ねえ、神さまってどんな色をしてるの?
幼い頃、ユリウス少年は疑問に思ったことを解決しないと気が済まない知りたがり屋の子供で、乳母にそんな質問をしてみたことがある。
坊ちゃん、色というものは光です。神さまは光そのもの、すべての色を内包されている存在ですから、神さまに決まった色というものはないのですよ。
乳母の答えは確かこんなふうだった。そのときはえらく感嘆して納得したものだが、色の原理をそれなりに知っている今考えてみると、すべての色を混ぜあわせると限りなく黒に近くなるのではないか。神の色は黒、光を呑み込む漆黒ということになる。
(屁理屈だな……)
眼下に濃灰色の都市を望んでユリウスは溜め息をつき、つまらない思考を停止した。自宅の窓から見えるのは、北西の鉱山区からわずかに採れる屑資源を贅沢に使った、蒸気機関車の集会所みたいな鉄の街。建物のいたるところに突きだした排気パイプから分厚いスモッグが絶え間なく噴きあがっている。中央の総本山に近いこの邸宅から見おろすと、中層部以下の一般居住区はスモッグでけぶった灰色の箱庭みたいに見える。
おかえりなさいませ。という使用人の声が聞こえ、階下が騒がしくなった。階段半ばの踊り場の窓から街並みを眺めていたユリウスは窓を離れてきびすを返し、階段を駆け降りた。使用人に囲まれた父親の姿がエントランスに見える。今日、父親が自宅に帰れると聞いていたので待っていたのだ。
「父さん」
「ああ、ユリウス。また背が伸びたか?」
外套を脱いで使用人に預けながら、顔を見るなり父親はそう言った。
「一緒に晩飯でもと思っていたんだが、すぐに詰め所に戻らないといけなくてな。ちょっと寄っただけなんだ」
内心落胆した。しかし本心を押し隠し、「そうなんだ……たいへんだね」と理解あるふうな答えを返すことができた自分にほっとする。それにしたって学期末休暇中結局一度も予定があう機会がなく、約一ヵ月ぶりに会えたと思ったらこれだ……。
しかし自分のわがままばかりも言っていられない。首都上層部でも一般居住区の市街でも最近立て続けに騒動が起こり、治安部はいろいろやっかいな問題を同時に抱えていて慌ただしい。父親は以前に増して過労死するのではないかというほど多忙だ。「オレ、何か手伝えることない?」「気持ちはありがたいが、まだまだお前の手を借りるほどじゃないさ」と父親は明るく笑って見せたが、頰には疲労の色が窺える。中背だが比較的がっしりした体格の父親は少し瘦せた、というかやつれたかもしれない。
「あまり話せなくてすまんな。明日戻るんだったか」
「うん」
明後日から春学期がはじまるので、明日神学校の寄宿舎に戻る予定だった。神学校は自宅からでも十分通える距離なのだが、多忙な父親はあまり家にいることがなく、使用人とだけ暮らしているよりは友人といたほうがいいだろうという父親の勧めでユリウスは寄宿舎に入っている。そうはいってもその友人というのがたいしていなかったりもするのだが。
最近首都を騒がせている問題の一つというのが、以前にも〈門の街〉で起こった化け物事件だった。首都の一般居住区や〈門の街〉の市街に化け物が出現し、市民が襲われるという被害がここ一、二ヵ月で頻発している。
「今日も一件被害があってな、警戒を厳しくしてる。特に水路の出口がある下層部で被害が多いようだ……。お前も危ないから不用意に外に出るんじゃないぞ」
「あれがなんだかわかったの、父さん」
ユリウスの問いに父親は曖昧に表情を曇らせた。父親はユリウスにとってまだまだ手強く簡単に真意を引きだせるような存在ではないが、正直な人だ。おそらく見当はついているのだろうが、公にすることができない見当というところか。公にできない事情……つまり、公にされると困る人間がいる。おそらくは上のほうに。
ここ数ヵ月、内部にも外部にも不穏な問題を抱えている首都上層部には異様な空気が漂っていた。光に包まれた存在であったはずのユリウスの十六年間の信仰対象は、なんだか今、この都市のような不透明な灰色に澱んでいる。
「そうだ、ユリウス」
と、顎をしごいて何やら考えていた父親が思いついたように言った。
「やっぱりちょっと頼みたいことがある。頼まれてくれるか」
「えっ? うん、何?」
勢い込んで身を乗りだす。役に立てるようになりたいとずっと思っていた、その自分に父親が頼みごとをしてくるなんてはじめてのことだ。ついつい期待に目が輝く。
「二つあるんだ。一つは、ある女の子に会ってきて欲しい」
「女の子?」
期待したわりにはなんだか軟弱な任務に拍子抜けしてしまった。化け物退治とかその調査とか、そういう類の仕事のほうをちょっとだけ期待したのだが。ユリウスのそんな心理を父親はお見通しのようで闊達に笑った。冒険ごっこが大好きだった子供の頃と変わっていないと見透かされているみたいでユリウスは気恥ずかしくなる。
「まあそう言うな。もう一つのほうはお前のお望みの仕事に近い。そのついでにな、俺の親友の娘さんがそろそろ首都に着くはずだから、様子を見てきて欲しいんだ。部下から連絡がないんだが、予定では今日明日には着くはずだ」
「へえ……」
説明を聞いても今ひとつ興味なさげな相づちを打ってしまう。
「お前と同い年くらいの子だぞ。ほら」
もう一つの仕事というのは化け物事件関連だといいなあ。そんなことを頭の半分で考えながら手渡された写真を受け取り、何気なく目を落とした瞬間、
「……えぇっ?」
不意打ちで仰天させられるはめになった。
手渡された写真をまじまじと凝視する。花嫁みたいな白いショールとはにかみ笑いが意味するところに少々ショックを受けつつ、どんなに疑ってかかって確認しても、その自分と同い年くらいの黒髪の女の子は、間違いなく見覚えのある少女だった。
また会えるよな。
うん、会えるような気がする──。
彼女と前回会ったとき、最後に交わした会話が脳裏に甦る。
その再会がこんな形になろうとは、もちろん想像もしていなかった。

ふわり、と半透明の浮遊霊が天井のあたりに漂っていた。無関心にそれを眺めてキーリは視線を前に戻す。
昔、この惑星が母星で大罪を犯した囚人が流刑に処される流刑星だった頃、囚人収容所があった場所を土台に建てられたのがこの都市なのだと聞いた。都市を取り巻く灰色の城壁は囚人収容所の名残りだという。やがてこの惑星で資源が採れることがわかると、囚人たちは北西の鉱山区をはじめとして惑星各地の坑道に労働力として駆りだされた。
そうして労働力として使われ死んでいった囚人たちの墓場の上に建てられた、神の都市。
林立する尖塔の中でもひときわ大きな二本の塔──大聖堂の鐘楼と都市にエネルギーを供給する動力塔を中心として、各管轄部署が管理する周辺施設からなる巨大複合施設という感じで、大仰なゲートが正面にそびえていた。使者の神官から渡されていた通行証をゲートの係員に見せると、どうやら正真正銘本物の通行証だったようで(まだけっこう疑っていたのだが)係員はえらく慌てたうえキーリを賓客として丁重に扱い、説教部本部塔へと案内してくれた。
一般の巡礼者はゲートから中央の通路をまっすぐ進めば大聖堂に着くらしいが、説教部への道は入り組んでいて、曲がりくねった通路やじぐざぐの階段やぐるぐるの螺旋階段をいくつも上ったり降りたり、塔や建物を繫ぐ回廊を渡ったり、絶対に自力では外に出られないだろうなという迷路みたいな道順を案内され、ようやく説教部の入り口にたどり着いた。
そこでしばらく待たされることになった。
……父親(かもしれない人)と、いよいよ会う。
いつの間にか冷たくなっていた両手を身体の横でぎゅっと握る。
