第四章



 ──数時間前。


「……やよい。ねえ、どうしよう…………

 あたし、フラれたかも。

 これから夏休みのメインイベントが始まるって時に、そんな一言を聞かされた。

 たちばなかれんがフラれた。

 親友の私・ひようどう弥生やよいからすれば、それだけは納得できる話じゃなかった。

「……は、はああああああ!?

 フラれた!? かれんが?

 スイカ割りの輪から少し離れた所で、私は声を潜めて驚く。でも本当は、バカみたいに叫び散らしたい気分だった。

 男を振った話なら腐るほどある子だけど、フラれた?

 でも……っ。なんでよ! なんでなのさあ……!

 だってさ、橘かれんだよ?

 週二で告られてる、学校一の美少女っつーか天使だよ?

「フラれたかもって、何よ……? かもって……」

「ウチらと一緒に遊ぼって言ったの。そしたら……どっか行っちゃった」

「ん……。かれん、それは過剰反応だよ。あいつが何か言ったわけじゃないんでしょ? 今日はかれんのために来てくれたんだし」

「そうだけど……。遊んでくれない理由、何も言ってくれないし……」

 けどかれんの悲しそうな顔を見てると…………つーか、この子が目を合わせてこないなんて初めてかも知れない。いつもならニコニコ顔を押し売りしてくんのに。

 私は何も言えなかった。だから苦し紛れだった。

 水着姿のとびきり可愛いかれんを抱きしめて、背中をさすってあげる。

 でもそれだけじゃ足りない気がして、後ろに腕を回しちゃったりして。そのまま親友の金髪頭を自分の胸に預けてしまう。

 いい匂い。天使かよって。

 髪に触るだけで、根っこから優しくなっちゃいそう。

「……だいじょぶ? ……何とか言えそう?」

「ぐす……っ。……やよい、あんがと」

「落ち着いて、それ絶対フラれてないから。あいつを探して、どうしてそうなったのか聞こ?」

「うん……」

 夏休みの青春ごっこは中断。

 私たちは水着の上に一枚羽織ると、ホテルの部屋をあたり始めた。

 つーか何だよ、まだ付き合ってねーうちからけんたい期かっての。いっちょ前に彼氏気取りやがって、あいつ。

 あの、いちじようじゆんって奴!

 いつも勉強しかしてないからゴシップにも絡まない、どうでもいい男子だった。

 見るからにちょっとオタクっぽいし、暗そうだし。

 正直、第一印象だとかれんの隣に収まるような器にも見えなかった。まあ多少はあいつとも会話が盛り上がるときもあったけど、それはそれとしてだ。

 もっとカッコいい男子が、たくさんこの子に告ったはず。

 運動部の主将、軽音部のボーカル、あと他校の現役モデルとか……趣味で噂は全部仕入れてる。一条よりマシな男子なんて、掃いて捨てるほどいるっていうのは明らか過ぎる。

 ねえ、どうして?

 あんたにはもったいなさすぎる相手なんだよ?

「たぶん、初恋なの。マジで好き……。大好き……」

 あの男子の話をするほど、かれんの泣き顔がうれしそうに緩んでくる。

「遠足の班分けでさ、無理にあいつを入れたよね。どーしたんだろって思ったけど、その頃にはもう狙ってたってこと?」

「うん……勉強教えてもらうフリしてさ、甘えちゃってたの。毎日毎日、あいつ、すっごく優しくてさ……。やばい、やっぱ好き……。あきらめらんない」

「諦めることない。かれんが暴走し過ぎなだけ」

 遠足の頃くらいには始まっていた、か。

 それまでの印象は……ううん、覚えてない。あいつ印象薄すぎ。いっつも一人で、勉強ばっかりってイメージが少しだけあるとしか…………いや、どうかな?

 一年生の時、聞いたことがある。

 他のクラスで、ガチのガリ勉ぼっちがいるって話。学園祭準備中なのに単語帳を開いているもんだから、クラスの雰囲気がめちゃくちゃになったって。メガネとか、ひょろ長とか、特徴的にもまんま一条だ。

 ……ははん、なるほど。

 私の情報網的には、ガチの根暗さんらしいですなあ。

 かれんとは正反対な、笑えないレベルのジミー君って感じか。

 でも正直、かれんと正反対ってことなら私も人のこと言えなかったりするし。会った時のこと、ちょっと思い出したりして。

 中身が違い過ぎるとさ、お互い慣れも必要になるよね。やっぱり。

 本音を言うと、高校入りたての頃の第一印象からしてそうだった。可愛くて、明るくて、たくさん好かれて。私とはちょっと違う。

 だから私とかれんも、最初はソリが合わなかった。

 とっつきやすい女の子と、とっつきにくい女の子。

 いつもニコニコしてる学校好きと、雰囲気だけでそれと分かるほどの学校嫌い。

 あの子はしょっちゅう男子に囲まれてて、私はほおづえをつきながら、遠くからそれを見てるだけだった。

 似てるのは、そうだな……勉強はやる気なしってトコくらい?

