誰が死んだのだろう。誰かの葬儀が行われていた。そこは白い石を切って作られた四角い墓標が整然と並ぶ広場で、暗色の帽子を被り喪服を着た人々が集まっている。俯き加減に立つ人々の一番前で黒い長衣の神官が墓標に弔いの言葉を捧げている。低い祈りの声が静寂の広場の空気に染み渡る。
人々の列の端、手を繫いで立っている喪服の少女と少年がいた。
かわいそうに……。
姉弟二人で残されたんですって?
囁きあう人々の声に、少女は隣で鼻をすすってしゃくりあげている少年の手を強く握り、唇を嚙んで地面に視線を落とす。
子供二人でこれからどうするんだ?
お嬢さんは綺麗な子だから、どこかのお屋敷に入るとか……?
しめやかに続く葬儀の最中にひそひそと交わされる大人たちの無責任な会話。少女はむかむかした顔で、ゆるやかに肩から流れる彼女の自慢の金の髪を睨みつける。少女は十代の半ばに届く頃、少年は二桁になるかならないかという年齢で、二人ともよく似たブロンドが黒い喪服に映えていた。
弟の手をきつく握りしめ、少女は世界中のすべてに対抗するかのように、顔をあげて薄いアイスブルーの瞳でまっすぐ前を睨み据えた。
弟にだけ聞こえる声で、突き放すように囁く。
「私、兵隊になるから。あんたはあんたで頑張るのよ」
映像が滲むように消えると、そこには静止した絵画が掛かっているだけだった。貧しい農民の服装をした女たちが腰を折って涸れた荒れ地を耕している絵。葬儀中の墓地の風景も、少女も少年も喪服の人々も影も形もなかった。
ベッドの上で寝返りを打って仰向けになる。灯りが消えた装飾灯の輪郭がぼんやりと天井に浮かんでいる。
自分の金髪を何気なく指先に巻いて弄びながら、天井を見あげて彼女は考えた。
誰だろう、今のは……。

シグリ・ロウがミッドタウンの自宅に美女の愛人を囲っている、という噂がぼちぼち立ちはじめているらしい。実際本当の話ではあるが、人々が考えているようなゴシップネタとはおそらく若干の差異がある。その美女というのは確かに美女ではあるがいわゆる人質であってロウとのあいだに男女の関係はなく(そもそもロウは公式には未婚なので愛人がいても問題ないはずだ)、そしてその女性は、めちゃくちゃわがままで高飛車なのである。
好きにさせておけと指示したきりロウは多忙で彼女については無関心であり、邸宅は本当にすっかり彼女の好き放題になっている。たぶん本気を出せば逃げることも可能なのであろう彼女はおかげですっかりシグリ邸に居座っていた。
その日、でかい衣装箱を二つ三つ抱えて神官はシグリ邸を訪れた。
「ご苦労さまです」
と、治安部から一名だけ貸しだしてもらっている見張りの教会兵がしみじみ言う。
「様子はどうです?」
「変わりありません」
「変わりないですか」
「はい」
神官と見張り、二人で頷きあって本当にしみじみ溜め息。
「入りますよ」
ロウから預けられている二階の部屋の鍵を使い、衣装箱を片手に抱えなおしてぞんざいな挨拶とともにドアをあけると、部屋の真ん中にどーんと立てられた姿見の前で服をあわせていた彼女が振り返った。
こっちの顔を見るなり、
「遅いっ」
「す、すみません」なんで謝らないといけないんだろうと思いつつ謝ってしまうのは気の弱い自分の性か。
彼女の部屋(いつの間にやらすっかり彼女の部屋だ)はまるで戦場の焼け跡みたいな惨状と化していた。ベッドの上や床一面に誇張でもなんでもなく足の踏み場もないほどに新しい服やあけっぱなしの衣装箱、ついでにアルコールの瓶までもが散らかり放題。「買ってきてくれた?」裸足で駆け寄ってきた彼女が神官が持っていた箱を有無を言わさず引ったくり、取って返してベッドに跳び乗りうきうきと梱包を破りはじめた。
「そうそう、こんなのこんなの。このワンピにあわせるのってやっぱりこういうシンプルなのがいいのよねー」
箱の中から彼女が取りだしたのは、彼女の注文になるべく沿うよう探しまくって手に入れた黒のエナメルのピンヒール。左右の靴をそれぞれ手に持って目の前に掲げ、彼女はどうも満足いかなげに首をひねったりする。
「うーん、ヒールがあと一.五センチ高かったら文句なかったんだけどなあ。まあいいわ、妥協してあげる。あんたまあまあいい趣味してるわ。いい彼女できるわよ」
「そりゃどうも」
溜め息混じりに応じつつとりあえずOKをもらえたことにほっとし、しかし何故こっちが礼を言っているのだろうと真剣に悩む。彼女はさっそく新しい靴を姿見の前に持っていき、着ていた黒のワンピースとあわせはじめた。くるっとこっちを振り返って髪を搔きあげるポーズなんてきめてみせ、
「どう?」
「えぇっ」
まさか感想を訊かれるとは思いもしなかったのでたじろいでから、
「……はあ、まあ」
「何、その言い方」
不満げに彼女が頰を膨らませるので慌てて言いなおす。
「似合います。とても」
お世辞ではなく、金髪が映えるシックな黒の衣装がそのまま余裕で上流階級のパーティーの主役になりそうなくらいよく似合っている。
