第五章


 やっとのことで雨が上がったって時には、すっかり暗くなっていた。

 頑張って立てたBBQのテントやチェアや七輪もれいサッパリ撤収されていた。

 それでホテルに戻ると、どうも一室を借りてクラスが集まっているらしいので、とりあえず合流しようということでれいな建物を歩いていく。

 まだ唇に、その感触は残っていた。

 どちらからってわけでもなく、お互い雰囲気に流されての、その……ファーストキスだった。俺もたちばなも何と言ったらよいものか分からないので、甘く酸っぱい気分が、お互いの間の空気をくすぐったくしている。

 本当にあったのか、あれは?

 白昼夢でも見たのだろうと言い聞かせるが、橘がそうじゃないと教えてくれる。

「ねえ……? 嫌……だった?」

「別に……。そうでも、ないけど……」

 お互い部屋に戻ってさっとシャワーを浴びたからか、熱気が伝わってきた。今はもう触れずとも、橘の感触を身体が覚えてしまっていて……。

「よかったし……」

「つーか。そりゃあ、普通にさ」

 良かったよ。

 その言葉を飲み込んで、ついつい速くなりそうな歩調を抑える。

「あたし、初めてだったってゆーかさ……。ファーストキス……♪」

 手をつないだり、離したり。

「そうか。言うまでもないだろーが、俺もだ……っ」

 ちらちら視線が交差したり、逸らしたり。

「えへへ、良かった……。良かったの……」

「ふん、趣味の悪い女だなっ」

「思い出、できちゃったね……」

 橘は控えめに笑う。金髪女のこういう顔はそうそう見られない。

 ケラケラと笑うのでもなく、からかってくるのでもない。唇が触れた瞬間以上に胸がくすぐられる気がして、顔が熱くなった。

「ま、まあ思い出かもな……。でも、ちょっとやりすぎだったっ」

「でもさ、でもさ……。あたしはじゆんとならさ…………

 嫌なわけ、ないんだよ?

 結局みんなにそろそろ会おうってなった時には、微妙に付かず離れずの距離を空けて歩くこととなった。

 そして、それは幸いした。

 入ろうとした時にすれ違ったのが、丁度部屋から外に出ようとしていたしらいし先生だったからだ。

「夏休みの集まりに私は口を出さん、お前らで勝手にやれ。ただし、面倒事だけは起こしてくれるなよ…………む」

 先生は俺たちを見てキッと目を細めた。

「ずいぶんと遅いお帰りだな。みんなで心配していたんだぞ」

 だが今度は別の理由で微妙に気まずくなってベタベタしていなかったからだろうか、特にとがめられることもなかった。

 その代わりに……隣にいた橘に聞こえないような声量で、俺の耳に声が届く。

「……いちじようもよく見ておくことだ」

「は、はぁ……」

「今のクラスの様子を、だよ」

 はあ、俺らが雨のせいで無茶やっている間に何がどうしたっていうんだ。

「お前がいないだけで事情が変わった」

 だが確かに、そこに入ったことで俺はふわふわした非現実感から引き戻される事態にはなったのだが。

 ともかく連中は会議室のような場所で集まっており、長テーブルが二列になって並んでいた。何やらだらだらと、みんなで話し合っているらしい。前の方では委員長がホワイトボードを前に司会らしく振る舞っていた。

 そして、まあ、これだけは文句は言えないだろうが、俺ら二人が入ってきたことで部屋の注目は集まった。

 好奇のまなしと、沈黙。

「なあなあ、一条! とうとう告ったの? 告ったんだろ、ガリ勉?」

 という小さなささやき声に反応していては時間がいくらあっても足りない。

「もしかして…………ヤッてきた?」

「ね、ねーよ……。ばーか、ばーか!」

「顔めっちゃ赤いし……」

 ただでさえ何度否定しても橘の彼氏扱いだった俺が……証拠を与えてしまった。

 話し合いの途中らしく、すぐに騒がれることはなかったが、それまで続いていたであろう議論が止まったことは確かだ。

「かれんに一条君。はぁ……おかえり」

「えへへ……。雨に降られちゃってさ、ゴメンねもも。なんか電話に出られなくて」

「ほんとにっ。みんなで探しに行こうとしてたんだからねっ」

 俺と橘は顔を見合わせた。

 しょうがないから二人で一番後ろの空いていた席に座ると、それまで止まっていたであろう話し合いが動き出す。

「えーっと。ペアないしは三人グループってことだけど……」

 どうやらこの夏休みの一大イベントは肝試しで締めるってことのようだ。

 そもそもこのホテルを選んだのも、誰かが事前にあたりをつけていたそうで、近くに心霊スポットの森があるのだとか。少し離れた場所にある共有地だけど、やりすぎない程度に騒いでも問題になったことはないらしい。

