第六章


 長くて短い休みも終わりが迫っていた。

 それでも何日かは確かに残っているわけで、はてさてその空白をどう扱おうものかと思案する。

 たちばなとは合宿以来、会っていなかった。あいつもあいつで友人が多い奴だし、何より、ちょっとだけ俺が落ち着ける距離感のようなものを察している気がした。とはいえ毎晩の連絡は続いており、いくらなんでもそろそろ会おうって流れになってくる。

 ああ、望むところだとも。

 もう二度とあの大事な人を突き放したりはするまい。とはいえ財布の財政難は如何いかんともし難いので、苦し紛れに出した答えとその結果がこれだった。

 ……それは、生涯でベストテンに余裕で入る愚かな選択ではあったのだが。

「あら~。あらあらあらあら~」

 玄関に迎えに来た我が叔母は、赤いほっぺたに手をやって上半身をぶるぶるさせている。

 なんと言っても、ふと夏休みに海へ旅立ったおいっ子が派手な金髪の女の子を家に連れ込んだのだから声も上げたくなるというものだろう。

 こっちだって分かっているんだ。

 この反応、予想してなかったわけじゃないんだ。

 でも、他に選択肢がなくてだなあ……。

 俺の意識がしゆうで床の下まで沈みそうになっているのとは対照的に、橘かれんの笑顔はさんさんと我が家の玄関に光を放つ。

 そして叔母は、その明るさに目を輝かせた。

 一目で察したらしい。

じゆん!! ねえ!!!!

「は、はい……」

 スーパーハイテンションで紫色のオーラまで出しそうなアリカ叔母さんのデカい声を浴びて、俺は背筋をピンと立てた。

「この夏で、どこまでいったの!!!!!?

「聞き方を間違えすぎですよ、叔母さん!? てか、近所迷惑……」

「えへへ……。初めまして……」

 こういう時、橘かれんは誰の味方だろう?

 決まっている、俺を羞恥で殺すためなら悪魔にだってくみするだろう。

 家族の真ん前だってのに、彼女はおもむろに手を握ってきた。叔母の血走った眼がその小さな座標一点に集中し、鼻息が荒くなる。

「橘かれん……です。純君の、えっと……元カノ?」

「お、俺に聞くなよ!」

「だってー。せーしきには二回くらい一日彼女やっただけじゃーん? ……ゲームでさっ」

「うっ……」

「あたし、未練たらたらなんですけどーっ」

 元カノって言い方はしっくりこない。

 彼女と言うには、俺は橘に言うべきことをまだ言っていない。

 友達と言えば当たり障りはなかろうが……そもそも事実とは言えない。

 ましてこいつを目の前にして普通の友達と言い切ってしまうには気がとがめたし、俺の意思がそれを許さなかった。ただの友達なんかじゃない。もっともっと、大事な人だ。しっかり本人の前で、それが分かるように言葉にしてあげなきゃ。

 スーパーローテンションのガリ勉はうつむいて、声を潜めて、それでも何とか言った。

……………………ラブラブハグ友達、です…………

 無論のこと、これは即家族会議な事案だった。

 当然だ。いくら仲良くなったからといって、この派手な金髪女を連れてきたのは間違いだった。はいそうですか、いらっしゃいで済むわけがない。それどころか、晩飯コースになって当たり前なのだ。

 つーか、ラブラブハグ友達って何だよ。アホか!

 いよいよ俺もヤキが回った。錯乱した精神状態が言わせた妄言だ。

「いや~、残念ね! かれんちゃんが来るって知ってたら、もっと奮発してたのにね!」

 七面鳥とたいとカキフライが同じテーブルに並んでるぞ。つーか、おい、まるでいっつもこんな感じですーみたいに言うんじゃない。

 まあ、今日ばかりはアリカ叔母さんも精が出たということなのだろう。

 もうね、どんだけタンパク質を推したいんだよって。ちなみに主食枠は赤飯と来た。一体全体、何を祝っているつもりなのか問いただしたいところだ。断じて言うが、お祝いごとなんて何もないのである。

