第二章


「それ結局、無理してるってことじゃん……?」

 久しぶりに協力プレイを始めて十分、俺のクソみたいなパフォーマンスに業を煮やしたけやきの出した結論がそれだった。

 俺たちきようだいの間ではゲームの時間とは至って真面目なものであり、コントローラーさばきが悪ければ気づかれてしまう。しかも今回はFPSの協力プレイってのが悪かった。俺のミスで三戦も連続で落としてしまえば、プロゲーマー同然の妹が軽くムッとした顔になるのも当然だった。

〝なんじゃこのヘナチョコなプレイは。どう落とし前つけるつもりかね、あにじやよ〟

〝いやいや、学校で面倒を抱えていてな〟

〝ゆーて夏休みじゃろ。お主さては……〟

 つまり、何があったのか、と。

 オンライン対戦の結果は死活問題。

 だからこのやり取りの後に、欅によるちょっとした推理が始まった。

 俺の妹にありがちなことに、兄貴が陥っている状況だとか精神状態だとかっていうのは、こっちから説明せずとも一目で見抜かれてしまうのだ。恐ろしい。

 こやつが俺の陥った七面倒な状況を特定するのに、八秒もかからなかった。

「はぁ……。接待ゴルフ案件ですか……」

 人呼んで、引きこもり探偵ケヤキ・2ndシーズンってところだろう。

 どうやらクソパンピーな俺とプロの引きこもりな妹とでは、やはり人生経験が違いすぎるらしい。ちなみに先日の1stシーズンでは、たちばなのようなクラスメートの存在をまんまと見抜かれてしまった。なのでこれで0勝2敗ってことになる。悔しい。

 欅は寝癖だらけの長髪をいじると、ため息をついた。

 疲れからなのか、あきれからなのか、長いため息だった。多分、後者だろう。

 橘かれんの一日彼氏でなくなってから三日後、見事なくらいにいつも通りな日常が頭上を流れていた。再びあいつと会う口実もない。連絡は来るが、合宿の話題は持ちかけてこない。ほこりっぽい部屋で、外にも出ずに、ゲームとアニメと小説をローテして、いずれ全部飽きて、学校が始まる頃にはぼーっとしているだけ。

 決断は、完全に俺にゆだねてくれているようだ。

 そして今日が、参加表明の期限である。

 現実的な話をしよう。

 橘かれんは大事な異性だ。

 笑顔が明るくて、まあ多少イケイケなところはあるにせよ、疑いようもなく心根は素直で優しい女の子だ。

 あいつが笑っているところ、好きだ。

 あいつと会う度にうれしく思う。

 あいつがくっつきたがる時、もうまともに抵抗もしなくなってしまった。まあ、それは二人の時限定だろうが。

 だが、海だ。

 そうなのだ、海なのだ。

 行くべきか、行かざるべきか。それが問題だ。

 いちじようじゆんが何年も使っていない海パンを引っさげて、クラスの集まりにのこのこやって来る。金髪女はどうやら、本気でそいつを期待しているらしい。それがどれだけ馬鹿げた話かってことは理解している素振りもない。

 あいつが喜ぶなら好きにさせてやろうって、試着室では思ってしまった。

 あいつのためなら変わってもいいって、本気で思った時もある。

 でもいざ変わらなければならないってなると、こんなに重荷だったなんて予想できただろうか?

 そうはいっても、橘が大事な人だってことに全く変わりは無いわけで。

 じゃあどうすんの根暗の兄さんってことになる。

 あれだよ、基本的に夏休みってもっと楽しいもんだろ。俺はと言えば、先日のペナルティデートが終われば、こうして妹とゲームに興じる日々に戻るものとばかり思っていた。やりたいゲームがたくさんある。クラスメートとつるみ始めたからといって、そういう生活を忘れてしまったわけじゃない。

 そりゃあ確かに、仮にそうなっていようが時々は橘と遊ぶことにはなったのだろうけれども……クラス総出で海? それも一泊するって?