普通に(というか相当に)綺麗で普通の(というよりは相当にわがままな)若い女性にしか見えない彼女が、過去の戦争で大量に人を殺した最強の殺戮兵器で〈トゥールースの大火〉の元凶の魔女と言われていて、八十年以上追われ続けている賞金首で……。もっと殺戮兵器らしくしろと言いたいわけではないものの呆れて閉口するしかない。戦争の時代なんかに生まれなければ、彼女の人生はもっと違うものになっていたのだろうか。
「ねえ、ねえ、このスカートなんだけど、もっとスリット入ってたほうがいいと思わない?」
「はいっ? はあ……」
問われた神官は俺が知るもんかと適当な返事をしつつスリットは深いに越したことはないとも思ったり思わなかったり。
「ハサミ貸してくれる?」
「あとで持ってこさせますよ……」やれやれとうなだれて頷いた。疲れる……。「ピアスはねえ、穴あけてもすぐ塞がっちゃって取れなくなるからイヤリングしかできないの。不死人って不便よねー」などとさりげなくグロテスクなことを言いながら彼女は四つん這いになって鏡を覗き込み新しいイヤリングをあわせたりしはじめる。ゆるやかに波打ちながら流れる金の髪に黒い服、それに赤銅色の石のイヤリングがさらに映えて、彼女は着飾っていなくても十分綺麗なのだが着飾っているとまた格別に美しい。
鏡に向かって首を傾けて耳につけたイヤリングを見やりながら、呑気な声で彼女が問う。
「ねー、キーリまだ来ないのう?」
「もういらっしゃってますよ。今、総本山のほうに滞在しておいでです」
投げやりに神官が答えた途端、彼女の動作がぴたりととまった。
「……キーリ、来てるの?」
妙にぎこちなくこっちを振り返って問いなおす。
「今そう申しあげました。近々お会いになれるかと」
答えた瞬間、「わあっ」彼女が履いていた靴が目の前に飛んできて神官は反射的に頭をのけぞらせた。背後の戸口にばしっと靴がぶちあたる。危うくピンヒールが目玉にでも突き刺さるところで心臓がばくばく跳ねる。死ぬかと思った。
「な、なんなんですかっ」
「出てって!」
抗議したいのはこっちなのだが彼女のほうがいきなりヒステリックに喚きだした。
「出てって、誰も入ってこないで、あっち行け!」
「ちょっ、わっ」
靴やら服やら衣装箱やらびゅんびゅんとモノが飛んできて神官はわけがわからなないまま部屋から追いだされ、直後にばたんとドアが閉まった。まだ心臓をばくばくさせながらドアを叩いて声をかける。
「どうしたんですか、いったい」
「黙れ、入ってくるなっ」
ドア越しにこもった喚き声が聞こえる。さっきまでご機嫌そのものでさんざんこき使っておいて今度はあっち行けって……。
(なんなんだよ……)
閉ざされたドアの前で神官は啞然として立ち尽くした。
お……女ってわからない。

かの独裁者は彼らを忌みて
砂と枯れ野の惑星に追いやった
惑星へ往く囚人たち 荒れ地を耕し麦を植え
絵画の中から歌が聞こえた。泣きやまない赤ん坊を母親があやしている。赤ん坊を抱いた母親の姿はまるで宗教画に描かれた聖母のようで、しかし聖母が歌うのは神を讃える聖歌をもじった替え歌。荒野を切り開いた真の功労者である囚人たちを回想する昔話。控える侍女たちが歌詞の内容に眉をひそめるが彼女は気にしたふうもない。
母親の腕の中、白い産着に包まれた赤ん坊はまだ泣きやまない。母親が優しく赤ん坊に語りかける。「何も怖くないわ。もう何もいないでしょう。ほら、怖い人たちのかわりに鳥さんが来たわよ」母親が虚空を指差すと、赤ん坊はぐずりながらも次第に泣きやみ、まだ涙に濡れた頰をほころばせてきゃっきゃと喜びはじめる。飛んでいるものを追うように、小さな両手を虚空にふわふわ泳がせる。
ふわふわ、ふわふわ。赤ん坊の幼い両手と黒目がちの瞳が虚空を泳いで。
そしてぎょろりとこっちを見た。
深い闇が沈む漆黒の瞳。
裏切ったな……。
赤ん坊が口を開いた。老婆のようなしわがれた声で。
喋ったな……。オマエが黙っていれば、誰も知らなかったのに。よくも売ったな……。
赤ん坊の瞳がぐるぐるぐるぐる回転しはじめ、二つの黒い瞳から大量のウジが這いだしてくる。じわりじわりと次第にウジ虫たちが絵の中から這いだしてきて額縁から壁へと広がる。周囲の壁に掛けられた他の絵の中に描かれた人間たちまでもがけたけた笑って同調する。オマエは友だちを売ったんだ。あの子はぜったいに裏切らないのに、オマエは裏切った……。
「うるさい、あっち行け、出てくるな!」
喚いて靴を投げつける。ヒールが壁に傷をつけて床に落ち、周囲がふっと静かになった。
靴を投げつけた格好のまま、彼女は荒い息をしてしばらく固まっていた。薄暗い部屋灯りの下で絵画はただの絵に戻っていて、ウジに覆い尽くされた赤ん坊も額縁も壁も、周囲で嘲笑う声もなく、絵の中の人々は荒れ地を耕す格好のまま静止している。
喉が渇いていた。水が飲みたくなりふらふらとベッドから滑り降りる。
部屋の真ん中に置かれた姿見の前を通ったとき、自分の横顔がちらりと鏡に映った。
ふふ……。
