
翌朝──睡眠不足で軽い頭痛を覚えながら朝食を摂り終えると、すぐにジャージに着替えてクラス全員でバスに乗り込んだ。
本日は朝から一日掛かりで、山中オリエンテーリングが行われる。
ホテルから一時間ほどバスに揺られて、鬱蒼と木々の生い茂る、おおよそ文明と呼べるものが周囲百メートル以内に見当たらない原生林に僕らは突然降ろされた。
もう少し文化的なオリエンテーリングを予想していた僕ら都会キッズたちは大層戸惑う。
空は抜けるような快晴。絶好のオリエンテーリング日和ではあるのだが、僕らの心はまったく晴れない。
僕らを降ろして平然と走り去るバスを見送ってから、教室と同じように芋色のジャージを着て竹刀を手にした担任の村雨は、淡々と説明する。
「おーし、仔猫どもよく聞け。これから班ごとに地図を見てゴールまで進んでもらう。高低差は考慮せず、直線距離にして約十キロ。元気が有り余っているおまえらの足なら休みながらでも六時間あれば全員ゴールできる道のりだろう」
この教師、僕らを修験者か何かだと勘違いしてるんじゃないか……?
自分で言うのも何だが、僕らは慢性的な運動不足と名高い都会の進学校のもやしっ子なのだ。十キロといえば平地でも二、三時間は掛かる道のり。それをこの山道で行おうとしているのだから正気の沙汰ではない。というか、六時間ゴールとか本当に可能なのか……。
「途中のチェックポイントには、クイズが用意されているので各班で協力して解くように。成績上位班には豪華賞品もあるので頑張れ」
まったく期待できねえ……。どうせ手作りのしょうもない賞状とかもらえるだけだろ……。
「ちなみに賞品は、学食の無料チケット半年分だ」
わりとガチのヤツだった。え、それ実際の価値は四、五万相当なのでは……?
現金なもので、クラスメイトたちは俄然やる気を見せ始めた。
「琥太郎さん琥太郎さん! もしもらえたら、私の分は琥太郎さんにあげますね! 私、お弁当ですから!」
「あ、うん、ありがとう」
本音を言うと天津風の弁当のほうが百倍くらい豪華で美味しいので、それほど嬉しくもなかったけど一応礼を言っておく。
クラスメイトたちの士気が上がったところで、各班五分間隔でスタートとなった。
待ち時間の間、地図を広げながら僕らは作戦会議を開始する。
「ボーイスカウト時代にオリエンテーリングは何度かやったことあるので安心してくだされ」
オタクにあるまじき積極性とリーダーシップを発揮して、赤城を中心にして話は進む。
「地図を見た感じ、初心者コースという感じですな。些か行程が長いのが気掛かりですが……休みながら落ち着いて進めば、怪我をすることもなくゴールできましょう」
「荷物も結構あるし、ペース配分が重要だね」八重樫が呟く。
「そうですな。ただし山の天気は変わりやすいので、基本的には巻きで動いたほうが賢明ですぞ。なるべく急ぎつつ適度に休んで、と言うのは容易ですが、実際にはこれがなかなかに難しいものです。しかし、今回は自分が責任を持って皆をゴールまで導くのでご安心くだされ」
「すごいですね……赤城さん、メチャクチャ頼りになります……!」天津風は尊敬の眼差しを赤城に向けた。
天津風すまない……僕がマジでクソの役にも立たなくてすまない……!
「琥太郎さんはそのままで良いんですよ。私の隣にいてくださるだけで、元気百倍です」
「心を読んだ上に悲しいフォローやめてくれ……!」
より惨めになるじゃないか……!
ちょうどそこで僕らの班の順番になったので、僕らは歩き出す。
なかなか大変な行程になりそうではあるが……僕にとってはハッキリ言って消化試合みたいなものだ。何故ならそれよりも、今日の夜に行われる予定のキャンプファイヤのほうがよほど重要だからだ。
加賀美によると、赤城と能美はキャンプファイヤで踊ったらしい。おそらくそれは、歴史的な事実なのだろう。
だが、それと同時に僕の右眼には相変わらず世界崩壊のフラグが示されている。ということは、二人がキャンプファイヤを踊らないという可能性もまだ十分に残されていることになる。そしてその結果に導き出される未来は──タイムパラドクスによる世界の崩壊だ。
それを防ぐために昨日一日頑張ってはみたが……正直、成果らしい成果というものは得られていない。一応、二人が元々は幼なじみだったという貴重な情報は入手できたが、そもそも仲違いをしてしまった原因まではわからなかったし、そこから二人の関係性修復までの道のりもまるで見えてこない。
まあ、そもそもカレーの件のような因果律に許容されるタイムパラドクスと、世界崩壊フラグのような許容されないタイムパラドクスの違いみたいなものは依然として不明なままなのだけれども。
本当にあと数時間で二人の関係を修復して、キャンプファイヤを踊らせることなどできるのだろうか……。
相変わらず、未来に対して不安ばかりが募る。
当の赤城は、道端で拾った木の棒を手に、上機嫌に先頭で山道を進んでいく。
対する能美は、いつもどおりのギャルメイクで八重樫と楽しそうに会話しながら最後尾を歩いていた。
……ああもう、マジでどうやって二人をくっつければ良いんだ。
加賀美に相談でも持ち掛けようかと思ったところでハタと気づく。
そういえば……今日は加賀美とまだ一度も会話をしていない。
どうにも朝から何となく上の空というか、気も漫ろで、話しかけにくい雰囲気を纏っていたのだった。
何か……あったのだろうか。
「なあ、天津風」
「はあい、何でしょう琥太郎さん」
僕の隣をのんびり歩く天津風は、楽しそうに小首を傾げた。
「委員長さ、何かいつもと様子が違うみたいだけど、どうしたんだ?」
「あ……それ私も気になってたんです」少しだけ声のトーンを落とす。「実は朝起きたときからあんな感じで……。熱でもあるのかと思っておでこごっつんこしてみましたけど、そういう感じでもなさそうで」
え、具合悪そうだと天津風におでこごっつんこしてもらえるの? 羨ましい……!
少しだけ思考が逸れるが真面目なシーンだったので、おくびにも出さずに僕は天津風の言葉に耳を傾ける。
「寝不足か、それか疲れが溜まってしまっているのでしょうか。一週間まえの試験後も似たような感じでしたし」
「……そういえばそうだったな」
調子の悪そうだった加賀美を家まで送っていったことを思い出す。
「寝不足って、昨日あの後、夜通しガールズトークでもしてたのか?」
「いえ。お部屋に戻るや否や、能美さんはバタンキューでしたし、私と美玖さんも一緒にシャワーを浴びて汗を流してからはすぐに眠ってしまいました」
「シャワーを!? 一緒に!?」
「はい。二人で身体を洗いっこしたんですよ。楽しかったです」
「裸で!?」
「シャワーなのですから当たり前でしょう」
桃源郷かよ。
シャワーヘッドに嫉妬したのは生まれて初めてだよ。
「琥太郎さん羨ましそうですね。では今度は三人で洗いっこしましょう」
「倫理的にアウトだよ!」
少年ジャンプのお色気漫画でも今どきそんな状況滅多にないわ。
……いやまあ、今はそれどころではない。
「……それで、委員長は何て言ってるんだ?」
「それが、大丈夫だ、問題ないの一点張りで」
それ言ってるやつ、大体問題あるやつだよ。
「朝ご飯もちゃんと食べていないみたいでしたし、ちょっと心配です……」
天津風は切なげに眉尻を下げた。そういうさり気ない仕草は反射的に抱き締めたくなるほどの庇護欲を誘うが、僕は鋼鉄の自制心で我慢する。
「……僕は男だし、女子の体調の変化とかそういうのはよくわからないからさ。一応、少し気を張って委員長のこと見ててやってくれよ。こういうの天津風にしか頼めないからさ」
「……っ! お任せください……! この天津風撫子、我が身を賭して美玖さんを守ります!」
「いや、別にそこまではしなくていいんで」
鼻息を荒くする天津風を僕は軽くいなす。天津風も振り幅がよくわからないよな……。
一応念のため、加賀美にも声を掛けてみる。
(なあ、委員長)
(…………)
反応がない。
(おーい、委員長? 加賀美さん? 美玖さん美玖っち美玖ちゃん?)
(ん……ああ、湊くんか。ごめんね、ちょっとボーッとしてたよ)
ようやくリアクションがあったが、やはりどうにも反応は鈍い。
(何か調子悪そうだけど大丈夫か?)
(全然元気だよ? どうして?)
(いや、全然元気に見えないから声掛けてるんだけど)
(もう、湊くんは過保護で心配性だなあ。ちょっと疲れが溜まってるだけだって)
ドヤ顔をこちらに向けるが、やはり少し無理をしているように見えてならない。
(山歩きをあまり甘く見ないほうがいいぞ。体調が悪くなったらすぐに言え。オリエンテーリングなんて遊びなんだから、具合悪いの無理してやることなんかないぞ)
(だから心配しすぎだって。それにこのオリエンテーリングはただの遊びじゃなくて、赤城くんと能美さんの仲を急接近させるための最後のチャンスなんだよ? 今夜にはもうキャンプファイヤを踊らせないと世界は崩壊しちゃうんだからね。湊くんこそ、少し真剣にこの問題に向き合ったほうがいいよ)
そう言われてしまうと僕も二の句を継げなくなる。今回の世界崩壊フラグに関して、加賀美が誰よりも責任を感じてしまっているから、気負うものがあるのかもしれないけれども……それでも僕は加賀美が無理をすることのほうが心配だ。
(……わかったよ。ただ、本当に無理だけはするなよ。世界の存続なんかよりも、僕はおまえのほうが大事だ)
(あはは、湊くんは相変わらず軟派だなあ。そういうのは、天津風さんだけに言いなさい)
僕の本心は軽くいなされ、もうこの会話はおしまいとばかりに加賀美は前を向いて歩き出してしまった。
もう少し突っ込んでやりたいところだったが……とりあえずは様子見に回るしかなさそうだ。
何となく胸騒ぎのようなものを覚えながら、僕は慣れない山道を踏みしめていく。
それから間もなくして第一のチェックポイントに到着した。スタートから早くも小一時間が経過していて、僕らは少し息が上がってきていた。
立て札があり、そこには『チェックポイント』の文字とともにクイズが書かれた紙が張り出されている。
荒い息のままクイズに目を通す。
■問題1 次の表を見て規則性を見つけ出し、『スイカ』はあるとなしのどちらに入るか理由も含めて答えよ。

…………。
いや、普通に難しくね?
