首吊り死体がどういうものかについてここで細かく論じる気はないが、首吊りというのは少なくとも見た目に綺麗な死に方ではない。
自分が首を吊ったらどうなるのだろうと、今現在目の前で揺れている先例を眺めながらちらりと考えてみる。おそらく死にはしないだろうが、一時的に呼吸や血液の循環が遮られるあいだに相当無様な顔になるだろうし頸の骨が折れるくらいはするかもしれない。死ねないわりにデメリットばかり多い。
ふむ……首吊りは嫌だなあ。
「なっ、何をぼさっと突っ立ってる、はやく助けろ! 助けんか!」
居丈高に喚く声に思考を遮られ、ヨアヒムはあからさまに舌打ちをした。
天井のルーフファンのプロペラとプロペラのあいだに首を挟まれた男が長衣の裾を蹴散らかしじたばたと両足を振ってもがいている。漆黒の地に金の装飾のある長衣を身にまとった、無駄に脂身が多いかわりに頭髪が足りないその老人はこの状況で自分のどこに優位性があると思っているのか甚だ疑問だがなおも偉そうだった。
「はやくこれをなんとかしろ! なんのためにお前なんぞをもう一度使ってやったとっ……」
ヒステリックな喚き声が耳に障ってヨアヒムは顔をしかめつつ、
「助けろって言われてもですね、何をです?」
一応言葉遣いは丁寧に、むしろ慇懃無礼なくらいの態度で訊き返して困惑気味に首をかしげる仕草をする。
「何を、だとっ……貴様、目まで腐ったか、私のこの状況に決まって──」
「いや、だってあんたさ」
激昂してさらに喚く老人の声を遮り、天気の話でもするくらいの当たり前の言い方で。
「もう死んでますよ」
老人の背後に向かって顎をしゃくってみせる。絶句して暴れるのをやめた老人がおそるおそる背後を振り返る。プロペラに挟まった首が人体として少々不自然な角度でねじれ、一拍遅れてから首に引きずられて身体のほうがぷらんと半回転して後ろを向く。
うっすらと闇に透けて見える老人の背後に、同じ顔をした老人の首吊り死体がぶらさがっていた。二基のルーフファンの交差したプロペラのあいだに首を挟まれ、どす黒く変色して膨張した顔を苦痛に歪め、半開きの口の両端から血と泡と涎を垂れ流して(ああ、細かく論じる気はなかったのになあ)。停まったルーフファンが障害物を嚙み砕いてまだまわろうとしているのか、ぎし、ぎし、と鈍く軋む音が天井の薄闇にかすかに響く。
「な、なに、なん、なな……」
自分の死体を凝視して老人が意味不明の単語の活用を口走る。
ずるり……。
部屋の四方の闇から浸みだすように、いつの間にかたくさんの闇色の人型をしたモノが現れて、驚愕に顔を引きつらせる老人の足もとに集まっていた。四肢で這って床を蠢き、触手のようにひょろひょろと異様に長く関節だけが際立った腕が老人の脚や胴に次々に絡みついて這いあがってくる。老人の血走った目が恐怖に見開かれる。
人型がいっせいに口をあけて老人の霊体にかぶりつき、食いちぎられた霊体の手足が、黒いノイズ状の物質と化して虚空に消失した。
「なっ……た、助けてくれ、助けてくれっ……まだ死にたくないっ、タスケテッ……」
「だから無理ですって。今言ったでしょう、」
未練がましく足搔く老人にヨアヒムは呆れ返った視線を向ける。なんで一回説明して理解できないんだろう、頭髪に比例して頭の中身も足りないのだろうかこいつは。
驚愕と恐怖と絶望に歪んだ老人の顔が。
「もう死んでるって」
がばりと大口をあけた人型に丸呑みにされ、ノイズと化して砕け散った。
ウマイ……ウマイ……。
さわさわした低くか細い囁き声と、霊体の残りかすをむしゃむしゃと喰い尽くす咀嚼の音がそれ自体重みを持っているかのように部屋の底辺へと沈んでいく。
ウマイね……ぶくぶくに肥えた魂はウマイね……。
死にたくないって叫ぶ魂はウマイね……。
