【7】決戦前
全日本マーシャル・マジック・アーツ大会の地区予選は各地区で同時に行われた。北陸道女子十八歳以下部門では、一条茜が順当に優勝を飾り全国大会に進出した。
一夜明けた八月二十四日、月曜日。
三高の武道場では昨日の今日であるにも拘わらず、茜が従妹の一条レイラ──その正体は一条家当主の弟に養子入りした元大亜連合の国家公認戦略級魔法師・劉麗蕾である──を相手に組手で汗を流していた。
「茜、一休みしましょう」
額に汗を浮かべたレイラが休憩を提案する。
「うん、そうだね」
マットの上で大の字になった茜が笑顔で頷いた。彼女はレイラに投げられたところだった。
レイラが手を差し伸べ、その手を借りて茜が起き上がる。
組手中の他の部員を避けて、二人は壁際に移動した。
茜が自分のバッグの横にぺたんと座り込み、レイラがその隣に腰を下ろす。
茜は割座──所謂「女の子座り」──で、レイラは膝を手で抱え込まない緩い体育座りだ。
茜はバッグから飲み物を取り出して喉を潤し、レイラはタオルで汗を拭いている。
もっともこれは順番の違いでしかなく、ボトルを床に置いた茜はタオルを、タオルを首に掛けたレイラはスポーツ飲料のボトルを、各々のバッグから取り出した。
「茜、他の地区の結果は見ましたか?」
「んーっ、関東では遠上さんが順当に勝ち抜いたみたいだね」
──最初の「んーっ」は伸びをした声である。念の為。
「全国で対戦できると良いなぁ。今度はすっきりした試合にしたいね」
「……先月の対抗戦のことをまだ気にしているのですか?」
レイラが眉を曇らせて問い掛ける。
七月の上旬に行われた一高との対抗戦で茜は茉莉花と対戦した。白熱した試合は、一条家が旧第一研から引き継いだ体液干渉魔法の一つ[生体液震]によって茜が勝利を収めた。しかし試合直後に茜は決まり手となった魔法について、一高の生徒から「危険度が高い魔法の使用を試合で禁じている安全規定に違反している」と責め立てられた。レイラに言わせればあの一高生の糾弾は言い掛かりなのだが、あの時、茜はその「言い掛かり」にショックを受けていた。
「気にしていないと言ったら噓になるよ。十文字さんの指摘には一理あるしね」
その試合で「茜を糾弾した一高生」はアリサだ。
「しかし茜。[生体液震]は今でも禁止リストに入っていませんし、遠上さん本人は納得していましたよ」
「ルールブックに書かれていないからといって何をしても良いわけじゃないよ。フェアプレー精神は守らないとね」
「そうなのですか……?」
茜の言う「フェアプレー精神」は、レイラにはピンと来なかったようだ。
「禁止事項を明確に定めてこそ、フェアな試合が成り立つと思うのですけど」
茜とレイラの意見の違いは、不文律を重視するか成文律を重視するかのスタンスの違いだ。
成文法だけでは現実社会の多様性に対応しきれない。対立を生み出す可能性のある一切の事項に成文法で縛りをかけようとすれば、待っているのは窮屈な戒律主義か全体主義の社会だ。
一方、不文律は恣意性のリスクから逃れられない。不文法が際限なく拡大したら、一握りのエリートが思うがままに社会を動かす僭主政治、黒幕社会の出来上がりだ。あるいは暗黙の了解が幅を利かせる、空気を読むことを強制される社会か。
要するに茜もレイラも、二人とも間違ったことは言っていない。また、どちらが正しいわけでもなかった。
「……とにかく、今度はすっきり勝つよ。もっとも、トーナメントだからね。必ず対戦できるとは限らないんだけど」
茜は「すっきりした試合をする」ではなく「すっきり勝つ」と言ってこの話題を切り上げ、練習に戻るべく立ち上がった。
◇ ◇ ◇
一高の第二小体育館──「闘技場」とも呼ばれる、武闘系のクラブが主に使用している体育館──でも三高同様、昨日試合をしたばかりのマジック・アーツ部員が鍛錬に励んでいた。
ただ一高の部員は組手ではなく、型の練習とダミーを相手にした技の稽古を行っている。この辺りは同じ競技でも組織の個性が表れる、面白いところだ。
茉莉花はダミー人形を相手に打ち込みを行っていた。他の部と共用している一高のダミーには、合成ゴムに衝撃吸収材と高粘度液体を詰めた実体の人形と、拡張現実ムービーシステムによって攻撃と回避の動作を見せる虚像の人形の二種類がある。今、茉莉花が相手にしているのは、前者の実体人形だ。
「茉莉花。お前、さっきから何をやっているんだ?」
ダミーを相手に単純な正拳突きを繰り返す茉莉花に、背後から近寄ってきた千香が訝しげに訊ねる。
千香が不審を懐くのも不思議なことではなかった。茉莉花が行っている突きの練習は、威力やスピードを鍛えるものではない。それにしては力がこもっていないし、威力が目的なら人形よりもサンドバッグの方が向いている。スピード目的ならARの方を使うべきだ。
「あっ、すみません。使いますか?」
手を止めて振り返った茉莉花の謝罪は、ダミーが空く順番を千香が待っていたと誤解してのものだった。
「いや、何をしているのか訊きたかっただけなんだが……」
「えっ、あの、ははは……」
千香の再質問に、茉莉花は明らかな誤魔化し笑いを返した。
「言いたくないなら無理には訊かないが」
千香は呆れ顔を茉莉花に向けた。
「千葉先輩の『陰打ち』を再現しようとしているんでしょう?」
そこに男子部部長の千種が割り込む。
「『陰打ち』? そうなのか、茉莉花?」
「いえ、あの、あははは……」
厳しい目付きで千香に問われ、茉莉花の誤魔化し笑いに含まれる焦りの色が濃くなった。
「そりゃ無茶だろう……。全国大会は六日後だぞ」
厳しく責めるのではなく穏やかに諭す口調で千香が茉莉花を𠮟る。
「どうせなら西城先輩に教わった硬化魔法の練習をするべきだろう?」
「はい……」
小さくなって頷く茉莉花。千香のセリフは一から十まで道理だった。
「まあまあ。そう頭ごなしに否定するものじゃないぞ、北畑」
しかし仲裁に入った千種が茉莉花を弁護した。
「遠上さんは昨日の羽田選手との試合で、何かを摑んだんじゃないかな。そういう時に居ても立ってもいられない気持ちは、北畑にも分かるだろう」
「……茉莉花、そうなのか」
「はい、あの、ですね。羽田選手のダメージがガードを透過してくる技が、千葉先輩の技に似ている気がしまして……」
「ガードを透過?」
千香が千種に目を向け、「そんなものがあるのか?」と目で訊ねた。
「古式にそういう技術があるという噂は聞いたことがあるな。[幻衝]と同じ原理でダメージを錯覚させているのか、それとも実際に、拳を介さずダメージを直接与えているのかは分からないけど」
「否定はできない、か……」
顎に手を当てて考え込む千香。茉莉花は神妙な表情で沈黙を守っている。
「今日上手く行かなくても、自分で気付いて自分で試してみたことは決して無駄にはならない。結局失敗に終わっても、後々何かの糧になるものだ。そうだろう?」
「そう、だな……。茉莉花」
千種の言葉に頷いた千香が、改めて茉莉花の名を呼んだ。