先行していたはずの他の班の人たちも困ったように立て札の前に立ち尽くしている。
「こういうの八重樫得意じゃないか?」
期待を込めて視線を向けるが反応はあまり芳しくなかった。
「いや……謎かけみたいのはあまり得意じゃないな。短波と長波は電磁波のことだろうから、両者を比較したら短波のほうが直進性が強くて遠くまで届くって特徴があるくらいかな」
「なるほど! つまり『ある』のほうが強いということですね!」
迷探偵天津風は、目をキラキラと輝かせながら言った。
「獅子はライオンですし、ライオンと虎だったらそれはライオンのほうが強いはずです!」
「……でも、峰と刃なら刃のほうが強いんじゃないか?」
「たぶん逆刃刀なのでしょう」
「勝手に設定を増やすな!」
逆刃刀だって刃のほうが強いわ。
「でも、それなら民と王でも王のほうが強いんじゃないかな?」優しく尋ねる八重樫。
「いえ、いつの時代も王族は民に一揆を起こされて滅ぶものです。つまり、民最強」
酷い偏見だ。
「……じゃあ、スイカはどっちだよ」
呆れながら僕は尋ねる。天津風は自信満々に胸を張って答えた。
「スイカは『なし』です! だって強くなさそうですし!」
「──いや、スイカは『ある』、ですぞ」
そこで唐突に赤城が割って入った。全員の注目が赤城に向くが、当の本人はさして興味もなさそうに歩き出す。
「それじゃあ、少し呼吸も整えたところで、先を急ぎましょうぞ。まだまだ行程は序盤ですからな」
赤城に遅れないよう僕らも歩き出すが、狐につままれたような気持ちだった。
まさかあの一瞬で規則性に気づいたのか……?
「なあ、赤城くん。さっきの問題全然わからなかったんだけど……解説してくれないか」
歩きながら尋ねると、赤城は振り返ることもなく地図を眺めながら淡々と答えた。
「何、そんな難しく考えることはないでござる。そうでござるな……『ある』ほうの漢字をカタカナにしてみたらわかりやすいでござるよ」
言われるまま頭の中で漢字を開く。
タンパ、シシ、ミネ、タミ。
そこで、八重樫が何かに気づいたように、ああ、と指を鳴らした。
「そうか、五大栄養素か」
「ご明察ですぞ」赤城は口元をわずかに歪めて笑った。「短波はタンパク質、獅子は脂質、峰はミネラル、民はビタミンの一部なわけですな。さて残りは?」
「なるほど、スイカは炭水化物か!」
僕は思わず膝を打った。言われてみれば確かにそれ以外に答えなんてないように思えるが、あんな一瞬ですぐに五大栄養素なんて共通点に気づけるはずがない。
「すごいすごい! 赤城さん、天才ですね!」天津風は楽しそうに手を叩く。「ねえねえ、能美さん! 赤城さんすごいですね!」
急に水を向けられ、一瞬戸惑ったような顔をする能美だったが、すぐに小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「べっつにー? あーしだってわかってたし。ってゆーか、どうせまた漫画かアニメで似たようなクイズ見たことあっただけなんでしょ? それを誇らしげに語っちゃって、オタクマジキモいわ」
「──別に誇らしげに語ってはいませんぞ」赤城は平然と受け流す。「ひらめき一発の簡単なクイズでしたからな。きっと本当に能美にも解けていたのだろうと思いますぞ。気分を害したのであれば謝りますぞ」
「そ、そういう言い方マジむかつくっていうか」想定とは異なる切り返しだったのか、能美は鼻白む。「それじゃあ、あーしが悪いみたいじゃん……」
「──失敬。そういうつもりはなかったのだが……重ね重ね申し訳ない」
「…………」
不機嫌そうに能美はそっぽを向いてしまった。
昨日までならばまた口げんかのような言い合いが始まりそうな状況だったが、何も起こらない。ひとえに赤城が能美のケンカを買わなかったためだ。
昨日の夜、僕に秘密を打ち明けてから、何らかの心境の変化があったのかもしれない。
これは……良い変化なのだろうか。
まだ判断はつかなかったが、僕らは少しだけ重苦しい空気を纏ったまま山道を進んでいく。早朝あれだけ晴れていた空は、いつの間にか少しずつ濃い雲が出始めていた。
山道というのは思った以上に体力を持っていかれるようで、それほど長い距離を歩いているわけではないはずなのに、すぐに息が上がってしまった。
赤城もそれは理解しているようで、僕らを先導しながらも常にこちらの状態に意識を向けてくれていて、頻繁に息を整えるための小休憩を挟んでくれた。おかげで僕らはまだ十分に余力を残した状態で第二のチェックポイントに到着する。
第一のチェックポイントと同様、立て札にクイズが張り出されていた。
■問題2 以下の問いに答えよ。

……いや、だからさ。難易度の設定間違ってない?
何なの? 教員にクイズ作家でもいるの?
クイズが解けなさすぎて不満ばかりが湧き上がる。
しかし──。
「答えは『クルトン』ですな。皆は体調はどうですかな? 余裕があるようならば、今のうちにもう少し後続を引き離しておきたいと思うのですが──」
「いや、待て待て、落ち着け赤城くん」さすがに止めに入る。「体力的にはまだ大丈夫だが、そのまえにクイズを一瞬で解きすぎだ。一応チーム競技なんだから、せめて僕らには先にクイズのほうを解説してくれ」
みんなの様子を窺うと、僕と同様にさすがにまだクイズは解けていない様子で不思議そうな顔を赤城に向けている。
「も、申し訳ない……自分、つい経験者としての責務からクイズは二の次で、オリエンテーリングの進行を優先してしまっていましたぞ」
「ああ、いや、完全に赤城くん頼みにしてしまってる僕らが悪いから、そんな責任みたいなのは感じてくれなくて良いんだけどさ。それより、そもそもこのクイズのおじさんはなんだ?」
「これは、ジュリアス・シーザーでしょうな」
いらすとやさん、ジュリアス・シーザーの素材まであるのか。マジですげえな……。
「出題者からの親切なヒントですな。ジュリアス・シーザーのイラストとこの文字列──これは明らかにシーザー暗号を示唆していますぞ。シーザー暗号というのは、所謂換え字式暗号の一種で、平文を特定の数だけ前後にシフトさせる感じのシンプルな暗号ですな。今回の場合は単純に五十音表に当てはめて、いくつかずらせば問題文が浮かび上がってきますぞ。ここで重要なのは何文字ずらすか、ということですが、これもイラストのジュリアス・シーザーがヒントになっていて、彼が生まれたとされている七月──つまり7つずらして考えろと言っているのですな。ちなみに七月のJulyは、このジュリアス・シーザーに由来しますぞ。さて、問題文ですが長音はそのまま、濁点や半濁点もおそらくそのまま。囲い文字の『を』はおそらく拗音か促音でしょう。そうして考えると、現れる平文は『シーザーサラダやコーンスープなどに使われる、パンを小さなサイコロ状にして油で揚げたものを何というか?』。そしてこの問いの正解は、『クルトン』ですぞ」
「…………」
知恵がすっごいな!
すごすぎて若干みんな引いてるよ!
あと重ね重ね言うけど、絶対難易度設定おかしいから。これ絶対、山歩きに不慣れな都会の高校生たちによる山岳オリエンテーリングのチェックポイントで出されるクイズの難易度じゃないから。高校生クイズとかのクイズガチ勢が楽しく遊べるレベルの難易度だから。
「赤城さんすごいですね! コナンくんみたいです!」
天津風が感動したように声を上げる。確かに眼鏡だし小柄だし頭良すぎるし近いものがある気がする。ただ赤城がコナンさんだったら、このあと僕らは何らかの不幸に見舞われることになるのだけど。
ははっ、まさかそんなこと現実に起こるわけねー。
下らない考えを振り払って、僕は再び歩き出した赤城の背中を追って足を進める。
空を見上げると、雲はますます厚みを増して、こちらに重いプレッシャを掛けてくる。スマホで天気予報を確認しようと思ったが、圏外で使い物にならなかった。
「何だか雲行きが怪しくなってきましたね」
天津風が不安そうに呟いた。いつもなら天気の悪化は真っ先に天津風の機嫌変調を疑うところだったが、彼女の様子を見るにどうやらこれはナチュラルな天候悪化のようだった。
まあ、それはそうだよね……別に天津風の機嫌で四六時中天気が決定されるわけじゃないよね……。
ただ彼女の不安感が、悪化しつつある天候に拍車を掛ける怖れはあったので、そういう意味では予断を許さないとも言えそうだけど。
そこでふと気になって能美に視線を向ける。彼女は先ほどの赤城とのいざこざ以来、ばつが悪そうに口を噤んで最後尾を歩いていた。ずっと八重樫が気に掛けていたようだったが、あまり効果らしい効果はなかったようだ。
僕は歩調を緩めて、彼女の隣を歩く。
「能美、調子はどうだ?」
「……あ、コタっち」能美は俯いていた顔を上げ僕を見る。「あーしは大丈夫だよ。超元気ぶんぶん丸」
誰だよ元気ぶんぶん丸。
「ちょっとなんか無理してるように見えたからさ。疲れたら遠慮しないで言えよ。おまえが疲れてるってことは、他のみんなだって絶対に疲れてるってことだからさ」
「コタっちが優しすぎて漏れそう」
「大丈夫? 背中で隠してやろうか?」
「この屋外の山中で致せと!? コタっち、優しさの方向性がエグいね!?」
どうやら突っ込みを入れる元気はあるようだ。少しだけ安心して、僕はそのまま能美の隣を歩く。山道はますます険しくなっていき、段々と足を上げるのも億劫になってくる。
しばらく無言で足を進めたが、不意に能美は思いきったように口を開いた。
「──コタっちはさ、どうやってしこっちと仲良くなったの?」
「……え?」
「しこっちってほら、すごい美人だし、すごいお金持ちだし、性格だってすごい可愛いし……はっきり言って完璧超人の人気者じゃん? でもコタっちって、言っちゃ悪いけどイケメンってわけでもないし、陰キャでクラスでも目立たないほうで、友だちだって多くなさそうだし、特別運動が得意ってわけでもないでしょ? コタっちが優しくて良い人ってのは、あーしにもわかるけどさ、でも端から見てるとやっぱり不釣り合いっていうか……。だから、どうやってしこっちを落としたのか気になっちゃって」
「──容赦ないな」
滅茶苦茶言われて普通なら気分を害すところだったが、逆に突き抜けすぎていて笑ってしまった。能美に悪意がないというのがわかったからかもしれない。
「でも……別に何もしてないんだ」僕は正直に答える。
「ただ何となく知り合って、何となく仲良くなっただけだから。別に落としたとか狙ってたとか、そういうのじゃないんだ。強いて言うなら……僕の運が悪すぎたことが幸運だったって感じかな」
「運が悪すぎたのが……幸運?」
「ああ。天津風との出会いは、正直僕の中ではろくでもないものでさ。はっきり言って最初は関わり合いになったことを後悔するレベルだったよ」
「──意外だね。あんな美人と知り合いになれて、嬉しくない男の子なんているんだ」
「……人は見た目じゃないからね」