 俺があえてハッキリ言わずにおこうとしていたことは、妹が代わりに、それも簡潔にまとめてくれた。

「海、かあ。疲れる響き」

「……そう、思うよな」

 どうやらこやつには説明不要だったようだ。この辺の感覚は。

「ま、嫌なら行かなきゃいーし」

「そいつには仲良くしてもらってる。今になって嫌いになったってわけじゃねーんだ」

「ああ、ああ、分かるよ……煩わしい人間関係ってやつね。お歳暮、年賀状、義理チョコ、接待ゴルフ……」

「だーから、その接待ゴルフって何だよ(笑)。つーか心配すんな妹よ、お前にその時は絶対に来ない。どうせゴルフウェアも似合わんだろ」

「でも社畜候補生の兄貴には来る。上司閣下が尊敬できる人だったとして……行く?」

「……まず行かん。どうせこちとら残業組じゃ」

「だったら、何を悩む必要あるの? 今回の海と大差ないじゃんよ」

「知らんね」

 実は知らんってこともない。

 橘はそこそこ仲の良い上司なんかじゃないから、そのたとえは間違いだ。

 ふと、金髪女の笑顔がちらついた。分かる気がする。決して自意識過剰なんかじゃなしに、もし俺が当日海にいなければ、あいつはきっと悲しい顔をするだろう。

 俺にはそれが一番耐え難い。

 そういう状態、何て名付ければいいだろう?

 橘に関してはいつだってそうだ。命名不可能な感情が入り混じって、嬉しくなったり、苦しくなったりする。

 面倒、とは違う。

 すれ違い、とでも言えばいいだろうか。

 お互い大事な存在なのに望んでいることは必ずしも同じじゃない。目下のところ、それに気づいているのは俺だけのようだが。

「あいつも。あいつらも。なんで俺なんかに期待するんだってのっ……」

 目にくまをためた少女は、回転チェアの上であぐらをかいた。

「学校から逃げた側から言わせてもらうとさ。そのシチュ、超つらそう」

他人ひとごとみてーに言うんだな」

「実際そーじゃないの? 聞いてる限り、合ってんだか合ってないんだか分からないよね」

 上下ジャージの名探偵はニヤついた。

 長い茶髪をイジイジしながら、澄ました感じで言ってのけるのだ。

「学校なんて、あんなん服役っしょ服役。続けてる奴らの気が知れない。海の生き物と山の生き物ごっちゃにして地獄以外の何になるのってね。シャバに出てよかった」

「はっ、この部屋がシャバだと思うか?」

 欅は澄ました顔で肩をすくめる。

「中身はぼっちのままな兄貴が背伸びしたって、ついていけなくて当然」

「違いねーな。でも言っておくが、俺だって望んで背伸びしてるんじゃないぞ」

「ふふっ、ばーか。可愛い妹を放置した分、ゴミ兄貴はしっかり苦しめばいいのよ。ね……そろそろ、続きやろ?」

「……だな」

 ここは暗い引きこもり部屋、ディスプレイだけが明かりだ。

 かつてはこの部屋での時間が、ぼっち生活に疲れた俺をやしてくれた。憐れな根暗男子には唯一の逃げ場だった。

 そして今、再びそうなりかけている。

「ほらほらっ。そこ詰めが甘いしっ! あーあ……バカ兄貴のせいでまた負けた」

「くっ……。だから悪かったって」

「下手くそー。リア充滅ぶべしっ。ふふふっ……」

 言い訳をさせてもらうならば、下手になったのは当然と言えなくもない。

 何せ妹とゲームに熱中していた時間が別の何かに置き換わってしまったのは、別に三日前の話ってわけじゃないのだし。

 いや、それを言えばもう何ヶ月も前からそうだった。どっかの誰かさんに勉強を教えたりだとか、そいつと晩飯食いに出歩いたりだとか、無為な会話を二時間続けた末に家に送ったりとか、まあそんな感じだ。そりゃあ腕もなまるというもので。

 つまりは、それほどまでに元の生活から離れていたことになる。

 この部屋から、妹からも、遠く遠くに。

 欅は……俺なんかより、その辺は察しているようだ。

 だからディスプレイに視線を向けたまま、大音量のBGMにかき消されそうな声で、言うのだ。ぼっそりと、ぶっきらぼうな細い声で。

「……まあ、よく分かんないけどさ。私はそーゆうキラキラしてフツーな感じ、きっぱりあきらめちゃった側だし。兄貴が量産型リア充の軍門にくだってハッピーなら、そうすればいーじゃんっつーかさ……」

「はっ。なんだよ、らしくねーな」

 いや、思えば。

 俺の帰りが遅くなったのは今に始まったことじゃないが、妹が不平を言うのはまれだったかも知れない。茶化してきたことはあるにせよ。

「うまいこと言えないけどさっ。最後は自分の胸に聞くべきってこと。途中で海から逃げて、ここに戻ってきてもいーわけだし。そんなの行ってから決めりゃあいいことで。どうせ逃げた後でクラスでハブられても、兄貴は気にしない。そうじゃない?」