「はい!」
茉莉花が鯱張った姿勢を取った。
「メリハリを付けろよ。今日で目処が立たなかったら『陰打ち』のことは全国大会が終わるまで、いったん忘れろ」
「分かりました」
茉莉花が深く、勢い良く頭を下げる。
千香が立ち去ったのを確認して、茉莉花はホッとした表情で顔を上げた。
◇ ◇ ◇
中二階の立ち見席では、アリサが小型ビデオカメラを手に茉莉花を見守っていた。
部長二人との話が終わり練習を再開した茉莉花に、アリサはカメラを向ける。
撮影中のアリサに、一人の男子生徒が歩み寄った。
「十文字さん、何してるの?」
アリサはモニターから目を離し、カメラを茉莉花に向けたまま声の方へ振り向いた。
「誘酔先輩、こんにちは。御覧のとおり、ビデオを撮っています」
まさしく「御覧のとおり」。
考えようによっては無愛想な受け答えだが、早馬は気にしなかった。
「遠上さんの練習を手伝っているんだね」
「はい」
またしても愛想に欠ける答え。だがこれは早馬の訊き方も悪いだろう。試合ならともかく、アリサがビデオに撮っているのは練習風景だ。アルバム的な記録でなければ、練習の参考資料としか考えられない。
「心境の変化?」
「……すみません。意味が分からないんですが」
アリサが真顔で首を傾げる。今日初めてアリサと早馬の目が合った。これは、ようやく会話らしくなったと言えるのだろうか。
「前は格闘技を見るのが苦手だったでしょう。練習でも、大きな抵抗があったんじゃない? だから少なくともマジック・アーツに対しては、何か心境の変化があったのではないかと思って」
「ああ、なる程。そういうご質問なのですね」
質問の意図を理解した証に、アリサはハッキリと頷いた。
「争いごとは今でも苦手です。マジック・アーツのことも、平気になったわけではありません」
早馬がアリサに「だったら何故?」という目を向ける。
「でもミーナが頑張っているから。私もできることで、応援してあげたくて」
「そうなんだ。十文字さんらしいね」
早馬は別に、心にもないお世辞を言ったつもりはない。
「私らしいって、どういう意味でしょう?」
だから小首を傾げたアリサの質問は意外なものであり、戸惑いを覚えた。
「……友達想いで立派だという意味だよ」
「確かに私はミーナのことを一番大切に想っていますけど、それって立派と言うほど特別なことなんでしょうか?」
「……何故そんなことを?」
今度は早馬が「訳が分からない」という顔で質問をする番になった。
「私にとっては、ミーナに──親友にできる限りのことをしてあげるのは当然だったものですから。立派だと一々感心される程、特殊なことかと思いまして……。すみません、ふと疑問に思っただけです。気にしないでください」
そう言ってアリサは、ビデオカメラのモニターに視線を戻した。
それ以上の会話を続ける切っ掛けを、早馬は見付けられなかった。
◇ ◇ ◇
茉莉花が他の部員と共に練習を切り上げたのは午後四時前だった。茉莉花だけでなく他の部員も、気持ち的にはまだまだ物足りない様子だった。だがコンディションを崩しては元も子もないと、男子部部長の千種が全体にブレーキを掛けたのだ。
アリサは茉莉花と一緒に帰りの個型電車に乗り、そのまま茉莉花の部屋に寄った。寄っただけで、今日は泊まる予定にはしていない。
茉莉花は制服を着替えもせずに、アリサが撮影に使用したビデオカメラをプレーヤーに有線でつないだ。
クッションを敷いた床にアリサと仲良く座り、音声コマンドでHAR──ホーム・オートメーション・ロボットに、録画の再生を命じる。
しばらく無言で動画を見詰めていた茉莉花が、突然「ここだよ!」と声を上げた。
「この時は良い感じだったんだけどなぁ。でも何か、あと一歩足りないって感じで」
それは午後二時頃の映像だった。千香の注意を受けたのが昼食後、練習を再開してすぐの午後一時過ぎだから、約一時間ぶっ通してダミーを叩いて疲れで手足が動かなくなり始めた頃だ。
「この後は?」
アリサが質問している内にも再生は進む。
「何か違うって感じ。全くの的外れでもないけど、ズレが縮まらないと言うか」
「ふーん……。肉体の動きじゃないんだよね?」
「うん、違うよ。パンチのフォーム自体は、さっきのより少し前の方が良いもん」
「うーん……。まだ途中だけど、キルリアンモードに変えてみる?」
アリサが使っていたビデオカメラには、想子を可視化するキルリアンフィルターを通した映像を同時撮影する機能が備わっていた。想子が映らない通常モードと想子光が可視光化されるキルリアンモードは一つの映像に重ねて記録され、プレーヤーの機能が対応していればモードを選んで再生できる。
もちろん茉莉花の部屋のプレーヤーはキルリアンモードを再生可能だった。
「そうだね。今のところの、少し前からモードを替えて見てみるよ」
茉莉花が巻き戻しと──この言葉はビデオ機器がテープを使っていた百年前の名残だ──モード切替と再生をHARに命じた。
食い入るように画面を見詰める茉莉花と、同じように真剣な表情で見入るアリサ。
問題のシーンが過ぎて一分ほどが経過したところで、アリサが「あっ……」と小さな声を漏らした。
「ストップ!」と茉莉花が再生の停止を命じる。画面はポーズが掛かった状態に移行した。
「何か分かったの!?」
茉莉花が兎を前にしたライオンのような勢いでアリサに詰め寄る。
「分かった……とは言えないけど。何となく……」
「何となく!?」
肩に手を掛け、ますます距離を縮める茉莉花に、アリサは「怖いよ、ミーナ」と、割と本気で訴えた。
「うっ、ごめん。……それで?」
茉莉花の剣幕、と言うか勢いは緩和されたが、詰めた位置関係はそのまま。
近すぎる距離から自分を見詰める眼差しに、アリサは無意識的に身を引いた。
ところで今の二人は、茉莉花が中腰でアリサの両肩に手を置き、アリサは後ろに両手を突いた体勢だ。
その状態でアリサが身を引いたことにより、茉莉花の両手は瞬間的に押し返してくる抵抗を失った。
「わわっ!?」「きゃ!」
その結果、中腰になっていた茉莉花の姿勢が崩れ、アリサの上にのし掛かってしまう。アリサも茉莉花の勢いを支えきれず、床に押し倒された。
「…………」
「…………」
思い掛けない展開で抱き合う格好になった二人は、暫し言葉を失う。
「……重いよ、ミーナ」
「何をぅ!」
全く苦しそうに聞こえない声で抗議するアリサと、ふざけた口調で怒りを示す茉莉花。
二人はその体勢のまま、唐突に笑い出した。
笑いを収め、起き上がり、仕切り直した二人は停止中の録画映像に目を戻した。
「──アーシャ。何でも良いから、気付いたことを教えて」
真剣な目で茉莉花が答えを請う。
「うん……」
アリサは躊躇いがちに口を開いた。
「……他の時に比べて、想子の色が薄いような気がする」
「想子の量が少ないってこと?」
「ううん。色が付いていないって言うか、透明感があるって言うか」