 だが、こっちからすれば食欲など少しも湧いてこない。

 むしろセルフ断食が進みそうな勢いで恐ろしいくらいだ。

 うへぇ、つーかマジで連れてきちゃった……。

 俺、完全に正気じゃなかったろ……。

「なんか、すみません……♪」

「いいのよいいのよっ。はぁ……。にしても、可愛いのねぇ…………

「や……。恥ずかしいです……」

 そこまで恥ずかしそうじゃない橘さん。

 一緒にいれば分かる。こいつは相当、自分の見た目だとかには自信を持っているフシがある。それで言葉の上だけでは恥ずかしがっているのだから、あざといことこの上ない。

 ……まあ、可愛いけどさ…………

 居間の食卓を四人で囲み、橘が俺の隣、そして向かい側に叔母さんとけやきが並んで座っている。そのうち二人はニヤニヤとして、テンション高めなご機嫌状態だ。

 俺たちが会った頃の話とか。

 いっつも放課後は一緒にいることとか。

 無論というか、叔母さんは橘をいたく気に入ったらしい。

 さっき玄関で早速イチャイチャ……じゃなくて自己紹介を済ませた後も、これが思いがけないことに、彼女は礼儀正しく対応してみせた。晩飯まで一緒に作っていたよ。

 とまあ、このいつも明るい二人のことはいい。

 しかし他の二人──俺と欅──は向かい合い、それぞれのやり方で沈んでいたのだ。

 俺はどう対処していいものかと悩み、心中穏やかではない。

 もう心情的にはアヘ顔ダブルピース。だが、二人がご飯を作っている間、一時間くらい前までスマホを頑張っていじっていた。それはもうクソ真面目な顔して『練炭 苦しくない やり方』とググっていたのだ。いくらなんでも病みすぎだろ。

 それだけじゃない。叔母をクリアしようとも最後の難関があった。

…………ちわっす」

 妹は食卓にほおづえをつきながらその様子を見ていたのだ。

 ちょうど客人を招いた時の猫のように。突っかかるでもないが、感じよくというわけでもなく、〝飼い主殿よ。この御婦人、いつまで居られるのか……?〟って、言葉を介さずして俺を咎めてくる。

 まあいきなり何の前触れもなくやって来て食事まで共にするとなれば、ツンツンモードになるのもやむなしといったところか。

 怖いが、それでもいずれは知られてしまう関係だ。

 だからクラスに対してそうしたように、せめて彼女のことを知ってもらう必要がある。叔母に茶化されるリスクを承知で連れてきたのもそのためだ。

 だが、何せ、欅と橘だ。あまりに真逆すぎる。

 合うかどうかが、俺には自信が持てないでいた。

 俺と妹の目が合うと、食卓に微妙な沈黙が流れる。

 叔母もきっと同じことで心配に思っているはずだ。欅は不満っぽい顔を俺に向けてきたから、後で埋め合わせしてあげる必要があるだろう。

 けど今は、俺と橘とのことを……知ってもらわなきゃな。

「えっと、あたし……」

 橘が出たところを、俺は手で制した。俺が言うからいいんだ、と。

「えっと、欅……。クラスメートの、橘さんだ」

「そう。……いちじよう、欅です」

 欅はそれだけ言ってご飯に手をつけようとしたが、俺はまだ視線を外さないでいた。

 ぎこちなさをみ締めながらも、次の言葉を持ってこようとした。

 何か、おかしいな。ここまでして他人に分かってもらおうと思ったの、これが初めてかも知れない。

「無理に欅も橘さんと仲良くしろって言ってるわけじゃないんだ。でもせめて、分かって欲しい……。叔母さんには噓っぱち言っていたけど、お前がにらんでいた通り、ずっと俺はぼっちだった。この人のおかげで、そうじゃなくなった。つまり何が言いたいかっていうと、なんっつーか、その、あれだ……」