食パンを咥えて走ってきた天津風とぶつかった、衝撃のあの日。僕は天津風のことを頭のイカれた青春バカ野郎なのだと思った。
元々、激烈に僕の運が悪かったこともあり、それまでの高校生活が驚くほど安定して落ち着いたものだったことから、その揺り戻しのような大きな不幸に見舞われるのかと身構えた。
でも、彼女と関わっていくうちに、それにもちゃんとした理由があり、天津風自身は少し変わっただけの普通の女の子なのだと知って──気づいたら僕は彼女に夢中になっていた。
だからたぶん僕は、天津風と出会えたことが人生最大の幸運だったのだと。
今ではそう確信している。
「最近思うんだけどさ、世の中の出来事ってたぶんすべてに意味があるんだ。因果や縁って、積み重なっていくものだからさ。それが良いものであれ悪いものであれ、未来に繫がってる」
「……つまり、運命は決まってるってこと?」
「違うよ。あらゆる未来が選択可能だってことさ。だからすでに起こったことを腐したって、何の意味もない。何があっても行動あるのみだ。結局のところ、いつだって自分の未来は自分だけのものなんだからさ」
「なにそれ」能美は苦笑した。「やっぱコタっち変わってんね。しこっちも変わってるけどさ。……うん、不釣り合いって言ったのは謝るよ。二人はたぶん、運命的なレベルでお似合いなんだと思う。──コタっちは、あーしと似てるかもと思ったけど、全然違ったわ」
「僕と能美が……似てる?」
「うん。何て言うか……叶わない恋をしてるところが、かな」
口を滑らせたのか、能美はばつが悪そうに言い繕う。
「ごめん、忘れて。あーしなんかと比べたら二人に悪いわ」
そう言うと一方的に会話を打ち切って、彼女はまた一人で歩き出してしまった。
ひょっとしてその相手は赤城なのか──と尋ねたかったが、その機会を逸してしまう。
しかし……叶わない恋、というのはいったいどういうことなのか。以前、ヒーローに憧れていると言っていたことと何か関係があるのだろうか。
赤城への恋が叶わないものだ、というのも少々よくわからないが、それ以前にもしその相手が赤城なのだとしたら、二人の関係に先に変化をもたらしたのは能美のほうだったのではなかったのか。
昨晩の赤城の話では、小学校卒業直前まで二人の仲は極めて良好だったはずなのに、突然能美の態度が豹変して、さらにギャル化したということだったし……。
どのような心境の変化が能美の身にあったのか。それを知らないことにはこの問題は解決しない気がしてならなかったが、デリケートな話だけに迂闊に突っ込んで機嫌を損ねてしまったらそれこそ今晩のキャンプファイヤへの望みが絶たれてしまうため、ここは慎重に機会を窺わなければならない。
結局大きな進展もないまま、オリエンテーリングは進んでいく。
加賀美はほとんど口を開かず、心ここにあらずという感じで淡々と歩いているし、気を遣ってか天津風や八重樫も次第にあまり喋らなくなって来た。
重苦しく立ちこめる曇天が、気持ちを沈めてしまっているせいかもしれない。湿度も上がってきて、肌に纏わり付いてくるような熱気が鬱陶しい。
何となく苛立たしくすら思いながらも黙々と足を進めて──やがて僕らは第三のチェックポイントへと到着した。
そこは、少しだけ開けた場所になっており、木製の机や椅子などが点々と並べられていた。数時間ぶりに目にする文明めいた品々に、僕は何とはなしに安心感を覚えた。
「おう、仔猫ども。一番乗りだな」
第三のチェックポイントには担任の村雨が待っていた。おそらく車で先回りしてきたのだろう。普段は暑苦しくて迷惑この上ない村雨だったが、何故か今はホッとする。
「湊の班は全員いるようだな。昼食休憩は好きなだけ取って良いが、ゴールには間に合うようにな。あと、それから一つみんなに伝えておくことがある」
意外にも村雨は真面目な声色で続ける。
「少し天候が不安になってきたな。昨日の天気予報だと一日中晴れの予定だったんだが……急速に発達した雨雲があるみたいだ。もし途中で雨が降ってきたら、持ってきた雨具着用の上、様子見だな。基本は、変わらずにゴールを目指してもらうことになると思うが、もし雨足が強まるようであれば遭難の危険もあるから気を引き締めるように。とりあえず、各自の判断で速やかに一番最寄りのチェックポイントへ向かうこと。そこから迂回路で途中下山になるだろう。チェックポイントには誰かしら教員が待機しているから、指示に従うように」
「ま、待ってください!」途端に慌てたように加賀美は食って掛かる。「もし雨が降ったらキャンプファイヤはどうなるんですか!」
「当然中止だな。残念ながら」
「そんな……!」口元に手を当てて絶句する加賀美。
村雨は意外そうに目を丸くする。
「委員長はそんなにキャンプファイヤを楽しみにしてたのか。まあ、でも大丈夫だろう。今のところ夜の天気予報は晴れみたいだからな」
「そう、ですよね……」
ありありと不安を示しながらも、加賀美は大人しく引き下がった。
キャンプファイヤが中止なんてことになったら、宇宙崩壊まっしぐらなので加賀美としても気が気ではないのだろう。不安なのはわかるが……あまり神経過敏になっていると夜までもたなさそうで少し心配になる。
(──落ち着けよ加賀美。正史では、確かに赤城と能美はキャンプファイヤを踊った末に結ばれてるんだ。加賀美が生まれたのがその証拠だろう? だからそんなに焦るなって)
(……うん。気を遣わせちゃってごめんね、湊くん)
加賀美は不承不承という感じで小さく頷いて見せた。
僕らは大きな丸テーブルに着いて、朝ホテルを出るときに持たされた弁当を食べ始める。
ちなみに第三のチェックポイントにもクイズが用意されていた。
■問題3 以下の問いに答えよ。
あるマジシャンが円を描くように伏せた五つのカップの中に一つボールを隠した。
あなたは、一度に一つだけカップの中身を確認することができる。
あなたが選択したカップの中にボールがなかった場合、マジシャンはあなたにわからないように今ボールが入っているカップと隣り合った左右いずれかのカップの中に必ずボールを移動させる。
その後、あなたは再び一つだけカップの中身を確認する。
この操作を繰り返した場合、最大何回目であなたはボールの位置を特定できるか?
ただし、あなたが選択したカップとボールの入ったカップが隣接していた場合、次のターンでは、前ターンであなたが選択したカップにボールを移動させられないものとする(隣接していた場合、次ターンでは常に反対側に一つ移動する)。
おそらくは、論理パズルと呼ばれる類の問題だろう。
相変わらず難易度設定を間違えているが、ランチタイムの話題に良かったため、僕らは弁当を突きながら議論に興じた。侃々諤々と様々な意見が出たが、最終的には赤城の鶴の一声、
「──以上の理由から、最適な行動を取れば最大六回目でボールの位置を特定できますぞ」
という解に皆打ちのめされてしまった。いやマジで赤城リアル寄りのバケモンだな……。大体こういうのって、グーグルとかマイクロソフトとかそういう世界的大企業の入社試験に出るもんだろ……。断じて、一般的な高校生によるレクリエーションに登場して良い問題じゃないよ……。
重ね重ね言うが、企画者はわりと本気で頭がおかしいなと思った。
昼食と細やかな休憩を終えたところで、僕らは再び山歩きの続きに取り掛かる。
食後ということもあり、赤城が少しだけペースを落としてくれたおかげで、僕らは大きな疲労を溜めることなく歩みを進めることができた。
その間も相変わらず加賀美は、どこかボーッとして口数が少なく、能美もあまり積極的に僕らの会話に参加しては来なかった。
昨日のカレーや夜の大富豪でせっかく距離が縮まったと思ったのに……また関係性がリセットされてしまったみたいだ。班全体の雰囲気も何となく重苦しく、僕や天津風の会話もあまり弾まなかった。慣れない山道に気疲れしてしまっているのかもしれない。体力的にはまだ余裕があるところだけど……。
そんなことを思いながら足を進めていたら、ポツポツと雨が降り始めた。
僕らは持参したカッパを着込んで、行軍を続ける。
「──何だか、ジェダイの騎士みたいで皆さん格好良いですね」
こんなときでも明るい天津風が救いだった。
それからまたしばらく進むと──小川に架かった吊り橋が現れた。
対岸までは十メートルほど、川面までの高さは二メートルといった感じか。踏み板は幅一メートルにも満たない心許ないもので、川面までの高さを必要以上に演出している。
吊り橋を前にして赤城は軽く舌打ちをした。
「……自分のミスですな。地図上に橋が架かっていることはわかっていたのに吊り橋は想定していませんでした。この少し川下にちゃんとした橋が架かっているようなので、迂回したほうが良いでしょうな」
「何故ですか?」天津風は不思議そうに首を傾げる。「ルートは合ってますよね? それに、勝手に迂回してルートを外れるのは良くないと思うのですが」
「それは……そうなのですが……」言いにくそうに赤城は顔を背ける。分厚い眼鏡で表情が隠れているためその真意は窺えないが何かを隠しているのは確かなようだ。
一瞬、良くない空気が僕らの間に満ちた。拙いな、と思ってフォローを入れようと思ったところで──。
「──そういうの止めてって言ったじゃん」
不意に能美が苛立たしげに声を張った。突然のことだったので、僕らは戸惑う。
「オタクが紳士ぶって勝手に決めつけないでよ。マジキモいんだけど」
「そ、そういうつもりはないが……ほ、本当に大丈夫か……?」
「全然問題ないし。大丈夫だって言ってんじゃん。マジむかつくから放っておいてよ」
「……すまなかった」
棘のある能美の言葉に、赤城は項垂れた。
僕らは二人が何を言い合っているのかもわからないので止めようもなかった。
「……みんなも、勝手に足を止めさせてしまって悪かったですぞ。それでは、念のため一人ずつ渡るとしましょうぞ」
一同を見回してから、赤城は僕に顔を向ける。
「湊氏、先頭をお願いしてもよろしいですかな?」
「僕が? 別に良いけど」
特に反論もなかったので、僕は先に吊り橋を渡る。思ったよりも揺れるが、意外としっかりとした作りのようだった。見かけ倒しだ。
続けて加賀美も問題なく渡りきる。ただ足取りはどこか覚束ないように見える。
「……なあ、委員長。本当に大丈夫なのか? なんか、朝よりも具合悪そうだけど」
「──そう? 気のせいじゃないかな? メッチャ元気だよ。それに私、未来のサイボーグ忍者だよ? こんな山道くらいで疲れるわけないでしょう?」
「忍者設定は初めて聞いたわ……」
さすがに噓だろうが。
相変わらず不安だが、加賀美がそう言うのであれば僕はそれを信じるしかない。
そのとき曇天の空から、ゴロゴロと雷鳴が轟いた。何故だか無性に嫌な予感がする。
続いて能美が吊り橋を渡り始めたが……半分ほど進んだところで彼女は突然足を止めた。
どうした──?