 コース上の所定の場所にある木の御札を取って、出口に向かうだけのゲーム。

 そのグループ分けをやっていたようである、が。

 なるほど、先生の言う通りだった。

 俺が最初からこの部屋にいればこうはならなかったに違いない。俺たちが入ってくるまでは……多分。決めるべきことがいつまで経っても決まりませんって具合の、だらけた空気だったんだろう。

 橘と並んで座った後、少しの沈黙が続く。平行線の匂いがした。

「頼むからどこか……ね?」

 その声にこたえたのは、最前列の席に座っているまつ君だ。彼以外、その長テーブルの席に座っている者はいなかった。

「いいんだ、ありがとうてんじゆいんさん……。ぼくは、その辺で暇つぶししてるから、さ。あはは……」

「そういうわけにはいかないわっ、せっかくみんなで来てるんだもの。ねえっ頼むからどこか、小松君を入れてくれるグループっ」

 ああ……これだ。俺にも覚えがある。

 みんな下を向いたり、目を逸らしたり。

 小松君は俺とは違う、空気を読まずに勉強ばかりしていたわけじゃない。敵意を向けられる理由はないはずだ。だからおそらく、嫌われてけ者になっているのとは違う。

 それよりは、文化委員だったり図書委員だったり。

 そういうかったるいクラスのポストのようなものだ。

〝面倒なことになったよな〟とか、〝誰かが代わりに引き受けてくれるだろう〟とか。 誰もそうは言わない。けど黙っているだけではそう言っているのと同じだ。俺だって、そんな経験がないってわけじゃない。むしろいつもそうだ。

 だが今は……小松君は友達なわけで。

 それだけで、こんなにムカムカしたものが胸からこみ上げてくるとは思わなかった。そしてそんな感情に浸っている暇があるなら、俺は、手を挙げるべきと判断した。

「俺なら空いてるぞ。一緒に回ればいい」

 こちらに視線が集まる。〝は?〟って感じの、どこか懐疑的な目だ。多分、おぎの言葉がみんなの疑問を代表していた。

「えー、じゃあかれんはどーすんの? 一条君はかれんと回るだろ……? 彼氏彼女でさ。その方がクラス的にも盛り上がんじゃん」

 また注目がこちらに集まる。

 大方は今の言い分に賛成したようで、中にはうなずいている者もいた。どうやら誰も、俺と小松君って組み合わせにしっくり来ていないらしい。〝カップルだから一緒に回るってなら分かるけどさ。何で橘さしおいて小松と?〟おおむねそんなところだろう。

「でも、じゃあ、どーすんだ?」

「くじ引き……とか?」

「はあ? それ、やられる方はどんな気持ちになるか知ってんのか?」

 声に熱がこもりそうになったところで、横にいた橘が軽くそでを引っ張ってきた。

 しゅんとした目で、消え入りそうに抑えた声で、言うのだ。

「純……。あたしは、大丈夫だよ……?」

 ふん……どんだけいい子なんだよ、お前。

 そりゃまあ色々あったけどさ……やっぱこいつ、優しいんだよな。

「ありがとな……。必ず礼はする……」

 俺は小さくそう返す。

 好きだ。そうやって素直に自覚できたのは、そんな安心感を与えてくれるからかも知れない。

 橘の優しさが、俺の声に決意を与えてくれた。

「なら俺と、橘と、小松で回る。これで三人グループだし、決まりだろ」

 部屋は沈黙で答える。

「それとも、まだ文句があるのか……?」

 これ以上、誰も何も言わなかった。

 そりゃあそうだ、面倒を引き受けてもらえるんだから反対する理由もない。

 だがそれは、言わば橘かれんの彼氏に求められることではないってことなのだろう。会議は解散し、各々が部屋から出ていくが、誰も彼も〝何でわざわざ邪魔者を入れるんだか〟って目で見てくる。