 優しい人、なんだ。すごく。

 言い終わって、俺は何を必死こいて言っているんだと顔を赤くした。

 実際、妹の目にはそんな変に肩の力が入ったお兄ちゃんがおかしく映ったらしい。彼女は澄ました顔で肩をすくめて、言ったもんだ。

 まあ、しょーがねーよな。そんな感じで、肩をすくめて、

「つまり、私にお姉さんができたわけ……ね」

 おどけた顔をしてなくとも、これは妹なりの冗談の言い方だった。というよりは皮肉に近いが、まあ初対面の相手に真っ向からぶつかるような奴でもない。

 俺も叔母もそれを分かっていたから、次第に食卓の緊張がユルく解けていく。橘も安心したようで、すぐにトレードマークのニンマリ顔が戻ってきた。

「えへへ、そだよ……。お姉さん、なんだよ……?」

 そして俺の隣に座っていたはずなのだが、欅の隣まで椅子を持っていってしまう。

「や……。何、よ……」

 妹は困惑気味に小さな身体を引っ込めるが、そういうリアクションの一つ一つはお兄ちゃんが散々通ってきた道だからな。

 もちろん、どれも橘かれんが相手なら効果は今ひとつだ。

「欅、ちゃん……」

「は、はい……」

「可愛い……」

「そりゃどーも、ありがとうございます……っ。いいでしょ、もう離れてっ」

「ねえ……? 後でさ、髪、かせて?」

「え?」

「こんなに可愛いのに。ぼさぼさじゃ、もったいないしさ……」

「可愛くなんか、ないもん……」

 俺は叔母と顔を見合わせて、やれやれとも何とも言えず、温かい気持ちで笑みをこぼすのだった。ツンデレ気味の少女と、太陽みたいに笑う女の子。

 致命的に馬が合わんってほどでもなさそうだ。

 危惧していたように空気が微妙になるとかはなく、平和に晩飯が済んだ。

 というわけで、突然のお泊まり会というわけだ。なんてこった。

 橘も最初こそ遠慮する素振りを見せていたが、大して粘ることなしに折れてしまう。

 叔母さんの押しが強かったのか、それとも内心では泊まることに乗り気なのか……いずれにせよ、最近になって仲良くしているクラスメートの女子を夏休み期間中にひょっこり家に連れ込んでそのまま一晩明かそうというのだ。特に脈絡もなく。

 ……っていやいや!?

 こうして一つの文章にしてみると穏やかでなさすぎるわ!

 俺は自分のベッドの上でだらりとして、この襲いかかる胸のムズムズをどうにかやり過ごそうとする。下ではまだ橘と叔母さんが世間話に花を咲かせていた。話題は何か知らんが、どうせ俺が居合わせても気まずくなるだけだろう。

 どうしよう、俺が連れてきたのに何したらいいのか分からない……。

 大至急、対策本部を設けねば。

 難しい選択が一つある。

 俺は早急にどちらか一つを選ばねばならん。

 人前であいつとイチャイチャ……ごほん、失礼。

 人前であいつと仲良くするのか、ここで待って二人っきりになるのかを。居間に打って出るのか、ろうじようして待つか……。

 前者のデメリットは、それはもう叔母さんに茶化されるということに尽きる。

 今日のあの人はまれに見るスーパーハイテンションモードと来たもんだ。

 俺ら二人でソファーに座ってテレビでも見ていれば、きっと写真とか撮り始めるぞ。どうせ橘まで乗り気になって、笑顔でポーズとか取ってしまうに違いない。考えるだけで恥ずかしさのあまり血が上りそうだ。

 それが嫌なら、じゃあこのまま部屋で待つという手もある。どうせ黙っていれば橘の方から殴り込みに来るだろうよ。

 いや……でも…………俺の部屋で二人っきりだと!? そっちの方が問題あるわ!

