夏休みを挟んで、学校生活で何が変わったかだって?

 何よりも厄介なのは、たちばなかれんがさも当然のようにいちじょう家に出入りしてお泊りするようになったってことだろう。あいつの家では親御さんが頻繁に留守にしているらしいから、その辺はかなりルーズになっているのだとか。だから橘邸まで送るより、どうせ家族には紹介したんだし、俺の家に行こうかという空気になってしまう。

 つまり、だ。

 一緒に我が家まで帰ってきて、次の日に学校があるなら、通学は一緒だってことになる。

 たとえば、始業式の日なんて酷いもんだった。

「手……いいっしょ?」

「いい、けど……」

 そうして手を繫ぎ、身体を寄せてくる金髪の同級生。

 休みが終わったとはいえ、まだ大分暑さの残る八月末ってところだ。白い夏服に汗がしたたるっていうのに、こいつは遠慮もなく……気づけば、べったりと腕を絡めてきていた。

 顔がむすっとしてしまうが、断らない俺も俺なのだ。

「えへへ……今日もあっついね♪」

「くっついておいて言うことがそれかよ……」

「朝からこんなとか……ヤバイね」

「だな……」

 そうなのだ、これは単純にヤバイんじゃないか?

 クラスではしっかり疑われている俺らの状態なのだが、学年、学校となるとまた話は別だ。こいつは学年単位でも友人が相当多く、有名人らしい。一緒にいるところを見られて恥ずかしいのは、何も教室の中ってだけじゃない。

 しかし、橘はそこを逆手に取ってきた

「あーあ、またラブラブバレしちゃうね。じゅんもね、そろそろ有名になっちゃうよ? 可愛い女の子と毎日一緒に歩いてて、帰りも一緒で、たまにこっそりチューまでしてて……」

「ふん! 可愛いって、自分で言うんだなっ」

「ふふっ……だって、ホントじゃーん」

 金髪女はそっと声を潜めて、耳元に口を近づけてくる。

「純もね……かっこいいよ?」

「……っ。もうそろ離れてくれ、すぐ駅だ。同じ学校の奴にも見られんだろ」

「やーだ。もうちょっと、二人でこそこそしてたい」

「はあ? だってお前、学校がだなあ……」

 横を向くと、橘の顔はほんのりと赤くなっていた。

 言いたいことは大体分かる。このままバカ正直に通学すれば変な噂が教室の外にまで漏れてしまうのは自明のことだ。見ず知らずの通行人ですら、橘とすれ違えば振り返ってしまうのだ。彼女を見知った連中が、俺のようなパッとしない男子と一緒にいるのを目撃すれば尚更だろう。

 それよりも、少しだけ遅れていけばいい。ホームルームが始まるギリギリを狙って行けばいいのだ。俺の通学はかなり余裕を持つのが常であるから、あいにく時間は三十分ほど余計にある。

 その間、何をしているか?

 そりゃあ、言ってしまえば……近所の公園のベンチだった。学校どころか、その前の電車にすら乗っていない。

「ラブラブ」

「休憩だ」

「違うの、ラブラブなのっ」

「休んでるだけだろーが。つーかな、ラブラブって何だよ。最近のお前、いっつもそればっかり言ってる気がするんだが、俺の気のせいか?」

 あーあー、不用意にツッコむのはよくないぞ、ガリ勉野郎。

 橘は揚げ足を取る名人だ。俺が言うことなすこと、大体こいつの言うラブラブとやらに繫げてきおる。

 つまり、こういうことだった。

「ふーん? ラブラブがどんなか、あたしが教えてあげよーか? ふふっ、ばーか……」

 これはよくないと察する前に、まず手が握られた。

 そのまま持っていかれて……手のひらの感触が、少女の白い頰を捉えた。胸の奥がひんやりとして、やがて震えが始まる。目を逸らせば、もうこれはいつもの構図だ。金髪女がバカにしたように、ニンマリと。

 一秒だっただろうか、もっとだっただろうか。

 今、好きな人の肌を触っている。

 恥ずかしさで手を引っ込めたい、しかしこのままでいたくもある。そんな道理の通らない気持ちの揺れに息苦しくなるが、やがて震えが落ち着いてくる。俺が逸らした目を再び合わせると、橘はいたずら顔から柔和な笑みに変えた。

