【3】合宿二日目
実を言えばアリサたち四人は宿泊日数以外の予定を立てていない。敢えて言うなら「泳ぎたい」という日和の希望があるだけで、それも「何処か一日」というレベルのものだ。だから朝食の席で「トレーニングに協力して欲しい」と言われて、四人ともほとんど迷わずに頷いた。
そして彼女たちは今、この辺りで一番規模が大きな滝の前にいた。
特に日和にとっては残念なことだが、泳ぎに来たのではない。これから滝を形作っている崖を利用して登攀訓練を行うのだ。
滝の水飛沫で濡れた岩壁は滑って危ないのではないか──というのは素人の杞憂ではないようで、アリサたちが頼まれたのは落下する部員を魔法で受け止める安全ネットの役目だった。
「念の為に」ではなかった。まだ始まってから一時間も経っていないが、彼女たちが受け止めた山岳部員は三人、マジック・アーツ部員は二人。慣れている山岳部員の方が多いのは、彼らが果敢にアタックしているからだろう。有り体に言ってマジック・アーツ部員の登攀はおっかなびっくりだった。
今もアリサが落下する浄偉を安全な水面に誘導したところだ。本当は濡れないように岸まで運んであげたいところだが、「ずぶ濡れになるのは無茶をしたペナルティ」と山岳部の部長から釘を刺されている。
それに登攀は一人ずつではない。同時に何人も崖に取り付いている。何時、次の滑落者が発生するか分からない状況では、安全面に無関係なところまで面倒を見ていられなかった。
それにこんな山奥では、余程危険な術式でもない限り魔法の使用を黙認されている。皆、濡れた服は自力で乾かしていた。
一時間が経過したところでコーチ役のOB、レオが「よーし、休憩」と声を掛けた。
「十文字さん」
ちょうど岸に上がってきた浄偉が──彼はこれが二回目の落下だった──全身から水滴を滴らせながらアリサの許へ歩み寄る。
「なに?」
アリサは質問で応えながら弱い[乾燥]の魔法を浄偉に向かって発動した。もしかしたら涼を取る為に態と乾かさないのかも、とも思ったが、夏とはいえ濡れた服のままでは風邪を引く可能性があったので余計な世話を焼くことにしたのである。
「……ありがとう」
浄偉は決まり悪さと照れ臭さが混じり合った顔で御礼を言い、「教えて欲しいことがあるんだけど……」と躊躇いがちに切り出した。
「うん、私で答えられることなら」
アリサは友人に対する信頼感で、深く考えずに頷く。言いにくそうにしている浄偉の表情を見ても「まさか、告白?」などという勘違いもしなかった。
「……三高の、十文字竜樹の得意な魔法と苦手な魔法を教えて欲しい」
「えっ!?」
だが実際に受け取った質問は、即答できるものではなかった。
「何故竜樹さんのことを?」
だからといって、アリサに過度な動揺は無い。彼女は正面から目を合わせて、浄偉にその意図を訊ねた。
「来年は、今年と同じ後悔をしたくないんだ」
「九校戦のことを言っているの?」
浄偉が首を縦に振る。
「彼が強敵だということは分かっていた。事前に情報も集めていた。でも十文字さんから身内しか知らない手の内を聞き出すのは、フェアじゃないと思っていた」
アリサに訊けば、普通に調べたのでは得られない竜樹の攻略法が手に入ると、浄偉にも分かっていた。
だが、他家が秘匿する魔法の技術情報を訊ねるのはマナーに反するというのが、魔法師社会の不文律だ。竜樹の情報を家族のアリサに訊ねるのは、このマナーに抵触すると浄偉は考えていたのだった。
「だけど、それは間違いだった。否、甘かった。あの試合、ヤツの障壁投射魔法によるダメージが無ければ俺が勝てていた──かもしれない。ヤツにあの魔法があると知っていたら、少なくとも決定的なダメージは避けられた、と思う」
「勝てていた」「避けられた」と断言しないのは浄偉の真面目な性格を反映しているのだろう。そんな場面ではないかもしれないが、アリサはほっこりした気分になった。
