第一章


 クラスにおいて唯一のぼっち仲間であるまつ君が俺には最後のとりでだった。

 彼はその時、まあともかく色々あって右隣の席に来ていたのだが、こうなると俺はもう、彼がいる右以外は向かぬように気をつけねばならない。何せそれ以外の方向を向けば……ダメだ、やめろ。あっちを向けば必ず面倒なことになる。

「あはは……。そだよね、いちじよう君の言う通りだよね……」

 頼れる我が同盟者はそばかすの多い童顔に苦笑いを浮かべた。その上で、俺の話したことに対して中身の無いあいづちを打つのだ。

 多分、ちょうど俺の背後で行われている会話が目と耳にしっかり入っているがゆえの困り顔なのだろう。だが知るか。もうすぐしらいし先生がやってきてロングホームルームが始まる。あと一時間もしないうちに夏休みが始まり、明日からはめ込んでおいたゲームの数々に集中できるに違いないのであり……。

 ほらそこ、九時の方向に敵影だ。

「海行きたいー!」

 クラスで一番目立つ金髪のギャルにして、俺の一つ前の席にいるたちばなかれんが何度目か分からぬ嘆きを漏らせば、

「あー、それそれ……。行きたいよねー…………海」

 その左隣の席にだらりと突っ伏している脱力系ギャル・ひようどう弥生やよいが共鳴する。

 こいつの灰色の髪も、橘の金髪のようによく目を引く。その色によく似合う感じの、いかにもやる気なさそうな性格をした橘の親友だ。

「うみー」

「うみー」

 ああもう、行きたきゃ勝手に行きゃあいいだろ! こいつら、さっきからこれしか言ってねえ!

 そして三人グループの最後の一人であるてんじゆいんももが、俺や小松君と同じくこのやり取りの意味が分からないといったように、ちと困惑気味の声を漏らした。

「そう……。行きたいなら行けばいいじゃない……」

「むーん」

 氷堂の間延びした声が答える。

「……桃子姉さんも来るウミ」

「えぇ……私が?」

「そうウミー! えへへ、桃子の水着見たいし♪ 嫌?」

「仕方ないなあ……。じゃあ、女の子だけで行くなら……」

「えー! 桃子姉さんスタイル良いんだからもつたいいってっ。委員長ファンの男子が喜ぶよー」

「い、嫌よ……っ。私、これだけは譲れないからねっ。もし男子が来るなら、水着なんて持ってかないから、絶対……」

 だが、この空気。

 俺や小松君の事情に関係なしに、ただただ軽くて明るいこの空気。

 終業式がつい先程終わって、教室に担任が来るのを待っているような状況だ。もちろんこのクラスなら静かになれまい。いつもの昼休みよろしく、どいつもこいつも席を移動して仲良し同士で寄り集まっている。

 つまり浮ついていたのは、この女子連中に限った話でもなかった。

「はぁ……。だってさ……高二の夏じゃん…………?

 左で橘がうっとりしたような声を漏らす。

「みんなにとっても特別っしょ? それにあたし、去年は海いけなかったもん……」

「ははっ、かれんちゃんぼっちかよ。でもさー、今年は違うっしょ? 今のかれんにはさあ、いるもん……ね。夏休みだもん、ラブラブしなきゃだよねー」

「や、やめてよ……。本人の目の前じゃん……」

「顔赤いウミ。かれんちゃん超かわいいウミー。……ご本人クン、来ると思う?」

「来て欲しい……。絶対楽しくなるし……♪」

 ご本人ってなんじゃらヒキ。知らんヒキなあ。拙者には関係ないヒキね。つーか今、小松氏とのぼっち会議で超絶忙しいヒキよ。

 海なんて下らん。あんなの塩水がたくさんあるだけだ。

 俺はやはり小松君との会話に集中することにした。

 議題、というか彼がわざわざ俺の隣の席まで持ってきた相談事っていうのが、『夏休みのアリバイ工作』についてだ。ぼっちあるあるの一つに、親にいっつも独りでいることを指摘される、というのがある。彼は今まさにそれについて悩んでいるらしく、俺の叔母もその辺のツッコミはたまに入れてくるので、まさに同じ悩みを抱えているというわけだ。

 本能に逆らって群れることを放棄した俺らは、後ろのウミウミ族とは違う。日々住みに引きこもることに全力を注ぐヒキヒキ族、またの名をニートである。そういう人種が生き残っていくには知恵がいくらあっても足りないものだ。

「そうだな、ほら……クラスメートとネット対戦してるって言えばウケは良いぞ」

「ゲーム、かあ……。何か、またかって言われそうじゃない? いつまでやってんだー、とか。暗い、とか」

「暗い奴なんていくらでもいるさ。暗いなりに一人じゃないってことが、保護者って人種には重要なんだ。ほら……何なら、俺の名前を使ってもいいし」

「ふふっ。何かさ、変なの」

「な、何がだよ?」

「一条君とはこんなに話してるのに、一緒に遊んだりしたこと、まだないんだもんね……」

 むむ、それは確かに……。

 いまだに俺は他人との距離感ってものをつかめないでいた。

 一人を除けば、クラスで一番近い仲なのが目の前の小松君だったりする。ぼっち仲間としてはそこそこ長くなった。彼と一緒に遠足も切り抜けてきたし、体育でペアを作る系のランダムイベントも乗り切ってきたのだ。ぼっちに厳しい学校社会においては、一種の運命共同体のようなものだ。

 だが、ぼっち仲間? ふむ、ぼっち仲間ね……。

 どうだろう、この言い方は妙に安心させてくれる。〝ぼっち仲間〟ってのは、ぼっちが二人集まれば成立してしまう。単に事実を言っているに過ぎない。クラスメートっていうのも同じで、書類上の事実でしかない。何にせよ他人との関係に名前をつけるなら、これほど気安い基準もない。事実は事実だしな、仕方ないんだ。

 しかしこれが一歩進んで友達となると……俺はそう思っていても、向こうにとっては違うかも知れない。さりとてその逆だと何だか申し訳ないし、それならいっそ最初から宣言なんてしなければ楽だ。

「別に、俺はだなあ」

 呼んでくれればどこにでも行くよ、って言おうとした。

 でもそれって、こっちからは呼ばないって意味になっているようで勝手にモヤッとして。

 だから言葉を飲み込んで、ふと後ろめたさを感じてしまったりもするのだ。

「ふん……お互い友達がいねーと大変だよなっ。えっと、つまり、なんつーか……」

 お互い大変だしさ。

 俺らはもう友達ってことで……よくないか?

 そんな簡単な言葉がのどの奥につっかえて出てこない。

 もちろんそのまま出てこないでいるなら、二匹の根暗が黙っているだけだ。クラスのけんそうが響けば響くほど気まずさが募る。

 先に耐えられなくなったのは俺だった。

「なーんかさっ、気にすんなって。ぼっちの悩みなんて、裏を返せばそんなもんだ。向こうで騒いでる奴らを見てみろよ。どこの誰べえが別れただの、誰のなにがしが呼び出しらっただのって、心底どうでもいい話ばっかだ。こちとら、ぼっちで全然ハッピーだってのなっ」

「ふふっ。一条君は、まだぼっちなの?」

「……あったり前だろ」

「人気者。ぼっちの希望」

 少年は優しげな表情を浮かべて言う。他人ひとごとみたいに。

 俺はまだ、ぼっちか?

 そうだ、ぼっちだ。他になんと言えばいい?

 絶対に絶対に、そうなのだ。

 だからここで一つ証拠を出そう。

 左では、未だに女子連中がウミウミ言っている。だが俺に言わせれば、せっかくの長期休暇に海なんて馬鹿げている。誓っていうが、これは偽らざる本心だ。

 家を出た時に最初に考えるのは、いつになれば帰れるか。早く帰ってゲームがしたい。学校なんて行きたくない。

 夏休みって、その繰り返しに疲れた心を休める時間だ。じゃないか?

 そういう風に確信してしまうあたり、俺はやはり、まだまだぼっち野郎なのだ。人間としての根っこがぼっち向きである以上、たとえ今は多少の交友があってもそれは偶然に過ぎない。もし臨時にクラス替えなんてしてみれば、それはもう悲惨な結果になるに違いないのである。

 ……しかし俺を取り巻く現状は、もう少しだけ複雑なのだった。

「ねえ、じゆん……。こっち、向いて……?」

 ぼっち会議の途中で、とうとう制服が引っ張られた。しかもご指名と来た。こうなればシカトしているわけにはいかない。

 俺は渋々左を向くと……まあ、いつものあいつだ。

 橘かれん。

 俺のことを下の名前で呼んでくれる唯一の同級生。

 クラスの中でも外でも友達ばっかりな、話題の中心。

 派手な金髪がトレードマークな、学年の有名人女子。

 一学期のはじめ頃からか、俺はあろうことかそんな殿上人様の勉強に付き合っていた。図書室で、二人っきりで。『一条純』なんていう墓のように地味な男子が、多少なりともクラスに引きずり込まれてしまったのも元はと言えばこいつのせいだ。

 俺はまだ、ぼっちなのか?

「あたし、純には一緒に来て欲しいってゆーか……ダメ?」

 こんなことを、クラスメートの前で、面と向かって言われてしまうのに?