 お泊まりに来るほど仲良くなった女の子が自分の部屋に来て、しかも今は夜……色々と条件がそろい過ぎていやしないか? 一体何の条件なのかは口に出しては言えないし、考えたくもないのだが。

 って、いつまでも何を悩んでいるんだ俺は……。

 机の引き出しを開けばタイムマシンの入り口とか、ないかな。ないよね。

 ……と。

 唐突にノックの音がして身体がぶるっとする。

 しかし今回は意外な客人だった。コンコンという音に俺が返事をする前に、欅がドアを開けて隙間から顔だけをそろりと出してくる。横向きに。

「よ」

「お、おう」

「ずっと前に予想はしてたけど、まさか彼女が本当にあんなだとはなっ」

「信じてもらえるかは別として、まだ彼女じゃないんだけどな……」

「……ん…………。ああいうのがタイプ…………?

「ああいうのって……」

「可愛くて、いつもニコニコしてて、ちょいエロい。童貞だと思ってたのに…………ドスケベ変態元メガネ」

「元メガネの何が不満なんだよ! というかこの際しっかり言っとくが、やましいことは一切ないからな! 今はただ単に……」

 好き、ではあるんだ。言わずとも欅なら察しているだろう。

 というか、ほうら、家のどこに居てももう安全じゃない。

 橘には物理的に引っ付かれ、妹には皮肉られ、叔母には茶化されるのが目に見えている。

 欅は……深いため息をつくと、ムッとした顔を解いた。

「ちょっと話せる?」

「別にいいが……」

「よし、じゃあ入る。うんしょ」

 ぴょこりとドアからすり抜けてくるプロの引きこもり。キビキビした所作でベッドにちょこんと腰を下ろしてくるので、並んで座ることとなった。

 妹は単に不満そうっていうのとは少し違った。

 そして元はと言えば……合宿に行こうか迷っている時に背中を押してくれたのはこいつでもある。

「海……だいじょぶだったっぽいね」

「お前の言う通り、疲れはしたんだけどな。でもどうにかこうにか大丈夫だったからこそ、あいつが今日ここに来てるってことなのかも知れん」

「ふん、そいつは重畳……っ。日光で干からびてミイラになって帰ってくるかと、本気で心配してたかんねっ。もし叔母さんが乗ってきたら、そっちにけてたんだけどねっ」

「実際に干からびかけた。つーかさ」

「ん?」

「欅は……あいつが嫌ってわけじゃないのか? 会いたくないって言ってたのに、何か申し訳ないっつーか」

 妹の表情が陰った。

 言うべきことを考えている時はじっくり黙るタイプなので、俺は息をついて待つ。しやべり始めると、知性を閉じ込めたヒスイのようなひとみが俺を見上げた。

「……わかんね。会いたくないタイプかも知れないけど、それ言ったら兄貴と叔母さん以外はみんなそうじゃんよ」

「あいつはきっと、お前とも仲良くしたがる。そういう奴だ。もしお前が嫌なら……どうだろう、言っておこうか?」

 欅の表情が切なげに沈んだ。

「今はそんなことより、さ……。あんま突っ走って、合わせようとしないで……ね。いきなり変わりすぎないで……ね。何かさ、兄貴が海で無理してるところ想像したら、痛々しいってゆーか……。本当言うと……ちょっと心配だったってゆーか」

 柄にもなく真面目そうな顔をするものだから、お兄ちゃんとしても考え込んでしまう。下から橘と叔母の明るい話し声が聞こえてきた。うちにしてはにぎやかになったものだ。

 俺は、確かに変わりつつある。

 かつては、欅との時間だけが学校生活の合間の安らぎだった。

 だが今はどうだ?

 時間の使い方も、心配事も、選ぶ服も違う。これで変わっていないから心配すんなとは、口が裂けても言えんものだ。

 あの少女が与えてくれたものが起点になって、全てが変わった。

 変えてくれたのか? それとも、変わってしまった?