 つっても、かれん。私みたいにガチで学校サボったりはしないし。宿題とかも他の子に教えてもらったりして、なんだかんだでしっかり仕上げてくるし。それに学校にいて楽しそうだし。やっぱし、ちょっと違うよ。

 ほんとにウチら、どうして仲良くなれたんだろう?

 同じクラスで、席も近かった。それくらいしか、きっかけなんてなかった気がするのだけれど。

 学校なんて下らない。

 いつも唱えるお気に入りの呪文みたいに、胸の中でそうつぶやいていた時だった。

『やーよーいー。えへへ~。おはよ』

 金髪の女の子は、毎日同じ時間に、後ろの席から身体をべったりさせてくる。

 本当に暑苦しくて、まぶしい。この子といれば、外で雨が降ってても見えなくなっちゃうってくらいに。

 ちなみに、呼び捨てしてきたのはかれんが初めてだったりもする。

 いつもは氷堂さん。もしくは弥生ちゃん。あの、よくサボってる子。いっつも寝てる子。冷たそう。また呼び出しくらってる。結構可愛いよね。エトセトラ、エトセトラ……。

 そんなんだから弥生って呼ばれんの、結構こそばゆい。

 あれ私そんな名前だったのってなるから、ほんとは止めてほしい。

『うう、ああ、朝からうっさいなあ。こちとら全然寝れてねーんだっつーの。あー、もう、眠すぎてハゲそう……』

『ねーねー。今日の放課後はどーする? どーする?』

『……ん? 今日も? あたしと?』

 私は起き上がって、もしゃもしゃになった髪に手ぐしをした。

 振り返ると、目覚まし代わりのいつもの笑顔をくらう。

 何……今日も遊ぶの?

 正直そう思った。私にだって私の時間があるわけだし、年がら年中ってわけにもいかないでしょ。

 ちょいうぜーってさ、私だって口に出しては言わないけど。

 この子、言ったらマジに取っちゃいそうだし。だからまあその場のノリで、断るって感じにはなりにくい。

『えへへ♪ 面倒くさそーにしてるけど、いっつも遊んでくれるよね?』

 はぁ……。

 何かさ。いい感じの距離感にしようぜって、言わなきゃ分っかんないかなあ。

 そんなんだったから、正直慣れるまでには時間もかかった。

『べっつに……』

『あたし……いい人には、ガチで甘えちゃうよ?』

『うっとーしいなー。いい人って何だっつーの……』

 でも、やっぱきれいな顔。

 この誰とでも仲良くできちゃう感じ。男子はみんな勘違いしちゃうだろうし、女子には好かれたり嫌われたり大変そう。

 ……しかし私が仕入れた噂によると、男遊びも激しいとか何とか。

 噂によると、金に困ればどっかのおっさんにおねだりしてるとか。

 噂によると、三年の先輩テキトーに選んで毎日ヤッてるとか。

 これは面白そう。良いゴシップ源かも。

 だから、ちょっと突っついてみることにした。

『……かれん、昨日も告られてたね。男と行けばいーじゃん?』

『や……。それは、さ……』

 かれんは暗い顔をして目をらした。

 後になって気づいたことだけど、こういう話題は地雷みたい。

 基本周りの目を気にせずベタベタしてくるこの子が自分から目を逸らすのは、このタイミングだけだった。

『……その場でフッちゃった』

『どーして? お相手さんのたかとやら、カッコ良さそうだったけど?』

『てゆーかあたし、弥生と一緒がいいの。楽しく出かけたいだけなの……。ねえ、弥生のネイル可愛い。あたしも連れてってよ……?』

 弥生と一緒がいいって……。

 あれ、これ女の子同士だったっけ?

 男より私と一緒がいいとか。おいおいマジか、何からしくなくキュンってきちゃうじゃろーが……。

 けど、この子はいつでもそうだった。

 派手な見た目に似合わず純情っつーか、子供っぽいっつーか。守ってあげなきゃって気にさせられる。

 なんであんな噂流れてんだろ。意味分かんない。全部ウソだよ。ずっと一緒にいる私が言うんだから、間違いない。

『でも、じゃあさ。どんな男がタイプなの?』

『えー? そうだなあ……ギャップえってゆーの? やよいみたいな?』

 はぁ? 私なんかのどこがいーの?