自信なげにアリサは言う。
茉莉花も理解できずに首を傾げた。
「想子光の色が薄いのは、密度が低いことを表しているんじゃなかったっけ?」
「うん……そうなんだけど、今の映像は違う気がする」
「違うって?」
「何て言うか……何と言えば良いのか……」
アリサは瞳を忙しなく動かして、何処にも書かれていない答えを探す。
「えっと……想子の質が変わった? 質が向上した、感じ?」
その末に、自分の中から答えを絞り出した。──やはり自信なげに、疑問形ではあったが。
「うーん……」
今度は茉莉花が顔を顰めて考え込む。
「……ダメだ。全然実感無いや」
そして「お手上げ」という感じの、気が抜けた声を上げた。
「ねぇ、ミーナ。私、思うんだけど……」
「うん、何?」
次の言葉を躊躇っているアリサに、茉莉花が笑顔で続きを促す。
「今は取り敢えずこの技術のことは忘れて、別のことに努力を振り向ける方が良くないかな? 西城先輩の[バダリィフォージング]もまだまだなんでしょう?」
アリサの指摘に茉莉花は「うっ……」と怯んだ。
「あれこれ手を出して中途半端になるのが、一番ダメだと思うよ」
「う~っ」
茉莉花が苦悩の表情で考え込む。
そんな彼女をアリサは無言で見守る。
やがて、唸るのを止めて茉莉花は顔を上げた。
「……分かった。まずは西城先輩の魔法に集中するよ」
「そうだね。その方が良いと思う」
茉莉花が録画の再生を止めて、ビデオカメラとプレーヤーを結んでいるコードを外した。
しかしカメラを見る茉莉花の目には、まだ未練が残っているようにアリサには思われた。
◇ ◇ ◇
夕食後、アリサは旧第十研の訓練所を訪れていた。
もう一時間近くになるだろうか。
的に向かってシールドを飛ばす。アリサの苦手な[攻撃型ファランクス]の訓練だ。
訓練に使っている的は受けた衝撃を重量に換算して表示する仕組みになっている。その数値がこの訓練の基準値をクリアしたのを見て、アリサは口元を綻ばせた。
不意に背後で、拍手が鳴った。アリサが慌てて振り向く。
「克人さん……」
「驚かせて済まない。訓練に集中していたので、声を掛けるのは控えていた」
背後の見学ゾーンには何時の間にか、十文字家当主でアリサの異母兄の克人が立っていた。
克人は別に、こっそり忍び入ったのではない。彼が言ったように、アリサは訓練に意識を集中していて気が付かなかったのだ。
「お仕事は終わったんですか?」
最近克人は仕事で外出することが多い。アリサが訓練所に入った時点では、彼はまだ帰宅していなかったはずだ。
「今日の仕事は終わりだ。最近、訓練を見てやれなくて済まん」
「いえ……。克人さんは十師族のお仕事でご多忙ですから……」
最近、十師族が処理しなければならない事案が発生して、克人がそれに忙殺されていることを、アリサは義母の慶子から聞いていた。
ただこうして向かい合っていても、その疲れを垣間見せることすらない。何時見ても堂々と、どっしりと構えていて身内を不安にさせない。克人のこういうところは、アリサも素直に凄いと思っていた。
「あの、何時から御覧になっていたんですか?」
別に疚しいことをしているわけでもないし、だらしない姿を曝したつもりもないが、気付かない内に見られていたというのは、やはり少し恥ずかしかった。
アリサに問われて、克人は壁の多機能パネルではなく手首の腕時計に目を落とした。
「十五分……いや、二十分ほど前からだ」
アリサは「えっ!?」と声にせずに呟いた。そんなに長い時間、しかもこれ程の存在感を放つ異母兄に見られていたのを気付かなかったなんて……と、ショックを受けたのだ。視線に鈍感な方だという自覚はあるが、それにしたって限度があると自分に呆れた。
「今の攻撃型は上出来だった。もう少し連射性を高めれば、十文字家の魔法師として戦力に数えられる」
「ありがとうございます」
笑顔で御礼を述べたものの、アリサの内心は複雑だった。否、嬉しくなかったと言い切った方が正確か。アリサは戦力になどなりたくないのだから。
「攻撃型に対する心理的な抵抗を克服できたようだが、心境の変化があったのか?」
アリサが[攻撃型ファランクス]を上手く発動できないのは、心理的な要因が大きい──。それは以前から聞かされていたことだった。また、アリサ自身にも思い当たる節が多々あった。
他人を傷つけるとか自分が傷つけられるとか以前に、戦いそのものがアリサは苦手だった。多少緩和されたとはいえ、それは今でも変わらない。
「……頑張っている友達を見て私も、と思ったんです。何時までも、足踏みしてはいられないなって」
「ふむ」
その「友達」が茉莉花のことを指していると、克人はすぐに察した。アリサにも隠すつもりは無かった。
だが克人は茉莉花の名前を口にしなかった。
「切磋琢磨できる友人は得難い。これからも大切にすることだ」
ただ一般論として、そう告げただけだった。
「そうします」
アリサが、今度は内心と齟齬の無い微笑みを浮かべた。
茉莉花との友情が、一般的な基準に照らしても得難いものだと、茉莉花は一般的な基準でも大切な友達だと克人に太鼓判を押されたような気がして、アリサは嬉しかった。
◇ ◇ ◇
二十五日の火曜日は、朝から雨が降っていた。台風の影響が、東京にも遂に及んだようだ。
茉莉花は他の部員と一緒に、演習室で練習をしている。
人数と演習室の広さの関係で茉莉花の練習を見学できなかったアリサは、図書館の自習室で一般科目の課題に取り組んでいた。
「十文字さん」
自習室に来ておよそ三十分。化学の練習問題を解いていたアリサは、聞き覚えのある声に顔を上げた。
「唐橘君、お久し振り」
アリサに声を掛けたのは役だった。五月に日和を通じて知り合い、以来何かと話をする機会が多い男子生徒だ。
「久し振り……なのかな? 九校戦以来だから、まだ二週間経っていないよ?」
「フフッ、そう言えばそうだね」
アリサが片手を口に当てて上品に笑う。
「……」
その笑顔に、役は言葉を失った。目の前で微笑むアリサを彼が見たのは、これが初めてではない。むしろ、この二ヶ月間で「珍しくない」と言える程度の交流はあった。
だから役が受けた衝撃は、理屈で説明できるものではない。「何でもない日常の特別な一瞬」に、彼は目を奪われ、心を攫われたのだった。
「どうぞ?」
立ち尽くす役に小首を傾げ、アリサは取り敢えず席を勧めた。
「あ、うん。ありがとう」
白日夢から醒めたような顔で、役はアリサの隣に座った。彼は一瞬前に自分がどういう状態で何を考えていたか、既に忘れていた。
「十文字さんは課題をやっていたの?」
「うん。今は化学の練習問題を解いていたところ」
「あれ? 課題に練習問題なんてあったっけ?」
その答えに、役は普通の焦りを見せる。
アリサは笑いながら「違う違う」と言いながらヒラヒラと手を振った。
「課題をやってて分からないところがあったから、見直したついでに理解できているかどうかチェックしてたの」
「そうなんだ」
