
──ひんやりと。
よくクーラーの効いたバスに揺られて、僕はぼんやりと流れる車窓の景色を眺める。
この上なく現実的で平凡な状況なのだが、どういうわけかあまり現実感がない。
それだけ昨日から今朝に掛けて、僕の身に起こった出来事が非現実的だったということなのだろうけれども、何となく戻ってきたはずの現実に居心地の悪さのようなものを感じてしまうのは精神衛生上あまりよろしくない。
それから何とはなしに、救助されてからのことを思い出す。
あの土砂崩れ(正確には地滑りというらしい)から逃れたあと、僕らは無事に捜索隊から保護され、そのまま速やかに病院へ搬送された。
このまま入院なのだろうか、と不安になったが、幸いなことに大きな怪我もなかったため、僕らは早々に解放された。能美の捻挫も軽いもので済んだようだ。
加賀美は──このときばかりは、補助電源とやらを使い、何事もなく元気なふうを装って切り抜けた。さすがに精密検査をされてしまったら、彼女の身体の秘密がバレてまずいので、心苦しくはあったが加賀美に無理をしてもらえて助かった。
結局午前一杯を諸々の事後処理に費やして──クラスのみんなと合流できたのは東京へ戻る直前だった。
「ご……ごだろうざあああん!」
再会するや否や、天津風は周囲の目も憚らず、大号泣で僕に抱きついてきた。自らが汚れるのも厭わずに、泥まみれの僕のジャージの胸に顔を押し当てておんおんと泣く天津風。
「良かったです……本当に良かったです……! 皆さんが無事で……私、ずっと心配で心配で……一晩中、神様に祈ってたんです……」
もしかしたら、天津風が僕らの無事を祈ってくれていたおかげで、何事もなくこうしてここへ戻ってこられたのかもしれない。何より、天津風の機転がなければ赤城が間に合わなかったわけで。
「……ありがとな、天津風」
感謝の言葉とともに抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、背中に加賀美を負ぶっていたため諦めた。
救助や病院関係者の前では元気に振る舞っていた加賀美だったが、すでに補助電源とやらも切れたようで今は再び睡眠モードだ。
存在が消えかかっているというのは──本当のようだった。
こちらの件は、未だに有効な対抗策を思いつけないでいた。というか、キャンプファイヤが行われなかったという事実が存在する以上、それを覆すことなど今さらできるはずもなく完全にお手上げ状態だった。
だが、このままでは宇宙は崩壊してしまう。意地でも何とかしなければならなかったが……重度の寝不足と疲労も相まって、思考が上手くまとまらない。
結局何も思いつかないまま、僕らは帰路のバスに乗り込んだのだった。
隣の席には、こんこんと眠りに就く加賀美が座っている。
ちなみに後ろの座席には、赤城と能美の二人が仲良く並んで座っていた。先ほどちらりと覗き見たが、今は手を繫ぎ肩を寄せ合って二人とも眠っていた。
二人のことは──もう大丈夫だろう。
だからあとは加賀美のことだけ──。
「──琥太郎さん」
ひょっこりと、前の座席から天津風が顔を覗かせた。
「眠らないんですか?」
「ああ……うん。身体は疲れ果ててるんだけど、なんか頭が冴えちゃってさ」
「良かったらあとで膝枕でもしてあげましょうか?」
「え、マジで!?」
「もちろんです。たくさん頑張った琥太郎さんにご褒美たくさんあげちゃいます」
ボーナスステージかよ! 必死に頑張った甲斐があるってもんだよ!
