十四歳の旅のはじまりから今日まで、どれくらいの時間をこんなふうに列車の上で過ごしてきたんだろう。決して楽しいことばかりの旅ではなかったけど、帰りたいと思ったことは一度もなかった。そんなに多くはなかったかもしれないけどキーリにとってはたくさんの、大切な会話がこの四人がけのボックスシートに刻まれていった。どっちかというと会話下手が多勢だったので常に話題がはずんだわけではないし、たまには喧嘩もした。そんな、ときにはぎくしゃくした空気もみんな含めて、この小さな箱形の空間にすべての愛おしいものがあった。
それは今日までずっと同じ。いらないと思ったものなんて一つもない。
……でも。
しかし。けれど。とはいうものの。
今日のボックス席を包む空気のぎすぎす具合は過去最高記録を余裕で更新していた。
自分の定位置、ボックス席の通路側の座席に座るキーリは今、両の拳をぎこちなく膝に置いて俯いた格好で上目遣いに自分の正面の座席を睨んでいる。我ながら眉間にくっきりと皺が寄っているのがわかる。
何故この人は何かにつけてキーリの真向かいに座るのだろうか。
これまでの旅路の中でほとんどの場合空席であったその場所には、今日は乗客がいた。
はじめてキーリの前に現れたときと同じような丈の長い漆黒の神官服。夜空と同じ深い青灰色の瞳は今は窓辺から射し込む陽光を受けて明るい灰色に見える。キーリの渋面にまるで怯んだふうもなく、そいつはにこにこと上機嫌でその場所に座っている。
首都から来た交替の使者です。どうぞよろしく──と、交替の監視と一緒にやってきたそいつがキーリたちに挨拶したのは昨日のこと。印象に残りにくい薄っぺらい笑顔が没個性的な神官服にあまりに完璧に馴染んでいたので、キーリは一瞬そいつの正体に気づかずすんなり受け入れそうになったほどだ。
「何かご用でしょうか、ご令嬢?」
不信感丸だしのキーリの視線を平然と受け流してそいつが白々しく訊いてくる。キーリはますます渋面を作り、(偽)神官の隣、キーリから見て斜め向かいの座席にちらりと気まずい視線を送った。
隣の神官とほとんど同じ長身瘦軀、赤銅色の髪の青年が半ば窓際に押しつけられるような窮屈そうな格好で煙草を吸っている。細身とはいえ長身の二人が肩を並べて座っている様子はたいそう狭苦しくまるで目の前に壁があるみたいだ。ただでさえこの鉱山鉄道の車輛の座席は普通の旅行客用の客車よりもやや窮屈に造られているうえ、何よりの問題は、この二人はお互いほんの少しでも肩が触れようものなら本気で殺しあいをはじめそうなほど仲が悪い。
窓際の青年はそっぽを向いて煙草の端を嚙み潰しつつ努めて平静に隣の男の存在を無視しようとしているようだが、さっきから左目の下の皮膚がぴくぴく引きつっている。今にもあのへんの血管が切れそうだ。その手前、窓辺に置かれた小型ラジオがぶつぶつと威嚇のノイズを吐き続けている。
「いやあ、驚いたよな。まさかキーリがあのシグリ卿のご令嬢だったなんてさあ」
ひとかけらも歓迎されていない空気を他の全員から容赦なく突き刺されながら、気にしたふうもなく(偽)神官姿のヨアヒムだけが上機嫌だった。
「その呼び方、やめて。ご令嬢……っていうの」
「ん、なんで?」
「まだ本当だって決まったわけじゃない」
低い声で吐き捨てるキーリにヨアヒムはきょとんとした顔で瞬きし、それからぷはっと、露骨に馬鹿にしたように吹きだした。キーリのほうは憤然としてますます仏頂面になる。
「なあんだよ、そんなことか。向こうがそう言ってるんだろ、だったらどっちにしたって有り難くそう名乗っちまえばいいだけじゃん。いいご身分になれるぜえ? そうだ俺逆タマ狙っちまおうかな。キーリ、お前いくつになったんだ?」
「……え?」
本来なら無視して然るべき問いかけだった。しかしキーリはついつい反応してしまい、質問相手ではなく斜め向かいの席のほうに戸惑いがちな視線を送りつつ、ぼそっと。
「十七……今日で」
「今日?」
訊き返したのはヨアヒムで、ハーヴェイは窓辺に頰杖をついてそっぽを向いたまま聞こえないふりをしていたが軽く瞬きをしたのがわかった。ハーヴェイの横顔を流し見つつキーリは小さく頷いた。
大陸北部の春の到来はサウスハイロの春よりもずっと遅いけれど、今日、暦の上では冬の風が吹く最後の日──お婆が決めてくれた、キーリの十七回目の誕生日。
「十七かあ、育ったなあ……。オーケイ、十七、俺的にはぜんぜん問題なし」
「もっ、問題って何が?」
満面の笑みで何やらわからないことを言いながらヨアヒムが腰を浮かせてキーリの側の座席に移ってきたのでキーリは窓際の席に押しやられる格好になり、向かい側のハーヴェイと膝頭をぶつけあった(ハーヴェイのこめかみのあたりでぴきぴきと奇怪な軋みが聞こえた気がしたけど気のせいだろうか)。身を硬くするキーリの頭上の背もたれに肘をついてヨアヒムが詰め寄ってくる。
『こらっ、貴様、キーリから離れんかッ!』
もう我慢ならんというふうにラジオが口を挟んだとき、
ぶちっ。
と、今度こそ本当に何かがキレる音がして、ハーヴェイが唐突に座席を立った。動きをとめてそちらを振り仰ぐキーリとヨアヒムの脚を大股でまたぎ(よく見えなかったがヨアヒムの脚はたぶん蹴っていった)、そのまま無言で通路に出ていく。キーリの場所からは背もたれで死角になる通路の後ろのほうでうわなんだやめろ返せとかいう騒ぎが聞こえたかと思うと、車輛後方に待機していた監視の教会兵をずるずると腰に引きずりながらハーヴェイはすぐに戻ってきた。
左手に抜き身のサーベルをぶらさげて。
赤銅色の右目と暗褐色の左目、完全に据わった両の瞳の奥に物騒な暗い光を沈ませてサーベルを上段に構え、
「待っ、エイフラム、危ねえっ」
「きゃあっ」
とっさに背もたれをこすって身を沈めるキーリとヨアヒム。寸秒前までまさしくヨアヒムの頭があった場所に、かつんと高い音を立ててサーベルの切っ先が突き立った。
「ちょっ、待てお前落ち着けっ」
「てめえはいっかいその腐った脳みそに風穴あけて換気したほうがいいようだな」
『おう、やれハーヴィー、やっちまえ!』
「やめっ、二人とも、兵長までえっ」

サーベルの切っ先をヨアヒムの脳天に突きつけようとするハーヴェイと抜き身の刃を素手で摑んで押し戻すヨアヒム、拮抗する力比べをラジオが無責任に煽動する。ハーヴェイに引きずられてきた兵士は蒼くなって右往左往するばかり。キーリ一人じゃどうにもできない大騒ぎになりかけたところに、
「やかましいっ!」
迫力を帯びた低い怒声が飛び込んできて、思わず全員動きをとめた。
煤けたつなぎの作業服姿の、背は低いががっしりした身体つきの老人が、柄の長いシャベルを片手で振りあげて通路の先に立っていた。座席の上で取っ組みあった格好でハーヴェイやヨアヒムまでもが軽く身をすくめて老人を見る。
「わしの列車で騒ぎ起こしたら放りだすつっただろうが、若造どもっ!」
一般人も神官も教会兵も区別なく浴びせられる怒声に全員返す言葉もなく、すっかり静まり返って縮こまっていると、老人はふんと鼻を鳴らしてのしのしと通路を戻っていった。
シャベルを肩に担いだ老人の角張った背中が前方の機関車に消え、連絡扉が乱暴に閉められてから、ようやく空気が溶けて全員安堵の息をつく。殺気が失せたのかハーヴェイがヨアヒムを突きとばすように身体を離して立ちあがり、サーベルを兵士に突っ返した。びくつきながらもほっとした顔で兵士がサーベルを自分の腰に収める。
(ばれなかった……)
不自然な体勢で背もたれにへばりついていたキーリは、すとんと脱力して座席に腰を落とした。……背もたれにできたサーベルの傷痕をとっさに隠したのだった。見つかったら全員あの老機関士に担ぎあげられて窓からぽいぽい捨てられるに違いない。
「おっかねえ爺さん。なんか気にくわないことしたっけ、俺ら」
ちゃっかりキーリの隣の席に居座ったままやれやれと肩をすくめるヨアヒムに、「俺らって言うな、お前が」同じ括りに入りたがるなとばかりにハーヴェイからすかさず拒絶の突っ込みが入る。手厳しい突っ込みをヨアヒムは飄々とスルーしただけで、
「で、キーリ、何が欲しい?」
「へ?」
「欲しいもの。誕生日なんだろ?」
いきなり矛先を向けられてキーリは目を白黒させた。にっこりと一見して人のいい笑みを浮かべてヨアヒムは答えを待っている。一時ぽかんとした顔で固まってしまってからキーリははっとしてしかめ面を作り、
「い、いらないよ」
「遠慮すんなって。俺とキーリの仲だろ」いつからどういう仲なのか知らないが「じゃあとりあえずチョコやるチョコ」
何故そんなものを常備しているのか神官服の懐から固形チョコレートを出したりするヨアヒムの襟首をハーヴェイが捕まえて「ちょっと来いお前、来い」「あん? なんだよ邪魔すんなよ俺とキーリ嬢の楽しい会話をよう」チョコレートをキーリのほうに差しだした格好でヨアヒムが首根っこを引きずられていく。二人の姿が後方の連絡扉の先に消え、キーリは一人座席に取り残されて、窓辺のラジオに所在なげな視線を送った。
『男どうしで話をつけるってやつだろ』
などとラジオがまた無責任なことを言った。
