグリが再びかべぎわに沈む。しかしその隙に解放されてしりもちをついたキーリはほとんど階段を転げ落ちながらヨアヒムからきよを取っている。

 その目の前に、キーリを守るようにハーヴェイの神官服の足が立った。

「ちっ」

 ほおの腐肉をぬぐってヨアヒムが舌打ちし、ふらついた足取りで闇の壁がそびえ立つせん階段の上方へと身をひるがえす。いつしゆん追おうとして二、三段階段を駆けのぼったハーヴェイだがすぐに足をとめた。逃げる足音が頭上の闇にまれていく。絞められた首を押さえてあえぎながら、キーリは遠ざかっていく足音とすでに見えない長衣の後ろ姿を見送る。

 階段の途中にシグリが倒れている。ハーヴェイが軽くかがんでそのようだいかくにんし、それからキーリが座り込んでいる段まで戻ってきた。

 キーリはまだ少しき込みながら、ハーヴェイはまだ若干息を切らせながら、二人の目があって。

 しゃがみ込んだ長身にふわりと抱きしめられた。

 ふるえる唇を嚙みしめてキーリは必死で涙をこらえたが、飽和した涙がひとつしずくとなってこぼれるとあとはもうとめどなくあふれてくる。「うっ……うぅー、ハーヴェ……」力の入らない両腕で精いっぱいきつくその背中にしがみつき、胸に顔を埋めて喘ぐ。「ハーヴェイ、ハーヴェイ、ハーヴェイ」涙声で何度も名前を呼んだ。何度も何度も。キーリが呼ぶたびに「うん」と耳もとでうなずくハーヴェイの声。耳に心地ここちよくみるいつもの声と煙草たばこにおい。

「ごめんな、遅くなって」

 目の前の胸に顔を埋めたままぶんぶん首を振った。迎えにきた。ちゃんと迎えにきた。絶対来るって言ったから、キーリのにちゃんと来てくれた。それだけで十分だった。

「ベアトリクスは……?」

「会えた。もう大丈夫だ。もうすぐみんなで帰れる」

 静かな心強い声が心の底までみ込んで涙がとまらない。首を振ったかと思ったら今度はキーリは何度も何度もこくこくうなずく。もうすぐ帰れる。みんなで帰れる。その言葉をこの数日間どんなに待っていたか。たった数日間が数ヵ月にも長く感じていた。

 がこんっ……。

 遠く頭上で扉がきしむ音が聞こえた。ぼう──……とかべに浸みるようにひびいていた屋内のこもった風に屋外の冷気が流れ込んでくる。一度頭上を振り仰いでから、ハーヴェイがキーリの身体からだを少しはなした。

「ちょっと待ってられるか。あの鹿と話がしたいんだ。すぐに戻るから」

 不安な顔をしながらも、引きとめる言葉を飲み込んでキーリは小さく頷いた。きっとそれもまた、みんなで帰るために必要なハーヴェイにとっての決着なんだ……それなら、キーリが引きとめることはできないから。

 みんなで帰る、そのために。

 安心させるようにハーヴェイが頷き返す。首に下げていたラジオをキーリに預けて立ちあがり、階段の上へと身をひるがえした。ラジオを腕に抱きしめてキーリはやみの向こうへと沈んでいく神官服の後ろ姿を振り仰ぐ。それでも心の底からはぬぐえない不安に、ラジオが子守歌のような静かなノイズを歌いだす。

「兵長……」

 スピーカーにひたいをつけるとノイズにまぎれてラジオの声がかすかに聞こえる。

 一段だけ階段をって倒れているシグリときよを詰め、よううかがってみた。気を失っているのだろうか、シグリは動かない。けれど距離を若干詰めただけでキーリはそれ以上近づくことができず、声をかけてみることもできずに気まずい思いでただ父親から少し離れたところにうずくまってラジオを抱きしめていた。