鏡の中の自分が笑った。蒼白な顔で彼女が鏡を振り返った途端、鏡の中の自分が甲高い声で笑いだす。鏡に映った自分の顔が醜く歪む。
「私の真似するのやめて!」
「何言ってるの、私はあんたよ?」
ヒステリックに喚く彼女に鏡は狂ったように嘲笑い続ける。
「やめてってば、お前なんか死んじゃえ!」
「殺せるものなら殺してみなよ。あんたは私。私は死ぬことができない」
「うるさい!」
反射的に拾った靴を振りあげて、彼女は今度は鏡に向かって靴を投げつけた。鏡にぴしりと放射状のひびが入るが笑い声はまだどこからか聞こえてとまらない。「死ねばいい。生きてたって面白いことなんてない。こんな服で着飾ったって虚しいだけ。死ねばいいのよ、死ねるもんなら。だってもう疲れたでしょう……?」
ひびが入った鏡の中で醜悪に歪んだ自分の顔がいつまでもけたけたけたけた笑い続けて煽りたてていた。
死ねばいい。死ねばいい。
シグリ・ロウからすっかり自宅の管理をまかされて(むしろ放任されているというか)家のものは好きに使っていいと言われているので、この家を訪れるたびに遠慮なくコーヒーを淹れてひと休みしてから帰る。基本的に質素な家だがコーヒーだけはわりといいものが買い置いてあるのだ。

ちなみに昨夜、シグリ・ロウは階段で滑ったとかで肩を脱臼するという怪我を負い、この人手不足のときにと現在十一人から六人にまで減った長老たちから白眼視されている。階段で滑ったくらいで脱臼するものだろうか、というそもそもの疑問はあの老人たちの頭では想像できないらしい。
(お、ブランデー発見)
リビングの戸棚を何気なく覗いてブランデーの瓶を見つけた。アルコールは教義で禁止されているわけではないものの、やはりほどほどに控えるようにという風潮はある。しかしシグリ・ロウがコーヒーにブランデーを垂らす趣味があることを知っていたのでちょっと真似してみたくなった。
この家の持ち主の家柄と地位に比すれば実に慎ましやかな、しかし当然一軒家など持ったことがない若い自分にしてみれば十分に贅沢なソファの上座に身体を沈め、ロウの気分になってブランデー入りコーヒーをすする。
(……美味くないな、これ)
苦みに苦みが乗算されて微妙な味。何が美味くてあの人はこんなものを好んで飲んでいるんだろう。そういえばシグリ・ロウも美味そうな顔をして飲んでいるところはまったく見たことがなかったかもしれない。何かの苦行みたいにブランデー入りコーヒーを脇に置いて常に仕事をしている姿ばかりが印象にある。
上流階級を気取ってみたが、なんか……虚しいだけだった。
溜め息をついてカップを置いたとき、
ガシャ──ン!
頭上から突然聞こえた物音に思わずソファから跳びあがった。尻と一緒に心臓を跳ねさせながら何ごとかと廊下に飛びだすと、
「ヨ、ヨシウさん!」
見張りの兵士が二階の回廊から身を乗りだして慌てた声で呼ぶ。階段を駆けあがり見張りと合流して二階の彼女の部屋に駆けつけ、戸口に立った途端ぎょっとした。
部屋の真ん中、放射状にひび割れて破片が散乱した鏡の前に、片手にハサミを提げた彼女が立っていた。ここのところ(わがままは別として)危ない挙動をする気配がなかったので油断してハサミなんて渡してしまったのはあきらかに人質に対する許容範囲を超えていたと今さら自分の失敗を思い知る。
ゆるやかな癖を帯びた金髪の一部が首のあたりでちょん切れて彼女の足もとに散らばっていた。中途半端に無惨な髪型になった彼女の首筋から大量の血が流れている。
「な、何をやってるんですっ……」
戸口で怯んで立ち尽くしつつ声をかけると、どことなく定まらない目つきで彼女がゆらりとこちらを振り返った。薄い色あいの彼女のスリップドレスを首から流れる血が鮮やかな赤に染めあげているが、傷口付近の血はコールタール状の黒い液体に変化してすでに傷を塞ぎはじめている。
「死ねない……」
不思議そうに小首をかしげて彼女が言う。
「あ、当たり前じゃないですかっ。いえ普通は当たり前じゃないですけどっ」何を言ってるんだ俺は。
「あはっ」
と、彼女がふいに吹きだして、ハサミをすとんと床に落とした。
「あはは、ははは、ははははは……」
ぞっとして見守る神官と見張りを前に、彼女は自分の髪と鏡の破片が散らばった床に糸が切れた人形みたいに脱力して座り込み、色のない掠れた声で本当にそういう壊れた人形みたいにただただずっと笑い続けていた。

ベアトリクスに会えることになったのは首都に来て五日目。キーリはヨシウというあの世話役の神官に連れられて、首都の一般居住区にあるシグリ・ロウの自宅を訪れた。どうして急に会わせてもらえることになったのかとキーリが不審げに問うと、神官は相変わらず怯み気味の対応で「我々じゃあ手に負えないので……。最初に言っておきますけど、こっちは何もしてないですからね?」とよくわからないが言い訳のようなものをした。
シグリ・ロウという人の自宅は意外と普通の家だった。もちろんキーリの基準からしたら十分すぎるほど立派なのだが、過度に飾りたてられているということもなく、たぶんイースタベリの教区神官長の家よりもよっぽど慎ましやかだ。