〈北西鉱山区〉と〈首都〉とを結ぶ、北の山脈の山麓に沿った山岳鉄道。一般の旅行者はほとんど使うことのない路線で、キーリたちは化石資源を運ぶ貨物列車に同乗させてもらっている。先頭が機関車、続いて坑道の労働者の運搬用だという、普通の旅客車輛よりも簡素な造りのボックス席の客車が二輛連なり、残りはすべて貨車になっている。この列車の機関士である老人が、何か怒らせるようなことをした覚えは(少なくともキーリには)ないのだが、とにかく怖い人で異常に敵対的なのだった。
今日は労働者の運搬はなく客車は二輛とも貸し切り状態で、一輛目にキーリたちが(というか主にハーヴェイが)悠々と陣取って、二輛目に監視の兵士たちが待機している。監視は四人、その中から交替で一人ずつ、一応目を離さないように一輛目後方の連絡扉の前でこちらの様子に注意を払っているという態勢だった。
そしてもう一人。誰も許可した覚えはないのにキーリたちのボックス席に当たり前の顔で同席しているのが、噓か本当か知らないが──おそらく噓なのだろうが、先に引きあげた使者の神官の交替要員として来たと名乗った神官姿の男。
(大丈夫なのかな、二人だけにして……)
また取っ組みあいの喧嘩でもしてたりして……。ハーヴェイとヨアヒムが消えていった連絡扉にキーリは不安な視線を送った。連絡扉の脇のボックス席にぽつんと座っている監視と目があったが(さっきハーヴェイにサーベルを奪われた若い教会兵だ)、怯えたように監視のほうから目を逸らした。
まあ敬遠されても仕方がない……それが今のキーリの立場。
教会の最高機関・長老会の第十一老シグリ・ロウとかいう人物がキーリの父親だという話になり、捕まっている(らしい)ベアトリクスを餌に首都からの招聘を受けた。というか連行されそうになった。結果的にはいわば脅迫し返す形で首都までの行動の自由を約束させ、監視つきとはいえ自分たちの足で首都へ向かっている。おそらく頭の中ではいろいろ考えているのだろうハーヴェイは、表面的には特に急ぐ様子もなく比較的のんびりした旅程を選んでここまで来た。といっても観光するような場所はなく、寂れた鉱山町に立ち寄る程度だが。おまけにどこに行くにも監視の教会兵のお供つき。
気にしないと決めてしまえばハーヴェイは監視の存在なんて本当にまったく気にならないようで、例によって自分勝手な行動ペースで監視たちをやきもきさせたり振りまわしたりしている。一度や二度はわざとまく振りをして監視を慌てさせて遊んでみたり。そういう悪戯をするときのハーヴェイは、何気ない顔をしているもののどことなく楽しそうだ。
最後になるかもしれないこの旅を、一日一日、記憶に刻みつけるように。

「不発弾?」
「そ。ウエスタベリの地下からでかい不発弾が掘りだされて、首都の動力塔に運び込まれたんだってよ」デッキの手すりに寄りかかってヨアヒムは口の端で薄っぺらく笑ってみせ、「おかげで今、首都はちょっと面白いことになってるぜ」
ウエスタベリの地下から掘りだされた不発弾。とくれば、サウス・ウエスタベリ・パークの地下に眠っていると聞いた不発弾のことと考えて間違いない。パークを取り囲んでいたものと同様の、霊的現象を活性化するあの強い磁場が首都にそのまま持ち込まれたとしたら、ウエスタベリ以上に強力ななんらかの霊的影響が出ているだろう。あそこはもともと亡霊が多く巣くう地帯だ──かつての流刑星の時代、囚人の墓地の上に建てられたあの都市は。研究所に隔離されている模造不死人たちも磁場の影響を受けている可能性がある。
「と、まあ、これは俺からのサービス情報」
にやにやして言うヨアヒムと向かいあう形で反対側の手すりに寄りかかり、煙草に火をつけながら半眼の視線を送る。
「で、本当の目的は?」
「なんのことカナ? 俺は純粋にキーリ嬢と仲良くなりたいだけですが?」
「噓つけ。単に俺のもんにちょっかい出したいだけだろうがお前は」
「何気に自惚れやさんだなお前」
「……」
ちょっと言い返せなくなった。舌打ちして視線をはずし、そっぽを向いて煙草をふかす。
友好的とはいえない両者の空気の隙間を、後方に流されていく灰白色の煙と車輪の騒音がちょうどよく埋めていく。山脈の斜面の狭い岩棚を這うように走る単線軌道。屋根のないデッキから直に眺める戸外の景色の一方、山側は岩壁の斜面、谷側は断崖絶壁が落ち込んでいる。乱闘にでもなったらどっちかが(あるいは二人とも)転げ落ちるのは容易だ。
「……キーリが、そのシグリなんとかってのの娘ってのは本当なのか?」
「俺の情報に引っかかった限りでは、シグリ・ロウが生き別れた娘を迎えに使者を出したってのは本当だぜ。だから俺、それを利用して今ここにいるわけだし」
どのへんが自慢なのか妙に胸を張って言うヨアヒム。ひと呼吸ぶんの沈黙があり、吐いた煙草の煙が車輪の騒音に乗って後方に飛ばされていく。薄笑いを浮かべて向かい側に立つ男を睨み据え、若干声のトーンを落として、
「ヨアヒム、お前、シグリ・ロウを……」
立てつけの悪い連絡扉ががたがたと揺れた。扉の隙間からラジオを首にぶらさげたキーリが顔を出したので、そこで話を中断する。高い目線から男二人の視線が集中してキーリは身をすくめつつ、
「あ、喧嘩してないかなって……」
「喧嘩? やだなあ、仲良しの俺たちが喧嘩なんてするわけがない。なあエイフラム?」
「誰と誰が仲良しだ」
本心のかけらもないことを言ってこっちに片目を閉じてみせたりするヨアヒムにぞくぞくと寒気がした。「もうあっち行け」「自分で引きずってきといてなんだよ」足を振って追い払うとヨアヒムは不満げに首をすくめ、キーリの横を抜けて車内へ戻っていく。戸口の脇に張りつくようにして避けたキーリとすれ違い際、
「はい。やる」
と、キーリの手にチョコレート・バーを押しつけた(拒否する隙を与えない見事なまでのさりげなさで)。
「いらないってばっ……」
「まーいいからもらっとけ」
突っ返そうとしたもののヨアヒムの手はすでにそこになく、チョコレート・バーを握ったキーリの手は宙を搔く。
「そこの朴念仁はどうせ何も用意しちゃいないんだから」
「うるせえよ。行けよ」
薄笑いを残してヨアヒムの姿が車内に消え、持てあまし気味にチョコレート・バーを手にして突っ立っているキーリと二人デッキに残されるとなんだか急に空気が気まずくなった。どうせ何も用意してねえよ。ていうかなんであいつチョコとか持ってんだ、自分じゃ食わないくせに。ぜったい餌づけのためだ。
「これ、捨てよっか、な……」
捨てる場所を探すようにデッキの左右に視線を泳がせながらぼそっとキーリが言うので、
「食えばいいだろ。さすがに毒は入ってないだろうし」
「え……あ、うん」
握りしめたチョコレート・バーに視線を落として頷いたものの、上目遣いに顔色を窺うような視線を送ってくる。溜め息をついて、「こっち来て、座って食えば」手すりを背もたれがわりにデッキにすとんと腰を降ろし、目線で隣を示すと、近寄ってきたキーリが膝を抱えて隣に座った。
油紙の包みをもそもそと破ってチョコレート・バーをひと口かじるキーリを視界の端にとどめつつ、くわえた煙草の煙をふかす。
(ウエスタベリの不発弾が……なくなったのか)
遠方をゆっくりと流れていく山麓の景色をもう一方の視界の端で追いながら、今しがた聞いた話が頭に甦る。だとすると、パークの亡霊たちを取り込んでいたあの磁場も消滅したのだろうか。磁場に囚われていた亡霊たちが、あの学校の子供たちが解放されたのなら……。
頭の隅に引っかかっていたことが一つ解消して、また少しだけ肩の荷が降りる。
全部降ろしきるまで、まだ時間は残っているだろうか。
もらったチョコレート・バーは十センチくらいの長さの棒状をしていて、薄茶色の油紙で包まれていて、ほどよい甘さでおいしかった。
冬から春への境目の日。北の山脈の風はまだまだ冷たくコートと髪を乱暴にはためかす。とはいえさして広いわけでもないデッキの片側に二人で身を寄せて座り込んでいるのでさほど寒さは感じず、列車の揺れが心地よくお尻の下で跳ねる。連絡扉の小窓から監視の兵士がちらちらと目を光らせている(というよりそんな寒いところでなんでおやつなんて食ってるんだとでも思われているのだろう)のが見えてキーリは若干畏縮したが、ハーヴェイは別に気にしていないようだ。
チョコレートを少しずつかじりながら右隣を窺うと、何気ない仕草で煙草をふかすハーヴェイの左手の肘がキーリの右腕に軽く触れている。長めの前髪で多少は隠れているが、タテガミにもらった暗褐色の左目の周囲に鉄錆が張りついたような爛れがまだ薄く残っている。この顔の傷痕と隻腕に加えて、傍から見た感じ不遜な態度にしか見えない無表情、とあきらかに堅気ではない雰囲気を漂わせているので、ここまでの旅の道中、監視たちは遠巻きに見張っているだけで積極的に話しかけてくる者はいなかった。ヨアヒムを除いて、だけど。
横顔を窺っているとふいにハーヴェイがこっちを向いたので、キーリは条件反射で緊張して数センチばかりのけぞってしまった。
「それ、美味い?」
「え? あ、うん」
不意打ちで訊かれてとっさに頷くとハーヴェイはなんだか気にくわなそうな顔をしてぷいとそっぽを向いた。お、おいしいと駄目なのだろうか。「えと……そんなにおいしくない」訂正すると、そっぽを向いたまま「うむ」とか言う。う、うむ?
