暇だ。
そろそろ退屈が限界に達してきたので猫をからかうことにした。
「ガム食う? ガム」
ホームの隅にしゃがみ込み、駅舎の壁際で丸くなってこっちを窺っているみすぼらしい生き物にガムを差しだしてみる。警戒しながらそいつがそろそろと近づいてきたが、もう少しで捕獲というところで身をひるがえして逃げようとしたので後ろ脚をむんずと摑んだ。
「ギニャーッ」
濁った鳴き声とともにそいつに激しく引っ搔かれ、つい手を放すとそいつは勢いあまって無様にもんどり打ったあときしゃーっと威嚇を残して一目散に壁を駆けのぼり駅舎の裏手に逃げていった。「ちぇ。せっかくガムやろうと思ったのに」猫がガムまみれになってくっついて困るのを見たら暇潰しになるのではないかと思った。
行き場を失ったガムを口に放り込み、くちゃくちゃと嚙みながら引っ搔かれた手の甲を見おろす。三本の引き攣れた引っ搔き傷から浸みだす血が次第にじゅくじゅくした膿のような黒いコールタール状に変化し再生がはじまる。修復が行き過ぎて余った細胞が腐肉と化して足もとに落ち、即座に蒸発して干からびる。しばらく眺めていたがやがて興味を失った。
しゃがんだ格好のまま首を振り向け、
「なー」
と猫なで声をかける。ホームの突端に腰を降ろした少女は線路の先に視線を固定したまま反応しない。
「なー。なー」
無反応。
「なーってば。いい加減諦めて行こうぜ。待ってたってあいつ来ねえよ。食われたんだよ」
そこまで言うとようやく反応があった。きっとした表情で一度こっちを振り返り、すぐにまたつんと前を向いて、
「一人でどこでも行けばいいでしょ。誰も一緒に待っててなんて言ってない」
わお。エイフラムに対するのとすげえ態度の違いだよこの小娘。そんなに嫌われてるかねえとヨアヒムは肩をすくめた。「だって俺、お前と一緒じゃないとシグリ・ロウに会えないじゃん。化け物の集団に襲われた令嬢を保護して無事送り届けてシグリ・ロウに感謝されるっていう素敵なシナリオが台無しじゃん」喋りながら再び手を見おろすと、まるで食虫植物が口をあけるように傷口がまた開いてじゅくじゅくと膿んでいる。傷口を舐めるとコールタールの血液と膿んだ細胞の味が口の中のガムに絡まった。
ふと視線をあげるとキーリがまた振り返っていた。
「シグリ・ロウ……って人に会って、どうするの?」
険しい声音で。
「殺すの?」
「だったらどうする。とめるか?」
エイフラムにもしたような問いかけをする。キーリは少しのあいだ半眼でこっちを睨んでいたが、視線を前に戻してこう答えた。
「……別に」
それきりもうひと言も喋らず、頑として動かないという態度を露骨に表してまた線路の先を見据える。貨物車輛しか使わない閑散としたホームの突端。一直線に荒野を突っ切る線路が消える地平線に砂色の陽炎がたゆたい、次第に夕方の赤銅色を帯びはじめている。もうしばらくすると陽が落ちる。
「あーあ。散歩でもしてこよ」
溜め息をついてヨアヒムは腰をあげた。立ちあがると右手から腐肉がぼとぼとと足もとに崩れ落ち、舌打ちをして外套のポケットに手を突っ込んだ。

線路の先に人影が見えたような気がして、キーリは一瞬期待して立ちあがりかけた。しかし春先の陽炎が作る錯覚だとわかり、落胆してホームの端に膝を抱え座りなおした。
人気のない寂れたホームには一輛だけになった機関車輛が停まっていた。機関士見習いの若者はどこかに救援を求める連絡をしに行ったらしく、駅舎に駆け込んでいったきりしばらく戻ってこない。
山脈沿いの坑道を行き来する貨物列車の荷降ろしと、坑道で働く労働者の乗り降りにしか使われていないそうで、鉄骨とトタン板で組まれた簡素な駅舎があるだけの殺風景な駅だった。〈北西鉱山区〉が首都の資源庫として栄えていた頃はこの駅ももっと賑わっていたのだろうが、今は旅行者はもちろんのこと労働者の姿もなく閑散としている。駅の背後には、労働者が住む集落なのだろう、山脈の斜面にへばりつくようにしてごみごみしたスラムが広がっている。このあたりのエリアは首都のために労働力を提供していながら首都に住むことができない人々のスラムなのだそうだ。山脈から〈門の街〉へと繫がっている水路がこのあたりの地下にも横たわっているらしく、全体的に古い水の匂いがする。