「あなたがお生まれになった家ですよ」
言われてはじめてそういうことになるのかと気がついた。
複雑な思いで階段の手すりに手を触れてみる。冷んやりとした、よく磨かれて手に馴染む感触。装飾品の類はほとんどないが壁に絵画が比較的多いのは誰の趣味だろう。シグリ・ロウ本人か、あるいは母の好みだったのか。
わあっ……
と子供がはしゃいで走り過ぎる声が聞こえた気がして振り返る。しかし砂色の陽光がエントランスに細く射しているだけで、壁に掛けられた絵画以外何もなかった。
(この家には、いろんなものが棲んでいるな……)
エントランスの正面の階段を上ると半円形に延びる回廊があり、片袖の奥まったところにある部屋の鍵を神官があけた。
「危ないかもしれないので、気をつけてください」
忠告しつつ、神官はどことなく逃げ腰でキーリを押しやるように戸口に立たせた。
心臓がとくんと高鳴る。教区境のバーで喧嘩別れのようになってから、会いたくて謝りたくて、そしてずっと無事を案じていた。仲直りして、いっぱい話がしたい。あれからまたいろんなことがあったから、いっぱい話を聞いてほしい。きっと彼女は少しも変わっていなくて、馬鹿じゃないのって呆れたり皮肉を言ったりしながらもキーリの話を親身になって聞いてくれる。ハーヴェイや兵長のことも話したい。もうキーリ一人きりじゃ不安で抱えきれない、でも彼女になら相談できる。
ようやく会える。ベアトリクス──。
カーテンが閉まっていて部屋の中は薄暗く、エントランスに射す自然光に目が慣れていたので緑がかった残像が視界に焼きついてすぐには様子がわからなかった。視覚が慣れてくるにつれ、キーリは部屋の惨状に息を飲んだ。
脱ぎ捨てられた服やら衣装箱やら酒瓶やらが部屋中に散らかり放題。壁の絵画の何枚かは傾いていたりはずれて床に墜落し、部屋の真ん中には割れた鏡の破片が散乱している。
ほしへゆくしゅうじんたち あれちをたがやし……
ベッドのほうから、メロディになっていないふわふわした鼻歌が聞こえた。ベッドの上に横になっている人影がある。不揃いにちょん切れてこびりついた血で固まった金の髪、赤茶色に汚れたスリップドレスの裾や肩紐をあられもなく乱してベッドに倒れ伏し、途切れがちに歌いながらときどきふいにくすくす笑ったり、細い指先をふわふわ虚空に漂わせてぐるぐるした円のようなものを描いたり。
頼りない歌声が部屋の薄闇に浸み入るように沈んでいく。
「ベアトリクス……?」
掠れた声でキーリは呼びかけた。まだ鼻歌を歌いながら、彼女の瞳が虚空を泳いでこっちを向いた。キーリが緊張して待っていると、彼女は一拍おいてから、
「……なあに? 新しいメイドの子う?」
間延びした喋り方でそんなことを言った。
「ベアトリクス」
もう一度、もう少し低い声で、しかしもっとはっきりした声で言う。
その呼びかけに、虚空に円を描いていた彼女の指がぴたりととまり、彼女の瞳があらためてまともにこちらを向いた。蒼い瞳が一つ二つ大きく瞬きをする。やっぱり少しも変わっていない、知的なアイスブルーの瞳を持つ綺麗な彼女に、キーリの心に懐かしさが広がる。ずっと会いたくて、謝りたくて……。
「ベアトリクスっ……」
涙ぐんで駆け寄ろうとしたとき、
「出てって!」
スリッパらしきものが目の前に飛んできて、「きゃっ」避け損なったキーリの頰すれすれを掠めて後ろに立っていた神官の顔面を直撃し神官がぎゃっと声をあげた。「な、なにっ」状況が飲み込めないまま間髪入れず服やら箱やらがばしばしと飛んでくる。頭に覆い被さってきたスカートか何かの布を引っぺがしながら、
「ベアトリクス! ど、どうしたの?」
「出てって、出てってよう!」
喚き声とともにやみくもにモノが飛んできてたまらず戸口の陰まで一時後退。腕で顔をかばいながら部屋を覗いた途端もう片方のスリッパが飛んできた。腕にあたったスリッパを払いのけ、
「ベアトリクスってば、ねえ、私だよ? どうしたの?」
「私を怒りに来たんでしょ、そうなんでしょ!」
「怒りにって……、何言ってるの?」
「危ないですよっ」
神官に腕を取られて後ろに引っ張られた刹那、寸前まで覗いていた戸口にハサミがすとんと刃先から突きたった。さすがにぞっとして背筋が凍る。ベアトリクス自身も一瞬驚いた顔をして、ハサミを投げつけた格好で動きをとめた。
その一瞬の隙にキーリは神官の手を振り切って部屋に駆け込んだ。駆け寄っていくキーリに怯えたようにベアトリクスのほうは頭から毛布を被ってベッドの奥に潜り込み、毛布の端からこもった声で叫ぶ。
「来ないでよ、来ないでってばあ!」
「なっ……」
子供じみた醜態をさらす彼女にキーリは一時ベッドの脇に立ち尽くして呆れ返った。さんざん心配して、やっと会えるって期待して、どきどきしてここまで来たのに……じわじわと怒りすらこみあげてくる。「何それ、何言ってるかわかんないよっ。ちゃんと話そうよ、ベアトリクス!」「やだーっ」毛布を無理矢理引っぺがそうとするキーリと喚いて抵抗するベアトリクス。もうめちゃくちゃだ。なんでこんな子供どうしの引っ張りあいみたいなことになってるんだろうとキーリ自身泣きたくなりながら。