 そんなの俺たちの勝手だろ。

 そうやって表情で返してやるが、だからといって分かってもらえるわけでもないのだった。


「ごめん、一条君……!」

 天樹院は今日という今日は疲れたらしく、肩を落としていた。

「私が何とかできればよかったんだけど、現場の監督役でね……」

「ったく、自分のクラスながら先が思いやられるな……」

 先程の白石先生はどうやら出ていったふりをしていたらしく、実際は全部聞いていたようだ。

「私が説教をしてもよかったが……何分、今回の目的は偵察でな。今回は遊びだから良いが、学園祭がこれからだと考えると頭痛が止まらんよ」

 はて、その学園祭とやらも究極的にはただの遊びであり故に全面自由参加にすべきじゃないかという俺の見解を、今ここで披露してもよいだろうか。いいっすか。やめときますか、はい。

 さて、肝試しまでの自由時間。

 話し合いが終わった後も、一部が会議室の前に集まっていた。そこにいたみんながみんな、それはもうどうしたものかって感じで。

「現役ぼっちから言わせてもらいますと、自分のためにクラスが説教されるってのは気分のいいもんじゃないですよ」

「そうではない、孤立する者はどうやっても出るものだ」

「……そうだよ」

 そろりと歩み寄ってきたのは小松君だ。

「友達できないのってさ、結構ぼくのせいだったりするもん……。ぼくの方から話しかけられない、とか。暗くて話しかけづらい、とか」

「だがそんな者でも、上手うまく巻き込めるクラスであって欲しいと思うのだがな……」

 夏休みだってのに憂いばかりが募る。

 いや、クラスメートのために憂えている自分ってのは新鮮ではあるが、だからといってどうなるものでもない。

 先生の計らいで俺たちぼっちコンビはクラスのために頑張ったが、目についたのは既に別件で目立っていた俺だった。その時点で違和感を覚えてはいたのだ。

 それどころか、こんな形で面目が……こういうこと、たまにある。よく理解しているからこそ、考えるより先に手が挙がってしまった。

 もちろん、肝心の小松君がそれを望んでいるかは分からなかったが。

 一条君、ありがとね。そうは言ってくれたけれども。

 ぼっちたるもの、そうあからさまに気を遣われるのは好まないものだ。気を遣われるっていう瞬間もまた、周囲に見られているわけで。結局は自分が孤独であることを再認識してしまうから。

 さっと消えてしまいたい。

 ひょっとすると、それが小松君の願いだったのかも知れない。

 実際のところ、彼は彼で複雑なようだった。

「悪いね。なんか、二人を邪魔する感じになっちゃってさ」

「まあ、手を挙げたのは俺のエゴだ。ついカッとなって、我慢できなくってさ……」

「えへへ、気にすることないし!」

 橘はこいつらしい満点の笑顔で場を明るくしようとしてくれる。

 ついさっき俺が小松君と正式に友達になったと言った時も……すごくうれしそうにしてくれた。

「純の友達ってことは、あたしの友達ってことだもん。もうぼっちってわけじゃ、ないっしょ? ちょっとでいいからさ……三人で楽しも?」

「ふふっ、ありがとね……。二人を邪魔しないように頑張るよ……」

「ほう? 一条と橘の邪魔、とは一体どういうことだ……?」

 白石先生は冗談めかしているのだろうか、かたまゆを上げた。

「まあいい、お前らのような優しい生徒がいてくれたってだけでも収穫だな。小松! この際、一条と橘がやんちゃしないように見張っておくんだぞ。私はこれから仕事だ、監視は天樹院に任せてな。せいぜい楽しめばいいさ……」

 はぁ……。反省文時代から考えると、ずいぶんと株が上がったものだ。

 もう少しで帰れる。

 橘とだって、まあ……仲良くは、やれたろ。

 状況だけを見れば喜ぶべきなのだろうが、何も思うところが無いわけでもなかった。

『だから今日、無理してここに来たんだ』

『その、友達くらいはできるのかな……って』

 今現在、彼の望んだ結末だろうか?