水の匂いの中に、かつてここを通った人々が遺した想いがうっすらと漂っていた。
駅という場所にはたくさんの人々の想いが停滞している。新しい街に着いたばかりのはずんだ心、大切な誰かを残していかなければいけなかった人、どこかへ行きたくても行けなかった無念の心、帰ってこない誰かの帰りを待ち続けた人……。
低い建物が密集するスラムの向こうに首都のゲートである城壁がそびえている。あのゲートを越えると首都の〈機械都市〉。城壁の向こうの斜面に濃灰色の尖塔が林立する都市の影が見える。首都の教会総本山を最後の巡礼地として目指してくる巡礼者たちには重厚で畏敬の対象なのであろうあの塔の群れは、どんよりとガスがかかって不景気な眺めに見えた。まるで墓標の群れのように。
誰の墓標?……
キーリの大切な人たちの墓標になることがないように。
そんなことを考えてしまい、ぎゅっと心臓のあたりを押さえた。
(ハーヴェイ、兵長……大丈夫……? 今どこ……?)
心細くなる気持ちをどうにか繫ぎとめようとした。不安なことを考えないように、ハーヴェイの声だけを頭の中で何度も思いだす。
イースタベリの乗換駅の、タダイが住んでた家があるだろ。
今だいぶ荒れてるけど、住めるようにして、俺、あそこに住みたいな──。
口調が少し投げやりなのはいつもの癖で、静かに穏やかに話す低い声が胸に沁み込み、心が落ち着いてくる。
「にゃあ」
足もとでふと鳴き声が聞こえた。視線を落としてキーリはぱちくりと瞬きをした。
足を投げだして座ったホームの下に猫がいた。しかも白いのや黒いのや縞柄など四、五匹くらいも集まって、キーリの足もとをうろうろしたりホームに跳び乗ってきたりしている。
「な、何……かな?」
ちょっと引き気味になりつつ、つい猫に向かって訊いてしまう。
どの猫も野良猫っぽくずいぶん汚れて瘦せていた。そういえばこの駅に着いたばかりのときにも猫を見かけて、誰かが餌をやっているらしくこのあたりには野良猫が集まっているのだと機関士見習いの若者が説明してくれたのを思いだした。それはそれとして、野良猫ってこんなふうに無警戒に見ず知らずの人間のそばに集まってくるものだろうか。
猫はキーリのそばに集まっているわけではなく、隣にもう一人、別の人影があることに気がついた──今しがたまで誰もいなかったはずなのに。少しばかりぎょっとしてキーリは隣を振り返る。白っぽい作業服を着た男がキーリと並んでホームの突端に座り、足もとの猫たちを何気なく見おろしていた。
つい無遠慮に男を凝視していると男もこちらに顔を向け、キーリと目があうと少し驚いた顔をした。けれどそれからすぐに淡く笑って、
「こんにちは」
穏やかでごく自然な挨拶に、キーリもとりあえず、
「こ、こんにちは」
と挨拶を返す。人の好さそうな笑い方をする、瘦せた若い男だった。作業服は坑道の労働者だろうか。
猫たちはキーリではなくて男の周囲に集まっているのだった。足もとをうろうろしてじゃれついたり、寄り添って座りすっかり安心した顔をして後ろ脚で耳を搔いたりしている。不思議そうに見ているキーリの視線に気がついて男が苦笑し、
「前にちょっと餌をやったら、なんか集まってきちゃって」
「ああ……」
とキーリは曖昧に頷く。猫に餌をあげていたというのはこの人だったのか。
でも……。
キーリの心理が伝わったのか、男も寂しそうに視線を伏せた。
「もう俺、餌やれないんだけどね……ほら、何もないんだってば」
脚を振って追い払う仕草をしてみせるが、猫たちは無警戒に男のそばに寄ってきて何かを期待する目で見あげる。
一時考えて、キーリは自分の鞄を膝の上に引き寄せて中を探り、携帯食の干し肉の袋を見つけだした。少しずつちぎって足もとにばらまいてみる。猫たちは警戒した目でキーリを見あげている。しかし一番大きな白い猫が寄ってきて干し肉に食いつくと、他の猫たちも集まってきた。一番小さい瘦せた黒猫だけは離れたところで最後まで警戒していたが、やがて我慢できなくなったのかそろそろと寄ってきて、他の猫たちの隙間からひょこっと顔を出し餌をがっつきはじめた。みんなお腹が空いていたみたいだ。
