番外編


 たちばなにとって最高の夏休みにしてあげたい。

 合宿から帰ってきた後も、その思いに偽りはない。

 しかし何といってもこいつの相棒役はあまりにも情けない奴で、クラスの連中とも大してめないわ、デートしてない日は基本引きこもっているわで、根暗カースト所属って風情の憐れなガリ勉野郎だったのは周知の事実だろう。

 だからあんなに仲良くしていても、呼吸が合わないってことはある。

 これからもきっとあるだろう。

 それでも自分の願いをしっかり言葉にして伝え合った今なら、もっと互いの立場を気遣い合いながら仲良くできるはずだ。その程度の壁、二人で乗り越えていける。お互い少しずつ変わって、歩み寄っていければそれでいい。

『二人っきりなら……どこまでも大丈夫だと思うんだ』

 さて、とはいえ、海にはもうみんなで行ってしまった。

 しかも橘だって、デートにはそれなりに口実を付けてくる方だ。たとえば最初のデートは遠足の買い出しだった。普段なら家に送るついでの簡単な夕食。俺のスマホを選びに街へ。勉強の付き合い。あと、テストの罰ゲームとか。

 そんな中で、夏休みって時に俺が見つけた口実がこれだった。

「はーい。二人共、もっと寄るのよー!」

「だってよ、じゆん? ほら……くっつこ?」

「す、既に手を繫いでいるわけなのですがっ」

 相も変わらずべったりとくっついている。

 だからこそ俺たちが、けやきの一眼レフに収まっていないわけがなかったのであるが。

 しょうがないからもう少し寄って、橘が俺の腕に絡むような感じで……カシャッと。最初のシャッターが押された。

 服装は、俺が和服。そう、何とまあ和服だ。そんでもって橘が浴衣ゆかた姿。こうなると、これからどこへ向かうのかは誰が見ても明らかだろう。

 つまり平たく言えば、夏祭りというわけだ。

 ところが約束を交わした後に俺がチラシを眺めていたのを見て、デートが叔母に露見してしまう。それでこうして、行く前って時に記念撮影などをしていたわけだが……。

「もうっ、純君……。こんなに可愛い彼女が、ねえ……」

 橘の浴衣姿、俺も期待してなかったかと言えば噓になる。

 薄い桃色の生地に、鮮やかな花柄が躍っている。いかにも常に笑顔を振りまいている橘らしい。華やかで、まぶしくて、それでもなお親しみやすいで立ちだった。

 そうして目が合った時に微笑む表情は……よかった、すごくうれしそうだ。今日は長い金髪を編み込み、白い花飾りを着けている。特別って感じがする。

 その肌が、夏色の夕日に照らされている……。

「ええと、もうそろ二枚目撮るんですけどー……。兄貴……れないの」

「し、失礼いたした……」

「ねえ……?」

 橘が袖をちょんとつまんできた。

「みんなと一緒に写りたくて……嫌、かな?」

 ……はてさて。

 橘のその提案に、玄関先にせいぞろいしていた俺たち家族三人は目を見合わせた。叔母としては無論のこと望むところだろうが、ここで拒む可能性があるとしたら欅だった。みんなの視線が、この黒ジャージの少女に集まる。

 妹は……目を逸らし気味だった。

 いくぶん困っているのだろう、肩を軽くすくめる。

「撮るのはいーけど、撮られるの嫌いだし……。それに私が入ると絵面が暗くなるしな、うん。そこのえない彼氏と撮ってればいーじゃん、彼氏とさ……っ。ほれ、二枚目っ」

 欅の声、段々と自信なげに弱々しくなっていく。

 この反応、兄貴としては予想通りだった。ただでさえ橘との距離感がつかめていないというのに、どうしても他人交じりってのは受け付けないようだ。俺と叔母は途方に暮れて、小さなため息を漏らした。そりゃあまあ仕方ないよな、と。