 そう聞いてみれば、軽く二十個くらい長所を列挙してくれる。だから恥ずかしくなって、三個目くらいで止めちゃう。

 多分、最後の最後は、似てる似てないなんてどうでもいい話なんだと思う。

 私を名指しして、求めてくれる。笑いかけてきて、触ってくれる。一緒に勉強をサボってくれて、時々、宿題しようなんて誘ってくれる。

 ほんっと純粋で、寂しがり屋だからさ。

 いつでも守ってあげなきゃならんしょってなる。

 案外友達なんて、それだけで十分だったのかも。

 グイグイ来る感じとか、私の側で頑張って許容すればどーにでもなるし。そんな器がちっちゃいつもりもないし。

 何よりさ……こいつ、頭おかしーだろってくらい、いい子なんだもん。

 性格が真逆だからって、そばに置かないでいるのはもったいないよ。

 誰が相手でもずっと一緒にいれば疲れるけどさ、かれんの場合、疲れたのと同じくらい元気になれるから。仲良くなればなるほど中毒みたいになる。

 かれん病。私はそう呼んでいる。

 こいつがひでー伝染病でさ。移ったの、私だけじゃなかったしな。

『ももこ氏ー。宿題いみふ。超ヘルプ。このままじゃ死ぬ』

『あのねえ、弥生。いい加減、懲りなさすぎよ……』

『いーじゃん、ももこー! 三人で集まるコージツ、また出来たんだしさ♪』

『はぁ……。かれんも? あのねえ。私、一応部活あるんだけどっ』

 かれんが引き合わせてくれた、もう一人の親友。

 そして、ソリが合わない女の子・その二。

 髪が長くておっぱいのデカい、ひと目で分かる真面目メガネちゃん。あんまり違う人種すぎて、一緒につるむなんて考えられないような子だった。

 でも、かれんが引き合わせてくれた。

『ウチらさ。ももこ姉さんじゃなきゃ、やなの』

 ももじゃなきゃやだ、だってさ。かれんみたい。

 しかも、ももこ姉さんって。他の子にあだ名つけるとか、私どうかしちゃったの?

『ももこ姉さんって……。同い年なのに……』

『はいはい、そうは言いつつも本当はうれしがってると見た……ふふっ。ほらてんじゆいん、部活サボってファミレス行くぞ♪ 今日は寝かせねーからな』

『もうっ……ばか』

 気がつくと……学校サボるのすら忘れてた。

 この友達、マジで誰にも渡したくない。だから彼氏とか、本当なら勘弁。

 かれんといるとさ、良いやつになれる気がするから。今の自分から変わってもいいかなって、思ったりもする。

 でも…………一条、か。

 かれん病キャリアの先輩として言わせてもらうと、ちょっと変化が急激だったかも分からんね。

 四月までぼっちだったんでしょ? テストが終わってからは段々かれんの彼氏みたいに扱われて、大変だったんじゃないの? まあ、そういう風にあおったの私なんだけどさ。

 かれんは止まらないジェットコースターみたいな女の子だから。

「よく分かんないけどさ、キャパオーバーになったんじゃないの?」

 結局、男子の部屋を回ってもあのガリ勉はいなかった。

 昼間は途方に暮れてホテルのベンチに座る羽目になったから、かれんはしゅんとしたまま。水着で来たは良いけど、そんなには遊べてない。かれんを放っておいて遊べるはずがない。

「かれんってさ、グイグイ突っ走るとこあるから」

 この子を責めるようなこと、めっちゃ良心がとがめる。

 でもさ、良いところばっかりな人なんていないじゃん? この子に言ってあげられるのは、きっと私だけだろうし。

「キャパオーバー……? でも、段々ノリよくなってんのに……」

 かれんが泣きそうだったから、背中をさすってあげた。するとべったりと身体を寄せてくるので、片手でゆっくり、ぎゅっとしてあげる。

 一条もさ……かれんの言う通り、普通に優しいんだろうよ。じゃなきゃこの子がなびくわけがない。

 素朴で、あんまガツガツしてなくて。かれんは告られてばっかだから、ああいうのに目が行っちゃうのかなあ。

「でもさ、元ぼっちだよ? 授業終わったら家に直行してたようなプロ帰宅部だし?」

 ジミーズ業界には詳しくない私でも、何となく想像はつく。

「普段からヒッキーな生活しててさ。突然かれんみたいな可愛い子に毎日付き合わされるようになれば、いずれパンクしそうではあるよねっていう。本当は家にいる方が性に合ってるのに」

「ウザくしすぎちゃったかなあ……」

「はははっ、そんな暗い顔すんなしっ。でもさ。あいつの表情とか、雰囲気とか、性格とか。もちっと考えてあげれば? 一条の……どこが一番好き?」

「優しくて、ツンデレさんなとこ。猫みたいにさ……あたしが落ち込んでるとね、優しくしてくれんの」

「だったら大事に甘えてあげな。猫は警戒心強いっていうから。あいつとの距離感みたいなものとか、しっかり考えて……ね?」

「しっかり、話さなきゃね。えへへ、あんがと親友♪」

 あのガリ勉に対しては、かれんにとっての一番を取られたことで恨みつらみがいっぱいだってのにね。

 はぁ。一条さんよー。

 真面目な話、これでかれんとくっついたら報告しとけよな。


 BBQ奉行の役割は大方終わった。

 ぶっちゃけ物を組み立て終わってしまえば、後は辺りにグループめいたものが何個かできて騒がしくなるだけだ。

 そしてその中に入って盛り上げようというのも、多少は会話に入って場をもたせようというのも、いずれも俺の仕事でないと分かった。さっと静かに忘れられて、端っこで少しの肉にありつく。話しかけられれば失礼のないようにさばいて、どうにかこうにかいい感じにやり過ごしていた。