猫たちの様子をしばらく見おろして、男がこちらに笑顔を向けた。
「ありがとう」
「いえ」
キーリははにかみ笑いを返す。
「懐いてるんですね、猫たち」
干し肉に食いつく猫たちを二人で見守りながらキーリが微笑ましげに言うと、男は困ったような微妙な笑みを見せた。「ちょっとした気まぐれで残り物やって、別にずっと面倒みようと思ったわけじゃないんだけど……。なんだってこんなに懐かれちゃったのかなあ」はあ、と深い溜め息。
ぼやく男の反応に既視感を覚えた。なんだか昔、よく見た表情。誰だろう? 誰かに似ている。
(あっ、ハーヴェイ……)
最初に会った頃のハーヴェイと重なったのだとすぐに気づく。
ちょっとした気まぐれで関わったせいで面倒な女の子に懐かれてひっついてこられて、最初はすごく迷惑そうにしていた。それでも結局ほっぽりだされることはなくて……。ということは、さしずめこの一番小さい黒猫が十四歳の頃の自分かな、なんて思う。黒くてちっちゃくて愛想がないところなんか、昔の自分に似ているかもしれない。
それからしばらく、餌を食べる猫たちの様子を男と並んで見守っていた。空の砂色が次第に黄昏色に近づきつつある、二人と猫たちだけの静かな時間。背後にそびえる機械都市から常に聞こえる低い地鳴りのようなボイラー音がかすかに空気に浸透している。
やがて干し肉をたいらげると猫たちはキーリにお礼の態度を示すでもなく、また男の足もとに集まってじゃれつきはじめた。男は少し邪険に脚を振り、
「俺もう、面倒みてやれないんだって。もうどっか行っちまえよ、ほら、あっち行け」
追い払おうとするが、猫たちは遊んでもらっていると思っているのか飛び退いたり飛びつこうとしたりして喜んでいる。男の脚に飛びついたあのチビの黒猫が脚をすり抜けてぺちゃっと転び、起きあがって不思議そうにきょろきょろする。
猫たちは……わかっていないのだろう。
彼がすでにこの世にいない人だということを。駅に漂うさまざまな人々の残思念の一つでしかないということを。
「なんで行かないんだよ……。俺じゃなくてもいいだろ、餌くれる人間なんて他にもいるよ」
まいったなあとうなだれて溜め息をつく男の様子にキーリは少し笑ってしまった。恨めしげな視線を向けられて慌ててごめんなさいと取り繕い、
「あの、あなたのこと、好きなんだなって思って」
「最初に餌やったのが俺じゃなかったら、俺じゃなくても別によかったんだよ」
「でも、餌をあげたのはあなただったから」
キーリの答えに、意外そうに男が瞬きをした。自分の口から出たことにキーリ自身少し驚いてしまい、自分の台詞の意味を考えつつ話す。
「……あなたじゃなくてもよかったのかもしれないです。他の誰かでも同じだったのかもしれない。でも、そのとき現れたのはあなただったから、この子たちが好きになったのはあなただった。……それだけのことじゃ、駄目なんでしょうか?」
一時ぽかんとした顔で男に見つめられ、なんだか語ってしまった自分が急に気恥ずかしくなって「あ、当たり前のことですね……」尻すぼみになって縮こまる。猫たちに絡まれながら男はしばらくこっちを見つめていたが、表情を崩して瘦せた顔にやわらかい微笑を浮かべた。
「そうだな……当たり前だけど、そんなもんなんだろうなあ、きっかけなんて」
どことなくハーヴェイと雰囲気が似ている人に笑顔を向けられ、キーリは胸をきゅっと締めつけられる思いがして視線を落とした。と、干し肉をあげたことをようやく認めてもらえたのか、猫たちがキーリの足にもじゃれついてきているのに気づき、
「あっ、私にも懐いて……」
嬉しくなって視線をあげたとき、男の姿は消えていた。
キーリと野良猫たちだけが残されたホームに北部の春先のまだ冷たい、しかし彼が残した微笑に似た不思議と心地よい風が吹き抜ける。
男がいた場所をしばらく見つめていたあと、キーリは再び線路の先に視線を戻した。
自分も何かを待ち続ける駅の思念や、家のない猫たちと同じみたい。