もしかして……。
もしかして、もしかして、妬きもちだろうかこれは。違うかもしれないけど。
「誕生日」
ちょっとどぎまぎして視線を落としチョコレートをかじっていると、ぶっきらぼうな短い単語が飛んできた。
「言えよ。先に」
「あ、言いそびれてて、なんとなく……。ごめん」
「別に、謝らなくてもいいけど」まあ言われても別に何も思いつかなかったと思うけど、とかハーヴェイはしかめ面を明後日のほうに向けてぶつぶつ言っている。キーリの誕生日なのになんでキーリが文句を言われているんだろうか。
そういえばハーヴェイたちと出会ってから誕生日が来るのは三回目になるが、あまりちゃんとお祝いをしてもらったことはないかもしれない。サウスハイロのアパートで迎えた十五歳の誕生日は、ハーヴェイは忘れて出かけてしまっていて(日付が変わってからみんなでケーキを食べたけど)、十六歳のときは……いなかったんだった。
今年、十七歳、三回目の誕生日。
来年、十八歳、四回目は……
四回目は、
あるのだろうか。
「欲しいものある?」
また早口の短い台詞が飛んできてキーリはチョコレートから視線をあげた。外気は冷たいとはいえ両手で握りしめたまま考えごとをしていたので手の中で若干溶けてきている。「ん、別に……」何もない、といつもの調子で答えそうになってから考えなおし、
「じゃあ、や、約束っ……」
さりげなく言おうとしたが声がひっくり返った。
そっぽを向いていたハーヴェイがこっちを振り返り、左右で色の違う瞳で瞬きをした。何それ?という顔をされてキーリは頰を膨らませる。デッキの上で正座しなおして上目遣いに睨みつつ(しかし口調はもごもごと)、
「約束、すっ、砂場ですっぽかした」
ハーヴェイはまだ思いだせないらしい顔をしたが、一瞬後に思いあたったようで爛れが残る左頰を変に引きつらせて身を引いた。
「お前、しつこっ……」
し、しつこいっ? そんな反応をされたらキーリだってむっとして意地になる。十年分くらいの勇気を振り絞ってお願いしたキーリの気も知らないで。ハーヴェイが引いたぶん迫るように身を乗りだして、「わ、私が忘れるわけないじゃんっ。約束したのに、ハーヴェイがはぐらかしたんだよっ」「俺別に、約束した覚えは」往生際の悪いことを言いながらハーヴェイはさらに身を引いてデッキの手すりに後頭部をぶつけた。挙動不審っぽく視線を左右に泳がせたがもう逃げ場はない。
結局、観念したふうにかくんと首をうなだれて、
「……わかったって」
苦い顔でまだ微妙に視線を泳がせながらもこっちを向いた。
あらためて正面きって向かいあうと今度はキーリのほうがうろたえてきたが、正座の格好で硬直したままキーリはちょっと視線を落としどきどきして待つ。
煙草を挟んだハーヴェイの指が顎に軽く触れ、心臓がとくんと音を立てて跳ねたとき、
『約束ってなんだ?』
顔を寄せかけた二人の文字どおりど真ん中から唐突に声が割り込んできたので(いや唐突でもなんでもなくて最初からずっとキーリの首にぶらさがっていたんだけど)二人同時に思わずお尻を浮かせてその場を跳び退き、ハーヴェイがまた手すりに頭をぶつける音がした。「いたのかそういえばっ」後頭部をさすりながらかなり失礼なことを言う。といっても実はキーリも今一瞬兵長がいたのを忘れていた。だってずっと黙ってたから。ごめん兵長……。
キーリの首にぶらさがったラジオのスピーカーから、暗緑色のノイズ質の兵隊が地獄の番人みたいな形相を浮かべてひょこりと首だけを覗かせている。知らない人が見たら間違いなく悲鳴をあげて失神する。
『……約束ってなんだ?』
地の底を這うような、ノイズを帯びた低い声が繰り返す。
「なんでもねえよっ」
うわずった声でハーヴェイが答えたが、ノイズ質の亡霊はさらにじっとりとハーヴェイを睨んで三度『約束ってなんだ?』「わざとやってるだろあんたっ」喚いてハーヴェイがラジオの電源に手を伸ばし「あ」『あ』キーリとラジオの短い声を最後に、亡霊の顔が映像を切るように横に歪んで搔き消えた。
「あーあ。あとで怒られるよ……」
電源を入れなおしたときのことを考えてキーリは溜め息をつきつつがっかりと肩を落とした。結局邪魔が入ってしまい、なんだか白けたような気まずい空気が風に流されることなく二人のあいだに停滞する。列車の振動にあわせて小刻みに揺れる自分の膝を見つめながら、
あれ、でも、もしかして。
ハーヴェイがわざわざラジオの電源を切ったということは……。
ちらっと横目で〝期待の眼差し〟というやつを送ると、しかしハーヴェイはあからさまにわざとらしく視線を逃がして
「あー俺、チョコ嫌いなんだった」
などとめちゃくちゃ卑怯な逃げを打った。「えぇーっ」口の中をチョコレート味でいっぱいにしたキーリはがーんとショックを受ける。食えばいいだろって自分で言っておいてそれを逃げ口上にするとは、そ、そんな手を使ってまで嫌がるか。
やっぱり結局はぐらかされた……もう十七なのに、十四歳から十七歳じゃキーリにしてみたらだいぶ大人になったと思うのに、ハーヴェイからしたらまだまだ子供なんだろうか。
それなら来年になったらいいのかな。来年なんて、
あるかどうかわからないのに。
「……らない」
呟いた自分の声と一緒に、するりとひと筋、こぼれた涙が頰を滑って唇に吸い込まれた。口に広がっていた甘いチョコレートの味にしょっぱい味が滑り込んでなんだか甘苦い微妙な味になった。
「キーリ? おい……」
ハーヴェイがぎょっとした顔をして覗き込んでくる。チョコレート・バーを握った手の甲でキーリは乱暴に涙を拭って顔を背けた。こんなことくらいで泣いたりしてハーヴェイを困らせたら駄目だと思ってもしゃっくりみたいな嗚咽が喉に引っかかる。前言撤回、十七歳は、やっぱり少しも大人なんかじゃない。
「……いらない。何もいらない。約束なんてどうでもいい。何もいらないから……」
どうか、お願いです、この惑星に奇跡の力を持った誰かがいるのなら。
来年も、その次の年も、その先もずっと、みんなが一緒にいられますように。
……わかってる。何もいらないなんて言っておいて、これが何より贅沢な、いちばん難しい願いだってことくらい。昔、本当に何も持っていなかった頃よりも、私はきっと泣き虫でわがままになった。
「キーリ」
静かな声が頭にかかった。列車の音に心地よく馴染む掠れ気味の低い声。
「なあ、首都の用事が片づいたらさ、イースタベリの乗換駅の、タダイが住んでた家があるだろ。今だいぶ荒れてるけど、住めるようにして、俺、あそこに住みたいな」
思いも寄らないハーヴェイの提案に、視線を伏せて俯いていたキーリは思わず少し顔をあげた。泣き顔を拭ってハーヴェイの横顔を振り仰ぐ。デッキの外を流れていく景色に顔を向けたままハーヴェイは横目だけをこっちによこして小首をかしげる仕草をし、
「どう思う?」
訊かれてキーリは目を丸くしてから、
「い……いいと思う。すごく」
「だろ? 乗換駅からなら、兵長の墓も近いしさ」
と、ハーヴェイはキーリの膝の上のラジオに視線を向けて少しだけやわらかく笑った。
あの乗換駅から廃線路を南へ行った廃坑に、兵長や他のたくさんの戦没者たちが眠る墓標の群れがある。いつか兵長のラジオが壊れたとき、そこにラジオを持っていく約束……乗換駅に住むことになったら、ときどきお墓を訪ねることもできる。例えばお弁当と新しいラジオを持っていって、お弁当を広げて最近のことをいろいろ報告しながら、兵長の好きなロックを聴かせてあげることもできるだろう。もちろんラジオがずっと壊れないでいてくれたらそれが何より嬉しいけれど。
でも……。
そんな平穏で幸せな未来があり得るなんて、心から願ってはいても想像することができない自分がいる。ハーヴェイ自身だって信じているとは思えないのに、どうして今、キーリにそんな話をするんだろう。将来の計画なんて今まで一度だって話したことないくせに。本当にそうなると思っていないからこそそんな理想を話しているように思えて、キーリはかえって不安になる。ハーヴェイの存在が、なんだか遠く稀薄になっていくようで。
「じゃあ、その前に全部片づけよう。俺もお前も、それぞれやることがあるだろ。な」
笑って「な」と言われても素直に応えることができずにキーリは曖昧に視線を俯けた。握りしめた食べかけのチョコレート・バーを意味もなく見つめる。キーリのやるべきこと……父親かもしれない人と会って事実を確かめること、それからベアトリクスを助けること。今はその次のことを心配している暇は、確かにない。
「キーリ」
重ねて言う声とともにハーヴェイの手が伸びてきて、ちゃんと頷けよお前、みたいに頭を押された。仕方なくこくんと頷きながら、隣にあるはずの煙草の匂いがなんだか遠くに感じられて、(そんなわけはないんだけど)振り向いたら誰もいないのではないかという気がして顔をあげられない。
ぷお────……
列車の警笛が重く長く、線路の後方に尾を引いていく。この線路の行く先が、そんな平穏な未来へと届く前に谷底へと落っこちているのではないかと、悪いほうにばかり向いてしまう思考を無理矢理切り替える。
大丈夫。この手の感触と煙草の匂いは幻ではなくて、ちゃんと隣にハーヴェイはいる。

それからしばらく、特に何を話すでもなく平穏な(とも言えないけど)旅路が続いたところで、列車がふいに速度を落とした。客車に戻っていたキーリが窓に張りついて前方に目を凝らすと、岩壁の斜面を切り崩して造られた野ざらしのホームが見えてきた。車窓の景色がホームに滑り込み、がこん……と前に引っ張られる慣性を最後に停車した。
仮設で造られたような、必要最低限のものしかない駅だった。あばら屋同然の駅舎と簡単な柵で囲われたホームがあるだけで、改札らしきものすらない。駅の周囲にも何もなく、駅舎の脇から岩壁に囲まれた細い上り坂が延びているのが見えるのみ。とはいえ駅に停まったからには利用する人間がいるはずだが、(乗客はキーリたち一行と監視の兵士しかいないので降りる客がいないのはもちろんのこと)閑散としたホームには乗車を待っているような人間の姿はまったく見えない。
(あっ……)
座席から訝しげに外を眺めていたキーリは窓ガラスに両手をつけて目を見張った。
客車の前後のタラップから、列車を降りてホームへと流れていくたくさんの人々がいた。もちろんキーリたちの他に乗客などいなかったはずだ、しかもあんなにたくさん、いずれにしろとても二輛の客車には収まりきらないほどの人々が。多くの者は砂色っぽい作業着を着て、つるはしやシャベルなどの道具を担いでいる者もちらほら見える。
まるでそれ自体が風景の一部であるかのような茫漠とした、永遠に続くかと思う長い長い行列がホームを抜けて岩壁の上り坂へとゆらゆらと消えていく。目を丸くして窓の外を凝視しているのはキーリ一人だけ。ハーヴェイやヨアヒムはたいして気にとめている様子はなく、監視の教会兵にはそもそも何も見えていないようだ。
(死者の、行列……?)