老人の霊体をしゃぶり尽くした人型どもの注意がこっちを向いた。這い寄ってくる人型どもに一瞥をくれ、ヨアヒムはふうんと内心で呟いて軽く肩をすくめる。一連の騒ぎの犯人はこいつらだったのか……なるほど暗殺者の仕業だなんて囁かれるわけだ。首都の連中はこういうモノの存在を認めたがらない。
足もとまで這い寄ってきた人型どもが顔を近づけてふんふんと匂いを嗅ぐ仕草をする。人型どもの頭部がぐにゃりと変型して全部が全部今しがた喰らった老人の顔になり、うっとうしい禿げ頭を横一列に並べて口々に喋りはじめる。
オマエ……不死人だ。
オマエの宝石、いいニオイしない。ウマそうじゃない。
オマエ、喰えない。喰える魂ない。
オマエ、喰えないからツマラナイ……。
禿げ老人が雁首並べてささめきながら、ずるずると後ずさって離れていく。
「けっ、不味くて悪かったなあ」
吐き捨てた声に応える声はすでにない。所有者亡きあとの執務室に自分一人の声が虚しく響いて消える。
聖職者の執務室のくせにその部屋は質素とかストイックとかいう単語とは縁遠く、高そうだが趣味が悪い調度品やら絵画やらで飾りたてられていた。やたらとでかい応接ソファに腰を沈め(やたらと沈む)、後頭部を背もたれに預けてふんぞり返るような格好で、頭上でぷらぷらと揺れている死体の足を仰ぎみる。ぼた……ぼたん……ぼた……。唾液混じりの濁った色の血が糸を引きながら滴り落ちて床に染みを広げる。恨めしげに見開かれた、しかし焦点のあわない澱んだ二つの眼球が天井からこっちを見おろしている。
「ちぇ……ツマンネエのはこっちだよ。俺の仕事がなくなっちまったじゃねえか。あーあ、くたばってない呆けジジイはあと何人いたっけなあ……」
愚痴っぽく独りごちながら、くたばっていない呆けジジイどもの禿げ頭を順番に思い浮かべていく。中には自分は禿げとらんと異議を申したてる奴もいるかもしれないがせいぜい頭髪の面積が一割か二割かくらいの違いだ。
最後に一人、一応まだ禿げていない奴が出てきた。
「シグリ・ロウか……」
頭に浮かんだ顔にあてはまる一つの名前を呟いて、
「……ははっ」
よくわからないが唐突に笑いが出た。笑うと同時にごぼっと咳き込み、口を覆った手のひらに鼠の轢死体さながらのぐちゃっとした内臓の塊が吐きだされた。粘性の血液が絡みついた内臓片が手のひらの上でウジ虫みたいに跳ねまわったあと急速に干からびる。「くそ……」一瞬目眩を感じて視界が暗転し、ソファにもたれて深く息を吐く。
天井を仰ぎみると首吊り死体が相変わらずぷらぷらと平和に揺れている。
「首吊りは嫌だなあ……」
吐息と一緒に呟いたら空気が抜けたような声になった。
首吊ったところで死にやしないんだしな。機能停止したければ心臓をえぐりだしたあと自ら炎の中にでも飛び込むか手榴弾でも抱え込むのがもっとも確実で手っ取り早い。気が狂ったあげくそうやって死んだ同族を知っている。
ソファに頭を預けたまま、右手を胸の中心からわずかに左、心臓のあたりにあてる。予行演習のつもりでぐっと五指に力を入れる。本当に第一関節くらいまで指が食い込んで服の下から血が滲んだ。
ふうむと一人で感心したふうに頷いて、もう一度同じことをやってみる。右手の指がさらに深く皮膚に沈む。気が狂う前に自分のこの手で確実にこれをやらないといけないわけなのできっちり身体に覚え込ませておかないと。
さてと……練習はオーケイ。
それじゃあこれから何をしようか。俺が自分に見切りをつけるときまで。
「なあ……あんたはその地位に昇って、何を手に入れた? なんでも手に入ったか?」
頭上の死体に何気なく訊いてみる。死体は虚ろな視線をこっちに向けたまま天井からぶらさがっているだけで何も言わない。
自分の血液と内臓片で汚れた右手を目の前に掲げ。
見えない何かを摑まえるように、手のひらを大きく広げて握り込む。
右手は何も手応えを得ることなく、冷え冷えとした虚空を握っただけだった。