「た、橘……」

 俺なんかを頭数に入れてくれる女の子がいる。

 もう知ってる。そりゃあこいつなら、俺を放っておいたりはしないだろう。

 そういう大事な異性がいてうれしいって言葉にできるほど俺も素直じゃなかったし、かと言ってきっぱり邪険にできるほどひねくれてもいない。

 実際この前、成り行きで言っちまったしな。

 夏休みの遊びも、ちょっとくらいなら付き合うって。

 でも、ちょっとはちょっとだ。

 カフェでお茶するとか、俺のダサダサな服を選んでもらうとか、そんな感じ。

 俺が海? それはあまりに、どうかしてる。

 もしそうなれば、今度こそ橘とどうなっているかがクラスに露見してしまう。今までのようにはいられなくなってしまう……。

「ねえ……? お願い。ガリ勉がいないとさ、始まんないじゃん」

「ほらー、ガリ勉。可愛い彼女が、推してくれてんよ」

「彼氏じゃねえ、ただの臨時ボランティア教師だ。海は専門外なんだっ」

 橘が「ぶー」と頰を膨らませると、氷堂が静かにニヤニヤしながら言う。

「でもさ、真面目な話。一条にとってもたった一度の高二の夏じゃん?」

「そうだ、高二の夏は一度しか来ない。つまり黙っていれば受験生になっちまう。だったら行くべき場所は海じゃなくて夏期講習だ」

「うへぇ、安定のガリ勉……。赤点でもないのに出るとか……」

「白石先生に出ろって言われたろ。まあ俺は自由参加でも行くけどな」

「純とうみー。うみ……」

「あーあ、かれんちゃん可哀そう」

 ……元はと言えば、俺は断れない奴だからこそ橘の勉強に付き合ったのだ。

 金髪女がせがんでいる顔を見ればきっと、また首を縦に振ってしまう。

 とはいえ目をらしたまま黙っていれば、こうしてビミョーな空気が俺たち全員を襲ってくる。

 一方では、前には派手な女子のグループがいて。

 そして他方では、右には黙っているにせよ、このやり取りに注意を向けているに違いない小松君がいるのだ。

 いと気まずし。あに気まずからずや。

 沈黙を破ったのは、こいつら二人の保護者役だった。

「はぁ、弥生。あと、かれんもねえ……」

 俺の左隣の席で、クラスの委員長、長い黒髪の天樹院桃子がため息をつく。

「本気で私達三人と、一条君だけで行くつもり……? いくら一条君だって、そんなの行きにくいに決まってるじゃない」

「ほほう、さすが姉さん。それは一理ありますなー」

「他のみんなも誘ってみるのはどう? 白石先生に引率してもらえば、ホテルも取れるかも知れないわ。希望者だけでクラス合宿ってことにすれば」

 いやいや、いやいや。委員長、それはねーよ。

 多忙を極める若手教員が日程上の問題をクリアし、仮に正式な会議まで通したとしよう。

 この終業式というタイミングで、数十人規模のホテル予約やら、何から何まで首尾よく取り付けたとしよう。

 だが、相手はあの白石先生だ。

 俺と橘の現場を押さえて、反省文まで書かせた堅物教師だ。

「おいおい委員長。あの人は、まず受けないだろ」

「厳しい人だからこそ、近くで見てもらえば変なことはできなくなるじゃない。ほら、その……かれんと一条君の仲なら…………分かるでしょ?」

 二人の保護者めいた黒髪の女子は、少しばかりぷくっと頰を膨らませ、諭すように言った。

「私が見張ってるだけじゃ、どうせ二人で仲良くするんでしょっ。この前、二人で街中でやってたこと……。一条君、あれはやり過ぎなんだからねっ」

 だったら俺を置いて海に行ってもらって構わんのだぞ。

 しっかし、どうやら俺は既に委員長にも危険人物扱いされているらしい。

 橘は相変わらず楽しそうにニヤニヤしているが、こちとら思い出しただけで胃が痛くなるのだ。その時は緊張でかき消されるのだが、後になって振り返ってみると特に……。

 そうだ、でも言ってみれば男女交えて夏休みの旅行だぞ。

 あの堅物教師がそんなのを認めるはずがない。俺と橘は保健室でよろしくしすぎた罪で何枚も反省文を書かされた。いくら大人しい天樹院さんとはいえ、そんな提案が通ることはあり得ない。

 けてもいい、俺が海に行くようなことにはならない。

 大体、夏休みは部屋でゲームと相場が決まっているものなのだ。

 我らヒキヒキ族は自由を愛するゆえ、クラスの用事などで二日以上も埋めてはならぬのだ。

 だから俺は小松君の方を向いた。

 だってさ、お前なら分かってくれるだろう?

「一条君……だいぶ人気になったね(笑)」

 うっせいやい。じゃあ代われ、頼むから今の状況を代わってくれ。

 ……ぼっち仲間とは言いつつ、当の俺自身がぼっち的ではなくなっていることにも自分で気づいていないではなかった。

 ところで、一学期最後のロングホームルームにやってきた白石先生の反応は俺が予想していたものとはまるで違っていた。

「うむ、よかろう」

 委員長は賭けに勝った。

「どうせお前らは私抜きでも行くのだろう。ならば担任たる私が監視できる形のほうが望ましい。心配は無用だ」

 黒スーツの女性教師はしくもそう言ってのけた。


「よ、かれんの彼氏。……もうキスくらいはした?」

 ホームルームも終わって今日も図書室に行こうかと思案していた時、サッカー部のおぎに声をかけられた。

 こいつ、俺と橘の関係を気にかけているらしい。何かとおすすめの店なりデートスポットなりを、頼んでもいないのに教えてくれたりする。

 しかしこの〝もうヤッたの?〟とか〝キスくらいはした?〟があいさつわりになっており、陰キャ的にはへきえきである。何だか、良いゴシップ源として育てられてはいないか?

「だーかーらー。そもそも彼氏じゃねーっての」

「……ヘタレ?」

「言ってろ。じゃあな」

 そして教室から出てすぐ、今度はまた別の男子生徒から声をかけられる。

「よう、元ガリ勉陰キャ野郎。……元気?」

 彼はなかむら。中村れん

 俺とは色々あったクラスメートだが、まあ過ぎたことだ。今じゃこうして冗談っぽく声をかけてくる。いつものように、後ろにオタク仲間っぽい連中を引き連れていた。一時期はこの男からも人が離れていたのだが、もう大丈夫みたいだ。

「元イキリオタク」俺は肩をすくめて答える。「そこまで元気じゃねーな。どーした?」

「俺らカラオケ行くけど、その……一条もどうよ?」

「今日はその……ちょっとな」

「何だよ、またそれかよ。今日も橘さん?」

「そんなんじゃねーし」

「おっけ、分かった分かった。あれだ……優しくしてやれよ?」

「だーから分かってないだろ! 勘違いすんなっての! まあ誘ってくれて、あんがとな」

「真面目にさ。いずれは、来いよな。一条には来て欲しい」

「ああ、まあ……。いずれは……」

「この前はさ、馬鹿にしたのは悪かったよ……。でもさ、クラスのことも……な? ちょっとくらいは。ちょっとでいいんだよ」

「……おう」

 それで俺は再び歩き始める。

 いや、実際は付いていっても良かったのかも知れない。さしもの橘かれんだって、終業式の日に図書室には来てはいまい。それに来ていたとして、今から一言連絡を入れておけば不満ってことはないだろうし。

 なのに今日は乗らなかった。

 いずれって、いつだ?

 クラスに目を向ける自分を、想像できるのか?

 そうして廊下に出ると、放課後の騒がしさがまだ肌で感じられた。

 どこそこのカフェに寄ろうだの、部活がかったるいだのと。夏休み前とあってか音量が大きくなっているようだ。やがて話し声が耳の中でがやがやしたノイズに変わり、誰が何を言っているのか判別できなくなる。

 そりゃあ夏休み前なんだから、辺りの雰囲気が底なしに明るいのは当然だ。だからこそ余計に自覚できてしまうのだ、俺だけがいまだ取り残されているってことが。

 リノリウムの硬い床を一歩一歩踏むごとに、正体不明の不安が募る。

 どいつもこいつも人並みには良い奴らだ。まあまあ俺に良くしてくれるし、だからこそ同じだけの好意で返さなければなんて考えてしまう。

 でも、どうやって? 俺も同じように声をかけてやればいいのか? 俺なぞにできることは多くない。趣味だって合うかもわからないし、俺の中身を知った人間は例外なく失望するだろう。

 だからあらゆる好意が重荷のようにのしかかって、かつて教室の隅っこにいた頃を思い出してしまう……。

 ぼっちになる奴には理由がある。

 他人に少しは受け入れられて、改めてそう気付いた。

 きっとその方が楽だから、心の何処かでは一人になりたいと思っているのだ。

 好きでぼっちになっているわけじゃないと思っている奴ですら、うっすらとそう望んでいる。

 その証拠に、いざ誰かと仲良くなると感じるのが居心地の悪さだ。それが申し訳なさ過ぎて、気持ちを隠したい余り大嫌いだったはずの人付き合いを余儀なくされて、しまいにはぼっちでもよかったと思うようになる。世話ねーよ。

 ……前から毎日図書室に通っていたのも、家族やら何やらそういうのも全部含めて、少しくらいは一人になりたかったからだ。

 一年の頃なら実際にそうなっていただろう。

 そしてその願望は今だって根強く残っていたりする。クラスの輪に何となく入った近頃でさえ、隅っこに逃げたくてげんなりすることもあるんだ。一番距離が近い妹とだって、基本的には付かず離れずなのに。けやきは長く一緒だから距離感も心得てくれている。だが、他人集団のクラスメートにそれを求めるのはフェアとはいえん。

 まあ、最近は図書室ですら言うほど一人になれねーんだけどな。

 そう言えば、最後に一人になったのはいつだ?