ホームを抜けていく人々の列が蜃気楼のようにいつの間にか消えた頃、あの老機関士が機関車から降りていくのが見えた。背は低いが幅の広い肩につるはしを担ぎ、もう片方の腕には長い棒きれのようなものを何本も抱えている。何をするんだろう……死者の行列のほうは見えていなかった監視の兵士も老機関士の行動には訝しげな視線を向けている。戸惑う乗客たち(老機関士には乗客扱いされていない気がするが)を残して老機関士は相変わらず不機嫌そうなのしのしした歩き方でホームの端のほうへと歩いていく。
「すいませんね、少しだけ待ってもらえますか。爺さんの気が済むまで」
老機関士と揃いのつなぎを着た男が前方の連絡扉から顔を覗かせ、申し訳なさげに頭を下げてそう言った。老機関士よりもだいぶ年若い青年で、機関士見習いだと聞いている。
窓の外に視線を戻すと、老機関士はホームを囲う柵に沿ってつるはしを打ちつけはじめている。
いや、あれは柵ではなくて──柵かと思ったものは、無数の棒きれの群れだった。長いものや短いもの、太さも傾き方もさまざまだが、ホームの外縁に沿ってまるでいろんな人が少しずつ食べかけにした巨大サイズのチョコレート・バーみたいにほぼ同じ間隔で地面に突きたてられている。
あれは……墓標だ。たくさんの墓標。
つるはしで掘った穴に、老機関士は持ってきた棒きれを突きたてて新たな墓標を立てはじめた。列車に背中を見せて、独り、何かに憑かれたように黙々と。
『上に作業場があるようだな……』
少しすると死者の行列の最後尾が上り坂の先へと消え、ラジオを持ってキーリはホームに降りてみた。深い穴から吹き抜けるような、ぼう────……という風の唸りが岩肌の斜面を這って響いてくる。死者たちの嘆きのようにも聞こえる、悲しげな低い音。
老人の背中は二本目の墓標を立てはじめている。誰も手伝うなと言いたげな頑なな背中にキーリは少し首をすくめた。
「五、六本立てたら気が済むみたいなんで。お急ぎのところ本当にすみませんね」
声をかけられて振り返ると、老人と揃いの煤で汚れたつなぎ姿の、しかし老人と対照的に背が高く瘦せぎすの機関士見習いの青年が立っていた。困った爺さんでねえ、と呆れた苦笑いを浮かべている。あの老機関士とこの若い機関士見習いと、二人がこの貨物列車の乗務員とのことだった。老機関士はキーリたちに対して嫌に敵対的だが、見習いのほうは反対に妙に腰が低いというのも対照的だ。
「ここは……坑道ですか?」
「坑道だった、というのが正確かと思いますが。二、三年前に開拓がはじまった新しい坑道だったんですけど……もう古い坑道からは資源が採れなくなってきてますからね。でも、落盤事故があって閉鎖されたんです」
「落盤事故……?」
何気なく周囲を見まわしながら近くまで来ていたハーヴェイが、それを聞いた瞬間ふとそばを離れるのがわかった。ハーヴェイのほうに横目を送りつつキーリは機関士見習いから話の続きを聞く。
あの老機関士の息子も監督官としてここの開拓に参加していたが、落盤事故に巻き込まれて還らぬ人となったのだそうだ。もともと教会の出資で開拓がはじまった坑道だが、現場の不便もあって教会は満足な救出活動を行わず、多くの行方不明者を残したまま救出活動は立ち消えになり、こうして現場は放置されている。老機関士はこの駅を通るたびに一時停車し、救出されなかった人々を悼んで数本ずつ墓標を増やしていくのだという。
「そうだったんですか……」
「だから爺さん、教会の関係者が嫌いなんですよ。どうか悪く思わないでやってください……って言っても無理だと思いますが、あまり気にしないでください。機嫌が悪いのはいつものことなんで。ったく、老人ってのは頑固だからなあ」若い見習いはやれやれと頭を搔き、今のうちに弁当食おうかなあとか独りごちながら機関車に戻っていった。
見習いを見送りながらキーリはちょっと憮然として毒づいた。
「教会関係者だって、私たち」
『傍から見りゃそう見えるだろ。教会兵の護衛つきで首都に向かってんだから』
「私は、関係者じゃない……あんな人たちの……」関係者じゃない。否定する声は、弱々しく尻すぼみになった。
ホームの端に沿って歩いているハーヴェイに視線を送る。ポケットに手を突っ込んで散歩でもするみたいにぶらぶら歩いているようでいて、物思いに沈んでいるようにも見える。
ハーヴェイは、キーリよりも先に気づいたのだろう。
ウエスタベリのスラムの民家に隠れていた兄弟から聞いた話──数年前、首都の山脈で新しく開拓された坑道で落盤事故があり、たくさんの労働者が犠牲になった。犠牲者が多すぎるため遺体は首都でまとめて埋葬されることになり、家族のもとへは帰されなかったという。
その話をしてくれた心優しい青年を、結局助けてあげることができなかったことを、ハーヴェイはずっと気にしている。
ここは、たぶん間違いなく、クリフトフが最初に死んだ事故現場だ。
ふらふら歩いていたハーヴェイと、棒きれの束を抱えて歩いてきた老機関士とが行きあうのが見えた。お互い前を見ていなかったので軽く腕がぶつかり、老機関士が持っていた棒きれがばらばらと地面に散らばった。腰を落として拾おうとしたハーヴェイから老機関士が棒きれを引ったくり、
「さわるな、放っとけ!」
突然の怒声にキーリはきゅっとすくみあがった。奪い取った棒きれを老機関士が乱暴に横に振り、鈍い音を立ててハーヴェイの上着の右袖のあたりを直撃した。「あっ」思わず駆け寄ろうとしたが、老機関士がすぐに棒きれを引いたのでキーリはとりあえず数歩で立ちどまる。
あたった感触に違和感があったのか、老機関士は今のではじめてハーヴェイの右腕がないことに気づいたようだ。気まずそうなしかめ面をしたものの、ふんと居丈高に鼻を鳴らしただけで、突っ立っているハーヴェイを押しのけるようにして棒きれを搔き集めまたのしのしと作業の続きに戻っていった。
「ひどっ……」
『なんだあの態度はっ。謝りもしねえでっ』
ハーヴェイは左手で軽く右の脇腹を押さえて見送っただけだったが、これにはキーリとラジオのほうが憤慨した。拾うのを手伝おうとしたのにいきなり殴るなんて、いくら教会関係者が嫌いっていってもあんなに無条件に乱暴に接することはないじゃないか。
「まあ放っとけよ。世の中には〝敵〟が必要な種類の人間ってのがいるんだよ」
老機関士に抗議に行こうかとすら考えていると、背中に冷めた声がかかった。いつの間に背後に立っていたのか。キーリは反射的に一歩跳び退いて距離を取り、黒い長衣の(偽)神官の長身を振り仰ぐ。
「〝敵〟が必要な人間……?」
「そ」
あからさまに避けられたことにヨアヒムはひょいと肩をすくめつつ、
「敵意をぶつける相手がいないと生きていけない種類の人間。そういう人間からすると、あいつみたいに諦観してる奴はすげえむかつくのさ」
と、馬鹿にした視線をハーヴェイのほうに向けて唾を吐く真似をした。ハーヴェイは老機関士の対応にべつだん怒った様子も傷ついた様子もなく、変わらない足取りで車輛のほうへと戻っていく。
諦観しているというのとは違うと思うけれど、確かにハーヴェイは他人にあまり敵意を持たない……というか、自分に向けられる無意味な敵意というものに無頓着なほうだ。
(〝敵〟が必要な人間……)
墓標を打ちつける作業を一人続ける老人の頑なな背中に視線を送る。大切な人を失って、何かに怒りをぶつけないと生きていけなくて……。もし自分が大切な人を失ったら、と考えてみる。もし教会がハーヴェイやベアトリクスを害するようなことがあったら……私も同じだ。絶対に教会を許さない。
ヨアヒムも、敵が必要な種類の人間なのだろうか。訊こうと思ったが、現れたときと同じように気がつくとふらりと視界からいなくなっていた。本当に影か幽霊みたいな男だ。
敵意や怒りが人の存在の糧となるのなら、ハーヴェイの存在の糧ってなんだろう。キーリは不安な視線をさまよわせ、少し離れた貨車の側壁に寄りかかって煙草に火をつけている長身瘦軀を見つけた。灰白色の蒸気を含んだ山脈の風が赤銅色の髪を搔き乱す。
今、ハーヴェイの存在を繫ぎとめているのはきっと、首都の問題をなんとかしないといけないということだ。じゃあもし、それがすべて済んだときは……。
『まあわからねえでもねえけどな、敵意や怒りが人のエネルギーになるっていうのは。亡霊なんかは未練や怨念が存在のエネルギーそのものだしな』
自分の存在を微妙に棚にあげて言うラジオに、キーリは少し気を取りなおして笑みをこぼした。いつもどおりのラジオの口調に救われる。ラジオがいてくれることがいつもキーリたちのプラスのエネルギーになる。
「兵長の存在のエネルギーは文句言うことだね」
冗談めかして言うキーリにラジオの声が力強く答える。
『おう、まだまだ百万年分は言い足りねえぜ。お前らときたらいつまでたっても世話焼かせやがって、死人にむち打つってのはこのことだ。おおっそうだ、ちょうどいいから一つ言っとくぞ、いいかキーリ』
「え? ……うん」
『俺はいつだってお前の味方ではあるが、しかしだな、』
と、ふいに真面目な口調になったのでキーリまで神妙な顔になって見おろすと、ラジオは深刻な話をするように一拍の間をおいてから、
『いいか、接吻はまだはやい!』
「せっっ」