 まあ、それだとまだ七割ほどはぼっちなんだけどさ。

 でも、やっとのことで納得できるようになったのはそういう役回りだ。

 逃げるだけが手段ではなくなり、自分のやり方でその場に踏ん張れるようになった。俺たちが頑張って作った場で楽しんでいる奴がいるんだ。その事実を、陰でちょっとだけ喜んだりする。

 ぼっちの立ち位置なんて、それで十分じゃないか?

 だが同時に、橘の彼氏というポジションがそれを許さないということもある。現実問題、このBBQ奉行という役目で注目されたのは俺だった。黙々と働いていたまつ君でもなければ、いつも通りみんなのために尽くしている天樹院でもない。そりゃあもちろんしょーもないスケールでの話だろうが、元ぼっちのガリ勉がヒーローにされかかっている。

 橘は、それを望んでいたのだろうか?

 だが、俺はあいつの思っているような奴じゃない。

 今はまだクラス全員に分かってもらうっていうのは無理でも、せめてあいつだけには分かって欲しい。俺がどんなところで安らぎを感じるか、不安になるか。

 俺がどういう人間か。

 そして願わくは、あいつ自身のことも。

 たくさん話して欲しい。

 ……と。

 遠くの方から橘と氷堂がよろよろ歩いてきたことで、辺りの注目が二人に集まった。

 みんなからすれば今まで何をしていたんだってところだろうが、橘の目を見れば何となく分かる。俺と目が合うや早歩きになり、やがて駆け寄ってきた。

 最初にいとおしげに目が緩んだのは、俺だったろうか。

 それとも、橘だっただろうか。

「なあ、俺よく分かんないけど、もうとっくに一条が彼氏……なんだよな?」

「知らね、でもすげえ見つめ合ってるぜ。仲良いっていうのは本当みたいだけど」

「一条君がお相手かあ、なんか意外」

 いずれにせよ、俺たちの距離が近づくにつれクラスメート達はざわつき始めた。ほら、お前らお望みの展開だったか?

 合宿終盤に差し掛かり、橘とその彼氏のご対面ってわけだ。って、おい俺、だから彼氏じゃねーゆーとるじゃろがい。

 ……橘はこわばった表情から、無理してるのだろうか、にしし……と笑顔を作る。俺たち二人の間で揺らいでいた空気を吹っ飛ばそうというのだろう。初めて会った時もそうだったのを今でも覚えている。

「純……。えへへ……純?」

 橘はしつこく、下の名前で呼んでくる。

 するとざわざわが消えて空気がしんとした。クラスが金髪女の次の言葉を待ってる。みんな俺たちを見てる。

 俺にはよく分からんよ。できれば放っておいてもらえまいか。せっかくみんなのために頑張ったんだし、ちとここらで休ませておくれ。

「向こうで話そう。……二人で」

 もちろんその一言は、連中を騒がせるのには十分だったのだが。


 夕空の彼方かなたに、雲がもこもこ集まっている。

 ジャージ姿の憐れなガリ勉は、水着の上にパーカーを羽織った女の子とずいぶんと一緒に歩いていた。海水浴場からも遠く離れて、一般客すらも遠ざかって二人で……。

 誰にも見られたくない。二人っきりになりたい。

 そんな思いが伝わったのだろうか、元いた場所が遠くなればなるほど、俺たちの距離は詰まって……手がつながっていく。

 二人でにやりと、柔らかく笑った。

 橘のは徐々に嬉しそうなニヤニヤ顔に。

 俺は恥ずかしくて目をらしながら、それでも口元は緩んだ。

 お互いに抱えているものがあると分かっていても、俺たちの重ねた日々はひたすら濃くて甘かった。触れるだけで思い出す。無条件に、お互いに、多分おそらくきっと、一つの同じ感情を共有しているから。

 多分……好きだ。大好き……なんだ。

 こいつの歩いているところ、振り返ってくれる仕草、俺が沈んでいる時に気づかってくれるその目も。じゃれて遊ぼうとしてくれるところも。純は優しいからって、いっつも言ってくれるのも。全部……好きだ。

 好きだから乗り越えようって、思った。

 だってそうだ。すれ違っている奴なら関わらなきゃいい。そうするのがお互いのため。俺だって、普段ならそうしていたはずなんだ。

 なのに橘相手なら、それが我慢ならないのだった。すれ違ってるって事実、認められなかった。絶対に言葉にしたくなかった。

 きっと。単純に。

 好き、だからだ。

 その事実だけが、たとえどこかですれ違っているにしても、俺たち二人を強固に結びつけていた。手を繫ぐだけでそのことが思い出され、少しずつではあっても、頭の中で絡まっていた糸が解けていく。