 トイレか? トイレに住めばいいのか?

 そうするわけにはいかないので、足はいつもの習慣で図書室に向く。今日という今日は橘も来ないはずだ。今日はそれに賭けよう。

「あ、やっと来た……♪」

 ……いた。

 はるばる歩いて、静かな図書室の奥の窓際。陽の当たる場所で。

 明るい髪の少女は、俺が来るや笑いかけてきた。

 突き抜けるような青空を背に、今日も橘らしいあの悪戯いたずらっぽい顔を見られた。

 白い夏服で、細い素足を机の上でぶらつかせている。季節は暑くなりはじめていたが、あいつは話し始めた頃と何も変わらずニヤけている。

 何だよ、今日もいんのかよ。

 いや……今日もいてくれた。いつもと同じ顔で。安心させてくれる。

 多分、どっちも同じくらいは本音だ。

「その……うっす」

「さっきはウケた。もう……純ったら、どんだけ逃げたいのさ」

「テスト終わったのに、何の用だよ……?」

 と言うと、途端に橘は心配そうに上目遣いになる。別に何処にも逃げやしないのに、シャツの胸のあたりを引っ張ってきた。

 何か変なことを言ってしまったのだろうか。不用意に傷つけてしまっただろうか。俺の方まで不安が伝染してくる。

「フツーに会いに来ただけ…………ダメ?」

 金髪女は目で何かを訴えてきた。〝ウザくして、ごめん〟って。

 でも俺は……会いに来てくれて、ほんとはすごくうれしかったのだ。だからしっかりそう言ってやれないのがむしゃくしゃする。彼女のしゅんとした顔を見ていると、もうそれだけで悲しくなって。

 会いに来ただけ……? 可愛すぎるから、やめろ……。

 言ってしまえば、それはこっちのセリフだった。会えるかも知れない。ここなら教室と違って二人っきりになれるかも知れない。ちょっとだけ……思ってた。

「会いに来た? さっきも話してただろ」

「ばか……。教室とは色々違うし、二人っきりにもなれないし……」

「テストは終わった。放課後に会うには、もう用済みかと思ってさ」

「やめてそんな言い方…………寂しい」

「そっか、ごめん。別に嫌とかじゃ、ないからな。俺に遠慮とかこれからも一切しなくていいっていうか、その……来たきゃ来いよ」

「うん、そうする。えへへ、優しい……」

 始末の悪い事に、この日の図書室は来た時から他に誰も居なかった。

 テストも終わり夏休みを控えた日とあっては、受験生がここに寄り付かないのも不思議ではない。橘もそれを分かっているので──互いの熱気が伝わるような距離で──こいつ、今日は最初から遠慮しないつもりのようだ。勉強なんてとても出来そうになかった。

 橘は黙してただ見つめてくる。

 きまりが悪いので視線を外そうとすると、彼女はキッと目を細めて不満そうにした。戻すと笑ってくれて、またらすと胸が強く引っ張られる。

「止めろ、何か言えよな……」

「や、これ好き……。あっち向いちゃだめ……」

 ゴクリ……と。心臓がすっぽ抜かれそうだ。

 少し開いた窓から、乾いた微風が入って汗が乾く。

 なんというメンチビーム合戦。シャバゾウ度が真っ青の俺では秒ももたん。

 至近距離だった。呼吸が聞こえるような距離に金髪女の安心したような笑みがあるから、胸の中で感情がごっちゃになっていた。

 嬉しさ、恥じらい、恥じらい、切なさ、恥じらい……。

 俺も俺で、今にも逃げ出しそうなのが顔に出たのだろう。

「純……。あたし、キミと海に行きたい……」

「む、俺だって色々忙しくてだな」

「いいじゃん、いいじゃん……。みんなも純に来て欲しがってるんだし。みんなともっと仲良くなるチャンス……だよ?」

 金髪女の潤んだひとみがすぐそこにある。相変わらず肌は白くきめ細やかだ。

「夏ったら海っしょ? 楽しまなきゃ損じゃん……」

 細い指が伸びてきて、制服越しに胸をなぞる。

「ほら、ウチら明日デートなんだよ? 純が行かないってゆうなら、明日も押しまくっちゃうし……」

「そ、それは……」

「ゴメン、無理強いはしないよ。キミに嫌われたくないし。でもさ」

 純と思い出作りたいだけなの。

 明日のデートで、あたしの本気見せてあげるから。覚悟しといてよね。


 だが家に帰った直後でも、俺はあいつのことを考えてしまっている。

 前から自宅のソファーでクッションごっこをするのはいつものことだった。たまに妹の欅が本当に上に乗ってきて携帯ゲームをしたりするのだが、今はそんな気分ではないらしい。

 何と言っても俺は、最近買った新しいおもちゃをじっと眺めていた。

 そしてその姿たるや、どうも妹には気持ちが悪かったようで、

「……お地蔵さん」

「もう純君ったら、いきなり今時のリア充っぽくなっちゃって~。高二デビューなの? 高二デビューなの、もうもう!」

 俺のそんな様子を彼女がとがめ、アリカ叔母さんがそれに続いた。

 しかし二人の反応、これがちと対照的だ。妹があきれ気味のジト目なのに対して、叔母さんはいつも以上にニコニコしている。

 そして原因であるブツが……ピロッと。やたらポップな機械音を鳴らす。

……っ!

 すると、俺の身体が反射的にビクリとしてしまうのだ。

 この新しい相棒の名はスマートフォン。

 現代社会にはびこる病原体マシーンだ。方々から反論が聞こえてきそうな物言いだが、別に噓は言っていない。実際俺は、自分自身が病むことでこいつの有害性を証明してしまったのだから。勉強もゲームも放っぽって、この音だけを待ち続けていた。

 けど……違う。絶対違う!

 単にこれは、真新しいおもちゃにドハマリしただけだ。すぐ飽きる。飽きて、またゲームばかりの日々に戻るに決まっている……。

 クラスメートのあいつから連絡が来るのが待ち遠しいとかじゃない。多分、いや絶対に……。

「あらあら純君。また彼女ちゃんからの返信かしら~?」

「ち、違います……っ。彼女なんかじゃないですから!」

「はいはい。ほら、彼女じゃない超仲良しの女の子から連絡来てるわよっ」

 頭で考えるより先に画面をタップして、流行はやりのメッセアプリを立ち上げる。そして連絡してきたのは……いや。

 発信元は『橘かれん』ではない。

《明日、一緒に水着かいにいくひとー?》

 氷堂からだ。

 クラスの面々に向けて連絡しただけで、そもそも俺への連絡ですらない。

 俺は……どうしてだろう?

「ふんっ」と声を漏らし、つまらなさに似た感情を振り切ってスマホを切って放り出す。

 ここ数週間で、耐え難いほど女々しくなった。

 正直言って、こんな自分は大嫌いだ。

 きっとはたから見れば憐れな姿だろう。

 実際のところ、妹は面白くないらしい。すっかりほうけた俺がゲームにも付き合わなくなってしまい、ついに付けられた名前がこれだった。

「……スマホ地蔵」

 スマホなんて馬鹿げていると思っていた。

 そして、ある意味でそれは正しかった。だってそうだろ。俺にこの無駄ガジェットを買わせた張本人と、大した用事があるわけでもないのに毎日毎日……。

 寝る前の長電話は絶対として、橘はそれ以外にもちょくちょく連絡してくる。

 いざ着信があれば、ずっと待っていたと思われるのがシャクだから、返信するまで五分くらい待ったりして。

 でもこんなことは全部、馬鹿げている。

「でも純君、どういう風の吹き回しかしら。今までは私が買ってあげるって言っても聞かなかったのにねえ」

「そりゃ友達もできれば不便にもなりますって。今までが異常だっただけで……」

「はぁ……まぶしいわねえ。私も過去に戻って、高校生やり直してみたいかも。こんな時期、もう二度と来ないんだからねっ」

 そういうものなのだろうか……?

 今の俺は、自分が病んでいるようにしか思えない。

 油断すると、ほら……ネット回線の向こうで、あの金髪女のニヤけ顔が目に浮かんできたりするのだ。これを病気と言わずして何と言うのだろうか。

「ふん……よし、分かった。電源切って、今晩こそはゲームに付き合う。欅、それで満足だろっ」

 ──と。

 このタイミングでピロッと、また通知音。

 反射的にスマホへと手が出かかるのだが、欅が「むー!」とぷんすか怒るから寸前で止まった。そこに要らぬ援護射撃が入る。

 叔母が欅の肩に手を置いて、言ったのだ。

「欅ちゃん。ここは許してあげなきゃダメよ。ヤキモチ焼いちゃうのも分かるけどねっ」

「ど、どーして私がヤキモチなんか……っ」

「でもね。欅ちゃんもね……おいっ子が出来るなら、見てみたいでしょ?」

「えっ? 甥っ子……? 甥っ子……」

「欅ちゃんが毎年ね、お年玉をあげるの。おっきいパソコン買ってあげて、エリートオタクに育て上げちゃうのよ!」

…………ふーん。会いたい……かも」

 いやいや、二人してツッコミどころを散らかし過ぎだろ。

「まず叔母さん、話にロケットエンジンをブチ込んで空に打ち上げるのほんとやめてください! そして欅、お前はお前で謎の母性を発揮してんじゃねーよ。全部ひっくるめてややこしいことこの上ないっての」

「……女にちた兄貴の代わりを見つけなきゃいけないもんね!」

 いやいや、むしろ俺をあきらめるな。

 あれか、お前の中では〝アニキは死んだ、もういない!〟ってなってんのか。

 はぁ……。もう家族もスマホもたくさんだ。切ろう。

 俺はスマホの電源を押すけど…………ん?