 橘もしゅんとした顔で、いかにも残念そうにする。

「うん、分かった……。ごめんね……」

 しかし……橘は、これがまあこうかつな女だった。

 こいつは二枚目でも、三枚目でもしょんぼりした顔をする。それでじゃあこれから行こうかって歩き始めた時に、後ろで欅が叫んだ。

「はぁ……わぁーったってのっ。一枚だけだかんねっ! …………変な人」

 その五分後には、ニンマリと満足気の橘かれんが俺の隣を歩くことになった。

 こいつのスマホには、四人で写った画像がばっちりと映っている。

 橘を中心に、俺とアリカ叔母さんが両隣に立つ。センターは……何と橘の真ん前に立つ欅だった。

 中央で金髪のお姉さん役が、茶髪の少女の肩に手を載っけている。浴衣女は満面の笑みで、欅はムスーッと無愛想に。いかにも嫌々ですって感じに。かと思えば堂々と腕を組んでいるのだから我が妹ながらよう分からん奴だ。

「どんなイカサマを使ったんだ……?」

 俺は三歩先を歩く橘に聞いた。スマホにいつまでもさっきの画像を映して、とびきりご満悦だ。

 俺と橘と、アリカ叔母さんと欅。

 大事な人の中に橘が交じっている。俺としても、何も心が動かされないってわけじゃなかった。まるで、その……家族みたいで。

「しっかしあの欅が、なあ」

「えへへ。欅ちゃん、キミとちょっと似てる気がして……ね?」

「は、はあ? 俺と? どの辺りが?」

 橘はスマホをしまって、嬉しそうに振り返る。

 自信満々に、ウインクして、舌先を少し出しながら、

…………ほんとは、すっごく優しいツンデレさん」

 その一言一言が、胸を締め付けてくる。だからしかめっ面を作って、言うのだ。

「ふん。きようだい揃って、まんまと扱われちまうのかよっ」

「ちょっとずつ……ね? はぁ……これ、やっぱいい。家族になったみたい」

「ふん、さっさと行くぞ。…………ありがと、な」

「えへへへへ~。ねえ、ご褒美にもっとくっついて?」

「……ふん」

「もう……今更キョドんなし♪ 純……今日はたくさんニヤニヤ、しようね?」


 神社はその時季に相応ふさわしい雰囲気だったと言えるだろう。

 俺たちみたいに男女二人で、家族総出で、かと思えば水風船をぶら下げた子どもたちが横を走って通り過ぎていく。

 古びただいだいいろのちょうちんがぶら下がり、何列も出店が並んで……。

…………純♪ 純と花火来てんの♪」

 三歩ほど前を歩く橘が、人通りの中で振り返ってくる。もちろんほとんどが浴衣なり和服なりってところだが、橘に着せればまた違う。

 ……落ち着いた神社の境内が、カラフルに色づく。

 俺の知る限り誰よりも華のある子が、にぎわう道を行きながら、嬉しそうに俺に振り返ってくれるのだ。顔を見るだけで、嬉しさが胸の奥をくすぐってくる。

 だが同時に、そのウキウキな笑顔にはわざとらしさも感じたりして。

 無理して、明るくしようとしてくれてる? 俺、やっぱつまんないかな。ここまで普通にデートすること、あんまないからな。こういう時、面白い冗談でも言えばいいのだろうか?