「……ふん、なんだよ真面目になって。俺は可愛い妹を放置したゴミ兄貴じゃねーのか?」

「いくら私でも、兄がリア充になってひがんだりはしないかんね。みっともない」

 ジトーッとした目つきが、一瞬だけかすかに気遣いめいた色をのぞかせ、またぷいっとあっちを向いてしまう。気まぐれな奴。

「ま、どの道さ、その彼女さんとやらには会いたくはねーんだけどなっ。そこんとこ、気をつけろよなっ。ヨロシク」

 彼女とやら。

 彼女なんかじゃねーよ。

 けど一つ言えるのは、あの金髪の女子のせいで、もう前とは別の世界に引きずり込まれたってことだ。

 それは俺の、夜の過ごし方にも如実に表れている。なんとあの一条が、がりにはこうして、リビングのソファーでスマホを開くのだ。ちょっと前なら体をいた後はすぐに勉強していたのに。

 橘かれんと二人で街をめぐって、一緒に買ったスマートフォン。

 毎日寝る前にはあいつと電話をする。きっと今日もだろう。

 画像ファイルはあいつとのツーショットばかり。そのうちの一枚は……ダメだ、恥ずかしくてまだ慣れんっての。

 あいつの唇が、俺の頰に触れている写真。

 この二メガバイトの画像があいつとの大事な瞬間を切り取ってくれている。これを眺めていれば、一緒に居なくても穴を埋めてくれる気がするんだ。頰が緩んで、気持ちの悪い顔になりそうになる。

 けどどこか歯車が一つ分くらい、合わない女の子でもある。

 そのことを今になってやっと実感させられた。

「あらあら~。彼女ちゃんでも映ってるのかしら~?」

「ぐっ……。のぞきなんて止めてください!」

 笑顔いっぱいのアリカ叔母さんが画面を覗き込もうとしてきたので、とっさにスマホを引っ込める。

 隣に座ってきたのは、何を隠そう俺たちきようだいの絶対的保護者。

 そして彼女だって、俺の帰りが遅いことくらい知っているはずだ。いやそれどころか、夏休みの初日にれいな格好で外に出ていったというだけで、それは既に自白しているようなものなのかも知れない。

「もうもう、恥ずかしがっちゃって! 学校生活……最近は楽しんでるみたいね?」

 だが叔母さんは大げさなくらい明るく言った後に、諭すように目つきを優しくする。俺はそれだけで悟った。

「欅のやつが何か吹き込んだんですか。俺がに入っている間に」

 青春世界の教祖様が小さな笑みでうなずいた。

「お兄ちゃんのこと、ちょっと心配してるわ」

 あの引きこもり女め、余計な手を回しおってからに。

「心配するのはこっちだって、言っておいてくださいっ。年がら年中部屋でゲーム漬けなのはあいつなんですからねっ」

「ふふふっ、そうね……。でも欅ちゃんはね、あれで後悔したりしないと思うわ」

 アリカ叔母さんの青春教義は過激だ。

 ぼっちは青春世界では重罪。しかも高二の夏休みについては口うるさい。この時期に童貞をぶん投げちまうのが、勝ち組になる条件なんだとか。

 もちろん俺を行かせようとするだろう……が。

 いや、叔母はここでは無理に強いるようなことはしなかった。そうすれば俺がムキになって行かないだろうと思ったのだろう。

 だから代わりに、ちょっとした言葉だけを残していったのだ。

「いいこと……純君? 『何もしない』って選択がね、正解になることは少ないわ。どうしても後悔につながっちゃうものなのよ。だって、あの時は何もしなくて正解だったーだなんて、十年後になって思う自分が想像できる?」