待合室を勧められたがキーリは断り、本部塔のエントランスに突っ立って待っていた。黒服の神官たちが忙しそうに往来しているのが見える。なんだろうあの場違いな女の子はとでも思われているのだろう、キーリのほうにちらちらと奇異な視線を向けながら通り過ぎる者もあった。少し居心地が悪く、キーリは足もとに視線を落とした。
「ねえ」
ぼそりと呟く。一つだけ、キーリのすぐ近くにいるはずの気配に向かって。わずかに声に反応する空気の動きがあり、気配を捕まえた。気配を消そうと思えばこの男は本当に存在感が薄い。なんにでも馴染む存在、でもハーヴェイとだけは反発しあう存在。
大嫌いな気配に向かって、それでも今は他にすがるものがなく、キーリは自然と話しかけてしまった。
「父親って知ってる?」
訊いてから後悔した。ハーヴェイ同様にヨアヒムも自分の親を知らないはずだ。
質問を変える。
「……もし、自分の父親に会ったら、どうする?」
相手にとっては仮定にすらならない、絶対にあり得ない問い。
「んー。殺す」
ぼそっとした小声で軽薄な返事があり、キーリはつい軽く振り返った。青灰色の瞳を持つ神官姿の長身瘦軀がいつもの薄っぺらい笑いを浮かべて見おろしている。「だって気持ち悪いだろ。もし俺と似てたりしたら最悪だ。俺がもうひとりいるんだぜ?」まるでたった今現在世界に自分自身がいることすら耐えられないみたいな、そんな言い方で。
キーリが視線を前に戻すと、相手の囁く声が続く。
「もういっかい確認するけど……殺すよ? お前の父親」
「好きにすれば」
前を向いたまま吐き捨てるようにキーリが答えると、くくっと喉の奥で皮肉に笑う声が聞こえた。
「あそ。じゃあご対面、せいぜい頑張れよ」
気配がふわりと消える。もう一度振り返ろうとしたとき、
「よ、よかった!」
騒がしい声とともにばたばたと駆け寄ってくる足音。〈北西鉱山区〉に使者として来たあの若い神官だった。最初に会ったときみたいに慌ただしく神官服の裾を蹴散らかして駆け寄ってくる。「護衛と連絡が取れなくなって、に、逃げられたのかとっ……」せわしく両手を振りまわしながら言ったかと思うと言葉を切ってキーリの周囲をきょろきょろ見まわし、びくついたような心持ち蒼い顔で、
「あの、お連れの人たち……人たち?は……」自分で変な言いなおし方をした(キーリの同行者と向こうが考えている人々のどこまでを〝人〟扱いしていいのか、言われてみれば確かに困るかもしれない)。
問われて背後を振り返ると、青灰色の男は行き交う神官たちにまぎれていつの間にか姿を消していた。うまい具合に侵入成功したのでもうキーリに用はないということだろうか。協力する気も妨害する気もなかったのでキーリはそれについては触れなかった。
「……はぐれました」
神官に向きなおり、感情を消した声で事情を話す。列車の中で化け物のようなもの(神官があれの正体を知っているかわからなかったのでわざと言い方をぼかした)に襲われたことを簡単に説明すると、まだ伝わっていなかったようで神官はもともと蒼い顔をさらに蒼くした。
「それから、」
すぐに救助を出しますと言う神官にキーリはつけ加える。
「私の連れの人が、怪我をしてるかもしれないので……捜してください」
低い声音で、もし危害を加えるようなことをしたら許さない、そういう警告を暗に含んだ険しい態度で。神官は若干怯んだ様子を見せたあと(鉱山区での騒ぎでキーリ自身かなり暴れて抵抗したので怖がられているようだ)、手近にいた下位神官に救助の派遣について早口で指示を出した。
キーリを本部塔の内部へと案内しながら、あらためて本題、つまりシグリ・ロウとの対面の件について話すことになった。「すみません、もうしばらくお待ちいただくことになると思います。ロウは今非常に多忙でして……とにかくごたごたしてるんですよ」階段を上りながら神官の背中が説明する。そういえばこの説教部本部塔まで来るあいだ総本山施設内を通ってきたが、教会の総本山という場にしてはずいぶんと騒々しい印象を持った。もっと粛然としていて、厳かというかゆったりしたような雰囲気を想像していたが。
エントランス正面の幅の広い階段を上ったあとは壁に沿った螺旋階段になっており、それを三階分ほど上って少し足が疲れてきた頃、
「ここで少し待っていてください」
と、神官が立ちどまってキーリを促した部屋の前には、侍女と思しきシンプルな黒服を着た女性が二人立っていた。女性たちにキーリを預けて神官はどこへやら忙しそうに去っていってしまい、知らない人の前にいきなり一人で放りだされてキーリはたじろいだ。
大柄で太り気味の、目つきの厳しい侍女に睨みおろされてすくみながらも視線を跳ね返すように睨み返す。こんなところで怯むもんかと決めていた。ここで怖じ気づいたり卑屈になったりしたら負けだと思っていた。
迎えにきてくれるまで……絶対に負けるもんか。
その太った不機嫌そうな侍女に頭のてっぺんから足のつま先までじろりと睨めつけられ、キーリもつられて自分の格好に視線を落とす。旅の格好そのままなので、あか抜けない黒のダッフルコートにぼろっとした肩掛け鞄、汚れたジーンズに汚れたブーツ。髪もたいして梳かしていない。通ってきた道筋をちらっと振り返ると、よく磨かれた床にしっかりと足跡をつけてきている。
負けるもんか。
と決めていたものの、こればかりは抗えずにキーリは部屋に引っ張り込まれて服を引っぺがされてお風呂に突っ込まれた。
結局、地位のある人物との対面にあたってキーリが人並みに見られる格好に整えられ、相手の予定もあいたのはその日の午後になってからで、幸いにもというか……そのあいだにその対面相手が正体不明の神官服の男に殺害されるようなことはなかったようだ。
再び迎えにきた神官に連れられて、説教部本部塔の最上階近くにある執務室に向かって階段を上りながら、久しぶりの慣れないスカートの裾を三度ばかり踏んづけそうになった。イースタベリの寄宿学校の制服を思いださせる、襟ぐりだけが白い黒のボレロと膝下の丈の黒のスカート、下にはふわっとした白のペチコート。二年半ぶりにこんなお嬢さんっぽい格好をする。
私はあのときからどれくらい変わったのだろう。
赤ん坊の頃に別れて以来いきなり十七歳になって現れた自分を、父親かもしれない人はどう見るのだろう。
祖母と暮らしていた頃、教会の子供教室でまわりの子供たちがお父さんやお母さんの話題で盛りあがっているあいだ、キーリは会話の輪の外側で興味のない振りをして一人遊びをしていた。実際それほど興味があったわけでもない。最初から知らないのだから懐かしいなんて感情はないし、祖母がいるだけで十分だったので会いたいとも思っていなかった。
しかし母セツリを知って以来は、父親について考えることも多少は増えた。とはいえキーリの中の父親像はのっぺらぼうでどうにも顔がつけにくい人だった。ユドみたいな人だったらいいなと考えたこともある。しかしキーリの記憶の中にあるユドという人もやはりまた顔が見えない人で、ハーヴェイと似た雰囲気があるという印象が強く残っているだけ。ハーヴェイを父親像にするのはものすごく無理があるのでやめた。ハーヴェイが父親だったら子供は不良になるか、または逆にすごくしっかり者になると思う。
今、はじめて具体性を帯びて想像できる父親像は──キーリの大切な人たちを、母セツリを不幸にし、ハーヴェイやベアトリクスやユドを苦しめてきた人間。キーリにとって強大な敵でしかない人間。
心臓がとくとくと速く音を立てる。冷たくなった両手を握りしめる。
(ヨアヒム……いないの?)