 そりゃあ俺とは友達だって確認できただろうが。今までだって、ほとんど友達みたいなもんだったろ。

 橘は友達だと胸を張って言ってくれたが。小松君からすれば、正直気が引けてしまうだろう。じゃあ普段から話せるか? 遊べるのか? そんな単純な話でもない。

 おそらく彼が望んだのは、きっかけではなかろうか……?

 俺が遠足のグループ分けで今にも孤立しようってときに、自分から話しかけてきたのが小松れいって少年だ。俺なんかよりもずっと勇気のある、男らしい奴じゃないか。彼は俺みたいになりたいと言っていたが、それは違う。

 俺には運良く橘というきっかけがあった。

 小松君にはなかった。

 たったそれだけの違いだ。

 …………いや。

 ひょっとすると、ではあるが。この状況は。

 この俺自身が腹をくくれば、小松君にとってはまたとないチャンスになるかも知れない。

 よくよく考えてみよう。

 まず、小松君は俺の友人である。唯一かも知れない。

 また俺はたった今、クラスのギャル女王・橘かれんとの関係をかなーり強く疑われている。もっと言うとついさっき、公然と二人っきりになったばかりだ。肝試しが終わってホテルに戻った時などは、おそらくそのことについて質問攻めに遭うだろう。雨が降っている間に何があったのか、と。

 そしてたった今現在……俺たち三人は、心霊スポットの森のなかにいた。

「えへへ……。純の友達第一号なの……? 純のどんなとこが好き?」

「頼れるとこ……っていうか、最初の質問がそれなんだ。ラブラブ、だね」

 暗い森の中、俺たちは歩いていた。

 確かに不気味だ。墓が立ち並んでいる。

 しかし難なく折り返し地点まで来て、もうそこに御札の入った箱が見える。定番だが、こういうのを怖がる奴がいなければ大して面白みのないイベントだ。

 条件はそろっていないでもない。だがそれは……あれだ。考えれば考えるほど、俺の胃が痛くなるような条件ではあった。

 これ、学校始まれば相当恥ずかしいことになるぞ……。

 いいのか、俺……?

 はぁ……。

 しゃーない、のか?

 俺が立ち止まると、二人がこちらに注目した。

「小松君……。今日は友達を作りに来たって、さっき言ってたの……今も変わらないか?」

 彼は少しだけ肩をすくめる。

 肯定とも否定ともつかないが、俺は続けた。

「もしみんなが小松君に話しかけてくるようなチャンスがあったとして、もし頑張りたいってなら……ここからコースの出口までは、一人で行くんだ」

「……ぼく、やっぱ二人の邪魔だった?」

「そうじゃねーよ、変な邪推すんな。あのな、多分、おそらくなんだが……」


 ぼくが出口まで御札を持っていった時、最初にされた質問は一条君が予想した通りのものだった。

 でも、当たり前だった。

 だって、ここには一条君も橘さんも、来ていないんだもん。出口にやってきたのは、ぼく一人だった。

「小松君っ……二人は、どうしたの?」

 天樹院さんは、心配してるみたいだ。

 ぼくたちは最後のグループだったから、肝試しを終えたみんなが集まっていた。一気に注目が集まる。足がすくむ。

「えっと……。えっと……」

「はぐれちゃった……?」

「橘さんと二人に、して欲しいって」

 みんなざわざわし始めて、大変だったから……ぼくは慌てて続ける。

「あのっ、そのっ。みんなに頼みがあるって! 白石先生にバレたら色々まずいから……みんなにどうにかやり過ごして欲しいって」

 その一瞬だけ、みんな静かになって。

「はあああああ!?

「何だよそれ、イチャイチャしたいからって?」

「今から森に戻ってさ、証拠写真撮ってやろうぜ」

「や、落ち着いてよみんな……っ。そのっ、一条君がね……っ」

 必要なら出まかせ使ってもいいからって、ぼくの最初の友達は言っていたっけ。だから次に言うことは、完全に思いつきだ。

 はぁ……大丈夫かなぁ?