「痛っ」
毛布を引っ張り戻そうとしたベアトリクスの手がキーリの頰を掠り、爪がわずかに皮膚を引っ搔いた。キーリが小さな悲鳴をあげるとベアトリクスも「あっ」とちょっとびっくりした声をあげ、二人で一瞬動きをとめて見つめあう。
ぎゅっとキーリは唇を嚙みしめ、
ぱしんっ。
お返しとばかりベアトリクスのほっぺたを思いきり引っぱたいた。引っぱたかれたことが理解できないみたいな啞然とした顔でベアトリクスは固まったまま。
「な、なんで……」
ぜいぜいと息を切らせてキーリは喘ぐように声を絞りだす。
「なんでこんな、私たちこんなことしてんの、馬鹿みたいじゃんっ。怒ってるよっ。そうだよ怒ってるよっ。だってずっと心配してて、会いたくて、わ、私だって、ここに来てからずっと心細かったのにっ……。なのに、何これ、こっ、こんな服ばっか買いあさってお酒飲んで浮かれて散らかして、私がどんな気持ちでいたかも知らないでっ……」こらえきれずにとうとう涙が溢れた。泣きながら怒っている自分が滑稽で馬鹿馬鹿しくて、格好悪いと思いながらも余計に涙がとまらなくなる。
ベアトリクスは毛布を搔き抱いたままぽかんとした顔でこっちを見つめ、
「私……私がキーリのこと喋ったの、怒ってないの……?」
おそるおそるという感じで訊いてくる。泣き顔のまま今度はキーリがぽかんとした。
「何それ、なんで私が怒るの?」
「だ、だって、そしたらあんた無理矢理ここに連れてこられるでしょ。エイフラムを捜すどころじゃなくなるよ。私、私、なんだかもう全部どうでもよくなって、ついあんたのこと全部喋っちゃって、そしたらあんたを迎えに行くって聞いて、それでまずったって気がついて、後悔したんだけど、もう言っちゃってて……」喋りながらくしゃっと表情を崩し、彼女のほうまでまるで小さい子供みたいに泣きだした。
「ごめんね、ごめんね……」
「何言ってるの、ハーヴェイとは会えたよ。もう会えたんだよ。ハーヴェイもベアトリクスのことずっと気にしてたんだよ。兵長もだよ。みんな心配してたんだよ?」
痛ましくぼさぼさになってしまった彼女の自慢の金髪を両手で抱いて顔を寄せると、ベアトリクスは涙がたまった目をしばたたかせ、
「エイフラムと会えたの……?」
「会えたよ。ちゃんと会えたよ」
彼女は信じられないというように目を丸くしてから、またいっそう顔をぐしゃぐしゃにして泣きだした。
「そうなんだ。よかったね、よかったね……」
「うん。うん」
キーリも泣きながらこくこく頷く。顔を寄せあった彼女と額がぶつかる。
「髪、こんなにしちゃって、何やってるの、もったいないよっ。馬鹿じゃないのっ……」彼女に言われる予定だった台詞をキーリが泣きながら怒ったふうに言っていた。と、ベアトリクスも同じように泣きながら怒りだし、
「馬鹿はあんたじゃないのっ。あんたが勝手に飛びだしてくからこんなことにぃっ」
「あれは、ベアトリクスが噓ついたからじゃんっ」
二人で膨れっ面を突きあわせて睨みあう。泣いていたと思ったら喧嘩をはじめた女の子二人の部屋の戸口で神官がなんとも反応できない感じで突っ立っている。
睨みあったまま数秒。
それから。
「うぅ」
「うー、ベアトリクスぅー……」
二人でまたくしゃっと顔を崩し、抱きあってわんわんと体面もなく泣きだした。気が済むまでずっとずっと泣いていた。ざんばらになった彼女の髪を抱きしめるとふわりと淡い香油の匂いと、それに混じった血の臭いがした。それはいつもの、やっぱり変わらないベアトリクスらしい匂いだった。

「それで聞いてよ、最初私の顔を見たときなんて言ったと思う? 〝誰?〟だよっ」
「あははは、あいつらしいわ」
「もう、笑うところじゃないよっ」
本気で傷ついた顔をするキーリをベアトリクスは遠慮なく笑いとばす。
教区境のバーを一人で飛びだして〈門の街〉に向かってからの出来事を、順を追ったり錯綜したりしつつベアトリクスに話した。大きなベッドの上で二人で枕を抱えてごろごろしながら、なんだかルームメイトの夜のお喋りみたいに。部屋の外には見張りがいて、ここは未だキーリにとって敵地の真ん中で、ハーヴェイと兵長とは連絡がとれなくて……問題は山積みなのだけど、首都に来てからはじめての安心した気持ち。
「十七歳の誕生日だってまた忘れてたんだよ。ほら、サウスハイロでのこと覚えてる? ベアトリクスと最初に会った年の誕生日も、忘れて出かけちゃってて……」さらにキーリは積もり積もったハーヴェイに対する恨み言を言い募ってしまう。と、誕生日の話題を出した途端ベアトリクスがきょとんとした顔をするので、
「……ベアトリクスも忘れてたでしょ。今年はお祝いしてくれるって言ったのに」
「えっ、えぇ? 覚えてるわよ、当然じゃないのっ」