役が小さく安堵の息を漏らす。課題の見落としがあったのではないかという焦りを彼は覚えていたのだった。
「そう言えば唐橘君、実家に帰ってたんじゃなかったっけ?」
「ああ、うん。魔法学の課題で分からないところがあって、調べに来たんだ。実家って言っても、僕の所からだと二時間くらいしか掛からないからね」
「あっ、もしかしてあの問題?」
ピンと来たアリサが自分も苦戦した問題のタイトルを口にする。
「そうそう、あれ。十文字さんはもう解いたんだ」
「うん。時間、掛かっちゃったけどね」
「へぇ。何を参考にすれば良いのか教えてよ」
「うん、良いよ。あのね……」
役と夏休みの宿題について楽しく語り合いながら、アリサはその一方で「そう言えばミーナは、課題、進んでいるのかしら……」と心配を覚えていた。
◇ ◇ ◇
学校からの帰りの個型電車の中でアリサは茉莉花に早速、課題の進捗状況を訊ねた。
「……アーシャぁ、どうしよ~」
アリサの懸念は、残念ながら杞憂で終わらなかった。
「合宿中は一緒に勉強していたんだから、全然進んでいないってことはないでしょう?」
合宿のスケジュールには、ちゃんと勉強時間が確保されていた。その時間に部屋を抜け出して遊びに来た茉莉花に、アリサは一般科目を教えていた。
「それが……」
ところが驚いたことに茉莉花は、専門教科の課題にほとんど手を付けていない状態だった。さらに驚くべきか呆れるべきか、茉莉花は自分が課題に手を付けていないということを忘れてすらいたようだ。
「……帰ってから私の部屋に来て。手伝ってあげるから、一緒に終わらせよう」
アリサの口調が少々厳しいものになっても、それはやむを得ないことだと思われた。
いったん茉莉花のマンションに寄って、二人はアリサの部屋に向かった。
アリサの部屋は十文字家の庭に建てられた離れだ。小さいけれどもバス・トイレ・キッチンなど一通り揃った建物が、丸々一軒アリサに与えられている。
アリサが離れの玄関を開けると、女性物のサンダルがきちんと揃えて置かれていた。アリサの履物ではない。母屋から来ているのが誰か、アリサには一目で分かった。
「……お家の人?」
茉莉花が遠慮を滲ませた声で訊ねる。
「和美さんよ。構わないから上がって」
アリサが脱いだ靴を揃えながら茉莉花の問いに答えた。このサンダルは、異母妹の和美がこちらに来る時に使っている物で間違いなかった。
茉莉花が小声で「お邪魔しまーす……」と言いながら靴を脱ぐ。
二人が部屋に入ると、浴室の扉からラフな格好をした和美が出て来た。彼女は母屋よりも新しい離れの風呂に度々入りに来ているから、アリサは驚かなかった。
この異母妹とアリサの仲は悪くない。和美がクールな性格な為、一緒にいる時間は短い。だが同い年の異母弟のように、アリサを邪険にすることはなかった。むしろアリサがこの家に来た当初から、二歳年下であるにも拘わらず当時小学生の和美は新参者の異母姉が過ごしやすいように気を遣っていた。
「あっ、すみません、アリサさん。お風呂、使わせていただきました」
「いつも言っているけど、気にしなくて良いよ。和美さんはきれいに使ってくれるから。何時でも入りに来て」
「はい。茉莉花さん、こんにちは」
和美が茉莉花に、嫌みにならない程度に、丁寧にお辞儀した。既に夕方だが、茉莉花に気を遣わせないために「こんばんは」を避けたのだと思われる。
「和美ちゃん、お邪魔してます」
茉莉花も失礼にならない範囲で軽く頭を下げる。茉莉花と和美は相手を良く知っていると言える間柄ではないが、名前で挨拶する程度には顔を合わせていた。
「お勉強ですか?」
いつもは一言挨拶を交わすだけなのだが、今日の和美は茉莉花が提げているバッグを見ながらそう訊ねた。
「ええ、そうよ」
アリサがその問いに答える。
「どうしたの?」
そして何事か言いにくそうにしている和美に水を向けた。
「あの、私も少し教えて欲しくて……。お勉強をご一緒させていただけませんでしょうか」
今までにない申し出に、アリサが軽く目を見張る。
「──ミーナ、良いよね?」
「えっ、あ、もちろんだよ」
茉莉花に確認を取って、アリサは和美に笑い掛けた。
「ええ、一緒にお勉強しましょう。何でも訊いてね」
同性でも見とれてしまう、可愛いと言うより綺麗な笑み。
和美は少し赤くなりながら、口調だけは冷静に「はい」と応えた。
◇ ◇ ◇
夕食の時間になって和美は二人分の食事をアリサと一緒に母屋から運び、「ごゆっくり」と茉莉花に挨拶して母屋に戻った。
父親の和樹と母親の慶子、義兄の勇人と和美の四人で食卓を囲む。克人はまだ仕事で帰宅していない。
「和美、何故今日に限ってアリサと一緒に勉強をしたいなんて言ったんだ?」
その席で勇人が和美に訊ねた。
和樹も、さり気なさを装ってはいたが、興味を抑えられず和美を盗み見ている。
「勇人兄さんよりもアリサさんの方が丁寧に教えてくれそうでしたので」
和美は勇人に対しても変わらぬクールな態度で答えを返した。
「それは否定しないが、本音は何だ?」
勇人はその答えを、建前だと決め付ける。
「それも本当ですよ。でも確かに、それが主たる目的ではありませんでしたね」
中学二年生にしてはやや硬い言葉遣いだ。余談だが、もしかしたら和美もこの年頃の例に漏れず、大人の真似をしたいのかもしれない。
「その『主たる目的』とやらは何だったんだ?」
「茉莉花さんがどのような方なのか、知りたいと思いまして」
和美は三度重ねられた質問に、隠していた意図をあっさり打ち明けた。
「遠上さんの為人を知りたかったのか?」
「ええ。姉の一番の親友のことです。家族として、知りたいと思うのは当然だと思いますが」
和美は特に気負うことなく「姉の」と言い「家族として」と言った。
これには勇人も「そうだな」と頷かざるを得なかった。
◇ ◇ ◇
水曜日、アリサは久々にクラウド・ボールの部活に顔を出した。
グラウンドの臨時コートは、残念ながら撤去されている。アリサは曇り空の下、学校から電動キックボードに乗って駅の反対側のコートに向かった。
既に到着して準備運動をしていた部長の初音に、アリサは先週の欠席を詫びた。マジック・アーツ部の合宿に付いていくから欠席すると事前に断りは入れてあったのだが、改めて謝罪しようと今朝から決めていたのだった。
初音は笑って「謝る必要は無い」と応えた。そして嬉しそうに「アリサさんたちの活躍で来年は新入部員が増えそう」と笑った。
午前中はクラウド・ボールで汗を流し、昼食は学食で摂るべく一高に戻った。
待ち合わせをしていた茉莉花と明に、学食で合流する。なお一緒にクラウド・ボールの練習をしていた日和は、別に予定があるということで、更衣室で別れた。
「例の魔法の、例のプロセスのことだけど」
明は家から持ってきたお弁当をテーブルに置いて席に着くなり、「待ちきれない」とばかりに話を切り出した。
アリサも二人分のお弁当をテーブルに出した。言うまでもなく自分と、茉莉花の分だ。最近アリサはすっかり「彼女」と化している。