 ボタンを押して映った通知画面上に、先程のメッセージが表示されていた。発信元はさっきと同じ氷堂。しかし今度は、その短い文面に関心が引っ張られた。

《で、かれん氏はー? 日曜日さー》

 水着を買いに行くのに、橘も呼ぼうというのだろう。

 けど氷堂が言っていた今度の日曜は確か……ふと思い出していると、とうとう橘かれんの名前が画面上に浮かび上がる。

《ごめん…。その日、予定あるんだよね、》

《ん、りょ。彼氏君によろしく》

 そして今度こそ俺てにメッセージが届く。

 橘からの個人的な通知に、心臓が早鐘を打ち始めた。

《よ、かれしくん♡♡》

 ……別に、何ともない。

《明日のデート、楽しみすぎて死にそう。はやくあいたい》

 あの金髪女は俺の繊細なぼっちハートなんて、理解しようはずもない。あまりに理解出来なすぎて、メッセージの直後に自撮り画像まで送りつけてくるのだ。

 スマホの画面上に、部屋着姿の橘が映っていた。

 ピンク色の薄いネグリジェに、はだけかかった胸元をのぞかせている。この前同じベッドで寝た時を思い起こさせるような格好だ。

 何が不満かは知らないが頰をぷっくり膨らませて目で訴えている。

 あのばか……。こういうのほんと胸に来るから、やめろ……。

《早く寝ろ》

《あいたいー! 電話したい…》

《寝る前にいっつもしてる》

《ガリ勉ロスがやばいの。お願い、》

 胸の中で、何かがざわざわと沸き立った。

 このざわざわをうれしさだと認めないのは、まだまだ意地を張っているからかも知れない。まあ意地を張っているってことすら、決して認めはしないのだけれども。

 でも……冷たくできるわけ、ない。

 こんな風に求められればそりゃあ……。

《いいぞ、今すぐ電話かける》

《うん、ありがと。まってるね…》

 しかし現実からの声が、俺を電子機器から引っがした。

「純君ったら、そんな優しそうに微笑んじゃって……。いやー、どんな子なのかしら! きゃー! きゃー!」

「うぐっ……。俺……変な顔してました?」

「スマホ地蔵……ちょっとニヤついてた」

「……以後気をつける」

…………あにじやよ、察するに明日はデートと見た。叔母さん。フラれる方に皿洗い一週間!」

「ふーん? じゃあ付き合っちゃう方にピザ二枚ね」

「乗ったっ。明日が楽しみねっ」

 人の交友関係を何だと思っていやがるお前ら。

 叔母は気遣いのつもりか、ニコニコ顔でテーブルにほおづえをつきながら、

「純君だもん、心配はしてないけど……優しくするのよ?」

「……ほんとにそんなんじゃ、ないです」

 嬉しさに似たざわめきと、意地のようないらちとの間で。

 俺はクラスでも、家でも、立ち位置を見失いかけていた。

 前はこんな奴じゃなかったって、自分でも分かってるんだ。


 残念なことに純粋なぼっちを名乗れなくなっているのも、全てあの金髪女に原因があるといって間違いないだろう。

 二年の春になって、通学と勉強さえこなしていれば問題なかった俺の学校生活はめちゃくちゃになった。

『ねえねえ、ガリ勉。今日もさ、勉強おせーて?』

 ある日、クラスの金髪ギャル・橘かれんに教えを乞われた。

 それだけなら単なるイレギュラーで済む話だろうが、何せ相手が悪かった。まさに嵐のような日々が始まったのだ。

 図書室の奥の椅子二つ、いつも並んで座っていた。

 決まって橘は笑顔で、俺はしかめっ面で。どういうわけか毎日、俺が遊び相手になっていた。

『ほれほれ、ガリ勉っ。ビクつくなって、童貞♪』

 あいつは横で頰やら脇腹やらを突っついて、勉強の邪魔をしてきたり、

『あっち向いちゃだめ。お願い、冷たくしないで……』

 俺が目をらさぬよう、やわい手であごを押さえてきたりして、

『あのさ。あたし、やっぱり納得してないから。キミにウザがられても、なんとかするつもりだから。クラスでの、キミの扱い』

 かと思えば、俺なんかのために怒ってくれる。

 今までは見向きもされなかったのに、教室のリア充女王・橘のせいで、距離を取っていたクラスにも引きずり込まれてしまった。長い年月をかけて必死に築いたはずのウォール・ボッチは粉砕され、今じゃすっかり跡形もない。

 そうやって、毎日毎日あの金髪女にイジられ続けた。

 いつになったら飽きてくれるんだ? 何がそんなに楽しい? そうやっていぶかっているうちに時間だけが過ぎ、その分だけ距離は詰まっていく。

 嬉しくなんかない、これはただ遊ばれているだけだ。

 いつだってそう言い聞かせてきたけれど。

 あいつの隣にいるのが当然なんだと、身体が覚えてしまった。

 放課後となると足は自然と図書室へ向かうし、あいつを家まで送っていくのに疲れも感じなくなってしまった。

 思えば俺は、橘を拒絶することだってできた。けれどしなかった。

 なぜって、俺が本気で嫌そうにすれば伝わってしまうのだ。そういう時、橘は本当に悲しそうに謝ってくる。

『ごめん、ウザくしすぎた……。マジで……ごめんなさい…………

 そんな女の子をどうやって拒めというのだろう? これほどズルい女、他にいるだろうか? 結局、飽きるまで俺で遊ばせてあげるしかないのだ。

 だからこそ翌日。つまり夏休みの初日。

 最初に橘の顔を見た時なんかは、俺は……ホッとして肩の力が抜けてしまう。

「あ、やっと来た……」

 しかし、だった。

 朝の駅前広場で目にした時、いつも会ってすぐ見せてくれるはずのニタニタ顔を今日は見られなかった。それで一瞬、安心したはずの俺の胸が急に不安を覚えてしまったくらいだ。もしや何か良くないことをしてしまっただろうか、と。しかしすぐにゆうと分かった。

 彼女も、俺と同じだったのだ。

 安心したように顔を緩ませて、目も少し潤んでいる。

「純……」

 何だよ、まさか嬉しいって思ってくれてる……のか?

 やめろ、下の名前で呼ぶな。俺にそんな顔を向けるな。

 元気出せよ。いつもみたいにニヤニヤしながら言えばいいだろ。〝あたしと会えなくて寂しかったんでしょ?〟ってさ。

 そうすれば、顔を真っ赤にして答えてやるんだ。〝別に……〟って。

 今日の橘は、白レースの薄いブラウスに赤の短いスカート。

 長い素足を高い青空の下にさらし、豊かな金髪が派手な光沢を放っている。肌は相変わらず透き通るように白く、ニコッと笑えば上にある太陽よりもずっと輝いて見える。

 こっちが近づく前に、あいつはヒールの音を鳴らしながら駆け寄って来た。最初のデートの時に比べて、今では面と向かうだけでもすごく近い。

 肌ツヤや、まぶたの動き、赤く染まった頰……全てが目の前にある。

「ちょー待ってた……」

「む、一応時間通りだっ」

「そうじゃなくてさっ……。今日も会えたねってっ。もう学校ないんだから、こうして会えるの……当たり前じゃ、ないんだよ?」

「う、それは……」

「毎日はね、きっと会えないんだよ……? 想像しただけで、つらいよ……」

 ダメだ……。こいつとのこういうやり取り、全部ギブだ……。

 こいつの感情が表情を通して伝わってくれば、俺も心のどこかでは寂しかったんだって思い知らされる。確かに昨日も普通に会っていただろう。だが会えない時間だってあった。金髪女がしつこく送ってくるメッセ、実は俺だって心待ちにしているのだ。自分から連絡はしないくせして。

 もしかして、俺もまるっきり同じ気持ちなのか……?