「ねえ……浴衣、可愛い?」

「……まあな」

「えへへ……合格」

「ああ……」

「ん……なんか、ちょっとなあ」

 俺の感じている、漠然とした暗さみたいなもの。それが人混みの中で、ぎ取られてしまったのだろう。橘は身体を伸ばして…………ちゅ……と。

 頰に唇が触れてきた。

「どう……? 元気に……なった?」

「おい、ばかっ……たくさん見られてんだろーがっ」

「あ……だんだん顔、むすっとしてきたし♪ その調子で、純っぽい顔……ね?」

「平常通りつまんなそーにって意味か? それで本当にいいのかっての」

「えへへ……。お店、回ろ?」

 彼女は下駄で可愛らしくステップを踏んで、先を行った。

 辺りが暗くなればなるほど、空気が夕日とちょうちんの色に染まっていく。

 だがどうやら、このほのかな色には不思議な魔法があるらしい。

 二人で一つのわたあめを分け合った。

 金魚すくいは散々で、こいつにはゲラゲラ笑われた。

 手をつないで、石畳を歩いた。

 一つ一つがこれっきりなんだって感じがして、胸がしぼみそうだ。

 橘はこんなに楽しもうとしてくれていて、俺だって確かに嬉しさを感じているのに。別に会えなくなるってわけじゃないのに。まだまだ一緒にいられるのに……。

 原因不明の……切なさ、だった。

 川沿いがシーズンで一番の人混みを作っていた。そこの指定席のブルーシートに腰を下ろし、ざわざわした中で花火を待ち続ける。待ち続ける焦燥感が、少女の手を握る力を強くしてしまう。手が汗ばんでいるのは俺だろうか。それとも橘だろうか。

 それで、花火が終われば? その先は?

 彼女の横顔を見ている限り、考えていることは一緒だったのかも知れない。

「夏休み。終わっちゃうね……」

「……そりゃ、そうだろうな」

「高二の夏休み。純とラブラブになったから、ちょー良かった……よね? 楽しかったよね? 十七の夏って感じだったっしょ?」

「お互い初めて、だったろ……」

「そだよね……。ファーストキス、ガチのラブラブキスだったもん! その日のうちに、二回目もしたもん! あたしら、リア充……してたよね?」

「認めざるを得んよ。もうぼっちは店じまいだってのっ。お前のせいでなっ」

 夏休みが終わるから、どうした?

 昔の俺なら、きっとそう言っていた。どうせダラダラしているか、勉強しているかの違いだ。なのに今は……胸が苦しい。

 リア充……していた。

 そうだ。きっと、だからこそ、だ。

 あらゆる一瞬一瞬が、まだ網膜に焼き付いている。ちょっとしたすれ違いがあって、その分だけ分かりあえて、深いきずなを手に入れた。起こったことは、もう既に全て終わったことだ。そのはずだった。だが終わってしまったのだと気づいたのは、今になってやっとだった。

 どうしようもないほどのけんそうの中で見つめ合っていると、最初の花火が上がる。音に気づくのが遅れて、ハッとして二人で見上げた。どちらからともなく身体を寄せ合い、強い密着感でお互いの存在を確かめ合う。

 光と音が夜空に散って、確かな夏の終わりを運んできた。

 そして次の花火も。

 また、次。次。

 やめろ、止まれ、もう上がるな。花火は中止だ。このまま上がらないでいればいいだろ。これでもかってほどに隣にいる女の子と触れ合った思い出が、次第に焦りに変わっていった。

 おいおい、これ、楽しいイベントなんだぞ。

 もっと明るくならなきゃ、こいつもつまらないだろうに。

「き、れいだな……」

 俺の小さな声は、あいにく歓声にかき消された。

 少女には聞こえていないようだ。彼女のゾッとするほど整った横顔が、季節の果てが弾けるのをはかなげに眺めていた。

 眺めているだけで、時間だけが過ぎていく。過ぎていく……。

 そしてあっという間に、全ての残りかすを空に吐き出した。

 少女の頰には、一つのしずくが伝っていた。

 えつこそ漏らさなかったが、ずっとその場に座り続けているところを見ると、きっと俺と同じ気持ちを共有している。

 もう誰も彼もが腰を上げて、帰り始めていた。だがそんなの関係なかった。

「純……」

 橘が潤んだ目と、震え気味の声で呼びかけてくる。

「帰りたくないの……っ」

 こんなに橘の気持ちを理解できたの、ひょっとすると初めてかも知れない。

 終わってしまったのだと、認めたくなかった。

 あきらめの悪い俺たち二人は、往来が静まった頃に堤防のコンクリートを下りていった。大きな鉄橋の下……身体をがっちりと寄せ合う。川の水面に映る街灯の光が、よく見知った美しいそうぼうを照らしてくれる。

 焦りを、優しさで埋め合うしかなかった。

「ねえ? 今すぐキス…………いい?」

「……付いて来たんだぞ。断るわけ、ない」

「ん……ちゅっ」

 その唇の強さは、何か助けを求めているようでもあった。

 熱くなった肢体を抱き寄せると、迷わず俺の身体に収まってくれる。溶けるような口づけは、長く続けば続くほどいとしさが募る。首筋に指をわせると、触れたままの口から甘い声が出た。