「ちなみに私、膝枕って初体験なのですが、琥太郎さんはどうですか?」
「……。僕も初めてだよ?」
「──今の間は何ですか? もしかして、過去に誰か女の子にやってもらったことがあるんですか?」
「…………」
相変わらず勘が鋭い。その誰かが、今僕の隣で眠りこける加賀美であると知られたらまずいと思い、上手く誤魔化す。
「やだなあ、天津風。そんなはずないだろう? ただ、天津風の初めてを僕みたいなカス虫がもらってしまって良いのかを悩んだだけさ」
「こ、琥太郎さんになら、私の初めて、ぜ、全部捧げてあげても良いですよ……」
「全部って何!?」
天津風、たまにブレーキが壊れたこと言うから怖い。
このままでは精神衛生上よろしくないと判断して、僕は早々に話題を変える。
「それにしても──僕らのせいで、天津風がこの林間学校を十分に楽しめなかったのは心残りだな。やっぱり夏休み、どこか旅行してリベンジしようぜ」
「林間学校は昨日までで十二分に楽しめましたけど……でも、そうですね。次はきららさんも一緒に、みんなで楽しい旅行にしましょう!」
「でも、おまえんちそういうの大丈夫なのか? 男がいるグループで旅行なんて……ご両親に反対されるんじゃないか?」
天津風はお嬢様で、さらに素敵なご両親に溺愛されているので少し心配になる。
「琥太郎さんと一緒なら、全然大丈夫ですよ。お父様もお母様も、琥太郎さんのこととても気に入ってしまいましたから。何ならすべての旅費を出させてほしいと息巻いているくらいです」
「……大変ありがたいお申し出だけど、さすがにそこまでお世話になるわけには」
「でもお父様、『息子のためならば、安いものだ』とニコニコしていました」
「娘の間違いですよね、お義父さん!?」
何か外堀が埋められてる気がする……。将来に対して言い知れぬ不安を抱き始める。
「……でも、キャンプファイヤできなかったのは心残りです。確かキャンプファイヤで共に踊った人たちは永遠に結ばれるという伝説があるのですよね」
「らしいな。まあ、よくある恋愛系の流言飛語だろう。真に受けるほどのことでは──」
「こういうのは、信じる心が大切なのですよ!」
「そうかなあ」
「私、琥太郎さんと永遠に結ばれたいです!」
「ちょっと何言ってるかわからないです」
「なんで何言ってるかわからないんですか!?」
いつもの掛け合いでお茶を濁す。まさか天津風も本気で僕と永遠に結ばれたいと思っているわけではあるまい。……わけではない、よね……?
ますます不安になる僕に、天津風は拗ねたようなふくれ面を向ける。何だか良くない流れになりそうだったので、僕はまた話題を変えることにする。
何か上手く彼女の気を逸らせそうな話題はないだろうか。
僕は話題探しのために、林間学校を初日から遡って考える。
……。
…………。
………………。
「────え?」
そうして何気なく思い出した初日の天津風の一言に──僕は思考が停止する。
まさか……そんなことが、あり得るのか……?
疑問や疑念は山ほどある。
だが、相手は豪運の青春令嬢、天津風撫子である。
彼女ならば、反則すれすれの裏技も、嬉々として正道にしてしまうような気がする。
だから僕は、最後の望みを天津風に託すことにした。
「──なあ、天津風。ちょっと無茶な相談があるんだけど……」
僕は天津風の耳に顔を寄せて小声で囁く。何故か耳を真っ赤にして僕の〈相談〉を聞いていた天津風だったが、すべてを聞き終えると、満面の笑みを浮かべてこう言った。
「──わたくしめに、お任せあれ」
バスは無事に東雲学園へ到着し、一同は解散となった。
加賀美はあれからずっと眠りこけていたので、僕は再び彼女を負ぶっている。
ただ、身体はもう動かせないようだったが、意識だけはあるようだ。
(湊くん……私、もう……)
(諦めるな。あと少し、あと少しだけ頑張って意識を保ってくれ)
心の中で彼女を元気づけて、僕は最後の仕上げに向かう。
「皆さん、お疲れでしょうから、おうちまでお送りしますよ」
天津風の提案で、僕らは彼女を迎えに来た黒塗りのリムジンに乗り込む。もちろん、赤城や能美も一緒だった。
バスよりもよほど快適なリムジンに揺られること数分。
僕らは天津風家の門の前に到着していた。いったいどういうことなのかと首を傾げる一同に、天津風はウィンクを向けて言った。
「──事前にお知らせしなくてすみません。でも、どうしても皆さんにお見せしたいものがあったんです」
リムジンは、音もなく門をくぐり、広い前庭を進んでいく。やがてリムジンは屋敷より少し手前のところで停車した。