 そしてそれは、素直に言葉になった。

「二人っきりなら……どこまでも大丈夫だと思うんだ」

「うん……」

「俺たち二人だけならきっと、何でも受け入れられる。その……一日だけ、彼氏になった時みたいに。何されても、多分、へっちゃらなんだ……っ」

 橘だけを見ていたい。

 クラスの中で埋もれていた俺なんかをいだしてくれて、たくさん気にかけてくれて……でも、それだけでよかった。その子によって集団で認められるより、その子にずっと認められていたい。

「橘はさ……特別だから」

「うん……」

「自分と違っていても、そのくらい乗り越えようって思える」

「うん……」

「お前じゃなきゃ、努力しようとすら思わなかった」

「純……」

「何だ……?」

「ほんと、ごめん……」

 橘は切なげに目を細めた。

 そうなると、後はどちらからというわけでもない。距離が詰まり、俺が腕を少し開けば少女は胸に収まってきた。

 穏やかにでるほど密着感が高まる。

 空気はこんなに夏っぽく蒸し暑いのに、胸の中はすっかり優しさで温まっているのに、まだ人のぬくもりがいとしく感じる。

 静かな砂浜で、波音と心音だけが響いた。

「うう……っ。あたしさ……決めつけてたのっ。ぼっちじゃなくなった方が、純が幸せになれんのかなーってさっ。友達もたくさんいて、いっぱい遊んで、みんなに仲良すぎラブラブかよってイジられて……っ」

 彼女が涙交じりに話すので、長い金髪に手ぐしをしてやる。

 夕日が顔にあたり、自慢の髪をさっと撫でて……愛しさがこぼれそうだ。

「それがさ、当たり前に幸せじゃんって、勝手に思ってたのっ。あたし、何か押し付けてたよね。純は優しいから、ずっと言えなかったんだよね…………ごめん」

「橘……。もう、いいんだ……。そこまで俺の側にいて、俺のために考えてくれてた。そういうことだろ?」

「許してくれる……?」

「言ったろ? 二人っきりならもう何でもいいんだって。それに俺だってこの先、同じような間違いを犯すかも知れないんだ。そうならないように、お互いを知れれば……いいだろ」

「うん……」

 二人の間の静けさが深まってくる。

 心と心が触れてしまいそうな距離感で。でもまだ触れそうで触れないままを楽しんでもいたくて。

 ゴクリ……とつばを飲み込んだ。

 自分でも信じられない。

 至近距離で橘と見つめ合っているのに、今はこんなに落ち着いている。

 思えば橘が俺と思い出を作りたいって言ってくれた時、本当にその思いにこたえてあげたいってだけだったか?

 橘と思い出を作る。そう考えて、少しでも浮ついた気分にはならなかったか?

 その機会はと言うと……小さな雨粒と共にやって来た。

「あ……」

 と、少女が小さく声をこぼす。

 雨が降ってきた。髪や素肌に小さなしずくが舞い落ちてきて、それまでベタベタひっついていた俺たちは我に返ったように離れる。

 ぽつり、ぽつりと。

 むわっとした湿気が、熱に浮かされていた俺の自意識を現実に引き戻す。

「その、ごめん……。ずっと撫でちまって……」

「や、あたしがそんなの気にするわけないじゃん……」

 優しさと気まずさが混じり合い、交互に入れ替わる。

 ちらちらと揺れ動く視線を二人で静かに交差させていた。だが数日前と違うのは、もう気まずいってだけじゃない。

 俺は……いや、俺たちは。きっとこの気まずさすら、どこか楽しんでいる。

「雨、振ってきたね……?」

「そ、そだな……」

 思うんだが、俺ら、ナチュラルに身体をくっつけ過ぎだっての。

 いつからそうだった? 何がそうさせる?

 数時間前から、俺は胸にデカい穴を抱え込んでいた。

 今仲直りできて一体どれほどうれしいことか。この穴の埋まる感覚。単に二人で居て満たされていた時よりも、ずっと強い充実感だ。

 それで、でも、今は?

 くっついていた身体が少し離れただけで、胸がしょんぼりとしてしまう。

 バカだろ。重病だ。離れる度にこんなぽっかりと穴があいた気分にならなきゃいかんのか?