心細さについ周囲の気配を探ってみたが、青灰色の男の気配は摑めない。
「どうぞ。こちらです」
部屋の前で神官に促され、キーリは思考を引き戻して視線をあげた。
背筋を伸ばして気を引き締め、すべてのものを跳ね返すように、強い視線で前を見る。もう十四歳の頃のちょっとおどおどした、言いたいことが言えなかった少女ではない。大切なものを守るために、みんなで一緒に帰るために、決着をつけに来たのだ。
戸口に立って正面を見据える。壁一面に分厚い本が詰め込まれた本棚があり、あちこちに書類が積み重なった、文官らしい執務室。偉ぶった人間の豪華な執務室というよりは本がぎゅうぎゅう詰めの小説家の書斎といった印象の、ちょっと火種があったらものの見事に燃え広がるのは間違いない部屋の一番奥にある大きな書机の向こうに、一人の人物がいた。
仕事の最中らしく、書机の脇に立った中年の神官と何やら話をしていたようだが、
「いちいち私にこの程度の承認を持ってくるな!」
いきなり飛んできた苛ついた怒声にキーリはびくっとした。書類を叩きつけられたその中年の神官もひっと声をあげて身をすくめ「申し訳ありませんっ」と平謝りして散らばった書類を搔き集め、転がるようにキーリの脇を抜けて執務室を駆けだしていく。キーリは脇に跳び退いて神官を見送った。
書机に両手をついて立ちあがった格好で、その男、シグリ・ロウが、そのときはじめてこちらの姿に気がついた。
「あの、お連れしました……が」
案内してくれた若い神官がおずおずと言う。
「あ、ああ」
やや気まずそうにシグリ・ロウは咳払いをして乱れた髪を軽く整え、椅子に座りなおしてあらためてキーリのほうを見た。張り詰めていた緊張感がなんだか一時的にすとんと途切れ、間が抜けた感じで見つめあう格好になる。
生き別れた父娘の感動の対面とやらを想像していたわけでは決してなく、逆に仇敵との睨みあいみたいなのを勝手に覚悟していたのだが、なんというか今ひとつ〝今からが対面〟という句切りのない、締まりの悪い曖昧な初対面になった。
書机の向こうに座っているのは、偉そうな顔でふんぞり返って世の中を見くだしているいけすかない大神官とか、あるいは噓っぽい笑みを浮かべて物腰やわらかく接してくる詐欺師みたいな大神官とか、あるいはぎらぎらと脂ぎった禿げ頭で笑うと金歯が見えたりする悪役臭をぷんぷん漂わせた大神官とか、そのどれでもなくて、白いものが多少混じりはじめた黒髪を疲れた感じに少し乱した中背の瘦せた人で、細い縁の眼鏡をかけた瞳の色はキーリよりも薄い灰色で、どっしりした書机が似合わない、けれど大量の本は似合うような人で、ようするに、威厳をたたえた大神官とはかけ離れた印象の人物だった。
曖昧な対面のはじまりに相手も戸惑ったように言葉に詰まってから、だいぶぎこちない笑顔を作って、
「ああ……ええと、遠いところをよく来たな」
と、ぎこちない口調で微妙に場の空気からズレたことを言った。
キーリは呆然として突っ立っていた。本当は膝ががくがく震えて今にも座り込みそうだった。頭の中がぐるぐる混乱していた。あまりにも、あまりにも普通の人だったから。私はあなたを憎みに来たのに、もしかしたら殺すかもしれないっていう覚悟で来たのに、なんでそんなふうに、不器用な笑顔なんか作って私の機嫌を取るようなこと言って。
唐突に苛々した。不器用に一生懸命な感じで言葉を並べようとするところがなんだか最近のハーヴェイと似ていたから。自分の一番の敵がハーヴェイと似てるなんて、許せなくて苛々した。ハーヴェイの真似をしないで──。
「もう少し近くに……」
男が椅子から腰を浮かせて手を差しのべる。反対にキーリは後ずさった。楯にするように胸の前で両手を組み、

「私はっ……まだちゃんと話を聞いてません。人違いかもしれないしっ……」
頑なな拒絶に、男はこちらに片手を伸ばした格好でぽかんとした顔をした。
「人違いのはずがない。セツリとそっくりだ」
「お母さんのっ」名前を気易く呼ばないで。続く台詞は掠れて尻すぼみになりキーリは唇を嚙んで下を向く。駄目だ、負けちゃ駄目だ。自分に言い聞かせ、気丈な態度を繫ぎとめる。「だったらどうして、お母さんは……どうしてここを出ていかないといけなかったんですか。お母さん……は、教会に殺されましたっ……」
一時沈黙があった。シグリ・ロウの声が沈鬱そうに低くなる。
「ああ、報告は聞いている」
それを聞いた瞬間、なんとか繫ぎとめていた心の糸がふっと途切れて、涙がぽとぽと、ふた粒だけ足もとに落ちた。シグリ・ロウと、隣に立ってはらはらとなりゆきを窺っていた神官が狼狽するのがわかる。キーリは精いっぱい拒絶の態度を表して服の袖で強引に涙を拭った。さらに数歩じりじりと戸口まで後ずさりながらうわずった声で。
「私は、あなたをぜったいに許さない。大嫌いです、ここは大嫌いです。騒々しくて、みんなせわしなくて、疲れた顔してて、人の気持ちなんかかまってなくて……、それで、お風呂とか無理矢理入れられて、着たくない服着せられてっ……」スカートの裾をぎゅっと摑む。「私がここで生まれたなんて噓だ。お母さんがこんなところにいたなんて噓だ。だって私、こんなところ大っ嫌いですっ。神さまなんてここにはいないのにっ……」
突然の癇癪に呆気にとられたような周囲の沈黙に、キーリの引っかかり気味の涙声だけが虚しく響く。毅然として対決するつもりで来たのに、これじゃ小さい女の子が駄々をこねているのと変わらないと自分でわかっていた。けれど一度爆発した感情はどうしても収まらない。
「神さまなんていないくせにっ……ハーヴェイだって知ってるもん、そう言ってたもんっ、なのにみんな白々しく神さまがいるふりなんてして、ここの人たちのせいでハーヴェイはずっと追っかけられてて、ぼろぼろになって、……みんな、みんな大っ嫌い、ここの人たちなんて大っ嫌い、みんな、みんな、死んじゃえっ!」
叫んだとき、あの大柄な太った侍女に取り押さえられた。
あまり覚えていなかったけれどたぶんキーリはみんな死んじゃえというようなことをずっと喚き散らしていて、侍女に抱えられて部屋から引きずりだされて、父親だという人との最初の対面は、こうしてキーリ自身がめちゃくちゃにして終わった。

今となっては言い伝えでしかない、〈十一聖者と五家族〉時代の話──〈十一聖者〉に仕え補佐する役割であった〈五家族〉の中に、霊的現象の解決や〈十一聖者〉への助言や預言のようなものを行う、いわゆるまじない師的な能力を持った一族がいたという。しかし開拓時代以降、この一族が次第に信者に対する影響力を増していくことを危惧した長老会によって一族の発言力は抑え込まれ、数世代前の長老会からは〝霊的現象〟というもの自体が禁忌、存在を認められないものとなっていった。
さて、〈十一聖者〉の血筋であるシグリ卿が、迫害されていたその一族を吸収(あるいはシグリ卿は一族を保護するつもりだったのかもしれない)する形で、一族の末裔であるセツリという女性と結婚し、娘が生まれたのは、およそ十七年前のこと。
ところが幸せは長くは続かない。ある日の礼拝で長老の一人が塔から転落し死亡するという衝撃的な事故が起き、その責任がとある理由でセツリになすりつけられた。セツリは処罰こそされなかったものの、長老会はセツリの存在を記録から抹消、セツリは一歳に満たない赤ん坊とともに首都から姿を消す。その直後にシグリ卿が長老に昇格していることと、セツリの失踪との関係性は……表向きは、不明。
ちょうどユリウスが生まれる直前の話であり、その近年に〈十一聖者〉の血筋で誕生した新生児は記録上、ユリウスという男児一人だけということになった。
「父さんは、セツリっていう人を知ってたの?」
事情を聞いたユリウスが父親に問うと、父親は顎をしごいて考える顔をし、
「口数が多いわけじゃないんだが、芯の強い女性という印象だったなあ。あいつは手強い女を娶ったもんだ、と思ったもんだ。……しかしまさかユリウス、お前がシグリ卿の娘さんと知りあいだったとは、驚いたな。惑星は狭いもんだ」
肩をすくめて言ったあと父親はにやりとしてみせ、
「好きな子なのか?」
「ちっ、」
真っ赤になって絶句してしまったユリウスの答えは完全にばればれ。ところがもっと追及してくるかと思ったら父親は複雑な表情で視線を逃がし、「うーむ、血は争えないか」などと言う。ユリウスはきょとんとして父親の台詞の意味を考えてから、
「もしかして父さん、セツリって人のこと……。か、母さんがいながらっ」
「まあ昔の話だ、昔の」
血相を変えて詰め寄るユリウスに父親はお手あげの仕草をして飄々と弁明し、「俺もセツリを救えなかった。……シグリと同罪だ」と、最後にぽつりと言った。
父親とシグリ・ロウが疎遠になったのは、そんな事件があってかららしい。
シグリ・ロウが会議や礼拝で執務室を離れていたりなんだりで、ユリウスがキーリとの面会の許可をようやくもらえたのは、父親から話を聞いた翌日の夜になってからだった。