不思議に思うが、両サイドのロープを両手で強く握りしめ、固く目を閉じている姿からある可能性に思い至る。
まさか……あいつ高所恐怖症なのか……?
そこでようやく先ほどの赤城の懸念に気づいた。赤城は能美のことを思って、迂回を提案していたのだと。
吊り橋の中央は一番揺れる場所だ。自分が動かなくとも、わずかな風が大きな揺れを生んでしまう。それゆえに──能美は動けなくなってしまったのだろう。
だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。能美だってさっさと渡りきってしまったほうが早く楽になるに決まっているのだ。
どうすれば良い……?
僕が答えにいたるよりもよほど早く、赤城が動き出す。
赤城はゆっくりと慎重に、揺らさないよう細心の注意を払いながら橋を渡り始めた。能美に手を貸してやるつもりなのだろう。手伝えることの何もない僕らはただ固唾を吞んで状況を見守るしかない。
あと少しで赤城が能美の元へ辿り着く。皆が安心しかけたそのとき。
眼を焼く雷光と、数瞬遅れて轟く爆裂音が僕を襲った。
反射的に顔を背ける。しかし、爆音で一時的に聴覚が低下した状態でもなお、天津風の声は僕の耳によく届いた。
「──逃げてください!」
急いで顔を上げる。すると、対岸に生えていた木が一本、吊り橋に向かってゆっくりと倒れかかってきているのが見えた。
「──ッ! 天里沙! そこを動くな!」
赤城の怒声が谷間に反響する。今の爆音で腰を抜かしてしまったのか、能美は吊り橋の中央に座り込んでいた。赤城は能美に駆け寄ると、お姫様抱っこの要領で軽々と彼女を抱きかかえ、猛然とこちらへ走り込んでくる。
「赤城っ! 急げっ!」
倒木が吊り橋に掛かるまでもう数秒とない。僕の叫びに、赤城は歯を食いしばり必死の形相だけで答える。
永遠とも思える一瞬の後──赤城がこちら側の地面を踏むと同時に倒木は吊り橋を直撃した。僕と加賀美の二人掛かりで、勢いよく飛び込んできた赤城たちを抱き留める。
「よくやったぞ赤城! すごいじゃないか! 見直したぞ!」
「は……ははっ……寿命が縮まりましたぞ……」
肩で息をしながら、赤城は抱きかかえていた能美をそっと地面に下ろす。
「あ……能美も、怪我はないか……?」
疲労を感じさせない優しい口調で問い掛けると、能美は赤城の顔を見ないままこくりと小さく頷いた。
とにかく──二人とも無事で良かった。
それから改めて吊り橋のほうへ視線を向ける。
年季の入った吊り橋は、少しの間だけ何百キロはあろうかという倒木の寄り掛かりに耐えていたが、当然耐えきれるはずもなく、僕が視線を移して数秒後には、驚くほど呆気なく崩壊してしまった。
──つまり、天津風たちと断絶されたことになる。
「天津風! 無事か!」
僕は対岸に向けて声を張る。すると対岸の天津風は、こちらに良く見えるよう大きく手を振った。
「大丈夫です! 私も、八重樫さんも無事です!」
よく響く天津風の美声に僕は胸をなで下ろす。
「良かった! こっちも全員無事だよ! そっちはとにかく来た道を戻って、前のチェックポイントで橋の事故のことを先生に伝えてくれ! 僕らは先へ進んで、次のチェックポイントの先生に事情を説明する!」
「こっちのことは任されたよ!」八重樫が拳を掲げて大声を発した。「地図だとこの先から少し険しい山道が続くみたいだから、十分気をつけて!」
「ああ! 八重樫も天津風のこと頼むぞ!」
僕も拳を掲げて応えた。
それから改めて能美に視線を向ける。
「能美、歩けそうか?」
一瞬の間を置いてから、こくりと頷く。
「……足引っ張っちゃってごめん。でも、大丈夫。ちゃんと自分で歩けるから」
強気に言って、彼女は立ち上がった。まだ少し足が震えているが、こればかりは仕方がない。
「本当はもう少し休ませてやりたいところだが、雨足も強まって冷えてきた。ここは無理をしてでも次のチェックポイントを目指したほうが結果的に身体の負担は少なくなるはずですぞ」
赤城の言葉に、能美は再びこくりと頷いた。非常事態のためかさすがに大人しい。
僕らはぬかるみに気をつけながら、先を目指して歩き出す。
時刻は午後一時を過ぎている。オリエンテーリングの工程も半分を終えているはずだが、おそらくこの調子だと次のチェックポイントで終了になるだろう。
雨足も強まるばかりで、もはや土砂降りといっても差し支えないほどの本降りになっている。
もしかしたら天津風の不安感が天気に影響しているのかもしれないが……まずいことになった。早く天津風と合流して安心させてやらないと、本当に今夜のキャンプファイヤが中止になりかねない。
しんがりを歩きながら、焦燥感にあえいでいると──僕の前を歩いていた加賀美が急にフラフラと崖下に向かってたたらを踏んだ。
「おい、委員長! あぶな──」
慌てて彼女の腕を摑み、崖下への落下を防ぐ。しかし──。
「──ッ!?」
ぬかるみに足を取られて上手く踏ん張れず、僕はそのまま加賀美に誘われるように崖下へ身を躍らせてしまう。
「湊氏!」
危機を察した赤城が手を差し伸べてくれる。僕は夢中でその手を摑み──しかし、こんな足場の悪い中、赤城一人で僕と加賀美の体重を支えられるはずもない。
「祐ちゃん、危ない!」
慌てたように能美も加勢してくれるが、やはり焼け石に水程度の効果しかなく。
僕らは絡まり合うように崖下に滑落した。
──雨垂れが頰を打つ冷たさで、僕は意識を取り戻した。
状況がわからず、しばし瞬きを繰り返すが、すぐに自分たちが崖下に滑落したことを思い出し、僕は慌てて身体を起こす。
「──っ!」
全身がバラバラに砕けているのではないかと思えるほどの激痛が走る。視線だけを巡らせてとにかくまずは自分の状況を確認する。
地面に横たわる僕の上には加賀美の小さな身体があった。咄嗟に加賀美を庇おうと彼女を抱き締めていたらしい。胸の上の加賀美は、苦悶の表情を浮かべているが、ぱっと見怪我をした様子は見受けられない。どうにか男としての面目は果たしたようだ。
続けて自分の身体の様子を窺う。少し動かすだけでも激痛に襲われるが、どうやら骨が折れているわけではなさそうだ。ただの打ち身か、まあ最悪ヒビくらいだろう。
少なくとも痛みさえ我慢すれば動ける状態であることは不幸中の幸いと言える。
それから僕は胸の上の加賀美の肩をそっと叩く。
「……おい、加賀美。無事か」
「…………」
反応はない。嫌な予感がして、少しだけ強めに肩を叩く。
「おい、加賀美! しっかりしろ!」
至近距離から大声で怒鳴るが、それでも反応はない。
突如背中につららを押し当てられたような悪寒に襲われる。まさか頭でも打ったのか……?
もし頭を打って意識障害などを起こしているとしたら、迂闊に揺り動かすことが危険なことくらいは僕にもわかる。どうすれば良いのかもわからず、ただ呼び掛けることしかできない。
「頼むよ加賀美……。目を開けてくれ……。それでまた、いつもみたいにお姉さんぶってくれよ……今だけは特別におまえだけの弟にでも何でもなってやるから……!」
(……あはは、それは良いことを聞いたね)
「──っ!?」
突如脳裏に響く聞き慣れた軽口に驚くが、僕はそこでようやく安堵の息を吐いた。
「良かった……! 本当に良かった……!」
(……苦しいよ、湊くん)
「あ……その、悪い……!」
無意識に抱き締めていた加賀美を解放する。
「それよりも、なんで普通に喋らないんだ?」
(それは、その……)
言いにくそうに言葉を濁すが、すぐに観念したように加賀美は続ける。
(……身体が、動かせないの)
「動かせない? それって脳震盪とかそういう……?」
やはり頭を打っていたのかと急に不安になるが、加賀美はすぐにそれを否定する。
(ううん。一応ナノマシンを使って全身のシステムチェックはしたけど、どこも異常なし。身体自体は、健康そのものなの)
じゃあ、どうして……?
(……実は、一週間くらいまえから違和感はあったの。何か身体が動かしにくいなあ、調子悪いなあ、って)
一週間まえ……ちょうど試験が終わったあたりのことか。確かにあのときは具合が悪そうだったけど……。
「もしかして、僕らを心配させないように無理してたのか……?」
(……うん、ごめんなさい)
加賀美はつらそうに言う。
(原因がわからなかったから……ただの気のせいなんだろうってずっと思い込もうとしてたんだけど……さっき急に全身に力が入らなくなっちゃって……)
「……それでふらついたのか」
(……うん。私のせいでこんなことになっちゃって……本当にごめんなさい……)
とても悲しげに、加賀美は謝った。
「良いよ、今さら気にするなよ。それよりも、どうすれば元どおりに治るんだ?」
(……わからない。原因も特定できてないし……まあ、仮説くらいなら……)
「仮説でもいい。僕はどうすればいいのか教えてくれ」
(う……ん……でも……ごめん……少し、意識が……)
「加賀美……? 加賀美……!」
あれだけ明瞭に響いていた脳内の声が急に途絶えた。身体を揺すってみるが反応はない。
「くそっ……! 何がどうなってんだよ……!」
悪態を吐き、僕は加賀美を抱きかかえて身体を起こす。全身に激痛が走るが構うものか。
辺りを見回してみる。すると二メートルほど離れたところに、赤城と能美が倒れていた。赤城は能美を庇うように彼女を抱き締めて意識を失っている。僕は加賀美を抱きかかえたまま、二人に駆け寄る。
「赤城! 能美! しっかりしろ!」
先ほど同様、頭を打っていた場合を考えて、僕は慎重に二人の肩を叩く。幸いなことに二人はすぐに意識を取り戻した。
「う……ん……み、湊氏……?」
「……ぇ、湊くん、どうして……?」
「二人とも、怪我はないか? どこか痛かったり、吐き気がしたりはしないか?」
「自分は……むしろ痛くないところを探すほうが困難なレベルで身体中痛いですが……幸い骨折はしていないようですな」
「わ、私も……た……あ、赤城が守ってくれたから……全然元気……」
「……そうか。本当に良かった」
胸をなで下ろす。
「湊氏も、その様子だと壮健なようですな」
「ああ、悪運だけは強いんだ」
僕は苦笑を浮かべてから、現状を説明する。
「加賀美も怪我はないよ。ただ、さっきまで普通に会話してたんだけど、旅の疲れが出たみたいで今は眠ってる。でも、心配しなくて大丈夫だ」
「そう、ですか」
赤城も安心したように口元を緩めた。
それから僕は改めて周囲の状況に目を向ける。
滑落し辿り着いた場所は、鬱蒼と木の生い茂る薄暗い場所だった。天を覆う無数の枝葉が土砂降りから僕らの身を守ってくれていたようだが、それでも僕らのジャージにはたっぷりと雨と泥が染みこんでいた。いったいどれだけの間、気を失っていたというのか。今やすっかりと全身が冷え切ってしまっている。
「──無事ならとにかく急ごう。日が暮れたらマジでまずい」
「そうですな。今の自分たちは完全に遭難していますからな」
遭難──。改めて言われると、今の状況が自分で思っているよりも遙かにまずいものであることがよくわかる。
「どうすればいい? 下って行けば迂回ルートに出られるかな?」
「いや、この場合下山は悪手ですな」赤城は即座に否定する。「下手に下りて、沢にでも出たら厄介ですぞ」
「沢はまずいのか? 川沿いのほうが歩きやすそうな気がするけど」
「確かにそういう一面もありますが……。しかし、沢を下った結果、滝になった、なんてこともよくありますぞ。だからこの場合、上るのが逆に正解ですぞ。元々自分たちは滑落してきたわけですからな。上へ行けば、正規のルートに戻れる可能性が高いですぞ」
マジで赤城と一緒で良かった……僕らだけだったら詰んでたよ……。
僕らは早速、行動を開始する。さすがにこのぬかるんだ山道を、加賀美を抱きかかえた状態で上るのは無理だったので、リュックは赤城に預け、僕は加賀美を背負うことにした。
ぐっしょりと雨に濡れて冷え切った、加賀美の小さな身体。原因不明の体調不良も合わせて、今や無駄に浪費できる時間など一秒としてないことをまざまざと思い知らされる。
赤城を先頭にして、僕らはゆっくりと慎重に険しい斜面を登っていく。
いくら加賀美の体重が軽いとはいえ、四十キロ近くを背負い、足下の悪い道を進むのは思った以上に体力を奪われた。それを察してか、赤城は頻繁に立ち止まって休憩を入れてくれたが、そのせいで進みが遅くなってしまっているのが悔しかった。
くそっ……こんなことならもっと身体を鍛えておけば良かった……!