 自然と穏やかな気持ちになって、つい表情がゆるくなってしまう。

 別にどこにも逃げない。すぐに安心させてあげたかった。

「まあ、その、もしほんとに寂しいならさ……」

 しゅんと訴えるような顔を見て、俺は思わず手を前に突き出した。

「今日は俺でとことん遊べばいーだろ。世話になったお前が相手ならそれくらいやるっつーか、その……約束だし」

「ふふっ、約束ね。そうだったよね。えーとね……大好き♪」

「うっ、やっぱ止めないか。この罰ゲーム

「だーめ、あたしめっちゃ楽しみにしてたもん。たくさんキミを口説いて、ふにゃふにゃにして、合宿にも来てもらうもん」

 金髪女はぐっと近づいてきて……突き出した手を握るどころか、腕にギュッと身体を絡ませてきた。ここでやっと調子が戻ってきたみたいだ。いつものようなニタニタ顔で、俺の頰を指先でいじいじしてくる。

 沸き立つような恥ずかしさが、顔面まで血流を押し上げてきた。

 通る者みんな見てくるような場所で、こんなにべったり……。

 俺たちの関係、見ず知らずの奴らにきっと誤解されている……。

「純の赤くなった顔、ちょーかわいい」

「……色んな意味で後悔が半端ないんだが」

「ねえ? 夏休み始まったばっかで、早速デートしてる。……何でだろーね?」

「む、それは……っ」

 街の中心部ド真ん中で、橘の素肌が腕に擦れている。

 身体の柔らかさが伝わってくればくるほど、橘のイタズラ顔に恥じらいの色が混じる。こんな真夏の熱気の中にいるのに、肌を伝うのは冷や汗だ。

 う、これは……さすがに…………

「ねえねえ? どうしてあたしら、デートしてるんだっけ?」

「……や、約束だからだ」

「ふーん? どういう約束……?」

「い、今更それを俺に言わせんのかよっ。やめろ、約束通りやってんだろ……」

「だーめ。もっかい聞きたいの……」

 さて、今日のデートにはルールがある。

 事の発端はテストの点数でけをして、それに負けたこと。元々は合計点で負けた方が勝った方の言うことを何か一つ聞くという取り決めだった。しかし、

『良いのか? 普通に勝つぞ。一教科でも俺に勝てたら、とかでもいいけど』

 つまり完全に自業自得というわけだ。

 橘は見事、国語の点数で俺に勝利してみせた。

 勉強を教えたのは俺だが、負けたのも俺だ。

 うれしいのか悔しいのか分かったものじゃないが、橘の要求は無慈悲なものだった。

「つまり、それは、俺が…………か、彼氏だからだっ。一日だけなっ。クソ、なんで俺がこんなことをだなあ……」

 ……いつもの図書室で、その要求を伝えた時の橘の顔を想像されたい。

『……夏休みの最初の日曜日、空けといてね? 一日だけ……一日だけさ。あたしのマジの彼氏になんの』

『えへへ、罰ゲーム♪ 次のデートでメロメロにしちゃうし……』

 罰ゲームは彼氏としてのデート。

 今日一緒にいる間は、彼氏として振る舞わなければならない。

 嬉しくなんか……ない。そう自分に言い聞かせるほど、目の前の少女はニヤけてくるのだ。ほんとお前、いい性格してるよな。

「純、全然嫌じゃなさそーだけどー?」

「必死に勉強教えてやったのに、この仕打ち……」

「えへへ、ありがと……ね?」

「ふん、なーにが〝ありがとう〟なんだか! いっつもいっつもガリ勉をいじめて、そんなに楽しいのか……?」

「今日はさ、今までで一番楽しませたげるし。あたしの、一日彼氏さん♪」

「うう、やり過ぎだ。ガリ勉女……」

 橘かれんの一日彼氏。彼氏。

 手をつなぐのは初めてじゃない。この甘い匂いだって、少しは慣れてきた。だがいくらなんでもこの響きは……。

 初めて一緒に帰った時の気分が戻ってきた。

 胸が自分でも聞こえるような音を鳴らし、身体が、脳が、これは明確にヤバイと告げてくる。そしてこの金髪女は、そういうのには絶対に気づく。気づいた上で仕掛けてくるのだ。

「あたしら、二人で仲良く緊張してる……休憩しなきゃ」

「……いくらなんでもえーだろ。まだ駅からちょっと歩いただけだ」

「ほら、あそこのベンチでさ……イチャイチャしたい…………

「イチャイチャ……」

「今更♪ 一緒に寝た仲じゃん?」

「それ、ずっと言い続けるつもりかよ……っ」

 橘の柔らかい右手が俺の左手の中でもごもごと動いた。

「ねえ、二人でもっと緊張すること……しよ? ほんとの彼氏と彼女みたいに……ね?」

 調子がすっかり戻ったのか、挑発的な笑みで目線をきっちり合わせてくる。らしたらどうせ怒られるので頑張って合わせているのだが、今日はいつもより更に近い。匂いどころか、お互いの呼吸すら聞こえてしまうような距離感だ。

 ベンチに並んで座る頃には、もう心臓がぽっかり抜けたような感覚だった。こいつは遠慮なく俺の方にぐったりと身体を寄せ、こっちの左腕に両腕を絡めて、

「ぎゅーっ……

 柔らかい圧力に包まれ、繊細な髪が肩に触れてくる。

 ドキドキ……と。

 何かが身体の真ん中からせり上がってきた。

 緊張? いや違う。もっと明るく浮ついた感情が、体内でのたうち回っていた。もだえ死にしそうだ。

「あたし……。ガリ勉成分、切らしてんの……」

 や、やり過ぎじゃないか?

「か、彼女ったって普通ここまでせんだろ! 俺ら、ただの高校生だぞ……」

 舌先までそんな言葉が出掛かったけれど、至近距離の一日彼女と目が合う。

「一日彼女……。彼女……♪」

 ニヤニヤ、ニヤニヤ。本当にいつも、まるでお日様みたいに。

 こいつ、何でそんな楽しそうなんだよ……。

 ご機嫌度の最高記録を日々更新し続けているこいつではあるが、今日ばかりはやんちゃ度合いが違う。向けてくる視線も声も、溶けたチョコレートのようにとろんとしている。どんな顔をすればいいか、なんてのは今日に限ったことじゃない。それでも今は顔が緊張や恥ずかしさで引きつっていた。

 けど同時に、止めてくれなんて言えなかった。

 こいつのニヤニヤしてる顔、本当に胸が温まるんだ。

 だからそこに水を差すようなことは、考えるだけでも後ろめたさが沸き立ってくる。好きにさせてやってもいい。会ったばかりの時は、こんなことは考えられなかったが。

「で、彼氏は何をすれば……」

「キミが照れてふにゃふにゃになってるの、楽しいの……。その代わりにさ。あたしがくっつきながらデレデレしてるの……キミも楽しんでいいよ?」

「た、橘……。緊張がだなあ……さすがにやばいっつーか」

「……何で緊張するか、知ってる?」

「はあ?」

 橘は肩に頭を預けてくる。

「好きになるのをさ、ガマンしてるからだよ? もうさ、あたしにメロメロになっちゃえばいーじゃん♪ 彼氏と彼女だもん、今日は二人でバカになっちゃおーよ?」

「た、橘……。お前……」

 好き。好きに、なる? 俺が……こいつを?

 いや、まさかな……。

 二人で……バカに。

 もし緊張で自分を守るのをあきらめれば……次の瞬間、どうなる?

 ……そして次の言葉で、緊張風船が胸の中でブチ破れた。

「むー! 今日は橘もお前もだめ。次そう呼んだら、ガチでハグしちゃうからっ……」

 ベンチの上でがっちりと左腕をホールドされる腐れガリ勉。

 罰ゲームは開始早々、致死量分のムズムズ因子を脳内にぶつけてきた。

 最初に訪れたのは、頭の中を回るグルグルだ。目が回りそうな感覚を超えると……不思議と落ち着いてしまう。そしてとある一つのひらめきと共に、ガリ勉リミッターがしんえんみ込まれた。

 ……俺がこいつと、何日一緒にいると思っている?

 愚鈍なガリ勉根暗野郎にも明らかなことが一つだけある。

 それは、何をすれば橘が喜ぶかってことだ。明確にこいつを喜ばせる言動だけは手に取るように分かる。なんでそんな無益なことだけえてるんだよ、根暗野郎。

 でも、ほら、こいつ。

 どうせ喜んでくれるのだろうし……。

「その……お前と会えて良かったっつーか…………橘」

「あー! 今、お前って、橘って、どっちも言ったー!?

「……言ってない…………

 お互い赤くなった顔で、目を合わせる。

 俺はいつも通り顔をムスッとさせていたのだが、もうダメだ。おかしくなって、二人同時に吹き出してしまった。橘はケラケラ笑い始め、弱い力で胸のあたりをぽんぽん小突いてくる。