 それは分からない。

 変わりたいと強く願っていたわけでもなければ、同時に、今が一番いいと信じていたわけでもないからだ。ただ……。

「……怖くなかったわけじゃないんだ。知らない内に、おかしくなっちまうんじゃないかって。気づいた頃には、もう元には戻れなくなってんじゃねーかって」

 自分自身であること。

 今まで自覚もせずにどうでもいいと思っていたことを、あいつと出会って初めて意識させられた。この夏、初めてそのことで怖くなった。他人の目に映る、自分じゃない自分。そんな幽霊を目の当たりにした。だから俺は、別の誰かには絶対になれないのだと、初めてそのことを他人に訴えた。

「でもさ……欅」

 俺は微笑みと共に呼びかける。

「意外とな、他人も分かってくれるもんだぞ。自分でいたいってこと」

「そ……。ま、私はそれが無理だったんだけどなっ。学校、バカばっかだったし。ぶっちゃけあの人も、けたたましくてじんましんが出そうっていうか、印象論だけど。ああいう子ってさ……基本ノリで生きてそうじゃん?」

「はっ! じゃあ俺も、付き合いで金髪にさせられるのか?」

「ぜってー似合わねー」

「心配いらん。少なくともあの女の子は……敵なんかじゃない。俺が保証する。こればっかりは絶対だ」

「髪色めっちゃ光に反射してまぶしかったけどっ。ご飯食べづらかったっ」

「ははっ、違いない。…………ま、先のことは分からんけどさ」

 せめて兄貴の俺だけは、妹に変化は求めまい。

 だが、もし欅にも何か望みがあるのだとすれば。橘はきっと、強い味方になってくれるだろう。

 きっと……優しさを求める全ての者の味方になってくれるだろう。

「何をするにも、遅すぎるってことはないと思うぜ。気が向けば、な」

「ふん……まあ、気が向けばね」

「気が向けば、だ」


 部屋から出よう、それが最終的な結論だった。

 ちょっと下で橘と話して、一緒に叔母の相手もして、早く寝れば済むことだ。とりあえず今日は乗り切れる……と思ったのだが。

 少しだけ、何でもないことを話したくなったのだ。

「あらあら……色男さん♪」

 居間では叔母さんが一人コーヒーを飲んでいた。

 他方で、彼女の話し相手はここにはいないようだ。テレビの雑音だけがぼんやりと耳に響いてくる。

「彼女ちゃんに会いに来たのかしら? いやー、もうっもうっ!」

 アリカ叔母さんはテーブルをばんばんとたたいた。

 ここで顔を赤くしてムキになれば更に茶化してくるのは必定なので、我慢こそが肝心だ。俺はかすかに肩をすくめるだけだ。

「橘はどこに……?」

「コンビニに行ってくるって、さっき出ていったわよ。一体、わざわざ何を買いに行ったのかしらね?」

「知りませんよ、そんなの……」

「まあそんなことはいいわっ。ほら、に入るなら今よ。後からだと混むしねっ」

「そりゃあ風呂には入りますが。何か、顔が怪しいですね……」

「あーら。ぜーんぜん怪しくなんかないのよ。そんなことより早く風呂に行きなさいよ~。ほらほらっ」

 叔母さんは嫌にニヤニヤしながら、背中を押してくるのだ。何だよいきなり……。

 こういう時、抵抗してもあまり意味はない。

 叔母さんがその気になれば、忠告を断ることなんて誰もできはしないのだ。そういうものなのだ。

「ま、まあ……。どうせ居ないなら、今入った方がよさそうですね……」

「うんうん、分かればよろしい」

 そうは言っても、怪しさ極まる状況である。

 もちろん俺は警戒を緩めなかった。

 橘が叔母と結託して何かをたくらんでいるというのは容易に察せられたし、俺は警戒度マックスで暗い廊下を電気も付けずに歩く。

 もはや気分は、伝説のクローンようへい

 息を潜めて、いつ敵が現れても瞬時にCQCで始末できる状態だ。無線と段ボール箱でもあればもっと本格的にステルスできそうなものだが……ん。

 HQ、HQ! 風呂に人の気配なし……!

 自分の家なら誰かが隠れていても分かるものだ。

 どうやら待ち伏せられて着替え中に攻撃を受けるという線は消えたようだ。あれ、こんなところに段ボール箱なんてあったっけか……?