無事に帰れたら、体力を付けるためにジョギングでもしようと固く決意をする。
途中で何度か赤城も能美も、加賀美を背負うのを代わろうとしてくれたが、それらはすべて丁重に固辞した。
チームのリーダーである赤城に余計な体力を使わせるのは得策ではないし、能美も気丈には振る舞っているがだいぶ消耗してしまっているはずだったから。
息を切らして懸命に足を進めること二時間ばかり。
いつの間にか辺りはすっかりと宵闇に包まれ、すぐ目の前を歩く赤城の背中さえも見えづらくなって来た。スマホのライトなんて真の暗闇の前には何の役にも立たないのだった。
いよいよ本格的にまずいのではないか──。胸の奥から再び焦燥感が湧き上がってきたところで、不意に赤城が声を上げた。
「──っ! しめたっ! 避難小屋ですぞっ!」
疲労のあまり意識が朦朧としてきていたので、最初は聞き間違いかとも思ったが、赤城がスマホの心許ないライトで照らした先に、ぼんやりと木造の小屋が浮かび上がっていたのを見て、現実のことなのだと驚く。
雨足は弱まる気配も見せていなかったので、僕らはなだれ込むように山小屋へ飛び込んだ。
小屋は六畳程度の質素なもので、建てられてから随分と長い年月が経過していることが見て取れた。内部も長い間、人の出入りがなかったようで寒々としている。
しかし、今は雨風を凌げるだけで天国だ。
僕はずっと背負ってきた加賀美を板の間に横たえさせてからようやく一息吐く。
「暖炉も薪もありますな! 手入れが不安ですが……うん、大丈夫、問題ないですぞ。今すぐ火を起こすので、少々お待ちを」
慣れた手つきで赤城は暖炉に火を灯していく。本当にこの男は頼もしすぎる。
ものの数分で冷え切っていた小屋の中はほのかに暖かくなってきた。
「──うん、これで大丈夫ですな。湊氏、定期的に薪をくべて火加減を調整してくだされ」
「任せろ。いやマジで赤城がいてくれて助かったよ。ありがとう」
心の底から礼を述べると、赤城は屈託なく笑った。
「なに、このくらいどうってことありませんぞ。あとはみんな濡れた衣類を脱いで身体を温めるといいですぞ。このままでは低体温症になってしまいますからな。奥に毛布も仕舞ってあったので、それにくるまっていれば十分暖は取れるはず。みんな安心してのんびり休んでいてくだされ。じゃあ、自分は先を急ぐので──」
「……は?」
急な話の展開についていけない。
「あ、自分の荷物は置いていきますぞ。念のためタオルや非常食を多めに詰め込んであるので、遠慮なく三人で使ってくだされ」
「いや……ちょっと待て。おまえは何を言って……?」
「身体を温めるときは背中を火にあてると効率が良いですぞ。背中あぶりといって、身体全体が温まると言われていますぞ。ちなみにこれは『ゴールデンカムイ』の知識で──」
「赤城!」
僕は、声を荒らげた。
おろおろして様子を窺っていた能美が驚いたように身体を震わせるが構うものか。
僕は赤城に詰め寄る。しかし、赤城はあくまでも穏やかな表情のまま僕を見上げた。
「避難小屋のおかげで、大体の現在地がわかりましたぞ。ここからならば、小一時間ほどで正規のルートに戻れますぞ。道さえわかれば、迂回ルートで下山するのはわけないですからな。──自分一人ならば」
「──っ」
反論できない。僕が足手まといになっていたのは、どうしようもない事実だったから。
「下山できれば電波も入ってすぐに救援を呼べますぞ」
「で、でも、それなら赤城も一晩ここに泊まって、明日の朝明るくなってから下山したほうが安全だろう……!」
「明日の朝までこの小屋が健在である保証はありませんぞ。見たところ掘っ立て小屋のようですし、この雨では土砂崩れに巻き込まれる危険だってある。ならば、一刻も早く救助を求めるべきだと思いますぞ」
正論、なのだろうか。
山のことは僕にはよくわからないからそう聞こえるだけで、実際にはかなり無茶な提案をしている可能性もある。
でも──一刻も早く救助を求めるべき、という意見は無視できない。加賀美の体調不良は絶対に放っておいて良いものではないはずだし、助けが来るのであればそれは早いに越したことはない。
しかし──それと赤城の身を危険に晒すということを天秤に掛けて、どちらに振れるのかという判断は僕にはできない。
ただ──一つだけ確認はしなければならない。
「……それは能美のためか?」
僕は真っ直ぐに赤城を見つめて問う。
「能美を早く助けるために、能美の不安を少しでも解消してやるために、おまえは身体を張るつもりなのか?」
「……否定はしませんぞ」赤城は正直に答えた。「でも、それは能美のためだけではありませんぞ。今の自分には、湊氏も加賀美嬢も同じくらい大切な存在ですぞ。ならば、三人のために自分がやるべきことはこれしかないと、そう確信しているだけですぞ」
「ま、待ってよ……」
不意に心配そうな顔で能美が割り込んできた。
「そんなこと私は望んでないよ……た、赤城もここにいようよ。外は危ないよ……」
今にも泣き出しそうなくらい声を震わせる能美。
しかし、赤城はそれには取り合わず、僕にだけ告げる。
「時間も惜しいので、自分はもう行きますぞ。湊氏、天里沙と加賀美嬢のこと、よろしく頼みますぞ」
「──わかった。おまえも無理だけはするなよ。いつでも引き返して来ていいからな。それと……昨日の大富豪の最終ゲームのことを覚えているか?」
「最終ゲーム? それはまあ、もちろん」
「僕は最終ゲームの勝者だったが、勝者特典である命令権は結局行使されないままうやむやになった。だから、それを今ここで行使させてもらう。──絶対に戻ってこい、赤城」
少々乱暴な僕の理屈に、赤城は一瞬きょとんとした顔をしてから、
「──必ず。男の約束ですぞ」
赤城は口元を歪めて笑い、拳を突き出してきた。僕はそれに拳を突き合わせる。
それから赤城は振り返ることなく小屋を飛び出した。
「待って! 待ってよ祐ちゃん! 私をおいていかないでよ! お願い! 危ないから戻ってきて!」
赤城を追いかけようとする能美を僕は無理矢理押し留める。
「……赤城の決意を無駄にするな。僕らが行っても足手まといになるだけだろ」
「わかってる……わかってるけど……! こんなの納得できないよ……祐ちゃん……!」
脱力して膝を突く能美。彼女の悲痛な嗚咽は、ただ虚しく雨の夜に溶けていく。
赤城が出て行ったまま開け放してあった戸の先に広がる闇をしばらく眺めていたが、いつまでもこうしているわけにはいかないと思い、僕は戸を閉めて気持ちを改める。
「──とにかくこのままだと風邪を引きかねない。早く身体を乾かそう」
「……うん」
能美は力なく頷く。さすがに元気はないようだが、落ち着いてはいるようで僕は安心する。
まずは……まあ、女子優先だな。
「それじゃあ僕は外で待ってるから、今のうちに着替えちゃってくれよ。ついでに加賀美の着替えも手伝って──」
「……ううん、大丈夫」能美は不安げに瞳を揺らしながら答えた。「外は寒いから……。それに湊くんも早く濡れた服を脱がないと……」
「いや、でもさすがにそれは……」
「私は……大丈夫だから。ただ、その……恥ずかしいからこっちは見ないでくれると、嬉しい……」
「……わかった。じゃあ、僕は壁のほう向いてるから」
回れ右をして、僕はすっかり濡れて重たくなったジャージと体操着を脱ぎ捨てる。
背後からは湿っぽい衣擦れ音が聞こえてくるが、聞こえない振りをして無心にタオルで身体を拭く。それだけで冷えはだいぶマシになった。
「あの……これ……」
背中に何かふわふわしたものを押し当てられる。振り向かずに受け取ると、それは毛布のようだった。先ほど赤城が話していたものだろう。
「ありがとう。助かるよ」
「ううん。それよりも待たせちゃって……ごめんね。これから美玖ちゃんの服脱がせるから、もうちょっとだけ待ってて……」
「……焦らなくて良いよ。それに何か仕事押しつけちゃって悪いな。たださすがに男の僕じゃあ、それやったら問題になりそうだからさ……」
「湊くんなら大丈夫だと思うけど……。それに私のことなら気にしないで。美玖ちゃんのこと、私も心配だし」
背後からは再びの衣擦れ音。さすがにこんな状況で興奮するほど僕も生存本能に忠実な人間ではないが、何となく後ろめたい気持ちになってしまうのはさすがに仕方がない。
受け取った毛布を羽織り、数分が経過したところで、「もういいよ」と声を掛けられる。
恐る恐る振り返る。
その先には、能美が器用に毛布を身体に巻き付けて立っていた。板の間の上には同じように毛布を巻いた加賀美が横たえられている。
「……は、恥ずかしいからあまり見ないでほしいな」
「わ、悪い!」僕は慌てて視線を逸らす。「その、加賀美の着替えもサンキューな。本当に助かったよ」
「ううん、気にしないで。それより、早く湊くんもこっち来て暖まりなよ」
「……そうだな。お邪魔するよ」
毛布の下はおそらく下着姿なのであろうクラスメイトの女子二人に近づくのは多少抵抗があったが、緊急事態ということで自分を納得させ僕も板の間に上がる。
それから先ほど赤城に言われたとおり、暖炉に背中を向ける。
じんわりとした遠赤外線の優しい温もりが、冷え切って緊張した身体を少しずつほぐしていくのを実感する。
「……暖かいな」
「……うん」
僕のすぐ隣で、毛布にくるまったまま背中をあぶる能美はぽつりと呟く。
会話はそれ以上発展しない。共通の話題も思いつかないし、何よりずっと気になっていることが……。
「あのさ、能美」
「……なに?」
「答えたくなかったら答えなくて良いんだけどさ……キャラ変わってない?」
「え……? あっ……!」
そこで初めて気づいたように、能美はしまったという顔をする。どうやら非常事態でそこまで意識が回らなかったらしい。
能美は恥ずかしそうに赤面して唸るが、やがて観念したようにポツポツと語り始める。
「……いつもはね、ギャルを演じてるの。でも、色々あってびっくりして、動揺して、いつの間にか素が出ちゃってたみたい……」
「じゃあ、普段はそんな感じなのか?」
「……うん。派手でイケイケなのは、全部作りものの私。本物の私は……引っ込み思案で、臆病なだけの……つまらない女の子だよ」
そのイメージは、昨夜赤城から聞いていた昔の能美のものと一致する。
「じゃあ、どうしてそもそも無理してまでギャルを演じてるんだ?」
「それは……」
言いにくそうに言葉を濁すが、今さら隠しても仕方がないと思い直したのか素直に続ける。
「だって、た、祐ちゃんが、ギャルが好きだって聞いたから」
…………。
「は?」
思わず疑問の声を上げてしまった。
確か赤城は、能美がオタク好きという話を聞いたために、自身もオタクになったと言っていた。
同じような理由で能美もギャルになった……?