「ははっ、言ってないっ……。だからダメだ。今のはノーカンで……はははっ」

「ふふっ……。もー、ばか……そんなにあたしとハグしたいの?」

「だから、言ってないっ。ああ、やめろ。こっち来んなっ……」

「純のばーか……」

 橘は背中に腕を回してきてギュッと力をこめる。

 彼女の豊かな金髪が俺の胸に擦り付けられる。心臓を吐き出しそうだったが、ぬくもりが伝わってくると、やがて緊張も一緒に溶けていった。

 全身が甘く優しい気分に包まれて、耳元でささやき合うのだ。

「ん……ハグ、気持ちいい。このまま安心しちゃいそう……」

「おい、そろそろ離れろ。思いっきし見られてる」

「クラスのみんなにも見せつけたい。あたしの大事な人なんだって」

「この前、お前の友達に見られたろ」

「だめっ……。みんなに知って欲しいの。みんなに茶化して欲しい」

 暑さで汗が吹き出そうだ。

「今日の純、優しくてノリ良い。……純もあたしとラブラブできて、嬉しいんでしょ」

「別に……っ。まあ、ちょっと会いたいって思ってたけど……」

「今みたいに二人っきりなら、デレてくれるの? みんなといると冷たいしー」

「なんつーか……どうしてもそうなるんだ。ハズいっつーか」

「えへへ……そーゆうのツンデレっていうの」

「言わないっ」

「ねえ……純も抱き返して? あたしだけギュッとするの、やなの……」

「……っ。まあ、俺が始めたことだし……。こ、こうか?」

「あ、優しい……」

 腕で少女の背中を軽く擦ると、橘はギュッとして密着感を強めてきた。

 このふわふわと堕落した気配を痛く感じ取ってか、明らかに四方八方から突き刺すような視線を投げかけられている。

「キミの一日彼女やんの、楽し過ぎ……」

 二人っきりなら、教室で感じていた気まずさが解けていく。

 二人っきりなら、違う。

 周りに知った顔がないなら、どこまでも優しくできる。慣れすぎてしまった。こうなるとクラスでの立ち位置なんて関係ない。

 ガリ勉とギャルじゃなくなる。

 俺と橘になるのだ。

 学校由来の見えない縛りから解放されれば、世界には俺たち二人しかいなくなる。

 緊張のダムが決壊して、いっそ血を身体の穴という穴から吹き出しそうだ。でも今度はこの温もりが、恥じらいだけではなく安心も与えてくれるようになった。

 ところで、実は……この橘さんを喜ばせようミッションはまだ終わっていない。

 自分でも信じられないが、俺は最後の追撃を用意していた。きっと明日には後悔しているだろうが、俺のふやふやになった胸はそのまま言えと命じている。

…………かれん」

「あ……」

 金髪女は切ない目をした。

 言った瞬間は後悔しかけたのだが、彼女は聞き逃してくれなかったらしい。

「もっかい……」

「……やだ」

「や、お願い。ねえ、お願い……」

 ひっつかれた身体を通して、彼女の温もりが嫌というほど伝わってくる。お願い。その言葉通りというか、その力は緩くなるどころか強くなるばかりだ。

 こんなの、知ってる奴に見られれば終わりだろ……。

「か、かれん……」

「純。純♪ 純? えへへ……おかわり」

………………かれん」

「合格……。彼氏っぽくなってきたじゃん……よしよし」

 なでなで、と。頭が柔らかい手にもしゃもしゃとされる。

「クソ、言うんじゃなかった……」

 二年に上がってからというもの、橘を喜ばせてばかりだ。

 最初は、何の心当たりもなくこの女子が勝手に楽しそうにしているだけだった。

 やがて、こいつのそういう姿を見て安心するようになった。

 今は、彼女がどうすれば喜ぶのか何となく分かるようになっている。

 このイチャイチャ地雷を自ら踏みに行っているあたり、俺も俺でおかしいっての。橘の言う通りだ。なんで二人っきりだとこうなっちまうんだ。

「はぁ……もうダメかも。デート始まったばっかなのに、胸のイチャイチャが止まんないの。ずっとね、こうしてたい……」

「む、それはちょっと調子に乗りすぎたな。ごめん」

「ほんとそれ……メロメロにさせるって言ったの、あたしだしー! あたしがメロメロになってたら、いつもと変わんないじゃん……」

「い、いつも……?」

「や、ばか、何でもない……!」

 そうやってお互いに顔を真っ赤にしながら、ベンチの上で一時間ほど。

 時間が過ぎるのはあっという間だ。やっとのことで立ち上がった後も、行くあてもなく二人で駅前のせわしい道をフラフラしていたのだ。

 夏休みシーズンの休日ともなれば、という感じの日だった。

 突き抜けるような青空の夏日。

 無論のこと駅前の往来は激しく、家族連れや社会人お一人様などと様々だ。

 そして俺たちと似たような、ひっつきながら歩くカップルも幾度となく通り過ぎる。どいつもこいつも仲良さそうだ。橘はそれを見るやムッとした顔をして、左腕に強く絡まってきた。一体何を張り合ってるんだよ、お前。

 だが今まで、カップルなんて見ても何とも思わなかった。最初から自分には関係ないことなのだと固く信じていたからだ。

 でも今は。今は、隣には女の子が歩いている。

 明るい色の長い髪で、ニンマリと可愛く笑う女の子。

 みんなから好かれて、いつもならたくさんの友達に囲まれる女の子。

 本来なら、同じクラスだろうが隣の席だろうが口すら利かないタイプ。そんな女の子が、こうもゴキゲン上々で一緒にいてくれる。

 それにしても、一日彼女。奇っ怪な響きだ。

 今日が続く限りは確かにそういう関係なのだろうが、明日になればまた元に戻ってしまう。だとすれば、次の日からはどう接すれば良いのだろう。もう今から気まずさをぎ取ってしまいそうで困る。

「ねぇ。ご飯食べた後、どこ行こっか……?」

 近くで囁くように言ってくる俺の一日彼女。

 正直、何もアイディアはなかった。本当なら俺も何かを考えてくるべきだったのだろうが、いつも放課後はノープランで振り回されているためか、そういうのに慣れてしまっていた。

「映画……とか?」

「や……映画はだめ。キミの顔、見えないじゃん……」

「日曜だし、どこも混むぞ。二人でゆっくりなんてそれこそベンチしか……」

 ……と。

 橘は何を思い至ったか徐々に笑みを広げる。

 実に怪しげな悪巧みっぽい表情で、左腕をぐいっと引っ張って、

「ねえ? あたしら、海に行くんだよ……? 行くとこなんて、決まってんじゃん♪」

 すると、不意打ちだった。

 橘は左腕に絡みつきながら、首を伸ばして。

 頰に、ほっぺたに……唇のやわい感触がむにゅっと触れる。

「ちゅ……っ。ばーか。さっきいじめられた分、今から攻守交代……ね?」

 気がつけば、彼女の赤く染まった顔が数センチ先に離れてしまっていた。甘く柔らかい感触だけが肌に残っている。

「ねえ? これ、嫌……?」

「……っ。今更、だろ……。携帯買った時もされたしなっ」

「でも、嫌?」

「……っ。嫌…………じゃない……けど」

「や、じゃあもっかいね…………んー、ちゅ……っ

「うう、やっぱ嫌だ。そろそろ離れい」

「やーだ。純、フツーに喜んでるもん。ちゅーされんの、そんなに良いの?」

「……ふん」

「えへへ、行こ?」

 食後に連れてこられたのは駅ビルの五階だった。

 まあ普段の休日は家から出ないのでショッピングモールどころか大体の場所が未開なのだが、そんな中でも更に魔境……周囲の色彩がやたらうるさい、リアル不思議のダンジョンがそこにはあったのだ。

「あ、ああ……」

 眼前のソレを見て、かすれた声を漏らしてしまった。

 色とりどりのヒラヒラ布。水着売り場だ。女物の。

 相変わらず俺の左腕にギュッと絡みついている一日彼女さんは、どうしたものか、今の俺の情けない反応をいたく気に入ったらしい。

「あたしの水着選び。彼氏が選んだ水着で、みんなと遊ぶの。選んで、くれるよね?」

「……か、かんべん」

「ふふっ。その恥ずかしそうな顔……可愛い」

 と言って、すっかり熱くなった頰を突っついてくる。

 って、ほら、そこの通行人! 微笑ましいって感じでニヤつくのマジでやめろっ。

 こっちはもう頭がふやけそうでギリギリの精神状態なんだからな。何なら、ここまで歩いてこられただけで奇跡だろう。

 当然のことながら、さっきから顔が熱いだけでなく胸もむずがゆい。

 かと言って、しばらく一日彼女から目をらそうものなら。

 ほら、こうしてひどい側面攻撃が待っている。

「んー……ちゅっ。こっち向かなきゃだーめ」

 くっ……殺せ! もうこんなところにいられるか!

 俺は早くも、さっき調子に乗りすぎたことを後悔していた。

 攻守交代。その言葉に偽りはない。

 こうしてフィジカル的な悪戯いたずらを仕掛けてくるだけじゃない。

 そもそもこんな場所に連れてきたあたり、本当にガリ勉を殺す気としか思えない。

 だって、そうだろ。レディース水着が並んだ大部屋?

 見ればその瞬間『モンスターハウスだ!』と叫びだしたくなるような絵面である。スマホなんぞを持っていてもリレミトの巻物機能すらないのだから困ったものだ。現代技術など、いざとなればとんだ役立たずである。