貨物列車が化け物に襲われたという連絡を受け、父親はすぐに救援を送ろうとしたが、入れ違いで〈不死人狩り〉の小隊がすでに現場を片づけたとの報。父親は納得いかない様子だった。謎の化け物事件については今のところ、長老会直轄の〈不死人狩り〉に常に出し抜かれる格好になっている。
ユリウスでも少々たじろいでしまう大柄で不機嫌そうな侍女に案内された部屋は、説教部本部塔の上層階の一角にあった。おそらくシグリ・ロウ本人か、あるいは高位に仕える神官の宿直用の部屋だろう、内装は不自由なく快適そうであったが、外から鍵がかけられていた。ユリウスが眉をひそめると、「錯乱されて、少々暴れられましたので」と侍女が平板な口調で説明した。
壁際にベッドと書机が置かれた一室だけの部屋。照明は抑えめで、アーチ形の窓から街灯りがかすかに射し込んでいる。その窓辺に、長い黒髪に黒服を着た少女が立っていた。
伏し目がちに窓の外を見おろす横顔に、少しだけどきりと心臓が脈打つ。
「……ユーリ」
ユリウスに気がついて振り返った少女はさほど驚いたふうもなく平静な声で言った。何かを拒絶するような硬い表情。それでいて今にも泣きそうな、わずかに潤んだ黒い瞳。ユリウスは無理にやわらかい笑顔を作った。
「キーリ、大丈夫?」
少女は無言でこくりと頷いた。
侍女を廊下に控えさせ、一人で部屋に入って扉を閉める。窓の近くで待っていたキーリと向きあうと、最後に会ってから半年近くたってまた少し背が伸びたせいか、一つ年上の少女はユリウスの記憶にあるよりも小柄に感じた。しかしたぶんあいつにはまだぜんぜん追いついていない。
「びっくりしたよ、いろいろ」
「私も」
視線を伏せてキーリは頷き、「あの教会兵の偉い人は、やっぱりユーリのお父さんだったんだね」教会兵の偉い人……ああ、父親のことか。冬の終わりに一週間あまり首都をあけていたことがあるのだが、シグリ・ロウに頼まれてキーリを迎えにいく使者の護衛として出かけていたと聞いている。話によると赤毛の不死人が一緒だったらしいが……。
「あいつは、どうしたの?」
「あとで迎えにくる」
遠慮がちに訊くと、今までになく頑とした声で即座に返事が来た。
「あとって……今警戒が厳しくて、通行証がないと簡単には首都に入れないよ」
「迎えにくる」
キーリはただそう言って首を振る。
「約束したから」
「キーリっ……」
頑なに言い張るだけの彼女の肩につい少し乱暴に触れてしまい、彼女がびくっと身をすくめて敵意のある視線でこっちを睨んだ。「あっ、ご、ごめん」伸ばした手をユリウスは慌てて引っ込めた。怯えさせてしまった自分に腹が立ち、なんとか話題を変えようとする。
「ごめん……その、何か必要なものとか、不自由とかあったらなんでも言って。オレ、明日は学校に行かなきゃいけないけど、明後日にはまた来るから」
何もいらない、とキーリは首を振るだけだった。「ごめんね……」と、それから俯いて小さな声でそう言った。何を謝っているのかユリウスには最初わからなかった──続く彼女の台詞を聞くまでは。
「前にユーリのこと、貴族の王子さまみたいって言ったけど……私、ぜんぜんうらやましくなんてなかったんだよ。教会の神さまなんていらない。神さまなんて何もしてくれない。
ここの人たちなんてみんな死んじゃえって、私、さっき言ったんだ。本気で言ったんだ。その中に……ユーリだって入ってたんだよ。だから、ごめん……私はユーリに親切にはしてもらえない。そんな資格、私にはないよ」
心臓にぐさりと杭が突き刺さった。
彼女が悪いのではない。自分自身の甘さと浅慮を思い知って。
自分と同年代で同じくらいの血筋を持つ子供がいたと知ったとき、そしてそれがキーリだと知ったとき、ユリウスは実は相当に嬉しかったのだ。最高だ! とすら思った。シグリ・ロウに同い年くらいの子供がいたら友だちになれただろうかと考えたことがある、それが現実になって、しかもそれがキーリだなんて。
だから本当は、少し有頂天になってここに会いに来たのだ。それが今、崖から突き落とされたような気分だった。自分のことしか考えていなかったのだと思い知った。彼女にしてみれば突然突きつけられた自分の出生の事実にまだ戸惑いと拒絶感しかなくて、こんな部屋に一人で閉じ込められて、心細い気持ちを必死で頑なな態度で押し隠そうとしていたのだ。今やっとそれを理解した。痛いほどに。
ああ、オレは自分のことで浮かれていて、彼女がどんな気持ちでここに来たのか、どんな覚悟で一人で敵地に乗り込んできたのか、ぜんぜんわかっていなかった。背は彼女よりもだいぶ高くなったのに自分はまだまだ子供で、孤立している少女にかける言葉が見つからない。
「明後日、また来るよ……」
押し黙っているキーリにどうにかそれだけ言い残し、部屋を出た。
「ちぇ……」
廊下に出てから舌打ちが漏れた。かなわない。悔しいけど、本当にまったく腹立たしいけど、自分では彼女の支えになれない。あいつの代わりにはなれないのだと痛感した。なんであいつなんかがそんなにいいのか、ほんとにさっぱりわからないけど。でも……かなわないのだ。きっとどんなに背が伸びても、いつまでたっても。
(どこにいるんだ……)
鉱山鉄道で化け物に襲われたときにはぐれたようだ。父親のツテで行方を追えるだろうかと考えながら、歩く足は帰途にはつかず、説教部最高責任者の執務室へと向かっていた。
執務室の前で、ちょうど会議か何かから戻ってきたところらしいシグリ・ロウの姿を見つけることができた。
「シグリ卿」
声をかけると、教会の最高機関・長老会の一翼、自分などではまだとうてい身分がかなわない男がこちらを向く。もう一人、名前は知らないが側近らしい神官が斜め後ろに従っていた。キーリと面会する段取りをつけてくれた神官だ。シグリ・ロウは一瞬こっちが誰だかわからない顔をしたが、「ああ、ユリウスか。様子を見てきてくれたんだったな。どうだった」と、疲れ気味だが気さくな笑顔を見せた。
「父から用事を言づかってきました」
ロウの問いには答えず、ユリウスは硬い声で別の用件を切りだす。これが父親に頼まれたもう一つの仕事。シグリ・ロウはやや怪訝な顔をして耳を傾ける。
ひと呼吸おき、意を決してはっきりした口調で、言った。
「最近問題になっている化け物事件、長老会は何故揉み消しているんですか」
シグリ・ロウの顔からすうっと静かに表情が消えた。後ろに控える神官のほうはなんてことを言いだすんだこの子供はとでも言いたげに蒼い顔で跳びあがる。
「悪いんだが、ゆっくり話をしている時間はないんだ。またすぐ会議が……グス・ロウの葬儀についての打ち合わせがあってな、行かなければ」
「父からの伝言です」
態度は平静ながら露骨にはぐらかしてきびすを返すシグリ・ロウの前にユリウスは両手を広げてまわり込んだ。自分よりも若干背が高いロウの顔を真剣な顔で睨みあげ、父親から言づかった台詞を頭に浮かべて、ひと言も漏らさないよう口に出す。
「もともと寿命が近い老人の葬式問題なんかより、なんで今現実に、市民に犠牲が出ている問題に対処しないのか」
大きく一つ息を吸い、
「老い先短い呆け老人の一人や二人、放っておけ!」
言づかった台詞をそのまま、捨て台詞として言い残し、シグリ・ロウが啞然として絶句しているうちに身をひるがえして走って逃げた。
スッキリした。
「な、なんです? 今の少年はっ」
「友人の息子だ」
「だからといって、あんな暴言をですねっ……」
「いや、いいんだ。放っておきなさい」
走り去っていく少年の後ろ姿に気色ばんで声を荒げたが、若干顔色を失いながらも冷静にシグリ・ロウが言うので神官は仕方なく引きさがった。
「娘の様子を見てきてくれないか。私はまたすぐに出ないといけないから」
指示を残して執務室へと入るシグリ・ロウの背中に「はっ、はい。わかりました」とあたふたと礼をし、令嬢の部屋がある階へと向かいつつ、
(老い先短い……確かに)
ちょっとだけ笑いを漏らしてしまい誰も見ていないのだが慌てて頰を引き締める。とてもじゃないが首都内部で口に出せるものではない台詞を言い捨てて走り去った少年を、実を言うと微妙に尊敬してしまったりもした。
春の年度はじめ、本当だったら明日から神学校の非常勤講師の仕事に就くことになっていたのだが、シグリ・ロウの使者を命じられて以降、なりゆきでそのままロウの側近的な立場になってしまい、結局まだロウのそばについてまわっている。主な仕事は到着したばかりのロウの令嬢の身のまわりの世話、およびロウの自宅に軟禁中の女不死人の監視(というか使いっ走りというか)など、ロウの個人的な問題全般の責任者、という感じだ。おそらくは、非常勤講師などよりもロウのそばに仕えることのほうがよほど出世の近道になる。ロウが失脚するようなことがあれば一蓮托生で転がり落ちるわけだが。
一般信者を混乱させないためにまだ上層部のみで情報規制されているが、今、首都上層部はたいへんにごたごたした事態に陥っている。昨年秋の長老会第一老の大往生に端を発するように、今年に入ってから相次いで四人の(……老い先短い)長老が急逝したのだ。一人目と二人目の死因は心臓麻痺──老齢ということもあり長老会の世代交替が騒がれた程度だったが、三人目と四人目の死に方が異常だった。三人目は吐血して突然死。四人目は──自室の天井のルーフファンから首がぶらさがっているのを、朝になって侍女が発見した。四人の長老の死亡はまだ公にされておらず、公葬も行われていない。