「う、それは……」

「欅ちゃんが学校をほっぽっても何も言わないのは、あの子が自分の道を自分で決めたからよ。ま、最後に決めるのは、もちろん純君ってことだわね」

 ここまで家族総出で背中を押されるどころか家からばされちゃあ、そりゃあ居場所がなくなるってものだろうに。俺は思った。


 それで、決めたわけだ。

 重い腰が上がらずに、まるで地べたをいずるような気分だ。

 俺は海風の香りがする場所にやってきた。

 黙っていても答えは出ない。それは確かに道理だった。

 俺には選択肢がたくさんある。夏休み中の学生なんて身分では、特にそれが言えるのかも知れない。

 だが、それにしてもだ。

 何もしない。

 改めて考えると、何と甘美な響きだろうか。

 どっかの金髪さんに出会ってさえいなければ、今年の夏もこれが唯一無二の最適解だっただろう。

 しかしながら、時代は変わった。

 あいつの大げさな反応を目の当たりにすれば、確かに『何もしない』は選択肢としては地雷だったということを思い知らされる。出会ってしまったばっかりに、だ。

 バスから出るや、橘かれんはすぐに駆け寄ってきてくれた。

 俺も俺で笑みがあふれるのを見せたくないから顔がムッとこわばるのだが、お構いなしに手が握られる。

 前を向いたらダメだ。向いたら死ぬぞ。

 …………前を向けば、夏空がよく似合う笑顔がそこにあるから。

 ほら、今日もまた見られた。たったそれだけの事で、ここに来たのが正解だったかもって安易に思ってしまうのが、奇妙なことに何だか悔しい。

 そうだ、どれだけ面倒だと思っていてもこの顔を見たいという気持ちは確かにあるんだ。

 しかし、ぼっち的ではない。こんなの。

「えへへ。純、来てくれた」

「……正直、だるかった」

「ふーん? なのに来たってことはさあ……」

「別に、誰のためとかじゃねーし。……気まぐれだっつーの」

 金髪女は口を緩ませる。

 そしてキョロキョロと辺りに視線をやった。

 一瞬ためらったような顔を見せ、紅潮させて、そのままぐんぐん頰まで近づいてきて、

「……ちゅっ」

「わああ! おい! その際どいあいさつ、常態化させてんじゃねーし!」

「だってっ、今のうちじゃん。みんな居るし、次はいつできるか……」

「次とか、やめろ……。もう一日彼女デーじゃねーんだぞ」

「ふふっ。純の元カノちゃん、ちょー未練たらたらなんだからねっ」

「も、元カノ……」

「てゆーかさ。来てくれたこと、マジで後悔させないから」

「後悔ねえ。根暗野郎がここにいれば、後悔するのはお前かも知れないんだぞ」

 前のクラスではそれで面倒なことになった。

 例えば、学園祭の時。クラスの雰囲気とか、そういう話。俺がいるだけで空気が悪くなるだなんだってめたこともある。まあこれは完全に別件だろうが。

「俺もまあ、なんだ、極力努力はするさ」

「努力なんてしなくていーよ。たくさん遊ぼ? ふふっ……あたしのリア充さん♪」

「つーか、おい、あんまひっつくなよっ。今日はみんな居るだろーが……」

「来てくれてありがと、純……。えへへ……純♪ やったぁ!」

 ギャルが腕にひっついて無表情になるガリ勉の図。何度目だ、これ。

 長旅を終えて、クラスメートが続々とバスから降り始めていた。参加率が驚異の九割超。こいつら全員、夏休みの何日かを、我が妹に言わせれば〝接待ゴルフ案件〟なるものに参加しようというわけだ。

 よくもまあ、疲れんよな。

 妹にゴルフウェアは似合わんだろうと言い放った手前なのだが、俺も俺で、人のことはとやかく言えん。

 ま、いいか。

 数日間だ。

 ちょっとだけ明るくいこう。

 愛想よく、愛想よく。

 たったそれだけの話じゃないか。

「よっ、アツアツのお二人さん」

「あ、弥生やよい!」

「こっち向いて。ちーず」

「ちーず!」

 橘の笑顔に釣られて、とっさにぎこちないピースサインを作ってみせた。

「ち、ちーず……」

 シャッターが押され、灰髪女が撮った写真を金髪女がニヤニヤしながら確認する。俺はそれを後ろから見るのだ。

 真夏の私服姿。丈の短いジーンズから白い足首がさらされている。白いヒールも涼し気だ。前のデートの時よりは旅行らしくカジュアルな装いだが、一体、夏用だけで何着持っているんだか分かったものじゃない。

 お前のようなお洒落しやれさんのおかげで、一体ぼっちがどれほど生きにくいかって。

 服なんてのはな、俺たちのような派閥には単なる布切れなんだ。金をかけたら負けなのだ。趣味につぎ込むのが正解なのだ。だがそういうとがった思想を持っていると、こうして私服だらけの集まりにブチ込まれた時に苦労をするものであって。