十四歳の、あのみすぼらしいひとりぼっちの黒猫みたいな女の子が、不死人の男の人とラジオの憑依霊の旅についていくことになったのは、本当に些細な偶然がきっかけだった。あのときの偶然の出会いがなかったら、ぜんぜん違った未来になっていたかもしれない。自分は今もまだイースタベリの寄宿学校で単調な生活を送っていたかもしれない。もしかしたら別の誰かと出会って、別の旅に出ていたかもしれない。もしかしたらその別の誰かがキーリの大切な人になっていたかもしれない。
最初の偶然を起こしてくれる誰かは、誰でもよかったのかもしれない。あの窮屈な寄宿舎から連れだしてくれる誰かでさえあれば。
でも、今はもう他の誰かじゃ駄目なのだ。いつの間にかかけがえのない、何に代えても守りたい大切な人たち。誰でもよかった誰かから、他の誰かとは代えがたい誰かになった、はっきりした変化の瞬間なんて、たぶんなかったのだろうけど。
そんなもんなんだろうなあ、きっかけなんて──男の台詞が脳裏に甦る。
(捜しに戻ろうか……)
前にもこんなふうにひとり、寂れた駅で膝を抱えていたことがあった。あのときそばにいたのは猫じゃなくて犬だったっけ。捜しにいけばいいじゃないですかと、あのとき背中を押してくれた人がいた。深緑色の制服と制帽が似合う、年老いた駅長さん。自分はもう待つことしかできないけれど、あなたには自分で歩いていける足があるのだからと。
(捜しに戻ろうか……)
もう一度考える。でも……。
約束する。絶対迎えにいく。そしたら──。
そしたら。ハーヴェイは最後になんて言った? 声が風に呑まれる直前、かすかに聞こえた台詞を思いだす。
そしたら。
みんなで帰ろう。

昔、敵をなるべくたくさん殺せばいいと教えてくれたのは誰だったか、一番最初の記憶にあるその人間の顔はのっぺらぼうで憶えていないが、言われたとおりたくさん殺したらなんだか誉められたのでもっと殺した。自分が一番たくさん殺していることがそれなりに誇りだった。
「まだ足りない……」
サーベルにこびりついた敵の血と脂を指でこそいで舐める。その日は普段より殺した人間の数が少なく気分が悪かった。それでも一番たくさん殺したことに変わりはなかったはずなのに、その日、自分よりもたくさん殺した奴がいると聞いた。どんな奴だろうと思った。凶暴で頭の悪い大男とかだろうか。
サーベルの血を舐めながら考えていると、エンジンの爆音とともに唐突に真横からトラックが突っ込んできて、……撥ねられた。
部隊の他の奴らが啞然として遠巻きに見ている中、尻もちをついた格好でヨアヒム自身啞然として視線をあげる。砂埃を巻きあげ明後日のほうまで突進していって停まったトラックの助手席から、自分たちの上官である大柄な男が若干よろっとして降りてくる。
「お前は二度と運転するな、エイフラム」
上官の口からそんな声が聞こえた。
運転席からそいつが降りてきた。無表情のまま小首をかしげて、
「何か轢いた」
「……俺だ」
ヨアヒムが名乗って立ちあがると、そいつがこっちを向いた。人を轢き殺しかけておきながら取りたてて興味なさげな態度。
忌々しい赤目と赤毛のそいつとの出会いは、第一印象からサイアクだった。
「げほっ、げほっ……」
駅舎の裏の壁際にしゃがみ込み、喉に迫りあがってきたものをガムと一緒に吐きだした。黒ずんだ内臓片がガムと絡まって膝先に落ち、生き物のようにのたうったあと干からびる。壁に額を押しつけて不快感に耐えながら、転がっていた小石ほどのコンクリート片をいくつか右手に握り込む。拳の中でがりっとコンクリート片がこすれ、腐敗に侵蝕されつつある手のひらの皮膚に食い込んだ。
コンクリート片を握りしめたまま拳を口に入れて皮膚を食い破る。腐敗した皮膚はあっけなく引きちぎれ、手の肉とコンクリート片を一緒に奥歯で嚙みしだく。
奥歯が欠ける音がし、唐突に我に返って肉片とコンクリート片を吐きだした。
「くっそ……」
壁に額をこすりつけてヨアヒムは壁際に倒れ込んだ。口の中にコンクリートと血の味が滲み、吐瀉物の味の不快感を中和するどころか強調する。
時折り起きる細胞の腐敗と過剰再生の発作の間隔が徐々に短くなってきていた。腐った内臓片を吐きだすと同時に意識がぼやけて、気づくと自分自身の肉を喰うような異常な行動をしている自分がいる。
握りしめた右手の拳がかすかに震えていた。
(怖がってる? 俺が? 何を? いつか俺が俺を喰うんじゃないかって? それとも死ぬこと自体を?)