って、いつの時代の言葉っ? いきなりのことに絶句するキーリにかまうことなくラジオはがりがりと厳めしいノイズを立ててまくしたてる。『接吻ってのは結婚の契りを交わした男女がするもんだっ。俺の目が黒いうちはそんな破廉恥な行為は許さねえからなっ』ち、契りとか破廉恥とかって……。「ふ、古いよ兵長……」『こういうことに古いも何もねえっ。わかったな、キーリ。約束だ』「エー……。う、うん……」納得できないながらもラジオの勢いに気圧されて、はあ、とキーリは肩を落とした。さっきもうちょっとのところで邪魔したの、絶対わざとだったんだ。どうりでタイミングがよすぎると……。『まったく最近の若いもんときたら気軽にすぐ接吻だのなんだのと……』いつの時代の年寄りなんだみたいなことをラジオはまだぶつぶつ言っている。
深々と溜め息をついてキーリはラジオから視線を泳がせた。
すでに四、五本目の新たな墓標を立てはじめている老機関士の背中を眺める。幅が広くて力強いのに、とても孤独に見える背中。教会が嫌いだというあの老人は、いったい誰が死者への祈りを届けてくれることを信じてあの墓標を立てているのだろう。
作業を続ける老人の背中越しに、キーリは静かに目を伏せて、死者たちの墓標に控えめな黙禱を捧げた。誰に祈りを届けたいのか、キーリ自身にも心に浮かぶ神はいなかったけれど。
(兵長、じゃあ……)
目を閉じたまま、心の中で呟く。
(ずっと目が黒いままでいてよ。どこにも行かないでよ。ちゃんとずっと見張っててよ……)
祈りは、誰に届くのか。
貨車の壁に背中を預け、くわえ煙草の煙越しに頭を垂れて黙禱するキーリの後ろ姿を眺める。二年半前、出会った頃からすでに神の存在に疑問を感じていたらしい少女は、しかし何かにすがらずにはいられないように、おそらく彼女自身にもなんだかわかっていないものに対して時折り祈っていることがある。
ねえ、ハーヴェイは気がついてる? 教会に神さまなんていないってこと──。
弱冠十四歳の、教会の寄宿学校の制服を着た少女がそんなふうに言ったのは、考えてみるとかなり歪んだことではないだろうか。
「バッカだよなあ。なんで信じてもいないもののために祈りの真似ごとなんてするのかねえ」
揶揄する声が片耳に入ってきた。横目で睨む視線を向けると、神官姿の男が客車のデッキに腰を降ろして相変わらず嫌味な笑いを浮かべている。
距離、約三歩。お互い一歩ずつ踏み込めば急所を狙える間合い。
「教会の神を信じてないガキが教会の最高権力者の血筋だなんて、笑い話だよな。ははっ」
喉の奥で引っかかる笑い方が癪に障る。その話題に乗ってやる気はなかったのですっぱり無視し、前方に視線を流したまま声のトーンを落として問う。
「キーリを利用してシグリ・ロウに接触して、どうするんだ」
「わかりきってること訊くなよ」
相手の口調はあくまで軽薄なまま変わらない。こちらも変わらない低い声で、
「……殺すつもりか?」
「だったらどうする。とめるか?」
すぐには答えなかった。作業が終わったようで老人がつるはしを降ろし、キーリも祈りをやめて顔をあげた。少しきょろきょろしてからこちらを振り返り、二人で喋っていることに目をとめて不安げな表情を見せたものの、先に戻ってる、というように客車を指差すジェスチャーを残して一輛目の客車のほうへと戻っていく。遠目にそれを見送りつつ会話を再開する。
「シグリ・ロウのところに、ベアトリクスが捕まってる」
「ベアトリクス?」きょとんとしたような一拍の間があってから、「あー思いだした。あのうるさい金髪女。へえ」へえ、へえ、とヨアヒムは何度かうっとうしく繰り返したあと、何やら面白そうにまた喉の奥で笑って言った。
「交換条件ってことか。俺がそいつを助ければ、シグリを殺すのをとめない、と」

「……別に、そういうつもりじゃない」
ぼそっと答えた自分の声は、否定ではあったが否定というには歯切れが悪く、どっちかというと答えを保留したという感じになった。そんな意図があって話したと言われればそうかもしれないが、相手はキーリの血縁者かもしれない。旧友とキーリの血縁者、どっちかを切り捨てろと言われたら……今のところそんな選択肢を考える気はない。
ヨアヒムはあからさまに舌打ちして地面に唾を吐いた。
「教会の呆け老人を殺すのに躊躇う理由なんてねえだろ。キーリの親だかなんだか知らねえが、そんなことは俺には関係ないし、それで八十年間俺たちが追っかけまわされてたことがチャラになんてまったくならねえ」
「復讐したらそれで満足するのか? そんなことに意味があんのかよ」
「意味? 受けた敵意の礼をするのに意味なんているのかよ。お前のそういう、反吐が出るほど甘いところが大っ嫌いなんだよ。なんでもかんでも悟ったような顔しやがって、あーあーご立派なことで」
「だったらお前は……受けた敵意を全部跳ね返して、それでお前に何が残るんだよ。結局何がしたいんだ、お前は、」
きんっ──。
高い音が響いた。大きく一歩踏み込みざま右腕を振るったヨアヒムの手に刃を出したフォールディング・ナイフがある。貨車の側壁に軽く傷をつけて跳ね返り、切れた赤毛が数本はらりと風に舞う。
一時張り詰める緊張感。お互い動きをとめて至近距離で睨みあったあと、左手でふいとヨアヒムの手首を払うと、ヨアヒムはあっさり手を引いてナイフの刃をたたんだ。
「相変わらずむかつくな、お前は」
「安心しろ。俺もだ」
ナイフをポケットにしまってヨアヒムはきびすを返し、デッキに跳び乗って車輛へと消えていった。
ぷお────……。列車が警笛を鳴らし、灰白色の分厚い蒸気が吐きだされる。「発車しますよ。乗ってください」機関士見習いの男が機関車のタラップから身を乗りだして声をかけてきた。老機関士はすでに作業の片づけを終え、つるはしを担いで見習いの脇から無言で機関車に乗り込んでいっている。
煙草を踏み消してデッキに乗ろうとしたとき、意識の端にふと気配が引っかかった。
「……?」
デッキのタラップに片足をかけて振り返る。後方の貨車の陰で何かが動く気配を感じた。褐炭状の化石資源を積み込んだ屋根のない貨車が十輛近く連なっているが、未だ左右で微妙にピントのあわない視力にはべつだん変わったものは映らず、最後尾のほうは暗く霞んで沈んでしまう。
「ハーヴェイ?」
一輛目の客車の窓からキーリが顔を出した。「ああ」手すりに摑まってデッキに身体を持ちあげるのと同時、軽い振動と重苦しい蒸気を吐きだして列車がホームを滑りだす。車輛に入る前に再度後方に連なる貨車を振り返ったが、特に気になるものはなかった。
(視力、落ちてきたな……)
左目を押さえて軽く頭を振った。〈北西鉱山区〉の峡谷で出会った異形の獣──タテガミにもらった左目は一応神経が繫がって使えてはいるが、思った以上に劣化がはやくふいに一瞬だけ映像が途切れたりする。右目の視力も完全には回復していないので、全体的にノイズのひどい通信映像の中にいるような状態になることが時折り起こる。もうしばらく、まともにもってもらわないと困る。
最後にもう一度、ホームの外縁に沿って長さのちぐはぐな柵のように立てられた墓標の列を眺めた。遠ざかっていく墓標の群れはすでに乱雑に灰皿に突き刺さった黒いマッチ棒のようにしか見えない。あの中に、クリフトフのために立てられた墓標もあるだろうか。
祈る対象がわからなくても──一秒だけ目を閉じて黙禱した。
二輛目の客車の後方から車内に入るとヨアヒムの姿はもうなく、前のほうのボックス席の左右を占めてカードゲームをしていた三人の兵士がこちらを振り返った。中の一人が焦って手を滑らせ、持っていた手札がばらばらと通路に舞い落ちた。気にせず通路を進む。別にわざと踏んだりする気はなかったが、ばらけたカードを拾おうと腰をかがめた兵士がびくっとして手を引っこめた。さっきまで一輛目の見張り当番についていて、サーベルを拝借した(奪ったとも言う)比較的若い兵士だ。
それぞれの体勢のまま釘でも打ちつけられたように硬直して見送る兵士たちに一瞥をくれただけで普通の足取りで通路の真ん中を通り、前方の連絡扉の手前で、ふと足をとめた。唐突に振り返ったので一瞬気を抜いたらしい兵士たちがまた硬直した。ごくりと唾を飲み込む音まで聞こえてきそうだ。
内心で肩をすくめた。ヨアヒムに言われた台詞が頭に浮かぶ。なんでもかんでも悟ったような顔しやがって──悟っているつもりはまったくないが、教会兵や教会そのものを忌避してはいても、敵意のようなものを覚えたことは別にないのは事実だった。ひらたく言うと、どうでもいい人間に敵意を持つことにどれほどの意味があるのか。
「俺の顔、怖い?」
爛れが残る左頰を肩口で示して訊いてみる。瞳の色が左右で違うというおまけつきだ。誰も率先して答えなかったので通路にしゃがんでいるさっきの若い兵士に対象を絞って視線を向けると、兵士はあわあわと
「たっ、多少」
などと答えた。
「多少?」
傷ついた顔をすると「ひっ、い、いや、別に」と弁明する。そこまで怖がられるようなことをした覚えはないのだが。それ以上の答えを聞くことに興味がなくなり溜め息をついて連絡扉に向きなおったとき、おずおずした声が背中にかかった。
「あの……それは、痛いのか? 不死の兵士は痛みを感じることがないと聞いた……」
車輛を出ようとしたところをもう一度振り返る。睨まれたと思ったのか「いや、あの、失礼した」と質問を取りさげようとした兵士の声を遮って、
ばん!