「キミとちゅーすんの、好き……っ。ごめん、もっかい……」

 それは、橘に必要なだけ長く続いた。

 ……。…………

 我に返った時、もう終電のない時間になってしまった。

 俺の家にそこそこ近いというのが幸いし、仕方ないから徒歩で夜道を行く。今日は二回目のお泊まりデーになりそうだ。夜更かし中の叔母が、さぞ喜ぶことだろう。

 歩調は大分ゆっくりだった。ゆっくりにならざるを得なかった。何せ浴衣ゆかた姿の少女を、おぶっていたから。

 橘は……やっと落ち着いたようだ。

 きっと、だ。これはもしかするとっていう、言わば……仮説だが。

 この子は俺との思い出を求めていた。そしてこの夏は、それにある程度はこたえたと言える。そのことについては自負もあるし、実際、どうしようもないほどこいつとの距離は近づいた。

 しかしそれが真に十分だったなら、あんな風に壊れたみたいに暴発してしまうだろうか? あんなむさぼるみたいに……甘さと、苦さが。

 夏が終わる。

 そのこと自体に焦りを感じてしまうってことは、だ。

 もっとたくさんいい思い出を作れたはず。そんな後悔めいた感情が、お互いにひと欠片かけらでもあったから……じゃないのか? 俺は、その可能性をきっぱりと否定できるだろうか?

 確かなことは、誰にも分からない。

 自分にこれ以上ができたとも思えないが、夏休みは一回きりだ。仮に何度も同じ瞬間を繰り返せば、もっとこいつの望みをかなえられたのかも知れない。

 だが、それは考えてもせんいことだ。もう終わってしまった。

「純と、ずっとこういう風になりたかったの……。うれしい……」

 耳元をさっとでるような、儚い声だった。

「これからまたおうちに戻るの? また家族みたいに……なりたい。はぁ……純の家族も、みんな好き」

 抱きつかれた背中がぐっと締め付けられる。橘の体温に、すっかり慣れてしまったものだ。手を繫ぐだけでキョドっていたガリ勉は、もういない。

「俺もさ……たまにツンツンして、悪いな」

「ううん、いいの……。それが純……でしょ?」

 この夏、俺は橘に肯定を求めた。

 俺は俺のままでいたいんだと、お前が望む方向にはかじを切れないんだと、初めて彼女に心からの望みを伝えた。それも大事な人と向き合うってことの一部だ。だから後悔があるってことではない。

 それでも、好きってことは、だ。

 彼女の望む俺になりたいって、思うこと。そうじゃないのか?

 一条純は橘の思っているような男じゃない。

 だからといって、それが変わることを丸っきり拒否する理由になるのか?

 夜道を歩いて考えが募る。橘は眠くなってきたようだ。その吐息は、少しずつペースを落としていく。

 どの道このままじゃいられない。

「カラオケでも……行くか」

「なーに、いきなりどーしちゃったの? もう遅いよ……?」

「あー、そうじゃなくてだな……。クラスの奴らとっていうか。次誘われたら」

「純……。無理、しないでね……?」

「ははっ。こんなんで無理だなんて、言うな。……一緒に笑いたい。お前と」

 今はその言葉が、「好きだ」の代わりだった。

 大好きだ。愛してる。

 それを言えるようになるまで、まだまだ道のりはあるのかも知れない。

 それでも自分の気持ちを知るところまで来られた。

 きっともう、通じ合ってすらいる。あと少し。そんな気さえする。それでも今の子供っぽい心では、これが精一杯だった。

 この子が……かれんが、俺の一瞬一瞬をキラキラさせてくれたんだ。俺は忘れない。

「純……。もっと、ラブラブした……い」

 少女はやがて、俺の耳元で寝息をたて始めた。

 ……まあ、いい。今日はもう、疲れた。

 夏はもう過ぎ去った、それが全てだ。

 今に秋がやってくる。