じっとりと不審げな視線を向けるとベアトリクスはあきらかに狼狽した言い訳をして、「ちょっと待ってて」とぱたんとベッドに倒れて何やら手作業をはじめた。二人それぞれ頭の向きをあべこべにして寝転がる格好になっているのでキーリの目の前にはベアトリクスの素足があり、彼女の頭のほうは見ることができない。
「何してるの?」
「見ちゃ駄目」
「ぷ」
頭をあげて覗き込もうとすると枕が飛んできた。「もう」キーリはむくれてベッドに寝転がりなおす。久しぶりのこんなくつろいだ時間にうとうとと心地よい眠気が訪れる。説教部の塔に滞在中は毎晩あまり寝つけなかった。
惑星へ往く囚人たち 荒れ地を耕し麦を植え
しかして神があらわれる
大地はすべて神のもの 麦は神への捧げもの
まどろみに落ちはじめる耳にベアトリクスが口ずさむ鼻歌が聞こえてきた。さっきも歌っていた歌だ。枕に頰を押しあててうとうとしながらキーリは彼女の透きとおった歌声に耳を傾けた。聞いているうちになんだか漠然とした懐かしさが心に沁みる。昔、誰かに歌ってもらったことがあるような……。
「それ、なんの歌? 聞いたことある気がする……」
惑星へ往く囚人たち──この惑星の荒野を開拓したのは聖書が教えている信仰者たちではなくて、惑星に教会ができるもっともっと前、この惑星が流刑星だった頃にここに流された囚人たちだとハーヴェイが話してくれたことがある。
(ハーヴェイ……)
思いだしてまた不安が心を掠める。
(……でも、絶対来る……)
迎えにくるって言ったんでしょう? 絶対にって。じゃあ来るわよ。
と、ベアトリクスが自信たっぷりに言ってくれた。なんでそんなに自信満々なのか、不安を拭えず沈鬱な顔をするキーリの額を小突いてベアトリクスはくすりと笑い、あいつは基本的に絶対なんて言葉使うような自信家じゃないわよ、めんどくさいくらいにね(確かにそのとおりのような気がキーリもする)。そいつが奇跡的に珍しく、〝絶対〟って言ったんだから、絶対来るわよ。
彼女のその言葉にすがるように、目を閉じて胸の前で祈るように両手を握った。
「キーリ、腕貸して」
何やらまだ手作業をしていたベアトリクスの声に目をあけるとまだ彼女の素足が目の前にある。寝転がったままずりずりと砂虫みたいな動きで半回転してキーリと同じ方向に頭を向けた彼女がキーリの腕を取り、きょとんとするキーリの手首に紐状の何かを結びつけた。
「……? 何?」
「お守り。誕生日プレゼント。エイフラムとちゃんと会えるように……これ、御利益あるわよう。私の怨念がこもってるからね」
などとえへんと胸を張って言う彼女。怨念はこめないで欲しいけど……。左手を目の前に掲げ、手首に結ばれた腕輪のようなものをキーリは目を丸くして凝視した。切ってしまったベアトリクスの金髪をひと房撚って編み込んだ紐に、イヤリングを壊したらしい赤銅色の石がぶらさがっている。
「あ、ありがと……。うれしい。手作り……」
さっきさんざん泣いてまだ目のまわりがひりひりするのにまた涙ぐんでしまう。誕生日プレゼントなんて、しかも手作りプレゼントなんて、もらったのはいつ以来だろう。
心から嬉しくてお礼を言ったのにベアトリクスは不機嫌な顔になり、「悪かったわね、手作りで。私は人のプレゼントには金を使わない主義なのよっ」などと何故か偉そうに言うので涙ぐんだまま笑ってしまった。泣き笑いのまま、腕にはめられたお守りを手首と一緒にぎゅっと握った。
「じゃあ、じゃあ、私も何かあげる」
キーリも身体を回転させて彼女ににじり寄り、彼女と顔を突きあわせる。彼女はぱちくりと瞬きをして、

「いいわよ。私誕生日じゃないもん」
「じゃあ、今度の誕生日にぜったい何かあげる。夏の真ん中の日」
「……それ、あんたが勝手に決めたんじゃないの」とベアトリクスは頰を引きつらせたが、ふっと表情をやわらげてしょうがないなという笑みを浮かべ、
「ま、いいけどね」
「じゃあ絶対お祝いしよう。約束だよ」
「わかったわかった」
「約束。絶対」
「絶対」
寝転がったまま二人でおでこを突きあわせて頷きあう。
絶対という言葉を、今は信じた。この世界にもしかしたら絶対なんていうものはないのかもしれないけど、でも、今はきっとあると信じた。
久しぶりに安らいだ夜。そのあとはそれほどお喋りもしないうちに、キーリは彼女の隣で眠ってしまった。もっともっと話したいことはあったけれど急に眠気が訪れて。
でも大丈夫。今日は眠っても、明日も明後日も、これからきっと、いつでも話せる。
「惑星へ往く囚人たち 荒れ地を耕し……」
つい伝染して小声で口ずさんでしまった自分に神官は肩をすくめて口を閉じた。
深夜、仄灯りが落ちる回廊の隅。彼女たちの部屋のドアの脇に座り込み、すっかり冷めてしまったブランデー入りコーヒーをすする。さっきまで部屋の中から聞こえていた歌や話し声は今はもう聞こえず、浸み入るような深夜の静けさが邸宅を支配しはじめている。
「ヨシウさん、その歌はちょっと……まずいのでは」