 ふん、いっそ雨が降ってきてよかったよ。いい薬だ……。

「ちょっと待って、やばい。雨、強くなってきちゃった……」

「ん、ほんとだ。ずぶれになる前に……」

 さっさとずらかろう。

 そう思って手を繫いだが……ピチャリと。

 大粒の雫が腕に当たった。

 数秒かかって、雨音が空気をザーザー鳴らし始める。

 これはまずい。突っ立っているだけでずぶ濡れになる。

「戻ってられんかもな。まずは雨宿りだ、いかにも通り雨っぽいし」

「う、うん……。えへへ……純、やっぱ頼りになるし!」

「言ってる場合かっ、行くぞ」

 その場で辺りを見回し、どちらからともなく手を取り合った。

 分厚い雲が真上を覆ってはいるが、それでも空は青いままだ。大きな切れ間から、まだ強い日差しが差し込んでいる。

 幸いなことに、良さそうな場所はすぐ近くにあった。

 駆け寄って行った先は海辺の小屋。

 砂浜にぽつりと立っている、戸の開いた古い木の小屋だ。外にドラム缶が置いてある。昔は漁の道具でも置いてあったのだろうか? 使われなくなって随分と経っていそうだ。

 雨避けができて、ほっと一息ついた。

「しゃーない。とりあえずは、ここを使わせてもらおう……」

 天気予報では快晴だったはずだ。

「サイアク~。めっちゃ濡れちゃったし……」

「同じく。向こうはどうしてるだろうな……」

「音、すごくなってきたね……?」

「どうすっか、真面目な話……」

 窓を見ているほど、外は暗くなり、ただ雨音だけが強まっていく。

 おいおい、これ、通り雨……だよな? 本当にどうしたものか。このままでは、みんなのもとに戻れない。

 最悪、濡れながらでも帰るか?

 でも俺一人じゃなくて、橘もいるわけだし。風邪を引いてしまったら大変だ。こうなれば最低連絡だけでも……。

「なあ橘、俺スマホ持って来てないから連絡を……っ」

 振り返ると、橘は先程まで羽織っていたパーカーを脱いで完全に水着姿だ。そりゃそうだろう。あんだけ濡れたんだから、いつまでも着ていたらまずい。

 分かっている。分かってるんだ。

 暗くて狭い小屋で、やはり二人っきりなわけで……。

 ──『えへへ、これで二人っきり……。誰も見てないね……』

 試着室の、あの日と重なる。

 たった一週間前の話だ。

 それでもあの時はまだ、今よりは抵抗があった。今は違う。自分でも認めがたいほどベッタリな距離感が普通になってしまっている。そして自分でも恥ずかしくなってしまうくらい、そのことを受け入れてしまっている。

 そのことが、別種の緊張感を胸の中にき立ててきた。

 これは……まずい。

 俺も俺で、歯止めが利かないぞ……。

 抱きしめてあげたい。そんな風に一ミリでも思えたのは、すれ違いから立ち直った解放感がそうさせるのだろうか。

 そんな誘惑から目をらすように、わざとらしく言うのだ。

「その、連絡……頼んでいいか? 俺、持ってきてなくてさ……」

 俺たちの間を、静けさが通り抜けた。

 その中で橘の携帯がメッセの通知を鳴らす。彼女はそれを手にとった後に、何かに気づいてしまったのだろう。

 俺を見据えたその目が悪戯いたずらっぽく微笑んでいた。

…………やーだ」

「な、なにいってんだよ。あいつらを心配させたらどーすんだ。俺らがここにいるってだけでも伝えないと、変に大事になっちまう……」

 橘は……立ち直ったようだ。

 次第にニンマリとして、からかうように歯を見せた。

 またこの顔を見られた……って雨降ってんだぞ。それどころじゃねーっての。

「二人っきりなら、いいって……」

「まあ、そう言ったかなあ……?」

「言ったっしょ? 思い出、ほしい……。純は……?」

「欲しいは、欲しいが……」

「もうちょっとこのままがいーの。純も実はそう思ってるっしょ? 二人で、水着で、こんな場所で、ガチで二人っきりで……。はぁ……夢みたい」

 髪も肌も濡れた金髪女。

 こいつはスマホをそのまま小汚い机に置いてしまった。

 一歩一歩と窓辺に近づいてくると。

 彼女は目の前に立つ。

「純も上、脱ぐの……。着たままじゃ、よくないから……」

「せ、せやろか……」

「いいから……」

「あ、ああ……」

 俺がゆっくりジャージを脱いで、濡れていた下着のTシャツも脱げば、赤らんだ橘の顔がどんどん愉快そうになっていく。胸はもうびしょびしょだ。既にかなりの体温が奪われており、むわっとした空気が肌に当たる。