自分自身に猛烈に腹が立った。化け物に意識を喰われるくらいなら、その前に自分で心臓をえぐりだせばいいだけのことだ。今すぐに──。胸の中心に手をあてて強く摑む。五指が皮膚に食い込み、じわ、と血が滲む。
くちゃ、くちゃと何かを食む音がふいに聞こえた。
壁際に這いつくばったまま頰をずらして見ると、みすぼらしく汚れた猫がさっき自分が吐きだした腐肉の臭いをくんくん嗅いで食いつきはじめている。白と黒のブチ模様でぴんと立った尻尾が途中でちょん切れた、ガムでおびき寄せようとして逃げたやつだ。
「……腹こわすぞ」
一応忠告してみたが、よほど腹が減っているのかブチ猫は聞く耳を持つ様子もなく(そもそも人間語を聞く耳があるのか知らないが)腐肉を食み続けている。若干ぼんやりした意識でブチ猫の短い尻尾を眺めていたあと、
「食うか? こっちのほうが新鮮」
寝転がったまま右手を差しだしてみた。コンクリート片が食い込んだ手のひらの傷口には再生がはじまったばかりの新しい肉が覗いている。腐肉から顔をあげてブチ猫がこっちを向いたが、警戒してぴたりと置き物のように固まっている。
「取って食ったりしねえよ(たぶん)」
そう言って右手で軽く招く仕草をすると、ブチ猫はそろそろと猫っぽく足音を忍ばせた歩き方で近寄ってきて、差しだした手のひらの血を舐め、肉を食いはじめた。相当飢えていたらしい。人間の腐肉を食らうほどに。「腹減ってたのか。そっか……」呆けた声で呟く。ブチ猫は熱心に肉を食んでいる。これはこれで腹を壊すか妙な病気にでもなりそうな気もするが、空腹を満たしてから感染症でも起こして死ぬかそれともこのまま飢え死にするか、どっちにしてもそのどっちかだろう。
「くすぐってえよ……」
手のひらの肉を食む猫の舌の感触が、痛覚は切っているので痛くはないがむずがゆい。しばらくするとひとまず腹が満たされたのか、ブチ猫は食べるのをやめて手のひらの血を舐めはじめた。
「こっち、こいよ」
もう一方の手をブチ猫に向かって伸ばしてみる。ブチ猫が顔をあげ、窺うようにこっちを見る。逃げるかなと思ったが、ブチ猫はそろそろと寄ってきて、差しだした左手に喉もとを押しつけてきた。薄汚れた野良猫の体毛はかなり抜け落ちてぱりぱりと固まっている。
猫の撫で方なんて知らないが指で喉もとをくすぐってみると、ブチ猫はごろごろという音を出した。「気持ちいいのか?」訊いてみると猫はまたごろごろ言った。地面につけた片頰に知らずに笑みが浮かんだ。そうか、猫ってこういうふうにするとごろごろ言うのか。猫なんてはじめて撫でたから知らなかった。面白いな。ガムをくっつけて遊ぶよりは少しは面白い。
指先で猫の喉を撫でながら、ぼんやりと考える。
……食えるかな。
瘦せてるから、筋張ってて不味そうだな。
毛をむしらないと、口の中が毛だらけになるな。
食いにくそうだな……。
ふいにどこかで振動が聞こえた。せっかく手なずけかけたブチ猫が、ぴょんと跳び退いてまた一目散に壁を駆けのぼりどこかへ消えていった。

車輪が近づいてくる振動だとわかる。低く響く規則性のある音。
(なんだ……?)