後ろ手に連絡扉を殴ると、当の兵士はもちろん他の二人も真っ蒼になって凍りついた。
「同じだよ」
硬直した車内の空気に列車のかすかな振動と自分の声が響く。
「あんたたちと同じだ。怪我したら痛いし、面白いことがあったら笑うし、怖いと思うことだってあるし、それに……カードもやるよ?」
通路に散らばったカードに視線を落とし、視線をあげて口の端で少し笑った。
「今度やる? 言っとくけど俺強いよ」
「の、望むところだっ。不死人なんぞに負けはしないっ」
若い兵士はおろおろしていたが年配のほうの一人が顔を紅潮させ声を荒げて請けあう。未だ偏見たっぷりではあるもののむやみに畏れられてはいない、ようやく対等な反応を引きだせたことに満足し、素直な笑みを残して車輛を出た。
一輛目と二輛目の客車を繫ぐデッキに立って、一度立ちどまる。車輛の外壁に跳ね返る風が乱気流となり髪を搔き乱す。デッキの隙間に見える空を見あげた。砂色の薄雲に霞む、何十年も、おそらく何百年も変わらない惑星の空は今日もただ茫漠と漂っているだけで、進む方向を示してくれることはない。
(ユド……。俺は今、そう間違ってない方向に進めてるかな……)
一輛目の連絡扉をあけた途端、目に入った光景にぐらっと目眩がした。
ヨアヒムが通路の真ん中にしゃがんで足もとにチョコレート・バーを置き、バケツのようなものをその上に被せて棒を立てている。どう見てもネズミ獲りか何かの罠だが、何を釣ろうというのか……。連絡扉の脇に立っている見張りの兵士と、真ん中あたりの座席に座ったキーリが冷ややかな視線でそれを眺めている。
「……何をやってんだ、お前は」
キーリと同じく冷ややかな目つきで問うと、ヨアヒムがしゃがんだまま顔をあげた。
「お前こうやって手なずけたんじゃねえの?」
「んなわけねえだろ」どこまで本気なんだ。意外と本当に本気かもしれないのがこいつの中の常識の恐ろしいところだ。
ふてくされて罠を片づけながらヨアヒムは玩具をねだる子供そのものな感じで、
「俺も犬が欲しい」
「私、犬じゃなーいっ」
たまらずキーリが席を立って反論したときだった。
ぐぉぉんっ……
まさしく犬の咆吼に似たこもった音がどこかで聞こえた。続いて悲鳴とも怒号ともつかない複数の男の声と剣戟の響き。はっとして今入ってきたデッキを振り返る。
「なんだっ?」
見張りの兵士が気色ばんで連絡扉から飛びだしていく。「ちょっ、待て──」あとを追ってデッキに駆けだしたときには見張りは二輛目の連絡扉をあけようとしている。
べちゃっと嫌な音を立てて、小窓の内側に何かが張りついた──血みどろの人間の手のひらが。五指と手のひらの痕を赤く残してその手がずるりとガラスをこすり、窓の下に消える。同時、小窓を割って突きだしてきた腕が扉の前で立ちすくむ見張りの兵士の首を摑んだ。
関節が骨張ったいびつな長い指、細胞が腐って溶け落ちたような緑色の皮膚──。
「ハーヴェイっ──」
「出てくるな、中にいろ!」
背中に聞こえたキーリの声に反射的に切り返し、一輛目の連絡扉を後ろ手で閉めた。キーリの呼ぶ声が扉に遮られて遠くなる。二輛目のデッキに飛び移りざま首を絞めあげられている兵士の腰からサーベルを抜き、
ずんっ……。
体重をかけて、小窓に向かってサーベルの切っ先を突き刺した。肉を貫通する不快感が腕を通して重く伝わってくる。
「ぐうぅ……」
低い揺らぎのある獣の唸り声。小窓から突きだしていた腕の力がゆるみ、解放された兵士がデッキに尻もちをついて倒れ込む。突き刺したサーベルごと扉が外側にはずれ、扉にもたれかかるようにしてそれが姿を現した。
ぼろぼろの布の切れ端を身体に巻きつけただけの、緑色がかった腐った死体としか言いようがないもの。焦点のあわない瞳がゆらゆらと虚空を泳ぎ、こちらを向いた。
(さっきの……)
列車に乗り込む前に感じた気配がこれだったのかと自分自身に舌打ちした。停車中に車内に入り込んだのか──。小窓越しに突き刺したサーベルは正確に喉の急所を貫いていたが、そいつは効いたふうもなく自分に突き刺さったサーベルの刃を素手で摑んだ。危うく柄から手を放して引きずり寄せられるのを避け、
「悪く思うなっ」
気合いとともに、扉越しに全体重を叩きつけて体当たりを食らわせた。
走り続ける列車の突風を全面積で受けて扉が煽られ、そいつの巨体を巻き添えにしてデッキから投げだされる。一緒に車外に放りだされそうになったがすんでのところで手すりにすがりつき、風にはためく自分のコート越しに振り返ると、壊れた扉とそれの巨体が線路沿いの岩肌をもんどり打ってバウンドしあっという間に後方に飛ばされていった。
肩で荒い息をしながら手すりをまたいでデッキに這いあがる。倒れている兵士の容態を見ると、頸の骨を砕かれてすでに事切れていた。……とりあえず、脳の酸素が不足しているのかなんの感情もわいてこなかった。
若干ふらつきながら二輛目に足を踏み入れたとき、
それでもさすがに今度は、入り口で立ちどまってこみあげてきた嘔吐感を飲み込んだ。
二輛目は死体と血の池と化していた。連絡扉の窓ガラスについた手形の持ち主である兵士の死体が足もとに転がっている。今しがた会話を交わしたばかりの、あの若い兵士だった。
それは、痛いのか?──
遠慮がちにそう訊いてきた、ついさっきそんな会話を交わしたばかりの。
残りの二人は──一人は通路の先の血溜まりの中に俯せに倒れていた。もう一人、一番年配だった男は座席に深くもたれて座り込み、うなだれているだけのようにも見えるが、窓に叩きつけられたのかガラスにべっとりと血がこびりついて下に向かってこすれている。
強烈な吐き気と目眩が同時に襲ってきた。軽くよろけて戸口に寄りかかり口を押さえる。怒りとか後悔とか、あるいは慟哭とも言えるよくわからない感情がこみあげてくる。敵意はなくても別に好意もない、どっちかというと対立関係にある人間だった。それでも、ほんの一分ばかり前に会話をした、今度カードで勝負しようと、不死人なんぞに負けるものかと粋がっていた、そんな人間の無惨な死体が目の前に転がっている。
あのとき、感じた気配をもう少し気にとめていれば、こんなことには。
みしり、とどこかで軋む音がした。まだいる──周囲の気配に気を張り詰める。視界の端を影が横切り、はっとして振り返ったとき、
がしゃん!──
通路の向こう、後方の連絡扉の小窓が外側から割れた。
「兵長、外に何かいるっ……」
かりかりかりとさっきから車輛の壁を引っ搔くような音が聞こえている。『キーリ、俺を放すなよ』「う、うん」ラジオを腕に抱いてキーリは周囲に怯えた視線を走らせた。ハーヴェイと見張りの兵士は後方の連絡扉から飛びだしていったきり戻ってこない。
屋根の真上で何かが走る音が聞こえた気がした。ラジオをきつく抱きしめて後ずさると後ろにいたヨアヒムにぶつかった。思わず距離を取りつつ振り返るとヨアヒムは片方の肩をすくめ、傍観者気取りで座席の背もたれに頰杖なんかつく。
「なんか面倒なもんが入り込んだみたいだなあ」
他人ごとみたいに言うヨアヒムをキーリはきっと睨みつけた。ヨアヒムは気にしたふうもなく、呆れた仕草で天井を仰いで首をひねる。
「だって他人ごとじゃねえか。あいつはなんであんな一生懸命なの? いつから人助けが趣味になったんだ?」
「ハーヴェイは、あんたとは違うっ」
皮肉る言い方にむっとしてヨアヒムの足を踏んづけようとしたとき、車輛の外で大きな軋みが聞こえた。ヨアヒムから離れて身をすくめ周囲を窺う。ぎし、ぎし、と車輛全体が締めつけられるように外側から軋んでいる。
どこにいるんだ──壁? 屋根?