 さてさて、そのサンプルはと言えば、この場合でも我が貴重な同盟者だった。

「一条君……来てたんだね」

 後ろからの声に、俺はくいっと振り返る。

まつ君。来たのか」

 明らかにサイズの合っていないチェックのシャツ。

 それに若干ダボついたジーンズ。

 そうそう、見れば一目で安心するのはこういうのなんだ。仲間たちがここに居る、といった感じだ。俺も橘に私服についてあーだこーだ言われるまではコレに近かったものだ。

 これぞ服飾界のパンピー共を黙らせる、高名なオタク系戦闘服。

 の業界では我々は無法者も同然。破壊的なディテールの数々が、海外のマフィアがスーツばっかり着ているのと同程度の恐怖感を表現できる。例えば運動靴にボロが見え始めているあたり、今日のコーデはかんぺきである。……まあ小松君は全く太ってもいないし、シャツをインしてもいないので、その辺りはちと現代的ではあるにせよだ。

 俺の装いはと言えば、今じゃ無難なモノトーンの上下になって、橘と一緒に歩いていてもめっきり文句を言われなくなっちまった。まあ世間的にも普通に見られるファッションってわけだ。

 昔はよかった。

 小松君への皮肉でってわけじゃないぞ、割と本気だ。

「まあ、その、なんだ」

 俺はその破滅的なファッションについてあれこれ突っ込むよりも、もっと適切な言葉を探した。

「今回も助け合おうな……」

「ふふっ……何さそれ。一条君ってば、まだぼっちのつもりなんだね」

 今回の目標は何だろう。

 それはクラスでの立ち位置を守りつつ無難に切り抜けることだ。

 しかもそれでいて、まあこれはできればだが……あいつが楽しんでいるところ、俺のヘマで崩したくはない。俺のことを求めてくれたんだ。求めてくれている最低限くらいはしたいものだ。

 さて、ところで。

 そもそも来たくなきゃ来ないでも良かった小松君がここに居る。

 その意味にまでは、この時はまだ頭が回らなかったのだが。頭の中が、相変わらず自分のことばっかりだったわけで。


 そもそも海って何をする場所なのだろう。俺は思った。

 海水浴場だろ? 塩水に入って泳ぐんだろ?

 ってことで紺色の海パン姿で貧弱な身体を晒す羽目にはなった。

 けれど、どうにもこうにも、一体何をすればよいものか。あまりに分からず手持ちなので、やはりこの場も切り抜けねばならない。

 ずっと見てみると……白い砂浜では、男女がいつもの固定化されたグループに分かれて、思い思いの過ごし方をしているようだ。

 橘たちのグループが波打ち際でビーチボールを青い空気に打ち上げているかと思えば、運動部系の男子連中は、あれは……スイカ割りか? 輪の中心にいたやつがこんしんの一振りを外したようで、「ぎゃはは」と一際大きな笑いが起こった。すると橘たちもその声に反応して、輪に加わっていく。

 だが当然、ここで加わらない奴もいる。

 向こうの方で砂に絵を描いたり、首以外全部埋まったり。

 俺みたいにかたくなに一人がいいってわけでないにせよ、どうやら隅っこを好むグループは確かにあるらしい。なかむら達のオタクめな派閥はどこへ行った? 見る限り、砂浜にはいないようだが。

「ふむ……お前は橘と仲が良かったのではないのか、一条?」

 低い女性の声に背筋が伸びた。

 おいおい、心臓にりーな。隣のビーチチェアに腰を下ろしたのは、水着姿の担任、しらいし先生だった。

 黒い水着に白いナイロンのジャケットでも、いつもの軍人感は健在だ。普段がポニーテールの堅物顔に黒スーツであることを考えると大分印象が柔らかい方だが、何と言ってもサングラスの威圧感に圧されて敬礼とかしそうになってしまう。

「加わらないのか?」

「反省文に懲りましたので……っ」

「私の前でおいたをしなければ黙っているさ。まあ流石に、保健室のアレは私に言わせればやり過ぎだったがね。お前が懲りてくれてよかった」

 でも、先生の言うとおりだ。加わらないのか? 加わるべきじゃないのか?