何だろう、ものすごく違和感を抱いてしまう。何かが決定的に捻れているような──。
「あのさ能美。悪いんだけど、赤城との間に何があったのか、少し具体的に話をしてくれないかな。今さら隠し立てする理由もないだろう」
「……うん、まあ、湊くんになら別にいいけど」
多少不満げではあったが、能美は大人しく語り出す。
「祐ちゃんと私は……幼馴染みなの。私はこんなふうに昔から引っ込み思案で、いつも祐ちゃんに助けてもらってたの。祐ちゃん、すごいんだよ。頭も良くて運動もできて、でも凄く優しくてだからお友だちもたくさんいて……みんなの人気者だったの」
数日まえの僕ならば、騙されてるのかな、と思うところだったが、今日一日の赤城の活躍振りを思い出して、それが紛れもない事実なのだという確信を得る。
「祐ちゃんは、私のヒーローなの。私がピンチのときには、いつも必ず助けてくれるヒーロー。祐ちゃんも、私だけのヒーローになるって、約束してくれたから……」
幼子の微笑ましい約束。
頭が切れて行動力もある。語彙も豊富だし、子どもの頃の赤城は、間違いなくみんなの中心にいたタイプだろう。
「でも祐ちゃん、女の子にモテモテでね。だから、幼馴染みってだけでいつも一緒にいる私は、反感を買っちゃって……。小学校の卒業式が近づいてきたある日、クラスの中心にいる女の子のグループに呼び出されちゃったの。校舎裏の、薄暗くて、誰もいないところで囲まれて……すごく怖かった」
とても嫌なものだが……容易に想像できてしまう。
強すぎる光は、より強い影を生む。
能美は、影の餌食になってしまったのだろう。
「祐ちゃんのことが好きなのか、何様のつもりなのか、って詰め寄られて……だから私、恐怖から逃げるために、噓を吐いたの」
「噓?」
「祐ちゃんのことなんか全然好きじゃないって。私はあんな明るくて元気な人じゃなくて、私に似た暗くてオタクっぽい人が好きなんだって」
「──っ!」
そこで、そう繫がるのか……!
違和感の正体に思い至り、僕は膝を叩きそうになる。
「女の子たちは、それで納得してくれたみたいで、それ以降は呼び出されるようなこともなかったけど……。それから少ししたら、祐ちゃんは私みたいな暗い女の子じゃなくてもっと明るいギャルっぽい女の子が好きなんだって噂が広まって……。だから私、祐ちゃんに好きになってもらえるように……ギャルになることにしたんだ」
そうして二人は──決定的にすれ違ってしまったのだ。
僕はようやくすべての謎が解けた。
「でも、そうしたら今度は祐ちゃんが急にオタクになって……私、どうしたらいいのかわからなくなっちゃって……。結局そのまま疎遠になっちゃったの」
「……なあ能美」
「なに?」
「赤城がどうしてオタクになったのか、その理由を知りたくないか?」
「それは……知りたいけど。もしかして、湊くん知ってるの?」
「昨日、赤城から聞いたからな」
驚いたように目を丸くする能美に、僕は淡々と告げる。
「でも、そのまえに一つ確認しておきたんだけど……。能美は今でも赤城のことが好きなのか?」
「……わかんない」不安げに、彼女は首を振る。「三年もまともに口を利いてなかったんだよ? それに今の祐ちゃんは、私が好きだった頃とは喋り方も全然違うし……」
でも──、と能美はそこで言葉を切った。
「でも、優しいのは全然変わってなかった。実は私、牛肉のアレルギィがあるの。アレルギィっていってもそんなに酷いものじゃなくて、食べたらちょっとおなかが痛くなるくらいのものなんだけど」
そこで昨日のバーベキューのことを思い出す。能美は肉ではなく野菜ばかりを食べていた。
それは野菜が好きだからというよりも、肉が食べられなかったからなのか──。
「でも、カレー作るとき、祐ちゃんがさりげなくお肉じゃなくてシーフードのカレーにしようって提案してくれたでしょ? あれは……私のことを心配してくれたからだと思う」
そういえばあのときの提案は、赤城にしては少し強引だと気になっていたのだ。
まさかそんな事情があったとは。
「それに今日も吊り橋のところで、迂回しようとしてくれたでしょ? 私、高所恐怖症だから……たぶんまた祐ちゃんが気遣ってくれたんだと思う。でも私は、祐ちゃんがどうして私なんかに優しいのかわからなくて……嫌な態度取っちゃった……」
「──今はどうだ?」僕は穏やかに問い掛ける。「吊り橋に倒木があったときと、滑落したとき。赤城は二度も命懸けで能美を守った。それでもおまえは、その優しさの意味に気づかないのか?」
再び目を丸くする能美に、僕は推理を語る。
「──これは僕の想像も入ってるんだけど、能美に詰め寄った女子グループは、たぶん赤城にも同じようなことをしたんだと思う」
「同じような……こと?」
「そうだ。たぶん、赤城にも能美のことが好きなのか探りを入れたんだ。そして赤城は、能美が女子グループに目を付けられていることに気づいており、どうにかしてやりたいと考えていた。そしてその結果──噓を吐いたんだ」
「噓を?」
「そうだ。能美がこれ以上女子グループのターゲットにされないように……自分の好みを当時の能美とは真逆の要素で表現したんだ。つまり──ギャルが好きだと」
「──っ!」
能美は驚いたように口に手を当てる。
「そう、そこですれ違いが起きたんだ。赤城は言ってたよ。能美が突然ギャルになって驚いたって。頭が良い赤城のことだ。普段ならすぐに自分の噓がすれ違いの切っ掛けになったことに気づいただろう。でも、能美のことになると、いつもの冷静なキレが発揮できなかったんだろうな。だから動揺して──今度は能美の噓を信じて、能美に好かれるためにオタクになることにした。そしてオタクになり他の女子連中からも興味を失われた結果、能美への嫉妬も止まったんだろう」
「じゃ、じゃあ、祐ちゃんは……?」
声を震わせて呟く能美に、僕は優しく告げる。
「初めから、ずっとおまえのことを思っていたし、ずっとおまえの気を引きたかっただけなんだよ」
「で、でも、祐ちゃんは、今は美玖ちゃんのことが好きだって……」
「……それは、加賀美に昔のおまえを重ね合わせてたからだよ。あいつ、穏やかで優しい子が好きなんだって」
さすがに父性と恋愛感情をごっちゃにしていた件は伏せるが、概ね間違ったことは言っていないので許してほしい、と心の中で詫びる。
能美は大きな瞳にゆっくりと涙を湛えていく。
「わ、私……祐ちゃんに酷いことたくさん言っちゃった……!」
「まあ、それは赤城もだしな。お互い様だろう。とにかく二人は、一度ちゃんと胸の内をしっかり話し合ったほうがいいよ。たぶんそれだけで──すべてが解決する」
「……うん。ありがとう、湊くん」
指の腹で涙を拭って──能美ははにかんだ。
その笑みは、どこか加賀美のものにも似ていて、僕は少しドキリとしてしまう。
何故加賀美に似ていたらドキリとしてしまうのかは、自分でもよくわからなかったけど──。
ともあれ、これで二人の誤解が解ければ無事に問題解決だ。
二人の仲が一向に進展しないから、一時はどうしたものかと絶望したが、どうにか丸く収まりそうでホッとする。
……何だかとてつもなく大切なことを忘れているような気もするけど。
「う……ん……」
そのとき、こんこんと眠り続けていた加賀美が不意に唸った。僕と能美は顔を見合わせ、慌てて加賀美に飛びつく。
「美玖ちゃん! 気がついたの……!」
心配そうに声を上げる能美。加賀美はうっすらと双眸を開く。
「……ママ?」
「美玖ちゃん、寝惚けてるよ。ママは美玖ちゃんでしょう?」
いや、おまえがママで合ってるんだよ、という突っ込みが喉元まで上がってきたが無理矢理飲み下す。今は茶化すような場面ではないのである。
加賀美は戸惑ったように視線を彷徨わせ、それから僕の顔を認めて何かを察したようにため息を吐いた。
「……そうだね、ごめん。少し、状況を教えてくれるかな」
僕は加賀美が意識を失ってからの出来事を簡潔に説明する。
「──そう、赤城くんが」
赤城が僕らのために一人で救助を呼びに行った下りで、加賀美は切なげな顔をした。
「……ねえ、湊くん。今何時かわかる?」
「今は……午後七時過ぎだな」腕時計を見て答える。「腹減ったのか? だったら非常食で良ければ赤城が──」
「ううん、そうじゃなくて」
そして加賀美は、視線だけを僕に向けてそれ告げた。
「キャンプファイヤ、できなくなっちゃったなって」
「──ッ!?」
そこで僕はようやく自らの致命的な過ちに気づく。
すぐ目の前にある命の危機に気を取られるあまり、すっかり忘れていた。
林間学校のキャンプファイヤで、赤城と能美がダンスを踊らなければ、宇宙は崩壊するのだということを。
外の雨は一向に止む気配を見せておらず、僕らは現在進行形で遭難中──。
もはやどう足搔いてもキャンプファイヤなど実施できる状況ではない。
つまり──宇宙の崩壊は確定してしまったことになる。
「……そんな……バカな……」
「二人ともそんなにキャンプファイヤ楽しみにしてたの?」
首を傾げる能美に、加賀美は儚げに微笑んだ。
「──うん、そうだね。本当はとても大切な予定があったんだけど……全部なくなっちゃった」
それから加賀美は再びそっと目を閉じた。
「……ごめんなさい。またちょっと眠くなっちゃったから、もう少しだけ寝るね。足引っ張っちゃって、本当にごめん」
「気にしないで。美玖ちゃんはたくさん寝て……早く元気になってね」
「……ありがとう、ママ」
まるで別れの言葉のようにそう言ってから、今度加賀美は僕の頭の中に語りかけてくる。
(湊くんも……私のせいでこんなことに巻き込んじゃって、本当にごめん……)
(謝らないでくれよ……! それにまだキャンプファイヤができなくなったって決まったわけじゃ──)
懸命に解決策を考える。加賀美は諦観したような、清々しささえ感じられる口調で続けた。
(私の身体の調子がずっとおかしかった理由、やっとわかったの。たぶん──存在が消えかかってるんだよ)
(存在が……消えかかってる……?)