 みんなで帰るために片づけないといけない決着は、キーリの中にもまだわだかまって残っていた。キーリ自身が、ほかでもないキーリが自分でつけないといけない決着が。



 せん階段をてっぺんまで。一気に登りきったところで息を吐き、そのまま二度三度だけ深く呼吸をり返して息をととのえた。

 半ばほどあけられた鉄の扉のすきから戸外の冷気が吹き込んでくる。扉を抜けて戸外に身をさらした途端とたん山脈の強い風が吹きつけ、危うくあおられそうになって戸口につかまった。となりの塔へと続く吹きさらしの長い回廊が延びている。片側は山脈のがんぺき、片側には垂直に切り立った内壁がはるか下方まで落ち込んでいる。遠く眼下に灰色のスモッグがかかった首都〈かい都市〉の市街と、市街を突っ切る鉄道の陸橋が見おろせる。

 回廊の中ほど、となりの塔に向かって走っていたヨアヒムが、かたひざから崩れるように転倒したのが見えた。吹きつける風の中、まだ息があがったきりだったが一気にダッシュできよを詰めて追いついた。身を起こしざまヨアヒムが振り返ってフォールディング・ナイフを突きだしてくる。左手の甲に軽く刃を受けつつも受け流して相手の腕をつかむ。ナイフを奪おうとして二人もんどり打って回廊を転がり、あおけになったヨアヒムに馬乗りになる格好でとまった。

 ヨアヒムのナイフの先はこっちののどの急所をねらって寸どめ、自分のほうはヨアヒムの身体からだの中心、しんぞうの真上を摑んだ格好。次のいつしゆんの動作でお互い少なくとも一時的にでも相手を行動不能にできる体勢でにらみあう。

 腐敗が進行し見るも無惨にが崩れたかたほおゆがめて、ひは、とヨアヒムが奇妙な笑い声を立てた。

おれを笑いに来たのか? 無様だって笑いに来たんだろ」

「笑わねえよ」

「じゃあお前が殺してくれるのかよ?」

「ああ。喜んで殺してやる」

 相手の心臓部を摑んだ手に力を込めた。腐敗した皮膚に指が沈み込む感触。しかしその状態で動きをとめる。

「どうしたよ。やれよ。でないとお前の首が先に跳ぶぜ?」

 つ、とひと筋、ナイフの刃先が触れた首筋から血が流れたが、それでも相手に対してはそれ以上は力を入れない。口の端をひん曲げてヨアヒムが笑う。「なんだよその顔。今さら同情かよ? もとはといえば何もかもお前のせいじゃねえかよ。むかつく。ほんとに心の底から力いっぱいむかつくぜ、お前っ」最後のひと言を気合いがわりに馬乗りの上下をひっくり返してきた。組みあった格好で数回転し、回廊の手すりにヨアヒムの背中がぶつかる。

 もろくなっていたのかがこっと音を立てて石製の手すりの一部が崩れた。崩れた手すりとふんじんとともに、背中から倒れ込むようにしてヨアヒムの身体が転がり落ちる。

 間一髪、回廊の端からとっさに半身を乗りだしてヨアヒムの手首を摑んでいた。大人おとな一人分の体重の負荷に肩がきしむ。同時に粘性の物体をぶちぶちと引きちぎるようないやな音が耳をこする。腐敗に侵されたヨアヒムの左腕がひじの関節から引きちぎれ、残ったけんだか神経せんだかだけでかろうじてぶらさがる格好になった。

 回廊の下方にはよどんだ水路の水がところどころから浸みだす切り立った内壁が落ち込んでいる。遥か眼下にごつごつした岩肌の斜面が見える。この高さを頭から落ちてのうずいが飛散でもしたら、にんとはいえさすがに再生可能なのか不明だし試したこともない。

 数十メートルの高さを腕一本でぶらさがった状態で、まるでごとみたいにヨアヒムが引きつったうすわらいを作った。

「わっかんねえなあ、お前。ぜんぜん意味わかんねえよ。殺す殺す言っといてなんで助けるんだよ?」

「意味わかんねえのはお前だっ」

 こんしんの力でヨアヒムの体重を支えながらり返した。

「お前は何がしたかったんだよ、何が欲しかったんだよっ。おれのまわりうろちょろしてじやばっかりしやがって、それで今度は殺してくれってのはなんなんだよ、結局どうして欲しかったんだよ、俺にっ」