 一条君、後になって苦労しなきゃいいけど……。

「その、あれ……。こ、告白したいからって。とうとう決心したんだって」

「あ、あのねえ! さっきみたいに連絡がつかなくなったら困るじゃないっ」

 天樹院さんが必死そうに前に出てくる。

 でも隣にいたひようどうさんが、委員長の肩にひじをかけた。

「桃子姉さん。男が告りたいってんだから、野暮なことはやめよーよ?(笑)。ほらほら、この森、スマホの電波もしっかり立ってんだしさ」

「でもでもっ。何かあったら先生の責任になっちゃうのよ?」

「一条君、電話には出られるようにしとくって言ってた……」

 みんなのテンションが明るくなって、それだけ委員長さんの困り顔が広がってく。

 でも次に氷堂さんがぼくに言ってきたことで、この真面目な女の子も、一息をついて許してくれたみたいだった。

「んなことより……さ。小松は一条の友達?」

「うん、まあ……。色々、話してる」

「ならさ、ならさ! ホテルに戻って、あいつのこと、ウチらにもっと教えてよ? 今はタイムリー過ぎて、みんな気になってるだろーから」

「うん、いいよ……」

 盛り上がる会話とか、みんなの目を見て話すとか、まだまだてんでダメダメだったんだけどさ。

 これがなきゃ、頑張んなきゃとも思えなかった。

 これがなきゃ、いつまで経ってもぼくから声をかけなきゃ……って、足がすくむだけだったと思う。

 すぐにぼっちでなくなったわけでも、明るくなれたわけでもない。でも、少しずつだけど……この日からみんなと知り合って、変われた気がするんだ。

 ホテルに戻って、たくさん話して、名前を覚えた。覚えてもらった。

 グループ分けの時に感じた恥ずかしさも気まずさも、もうすっかりなくなっていた。


「えへへ……。ほんとはさ、あたしと二人っきりになりたかったんでしょ?」

「……違う」

 本当に違うぞ。

 彼に出まかせをしやべらせて、何が起こるかは分かったものではない。

 というかそもそも、二人っきりにして欲しいだとか、みんなで先生をまいて欲しいだなんていう要望自体がもう決定的なのだ。もうね、どうせ陰で散々茶化すんだろうさ。俺はきっと二度と教室に戻れん。始業式前日には首って死のう。真面目な話。

「小松君、友達できたかな……?」

「だったらいいな」

「純、みんなに優しいし……♪ すごく、うれしかったの……」

「……橘。優しくなれたなら、きっとお前のおかげだ」

「え……?」

 ほんのりとした月明かりが、木々を照らしていた。

 一応俺の要望ということで二人になってしまった以上、そう早くに戻る訳にはいかない。

 どうせ時間はたっぷりある。俺たちは木々の合間にある開けた空間に出ると、真ん中にぽつりと鎮座していた切り株に腰を下ろす。

 見上げていると吸い込まれてしまいそうな遠い空に、右隣に座っている女の子が息をんだ。

 彼女の鮮やかな金髪が月夜の中で銀色に輝く。

れい……」

「そう、だな……」

 橘はキラキラした目で空を見上げていた。

 だから俺は余計なことは言わなかった。

 雰囲気だけに身を任せ、手をゆっくりとつなぐ。

 沈黙を甘く味わったあとに、冗談めかして言ってやるのだ。

「あれか……。また彼氏ごっこ……か? いい加減、飽きないのかよっ」

 んふふ、と吐息混じりの笑いが首元にかかった。

 少女の身体がぐっと寄ってきて、そのまま腕が俺の腰にべったりと絡まる。今の俺も橘も、学校の薄い白Tシャツを着ているだけ。ふと目が合う。口を小さく緩ませてくれたが、顔には切なさが染み込んでいる。きっと俺も。

 薄い布越しの接触でき立てられるのは、今はもう緊張じゃない。俺は、好きになることを我慢なんてしていない。

 安心と、充足感。それと優しさ。

「純、マジ積極的……。さっきのキスの仕返し……?」

「ふーん。あれ、橘からだったのかよ?」

「えへへ、違うか。キミから、でしょ? あたしにメロメロだもんね」

「ふん、言ってろ……って」

 ちゅ……と、あいさつわりのキスをらった右頰が熱くなる。

 こっちはふくしゆうのつもりで髪をでてやるが、かえって俺の胸もで上がってしまうのだからもろの剣だ。

 静けさが、深まっていく。

 それに身を任せていく。

 虫や鳥の鳴き声が、ほのかに遠のいていく。木々を揺らす微風に、心配事とか、今日起こったこととか、細々としたことが少しずつ流されていく。

 一番近くにいるのは、好きな女の子だった。

 この子が喜んでくれると思って、俺はそれだけのためと思ってここに来たが、それは間違いだった。

 ……今、だった。

 二人で笑い合える時が、今だった。

 きっとこういう瞬間を心のどこかで期待していて、ここに来たんだ。大好きな人と二人で過ごす時間を、俺はこんなにも素直に受け止められている。もう彼女のためと言って自分が犠牲になることはないだろう。俺は、俺と、彼女のために。