 まあいいだろう。気のせいだ、気のせい。

 警戒のしすぎだ、俺。

 服を脱いでバスルームに入る。湯船に手を突っ込んで見る限り、湯加減はこんなに良いのだ。悪いことなんてそうそう起こるはずあるまい。そんなことよりさっさと入りたいし、身体を洗ってしまおう……。

 ……。…………

「わぁー!!

「っ!?

 水着姿の……ちょっと前に戯れていた、赤色の水着を着けた橘がそこにいた。

 いくら俺でも、事の重大さに気づくのに秒もかからなかった。

 それが起こったのは、ちょうどバスチェアに座って身体を洗おうかという時だった。俺は湯気の立つ湯船にダイブして、身体の下の部分を慌てて隠したのだ。

 湯船のへりから、外をのぞき込むように頭をそろりと突き出すと……。

 やっぱり橘だ。

 彼女はドアを勢い良く押し開けたその右腕を、そのまま前に突き出している。赤いビキニでそこに立っている。勝ち誇ったような顔で笑っていやがる。

 ……俺が正気じゃなくなって、ヤバイものが見えているのか。

 ……橘が正気じゃなくなって、ヤバイ遊びを仕掛けてきたのか。

 いずれにせよ、海で遊べないガリ勉では金髪女がまともなシチュエーションで水着を使う瞬間は見られないようだ。最初は試着室、次は海の小屋、そして今は自宅の風呂。

「あんまじろじろ見ないでよ…………えっち」

 うっせーよ、そっちから来おってからに~!

 こいつもこいつなりに恥じらっているのか、水着で隠れている部分を手で隠すように覆って見せる。ニヤニヤ交じりの、赤くなった顔で。細い身体を可愛らしくくねらせたりして。

 そんなのを見せられると俺もどんどん顔が熱くなってくる。今ここに、またいつもの見つめ合いタイムが始まった。

 湯が熱くて空気も蒸しているのに血がすっかり冷える。

「……マジで何しに来た…………? 便所なら回れ右して左のドアだぞ」

「えへへ……お風呂で遊んじゃ、だめ?」

「バカかよ、お前……。ちょっとやり過ぎだ……」

 何かしらのちょっかいがあるとは思ったが、流石にここまでするとは思わなかった。橘が風呂場の敷居をまたぎ歩み寄って来て、側でしゃがみ込む。そしてニコリとして、湯船に隠れようとする俺に海パンを差し出してきた。

 何だか嫌に用意が良いな、やっぱり叔母さんとグルだろ絶対……。

「お願い……。一週間会ってない分、埋め合わせしたいし……ね?」

「む……。じゃあ……これで、チャラだからな」

「いいよ……? ラブラブローン、チャラになる分だけ返してもらうし……」

「うわあ、ラブラブ言うなっ! せめてイチャイチャと言え……」

 思わぬ形で普段からイチャついていたことを事後承認する運びとなってしまった。

 もうね、色々負けつつある気がするんよ。

 とはいえ抵抗しようにも今は姿が無防備すぎ、逃げるにも部屋が狭すぎた。助けを求めてもどうせ誰も来ない。完全にはめられたな、うん。

 結局、俺は情けない後ろ姿を橘にさらすことになった。

 やたら熱くなった俺の背中を、柔らかくゴシゴシと泡が擦っていく。

 普段は他人には触られない場所ってだけでくすぐったくなるのだが、誰に洗われているのかまで意識し始めれば、精神的にも物理的にも爆発してしまうだろう。

 ほら、我慢だ我慢。素数とか数えよう。二、三、四……四? のっけからダメじゃねーか、ガリ勉の名折れかよもう。

 だがこの女は、そんな涙ぐましい努力すらもあざ笑ってしまう。

 彼女の吐息が首元に当たって、身体にブルッと来た。

 心臓が絞られ、ぐちゃぐちゃになりそうだ。自分の息の音さえうるさく感じるほど呼吸が乱れる。どうにか抑えようとすればかえって苦しくなるばかりだった。

 部屋には俺たちしか居ないってのに、彼女のひそひそ声が至近距離で耳を襲ってくるのだ。

「はぁ……。じゃあさ……あたしの背中も洗って?」

「~~っ!」

 振り返ると、水着姿の橘がすぐ近くにいる。

 ニヤニヤしながら言ったのかと思えば……違う。恥じらい半分、不満半分といった感じの目で、しっかりこちらに視線を合わせてきた。

 彼女がシャワーの栓を開けると、俺たちの間に湯が降り注いで。お互いの肌に湯が滴り、背中の泡も下に流れ落ちていく。

「マジで言ってんの…………?