 そして橘は……丸めたパーカーを絞ると、濡れた俺の肌を軽くぬぐってきた。

 丁寧な手付きだ。やめろよ、と目で言うのだが聞いてはくれない。

「ふふっ……。ねえ、こうしないと寒くなってきちゃうから……。二人で、ずぶ濡れになっちゃったもんね?」

「そ、そだな……」

「純、すごく緊張してる……。初めて会った時みたい…………童貞♪」

 こ、こいつ……。

 真面目にどうにかしなきゃならんこの状況を、ここぞとばかりに楽しんでやがる。ここにいつものからかいモードが発動した。

 こうなると、もうこいつを止められるものは何もない。

 止めなきゃならんのに、止めたくないと俺の鼓動が言っている。

「う、うっさい……。処女のくせに……」

 言葉だけでどうにか抵抗するが、効果は今ひとつのようだ。

 白く柔らかい手が俺の肩にかかり、体重がかかってくる。

 唇が俺の横顔に近づいてくると、声で頰の表面をでてくるのだ。

「温めあわないと、風邪ひいちゃうし……」

「う……。ここまでせんでも……」

「純、さっきまで緊張してなかったのに。えへへ、これはまだダメなの?」

「ギ、ギブ。俺の負けでいいから……」

「やーだ。すでにちょっと寒いもん?」

 濡れた身体がべったり重なり合い、素肌と素肌で体温を伝えあう。

 んふふ……と、吐息が耳元に当たってくる。橘が細い腕を脇の下から背中まで回してきて、こすこすと優しくこすってきた。すっかり濡れてしまった肌と肌が、心地よく触れ合う。

「はぁ…………。ラブラブハグ、いい…………

 おのれこうめい、もとい雨め……!

 東南の風を吹かせてきおってからに……!

 感覚器官の処理能力を超える事態に、身体のしんから熱がこもってきた。

 心中穏やかでないどころかもう完全に収拾がつかず炎上してしまっているのだが、橘の追撃は止まらない。

「ねえ、純はどう……?」

「や、やばい……っ。そろそろ離れろ……」

「キミの一日彼女やった時さ……ガチで楽しかったの」

 唇が……柔らかく。

 頰に当たって、そのまま押し付けられ、ちゅっ……と。

 離れてくれるまでに二秒もの時間を要した。

 もうね、ハゲそう。当たってから離れるまでの二秒だけで歳をとってしまいそうだ。

「えへへ……。ごめん、うっかり当たっちゃった……」

「ば、ばかぁ……。お前なあ……」

「ねえ、だから……さあ。小屋を出るまで……ね? また、彼氏でいて……?」

 甘さ、すっぱさ、ドキドキ、バクバク。

 何と何の感情の混ぜ合わせなのか分からなくなるほどに、胸の中がこんとんとして……止まらない。

 しかしこの混沌は心地よくもある。

 まるで身体の中を駆け巡る嵐のように、血の流れを騒がせてくれる。

 俺は橘の肩に手を置いた。

 彼女の耳がすぐそこにある。言葉を紡げば、すぐに届いてしまう距離にある。

「いいぞ……。この小屋を出るまで……な」

 この小屋は当分出られない。

 きっと俺たちは、その点では同じ気持ちだっただろう。

 昔々、俺は数時間だけ橘かれんの彼氏だった。

 その時は顔を真っ赤にして色々考えたものだ。

 ……信じられるか?

 ……俺に務まるだろうか?

 ……あるいはそんなこと、シケたガリ勉のぼっち野郎に許されることだろうか?

 まあ色々考えた割には、その時はどうでもよかったのではあるが。

 どうせ冗談だろって、たかをくくっていたからだ。

 で、今は……?

 事情はちょっとだけ違う。俺は自分の気持ちを自覚しているし、こいつの思いも伝わってくる。冗談半分なことに変わりはないが、これは遊びであって遊びではない。

 お互いの気持ちを探り合う、危険なゲームだ。

 自分の本当の気持ちすら見失いながらだというのに。

「純……。ねえ、純……?」

「な、何だ……?」

「何でもいいから、彼氏っぽいこと……言って?」

 橘は早速仕掛けてきた。

 彼女は俺の背中に巻きつけた腕を解くと、首筋に指をかけてくる。

「ね、噓でもいいから。何か、彼氏っぽいこと。んふふ……」

 彼氏っぽいこと。

 俺は緊張のふちに落っこちないように、理性のがけにしがみつく。そうして何とか言葉を紡ぐのだ。だがこれはあくまで探り。こいつの出方をうかがって、どうなるか見てやろう。