「マナーに反する術式の詳細まで訊こうとは思わない。彼にどんな武器があるのか、それだけでも教えてもらえないだろうか」
「良いよ、その程度なら」
アリサがあっさり頷いたのには、微笑ましさに絆されたという面も確実にあった。
「三高の緋色さんたちも、竜樹さんから私の魔法について聞いていたみたいだから」
だが同時に「お互い様」という冷静な判断もアリサにはあった。
浄偉は小休止の時間が終わるまで、アリサの話に真剣な表情で耳を傾けていた。
登攀訓練は正午前に終わった。合宿所への帰り道は、途中まで同じだ。山岳部とマジック・アーツ部の部員は緩い塊となってゾロゾロと歩いていた。
浄偉は山岳部の最後尾近くにいた。疲れ切った足取りだ。足をほとんど引きずっている他の一年生に比べればしっかりした歩き方だが、上級生と比較するとやはり余裕が無い。
そんな浄偉に、小柄な女子がさり気なく寄ってきた。
「ジョーイ、結構参っているみたいですね」
「小陽か。お前は元気そうだな」
「私たちは魔法を使っていただけですから」
「羨ましいことで」
そう言う浄偉は本気で羨ましそうな表情だ。
小陽は煽るように得意げな笑みを見せたが、すぐ真顔に戻った。
「ところでジョーイ、さっきアリサさんと何をお話ししていたんですか?」
「さっき?」
浄偉がすぐに回答しなかったのはとぼけたのでも誤魔化したのでもない。疲労で頭が鈍っていただけだ。
だが小陽は浄偉が、古い付き合いである自分に言えないような話をしていたと解釈した。
「随分真面目な雰囲気でしたが」
小陽が探りを入れる。
「……まあ、そうだな。真面目な話だ」
そうとは気付かぬ浄偉は、魔法師社会のルール違反ギリギリだったという自覚から歯切れが悪い。
それが小陽の誤解に拍車を掛ける。
「ジョーイ、あの……諦めた方が良いと思いますよ」
小陽は浄偉がアリサに告白をしたと勘違いをした。もっともこれは、今日の一幕だけで短絡的にそう考えたのではなく、以前からアリサに向ける浄偉の眼差しにそういう熱を感じていたからだった。
「はっ? 小陽、何言ってんだ。諦められるはずないだろう」
繰り返して言うが、浄偉は疲労で頭の働きが鈍っている。普通なら小陽の発言に違和感を覚えていたはずだが、この時の彼は自分の中で辻褄を合わせてしまった。
即ち「(三高の十文字選手に勝つのは)諦めた方が良いと思いますよ」「(九校戦の雪辱を)諦められるはずないだろう」と彼の頭の中ではつながっていたのだった。
「ジョーイも決してイケてない方だとは思いませんが……、正直、高嶺の花すぎると思います」
しかしここまで言われれば、さすがに話が嚙み合っていないと気付く。
「……小陽、何を言っているんだ?」
「今更とぼけなくても良いんですよ。ジョーイ、アリサさんに告白したんでしょう」
小陽は大真面目で、気遣わしげですらあった。
「はあぁっ!?」
それが余計に浄偉の驚きと焦りを大きなものとする。
「バッ、ちがっ、ナ、ナニ誤解してんだ、オマエ!」
浄偉はひっくり返った声で叫んだ。
「何だ?」「何事だ?」という視線が山岳部からもマジック・アーツ部からも浴びせられる。
気が動転した浄偉は視線の集中砲火から逃れようと、衝動的に小陽の手を摑み道を外れて林の中へ彼女を引っ張って行った。
狼狽に囚われた浄偉には、それがさらなる誤解を呼ぶことになるという、少し考えれば簡単に予想が付く未来が見えていなかった。
浄偉が立ち止まり、小陽の手を離した。そんなに長い時間ではなかったが──むしろ短い時間だったが、元の道から二人の姿が見えない程度には奥まで進んでいた。
「ジョーイ、いきなりどうしたんですか」
だというのに小陽の方にも警戒感は見られない。彼女は否定するが、これはやはり「幼馴染み」と呼ぶべき距離感だ。
「だから誤解だ」
小陽が小首を傾げる。「何がですか」という表情だ。