「例の、って[バダリィフォージング]の『未知のプロセス』のことね?」
話を聞く態勢を作って、アリサは念の為に確認の質問をした。
「ええ、そうよ」
「他に何があるの?」という表情で明が頷く。
「結論から言うわね。兄は『時間』じゃないかって言っているわ」
「時間……? 魔法に『時間』の要素があるというご意見なの?」
半信半疑どころか「疑」が九割の表情で問い返すアリサ。その隣では茉莉花がポカンとした顔をしている。完全に予想外のことを言われて、理解が追い付かないのだろう。
「時間停止とかタイムリープとか、そういう時間を操作する能力は存在しないというのが定説じゃなかったっけ?」
「操作することはできなくても記録することはできる。記憶だって、見方を変えれば時間の保存。……というのが兄の意見よ」
「えっ? えっ? 記憶が時間? 時間保存?」
茉莉花はますます混乱している模様。
「自分が体験した『時間』を情報として『保存』するという意味なら、確かに記憶は『時間保存』と言えるかもしれないね。でも、そんなことを言うなら写真だってビデオだって時間保存になっちゃうよ」
アリサは茉莉花とは違って、理性的な反応だ。アリサは明に、理路整然と反論した。
「二人が信じられないのは分かるわ。魔法に『時間』が関わっているとすれば、ファクターが四系統八種に分類された現代魔法理論が根底から覆るかもしれないものね」
明はアリサに反論するのではなく「うんうん」と頷いた。
「私も最初は信じられなかったわ。でも!」
明が何故か、座ったままで舞台役者のような見得を切る。
アリサはこの段階で、次の展開が分かったような気がした。
「あの方は限定的な時間遡行の魔法をお使いになったと、兄から聞いたの! その魔法で兄を治療したのですって! これはもう、疑いを差し挟む余地など無いでしょう!」
明の目は、アリサを見ていない。彼女は虚空をうっとりと見詰めていた。
「前から思ってたんだけどさ」
ここで茉莉花が、妙に冷めた声で会話に加わった。
「明のお家って、変な宗教の信者になっていたりしないよね?」
「失礼ね。私も家族も伝統的な仏教徒よ。般若心経くらいだったら暗誦できるわ」
真顔で反論する明。
それを聞いて、アリサは「凄いわね……」と小声で呟いた。茉莉花は「へぇ~」と驚いている。
その素直な反応に、何か感じるものがあったのか。
「……とはいえ、私も『時間』が何なのかは理解できなかったんだけどね」
明の表情から「熱」が抜け落ちた。
「時間は時間じゃないの?」
「ミーナ、私たちは『時間』そのものを認識なんてできないよ。何かが変化したことで『時間が経った』って分かるだけでしょう?」
茉莉花の言葉に、アリサがやんわりと反論する。
「でも時間は計れるじゃん」
やや向きになっている感のある、茉莉花の反論返し。
「それは時計の変化を見ているだけだよ」
「そういう抽象的な議論は止めておきましょう。限が無いから。それより[バダリィフォージング]のことだけど」
茉莉花とアリサの口論、と言うより言葉のキャッチボールを明は制止して話を本題に戻した。
「正体不明だったプロセスはやっぱり、記録するためだけのもので間違いないみたい。有害な副作用は無いからガンガン使ってもらって構わない、というのが私と兄の結論ね」
明の結論は、アリサにとってだけでなく茉莉花にとっても予想以上に前向きなものだった。
アリサと茉莉花が顔を見合わせる。
「……とにかく、リスクは無いというこの前の結論は変わらないのね?」
「ええ、一般的な魔法を超える範囲のリスクは無いわ」
アリサの念押しに、明は自信を持って頷いた。
「分かったよ。ありがとう、明」
「どういたしまして」
何だか「これで終わり」みたいな雰囲気だったが、三人はそこから仲良くそれぞれのお弁当を食べた。
◇ ◇ ◇
その日の夜は前日とは逆に、アリサが茉莉花のマンションで食卓に着いていた。
昨晩の御礼に茉莉花がご馳走をしている──のではない。料理をしたのはアリサだ。その間茉莉花は、唸りながら夏休みの課題に取り組んでいた。
甘やかしている感は否定できないが、全国大会に向けた練習と進捗が芳しくない夏休みの課題の為に、アリサは今月いっぱい茉莉花の家事を代わりにやってあげることにしたのだった。
くたくたになった顔で、それでも食欲旺盛に箸を動かしている親友を正面に見ながら、アリサはシリアスな表情で「ミーナ」と話し掛けた。
「んっ? ……何?」
口の中の物を吞み込んで、茉莉花が応えを返す。
アリサはシリアスな表情で、何事か言いにくそうにしていた。
「ど、どうしたの?」
徒事ではない気配を感じた茉莉花は、宙に浮かせていた手をテーブルに置いて──ただ、箸は手放していない──焦った顔でアリサに続きを促す。
「……課題は終わりそう?」
茉莉花の表情が弛緩し、緊張に固まっていた姿勢が脱力して崩れた。テーブルに突っ伏しそうになるのをギリギリで堪えている、というようにも見える。そういえば茉莉花は片手に箸を握ったままの状態で、テーブルについた両腕をブルブル震わせていた。
「せめて食事中は、その話題を避けて欲しかったよ……」
恨めしそうに応えを返した茉莉花に、アリサは「ゴメン……」と謝った。
◇ ◇ ◇
一通り家事を終わらせて、アリサは十文字邸に帰宅した。茉莉花は泊まって欲しそうにしていたが、今夜は帰宅すると義母の慶子に約束していた。それだけでなく、アリサには少し考えたいこともあった。
アリサはお風呂を済ませると、ラフな部屋着ではなくきちんと身なりを整えて母屋に向かった。訪ねた先は克人の書斎。彼が帰宅していることは入浴前に確認済みだ。
ノックに「どうぞ」という応えがあった。アリサは名乗ってからドアを開けた。克人はデスクチェアを回転させて、座ったまま部屋の入り口に身体を向けていた。
「お邪魔しても良いですか?」
「構わない」
デスクの端末は画面が点灯したままだったが、克人の返答に甘えてアリサは部屋に入った。「掛けてくれ」という克人の指示に従って、一人掛けのソファに浅く腰を下ろす。
「すみません、お仕事中に」
「いや、急ぎではないから大丈夫だ」
克人はその応えと表情で、アリサに用件を話すよう促した。
「……あの、克人さんは千葉家の[切陰]をご存じでしょうか?」
アリサは一拍の躊躇を乗り越えて、克人に質問をぶつけた。
「その存在は知っている。詳しい原理は知らない。何故千葉家の秘術のことを?」
「あの、それは……」
克人から質問の意図を訊ねられて、アリサは口ごもった。秘密にしたいのではなく、どう説明すれば良いのか分からなかったのだ。
今日の午後、アリサは一昨日と同じように第二小体育館で茉莉花の練習を録画していた。ランチタイムに明から聞いた話に後押しされたのか、午後の茉莉花は硬化魔法の練習に多くの時間を費やした。
だが時折、魔法の練習を中断してシャドーボクシングで身体を動かしていた。