 身体の芯から温かくなるようで、気づけばその頰をゆっくりと撫でていた。撫でれば撫でるほど、彼女の表情に柔らかさが増してくる。

 朝の青々とした空気の中で、二人でそよ風に包まれて……まずいぞ。いつまでもこのままでいられそうだ。緊張しろ、そして手を引っ込めろ。俺は自分自身にそう訴えるのだが、まあ聞き分けがない自意識だ。

 淡い雰囲気に身を任せ続けて。

 しかし、またしてもこいつは裏切りおった。突然ニヤリとして、

「ほーら。純、めっちゃ喜んでんじゃん……♪」

「~~っ! べっつに、喜んでねーしっ」

「今更恥ずかしがんなしー。もうチューまでしたんだからさー?」

「ふん、今となっては黒歴史だ……」

「でもね、こういうことだよ?」

「何だって?」

「ラブラブだとね。一緒にこんなコトしても、全然嫌じゃないの……。あたしらさ、もうそこまで来ちゃってんだよ……? ねえねえ、まだフツーに休憩したい? それとも、もうちょっとだけラブラブ……したくない?」

 したくない。その言葉が口から出ることはなかった。

「ラブラブ、じゃない……。ちょっと仲良く、してるだけ……だ」

 橘が俺の胸に頭を乗っけて、体重をべったりとかけてくる。俺は押しのけるでもなく、そのままゆっくりと身体から力を抜いた。

 一緒にこんなことしてるのに、全然嫌じゃない。俺たちは、もうそこまで来てしまった。そのことを言葉で認める代わりに、俺は彼女の背中に手を回した。

「あーあ、みんな学校に行ってる時なのにね……」

「全くだなっ」

「さっきまで歩いてた中学校の子たち、見えなくなっちゃった」

「それ、俺らも時間的にもう行くべきなんじゃ……」

「や……。それはだめっ。もうちょっとだけ……っ」

 ドキッとする。

 俺の胸から頭を上げた少女の表情が、扇情的に、酔っているかのように、紅潮していたからだ。俺はなだめるように背中の曲線に手を這わせたが、逆効果らしい。彼女は何かを訴えかけるように頰を膨らませた。

「キミとラブラブできるなら、学校行く必要、ないもん……っ」

「言い過ぎだっての……」

「言い過ぎなんかじゃ、ないんだよ? あたしが学校に来る理由も、毎日朝早く起きる理由も、笑ってる理由も……全部、キミ」

 ゆっくりと顔が近づいてくる。近づけば近づくほど、密着感が強まった。近くに、近くに、大好きな人の顔がやって来て、手も握って……目もつぶって。引き締まった唇がその瞬間を待ち詫びて、緩まった。

 そして、三度目の裏切り。

 何も起こらないとい思って目を開けると、まああれだ……ギャル顔だ。

「ラブチューされるかと思った? ふふふっ……」

…………ふん、満足か。もう行くぞ」

 いっそもう触れてしまいそうな至近距離で、ニヤニヤ顔とむっつり顔が向き合う。

「ふふっ。はははっ……」

 いつも通りなノリに妙に安心してしまい、乾いた笑みがこぼれ出る。

「キスしたかったんでしょ、もう。認めなよ?」

「言ってろ。もう一人でも学校行くからな。置いてくぞ」

「じゃあこのまま乗っかってるもーん!」

「真面目な話、連絡が行って大事になっちまうかも知れんぞ。叔母さんやお前の親に迷惑はかけられん」

「うん、いいよ……。超楽しかったし……」

 朝からこんなことしてるなんて、濃い日だ。もう肩が凝ってきそうだ。笑い合って、その分だけ仲良くなって。こういうのも悪くないなって思えてしまうから不思議だ。

 だが、三回裏切られたからってホッとしてはいけない。

 橘かれんに限って、その手の数字に意味はなく、からかいたい時にからかうのがこいつのスタイルなのだ。行こうぜ。そろそろ俺の膝から降りろ。そう素振りで伝えた時、四度目が待っていた。

 唇が……一瞬で、触れて、擦れて…………離れたのだ。

 橘はさっと降りて、最後のドヤ顔を見せた。

「えへへ……。やっぱラブラブ、してんじゃん?」

 駅に向かって駆け出していく橘を、俺はゆっくりとした足取りで追う。

 何たることか。学校が始まるまでもう一時間もないというのに、まだ電車に乗っていない。橘の付き人なんて役回りは優等生がやるべきではないな、うん。

 無論のこと、教室に着いた頃には、間に合うどころかホームルームが終わりに差し掛かっていた。しらいし先生からは大目玉を食らってしまったよ。