「だから! 俺は十文字さんに告白なんかしていない!」
「……結局、告白もできずに退散したんですが?」
そのセリフは完全無欠な呆れ声。彼女の顔には透明の文字で「ヘタレ」と大書されていた。
「それが誤解だって言ってんだろうがよぉ! 告白しに行ったんじゃない!」
浄偉は今にも地団駄を踏み始めそうになっていた。
それでも小陽の態度は変わらない。
「えっ、でもジョーイって、アリサさんのことが好きなんでしょう?」
「なっ……」
質問の形を借りた決め付けに、浄偉が絶句する。
「……ノーコメント」
たっぷり十秒以上を掛けて、浄偉は何とか再起動を果たした。だが彼が絞り出した答えは、小陽の言葉を肯定しているも同然のものだった。
それにすぐ、気付いたのだろう。
「さっきのは三高の十文字竜樹について教えてもらってたんだ」
浄偉は早口でそう続けた。
「ああ……。来年の九校戦対策ですか」
小陽は一応、理解したようなセリフと共に頷いた。だが、本気で納得しているようには見えなかった。
◇ ◇ ◇
二日目の午後、山岳部のトレーニングメニューはトレイルランニング、マジック・アーツ部は水中鍛錬となっていた。
トレイルランニング──短縮してトレラン、あるいはトレイルランと呼ばれる──は山、森林、平原、砂漠などで行われる中長距離走だ。競技のトレイルランは専用の小型リュックサックを背負ってオフロードを走るものだが、一高山岳部は昨日と同じくフレームザックに水や救急キット、携帯食などの荷物を詰めて走る。その重量は日帰り登山に使う程度だが、体力に余裕がある者はそこに砂袋が追加される。
マジック・アーツ部の水中鍛錬は、アクアエクササイズのマーシャルアーツ版だ。腰まで、あるいは胸まで水に浸かった状態で型稽古を行う。ウェアは水着に足の怪我を防ぐ為のウォーターシューズだ。このメニューは女子部員に好評だった。
男子部員に不評だった理由は、場所が男子と女子で分かれるからである。女子は午前中の登攀訓練で使った滝壺の少し下流。男子はそこからやや離れた、流れの速い箇所(早瀬)。男子が使う早瀬の水深は股下くらいまでしかない。それがかえって転倒時のリスクを上げている。男子は水着だけでなく膝当て、肘当て、軍手を着用することになっていた。
それでは、アリサたちはというと。
流れが緩やかな滝壺のすぐ側で、日和念願の水遊びの時間だった。
午前に引き続き滝壺にやって来たアリサたちは全員が色違いのラップワンピ(巻きワンピース)を着ていた。滝の水飛沫が届かない岩場でそれを脱ぐ。四人はラップワンピの下に水着を着けていた。
三者三様ならぬ四者四様。いずれも瑞々しい魅力に溢れていたが、その中でも特に際立っていたのはやはりアリサだ。
ミドルカットのワンピース。シンプルな競泳タイプの水着だが、それを彼女が着るとスリムでありながら女性的なプロポーションを強調するデザインになっている。柄も黒に近い青と淡い青の組み合わせに赤いラインでアクセントを入れた無地のシンプルなものだが、アリサが着ると全く地味な感じはせず、むしろ洗練された都会的な印象が強かった。
「えっと……泳がないの?」
アリサの恥ずかしそうな声に、日和と小陽がハッと我に返る。
「そ、そうね」「そ、そうですね」
同じように狼狽えながら、日和と小陽は川に飛び込んだ。
その直後、水の冷たさに悲鳴を上げる。
明が肩を竦めて首を左右に振りながら「何をやっているんだか……」と呆れ声で呟く。
「──いきなり水に入ると危ないわよ!」
そして今更な警告を発した。
滝壺はかなり深く、四人が遊んでいるそのすぐ下流も、中央の水深が最も背が低い小陽の首くらいまである。彼女たちは泳いだり潜ったり、あるいは岸で足をばたつかせたりと、めいめいに水と戯れていた。