ドアを挟んで反対側の脇に直立不動で立つ見張りの兵士が、前を向いたまま遠慮がちに呟いた。同じく前を向いてコーヒーをすすりながら神官は苦笑して呟き返す。
「ああ、そうですね……」
教会の教えを批判する替え歌だ。誰かに聞かれでもしたら眉をひそめられるどころか異端者扱いされかねない。けれども……この歌のほうが面白いかも、なんて思ってしまう。
「ヨシウさん。我々、いったい何してるんでしょうね」
見張りがまたぼそりと呟いた。回廊の手すり越しにエントランスの壁に掛かる絵画をただぼんやりと眺めながら、今度は神官のほうが見張りに釘を刺す。
「……それは、口に出さないほうがいいですよ」
「そうですね……」
今度は見張りが神官と同じことを言った。
ただの親しい友だちで、ずっと会いたくて捜しにきただけの二人の女性を、何故自分はこんなふうに見張っていなくてはいけないのだろうか。とはいえ命令に逆らうほどの信念も行動力もなく。
(……美味くないなあ)
舌に浸みる冷めたブランデー入りコーヒーはやっぱり微妙な味だった。なんだかまるで、それはうまくいかない苦い現実のように。

絵の中に小ぎれいな白い家が見えた。まさしく一枚の精細に描かれた絵画のように。前庭に柵があり、こぢんまりとした花壇が造られている。爆撃機が一機、家の上空を爆音とともに飛び去ったが、そんな世界とは無縁のようにその家は平和にそこにある。
「お姉ちゃあん」
少年が泣きべそをかいて呼ぶ声。家の中から少女が出てきた。少女も少年もあの喪服の頃よりもずっと幼く、少女は淡いグリーンのエプロンドレス、少年は同じグリーンのベストに短パン姿。少年がぐずりながら指差す庭の木の枝に玩具のヒコーキが引っかかっていた。
飛行機。そう、まだこの惑星に飛行機を飛ばすエネルギーがあった時代。
ようし、と庭の木を見あげて少女がエプロンドレスの裾をたくしあげる。
「お姉ちゃん、危ないよ」
「平気平気」
おろおろする弟の前で少女は臆さず木に登りはじめ、ヒコーキが引っかかっている枝に手を伸ばす。「届いた!」と思ったとき、摑まった枝が折れた。びりっ、どさっ、と音が続き、わあっと弟が大声で泣きだす。ちょうど表に車が停まり、弟の泣き声を聞きつけた両親が血相を変えて車から飛び降りてきた。
「痛たたた……」
後頭部を押さえて少女がむくりと起きあがったときには心配顔の家族にすっかり取り囲まれている。「ごめんなさい……」ばつが悪く身をすくめる少女の手はヒコーキを離さずしっかり摑んでいた。家族がいっせいに胸を撫でおろす。姉の名を呼んで泣きじゃくる弟の手に少女はヒコーキを押しつけて、「泣かないの。男のくせに」突き放して言うと弟はぐずりながらも怒られないようにぎゅうぎゅう涙を拭った。
「あちゃー……」
視線を落とすと枝に引っかかったスカートの裾が大きく破けてしまっている。スカートをたくしあげると擦り傷を作った素足が露わになる。
「ごめんなさい……破けちゃった」
申し訳なさげに両親を見あげると、両親は顔を見あわせて微笑みあい、
「ちょうどよかったよ」
なんて言われて少女がきょとんとしていると、父親が車から大きな衣装箱を持ってきた。
「お誕生日おめでとう」
両手で抱えきれないほどの大きな箱を渡されて少女は目を丸くする。今日が自分の誕生日だなんてことすっからかんと忘れていたのだ。思いがけない贈り物に大喜びでほとんど破るように箱をあけると、中から出てきたのはかわいらしい真っ白なワンピース。少しだけ大人っぽい形で、一つお姉さんになった気分を実感。
「ありがとう!」
脚の擦り傷もかまわず新しい服を両手で広げて少女は庭中を跳びはねた。汚れるからあとにしなさいと注意しつつ苦笑して見守る両親。姉を追いかけて走りまわる弟。庭に家族の笑い声がこだまする。
おめでとう、ベアトリクス。
おめでとう、ビー。お姉ちゃん──。
映像が消えると、絵の中には例によって荒野を耕す人々の静止画が描かれていた。部屋は静かで、あの鏡の中の嫌な自分の声もけたけた笑う絵画の亡霊たちの声も聞こえない。隣で眠る少女の寝息だけが静かに穏やかに聞こえている。
起きあがってベッドの端に座り、薄闇にぼんやりと浮かぶ絵画を見あげる。
(ああ……)
涙が一つ、自然と頰を滑り落ちた。
おめでとう、ビー。お姉ちゃん──。
明るい声が脳裏に甦る。
あれは私だ、あの女の子は。家族に囲まれて幸せだった頃が自分にもあった。守ってくれる人がいて、守りたいものがあって、幸せだった頃があった。
今、思いださせてくれたのが、この惑星の神に類する何かの力の気まぐれなら……。
ありがとう、って言っておく。
私は十分に幸せだった。

朝方、またガラスが割れる音で仮眠していたソファから跳び起きるハメになった。心臓に悪いので頼むからやめて欲しい。一階のリビングから飛びだすと、二階の回廊から前回と同じく見張りが身を乗りだして叫ぶ。
「ヨシウさん、外です!」
二階にあがらずにエントランスを素通りして前庭に飛びだした途端、神官は立ちどまって我が目を疑った。
二階の窓から女の子が二人降ってくる──!