 この雰囲気に甘んじていれば、いずれはこのくすぐったい気持ちが言葉になって漏れ出してしまうかも知れない。この沈黙、すごく危うい。だがその落ち着いた不安定さにどこかゾッとさせられて、癖になりそうで、どういうわけか微笑んでしまった。

 そして、その二つの微笑みが同時に重なる。

 目で感情を交換し合う。

 もしや言葉を口の中に止めておいても、もう無駄なのかも知れない。きっと気取られている。俺の感じている少女の淡さも、多分、本物だと思う。

 だめだ、もうそろそろこの静けさに殺されそうだ。とはいっても、俺たちに真面目な話も似合わないだろう。

 だからあえて核心をかずに……表面をくすぐるのだ。

「なあ。やることないし。ゲーム、しないか……?」

「したい……。なになに? あたしら、どーなっちゃうの……?」

「今からお互いの良い所を言い合って、ちょっとでも今より好きになったら……罰ゲームだ」

「や……。それ、いい……。純とゲームとか、いい思い出しかないもん……」

「罰ゲームは、何か相手の喜ぶこと一つ……」

「やるやる……。超喜ばせるし……」

「何だよ。負けたら、だぞ」

 調子に乗りすぎだ、俺。

 そろそろ帰ればいいじゃないか。

 この先いくら時が進んでも今日これ限りであろう夜に、俺は酔っ払っていたのだろう。言葉が自制心から遠く離れ、それでもなお止められない。そうと知って、二人だけの世界に入り込んでいく。

 分かってる。

 実は好きなんだから。

 好きってことは……こうなりたかったんだ。

 俺が向ける恥じらいは、今は完全な恥じらいじゃない。これはちょっとした飾りだ。俺がこうしていた方が、橘が橘らしくいてくれるから。

「じゃ……俺から」

 ……橘かれんの良い所。

 一つ選ぶなら、何を言えばいいだろう? 可愛すぎる整ったそうぼうか? いつだってみんなに振りまいている笑顔か? どこに居たって目立つ、流れるような金髪か? 違う、そうじゃない。

 俺の心が彼女を受け入れてしまったのは、やっと本当のことを理解したからだ。

「橘は優しい、よな。いつだってイジってくるけど……優しい。優しすぎて、俺が嫌がると悲しそうにする」

 ずっと一緒にいて、分かったんだ。

 こいつとの違いに気づいて、打ちのめされて、それでもなおあきらめなかったからこそ、本当に好きなんだってことをちゃんと受け入れられた。

「今日はそういう顔を見たくなくて、無理して来たけどさ。今はもっと優しいんだって信じられる。だからもう、同じような無理はしないよ。きっと俺が俺のままでいても、受け入れてもらえるんだって思うから。分かってもらえるって、信じられるから」

 せがむように、俺の白Tシャツが引っ張られる。

 彼女の唇は言葉を惜しむようにぴくぴく震え、感情がその場にあふれそうなくらいに目は潤んでいる。

〝心配しなくていい〟……俺が頰をさっと指で撫でて伝える。

〝綺麗〟だ、とも。けれどただ綺麗なだけなら緊張するだけだ。正直、こいつの見た目が良すぎることで心労が絶えないってのも、あながち噓じゃない。もう少し普通の顔をしていれば良かったのにって、愚痴りたくなることもある。

 けど、それでも、だ。

「優しい人なら、きっと他にもいる。でも、本当に俺の胸の中までしっかり届かせてくれるのは、橘だけなんだと思う。相性っつーか、何って言えばいいんだろな……。お前のおかげで、少しだけ優しくなれた気がするんだ。いつも……温かくなる」

 こいつの隣が、俺にはいいんだろう。

 他の誰よりも……な。代わりなんて、居ないんだ。

 俺の気持ちは届いただろうか?