一見、慣れない魔法で緊張を強いられた神経を解放する為の気分転換。
だがアリサには、茉莉花の意識が別のターゲットに向いているのが分かった。
茉莉花の意識が向けられている先は、間近に迫った全国大会ではない。
ライバルの一条茜でもない。
おそらく茉莉花が見ているのは、合宿で出会った一人のOG。
千葉エリカ。
おそらくだが、彼女の背中が茉莉花には「目指すべき強者」に見えているのだ。
太陽を直視すれば目が眩むように、強すぎる「星」の輝きは人の心を惑わす。明が司波達也に傾倒しているように、茉莉花は千葉エリカに心を奪われてしまっている。
だから、あのOGの技が心から離れない。いったんはけじめを付けたつもりでも、ふとした瞬間に心が欲してしまう。知らない内に、身体が技の記憶をなぞる。
茉莉花が硬化魔法の練習の合間に気分転換のつもりで行っていたシャドーボクシングは、エリカが言う「陰の技」を会得する為にダミー人形を相手にしていた打ち込みと、同じフォームだった。
「その……ミーナが」
「ミーナというのはアリサの友人の遠上のことだな。彼女が千葉の技に取り憑かれでもしたか」
「お分かりなんですか?」
克人の洞察力に驚きを覚える一方で、「取り憑かれるとは上手い表現だ」とアリサは思った。
「千葉エリカの技は人を魅了する。歴史的な名工の手になる日本刀のような魅力だ。特に遠上のように魔法師よりも武人としての価値に重きを置く者には、麻薬のような引力がある」
「……良くご存じなんですね」
「戦場ではすれ違ってばかりで、直接目にした経験はわずかだがな」
克人が目を閉じて黙り込んだのは、その希少な経験を思い出しているのだろうか。
「戦場……千葉先輩は西城先輩と一緒に、横浜事変の戦場に立っていたと聞きました」
アリサは克人が口にした「戦場」という単語を流せなかった。
「横浜事変だけではない。千葉は、司波と共に、何度も戦場に立った」
(まただ……)
アリサの心を、その言葉が過った。
「──司波達也先輩とですか?」
「そう……だな。だが、妹の方と一緒のことが、むしろ多かったと記憶している」
妹というのは、今では婚約者になっている次期四葉家当主のことだろう。そちらは余り、アリサの意識に引っ掛からなかった。
「俺は千葉の[切陰]を体験したことはない。だがその効果を見たことはある」
克人のその言葉には軽々しく扱ってはならないと感じさせる重みがあった。その重みがアリサに、続きを促すことを躊躇わせた。
だが、アリサが詳細を催促する必要は無かった。
克人の話は止まらなかった。
「アリサ、十山つかささんは覚えているな? 一度、紹介したことがあるはずだ」
「……はい」
十山家は十文字家と同じ旧第十研出身の師補十八家──十師族の補欠と言うべき魔法師の血族で、十文字家と並ぶ旧第十研の、二つだけの成功例だ。
そして『十山つかさ』は十山家の長女で、十山家の実質的なナンバーワンだった。
「千葉の[切陰]は魔法障壁を張ったつかささんを、そのまま無力化した」
「……障壁が維持された状態で、十山家の方を無力化したのですか?」
「そうだ。その時のつかささんに、外傷は全く無かった。にも拘わらず、つかささんは指一本動かせない状態だった」
同じだ、とアリサは思った。程度の違いこそあれ、[リアクティブ・アーマー]を発動した状態で斬り倒された茉莉花と同じやられ方だった。
「つかささんを診た医師は、肉体の情報体を形作っている想子の流れが何処かで断ち切られたように著しく不活性化していると診断した。それが肉体に一時的な衰弱をもたらしていると」
「想子の流れを、断ち切る……」
「想子それ自体で形成された無系統の刃で想子情報体を斬る。それが[切陰]の正体だろうと俺は考えている」
克人の話を聞いて、一つの思い付きがアリサの脳裏に浮かぶ。
「……じゃあ、同じように想子の塊をぶつけて、肉体の情報体に強い衝撃を与えることができれば……」
その思い付きを、アリサは無意識的に言葉にしていた。
「威力は落ちるだろうが、類似した効果は得られると思う」
克人はその思い付きを、真面目な顔で肯定した。
◇ ◇ ◇
全日本マーシャル・マジック・アーツ大会の本選を二日後に控えた八月二十八日、金曜日の午後。
茉莉花たちマジック・アーツ部の出場選手は第一高校第二小体育館で、最後の調整を行っていた。──明日は前日なので、本格的な調整を行うのは今日が最後という意味だ。
「あれっ? その格好、どうしたの?」
第二小体育館に現れたアリサを見て、茉莉花が訝しげな声を上げる。
アリサの服装は一高のロゴ入り半袖シャツに膝上のスパッツ。つまり、体操服姿だった。髪も激しい運動をする時用の、お団子一つのシニヨンに纏めている。
「もしかしてクラウド・ボールの練習から直接来てくれたの?」
今日の昼食は茉莉花側の都合で、一緒ではなかった。マジック・アーツ部のミーティングを兼ねた昼食会だったので、別々にならざるを得なかったのだ。
良く見ればアリサのシャツは、重く汗を含んでいる。息遣いも少し荒い。激しい運動をしてきたばかりのようだった。
「ミーナ、調子はどう?」
アリサの声の調子がいつもと違ったのは、運動の余韻が残っている所為だろう。茉莉花はそう感じた。
「うん、聞いて聞いて! [バダリィフォージング]、何とか試合で使えそうなんだよ!」
「そうなんだ……。こんな短時間で身に付けるなんて、ミーナは凄いね」
「いや、まあ、完全な起動式をもらっていたからね。起動式のとおりに魔法を組み立てただけだよ。と言ってもまだ、一秒も維持できないんだけどね」
「それでも凄いよ」
「そ、そうかな。アハハハ……」
真面目な顔でアリサに褒められて、茉莉花は照れ笑いを口にした。
「じゃあ、あっちは?」
「……あっちって?」
しかし続くアリサの問い掛けに、茉莉花の笑みは戸惑いに塗り替えられる。
「千葉先輩の、『陰の技』」
茉莉花の顔が一瞬、強張った。
「い、嫌だな、アーシャ。あれは保留にするって言ったじゃん」
茉莉花の顔に浮かんだ焦りの表情は一瞬だけのものだったが、他の誰でもない、アリサは見逃さなかった。
「でも、本当は練習していたんでしょう? 先輩にも私にも隠して、こっそりと」
二人が醸し出すただならぬ雰囲気に、「おい、どうした?」と言いながら千香が速歩で歩み寄ってくる。彼女のすぐ後ろには千種の姿もあった。
「ア、アハハ……。ど、どうしたのさ、いきなりそんな」
「違うの?」
「──っ!」
正面から瞳をのぞき込まれて、茉莉花はその視線に射竦められた。
アリサが軽く、目を伏せる。
茉莉花の呪縛は解けたが、緊張感は少しも変わらなかった。むしろ、ますます高まっていた。
「ミーナ。私のお遊びに、少し付き合ってくれない?」
「お遊び?」
お遊びと言いながら、アリサが全身から漂わせる気配は真剣そのものだ。
だから千香も千種も、誰も横から制止はできなかった。
「う、うん……」