気配を探って左右に視線を走らせたとき、側壁の窓ガラスを突き破って何かが飛び込んできた。窓枠を蜘蛛みたいに逆さまにつたって現れたものにキーリは目を見張った。
緑色がかったのっぺりした肢体、甲殻虫の複眼を思わせる瞼のない二つの目玉、肉が削げ落ちて関節が異様に目立つ長い四肢を窓枠に這わせて入り込んでくる姿は実際そういう種類の虫みたいで、生理的な嫌悪感に鳥肌が立つ。無意識に後ずさってたたらを踏み、通路の反対側の座席に背中をぶつけた。
よろけて座席に倒れ込むのと同時、抱えたラジオから衝撃波が飛びだした。しかし狙いを逸れてわずかにそれの腕を掠っただけで空気の塊が壁を叩く。
たたんだ四肢をバネのように伸ばしてそいつが飛びかかってきた。
「きゃああっ」
座席の上で転んだ格好で身をすくめたとき、
飛びかかってきたそいつの動きが、キーリの頭上でふいにとまった。頭を抱えたままおそるおそる顔をあげると、
「ちぇ。カモネギのお嬢さんをキズモノにするわけにはいかないんだよな」
面倒くさげな悪態をついて、ヨアヒムが右手に持ったフォールディング・ナイフをそいつの胸に突き刺していた。「ぐぅぅ……」そいつが喉から苦しげな声を漏らし、もがいてナイフを引き抜こうとする。しかしもがくほどに逆にナイフがさらに奥まで押し込まれ、ヨアヒムの右手がずくずくと胸の中に埋まっていく。キーリは固まったまま目を見開いてその様子を凝視する。
ナイフでえぐられた胸の中心からいびつな形の石の心臓が姿を見せた。ヨアヒムが口の端を歪めて笑い、右手にさらに力を込めて心臓を摑みだそうとする。生物の体内から発せられるとは思えない、ぎちぎちという奇怪な音が軋む。
ヨアヒムの姿にも変化が起きていた。心臓を摑んだ右手から腕に向かって血管が浮きあがり皮膚が爛れを起こして溶けはじめている。歪んだ笑いを浮かべる頰の片側にも血管が浮き、皮膚が崩れて肉が覗く。自分の姿にかまったふうもなく、ヨアヒムはそれの身体の内部に繫がった生体ケーブルを引きちぎって素手で心臓を摑みだした。
それが苦しげにもがきながら後ずさって窓にぶつかり、壊れた人形みたいに倒れ込む。瞼のない双眸を虚空にさまよわせて断続的に痙攣する姿にキーリは吐き気を覚え、震える両手で口を押さえた。
数秒もすると、ぜんまいが切れたように次第に動かなくなった。
生体ケーブルとコールタール状の黒い血液が滴る石の心臓を無雑作に右手に持ったままヨアヒムがこっちを振り返る。石を持った右手の甲で右頰を拭うと溶けた皮膚がずるりと剝けて、キーリは小さな悲鳴をあげた。少しもしないうちにすでに皮膚の再生がはじまっている右頰を歪めてヨアヒムは薄く笑い、
「怖い?」
「……こっ、怖くないっ……」
強気で言い返しつつもラジオを抱きしめて後ずさりながらキーリが答えたとき、前方と後方、両側の連絡扉が同時にあいた。
「何を騒いどるか! 今度こそ放りだすぞ!」
前方の扉からシャベルを振りあげて現れた老機関士が、場の状況を目にしてさすがに一瞬怒声を閉ざした。後方の連絡扉からはハーヴェイが戻ってくる。キーリはほっとして表情を明るくした。ハーヴェイのほうは車輛の状況を一瞥することなく連絡扉を乱暴に閉め、持っていたサーベルをレバーに突っ込んでいる。
直後、小窓のガラスを割って突きだしてきた緑色の腕が、危うく頭を逸らしたハーヴェイの頰を鋭い爪でわずかに削いだ。サーベルで閂をされた扉が外側からがたがた揺れる。
「前に行け!」
今にも壊れてはずれそうな扉を離れてこっちに走ってきながらハーヴェイが叫ぶ。ヨアヒムがやれやれという感じで我先にきびすを返し、突っ立っている老機関士の脇から連絡扉を抜ける。「キーリ、平気か」「へっ、平気」座席にへたり込んでいたキーリもハーヴェイに腕を取られて助け起こされ、背中を押されて通路を走りだした。
シャベルを振りあげた格好で突っ立っている老機関士を押しやるようにして一緒に前方の連絡扉を抜けたとき、後方の扉が激しく揺れて戸口からはずれ、そいつらが姿を見せた。
二体? いや三体?──キーリの目が確認する前にデッキを抜けて全員で最前列の機関車輛に飛び込む。「な、なんですか、いったい?」若い見習いが不審げにデッキに顔を出し、後方の客車に現れた化け物を目にして悲鳴をあげた。
「切り離せ、はやく!」
「は、はいっ?」
ハーヴェイの指示に、わけがわかっていなさそうながら見習いが機関車と一輛目の客車とを繫ぐ連結器をあたふたと切り離しにかかる。しかし焦る見習いの手もとは怪しく連結器はなかなかはずれない。そうこうしているうちに奴らが客車を抜けて迫ってくる。
「うおお! 化け物どもが!」
雄叫びをあげたのは、それまで一方的に押しやられるだけで啞然としていた老機関士だった。何かに憑かれたように叫んでシャベルを振りあげ、デッキに飛びだしていってやみくもに振りまわしはじめる。「馬鹿、戻れっ」ハーヴェイの声は届かず、振りまわしたシャベルを化け物の一体に摑まれて引き寄せられ、老機関士の姿が客車に消えた。
「くそっ」
舌打ちとともにハーヴェイがあとを追ってデッキに駆けだすのと同時、振動とともに連結器がはずれる音がした。
「ハーヴェイ、駄目っ」
とっさにキーリは手を伸ばしてハーヴェイのコートの背中を摑んだ。軽くたたらを踏みながらハーヴェイが振り返り、コートにしがみつくキーリの手を取る。「先に行ってろ。今日中に追いつかなかったらお前一人で首都に行くんだ。俺もあとから行く」「やだっ」ハーヴェイの声を遮り、周囲を切り裂く風に負けない声でキーリは叫ぶ。
「キーリ──」
「一人でなんかやだ、行かない! 私、ぜったい行かないから!」
「いいから行けって」
「嫌だ!」
首を振って叫びながら、自分の幼稚さを思い知っていた。嫌だ、嫌だ、一人にしないで──十四歳の駄々っ子の自分が頭の中で泣き喚いている。自分は十四歳の頃からちっとも成長していない。子供っぽくて、頑固で駄々っ子で、ハーヴェイに引っついてまわっているだけで。でも……でも離れるのはもう嫌だ。今度こそ次はないんじゃないか、もう会えないんじゃないかという気がして。
「キーリ」
しがみつく手を強引に引き剝がされた。顔を寄せてハーヴェイが囁く。デッキを吹き抜ける風が壁となって二人の周囲を包み、ハーヴェイの静かな低い声だけが耳に届く。
「約束する。絶対迎えにいく。そしたら──」
がこんっ……。
重い衝撃とともに車輛が離れはじめ、最後の台詞は風に呑まれてよく聞こえなかった。「ヨアヒム!」機関車側のデッキに突きとばされ、後ろにいたヨアヒムに受けとめられる。『あの、馬鹿野郎っ……。キーリ、頼む、俺をっ』うねる突風にラジオの声が飛ばされる。
「停まって、戻ってください! お願い!」
「無理ですよ! ていうか嫌ですっ」
機関車を振り返って叫んだが、見習いの機関士が喚き返して運転席に駆け戻っていく。
離れていく客車をキーリはもう一度振り返った。客車側のデッキに残ったハーヴェイの顔があっという間に遠のいていく。
違う。あのときとは同じじゃない──。
自分自身に言い聞かせた。十四歳の自分と今の自分は同じじゃない。それぞれのやることを片づけよう、ハーヴェイはそう言った。だからキーリのやるべきことを、今どうするべきかを、考えて見極めろ──。
きっと唇を引き結び、ラジオの吊り紐に両手をかけた。
「ハーヴェイ!」
呼ばれた声に、客車に向かって走りだそうとした足をとめて振り返る。「持ってって!」刹那、キーリにぶん投げられたラジオが『うわああああ』悲鳴をあげながら一直線に突っ込んできて、
ごっ。
顔面を直撃され一瞬視界が飛んだ。
「おっ……、お前なあっ」
「あ、ご、ごめんっ」
ラジオを引っぺがして怒鳴ると、機関車のデッキから身を乗りだして投球ポーズを取ったままキーリが蒼くなっている。
化け物を罵る老人の濁声が背後で聞こえた。背後の客車に視線を送って舌打ちをしてからもう一度機関車を振り返り、ラジオを掲げて軽く笑ってみせる。
サンキュー。大丈夫。そう伝わるように。
「ヨアヒム! 妙なことしたら殺す!」
キーリの後ろで飄々と他人ごとを決め込んでいるヨアヒムに捨て台詞を残し、ラジオを首にかけながらきびすを返して客車に駆け込んだ。
通路の途中に老人が持っていたシャベルが落ちていた。走り抜けざま腰をかがめて左手で拾う。老人の姿は通路の奥、肩口に鉤爪を突き刺され吊りあげられながら、それでもなお相手に無意味な罵声を浴びせている。「このっ」踏み込みの加速も乗せて、老人を襲っているそれの顔面にシャベルを思いきり叩きつけた。