(そう。私のお父さんとお母さんが、林間学校のキャンプファイヤで踊った、っていうのは、歴史に刻まれた一つの事実なの。でも、その事実の履行が不可能になった今、因果律の崩壊は確定してしまった。タイムパラドクスってやつだね。たぶん、宇宙全体の崩壊はもう少し時間を掛けて行われるんだと思うけど、まずは因果の中心にいる私が、この世界から否定され始めたの)
(……それで、動けなくなったってことか)
(うん。たぶん一週間まえから、この結果は決まってたんだろうね。だから少しずつ、私の身体はおかしくなっていったんだよ)
(そんな……何とか、何とかならないのか……!)
(何ともならないから……〈運命〉なんじゃないかな)
冷たさすら感じられる口調で、加賀美は断言する。
(キャンプファイヤができない、っていうのは、もはや確定した一つの事実だよ。確定した事実を覆すには──因果を遡るしかない。私が未来から、きみを助けるために来たみたいにね。でも、今の私にはタイムスリップなんて大層なことはできない。たぶん那珂川さんにもね。だからもう──どうしようもないんだよ)
突きつけられる現実に──僕は打ちひしがれる。
もしかしたら僕は、〈運命〉を変えるということを甘く見ていたのかもしれない。
一度、奇跡的な偶然で〈運命〉を変えられたために──調子に乗ってしまった。
今回のことも、赤城と能美をくっつければそれで問題解決なのだと、軽くそう捉えていた。
だが、その大元にあったのはもっと抗いがたい拘束力みたいなもので。
結局、僕はその拘束力に翻弄されるがまま──敗北した。
初めからもっと真剣に捉えていれば、もしかしたら別の未来もあったかもしれないのに──そんな後悔さえ後の祭りだ。
悔しさに拳を固める。
(湊くんが責任を感じることなんかないよ)
まるで母親が子どもを宥めるような穏やかな口調で加賀美は言う。
(初めから──〈運命〉を変えるなんて、人の身には過ぎた大望だったんだよ。それでも一度はその大望を成した湊くんは……すごいよ。本当に尊敬する。ご褒美にちゅーしてあげたいくらいにはね)
(……気休めでも嬉しいよ)
慰められるのは、逆に堪える。いっそ無能と罵ってくれれば楽なのに。
(──ねえ、湊くん)
加賀美は。
わずかに双眸を開いて微笑んだ。
(私ね、この時代に来て、湊くんたちと出会えて、すごく楽しかったよ。色々バカなことをやって、たくさん笑って──すごく幸せだった)
(や……やめろよ……今生の別れみたいだろ……)
(中でも一番嬉しかったことはね──きみに出会えたことだよ。私、それまであんまり年の近い男の子と関わることがなかったから、正直最初は湊くんのことちょっと怖かったんだ。不真面目だし、根暗だし、友だち少ないし)
(……頼むよ、加賀美。そういう話は、今度にしよう? な? 今はもっと明るい話題で気分転換を──)
(でも湊くんは、優しかった。私の秘密を話しても、それまでと同じように、普通の女の子と同じように、私に接してくれた。それがすごく嬉しくて……ドキドキした)
普通の女の子と同じように──。
それは、かつて天津風にも言われた言葉だ。
普通ではないがゆえに、普通に憧れる。
そんな年頃の少女が持つような小さな願いを、加賀美も抱いていたというのか。
僕はただ、人並み外れた不運という自らの異常から、一般的とは異なる尺度で物事を捉えていただけなのに。
それが加賀美にも、ささやかな安心を与えていたというのだろうか。
(──なんかまた眠たくなってきちゃった。少し……寝ようかな……)
不意に囁くように言うので、僕は慌てる。
(ま、待て加賀美! もう少し、もう少し何か話そう! そうだ、僕の中学のときの面白不運エピソードを特別に教えてやろう! あれは中二の秋のことで──)
(湊くん……もしかしたら、もう目が覚めないかもしれないから……今のうちに伝えておきたいんだけど……)
(落ち着け加賀美! 大丈夫だ! おまえは必ず元気になる! 僕が約束する! またこのまえみたいに、華麗に一発逆転で〈運命〉ってヤツを変えてやる! 僕を信じろ! だから、そんな今際の際みたいなことは言わないで──)
(あのね、湊くん……。これは……本当は隠さなきゃいけない気持ちなんだけど……私……たぶん……湊くんのことが──)
そこで不意に、それまで頭の中を占有していた加賀美の言葉が途切れた。
慌てて横たわる加賀美の様子を窺うと──彼女は苦しげに寝息を立てていた。
何もかもが手詰まりで手遅れで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
無意識に手を伸ばして、加賀美の頰に触れる。
暖炉の前だというのに、その肌は驚くほど冷たかった。
……頼む、赤城。早く……早く戻ってきてくれ……!
祈るように、強く願う。
だが、現実とは無慈悲なほど残酷で。
それから二時間経っても三時間経っても、赤城が戻ってくることはなかった。
暖炉の中で揺れる火を、僕はぼんやりと眺める。
薪をくべると、たまにパチリと小気味の良い音が響くが変化と言えばそれくらいだ。
時が止まってしまったかのような、あるいは永遠に引き延ばされているかのような、不思議な感覚だけが増大していく。
意識は清澄。昼間あれだけ歩き回って疲れ果てているはずなのに、不思議と眠さはない。
僕の隣には、能美と加賀美が仲良く隣り合って眠っていた。
本当は能美と二時間交替で火の番をする約束をしていたが、能美も疲れているはずなので朝まで寝かしておいてやることにする。
自己犠牲、なんてそんなご立派なものではない。
どうせ僕は頭が冴えて眠れないのだから、これはただの適材適所というやつだ。
時刻は午前一時を回ったところ。
雨足はだいぶ収まったようだが、まだしとどに雨は降り続いていた。
天候がなかなか回復しないのは、天津風が心配しているからだろうか。
彼女を不安にさせてしまっていることを申し訳なく思いつつ、あいつの気持ち次第で天気が変わるのは迷惑だよな、と他人事のような感慨を抱く。
赤城は──無事にみんなの元へ辿り着けただろうか。
おそらくだが、救助が遅れているのはこの雨のせいで山に人が入れないからなのだろう。明るくなったら、必ず赤城が救助を連れて戻ってくる。
絶対に……赤城に何かあって救助が来ていないわけではないのだと。
僕は祈るようにそう思う。
(ぃ……)
そこで不意に、また脳内に加賀美の意識が広がった。僕は慌てて加賀美に飛びつく。
(大丈夫か! どこか苦しいのか!)