アリサはしばらくゆっくり泳いだ後、仰向けに浮いて全身の力を抜き水面を漂っていた。滝壺近くは小さな池のようになっているが、水が止まっているわけではない。アリサは逆らわずにゆっくりと川下に流されていた。
流れが少し速くなったところで、彼女は手で水を搔いてウォーターシューズを履いた足を川底についた。水深はまだ、胸の辺りまである。流れの圧力は思っていたより強かった。元の場所へ川の中を歩いて戻るのはきつそうだと考えたアリサは、岸へ足を向けた。
しかし一歩を踏み出したところで、何かに足を取られてしまう。
悲鳴を上げて水没するアリサ。
だが彼女はすぐに体勢を立て直し、川面に顔を出した。
彼女の隣で水面が盛り上がり、黒髪の少女が頭を出す。
アリサはその顔目掛けて、力いっぱい水を掛けた。
「ぅわっぷ! アーシャ、酷いよ」
顔を背けて茉莉花が抗議する。
アリサは茉莉花に、さらに水を浴びせた。
「酷いのはミーナだよ! びっくりしたんだからね!」
「わっぷ! 待った! こ、降参!」
水が気管に入ったのだろう。アリサに背を向けて咳き込む茉莉花。
アリサはようやく水掛けを止めた。
「……ごめんごめん。そんなに怒るとは思わなかった」
咳が止まった茉莉花がアリサに謝罪する。
「怒るよ。悪ふざけにしては悪質。ああいうのは危ないんだからね」
「ホントーにごめん!」
アリサが本気で怒っていると分かり、茉莉花は水面ギリギリまで顔を近付けて平謝りした。
「でも、びっくりしたと言うわりには少ししか慌てていなかったね」
顔を上げた茉莉花が意外感を込めて問い掛ける。
「そんなことないよ。一瞬だけどパニックに陥りかけたんだから」
岸に向かって歩きながらアリサは機嫌が直っていない声で答えた。
だがそこは長い付き合い。アリサがもう本気で怒っていないと茉莉花は理解している。
「一瞬だけなんだ?」
茉莉花は遠慮無くアリサに疑問をぶつけた。
「すぐにミーナの仕業だって分かったからね」
「えっ、そうなの? ……もしかして『あんな悪戯をするのはあたしだけ』とか思ってる?」
「うん」
恐る恐る訊ねた茉莉花の質問に笑顔で頷くアリサ。
茉莉花は一目で分かるくらい凹んだ。
「アハハ、ウソウソ。手の感じで分かったよ」
「……ホント?」
「うん。摑まれた足首から『あっ、これ、ミーナだな』って信号みたいなものが伝わってきた」
「そうなんだ……」
茉莉花がホッと胸を撫で下ろす。彼女は「信号みたいなもの」の正体を気にしなかった。
「ところでマジック・アーツ部のトレーニングは良いの? 抜けてきたりして怒られない?」
岸に転がっている大きな岩に腰掛けてアリサが訊ねる。
「勝手に抜け出したりしないよぉ。今は休憩中」
茉莉花の声にも表情にも罪悪感は皆無だ。噓を吐いている風には見えない。
「休憩? そんなに長時間?」
マジック・アーツ部の女子が練習しているのは、ここからおよそ百メートル下流だ。
水泳長距離の世界記録が百メートル当たり約一分。条件が良いプールの記録で一分だ。流れに逆らって川を遡るのであればその倍では利かないだろう。しかも茉莉花はアリサに気付かれないよう近付いてきた。百メートルを五分以上掛かっても不思議ではない。
「休憩時間は十五分だよ。まだ十分以上あるはず」
「ミーナってそんなに速く泳げたっけ……?」
「ううん。すぐそこまで川辺を歩いてきたんだけど、アーシャったら全然気付かないんだもん。ちょっと悪戯したくなったっておかしくないよね」
「いや、おかしいから」
アリサが所謂「ジト目」で茉莉花を睨む。
しかしすぐに別のことが気になった。ここは人が足を踏み入れない秘境ではない。特に今は夏休みシーズンだ。小陽が調べた限りでは、現在この辺りで合宿しているのは一高山岳部とマジック・アーツ部だけだが、全くの他人が通り掛かっても不思議は無い。
誰に見られるか分からない中を、茉莉花は水着姿で何十メートルも歩いてきたということだ。危機感は覚えなかったのだろうか?