 少女の頰を一粒の涙が伝った。〝おい、そんな顔を見たかったんじゃないぞ〟……俺は笑ってそう伝えるが、無駄のようだ。

「か、かれん……。うっ、まだ下の名前はきつそうだな」

「はぁ……。もう、負け……。ラブラブハグしたげる……」

「ちょ……っ。うっ。分かったよ、はぁ……」

 密着感の奥にある温かさが、その奥にある嬉しさに変わった。

 馬鹿げてる、どうかしてる。この俺が、こんなことに慣れてしまっただなんて。抱き合いながら、微笑むことができてしまうなんて。

 ふと冷たい風が俺たちの汗をかすめ取ると、後に残ったのは、一箇所に固まった二人分の体温だけだった。

 身体を離すと、互いに名残惜しげな目で見つめ合う。

「純……。あたしのハグで、喜んだ?」

「喜ばない奴なんて、いないだろ……」

「やめて……。純以外にもしちゃうみたいな言い方……。他の人の話なんか、したくないもんっ」

「ふふっ、ごめんごめん。でも、これで罰ゲーム成立だな」

「だめ、もっかい……。純、まだそんなに喜んでないもんっ」

 ぎゅっ……とされる。

 熱のこもった吐息が、至近距離で俺の耳をさせた。

 ついこちらの息も彼女の耳元で漏れてしまう。それに呼応して、吐息だけで存在を確かめあった。

 離れた時、お互いに笑顔が溢れていた。彼女はそのことで満足したらしく解放してくれたが、あいにくゲームはまだ終わりじゃない。

「ん、あたしの番」

「あんま恥ずかしいこと、やめろよな……」

「やーだ。純が考えたゲームでしょ?」

 んふふ、と悪戯いたずらめいた笑みが戻ってきた。

 近い。とても近い。けど今は遠ざけまい。俺はじかに向かい合いながら、しっかりとその目をとらえた。

「えへへ、純のいいトコ? 全部、じゃないの……?」

「それがアリなら、俺もそう言ってたっての……」

「ほら、それ……。気づいてないの? どんどんデレデレになってる……。全然フキゲンになるポイント見えないってゆーかさ。会えば会うだけキュンキュンしてくる……」

「ぐっ……」

「こんな人、他にいない……」

 小馬鹿にした笑みが、はかなげに崩れていく。

「あたしと会って優しくなれたみたいに言ってたけどさ。きっと、純は元々いい人だったんだよ……? どんどん仲良くなれそう。まだ、まだ、足んないの……。純……」

「橘……」

「こんなに優しくし合える人、生まれて初めて……。必ずね、今日は昨日より仲良しになってんの……。きっと明日も、そう……。今回はさ……ちょっと調子に乗っちゃったけど。無理させちゃったけど。まだあたしら……始まったばかりっしょ? これから分かり合っていくもんね?」

「だな」

「どう……? 負けてくれた?」

「……ボロ負けだ」

 俺は決めた。

 俺がかれんを好きなんだと、俺自身が決めたのだ。

 もう決めた。

 やることは一つだった。

「これじゃあ痛み分けだな……」

 その唇を視界に捉え……。

………………純なら、いいよ?」

 そして……奪う。

 少女の声が小さく漏れたが、すぐに力が緩んで身体ごと預けてくる。脳みそがしびれて溶けそうになるが、こらえる。

「ちゅ……。ん……」

 ルールはルールだ。負けたなら喜ばせなければならない。

 夜の中で唇がこすれた後、一度離し、彼女の顔がせがむように影を濃くした。

 もちろんこれで終わらない。彼女は足りないといった風に、お代わりのキスで、今度は身体を強く抱きしめてきた。熱く甘く切ない永遠が、二人をみ込みにやって来た。ずっと閉じこもっていたい。

 ここに、二人だけ、世界が終わるまで二人だけで……。

 ……。…………

「ファーストキスはキミで、二回目もキミ。三回目から、最後まで、全部キミがいい……」

「俺もだ……。橘がいい……」

「純、今日もたくさん仲良しになれたね……?」

「だな……」

「またこのゲームやりたい……。罰ゲームでチューしたい……」

「二人っきりなら……な」

「うん、二人っきりなら……ね」

 後はただ、気が済むまで見つめ合って時間を味わった。

 その後は時間も気にせず、世界から切り離されたこの場所で、言うべきこともなく余韻に浸っていた。