半身を起こした格好で、ふとあることに気がついて自分に慄然とした。
ブチ猫が逃げていった方向を振り返る。
──今、
俺の思考を支配していたのは誰だ? 俺か? ダレダ?
片手でこめかみを押さえる。思考がぼんやりして頭の芯に鈍い痛みがあった。
車輪の音が近づいてくる。壁に手をついて立ちあがり、駅舎の表側にまわると、ホームの突端でキーリが背伸びをして線路の先に目を凝らしている。黄昏に染まりはじめた荒野の彼方から車輛が近づいてくるのが見えた。黒塗りの装甲車輛──あの無駄に仰々しくごてごてした装甲は一般の治安部じゃない、〈不死人狩り〉か──。
「おい、馬鹿っ」
ホームに突っ立っているキーリの腕を取り駅舎の脇に引っ張り込んだ。しかしまだふらついていて、キーリの胴を抱えるような格好で壁際に尻もちをつく。「ちょっ、放してっ……」キーリがもがいて足をばたつかせる。胴を抱えているヨアヒムの腕の腐敗に気がついて小さな悲鳴をあげ、「は、放してっ」さらに身をよじって逃れようともがいたが、
「〈不死人狩り〉だ」
後ろから抱え込んだまま耳もとで囁くと、理解したようでキーリも暴れるのをやめた。
二人で息を潜めて駅舎の陰から窺っていると、装甲車輛はがりがりと一般の車輛よりも数倍やかましい騒音とともにホームに滑り込んできて、白い蒸気とともに停車した。
駅舎の中から機関士見習いの男が何か喚きながら駆けだしていくのが見えた。装甲車輛から怪我人を乗せているらしい担架が降ろされる。担架に横たわっているのはあの老いぼれの機関士だった。重傷を負っているようで応急手当ての包帯から血が濃く滲んでいるが、どうやら化け物どもに食われずに済んだらしい。ちょっと残念に思った。さんざん怒鳴られてうっとうしかったから食われても別によかったのだが。
装甲車輛を凝視したまま掠れた声でキーリが呟く。
「ハーヴェイは……?」
「いねえな。食われたか、奴らに殺られたかな?」
キーリがこっちを振り返って睨んできた。それからいきなり身をよじって飛びだしていこうとするので「待てってっ」キーリの胴を抱え込んでまた取り押さえ、また二人折り重なって転ぶはめになる。
「おいおい馬鹿かお前は、出てってどうすんだよ。不死人を見かけませんでしたか、なんて馬鹿正直に訊くつもりか?」
「……」
唇を嚙みしめて押し黙り、仇敵みたいに地面を睨むキーリの握った拳がかすかに震えている。押さえ込んでいるヨアヒムの腕を強引に振りほどいて立ちあがったが、飛びだしていこうとすることはなく、その場に立ち尽くして壁の陰から装甲車輛を睨み据える。担架を降ろした装甲車輛は機関士見習いとひと言ふた言会話を交わしたあと、がりがりごんごんと無駄に威圧的な騒音を轟かせていずこかへ去っていった。
装甲車輛が見えなくなってから、駅舎の陰からキーリが飛びだし、停車中の機関車へと担架を押していく機関士見習いのほうへと駆け寄っていく。
「ハーヴェイはっ、どうしたんですかっ?」
担架に乗せられた老人に勢い込んで問いかける声。しかし老人は前後不覚の容態のようで応える声はない。「もう一つ上の駅まで行って病院に運びますけど、どうします?」立ち尽くすキーリに、担架を機関車に押しあげながら見習いが問う。
「……私は、もう少し待ちます」
暗い声で答えてキーリが首を振るのを見て、見習いはそうですか、とだけ答えた。
一輛のみになった機関車が蒸気を噴きあげて駅を去ると、キーリは再び無人となったホームの突端に立って線路の先を見つめはじめた。
(おいおい、まだ待つのかよ……)
頑として動こうとしない様子に、ヨアヒムのほうは勘弁してくれという気分で駅舎の壁にもたれて座り込む。赤銅色に染められた夕陽が線路の先の地平線に半分ほどまで差しかかっている。あの輪郭が完全に地平線に呑まれる頃には夜を迎える。