長老を狙った暗殺者? あるいは第一老の呪いか──などと禁忌に触れる噂も囁かれ、上層部には不穏な空気が漂いはじめた。さらに拍車をかけている問題が、ウエスタベリから運び込まれた不発弾の利用権をめぐっての長老会内部での派閥争い。
こつこつと、夜の廊下に響く自分の足音につい微妙にびくついてしまう。何気なく普段どおりの仕事をこなしながらも、陰では長老たちの死に関する噂話や怯えた空気が絶えることがない昨今。治安部から派遣されてきた警備の兵士が説教部内部にも出入りしており、治安部と説教部との折りあいの悪さも作用して空気はさらにぎすぎすしている。
それに加えて市街のほうで頻発している化け物騒ぎ。長老たちの連続死事件も謎の化け物騒ぎも、思えば起こりはじめた時期があの不発弾が首都に運び込まれた時期と一致する気がするのは……まあ考えすぎだろうか。
退屈だ退屈だと愚痴をこぼしていた田舎町での仕事と比べて、あの女不死人を拾ってからというものなんという波乱と陰謀の間近に居合わせた生活であることか。
こんな時期に首都に召還された自分は、果たして幸運なのか不運なのか──。

どうやら落ち着いてきたらしい令嬢を、ずっと部屋に軟禁しているのもなんだからと連れだして総本山を案内したのは、到着から二日後のこと。「ベアトリクスに会わせてください。無事なんですか」と彼女は未だ硬い態度で何度か言ってきたが、それについてはまだシグリ・ロウの許可が下りていなかった。
「無事すぎるくらい無事です」
というのが神官の毎度の答えになる。実際そのとおりなので。
大聖堂ではその時間、(上層部でのごたごたなど微塵も見せることなく通常どおりに)遠方から訪れた巡礼者たちが参列して朝の礼拝が行われていた。聖歌隊が立つ一段高くなったバルコニーから見おろすと、礼拝時の正装である暗色の帽子やショールを被った人々の頭がぽこぽこ殴る何かのゲームができそうな感じに大ホールいっぱいを埋め尽くしている。沈黙の時間とはいえこれだけの人数が集まるとかすかにざわつく大聖堂。前方中央の壁に設えられた塔状の飾り柱の上部に半円形のバルコニーが張りだしており、純白に金の飾りで縁取られた長衣を身にまとったシグリ・ロウの説教が続いている。壁一面の荘厳なステンドグラスが淡く色を帯びた光をロウの背に落とす。
毎度のことながらシグリ・ロウの説教には感嘆する。普段は(失礼ながら)あまり威光のようなものを帯びた人物とは言えないのだが、腐っても長老というのか(……失礼ながら)、ロウの聖書の講釈は専門の教育を受けない者にも非常にわかりやすく説得力があり、説教台に立ったロウの声は低く穏やかに響いて聞く者の耳に沁み渡る。
「いかがです?」
聖歌隊の陰から礼拝の様子を見学する令嬢の横顔をちらりと窺い、訊いてみると、
「イースタベリの礼拝堂よりずっと大きいですね」
と、彼女は故意に話題をずらした答え方をした。
「……お父上のお仕事ぶり、いかがです?」
躊躇したが、あらためてもう少し直接的に訊いてみた。
「お父さんだって、私はまだ信じてません」
印象深い濃い色の瞳でほとんど睨むように中央のバルコニーを見据えながら、彼女は硬い声で答える。初日のように暴れることはなくなったものの相変わらずの頑なな態度に神官はやや鼻白んで肩をすくめた。
礼拝半ばで彼女は興味を失ったらしくふいと視線を背けてその場をあとにした。一人にするわけにはいかないので神官もあとを追いかけて隣を歩く。礼拝の真っ最中なので大聖堂を出ると人気はなく、静謐な空気に包まれた廊下の背後から聖歌隊の歌声が聞こえはじめた。
取りたてて話題もなく、話しかけたところでどうせぶっきらぼうな短い言葉が返ってくるだけで終わってしまうので、気まずい沈黙のまま二人並んでしばらく歩く。
主はわれらの試練のため
砂と枯れ野の惑星をお与えになった
惑星を行く子供たち 荒れ地を耕し麦を植え
「……前から、言おうと思っていたんですけど」
聖歌隊の遠い歌声に何気なく耳を傾けながら歩いていると、珍しく少女のほうから口を開いた。「え? はい、なんでしょう?」突然話しかけられたので神官は少々怯んで応じる。唐突に攻撃的な行動に出たりして危険きわまりないのでどうも彼女に対しては苦手意識がついてしまっている。
こっちの背後に彼女はついと視線を投げる仕草をし、
「後ろにいるのは、誰ですか?」
「はっ?」
思わずひっくり返った声をあげ、横に跳び退いて今いた場所を振り返ってしまった。もちろん何もいはしなかったが、あの女不死人にも同じようなことを言われたのを思いだして背筋が寒くなる。少女のほうは平静そのものの態度で続ける。
「最近、身近で亡くなった人がいますか?」
「い、いませんよっ」
とっさの答えに少女は「そうですか」と答えたが、それでも小首をかしげて神官の背後にじっと視線を向けている。
「な、なんなんですか……?」
「気にしなくていいと思います。あなたを見守っている人がいるだけだから」
と、少女は言い残してふっと視線を背けてしまった。
「って、あの、めちゃくちゃ気になりますよっ」
蒼い顔で喚いたときには少女は気にしたふうもなく再び歩きだしている。「ちょっ、待ってくださいっ……」自分の背後をちらちら気にしながら神官はあたふたと小走りで彼女を追いかけた。
(勘弁してくれよーっ……)
やっぱり危ない女の子だという認識を新たにする。冗談じゃないっ……。
見守っている人がいる──。
後ろを振り返りつつ振り返りつつ、足早に歩いていってしまう少女の黒髪の後ろ姿を追いかけながら、ふと思いあたったことがあった。
小さな小さな教会支部で独り暮らしをする自分を息子や孫みたいに可愛がってよく差し入れを持ってきてくれた、田舎町の気のいい老人たち。最初のうちは仕事も慣れず、田舎暮らしに溶け込めなかった自分をゆるやかに受け入れてくれた。五年間の勤めのあいだに、大往生して見送った老人も何人かいた。
もう十分生きたから、満足だよ。最後にあんたに見送ってもらえてよかった。
いつでも見守っとるからね。がんばりな……。
そんな言葉を残して、穏やかに生涯を閉じた人生の先達たち。
退屈きわまりなかった。逃げだしたくて仕方がなかった。しかし、素朴で平穏に満ちた暮らしではあった。逃げだすことが叶った結果が、今こうして、不穏な思惑が渦巻く首都上層部の端っこに引っかかっていたりする。
あの頃、自分は何がしたくてあんなにもあそこを逃げだしたかったのだろう。今のこんな状況を本当に望んでいたのだろうか。見えないものに憧れていただけなのかもしれない。
果たして今が幸運なのか、不運なのか。
「今日は様子はどうだった」
その日の夜、またぞろいろいろ面倒くさい会議を終えてようやく執務室のデスクに戻ってきたシグリ・ロウに恒例のように訊かれた。自分で娘の様子を見にいけばいいものを、初日にひどい拒絶反応を示されて以来自分から顔をあわせにいっていないのだこの人は。そういえばすでに他界している自分の父親も、子供に対しては不器用にしか接することができない人だったなと思いだしてしまう。
「手強いお嬢さんですね」
昼間のことを思いだして素直な感想を漏らすと、
「母親似だ」
と、ロウは複雑な苦笑を漏らして言った。
「奥方が、どうして首都を追われることになったのか……あの、訊いてもいいですか」
ロウがデスクから顔をあげた。不用意な発言をしてしまったかと神官は焦って「申し訳ありませんっ。訊いてまずいことでしたら……」長老会が抹消したような過去なのだ、こんなことを訊いたら自分が抹消されるかも……! 撤回しようとしたが、
「いや、もういいんだ。聞きたければ話そう」
何かを思いだすように、ロウは虚空にふわりと視線を泳がせ、説教をするときと同じあの低く穏やかに沁みる声で、語りだした。

ちょっと気味が悪いんですよ、あの子。
何もないところに手を伸ばして、急に笑ったりするんです。私、怖くて……。
女たちのひそひそした話し声が聞こえていた。例えば近所の人についてのあまりよくない噂話をするときとかの、異質なものを排除しようという嫌な空気が会話全体に漂っている。三階のお婆ちゃんのところのお孫さん、拾われっ子なんですって──祖母と暮らしていたときのアパートの人たちの噂話を思い起こしてしまい、無条件に嫌悪感を覚える空気だった。
ひそひそ話をしているのは丸めたシーツや銀盆などを手にした、仕事の最中と思しき黒服の侍女たち。
侍女たちのお喋りがぴたりとやんだ。彼女たちがいっせいに振り返った視線の先に、赤ん坊を抱いた一人の女性が立っている。長い黒髪を頭の後ろで一つにまとめ、侍女たちよりもシンプルな黒い服を着た女性。静かな物腰で、しかし凛とした強い瞳で無駄話に花を咲かせていた彼女たちに睨みをきかせている。
あれは、私……?