「皆さん、こちらです」
車を降りて天津風は歩き出す。僕らはただ言われるままに彼女の背中を追っていく。
「いったい何用ですかな?」赤城が不思議そうに呟いた。
「……でも、すごいおうちだね。さすが天津風さん」能美も感心したように呟く。
しばらく歩いたところで、天津風は足を止めた。
「──なるほど、そういうことでしたか」
ようやく合点がいったというふうに赤城は指を鳴らす。他のみんなも〈それ〉を見て当然のように彼女の意図を察する。
何も理解できていないのは──僕の背中で目を閉じる加賀美くらいだろう。
「──加賀美、起きてるか? ちょっとだけ頑張って、これを見てくれないか?」
「……ん」
背中の加賀美にも良く見えるように、僕は身体を横にして〈それ〉を加賀美に示した。
加賀美はつらそうに少しだけ双眸を開き──そしてその先に広がる光景を見て、目を大きく見開いた。
「そん、な……まさか……!」
信じられないものでも見たかのように惚ける加賀美。
その反応も無理はない。
何故ならそこには──井桁に組まれた薪が煌々と燃え上がる、それはそれは見事なキャンプファイヤが当然のように鎮座していたのだから。
僕らの反応を楽しむように、天津風は含み笑いを浮かべて言った。
「くふふ……どうやらサプライズは大成功のようですね。さて、皆さん、林間学校お疲れさまでした。ですが──おうちに帰るまでが林間学校ですよ! さあ、林間学校の最後に、昨日できなかったキャンプファイヤを皆さんで楽しみましょう!」
そう、これこそが──僕の一発逆転の一手だった。
僕は帰りのバスの中で、こう提案した。
──『帰りに天津風の家でキャンプファイヤをすることは可能か』、と。
天津風家は、東雲学園都市の外れにひっそりと佇んでいる。つまり住宅地ではないため、庭で火をおこそうが誰に怒られることもないと踏んだのだ。
天津風はノリノリですぐに執事の衣笠氏に確認を取ってくれて──そして彼女の望みは、天津風家の使用人全員の力によって叶えられたという寸法だ。
そして肝心なのはここからだが……彼女は、初日にこんなことを言っていた。
──『家に帰るまでが遠足です』、と。
僕はそんな天津風の認識を利用して──全員が帰宅するそのときまで、林間学校は終わっていないのだと現実を拡張させたのだ。
つまり──今はまだ林間学校の真っ最中ということになる。
今回の世界崩壊フラグは、『赤城祐と能美天里沙が林間学校でキャンプファイヤを踊らなかったら世界は滅亡する』というものだ。
ならば当然──未だフラグは果たされないまま有効であることになる。
僕は、放心する加賀美にしたり顔を向けた。
「──だから言っただろう? 華麗に一発逆転で〈運命〉ってヤツを変えてやるって」
加賀美の双眸には、少しずつ涙が溜まっていく。
「……湊氏」不意に赤城は僕を呼ぶ。「輪ゴムか何かをお持ちではないですかな?」
「輪ゴム? いや、僕は持ってないけど……」
「ヘアゴムで良ければ私が持ってますよ」天津風は僕の隣で小首を傾げる。「赤城さん、それでも大丈夫ですか?」
「あいや、天津風嬢。むしろ好都合ですぞ。ありがたく拝借します」
天津風からヘアゴムを受け取ると、赤城はおもむろに顔の前面を覆い隠していた長い前髪をまとめて、頭頂部のあたりにゴムで結わえ付けた。
それからレンズの分厚い黒縁眼鏡を外して、制服の胸ポケットにしまう。
「──っ!?」
僕は思わず息を吞む。
初めて目にする赤城の素顔。大きな瞳と長いまつげが特徴的な──驚くほどの美形だった。
造形の印象は、どこか加賀美に似ている。
子どもの頃の赤城はとてもモテたと能美は言っていたが、これは納得だ。もしかしたら赤城は、能美のためこれ以上モテないようにと顔を隠し始めたのではないだろうか。
無論、真実の程は赤城本人にしかわからないことだけど。
赤城は不敵な笑みを僕に向けてから、くるりと回れ右をし、今度は能美に向き直る。
「──せっかくの機会ですぞ。自分と……いや、俺と踊ってくれないか、天里沙」
恭しく頭を下げて、手を差し伸べる赤城。
能美は目を丸くしてそれを見つめてから、本当に嬉しそうにくしゃりと微笑んだ。
「……うん。私で良ければ喜んで──」
手を取り合って、二人はキャンプファイヤを踊り始めた。
視界の隅にちらついていた世界崩壊アラートは、いつの間にか消失していた。
世界崩壊を無事に回避できたためか、加賀美は、すっかり元の調子を取り戻したようだった。
今は僕の隣に一人で立ち、どこか大人びた表情で赤城と能美のダンスを眺めている。