「んっ? どうしたの?」
座っている自分が立っている茉莉花をまじまじと見詰めているのに気付いて、アリサは目を逸らしながら「何でもないよ」と答えた。
「変なアーシャ」
そう言いながら茉莉花がアリサの隣に腰を下ろす。
アリサの腕に茉莉花の水着に包まれていない脇腹が触れた。
茉莉花の水着はセパレートだが、それほど露出は多くない。色も白ではなく、スポーティーな暗褐色だ。ぱっと見の印象は女子陸上競技のユニフォームに似ている。アリサが着ているワンピースの水着より、道を歩いていて違和感は少ないかもしれない。
不意にアリサの口から失笑が漏れる。「自分は一体何を考えているんだ」と、おかしくなったのだ。
「何でもないよ」
隣から訝しげな目を向ける茉莉花に、アリサはもう一度同じ答えを返した。
川辺の岩に仲良くくっついて座る二人の美少女。アリサと茉莉花の仲の良さは親友の域を超えているようにも見える。
「小陽、何を見てるの?」
「ひゃ!」
川の中程に立ってアリサと茉莉花をぼんやり見つめていた小陽は、急に背後から声を掛けられて裏返った声を上げた。
「明さん……脅かさないでくださいよ」
振り向き、涙目で抗議する小陽。
しかし明はその抗議に取り合わず、小陽の視線をたどって「ああ、茉莉花とアリサね」と一人で納得した。
「あの二人って、本当に仲が良いわねぇ……」
そして呆れと感心が入り交じった声を漏らす。
「距離感が近いですよね」
我が意を得たりとばかり小陽がすかさず相槌を打った。
「女の子同士ならあの距離感もありだと思うけど……」
だが明の意見は少し違うようだ。
「雰囲気がね。友達と言うより、恋人同士みたいなのよね」
それでも、着地点は小陽と同じだった。
「やっぱりそういう関係なのでしょうか……?」
「分からないけど。仮にそうだとしても別に良いと思うわ。小陽はそういうの、嫌なの?」
明はぼかした言い方で、同性愛には否定的なのかと訊ねた。
「嫌じゃありません! むしろ大好物です!」
「……大、好物?」
「あっ、いえ、間違えました。大歓迎です」
「本当に間違えたの……?」
自分に向けられた疑惑の眼差しから、小陽は微妙に目を逸らす。
「……まあ、良いわ」
ただ明は、それ以上この件では小陽を追及しなかった。
「それより何故、今更そんなことを考えたの?」
彼女は、こちらの方が気になっていた。
「えっ、いえ、何となく」
「噓ね」
小陽は言葉を濁したが、明は納得しなかった。
「小陽。さっき火狩君と話してたでしょ。それと関係あるんじゃない?」
小陽が「えっ」という顔を見せる。驚きよりも意外感が勝っている表情だ。
だが自分が他人のことを見ているなら、自分も他人から見られているもの。「自分だけは見られていない」「自分は目立たない」という思考もまた、自分を特別扱いするものだ。卑下と倨傲は表裏一体なのである。
「火狩君と何を話していたの? あの二人に関係があること?」
明に質問を畳み掛けられて、小陽は思考停止状態から抜け出した。
「え、ええ。その、ジョーイがアリサさんに告白したんじゃないかと……」
だが思考力は、完全には回復していなかった。その所為で、普通なら誤魔化していた回答を正直に返してしまう。
「それでアリサのことを見ていたのね」
「小陽はやっぱり火狩君のことが気になるんだね」
明のセリフに続けて突如割り込んできた声に、小陽が「ひっ」と悲鳴を上げて川の中で跳び上がった。