「セツリさま」
一人の侍女の声に、違う、お母さんだとすぐに気がついた。ということは、産着に包まれて腕の中ですやすやと眠っているあの赤ん坊が私だ。
侍女たちが気まずそうに押し黙る中、臆した様子もなく堂々とした足取りでセツリが歩を進める。侍女たちの真ん中を通るとき、眠っていた赤ん坊がふいにむずかった。母親とよく似た、深く沈んだ濃い色の瞳がぱちりと開く。宙を漂う何かを追いかけるように赤ん坊はしばらくじいっと虚空を見つめ、
きゃっ、と楽しそうに笑った。
映像がじわりと滲んで消えたそこには、一枚の絵画が掛けられていた。十人ほどの人々がテーブルのパンを囲んで祈っている、そんな構図のとても精細に描かれた絵。寄宿学校に行っていた頃に教科書で見たことがある、聖書の一場面を描いた宗教画だ。照明を抑えた部屋は薄暗く、絵の中の人々の瞳が暗く沈んで肌が白く浮いて見えている。
(今の……)
滞在中の部屋としてあてがわれた塔の一室、キーリはベッドの端に座り、壁に掛けられた絵画を見つめていた。しんとした部屋の空気に静寂というノイズが停滞している。
絵画に描かれている人物の中の一人が、ふいに笑ったように見えた。
くすくすくす……
絵の中から笑い声が聞こえる。身を乗りだして凝視しようとしたとき、絵の中から白っぽい姿の影が飛びだしてきてぶつかりそうになり、キーリはとっさに身をすくめた。
笑い声が今度は横のほうから聞こえた。
まだ頭を低くしたまま視線を振り向けると、部屋の隅に一人の少女が立っていた。下着のような薄手の白い服を着た、黒髪の少女。自分となんとなく似ている。「あの……」声をかけようとしたが、そのとき少女が身をひるがえして闇の中にふわっと姿を消した。
くすくすくす……
また違う方向から笑い声。
声がした方向を捜すと、今度は部屋のドアの前にさっきの少女が立っている。くすくすと囁くような笑い声を立てながらドアの外へと抜けていく。白いスリップドレスの裾がひらりと羽根のようにドアの隙間に消える。

キーリは裸足でベッドを降りた。侍女が鍵をかけ忘れたのか、ノブを引いてみるときいと軋む音を立ててドアはあいた。そうっと廊下に顔を覗かせる。深夜の廊下に人気はなく、ぼんやりとした鈍い電灯が離れた間隔で浮いている。
ぺた。少女と同じ、素足に白いスリップドレス姿のままキーリは部屋を出た。
くすくすっ
声が聞こえた方向を振り返る。廊下の先にスリップドレスの裾が一瞬だけ見え、すぐに仄闇に溶けた。引き寄せられるようにキーリはそちらへ足を向ける。不思議とためらいや恐怖心はなかった。奇妙な少女を、何故だかずっと前から知っているような気がした。
塔の内部の構造は入り組んでいたが、迷いそうになると少女の笑い声が誘う。誘われるままぺたぺたと冷たい廊下を踏む。曲がりくねった廊下や階段をいくつか抜けると、アーチ形の天井がまっすぐ続く幅の広い廊下に出た。両側の壁に彫刻が施された柱が並び、柱と柱のあいだに一枚ずつ、部屋にあったのよりももっと大きな判の宗教画が並んでいる。
キーリはそこで立ちどまった。
廊下の向こう端に、まるで鏡と向かいあうようにあの少女が立っていた。白いスリップドレス姿が仄闇にぼんやりと浮かびあがって見える。
「あなた、誰……?」
自分の声がアーチ形の天井に控えめに響いた。
「忘れちゃった? 昔はよく、あたしを見て笑ってくれたのに」
拗ねたように口をとがらせて少女が答える。それからまたくすっと笑い、両手を広げてこちらに差しのべる仕草をする。少女のスリップドレスの裾がひらりと大きく舞いあがり、
「おかえり。古いともだち──……」
ごうっ──
屋内だというのにふいに正面から強い風が吹きつけ、キーリは顔を背けて固く目を閉じた。
ざわざわざわ……。囁きあう人々の声が聞こえてくる。次に目をあけたとき、両側の壁に並ぶ絵画が時間を逆まわしにしたみたいにいっせいにぐるぐる回転して映像を映しだした。処理しきれないくらいの映像が一気に意識の中に流れ込んできて目眩に襲われる。
風景は今日案内された大聖堂だった。大聖堂を埋め尽くす人々が一様に不安な面持ちで会話を交わしている。人々の視線が集中する先、ホールに張りだしたバルコニーの真下に血の海ができ、聖職者の祭儀用の白い長衣をまとった人物がその中心に倒れていた。老人だと思われるがその顔は見られたものではなく潰れている。純白の長衣が次第に深紅に染まっていき、血の海がじわりと生き物のように広がって取り囲む人々が怯えがちに輪を広げる。
何が起こったんだ、どうして急に落ちたんだ……?
足を滑らせたのか?