金髪の女性が黒髪の少女を首にぶらさげた格好で着地、若干よろめいたもののほぼ危なげなく少女を受けとめて地面に降ろした。「ふう、ちょっと身体がなまったわ」首の骨をこきこき鳴らしてうそぶく彼女に対して少女のほうは蒼い顔で、
「めちゃくちゃだよ、ベアトリクス!」
「無事に着地できたんだからいいじゃないの」
うるさいなあという感じで金髪の彼女が口をとがらせる。
意図せず行く手を遮る位置に立ってしまった神官の前で彼女たちが足をとめた。顔にかかるぼさぼさのブロンドの奥で彼女がにこりと微笑み、少女の首を抱え込んでその首筋にハサミを突きつけた。「えっ?」と少女のほうが驚愕した顔。怯みながらも神官はどうにか逃げ腰にならずに二人の前に両手を広げた。
「そっ、そんな白々しい演技したって騙されませんよっ」
やや声がうわずる。彼女は動じたふうもなく、
「だから何? でも、あんたは上司の令嬢を人質に取られてやむなく見逃すしかなかった。そうでしょう?」
「……え?」
「殴り倒されるほうがお好みならそうしてもいいけど」
物騒きわまりない微笑を浮かべて言う彼女に「う……」さすがに怯んで腰が引ける。長銃を持った見張りが遅れて庭に飛びだしてきたが、神官は広げた手を見張りのほうに向けて制する仕草をした。彼女がくすりと笑い、少女の手を引く。
「用事があるから、もう行くわね。……ちょっといい暮らしさせてもらったわ。ありがと」
こんな状況にもかかわらず心臓をずがんと射抜く最上級のウインクを残し、立ち尽くす神官と見張りを残してきびすを返した。門の通用口を蹴倒して(文字どおり彼女が思いきり蹴ったら蝶番がはずれた)走り去っていく彼女たちを彼らは突っ立ったまま見送るしかない。
「ど、どうするんです、ヨシウさん」
「えーと……」
訊いてくる見張りに、神官は彼女たちが消えた方向を見つめたまま、
「こういうときは、まず上司に報告」
お互いそうひどくない上司を持ってよかったなあ、と二人しみじみ頷きあった。

鉄道の陸橋が見おろせる高台、教会総本山へと向かう上り坂を進んでいく巡礼者たちの長い列を眼下に望む場所で二人はようやく走るのをやめた。ずっと走ってミッドタウンを抜けてきたのでキーリはすっかり息を切らせつつ、一方で平気な顔をしているベアトリクスをちょっと羨ましげに睨みやる。
「びっくりしたあ。一瞬本気かと思ったよ」
「場合によっては本気だったけど?」
愚痴るキーリにベアトリクスは飄々とそんなことを言ったりして、持っていたハサミを押しつけてきた。キーリはきょとんとして手渡されたハサミを見おろす。
「切ってくれる?」
と、ざんばらになった自分の髪をベアトリクスは軽く振ってみせて。仰天して目を見張るキーリに「こんなんなっちゃったんだもん、短くしたほうがましだわ」と、彼女はかけらも未練がないふうに屈託なく笑った。
「そうしたら、あれに混じろう。格好もちょうどいいしね」
彼女が指差した先、長い長い蛇のようにうねりながら続く巡礼者の列を眼下に眺める。暗色の外套に帽子を被った人々の列にまぎれれば、黒い服を着ている自分たちの姿はすっかり溶け込んでしまうだろう。列が目指す彼方に見えるのは濃灰色の尖塔が林立する教会総本山。
「大丈夫よ」
不安な面持ちで彼方の塔を眺めるキーリにベアトリクスの声が心強く請けあう。腰まで届く長い髪ももちろん綺麗だったが、不揃いでぼさぼさの髪も彼女のざっくばらんな性格にとても似合っていて、やっぱり彼女はいつも綺麗で強かった。
「あいつが来るとしたら、総本山に直接行くと思うわ。大丈夫。会える」
「……うん」
キーリはこくりと頷いて、左手首に結ばれたお守りを強く握った。ベアトリクスの金髪に赤銅色の石、キーリの大好きな色ばかりでできた何よりのお守り。ハーヴェイ、兵長……それにあれから姿を見せないヨアヒムはどうしたのか──。
大丈夫、きっと全部うまくいって、みんなで帰れる。
右手でお守りを握りしめ、お守りがついた左の拳もきつく握って、瞳は強くまっすぐに目指す教会総本山を見据えた。