「ばか……マジのマジだし。キミがイチャイチャローンためすぎなのっ」

「そんなに、我慢してたのか……?」

「ごめん、実は会いたいの黙っててさ……。ウザがられるかなって……」

「ばか、会いたいなら言っていいのに……」

 切なさが伝染してくる気がした。

 もし一度でも俺から誘っていれば、こんな顔はさせずに済んだ。

 橘には折角の夏休みだってのに、俺は……。

 分かってもらったからって、分かってやろうとする努力を怠っちゃ、だめだよな……。

 あいにく、二人っきりなら何をしてもいいと言ったのは俺だ。

「俺なんぞが洗って、嫌じゃないのかよ……?」

「ばかじゃん……?」

「ほら、なら交代だ……妹のタオルでいいな?」

 橘が金髪を身体の前に流すと、線の細い背中が露わになった。

 少女の白く細い肢体を目の前にして……ゴクリと。

 タオル越しとはいえ、この白い肌に触っているわけで。いつも一緒にいるこいつのぬくもりが、いつもよりもずっと生々しく手に伝わってくる。触り慣れたはずなのに、今でも緊張してしまう。

 いい匂い……。

 意識するなという方が無理な話だ。自分でそれをほぐそうと、とりとめのない話などをしてみたりする。俺も平静を装ってはいたが、胸は絞られるように苦しい。

 だってそうだろう?

 この子が好きだ。

 そして、そんな風に意識したのは生まれて初めてだ。そんな子となし崩し的に仲良くなって、気づけば背中の洗いっこまでして……無理に話でもしなきゃ、やってられんっての。

「妹が慣れんみたいだな……」

「えへへ。でもね、時間はあるんだよ? アリカさんが、また泊まりに来てって言ってくれてさ……」

「どうせそんな話になると思ったよ。欅はどうだろう……時間がかかりそうだ」

「それはキミも、最初はそうだったっしょ……?

「む……。違いねえけど……」

「大丈夫だよ? 今度はね、急がないもん。ゆっくり仲良くなってさ、家族みたいになれたらいいなって」

「か、かかかぞくですか……」

「んっ……。そこかゆいから、もっと強く擦って?」

 やばい……こんなのが普通になってきている。

 これまでは夢のような時間だった。すぐ終わると思っていたが、違った。きっと明日や明後日あさつても、このいつもの時間が何かの拍子で始まってしまうだろう。非日常が日常に侵食されていた。もう既に、俺の日常はすっかり塗り替えられたのだ。

 歯止めが利かなくなっている。

 多分、このエスカレートは進むことはあっても戻ることはない。

 だが本当に胸を締め付けられたのは、二人で湯船に入った時だった。

 先に身体を洗い終わったのは俺で、さらに湯船に浸かっていた時も、まだ橘は身体を洗い終わっていなかった。そこで上がろうとしたのだが、

「もういいだろ……? 先、上がるからな」

「や……。待ってて……」

 もちろん、二人で入れるほどの広さではなかった。

 だから湯船の細長いスペースを二人で並んで埋めていたのだ。とても肩まで浸かれるような入り方ではなかったが、橘は一向に構わないらしい。

 お湯の中で、二人で並んで座って……。

 もはやそんなのが当たり前になっていた。世間的な相場で言うなら明らかに彼氏彼女のやり取りってところなんだろうが、そんなものは俺たちには治外法権だった。もう自然にこうなってしまう。付き合ってもいないのに。

「……」

…………

 お互い言葉少なになり、ちらちらと目配せをする。

 俺たちの暗黙のルールでは……こうなると、今日のイチャつきも終わりに差し掛かっているってことなのだ。そういうものなのだ。すっかり話すことがなくなると、後はただ距離を少しずつ詰めて、視線を合わせたり外したりするしかなくなる。