そして唯一、拒否権を持っていた茉莉花も、アリサの異様な、いつもの彼女らしくない雰囲気に吞まれていた。
「付き合ってくれるの? ありがと」
感情が余り乗っていない声でそう言って、アリサは精神統一に入った。まるで魔法の、大技を使おうとしている時のように。
「ミーナ、[リアクティブ・アーマー]を使って」
何でもない、日常的な頼み事をする時の口調でアリサが言う。だがその背後に有無を言わせない圧力を感じて、茉莉花はほぼ反射的に[リアクティブ・アーマー]を展開した。
「私、素人だから動かないでね」
そう言ってアリサは全身に強烈な気迫を漲らせながら──、否、大量の想子を身体に宿した状態で、茉莉花の許へと歩いて行く。
そして手が届く距離で立ち止まり、実際に茉莉花へ手を伸ばした。
それは茉莉花の腹に掌底突きを打ち込むフォームだった。
だが伸ばした手に勢いは無い。ゆっくり触れるだけの、形だけの掌底突きだ。
[リアクティブ・アーマー]を纏っている茉莉花の身体に、アリサが触れることはできない。アリサの掌は、茉莉花の身体から三センチの位置で止まった。
次の瞬間。
眩い光が茉莉花と、周りで見ている部員の目を眩ませた。

茉莉花の腹に宛がったアリサの掌から、強烈な想子光が迸ったのだ。
アリサが身体に溜めていた想子を一気に放出したことによる、非物理的な光。
一度に放出された大量の想子が[リアクティブ・アーマー]の障壁に跳ね返された結果が、この眩しい光だ。
しかしアリサが放った想子流は、全てが跳ね返されたわけではなかった。
全体の放出量からすれば、五分の一程度だろう。
しかしそれは、茉莉花の装甲に穴を空け、彼女の身体を貫いた。
茉莉花には何の傷も刻まず。
ただその身体を徹り抜けた。
アリサがガックリと両膝を突く。急激な想子の放出の反動で虚脱状態に襲われたのだ。
わずかに遅れて、今度は茉莉花が片手で腹を押さえながら片膝を突いた。
見物の輪から「まさか、[術式解体]……?」という声が漏れた。
「信じられない」という感情が込められたその声は、男子部部長の千種のものだった。
「なに……今の……?」
脂汗を浮かべて、茉莉花がアリサに問う。
「……答えは、『想子のレーザー』、だったんだよ、ミーナ……」
青白い顔で、血の気が引いた唇でアリサが答えを返した。
「想子の……レーザー? なに、それ……」
茉莉花は苦しそうな、今にも力尽きてしまいそうな声で質問を重ねた。
「あの、ね……。『波』を、揃えた、想子を、ギュウギュウに、収束して、放……」
アリサはそこで限界を迎え、横向きに崩れ落ちた。
第二小体育館が騒然となった。
「保健室に!」「いや、先生を連れてこい!」という怒号が体育館の中を飛び交う。
茉莉花はそれを聞きながら、腹を押さえて前のめりに身体を折った。
◇ ◇ ◇
茉莉花とアリサは共に意識を失って、仲良く保健室に運ばれた。
目を覚ました茉莉花は、アリサが寝ているベッドの隣で身体を起こした。
「アーシャ!?」
焦った顔で隣のベッドへ詰め寄ろうとする茉莉花。
だが彼女は、ベッドを降りることができなかった。
「もう少し寝てなきゃダメよ」
優しくたしなめる声と共に、茉莉花はベッドに押し戻される。決して強い力ではなかったが、茉莉花は抗えず仰向けに倒された。
「安宿先生……」
茉莉花をベッドに押し倒したのは養護教諭の安宿怜美だ。おっとりした、むしろ華奢な外見の女性だが、格闘技系クラブの間では「実は武術の達人では?」と囁かれている美女だった。
「遠上さんは想子の流れが乱れているだけで特に治療は必要ありませんけど、まだ無理をしない方が良いですよ」
「アーシャは……十文字さんの具合はどうなんですか?」
体調が万全でないことを自覚している茉莉花は、大人しく横になった状態でアリサの容態を安宿に尋ねた。
「彼女は貴女より少し重症です。丸一日安静というところかしら」
「重症って何ですか!?」
茉莉花がガバッと起き上がる。
「はいはい、暴れないの」
だが安宿に軽く肩を押されただけで、仰向け状態に逆戻りだ。それだけでなく、鎖骨の辺りに片手を添えられているだけにも拘わらず、身動きできなくなってしまう。
茉莉花は抵抗が無意味であることを覚り、すぐに大人しくなった。
安宿は茉莉花を抑え込んだまま、安心させるように笑い掛けた。
「十文字さんは過労ですね」
そして、茉莉花の質問に答えを返す。
「過労……?」
「想子を短期間に大量放出して、枯渇してしまった状態です。回復のペースは正常だから、スピリチュアル・ボディやアストラル・ボディが損なわれている心配はありませんよ」
「そうなんですか……。治るんですよね?」
「ええ、治ります」
安宿が笑顔で、かつきっぱりと答えたのを聞いて、茉莉花は力を抜いて枕に頭を沈めた。
「ただこんな無茶を繰り返していると、アストラル・ボディが傷付いて魔法技能が損なわれることにもなりかねません。遠上さんからも注意してあげてくださいね」
しかし次に告げられた警告に、茉莉花の顔から血の気が引いた。
夕方五時前、安宿からの連絡で十文字家からアリサの為の迎えの車が到着した。アリサは既に意識を取り戻し歩いて帰ることも可能な状態だったのだが、大事を取った方が良いという安宿のアドバイスに連絡を受けた父親で先代当主の和樹が同意した結果だった。
その車にはアリサの付き添いとして生徒会の仕事で登校していた勇人と、アリサの希望で茉莉花が同乗した。
「本当にごめんね、ミーナ」
車の中でアリサが十度目以上の謝罪を口にする。
「ううん、アーシャは悪くない。何度も言うけど、あたしが何時までも迷っていたのがいけないんだよ。アーシャはあたしの為に、それを何とかしようとしてくれただけ。あたしの方こそゴメン」
そして茉莉花も、先程から何度も繰り返したセリフで応えた。
「でも、大事な大会の前なのに」
「あたしはもう治ったよ。安宿先生のお墨付き。だからアーシャは心配しないで」
アリサは、納得したようには見えなかったが、「安宿のお墨付き」という言葉に、これ以上茉莉花に気を遣わせないよういったん懺悔を止めた。
勇人はアリサを挟んで、茉莉花の反対側の席で黙って考え込んでいた。
自走車が十文字家に到着し、アリサは茉莉花の手を借りて自室のベッドで横になった。アリサが「少し眠るから」と言って目を閉じたのを見届けて、茉莉花は十文字家を辞去しようとした。
「遠上さん。少し、良いだろうか?」
だが、勇人が茉莉花を呼び止めた。
「はい、何でしょうか」
「先程、車の中で言っていた、ダメージは抜けたというのは本当か?」
「はい、本当です。強がりではありません」
勇人に呼び止められて大人しく従ったのも、回復したというのが噓ではなかったからだ。もしアリサから受けたダメージが残っていれば、茉莉花は正直にそう言って帰宅することを選んでいた。
「そうか。では、少し付き合ってくれないか」
そう言って勇人は隣の敷地、旧第十研の建物を指差した。