とにかく──ギリギリのところだったが、今回も何とか無事にフラグをやり過ごせて良かった。一時はさすがにもうダメかと諦めかけたが……まあ、往々にして人間はそういうときにこそ火事場の馬鹿力的に起死回生のアイデアを閃くものなのだろう。
……何だかそれはそれで運命に翻弄されているようで気持ちが悪いけれども。まあ、結果良ければ万事オッケーなのである。
今回はあまりにも大変だったので、感慨深く二人のダンスを眺めていたところで──。
「──琥太郎さん。もしよろしければ、私と踊ってくれませんか」
不意に声を掛けられる。少し驚いて声のほうへ視線を向けると、そこにははにかみを浮かべてこちらに手を差し伸べる天津風撫子が立っていた。
少し緊張しているのか、いつもよりも笑顔が硬い気がする。
どう答えたものか、と一瞬悩むが、結局答えなど僕の中では初めから決まっている。
「──ああ」
あまり感情が籠もらないようあえてぞんざいに返事をして、僕は天津風の手を取った。
二人並んでキャンプファイヤの元まで歩み寄り、それからハタと気づく。
「あの、天津風。僕、ダンスとかやったこともないんだけど」
「何となくで大丈夫ですよ」天津風は満面の笑みで僕を見上げる。「こういうのは、形よりも雰囲気を楽しむことが大切なのです。私がリードしますので、琥太郎さんはそれに合わせてただこの時間を楽しんでください」
天津風は僕に向き合って両手を取る。何もわからずに、僕はただされるがまま天津風と身体を密着させて踊り始める。
とにかく天津風の足を踏まないよう集中するが、天津風本人は涼しい顔で楽しげにステップを踏み続ける。どうやら彼女のリードに身体を任せていれば、足を踏むなどという低レベルな失態は犯さないようになっているらしい。
上手くできているものだと感心する。
次第に少し慣れてきて身体の緊張もほぐれてくると、心にゆとりができてダンスそのものを楽しめるようになる。
音楽のないダンス。僕と天津風の鼓動だけが、シンクロするように一定のリズムを刻んでいた。得も言われぬ幸福感に思わず顔がほころぶ。
「──私、今、すごく幸せです」天津風が僕にしか聞こえない声で囁いた。「琥太郎さんとこうして青春を謳歌できて、本当に胸が張り裂けそうなほど、幸せです」
「……僕もだよ」
ダンスの高揚感がそれを促すのか、僕は普段ならば絶対に言えないような恥ずかしい言葉を平然と返す。
「僕も、天津風と出会えて……幸せだよ」
「……琥太郎さん」
不意に天津風は、潤んだ瞳で僕を見上げ、それから、意を決したように続ける。
「私、琥太郎さんのことが──」
「──ストップ」
直感的にこれから天津風が何を言うのか予想できてしまったので、僕は彼女の言葉を遮る。
おそらくは──告白。
でも、今の僕にはそれを受け止める勇気がない。
より正確に言うなら、世界に対してそこまでの責任を負えない、という感じか。
今の世界は、僕が生きている状態と死んでいる状態が重なり合った、極めて不安定な形でかろうじて存在を続けている。
言い換えるならば、何とか上手いこと、因果律からの追及を躱し、やり過ごしているだけなのだ。
下手なことをしたら、これまで躱し続けてきた因果律からの追及を一気に受け、僕が世界崩壊の原因になってしまう可能性だってゼロではない。
まして相手は、世界に愛された娘、天津風撫子だ。彼女と恋仲になろうとする不安定な僕に対し、因果律が鷹揚な判断を下す保証などどこにもないのである。
だから、無責任に彼女の告白を受け入れるわけにはいかない。
たとえば、すぐ目の前に世界崩壊フラグが立っているときなどは、多少の無茶ができるが、天津風との関係を進展させることは、少なくとも火急に迫られてのことではないので、冒険することに躊躇ってしまうのだ。
──でも、いつまでもこのまま不安定な関係性を続けて良いとも思っていない。
だから僕は、天津風の目を真っ直ぐに見返して言う。
「──その先は、僕から言いたい。いつか必ず、きみにそれを伝えるから……どうかそれまで、待っていてほしい。そんなに長くは待たせないから……たぶん」
天津風は驚いたように目を丸くしてから、わずかに頰を染めて苦笑した。
「わかりました。琥太郎さんから言っていただけるのを、待っています。でも私、それほど辛抱強くないですから……あまり遅いと、隙を見て私から言っちゃいますよ?」
「……努力するよ」僕も苦笑を返す。「夏の終わりまでには、必ず」
僕の言葉に、天津風は華やいだように笑った。
「──とても素敵な夏休みになりそうですね。私、楽しみにしています」
暮れなずむ緋色の空を背景に、僕らの拙いダンスは続いて行く。