 そして、手をつなぐ。

 ふわふわした雰囲気が俺たちの間を流れた。

 まれると、もう帰ってこられないような。

 段々と距離が詰まって肩まで触れそうになれば──今はお互いほとんど裸だ──俺も流石にまずいと気づいたのだろう。

 握る手を強めて、その事を伝えようとしたのだが、

「えへへ……。イチャイチャローン、返したい?」

「う……。俺は気づかん内にどんだけお前に借りたんだよ……」

「たくさん。すぐ返したいなら、ちょっと無茶しなきゃだよ……?」

 その顔を見れば、気持ちが募ってくる。好きな女の子が目の前にいる。笑いかけてくれている。手を繫いでくれている。

 いいだろう。こうなればもうヤケだ。

 二人っきりなら、好きにさせてやると決めたのはこっちなんだ。

 だから俺は……えていつものお決まり通り、顔をムスッとさせて目をらした。恥ずかしそうに。ぶっきらぼうに。確かに恥ずかしいのは本当だが、もう半分ほどは演技だったりもして。

 ほら、この顔を向ければ……。

 橘の、調子に乗った顔つきが見られるんだ。いつもの顔。こいつらしく、挑発的で、自信たっぷりな笑みを見せてくる。本調子ってところか。

「ふ、ふふっ……。黙ってるとさ、マジで好きにしちゃうよ?」

「保健室でもこんな気分だったっ。ほんと、場所考えろっての……」

 かく言う俺が、言葉とは裏腹に距離を詰める。

 口ではどう言っていても実は嫌じゃないんだぞって、目だけで教えてあげる。するとあっさり、金髪女は切なそうに頰を染めていった。

「もう邪魔する人……いないね?」

「か、かれん……」

「夏休みの思い出、欲しい……。たくさん遊んだけど、やっぱ純と一緒じゃなきゃ、や……」

 橘が向かい合ってきて。

 彼女の両手が俺の肩にかかり、体重がかかって……べったりと。

 熱く、近く、彼女の鼓動を感じる。

 橘の匂い。さわやかで、優しい。

 素肌の温もりが、俺の五感を侵食し始めた。こうして肌でくっついて、擦れ合って、じゃれあって。海の小屋にいた時もそうだった。どこかで〝そんなはずがない〟と拒んでいた彼女の淡い感情すらも、今なら素直に受け入れられる。

 俺の方も、片手を少女の背中にわせて、もう片方でれた髪をなぞった。

 熱くなまめかしくもだえしそうな感覚に指を熱くしながら、そのまま湯気の中で見つめ合う。

 やがて少女の視線が熱を帯び始めた。

「おでラブラブハグしてるの……」

…………ん。しちゃってるな」

「純とあたし、近くなってくよ……? しあわせ……」

 ……大好きだ。

 俺はいまだ、その言葉を大事にとどめていた。

 そのいとしくも歯がゆい瞬間を、心地よく感じて。

 言葉を言えるようになるまで、まだまだ道のりは遠いのかも知れない。それでも自分の気持ちを知るところまで来られた。俺は少しずつ、変わりつつある。まだ先はある。

 この子が……かれんが俺の一瞬一瞬をキラキラさせてくれたんだ。

 そのことを一生忘れない。静かな想いがでる手付きまでも優しくして、少女の呼吸がやがて、穏やかに静まっていく。

 温かい湯に包まれ、強い密着感で頭がしそうだ。

 それでも震える手付きで抱きしめた。彼女が胸に頭をあずけてくるから、言葉のない空間の中で水だけがたぷ、たぷと揺れる。

 後はそのまま、ゆっくりと。

 腕を締め付けあい、視線を交わしては外し、耳元で呼吸を感じる。

 お互いがお互いにとって心地よいのだと、確かめ合う。

 どうやら二人でいれば、時間の方が俺たちを置き去りにしていくみたいだ。

 本当にそうなってしまえばいいのに。