よろけた敵が連絡扉の戸口からデッキに倒れ込み、そのまま車外へ吹っ飛ばされていく。巨体がもんどり打って車輪に轢き潰され、激しい震動とごりごりとミンチが製造される音に全身が総毛立つ。車体がぐらりと片側に浮きあがる。
通路にくずおれた老人を助け起こそうと駆け寄ったとき、
『ハーヴィー! まだいる!』
ラジオのノイズと警告の声にはっとして背後を振り仰ぐ。直後、視界の横から薙がれた腕に側頭部を殴り倒され、抱えた老人と一緒にデッキに転がりでた。もんどり打って後ろの車輛の壁にぶつかったあと、突風に煽られてデッキから車外に投げだされた。視界の真横を車輛の側壁が滑り抜けていく。
機関車輛から切り離された残りの車輛は幸いにもすでにだいぶ速度が落ちていた。老人を抱えたまま何回転か岩肌をもんどり打ち、肩口でひどく地面をこすってかなりの距離を滑ったものの、どうにかそこで停まった。
最後尾の車輛の壁が真横を抜けた数秒後、前方で岩肌を激しく削る轟音が轟いた。
「くっ……」

精神力を搔き集めて痛覚を遮断し、倒れたままどうにか頭を持ちあげる。
前から何輛めかの貨車までが脱線して横転し、先頭の客車が岩棚の端からぎりぎり落ちそうなところでかろうじてとどまっていた。貨車に積まれていた化石資源がぶちまけられ、からからと崖を転げ落ちていく。
目の前の惨状に深い吐息が漏れた。乗客が乗っていたらどれほど無惨な被害になっていたことか──幸いと言っていいのか、生きている人間はもう、あの列車には乗っていなかった。
「兵長、生きてる……?」
『おう。そっちは』
「なんとか」
下敷きになっていたラジオの無事を確認し、腕を立てて身体を起こそうとしたが、袖がぼろぼろに裂けて肩と肘の関節の骨がうっすらと見えていた。「ちっ……」傷口に意識を集中してみたが再生はのろのろとしかはじまらない。一箇所に治癒力を集中したため頭痛を覚えて視界が暗くなり、再生は途中で諦めた。痛覚は遮断しているので左腕全体に痺れたような鈍い感覚が残る。
そばに倒れている老人の容態を見ると、背中と肩口に爪痕が深く食い込み作業服が血染めになっていた。這い寄って顔を覗き込み、声をかける。
「爺さん、おい、生きてるか」
「さ、さわるなっ……」
弱々しいながら罵声とともに乱暴に手を払われて、「っと」自分自身ふらついていたこともあり、よろけて軽く尻もちをついた。つい呆然としてしまったが『なっ……このっ』ラジオのほうが怒りの声をあげたので、一拍おいてから拒絶されたことに気づく。歯を食いしばって頑なに自力で身を起こそうとする老人の作業服に見る間に血の染みが広がる。
「無茶すんなって」
「さわるなと言っとる、教会の犬なんぞにっ……」
貸そうとした手を老人はまた振り払ったが、その反動で肩口から倒れ込んだ。痛みと出血で朦朧としているようで、もう起きあがる力もなく俯したまま浅い呼吸を繰り返す。「くそ……ったく」舌打ちをして、老人の腕を取り身体の下に潜って担ごうとした。ラジオが抗議のノイズをあげる。
『そんな頑固者放っておけっ。こうまで言われて助ける義理なんてねえっ』
「うるさいよ……」
自分のほうも若干朦朧としているようで聴覚が遠く、ラジオの声が歪んで耳に届く。
『ハーヴィーっ』
「俺は……」呟く自分の声まで歪んで聞こえた。半分独り言のような愚痴が漏れる。「もうこういうことで後悔はしたくないんだ、俺はっ……。なんで、俺の目の前で起きるんだ、放っときたいのに……」微妙に苛ついている自分に気づいていた。目の前で助けられずに絶命した人々の顔が頭をよぎる。クリフトフのときもそうだった。ついさっき、気軽な会話を交わしたはずのあの兵士たちも。無関係な場所で起こってくれたら無関係のまま放っておけるものを、どうして俺の目の前で死ぬんだよ。目の前で死なれるのは、やっぱり後味が悪いじゃないか、放っとけないじゃないか。
担ぎあげて立ちあがろうとしたが、がくんと一度膝が崩れた。
『ハーヴィー、やめろっ』
「うるさい、わかってる……」
『何をわかってるってんだ、貴様が動けなくなるぞ、聞き分けろっ』
「うるさいって……普段だったらあんたが、助けろっていう、くせに、勝手なこと……」
言い募るラジオの声がやかましく耳に障った。心配して言ってくれているのは十分わかっているのに愚痴で返す自分に自分で苛々する。うるさいうるさい。半ば自分自身に向かって頭の中で繰り返す。放っておきたいのに放っておけない自分に向かって。
もう一度老人を担ぎなおし、どうにか立ちあがって歩きだしたとき、視界の端で動くものがあった。
ずぐ、
と腹部に嫌な感触。せっかく担いだ老人の身体を思わずずり落とした。
自分の身体に視線を落とすと、背中から脇腹に向かって鋭い爪と節くれだったいびつな五指が第二関節あたりまで突きだしていた。「……っ」片膝をつきながら背後を振り返る。半身を列車の車輪に轢き潰され半ば肉塊と化した化け物が、線路に這いつくばったままこっちに腕を伸ばしている。人の腹に手を突っ込んどいて、瞳孔のない空虚な双眸がまるで助けてくれとすがるように見あげてくる。……どいつもこいつも、なんで俺の目の前で。
一瞬の甘い躊躇が仇になった。脇腹の肉をねじりとられる激痛が走る。
『野郎!』
ラジオのスピーカーから衝撃波が飛びだした。敵を直撃して吹っ飛ばしざま、しかしそいつの腕が空を薙ぎ、ラジオの吊り紐が爪に引っかけられた。吊り紐が引きちぎれラジオが地面に転がる。
「兵長っ」
衝撃波の反動でよろけながら手を伸ばそうとしたとき、
立ちあがろうとした化け物の足が、ラジオの真上に踏み降ろされた。めきゃっと、筐体が潰れて部品が飛び、針が振り切れるような大きな雑音を最後に音が途切れる。
「──!」
頭の中が、閃光を浴びたように一瞬白くなった。
何を踏んだのだろうとでもいうように、そいつがいったん片足をあげて首をかしげる仕草をする。もう一度足を踏み降ろそうとした刹那、「てめえっ」脇腹に激痛を覚えてうまく走れないままほとんど転がるようにそいつにぶつかっていった。体当たりを食らわせてラジオから突き放し、線路脇に落ちていたシャベルを引っ摑む。
俯せに倒れたそいつの背に切っ先を突きつけ、思いきり叩きつけた。肉を突き刺す感触のあと、かんっと硬いものにぶつかる。かまわずにさらに渾身の力でシャベルを突き降ろす。
「はあ……、はあ……」
肩で息をしながら地面に膝をつき、同時にシャベルが手から滑り落ちた。コールタール状のどろりとした血液とともに、倒れたそいつの身体からケーブルを引きずった石の心臓が転がり落ちた。両の瞳を虚ろに見開いたまま、そいつはぷつりと動かなくなった。
思考回路は半ば麻痺して、ただ吐き気だけがした。
「兵長……」
掠れた声で呼びかけながら、膝で地面を擦ってラジオに這い寄る。筐体が無惨にひしゃげたラジオから返事はない。「へいちょ……」我ながらひどく情けなくなる声だった。なんで最後に言った台詞が、うるさい、って、そんなので……そんなので終わるのは嫌だ。
「ごめん、ごめん、……頼む、返事してくれ……」
這い寄ってラジオの上にかがみ込み、額をつけて土下座でもするように声をかける。しかしどんなに呼びかけてもスピーカーからはわずかなノイズすら返ってくることはない。
頭の上で気配を感じた。もう顔をあげる気力も体力も残っていなかったが、少したってからそれでものろのろと視線をあげる。霞がかかって見える視界の先、線路の前方で横転した列車から、緑色がかった腐った死体が数匹這いだしてくる。
ぐうぅ──……
うぅ──う──……
文字どおり死んでも死にきれない、苦しげな呻き声が風の唸りに乗って山脈の鉄道に響く。
這いだしてきた死体たちが前かがみに身を起こし、ゆらゆらと亡霊のような歩き方で、見つけた獲物のほうへと──こっちへ寄ってくる。「く……そ」ラジオを腕に抱えて老人を振り返るが、担いで逃げる余力があるかどうか自分自身相当に疑わしい。立ちあがろうとして足がふらつき膝をつく。
そのとき、
ぎゅぼっ──
圧縮した重い空気を一気に解放したような濁った銃声が轟いた。
先頭に迫っていた死体の身体の中心にぽっかりと穴があき、死体が俯せに倒れ込んだ。さらに数発、連続して銃声が轟き、役立たずの壊れた人形みたいに死体が次々と吹っ飛ばされて倒れ込む。
(まさか──)
這いつくばったまま頭をもたげ、線路の先に目を凝らす。
陽炎に霞んでゆらめく線路の先に複数の人影が現れた。フルフェイスのいびつな装甲服を身にまとい、その純白の装甲服と対照的な漆黒の大口径の銃口を揃って携えた、
モノクロでできた死神のような集団が。