 俺はせんりつするあまり片足が後ろに引けてしまったのだが、既にがっちりつかまれているので逃げようもない。

 ……というか、乗り気でないというのが橘に伝わってか更に強くホールドされた。

 満面の笑みから、〝逃がさないから〟っていうのが伝わってくる。もう腕から背中にかけて汗でぐっしょりなのだが、金髪女にはそんなことどうでもいいらしい。

 だが同時に、俺がガチガチなことに対して気を遣ってもいるようだった。

 へらへら笑っているかと思えば、こっちがあんまり閉口しているのが不安だったのか、しゅんとした上目遣いで……本当に、こいつはころころと表情を変える。

「彼女のお願い……ダメ?」

 断れるわけがないだろ、そんな顔されて……。

 もうここまでくると、普段通りの出来レースだ。

 その……。こいつが笑ってるところ、今日はたくさん見たいしな……。

 頭をそっとでて、そんな顔をしなくていいって言ってやればいいだろうか? けどそんなことは到底出来ないから、代わりに俺は表情をムッとさせてこう返すのだ。

「別に。元々ノープランだったし、仕方ないっていうか……。別に海なんて死んでも行かねーけど、水着くらいは選んでやれるっつーか」

「や、ありがと……。ちょー優しい……」

「む、そんなんじゃねえよっ。言っとくけどそんな風に頼まれて断れない奴、俺だけじゃないからな! いいかげん、鏡見ろってんだよ」

「ふふっ、何よそれ。もしかしてさ、遠まわしに褒めてくれてんの?」

…………違う。ほら、行くぞっ……」

「えへへ、照れ屋さん……」

 それで橘がやっとのことで左腕を解放して、店を物色していた時。

 心臓のあたりが飛び跳ねそうに軽やかで、同時に苦しかった。水着選びに集中しているかと思いきや、時々こっちに振り向いてニコリと笑いかけてくれるのだ。

 俺、こんな子と一緒にいる。

 しかもそれで、向こうはちょっと大げさなくらい楽しそうにしている。

 こうして改めて見ると、橘かれんは底なしに可愛い。

 油断をすればれてしまいそうだ。

 無論そんな風に思っているとは気づかれたくないので、こっちは常に変な力が入りっぱなしである。この女といると一秒一秒が常に受難だ。

 けど単に見た目がってだけじゃない。

 橘の笑った顔には、種類がいくつもあるのだ。

 悪戯っぽく遊ぶような笑み、優しくいたわるような笑み、うれしそうな笑み、他にも…………俺にはもう、ほとんど見分けがつく。そしてその表情全てに飾りっ気がなくて、ひたすら純粋だった。

 俺は今、その笑顔を独り占めしている。

 たとえ束の間だとしても、自分一人に向けられている。

 一日彼氏……。彼氏…………

 今……俺が…………?

 あの俺が?

 胸がキュッと締め付けられるんだ。服にも肌にも身体の中にも、あいつのぬくもりがまだ残っていた。束の間その温かさから離れて、内側から焦げそうだ。

「ねえ……?」

 俺はビクリとした。橘の顔が思ったよりも近いところにあったからだ。

 ずっと横に並んで歩いていたので意識しなかったが、今は普段よりずっと距離が近い。

 この唇が……。

 さっきから俺の頰に何度も触れてくる柔らかい唇が、今はきれいな弓なりに曲がっている。こんな可愛い笑顔が、いっつも近くにいたなんて。俺は気づいてなかったのか。

「これとこれ、どっちがいいと思う?」

 と、ハンガーに引っかかったビキニを二組見せてくる。

 赤い方とピンクい方……って、いやいや!

「え、選ぶ準備がだな……」

 俺はあつにとられた。そりゃあ水着を選ぶってのはそういうわけなのだが、こっちは今日のことで呆気にとられたままだ。

 てか、水着を選ぶ準備ってなんだよ。

 今日の俺、考えていることがまるで意味をなしていないぞ……。

「む、どっちがいいかって言われてもな……」

 この調子なので、そんな気の抜けた返事をしてしまった。

 だが、かれんは…………こほん。橘は、今のが思った通りの返事だとばかりにニヤリとして、

「ふぅ~ん?」

「な、何だよ……?」

「じゃあさ、試着するしかないよね。キミが気に入った方、教えて?」

「し、試着!? ここでか……?」

「もう、ばか……。なに驚いてんのさ……ここ、そういう店だよ?」

 それであいつがカーテンの向こうから出てきた時には、もう脳が溶けて耳から出てきそうだった。

 金髪女の顔は紅潮していた。

 同時に俺の緊張を読み取ってか、はにかんだように笑みを浮かべる。

「ほんとに見せてみると、ちょっとハズいかも……。どう、かな……?」

 どうか、だと……? そりゃあもちろん……。

 すらっと健康的な肢体に、目を引く赤いビキニ。

 均整の取れたスタイルだ。バストとヒップが美しく盛り上がって、ほっそりとしたウエストのラインと自然につながっている。赤というチョイスも絶妙だった。

 透き通るような白い肌に、明るい金髪。

 みんなが大好きな女の子。

 ここまで主役の色が似合う役者も珍しかろう。

 きっと大勢の中で立っていても、誰だってこいつを見つけられる。

 その時になって、俺はとうとう目の前の少女に見惚れてしまった。

 何秒かその場に立ち尽くしてしまい、そんな自分に気づくやいなや前を見ていられなくなる。

 でもなぜか、俺と向かい合った橘は自信なげに目を泳がせていた。こちらをちらちら見ては、不安げにそらしてしまうのだ。

「どう……? 合ってない、かな…………?

 どうしてそんな顔を?

 お前は橘かれん、いつもならもっと自信満々だろうが。

 だが俺がそうやってあやふやな態度をとっていると、彼女の不安の色は少しずつ濃くなってくる。どうやらこいつは、俺の返答をそこまで心待ちにしているらしい。

 俺は俺で、思った通りのことが舌の先っぽでつっかえていたのだ。

 今までもそんなんばっかりだ。橘はいつだって思った通りのことを屈託なくしやべってくれるのに、俺はまたクソみたいな照れ隠しで……。

 む……。言えよ、俺……このくらい。

 一日彼氏なら、今は彼氏なんだろうが。言葉にすれば、さっきみたいに喜んでくれるから。

 心配は要らない。今日、俺は調子に乗っているんだ……。

 乱れた息を吸って、辛うじて言葉を発した。

「……れい、だよ…………

「え……?」

「そりゃあ、可愛いに決まってんだろ……。似合ってる。素人しろうとだけどさ……」

 少女の顔に笑みが広がって、やがていとおしげに口を緩めた。

「それ、もっと言ってよ……。思った時には、さ……」

「べ、別に、そんな深い意味でなくてだな……。可愛いっつーか、その、可愛いよ」

 橘は大げさに、むしろ泣きそうなくらいあんの色を広げて、でもお互い言えることなんて特に何もなくて、そうやって言葉が途切れると……。

 よりによってこんな場所で、あの見つめ合いモードに入ってしまった。

 お互いの息の乱れが聞こえるような距離感で、こいつのとろんとした視線が俺の目をとらえて放さない。

〝う、とにかく何か言えよ……。場所考えろよな……〟

〝えへへ……綺麗だって。可愛いって。えへへへへ~〟

〝ほら、赤でいいって分かったろ。早く選んじまえよ〟

〝やっ……もう少しこうしてたい。もう少しだけ、そうやって見つめてて……〟

〝……っ。か、かれん…………

〝純……〟

 こんなやり取りをする場所じゃない。

 明らかに、こっちを見る視線がちらほらと感じられたくらいだ。

 だがここ最近、俺たちは何かのきっかけがあると突発的にこうなっていた。言葉が途切れて不安定な雰囲気の中で、ただ数秒見つめ合うだけのふわふわした時間。

 その時突然、雑踏の中から知っている声がする。

 俺はそれを耳にして肝を冷やした。

「ほらー、やっぱり向こうにいるの……かれんじゃね?」

 店の入り口の方に、クラスメートとおぼしき連中が見える。

 近くの柱が目隠しになってくれているのが幸いだが、全部知っている顔だ。氷堂に天樹院、他にも何人か……こっちにやって来ている!

 そういえば昨日、クラスで外出だ何だとスマホを通して言っていたっけ。すっかり忘れていたけど、覚えてさえいればこうなることは予想できたはず……。

 そして、俺の近くには水着姿の一日彼女。

 二人っきりでへなへなになったところを誰かにでも見られれば大スキャンダルだ。こんな場所で水着選びなんぞをしている時点で、今度こそ言い逃れはできなくなる。こいつの彼氏というだけで一気に噂が広がるのに、まして相手が俺などでは……。

 とっさに橘の方を向いた。

 彼女は小悪魔的にニヤリと、こっちがうろたえそうなのを見てご機嫌らしい。腰が引けた俺の手首を引っつかんで、目だけで何かを訴えてきたのだ。

〝任せて? 今はまだ、みんなには見られたくないんでしょ……?

 ええい、ままよ……。どうせこのままじっとしていればバレるんだし。

 とっさの判断で、俺は逆らう力を緩める。そしてそのまま橘に引っ張られた先は……試着室の中だった。彼女は俺を中にぶちこむや、サッと後ろのカーテンを閉める。

 ふむ……良いアイディアじゃないか。俺は胸をで下ろした。

 しかしそう思ったのも束の間。とんでもない、こいつのたくらみは小悪魔じゃ済まないレベルだった。

 カーテンから鏡までのスペースは二人で入るにも十分な広さだったのに、なぜか橘はじりじりとこっちに近づいてくる。

「な、何だよ…………?

 一歩下がれば、また一歩向かってきて。

 気づけば暗い小部屋の端っこまで追い込まれ……ドン、と。水着女は、俺の腰辺りで後ろの壁に右手をくっつけた。

 ふぇぇ……。新しい方の壁ドンだよぉ……。

 そうでなくても慌てふためいた後なのに、今日のこの女は無慈悲過ぎる。

 もうあれだ。クラスの仲間達よ、やっぱりこっち来て邪魔しろ! いっそこの絵面を混じりっ気のないギャグにしてくれ……!