違う、見たぞ、誰かが突き落としたんだっ……。
人々の不穏なささめき。ざわざわと話しあう人々の表情が壁の絵画のそれぞれにさまざまな角度で映る。神官たちがざわつく礼拝者たちの人払いにあたりはじめている。絵の一つの中には人々を誘導するシグリ・ロウやユリウスの父親の姿も見えた。二人とも今よりもだいぶん若い。シグリ・ロウのそばには赤ん坊を抱いて立っているセツリの姿。
神官たちに誘導されて人々が立ち退きはじめたとき、大ホールを照らす電灯に大きな影が落ちた。
けたけたけたけたっ。きゃきゃきゃきゃきゃっ。狂ったような甲高い笑声が人々の頭上にこだまする。ホールの壁に並ぶ飾り灯がばちばちとはじけ、人々が恐慌に陥って逃げまどいはじめる。
きゃはっ。
混乱の中、場違いに無邪気な笑い声が一つあがった。セツリの腕に抱かれた赤ん坊だけが楽しそうにきゃっきゃと笑い、虚空に射す影に向かって幼い手を振っている。
「悪魔の子だ! あの子の仕業だ!」
赤ん坊を指差して誰かが叫んだ。ヒステリックな叫び声はすでに恐慌の頂点に達していた人々のあいだを縫ってあっという間に伝染する。興奮状態に陥り暴徒と化して赤ん坊を奪おうとする人々に取り囲まれて、赤ん坊を守るセツリがもみくちゃにされる。
(お母さん! やめてっ、お母さんが、誰かお母さんを助けてっ──)
意識に流れ込んでくる映像に向かってキーリは必死で叫んで手を伸ばした。しかし意識の表面を流れ過ぎるだけの映像にはキーリの手も声も当然届かない。それまで笑っていた赤ん坊が──赤ん坊の自分が、張り裂けるような大声で泣きだした。耳に障る甲高い泣き声がさらに人々のパニックに拍車をかける。
赤ん坊を抱きしめて守りながら、セツリが誰かを捜して人々の隙間に視線を巡らせる。視線の先に誰かの姿を見つけ、助けを求めて手を伸ばす。キーリの意識がその視線の先を追う。
混乱の輪から少し離れた場所に、シグリ・ロウが立っていた。錯乱し興奮する人々に乱暴に押しのけられながら、呆然とした様子で立ち尽くして事態を見守っている。娘を抱いて助けを求める妻の細い手から、シグリ・ロウは、唇を嚙んでついと視線を逸らした。
セツリの深く沈んだ悲しげな瞳を最後に、混乱の映像は暗転した。
一時の空白のあと、絵の中から控えめにささめく声が再び聞こえはじめる。「亡くなった第十一老の後継者は……」「シグリ卿が第一候補だったはず」「しかし娘が悪魔の子だって噂が……」人々のざわめきを背景に、絵の中にはどっしりした円卓が鎮座する豪華な部屋が浮かびあがってくる。装飾のある黒い長衣を身にまとった老人たちが円卓を囲んで座っている。
老人たちが険しい視線を向ける末席に、一人の男が立っている。
「どうする、シグリ卿」上席に座る老人が問う。
「この円卓の末席に、名を連ねたいかね」別の老人が問う。
「奥方と娘を切り捨てる覚悟があるか」別の老人が問う。
十人の老人の二十の瞳が末席に立つ男に集中する。少しの沈黙。
そして男は。
「……はい」
前を見据えて、頷いた。
壁の宗教画はすべて普通の静止した絵画に戻っていた。部屋にあった絵の中から現れたあの少女の姿も消えている。さっきまで少女が立っていた場所、絵画が並ぶ廊下の先から冷たい風が吹き込んできていた。
ひたひたと冷たい足音をかすかに立てて、キーリは廊下を先へと進んだ。
廊下を抜けた途端、びゅうと突風が吹きつけてきた。廊下の先には塔と塔とを繫ぐ吹きさらしの柱廊が延びていた。等間隔で並ぶ太い柱の隙間に、切り立った山脈の影が黒く沈んで見えている。山沿いの冷たい風が薄手のスリップドレスをはためかせ、露出した肌があっという間に凍えてくる。自分の腕を抱えるようにキーリは身をすくめた。
回廊の向こう側から歩いてくる人影が見えた。闇に溶け込む黒い長衣を身にまとい、書類や本を脇に抱えたひょろっと瘦せた中背の影。細長い形の眼鏡の縁がかすかな灯りを反射して銀色に光り、その人物が誰なのかわかる。夜闇の下に白いスリップ姿で立つキーリは目立つのか、相手のほうもすぐに気がついて驚いたように足をとめた。
キーリはとっさに百八十度反転してその場から逃げようとしたが、
「まっ、待ちなさいっ」
呼びとめる声につい足をゆるめた。追いついてきたシグリに後ろから腕を摑まれ、勢いでつんのめって二人で転ぶ格好になった。ばさばさと書類が床に散らばる。「す、すまない。怪我はないか」不器用に謝りながら助け起こそうとするシグリの手をキーリは振り払った。柱廊の端で座り込んだまま、それから少しのあいだ二人とも沈黙して荒い息を整える。
目の前の男から顔を背けて横目で睨むような格好で、硬い声でキーリは言った。
「こんな時間まで、お仕事ですか」
問われたシグリは周囲に散らばった書類や本に一度視線を落とし、
「ああ……今いろいろと、問題が起こっているから、忙しくて……」
疲れているらしい、やつれた顔に戸惑いがちの笑みを乗せてそう答えた。キーリは視線を俯けて、膝に置いた拳を握りしめる。
「そんなに、長老になりたかったですか。お母さんと私を捨ててまで」
呟いた声は少し震えた。シグリが絶句するのがわかる。血がとまるほどにキーリはいっそうきつく拳を握る。
しばらくおいて、悲痛な声で、ひと言短い返事があった。
「すまない……」
教会のトップに名を連ねる人間の威厳も何もなく、素直に頭を下げる姿を目にして、キーリは何かに幻滅した。哀れっぽく謝る姿に幻滅したのではない。たぶんその逆だった。「やめてください。私に謝ったってしょうがないです。謝るんならお母さんに謝ってください。お母さんは……お母さんは、強い人だったけどっ……」
今しがた見た映像を思いだす。
父に見放されたときの、母の絶望した顔。
「でも、きっとあのとき、あなたに助けて欲しかったんだっ……」
こんな男の前で涙を見せるのが悔しくて、泣きそうになるのをこらえて下を向いた。それでも握りしめた拳の上にぽつりと一つ涙が落ちてしまう。その手の甲に、シグリの瘦せた大きな手が重ねられた。「放してっ」「すまないっ……」振り払おうとしたがシグリは手を放してくれず、キーリの手の甲に自分の額をこすりつけるようにして頭を下げる。
「すまない、本当にすまない……」
「私に謝ったって、お母さんは帰ってこない。私はあなたを父親だなんて認めない」
土下座でもするように額をつけて謝罪の言葉を重ねるシグリの手の中からキーリは強引に自分の手を引き抜いた。身をひるがえして半ば転がるように、座り込んだシグリをその場に残し今来た廊下を取って返して走りだす。
幻滅した。こんなのは絶対にあり得なかった。
教会のトップの人間というのはもっと居丈高で尊大で不遜な悪役の幹部で、いもしない神さまの教えを人々に吹聴して人心を惑わす詐欺師の親玉で、キーリの前に立ち塞がる巨大な悪の壁でないと駄目なのだ。ユドを殺して、母親を殺して、ハーヴェイをぼろぼろにして、ベアトリクスを捕まえて、そんな許しがたい行いの数々の元凶である、キーリにとって最大の憎むべき敵が、あんなただの疲れきった普通の人では駄目なのだ。この程度のつまらない敵のためにキーリの大切な人たちが今までさんざん苦しめられてきたなんて、そんなのは認めない。こんな程度じゃ許さない。あの人は簡単に謝ったりしては駄目なのだ。こんなに簡単に謝られて決着するんだったら、私は何と戦いに来たのかわからないじゃないか──。
裸足で走って廊下を引き返し、部屋に戻ったときにはすっかり息があがっていた。
ドアを閉めてそのまま飛び込むようにベッドに突っ伏す。
(はやく迎えにきて、ハーヴェイっ……)
心の中で泣き言を訴える。もう限界だと思った。こんなところにはいたくない。ベアトリクスを助けてもう帰ろう。はやく帰ろう。みんなでイースタベリに帰って、それでもうこんな人たちとは関わらないで、みんなで楽しく暮らすことってできないの?
「ハーヴェイ……兵長っ……」
枕に顔を埋めたまま、こもった嗚咽と涙声が部屋の静寂に吸い込まれる。
心の中ではそう願いながらも、どんなに願ってもそんな未来はきっと訪れることはないのだろうとわかっていた。乗換駅の家に住もうって、ハーヴェイはそう言っていたけど、あの人は本心ではそんな未来を思い描いてはいないのだ。二年半前、十四歳、彼らと出会った頃の、自分の居場所を見つけたと思っていた幸せな時間はいつの間にか遠くに流れてしまって、もう取り戻すことはできない。
「よう。何泣いてんの?」
頭の上で唐突に声が聞こえた。枕に突っ伏した顔をあげると、部屋の薄闇に溶け込む濃い青灰色の双眸がこちらを見ている。いつの間に……たぶん部屋を出ているあいだに入ってきたのだろう。ベッドの頭の飾り縁のところに、神官姿の長身瘦軀の男がちんまりと膝を抱えた格好でしゃがんでいた。
キーリはぱっと起きあがってベッドの反対側の端まで跳び退いた。涙を拭い、楯にするように枕を抱えて相手を睨む。
最初にここに来た日に姿を消してから、三日間。
「今まで何してたの? ……あの人、殺すんじゃなかったの」
自分の台詞が陰湿に薄闇に浸み込んだ。
「うーん、そうだなあ……お前が父親と感動の再会ってやつを果たしたところでぶっ壊してやろうと思って待っててやったんだけど、見事に決裂したなあ」
薄い笑いを浮かべて男が答える。半分は本当かもしれないが、半分は噓だろうと思った。わずかな部屋灯りに照らされる男の頰の片側の皮膚が緑色に溶けているのがわかる。たぶんどこかでまた動けなくなっていたのだろう。
「で、何泣いてんの?」
おそらく理由はわかっているくせににこにこと白々しく再び訊いてくる。キーリは体裁悪く鼻をすすり、仏頂面を俯けてぼそっと呟いた。こんな奴にどうして素直に話してしまうのか自分でもわからなかったけど、でも逆に、この男にならこんなことを告白してもいいような気がした。「……私、ここにはきっと大きな敵がいて、そいつを倒せばぜんぶ問題が解決するような気がしてた。でも、ここにはそんな敵なんていなくて……」いたのは、過去の行いを後悔している疲れた普通の人だけで。
「ずるいよ。私は、何を憎んだらいい……?」
話しながら、自分もあの鉱山鉄道の老機関士と同じだと、自分の心の底にある暗部に気がついて自分自身に失望した。誰かを憎んで当たり散らすことでしか大切な人を失くした苦痛を乗り越えることができなかった、あの偏屈な老人と。
自分もたぶん敵が必要な種類の人間なのだ。大切なものが失われていく、そのことを誰かのせいにしないと気が済まない。ハーヴェイはきっと違うのに。ハーヴェイは自分の利害を犯す者を自然と赦せる人なのだ。それに比べて自分はなんて心が狭い人間だろう。
俯いた頭をふいにぐしゃぐしゃと撫でられた。いつの間にかヨアヒムがすぐ目の前にしゃがんでいる。
「よしよし、泣かなくていいぞ」
と、小さい子供をあやすみたいに。キーリはきまり悪く身を硬くしたが、その声に今は何故だかすがりたくて抵抗しない。穏やかで優しいような、でも夜の闇に似た暗部を内包した、そんな声が耳に浸み入る。
「俺とお前は同類だよ。だから俺が手伝ってやるよ。お前の敵を殺してきてやる」
声が消えたとき、男の気配もまた闇と同化して消えていた。
枕を抱いてうなだれて、キーリはしばらくその格好のまま動かなかった。なんとなく熱に浮かされたような気分で、形にならない茫洋とした思考がぐるぐると頭の中を巡っていた。
俺が手伝ってやるよ。お前の敵を殺してきてやる。
その言葉を拒絶しなかった自分。誰かがそうしてくれたなら、本当にそれでもいいような気がした。
ふとハーヴェイの顔が脳裏をよぎる。キーリが間違いを犯すたびに泣きそうな表情をする赤銅色の瞳。今は片方の瞳は暗褐色。
(……駄目だ)
枕をぎゅっと抱きしめて、強く思う。
違う、こんなのはきっと駄目だ。私は今また間違おうとしている。
「ヨアヒムっ……」
ようやく我に返って顔をあげる。薄闇に支配された部屋の中には今はもう自分一人の気配しかない。一瞬だけ硬直したあとキーリはベッドを滑り降りた。裸足で部屋を飛びだす前にまだ抱いていた枕をベッドの上に放りだした。

あいつのタマシイは瘦せててウマくない……。
でも腹の足しにはなるか……?