陽が翳るにつれて地下水路から浸みだす水の匂いが濃くなってくる。このあたりにも山脈から続く地下水路の出口が多い。奴らが夜行性なのかどうかまでは知らないが、夜闇にまぎれて這いだしてこないとも限らない。
夕陽が次第に地平線へと呑み込まれ、佇む少女の後ろ姿が逆光を受けて影となり橙い輪郭で縁取られる。最後の斜陽が消える直前、地平線が横一直線に赤銅色の光に染まり、斜陽が完全に沈むとそのラインが地平線の両端から次第に消えて、夜の青灰色に侵されはじめる。
夕闇と同化して影となった少女の背中が、唐突にきびすを返した。
駅舎の壁にもたれてまだ当分待たされる覚悟をしていたヨアヒムはきょとんと瞬きをした。
「首都に行く」
硬い声で少女が言い放つ。
「諦めたのか? やっぱり食われたって」
にやりと笑って皮肉ると、キーリはそれに食いついてくるでもなく凛とした口調で答えた。
「今日中に着かなかったら先に行けって、ハーヴェイが言った。絶対迎えにくるって、約束したから。だから私は先に行って、……自分のやることを片づける」
揺るぎのない声。若干気圧されて黙って見送るヨアヒムを残し、キーリは鞄を肩にかけなおして足早に歩きだす。
気丈な態度を保っているように見えて、目の前を歩き過ぎる少女の握りしめた拳がかすかに震えていた。必死で硬い表情を取り繕っているのが見え見えだ。ヨアヒムは内心で呆れて肩をすくめた。はー。なんであいつをそんなに必死で信じようとするんだか。そこまで入れ込むほどの価値があいつにあるか?
と、キーリが一度足をとめ、座り込んだまま見送るヨアヒムを振り返った。
「来ないの? 私を利用するんでしょう?」
「んー。行くよ?」
軽薄な口調でヨアヒムは答えたが、そう言いつつ腰をあげようとしないのを見てキーリが眉をひそめる。
「立てないの?」
「うん。実は立てない。起こして」
「……」
にっこり笑っていけしゃあしゃあと言うとキーリはあからさまに不快な顔をし、前に向きなおって歩きだしてしまった。ちぇ、冗談が通じねえな。懐かせようと思っても薄情に逃げていってしまう、さっきのブチ猫と重ねてヨアヒムは舌打ちした。遠ざかっていく少女の背中を横目で見送り、壁に後頭部をもたれて空を仰ぐ。
空は夜がはじまったばかりの不景気な青灰色。自分の瞳と同じ色に見える。
俺とあいつと、何が違ったんだろうと考える。最初に立っていたスタートラインはそう変わらなかったはずだ。同じように不死人になって、殺した数だって大差なくて、同じように戦争で死に損なって八十年間ぶらぶら生きてきたのに──あいつにはそのあいだに手を差しのべてくれる人間が現れて、俺は欲しいものはいっぱいあったはずなのに、結局ぜんぶ手をすり抜けていった。
何が原因で、どこの時点から、進んできた道がこんなにも大きく離れたのか。
俺のほうが先に出会ってたら、俺に手を差しのべていたか? ……たぶんそんなこともなかっただろうな、と自虐的に考える。
ふいに目の前に細長いものが差しだされた。
いつの間にかキーリが戻ってきて、拾ってきたらしい棒きれを仏頂面でこっちに突きだしている。ぽかんとしたままヨアヒムが棒の先を摑むと両手で棒を引っ張って立ちあがるのに手を貸し、ヨアヒムが立ちあがったところで棒きれを捨ててなんだか汚いものでもさわったみたいにコートの裾で手をはたいた。えらい汚物扱いだ。
「私、首都の行き方知らないから。連れてってくれないと困る」
冷たい声で言い捨てたときにはきびすを返して歩きだしている。
「……お供します、ご令嬢」
ずんずん歩いていく少女の背中にヨアヒムはにやりとして声をかけた。
あとを追って歩きだす前に、一度ホームを振り返る。夜の闇に侵されはじめた荒野の地平線に向かって線路がまっすぐ突っ切っている。
何が俺とあいつの道を分けたんだろう。俺はどこで踏みはずしたんだろう。
もし道を踏みはずさなかったとしたら、俺は──。
線路にふいと背を向ける。
コンクリートに薄く落ちる自分の長い影を踏んで歩きだした。