 しかし、何事も都合よく行かないのが今日だ。

 彼女は恥じらい混じりの赤い顔に、怪しげな笑みを浮かべてきた。

「えへへ、これで二人っきり……。誰も見てないね……」

 近すぎて、少女の呼吸のリズムが知れてしまう。

 しかも今……金髪女は、水着女。

 素肌のほとんどをさらしている状態だ。

 生まれながらの童貞にしてその地位を自分の墓まで持って行く覚悟だった俺は、今回ばかりは彼女に触れてはならないという緊急指令を脳から全身に伝達したのだが……しかし、これ以上は後ろに下がれないのでどうにもならん。

「今日のキミ、いい……。あたし、そんなにされたら勘違いしちゃうよ?」

「あれはだなあ。俺の方が調子に乗ってたっつーか、何ならもう既に黒歴史になりかけているというか……」

「ううん、いいの……。さっきみたいなの、大好き……。だんだんさ、男の子っぽくなってるよね? 成長してんじゃん♪」

「はっ。成長っつっていーものだかな!」

 白くなまめかしい肌がすぐ眼の前にあり、彼女の熱気がじかに伝わってくる。

 先程よりも生々しい近さを感じながら、俺はどうにか平常心を保とうとした。けどちっともうまくいかない。息を飲み込んでのどを詰まらせそうだ。

「おい、離れろ……。ここ十分広いだろ……って」

 そりゃあ、こっちのあたふたした反応は完全に予想通りだろうさ。

 こいつは満足気にニヤリとして、抑えたひそひそ声で、

「しー……。二人でラブラブしてるとこ、みんなにバレちゃうっ」

「ラブラブ……」

「好きになっちゃいそう……」

 更に抗議の声を上げようとすると、手のひらで俺の口を覆ってくる。

 綺麗な顔をこっちに近づけてきて……優しい吐息が、横顔に当たった。

「あれー? かれんっぽい金髪が見えたんだけどなー」

 と、カーテンの向こうから氷堂らしき声がする。

 俺たちは声を抑えながら──姿は隠れているし、そんなことをする必要はないのに──二人で身体を寄せ合って小さくなっていた。しばらくずっとそうしていた。外の気配が消えるまで、橘の柔らかい手に口元を覆われながら外のけんそうを聞く。

 やっとのことで周りの音が消えて、しーんとすれば。彼女のささやき声が耳元をそっと撫でてくる。

「あーあ、いっけないんだぁ……。男の子がこんなとこに入ってきたら」

「お、お前が引っ張ってきたんだろーがっ」

「そだよ……。あたしが彼氏をここに入れちゃった♪ 二人でいけないこと、しちゃってるの……」

 俺があくまで抵抗しようとしたのを感じ取ったのだろう。彼女の左手で、こっちの右手がにゅっと握られた。

 それで、またしても耳元に乱れた息を感じる。

「や……暴れちゃだめ。悪い人にはお仕置き♪ ん……」

 左耳のあたりが……カプリと、あまみ。

 とろけるようにする感覚が全身に伝う。

 しかし追撃はこれだけでは終わらない。

 もう既に至近距離だというのに、橘はまだ一歩前に出てくる。すると限界まで密着し、壁とぬくもりに挟まれた。足が絡まってきて、素肌の感触が俺の服越しに……。

 緊張で動かなくなった俺の身体が、少女の柔らかさに押しつぶされそうだ。

 もう頭がのぼせて、脳がトマトのように爆発しそうになると。

 またしても頰が狙い撃ちされた。

「んー、ちゅっ……。これやるの、好き…………ゅっ……

「や、やめっ……」

「純、ガマンしないでっ……。ハズくなっても、ちゃんと彼女を好きでいて?」

 は、はあああああ。マジで……これは、どうにもならん…………

「んー……ちゅっ」

 橘の唇が、俺の肌の上でとどまった。

 今度はすぐに離れるのではなく、何秒もそこで息を漏らしていた。心地よさそうに。

 部屋の静けさを感じるほどに恥ずかしさが募り、俺の背中がするすると壁を擦って、しりが床にストンと落ちる。

 もう明日からこいつの目も見られないかも知れない。

 多分、一目合うだけで今日のことを思い出して、胸のムズムズで死んでしまうだろう。

 俺は情けなくも、降参の声を上げた。

「ばか。やり過ぎだ……」

 ……だが無論、一日彼女はそんなのお構いなしだ。

 橘も目の前にしゃがみ込んできて、こっちに「にしし……」と悪戯いたずらっぽい目を合わせてきた。自分のしたことの恥ずかしさは自覚しているようで、苦笑い気味にうなじに手をやってはいるが……白々しい。

「きれいって言われて、うれしかった……。えへへ……お礼♪」

「前も言っただろうが……!」

「あと一回言われたら。この場で告っちゃうから。試着室でガチのカップルになるとか、超やらしーよね……。みんなに自慢したくなっちゃうよ……?」

 ば、ばか言え……!

「ほら、あいつらもう行っただろ。出よう……」

「や……。人目がないの、今ぐらいだし。外だと手加減しなきゃじゃん」

「……お前、あれで手加減なんかしてたのか?」

「できてなかった……? まあ今は二人だし、しないけどね」

 橘は隣にちょこんと座ると、手を握って身体を寄せてきた。

 晒された肩が腕に当たってくる。俺は素肌が触れるととっさに離れようとしたのだが、金髪女はぐいぐいと突っ込んできて譲ろうとはしない。

「でもさ、いずれバレちゃうよ? 仲良しなのは仲良しなんだしさ。もうあたし、ガマンとかしたくない。ほんと、つらいの。だから今のうちに、ラブラブしたい。胸の中にね、たっくさんラブラブをめ込んどきたいの。家だと寂しいもん……。教室でも二人っきりの時よりは冷たいし……」

 ベンチの時のように腕も絡まって……頭を肩に載せてきたので、細やかな髪の毛が首筋に当たってくる。

 彼女……。俺の、彼女…………?

 橘かれんは、まるで本物の恋人みたいに……いや多分、並の三倍くらいには振る舞っていた。

 俺の息の乱れも、暴れる心臓の音も、きっと気づかれているだろう。

「今、人生で一番楽しいかも……。優しい彼氏クンのおかげで、すっかりリア充にしてもらっちゃったね……えへへ」

「ふん、元からリア充だろーが」

「や、そんなことない……」

 絡みつく力が強くなって、黙っている時間が増える。

 少しずつ変な雰囲気になっていた。

 暗い小部屋の中で、二人で……。

「純もリア充にしちゃうから。だって夏休みだよ? 分かってるっしょ?」

「分からんっ! 夏休みってのは、もっと家でごろごろして一人でだなあ……」

「ばーか。キミが一人なら、あたしも一人になるって言ったじゃん? リア充になるなら純と一緒じゃなきゃやなの……ね? 思い出、欲しい……」

 こんなにハラハラさせられたのに。

 こんなにおちょくられているのに。

 それでも俺は、まだこいつのことを大事に思っている。

 橘の方も、さっきのは多分……俺が喜ぶと思ったんだろう。耳のまれ方が、すごく甘くふわふわしていたから。

 可愛い。可愛すぎる。

 認めるよ。すっと嬉しかったんだ。

 ずっと感じているこの胸のムズムズの半分くらいは。

 きっと……嬉しさだったんだろう。

 今は橘が俺で遊んで楽しそうにしているのが、すごくすごく、大切な時間に思えてくる。

 これがずっと続けばいいとすら思ってしまう。

 やばい。緊張がまた、溶けてなくなる。

 俺、一人になりたいはずなんだ。

 金髪ギャルの勉強は既に成就したし、ガリ勉はもう用済みのはずなんだ。

 息が……切れそう。

 可愛すぎる。もっと仲良くなりたい。もっと二人っきりになりたい。

 き……き…………

「き、れい……だ」

「あーあ。声に出して言ってるよ♪」

「あ、ああ……。これはだな……」

「えへへ、純……。告るのは止めてあげるから……一個聞いてくれる?」

 鼓動が荒れる。

 息を隠したくて抑えようとすれば、一回の拍動だけで息が詰まりそうになる。

 橘は見つめ合う体勢から、横を向いて、頰を向けてきた。紅潮した肌だ。知ってるよ。こいつは無理してるから、ちょっとは恥ずかしいんだ。

「さっきからあたしがやってること。純もして……? 嫌……?」

 すっかり麻痺した脳で。

 震える口を──当てた。

 唇に集まった神経が、少女のきめ細かい頰の感触を伝えてきた。そのまま軽く押し付ける。それだけで甘い声が漏れ、こちらの胸はもだえそうになる。

「んっ……。いいよ……」

 そのまま隣り合った体が正対して、細い腕が背中に回ってくると。肌をさらした直接の温もりが、狭くて暗い空間の中で伝わってきた。

「思い出。思い出なの……。これ、好き……。キミの彼女やってんの、大好き……」

 耐えられずに唇を離すと、これがまずかった。顔まで正面になって、見つめ合ってしまう。さらに耐え難くなってしまう。

「橘……」

「だーめ。そうじゃないでしょ……?

「か、かれん……」

「思い出だよ、純……。今、サイコーの夏休みって感じだよね……」

 それから何分もそうしていた。

 お互いヤバイことしてるって、分かっていたはずだ。

 それでも雰囲気が俺たちに接触を強いていた。触れば触っているほど交わす言葉は少なくなるが、その分だけ共有する感情が鮮明になっていく。

「ねえ……? あたしの思ってること、分かるよね……?」

「さあなっ」

「噓……。分かってるよ、純は。ほんとは、そんなドンカンじゃないもん」

「……どうだか」

「しばらくこうしてたい……」

 胸の中の優しい感情が増幅する。

 止まらない。止まらない……。あふれる……。

 その日あいつは、それ以上は海に行こうと言わなかった。

 言う必要もなかった。