喰っちゃおうか……。
さわさわと囁きあいながら、人型の影たちがぬるりと部屋の隅から這いだしてくる。書机の前に立つ男を狙って異様に長くいびつに骨張った手足で床を這う。しかし途中でぴたりと動きをとめた。
またオマエ……邪魔するのか……。
オマエ、タマシイない。喰えない。邪魔なだけ……。
ヨアヒムが一瞥をくれると、人型たちは恨めしげなささめきを残して部屋の隅へと引きさがり、闇に溶けて姿を消した。
書類を書机に置いた長衣の男が気配に気づいて振り返ろうとした。「振り返るな」先手を取って背後から男の片腕をひねりあげ、首筋にフォールディング・ナイフを突きつける。かすかな呻き声を漏らして男が動きをとめる。
「誰だ、いったい……」
「死神」
掠れた問いかけにヨアヒムは飄々と答えた。男の肩の関節がみしりと軋む。かろうじて身をよじって耐えながら苦しげな声で、しかし毅然として男が問い返す。
「君が、例の暗殺者か……?」
「そりゃ買いかぶりだな。まあ、あんたらが目に見える人間に犯人を求めたいんだったらそういうことにしといてもいい」
「私を殺すのか」
「うん。命乞いするか?」
無邪気とも言える質問に、男は肩の痛みに脂汗を流しながらも抵抗も哀願もしなかった。強がりなのかわからないが意外にも冷静な反応にヨアヒムは若干拍子抜けした。前回殺した(いや殺そうと思って取り入ったら悪霊どもに先を越されて呪い殺されたのだが)あの脂ぎった老いぼれは死んでもなお未練がましく命乞いをしてきたものだが。なんでこの男はあんなふうに怯えて命乞いをしないのか、理解に苦しむ。
「命乞いしろよ」
ナイフを押しあてた首筋に顔を寄せて囁く。しかし男は諦観したような表情で視線を伏せただけ。罪悪感を無駄に無意味に手前勝手にしょい込んで生きているような、男から感じるそんな雰囲気があいつと似ていて唐突にむかむかし、
かこんっ。
場違いに間が抜けた乾いた音。ねじあげた腕をさらにひねって肩の関節をはずした。
「うあ」
男の口から掠れた悲鳴があがる。しかし男はまだ抵抗しない。
「……君は、何がしたいんだ? 何が目的でこんなことをしている?」
逆に相手のほうからまた問われた。「目的?」殺そうとしている側と殺されようとしている側の立場で何故こっちが質問を受けているのか疑問だが──そもそも自分は今のところ長老殺しの連続犯などではなく真犯人は悪霊どもの呪いなわけだが、その質問には少々興味がわいた。暗殺者のつもりになって答えてみる。
「ぶっ殺したいからやってる。むかつくから、ぜんぶぶっ壊す」
「ふむ……それで、君はそのあとどうする」
「そのあとって?」
予想外の問い返しに面食らってつい素で訊き返してしまった。
ナイフの刃先が触れた男の首に血の筋が滲む。命乞いしてみろ、他のジジイどもみたいにみっともなくすがりついてみろ。そう思ってナイフを押しあてるが、肩をはずされ苦痛に顔を歪めながらも男の口調は静かだった。頰にうっすらと自嘲の笑みすら浮かべて。
「……私にも昔、望みがあった。それを手に入れるためにさまざまなものを捨ててきた。しかし実際にそれを手に入れられる場所まで昇り詰めてみたら、何が欲しかったのかわからなくなってしまった。実体のない、つまらない理想を摑まえようとしていただけだったのだと気がついた。……そのときにはもう、取り返しのつかないものを捨ててしまっていた。
愚かだったよ……今さら後戻りして罪を償うことができるなどと、あの子を取り戻すことができるなどと、一時でも期待していたなんてな……」
部屋を出て後ろ手にドアを閉めたところで、ぺたぺたと裸足の足音が駆け寄ってきた。廊下の先から現れた少女がこっちの姿を見て足をとめた。
「こ……殺した、の?」
息を整えて一つ唾を飲み込み、蒼ざめた顔で訊いてくる。ヨアヒムは片方の肩をすくめて背後のドアに目配せしてみせた。
「肩はずれてるから、介抱してやれば?」
少女がドアに視線を向ける。一歩踏みだしてから思いなおして立ちどまり、一時迷ったように俯いたあと、「だ、誰か呼んでくるっ……」もと来た廊下を引き返す少女を一瞥しただけでヨアヒムは反対方向に歩きだした。
「ヨアヒム──」
遠慮がちに呼ばれて軽く振り返る。少女のほうも足をとめてこっちを振り返っている。何か言おうとして口を開いたが、結局言いたいことが決まらなかったような複雑な顔。ヨアヒムは聞こえよがしの舌打ちをし、
「お前なんか仲間じゃなかった」
ふいと視線を背けて再び歩きだした。少女が再び呼んだがもう振り返らなかった。
(なんだよ……)
結局心配で飛びだしてきたんじゃねえか。お前が望むからやってやろうと思ったのに、本当はやっぱり殺して欲しくなんかなかったんじゃねえか。むかむかした。周囲のすべてに。あの小娘にも、命乞いの代わりに小難しいご託を並べるあの男にも、いないくせにいつも影みたいに自分の意識の隅にちらついているあの馬鹿にも。
でも、オマエも殺さなかった……。
ナンデ殺さなかった……。
廊下の隅で悪霊たちが嘲笑うようにささめいていた。横目で睨むと嘲りを残して壁の中に消える。無人の廊下を一人歩く自分の足音が薄闇に響く。ぼたり、ぼたりと、無雑作に垂らした左手の指先から粘ついた物体が滴る重い音が足音にともなう。少しすると遠く背後で人が集まってくるざわめきが聞こえはじめた。
何がしたいんだ?──
何もかも気に入らないから、ぜんぶ壊せば気に入る世界になると思った。
そのあとは?──
そのあとって?
左手を前に伸ばしてみる。異常活性して泡だった細胞が指の隙間から溢れ、ぼたり、ぼたりと床に腐り落ちる。五指の爪はすでに原形をとどめず、指の関節の骨がわずかに露わになっている。
(俺が、欲しかったもの……)
自分の指先から細胞がどろどろと溶け落ちるさまを、しばらく無表情に見つめていた。