必死の問い掛けに、しかし加賀美は答えず、独り言のように弱々しく呟く。
(……寒い……すごく寒いよ……湊くん……)
寒い? 寝入っている二人のために、暖炉も強めに焚いているつもりだったが……。
僕は申し訳ないと思いつつも、毛布の中に手を突っ込んで加賀美の肌に触れる。
加賀美の身体は──まるで生きていないかのように冷え切っていた。
「なんで……どうして……!」
自分の力で発熱できなくなっているのか。
しかし、彼女は暖炉の近くの一番暖かいところに横になっている。これ以上近づけたら火傷の危険があるというのに……それでも彼女の身体を温めきれないというのか。
必死に頭を捻って考える。効率的に彼女を温める方法を。
そうして一つだけ原始的な方法を思いついたが……さすがに躊躇する。
その方法には倫理的な問題があったからだ。
せめて能美を起こして協力してもらうか──。
そんな考えも浮かぶが、それでは能美の負担になってしまうと却下する。
ならばどうするかとさらに思考を進めて──僕は倫理を捨てた。
この非常時に倫理もクソもない。
「……加賀美、悪い。ちょっとだけ我慢してな」
囁くようにそう言って、僕は加賀美がくるまっていた毛布を剝ぐ。
揺らめく暖炉の赤い火に照らされた、幼い肢体が露わになる。
そのあまりの美しさに──僕は思わず息を吞む。
染み一つない、白磁のように白く滑らかな肌。起伏に乏しく、肉付きも申し訳程度だったが──それでも紛れもなくそれは少女の身体だった。
薄桃色のレース地の下着だけを身に着けて横たわる加賀美は、神秘的な存在感を放っている。
いつまででも眺めていたい衝動に駆られたが、寒そうにぶるりと身体を震わせた加賀美を見て僕は我に返る。
僕は、羽織っていた毛布を一度床に置いてから裸の彼女を抱きかかえる。
そして暖炉の前まで戻り、あぐらをかいて座ると、その上に加賀美のお尻を乗せて背中から彼女を抱き締めた。
肌と肌との接触──。
「──っ!」
そこで改めて彼女の身体の冷たさに驚く。本当に──生きていないかのように冷え切っている。改めて毛布を羽織り、僕は冷たさに縮こまろうとする脳からの指令を無視して、強く彼女を抱き締めた。
(……んっ)

敏感な部分に触れてしまったのか、どこか艶っぽい加賀美の声が脳内に響く。まだ幼さを残した少女の柔肌に触れるという大罪に、心底申し訳なさを覚えながらも、僕は自らの体温を移すように接触を強める。
それから加賀美の首元に顔を埋めて祈るように呟く。
「……頼むから早く元気になってくれ……〈運命〉なんか、僕がまた蹴散らしてやるから……。おまえがいないと、僕はダメなんだよ……なあ、加賀美……!」
腕の中の小さな少女は何も答えない。
ただ長い夜だけが、ゆっくりと更けていく。
いつしか雨音は聞こえなくなっていた。
いつの間にか明け方近くになっていた。
磨りガラスのように曇った窓からは、朝日が差し込んで見える。どうやら雨雲は去り、再び夏の陽気が戻ってきたようだ。
平和な朝の訪れを叫ぶように、セミの鳴き声が響き始める。
時刻は午前五時。捜索隊が動き始めるとしたらそろそろだろう。
僕は能美を起こして、服を着させる。さすがにいきなり捜索隊が現れたときに半裸だったら彼女が可哀想だ。
能美は火の番を寝過ごしてしまったことを半裸のまましきりに謝ってきたが、僕が勝手に起こさなかっただけだから気にするなと、強引に納得させた。
ちなみに加賀美は、夜明けまえにようやく体温が正常に戻ったので、事前にまた毛布にくるんで板の間に横たえておいた。夜の間の秘密を知っているのは僕だけということになる。さすがに加賀美も夜の間中ずっと半裸の僕と肌を重ねていたなんて事実を知ったらショックを受けるだろうから、この秘密は墓の下まで持っていくことに決めつつ僕も着替える。
体操服もジャージも生乾きで気持ちが悪かったがこればかりは仕方がない。それから能美に加賀美の服も着させてもらって、僕らの支度は完了した。
朝食は、赤城の荷物に入っていた携行食と水を二人で分け合う。
「……私、おなか空いてない」
「気持ちはわかるが我慢して無理にでも食べてくれ。赤城が助けに来てくれたとき、おまえが腹を空かせてたら僕がどやされる」
「……湊くん、ずるい」
不服そうに僕を睨む能美だったが、それでも大人しく食べてくれた。
食事を摂ったら──途端にやることがなくなった。
というかそもそも、赤城の到着を待ち続けたほうが良いのか、それとも自発的に動いたほうが良いのかもよくわからない。
人生に正解なんてないのだ。
それでも僕は、赤城との約束を信じて避難小屋で待つことを選択した。
時間ばかりが経過し、やがて七時に差し掛かろうかというところで──それは起こった。
避難小屋が突然揺れ始めたのだ。
質素な造りの小屋なので潰れてはまずいと、僕らは小屋を飛び出した。僕の背中にはこんこんと眠り続ける加賀美もいる。
小屋の外に出ても揺れは続いているのでおそらく地震なのだろう。幸いなことにそれ以上は揺れが酷くなることもなくやがて収まっていった。
小屋も無事な様子だ。ホッと胸をなで下ろして、再び小屋の中へ戻ったところで──再びの振動。また地震かと腰を浮かし掛けるが、どうにも今度のものは、先ほどまでのものとは少し異なるようだった。
揺れというよりは、もっと細かい振動のようで──。
「──っ! 能美! すぐに外へ出ろ!」
「え、あ、はい……っ!」
直感的に不穏なものを覚え、僕らは再び小屋の外へ出る。
細かい振動はまだ続いている。むしろ少しずつ大きくなっているような気さえする。
耳を澄ますと、まるで地鳴りのような音も聞こえてくる。
セミの声は──いつしか止んでいた。
次の瞬間、全身を悪寒のようなものが駆け巡り、僕は反射的に山側の傾斜を見上げる。
そうして、絶句する。
「……ヤバい」
「え? 湊くん、何か言った?」
傍らで不思議そうに首を傾げる能美。僕は、恐怖のあまり張り付いて詰まりそうになる喉を懸命に開いて言う。
「……走れ」
「はい?」
「──走れっ!」
僕は背中に加賀美を負ぶったまま、急いで駆け出す。能美もそこでようやく非常事態に気づいたようで、慌てたように僕を追ってくる。
「湊くん! まさかあれ、土砂崩れ!?」
今にも泣き出しそうな声で能美が叫ぶ。
そう、地響きの正体は──大規模な土砂崩れだった。
おそらく昨日の大雨でぬかるんだところに、先ほどの地震がダメ押しとなったのだろう。
クソッ……! 天津風とちょっと離れただけだってのに、昨日から不運が過ぎる……!
泣き言を思いながらも、とにかく懸命に足を動かす。
足場も悪く、また加賀美を背負っていることもあり、バランスを取ることさえ大変難しいが、火事場の馬鹿力というアレなのか、奇跡的に転ぶことなく僕の足は大地を踏みしめ続けている。
横目に斜面の上方を見る。まだこの辺りに到達するには少しの猶予がありそうだ。
このまま行けば、逃げ切れるかも──。
そんなささやかな希望が見えてきたところで。
「──きゃっ!」
背中から能美の短い悲鳴が上がる。慌てて足を止めて振り返ると──彼女は地面に倒れ伏していた。
「能美!」
僕は駆け寄る。しかし、能美は立ち上がらずに膝のあたりを押さえる。ジャージにはじんわりと赤い色が滲んでくる。
まさか……怪我を……。
絶望という言葉が脳裏を過る。
「湊くんたちは先に行って……」
「ば、バカ言うなよ!」僕は怒鳴りつける。「いいから立て! それから僕の背中にしがみつけ! 加賀美は両手で抱えて走る!」
「無茶言わないでよ! そんなことしたら三人とも死んじゃうでしょ!」
能美の言葉が、鋭く心を抉る。それは、誰が考えても明らかな結末だ。
二の句を継げずにいる僕に、能美はこの非常事態だというのに優しげに言う。
「──私は、大丈夫だから。ピンチのときには、必ずヒーローが駆けつけてくれるから……! 必ず、助けてくれるって、約束したんだから……!」
それから能美は、感極まったように天に向かって叫んだ。
「祐ちゃん……助けて……! 助けてっ! 祐ちゃんっ!」
悲痛な彼女の叫びは無慈悲に虚空に霧散して──。
──次の瞬間、奇跡が起きた。
「天里沙───ッ!」
聞こえるはずのない声が聞こえる。
いるはずのない男の声が聞こえる。
最初は奇跡を望む心が生んだ幻聴なのかと思った。
しかし、能美も驚いたように目を丸くしているのを見て──それがただの幻聴ではないことを知る。
慌てて、今走ってきた道に視線を向ける。
するとその先に。
全身を泥にまみれさせながらもこちらへ向かって全力で走る赤城祐の姿が見えた。
「うそっ……祐ちゃん……ほんとうに、助けに……!」
放心したように呟く能美。
赤城は再び叫んだ。
「湊氏───ッ! 走れ───ッ!」
それを聞いた瞬間、絶望に固まっていた僕の足は、まるで噓のように軽くなり再び大地を蹴り出すことができた。
もう決して振り返らない。何故ならば、振り返らずともわかるからだ。
僕の後ろには、誰よりも頼りになる男が走っているのだと。
「──ッ! 散々待たせやがってこの野郎!」
「ははっ、しかしヒーローは遅れて登場するものですぞっ!」
すぐ横から皮肉っぽい、しかし軽快な返しが来る。
いつの間に僕に並んでいたのか。ちらりと視線を横へ向ける。
そこでは赤城が、吊り橋のときと同様に、能美をお姫様抱っこの要領で抱きかかえて僕に併走していた。
「遅れてしまって申し訳ないっ! 昨日の夕方過ぎには無事先生たちと合流できたのですが、昨夜の雨では山に捜索隊を出せないと言われてしまいましてな。ならばせめて自分だけでもと一人でこっそりと湊氏たちの元へ戻ろうとしたのですが、それも八重樫氏と天津風嬢に全力で止められてしまって──仕方なく夜明けまで我慢したのですぞっ!」
「それは天津風たちが正しいわ!」こんな状況だというのに笑えてくる。「それじゃあ、捜索隊はどうなったんだよ」
「すぐ近くまで来ていますぞ。しかし、先ほどの地震で真っ先に土砂崩れの危険を察知した自分だけが単独行動で避難小屋へ向かったのですぞ」
「相変わらず頭の回転と行動力がズバ抜けてるな!」
「ちなみに、湊氏たちが避難小屋から東に向かって逃げたような気がすると無線で教えてくれたのは、天津風嬢ですぞ。すごいですな、これが愛の力の成せる技ですかな?」
おそらく八重樫のとっさの機転で、天津風に僕らの現在地を予想させたのだろう。天津風ならば、たとえ当て推量でも正確に僕らの居場所を特定できるはず。どうやらまたこっそりと天津風の激運に救われていたらしい。
「それにしてもさすがは湊氏ですぞ。湊氏もいち早く土砂崩れを察知して、天里沙を連れて逃げ出してくれたのでしょう? 湊氏は命の恩人ですぞっ!」
「祐ちゃん……祐ちゃん……!」
能美は先ほどから赤城にしがみ付いてずっと嗚咽を漏らしていた。
「祐ちゃん、ごめんね……! 私ずっと祐ちゃんのこと勘違いしてて……! それなのに祐ちゃんは、何度も私のことを助けてくれて……!」
「約束したからなっ!」
赤城は、そのときだけはオタク口調を止めてきっぱりと言い切った。
「天里沙がピンチのときには、何があっても必ず俺が誰よりも早く駆けつける。俺はおまえだけのヒーローになってやるって、約束しただろうっ!」
「祐ちゃぁぁぁん!」
もはや能美は号泣だった。どうやら……懸念していた蟠りは、思いのほかあっさりと解消されたらしい。
本当に良かったと、心の底からそう思う。
惜しむらくは、今、僕らが命に危機に瀕していなければ、というところなのだが。
軽やかな気持ちで、僕は懸命に足を動かす。
無駄口を止め、歯を食いしばってひたすらに駆け続けて──僕らはかろうじて土砂崩れの影響外まで逃げ延びることができた。
昨日から一睡もしておらず、体力が尽きかけている僕は元より、自分よりも背の高い能美を抱えて長距離ダッシュをした赤城もまた限界だったようで、僕らは仲良くぬかるんだ地面に倒れ込んだ。
ぜーはーぜーはー、と全力で呼吸を整える。
「……何とか……なるものですな……!」
苦しげに赤城は呻いた。
「ああ……本当に……馬鹿げてるよ……! まさか、土砂崩れから、走って逃げるなんてな……!」
僕も、息も絶え絶えに答える。
呼吸をするのにも精一杯なのに、何だか荒唐無稽過ぎて笑えてきた。
赤城や能美も同じだったようで、三人で苦しげに笑い合う。
それから赤城は上体を起こし、僕に向き直って手を掲げた。
すぐにその意図を察して、僕も上体を起こし、掲げられた手に強く自分の手を重ねた。
──パァン!
小気味の良い快音が、真夏の蒼天へ高らかに響き渡った。
いつしかセミの大合唱も再開していた。