 思い出を作りたい。

 あいつのそんな願いに引き寄せられてここにやってきたんだ。

 だったら無理をしてでもあの輪に加わるのが筋ではあるはず。まあ俺らの関係について氷堂辺りがみんなの前で茶化してくるんだろうが、どうせ橘もそれがお望みなのだろう。ならここで黙って座っている理由はない。

 しかし……何か違う。

 あの騒がしい中にはどうしても足が向かん。

 どうしても脳が命令してくれないのだ。あそこに行くべきだ、と。

「まあ、その、先生が来られたのが意外でした。こんなチャラくてよう目的も分からん集まりに」

「見ておくにはいい機会だからな」

「見ておく?」

「クラスの全体像を、だよ。教壇からでは見えてこない情報があまりに多過ぎる」

「はぁ……」

 黒髪の女教師は長い指を砂浜に向けて指した。

「橘とひようどうはいつも一緒にいる。おぎいいづかも、いや運動部というものはどのクラスでも一箇所に、それも中心に固まるものだ。その周辺に大人しい生徒が集まって小さな派閥を作る。また、ずっと一人なのも往々にしている。

 こうして課外に出ると、そういうのが教室よりも露骨に出る。私はここでは何もせんよ。だがこうして常に見渡しておかなければ、必要な時に助けになれんからな」

「……スクールカーストってやつですか」

「私はそれを上下関係とは思わないから、カーストと言うのはな……。ただ誰と何をしているのが心地よいか、というのは現実としてある。人間の集まりである以上、誰とだって仲良くできるわけではあるまい」

 ああ、でも、なるほど。

 多分、この状況で橘に近寄れない理由はそれだ。

 海にやってきて、何をすればいいか分からないんじゃない。

 誰といればいいか見当がつかないのだろう。

 思えばいくら橘とは仲良くても、その周囲とは大して親しいってわけでもない。氷堂とそこそこ話すのも橘が間に居てこそ。荻野辺りとは軽い冗談を言い合う程度だし、てんじゆいんはあれで大分静かな女子だ。

 だから橘以外とは、実は大して仲良くない。

 だがそれでもなお、クラスの女王様たる橘は俺にしつこいわけで。

 しかも最近は何人かの勉強の面倒を見たし、話す人間も増えた。

 今となっては、まるっきり根暗ってふうには見てはくれない。

 こりゃあ、身分的にはかなりの宙ぶらりんだ。気軽に近づけないのも当然ってところだろう。

 もちろんと言うか、そうしているといずれは向こうで遊んでいる橘と目が合う。

 あいつ……今は一緒に選んだ赤い水着姿だ。

 せっかくの水着のくせに、俺を見るや心配そうに目元を曇らせる。俺が慌てて視線をそらすと、ムッとした顔で近くまで駆け寄ってくるのだ。

 金髪女は頰をぷっくりさせた。

「もうっ、純ってば。……ウチらと遊ぼうよ?」

 行ってやれよ、一条。

 そのために決心して来たんじゃないのか?

 橘、心配してるっぽいぞ。

 しかしあの輪に入れば何が起こるか。想像するだけで足から力が抜ける。

 俺にスイカ割りの番が回ると、今やっているみたいに、周りからウェイウェイ歓声を上げてあおるに違いない。もちろん、橘もだ。みんなより大きな声で、純、純って呼んでくれるのが目に浮かぶ。

 そういうの、そりゃあ悪気があってやっているんじゃないだろう。

 でも俺は……俺は。

 揺るぎようのない結論が一つだけある。

 ジャンル違いだ。

 この辺の機微。

 ずっとクラスの中心にいる奴でも、分かってくれぬものだろうか。

「……悪い」

 いや、分かってもらおうとしたこと無かったろ。

 拒む度胸だって無かった。それに遠足の時は、行事自体が半強制だし、それについていくのが精一杯で無理ができた。あの日から俺の立ち位置が変わったことで、一番喜んでいたのはこいつだったはずだ。

 だからこそ今になって拒んだことで、橘の顔色が変わった。

「え……?」

 彼女は胸を撃ち抜かれたように、一歩片足を下げる。

 そして横にいる担任は、その様子に興味をかれたのかかたまゆを上げた。

「ちょっとだけ、部屋でも行って休んでくる。いいだろ……後でここに戻っから、さ」

 思えばこれが、俺が初めて橘かれんを拒絶した瞬間だったのかも知れない。ジャンル違いだなんて今に始まったことじゃないのに。

〝そんな深刻そうな顔、すんなよ〟

 引きつった笑みでそう伝えようとしたが、あまり効果は無いようだった。