 考えないまま口から出ていた。こいつにこんな説教をするつもりなんて別になかった。なんで自分はこんなやつのために必死になっているのか。

 この道をたどってきてよかったと、後悔はないとかくしんすることができた自分。それに対してこいつは何かに満たされたことがあるのか? よかったと思えたことが今までにあったのだろうか。つまんないことにいちいち反発して何もかも気に入らない顔して、結局こいつ自身は何を望んでいたのか──。同情とか救ってやりたいとか、そんなことを考えているわけじゃなくて、ただ理解できないいらちを半ばぶつけるように叫んでいた。道がこうさくしたりへいこうせんをたどったりしながらも、それでも常にヨアヒムとは同じきよを歩いてきたように思う。少しでもたどった道が違っていたら自分もこいつと同じになっていたかもしれない。こいつは別の道をたどったもう一人の自分だ。何も見つけられなかった自分だ。

 ヨアヒムの顔から人を鹿にした薄笑いが消えた。見飽きるほどにれた青灰色のひとみでまっすぐこっちを見あげる。一度視線が交錯する。

 それから、いき混じりにそいつは言った。

「どこまで行ってもあきれた馬鹿おひとしだな。だから大っ嫌いなんだ、お前なんか。何がしたかったかって? 何が欲しかったかって? ……お前なんかに教えてやらねえよ。バーカ」

 相変わらずの憎まれ口をたたいて、そして。

 右手に持ったフォールディング・ナイフで、かろうじて体重を支えていた自分のひだりひじけんをぶち切った。

「ヨアヒムっ──」

 左腕を残したまま真っ逆さまに落ちていくヨアヒムが、にやりと笑って右手の親指で自分のしんぞうのあたりを指差す。そして胸の中心にフォールディング・ナイフを突き刺して横に切り裂き、生体ケーブルを引きちぎってみずからの心臓をつかみだした。

 まるであてつけみたいに、右手に持ったその石の心臓をこっちに向かって突きつけながら次第に姿は小さくなり──。

 はるか下方でげきとつおんが聞こえた。


   


 空が見えた。

 とんがり帽子のせんとうの屋根のずっとずっと向こう側、夕暮れのしやくどういろに染まりはじめた空が高く高く突き抜けている。うすぐもにごった惑星の空。高いようで低い、それでも決して手の届かない空。

(あー……まだ生きてるのか、おれ

 岩肌の地面に投げだした右手にまだ自分のしんぞうを持っていた。

 お前は何が欲しかったんだ──。

 欲しかったものなんて本当はどこにもなかった。結局自分でもわかっていない実体のないものをつかもうとしていただけなんだから、どこまで行ってもどこまで昇っても摑めないのは当たり前だった。

 ああ、でも今、少しわかった。……俺はあいつみたいになりたかったんだ。めちゃくちゃ鹿ひとしでゆうじゆうだんでどうしようもなくて、でもだからこそたぶんあいつは、俺が望んでも手に入れることができなかった何かをいつの間にかたくさん手に入れていた。

(あーそうだよ。うらやましかったんだ、ずっと……)



 スタートラインは同じだったはずなのに、何がおれとあいつの道を分けたんだろう。俺はどこで踏みはずしたんだろう。

 もし道を踏みはずさなかったとしたら、俺は──。

 欲しかったものの形がせっかく少し見えたのに……これで終わりだなんて、ちょっと残念だなと思う。長いだけでつまんない人生だったなあ。ま、いいか。こんな身もふたもないくそつまらねえ最期っていうのも俺らしい。

 右手を掲げて空をつかもうとした。

 当たり前だが指の先すら空には届かず、

 ころり。右手に持っていた自分のしんぞうが、手の中から滑り落ちて岩肌を転がっていった。

 しやくどういろに染められた視界が次第に白くなっていく。そこには何もなくて、光も音もにおいもなくて、孤独も絶望も苦しみも悲しみも喜びすらなくて。

 世界の終わりには本当に何もなくて。

 そこは本当に本当にまっさらな虚無だった。