…………そろそろ親に紹介しろよ」

「ふふっ、ばか……。そーゆーことじゃなくてさ……」

 聞き慣れた小さな笑い声が耳元を撫でてきた。

 ちょっと冗談っぽ過ぎただろうか。だが、誘われて乗ってこない橘ではない。

「付き合って何ヶ月くらいの設定よー?」

「半年くらい……?」

「へえ? そんな早く決めてくれるの……?」

「……っ。それは、その、冗談っつーか。何だよ、急に真面目な顔すんなよ…………

 あっちを向こうとするが、許されない。

 身体をべったり密着させたまま手であごが押さえられた。外からは雨音がザーザーと聞こえ始め、もう何十分もこのままな気がする。

 俺がうろたえて機嫌を良くしたのか、橘はいつもの自信満々な顔に口を緩ませた。

 探りを入れるどころか乗せてしまったらしい。

 ……ふん、好きなだけ乗ればいいだろ。その方が楽しくなる。

 心の片隅でそんな声がするのは、まだ内緒だ。

「パパとママに気に入られた後は、どうなんの?」

「気に入られること前提かよ……」

「そうなったらパパにも何にも言われないで、いっつもあたしの部屋に入り浸んの。放課後は二人で毎日毎日、幸せに……。あとは彼氏に、きっちり決めてもらうだけ……」

 橘の唇が弓なりに曲がると、隙間から白い歯がちらりと見える。

 本当の本当に、勝ち誇ったようなドヤ顔が似合う女だ。分かってきたことがある。俺はイジられていると知りながら、こういう顔がいつでも恋しいんだ。

「き、決めるって。何を……」

 もし、こいつにイジられるのが嫌なら?

 優位に立ちたいなら?

 簡単だ。

 そっぽを向いて、俺には興味が無いんだぞって態度で示してやればいい。もう行くからなって、今からでも小屋の外に飛び出せばいい。

 そうしないのは、別に優位になんて立ちたくないからだろう。

「えー。何をって、決まってんじゃん……」

 その先を言わせたい。

 言わせて、もっと調子に乗せてみたい。

 ……と。

 言いかけたところで、机に置かれた橘のスマホが振動した。クラスの誰かから連絡が来たのだろう。

 俺たちは突然の音にハッとして、ベッタリしていた身体を離した。

「で、出ろよ。そろそろ、あいつらに心配されてるだろうし……」

 橘はむき出しになった肌を何となく手で隠しながら、不満そうに表情を陰らせる。

「邪魔、されたくない……。まだ彼女でいたい……」

 結論を出せずにいると、振動が鳴り止んで雨音が戻ってくる。

「あたしも彼女っぽく、しなきゃいけないっしょ? 純も思い出欲しいって言ってくれたもんね? うれしすぎ……」

「む、無理せんでも……」

 俺は下がジャージのまま古びた木の椅子に座ったが、水着の橘を汚れた椅子に座らせる訳にはいかない。

 示し合わせるまでもなく……金髪女は俺のひざの上に収まってきた。

 そうして彼女らしいことを耳に直撃させてくるのだ。

 ……どうやら、俺と違って直球で来るらしいよ。

「これから純のどこが好きか、教えてあげる……」

 あまりのド直球な奇襲に俺は身体をビクつかせたが、あいにく橘の体重が乗り切った体勢のためここからは動けない。逃げられもしない。

 色々とむき出しのまま、この集中砲火を受けるしかないのだ。

「えへへ、全部なの。全部好き……♪」

「た、橘……! やめろ、そんなの……」

「だってこの方が彼女っぽいっしょ? はぁ…………全部好き」

 細い腕が首筋に絡まってくる。

 彼女彼氏関係なく、俺たちはラブハグ友だ。首筋に腕が絡められると、俺もぼうっとしている訳にはいかない。それは失礼に値する。

「でも半分ホンキでさ、全部なの……」

「ふん、趣味が悪い女だ……っ」

 そうやって悪態をつきつつも、こいつの湿った背中をでるのだ。

 こんな時間がずっと続けばいいのに。きっとお互いにそう思っていた。ベタベタし過ぎで感覚がってきたか? 緊張が雰囲気の中に溶けていきそうだった。

 時間に身を任せる。

 眼の前の女の子の声しか、聞こえなくなって……。

「冷たそうにむっとした顔も、みんなに同じくらい優しいところも、何か色々できちゃうところも……」

「俺のために怒ってくれた。俺と一緒にいて、いっつも楽しそうにしてくれた」

「え……?」

「その……っ。俺も橘の……。そういうとこ好きっつーか。ああダメだ、もう二度と言わねー……」

「だめ……。言って……。ねえ、純っ。純……!」

 とろんとした目が俺をとらえて放さなかった。

 俺も今だけは視線をらさずしっかり合わせる。

 そうしたままで永遠にいられる気さえする。

 ……『何で緊張するか、知ってる?』

 ……『好きになるのをさ、ガマンしてるからだよ? もうさ、あたしにメロメロになっちゃえばいーじゃん♪ 彼氏と彼女だもん、今日は二人でバカになっちゃおーよ?』

 前に彼氏だった時、こいつはそう言った。

 お互いがお互いに身を任せる、二人だけの世界。

 このままでは、俺の方はすっかり引きずり込まれてしまうだろう。

 でも今ならどっぷりと浸かってもいい。きっと二人で幸せになって、抜け出せなくなって、時間の感覚も抜け落ちて……。

「かれん……」

 あの柔らかい唇とも、もう迷いなく近づいた。

 橘との海での、最初の思い出。

 それは海辺の小屋での……初めてのキスだった。

 柔らかい唇と俺の唇が触れて、撫で合い、後は雨音だけをそのまま聞いていた。