「君にとっては足を踏み入れたくない場所かもしれないが、今日は我慢して欲しい」
茉莉花の顔に浮かんだ躊躇の表情を認めた上で、勇人は重ねて同行を求めた。
「……あたしには特に、第十研に思うところはありません」
勇人の用件がアリサに関することだと察した茉莉花は、そういう言い方で勇人の申し出を受けた。
勇人が茉莉花を連れていったのは誰もいない、旧第十研の戦闘訓練室──対人戦闘の訓練の為の部屋だった。
高校生の男女が二人きり。だが勇人がそんな目的で自分をこの部屋に連れ込んだのではないことを、茉莉花は言われなくても理解していた。
勇人から茉莉花に向けられる眼差しが、それを彼女に教えていた。
勇人の目に、欲情は無い。彼の視線は異性に向けられるものではなく、敵に向ける類のものだった。
「アリサは一昨日の晩から、千葉先輩の、魔法シールドを無視してダメージを与える技を再現しようとしていた。いや、実際に試行を始めたのは一昨日の晩だが、再現を模索していたのは先週末、奥多摩から戻ってきた日からだった」
訓練室の中央で向かい合って立ったまま、勇人が茉莉花に感情を抑えた声で告げる。
「そうですか」
茉莉花は知らなかった。だが意外ではなかった。
自分が「陰の技」の修得に悩んでいたことは、アリサに知られていた。大会を間近に控えて時間が足りないと分かっているのに、自分が諦めきれずにいたこともアリサは察していた。ならばアリサは自分の代わりに、教えてもらえなかった「陰の技」の秘密を解き明かそうとするだろう──。それがどんなに無謀なことでも、立場が逆なら自分でもそうすると茉莉花は思った。
「千葉先輩の技を、アリサは結局再現できなかった。だが、答えは見付けられなかったが、解決策は見出した。俺はそれを知っている」
「先輩も協力してくださったんですね」
「俺はアリサに協力しただけ。それも、止めるのが無理だったからだ。止められないなら、一刻も早く結論が出るように練習相手を務めた。……あんなことになるなら止めておけば良かったよ」
勇人の顔が後悔に歪む。
茉莉花は奥歯を嚙み締めて表情を変えなかったが、勇人と同じ気持ちだった。自分がきっぱりと態度を決めないからアリサに無理をさせたという後悔は、噓偽りの無い彼女の本音だった。
「……過ぎてしまったことを悔いるのは、今は止めよう。時間がもったいない」
勇人は後悔を振り払うように二、三度、頭を振った。
「アリサが見つけ出した解決策は[術式解体]だ」
「──[術式解体]って発動された術式を無効化する対抗魔法ですよね。それで魔法シールドを打ち消すんですか?」
「その推測は正しいが、そうではない」
勇人の答えは一見、混乱している。だが彼の表情は、自分が何を言っているか分かっている顔だった。
「[術式解体]は高密度の想子流で、魔法の対象となっている物や空間から魔法式を吹き飛ばして魔法を無効化する技術だ」
茉莉花は「はい」とだけ言って頷く。
「通常この対抗魔法は、術式を無効化する以上の効果を持たない。その性質上、[術式解体]の想子流は距離に応じて勢いが減衰する。数メートルも離れれば、ターゲットの表面に露出している魔法式を吹き飛ばすことはできても、無意識の情報強化を纏う魔法師の肉体に影響を与えるのは不可能だ」
茉莉花はもう一度「はい」と頷いた。
[術式解体]は現実の物理的な次元に高密度の想子流を放って、物理的な次元に存在する魔法の標的に浴びせることで、その表面に貼り付けられた魔法式を吹き剝がし破壊する。
その仕組み上、物理的な距離による威力の低下から逃れられない。有効な射程距離が短いことが、この対抗魔法の最大の短所になっている。
これは魔法科高校で教わる知識ではないが、自分の魔法[リアクティブ・アーマー]を破る可能性がある対抗魔法として、[術式解体]のことをアリサから教えてもらっていた。──言うまでもなくアリサはその知識を、十文字家の家庭内教育に依っていた。
「しかし逆に言えば、距離による減衰が無ければ[術式解体]の想子流で他人の肉体を変調させることが可能。肉体にはその情報を写し取った想子情報体が重なっていて、その情報体の損傷が肉体の感覚にフィードバックされるからだ」
「……すみません。先輩が先ほど仰ったように、相手が魔法師の場合は情報強化に阻まれると思うのですが」
勇人がさっき軽く触れたとおり、魔法師は無意識に自分の肉体を守る情報強化を展開している。肉体が他人の想子流に曝されても、情報強化の壁がその影響を遮断するはずだ。
「意識的に展開した情報強化ならともかく無意識の情報強化であれば、事象干渉力を伴わない想子流でもやり方次第で突破できる」
茉莉花が目を見開く。それは驚きと、理解の表情だった。
「──それが、アーシャが見付けた『解決策』ですか?」
「そうだ」
勇人は睨み付けるような眼差しを茉莉花に向けながら、力強く頷いた。
「そのやり方を教えていただけるのですか?」
「いいや」
礼儀を保った茉莉花の問い掛けに、勇人は首を横に振った。
「教えるのではない。覚えてもらう」
「……」
「君たちの付き合いに干渉するつもりはないし、アリサが倒れたのは君の責任ではないと理解している。だが君の為にアリサが無理をしたことが、無意味に終わるのは断じて認められない」
……勇人の言い分は、性質的に言って逆恨みに近い。ハッキリ言って八つ当たりだ。
茉莉花には、勇人の八つ当たりに付き合う義務は無かった。義理も、無いだろう。
「何を覚えれば良いんでしょうか」
だが茉莉花はその八つ当たりを、進んで受け容れた。
積極的に取り込もうとしていた。
「想子の波形と振動数を一つに揃える。原理はまだ分からないが、至近距離から統一された想子の波を継続的に送り込むことで、魔法障壁にも情報強化にも穴を空けることができる」
振動数を統一した波を送り込む。アリサが「想子のレーザー」と表現したのは、この共通点を伝えようとしたものだった。
「どの位、続ければ良いんですか?」
「一秒も必要ない。〇・五秒程度で十分だ」
「分かりました。──具体的にはどうすれば、想子波を統一できるのでしょうか」
少なくとも一般には知られていない技術の、核心に関する質問。
「一つのことを一心に念じれば良い」
勇人の答えに、淀みは無かった。
「想子は意思や思考を形にする粒子と言われている。この仮説を裏返せば、意思や思考を統一すれば、その間の想子の形も統一されることになる」
「一つのことだけを念じている間は、想子波が同じ波形と振動数に維持されるということですね」
「難しいことではあるまい」
雑念を消すという普通なら困難な技を、勇人は事も無げに「難しくない」と言った。
「少なくとも試合中は、勝つことだけを、相手を倒すことだけを考えていれば良い」
「……どう倒すかも、迷ってはいけないということですね」
「できないか?」
「いえ、やります」
「できます」ではなく「やります」。
勇人の挑発を、茉莉花は正面から受けて立った。