一人で泳いでいた日和が、何時の間にか小陽のすぐ後ろに立っていた。
「び、びっくりした。……日和さん、背後から忍び寄るのは止めてください」
ついさっき、似たようなシチュエーションで明に驚かされた小陽は涙目になっている。
「忍び寄るなんて人聞きが悪い。あたしは、普通に泳いできたけど」
しかし日和は、小陽の抗議が不服なようだ。
「小陽がアリサに気を取られていただけじゃないの? 火狩君を取られちゃうんじゃないかって心配になった?」
「そ、そんなことありませんよ!」
小陽が慌てて日和の決め付けを否定した。彼女の声は、裏返っていた。
「今更照れなくても」
「今更って何ですか!? ジョーイは昔からの知り合いというだけです!」
「幼馴染みに恋が芽生えるなんて、良くある話だよ」
訳知り顔で日和がウンウンと頷く。彼女は小陽の言葉も、「そんなのフィクションの中でしか見ないけど……」という明のツッコミも聞いていなかった。
「私とジョーイは付き合いが長いだけで、幼馴染みじゃありません! 幼馴染みって、もっとこう、甘酸っぱいものなんです!」
「これから甘酸っぱくなれば良いんじゃないの?」
「だから違うんですってば!」
あくまでも「幼馴染みに対する感情が恋に発展した」説に拘る日和と、それを必死に否定する小陽。二人を呆れながら傍観する明。「浄偉がアリサに告白した」疑惑も「アリサと茉莉花が親友より深い仲になっている」疑惑も、有耶無耶の内に忘れ去られていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕食は山岳部も一緒だった。午前中の登攀訓練の際、山岳部の女子三年生が「自炊するのが大変」とぼやいていたのを聞いて、小陽が研修所に掛け合ったのだ。
その結果、ランチからすぐにというわけにはいかなかったが、夕食から山岳部の分も用意してもらえることになったのである。
夕食後、マジック・アーツ部は研修所の体育館で組手の練習。そこに山岳部OBの、レオの姿があった。
「よろしくお願いします!」
意気込みを全身から溢れさせて、茉莉花がレオに一礼する。
「おう。上手く教えられる自信はねぇけど、よろしくな」
その勢いに押されながら、レオは無造作に頷いた。
何故こんなことになっているのかというと。
発端は、夕食の席にあった。
どうやら山岳部には料理スキルの持ち主が欠けているらしく、レオは昨晩の食事がかなり不満だったようだ。彼は大食漢だが、実は舌が肥えている。何でも食べるが、できれば美味い物が食べたいというタイプだ。
この研修所の食事は、そんな彼の胃と舌を満足させるものだったようだ。「こりゃ、何かお返しをしないとな」「何かして欲しいことはないか」「何でも良いぜ」とレオは上機嫌で訊ねた。その相手はマジック・アーツ部の部長である千種と千香だったのだが、アリサの隣ではなく千香の横に座っていた茉莉花が「山岳部の硬化魔法を教えて欲しい」と手を挙げたのである。
「ところで、遠上……だっけか。一つ訊いても良いか?」
「はい、何でしょうか!」
レオの問い掛けに、茉莉花は体育会系女子らしくハキハキと答えた。
「何故オレから硬化魔法を教わろうと思った? オレは一高を卒業していながら、魔法を使わないレスキュー大に進んだ変わり者だぜ?」
「山岳部の硬化魔法は、元々先輩のものだとうかがっています」
「まあ、そうだな。硬化魔法はオレのオリジナルってわけじゃねぇが、事故った時に備えて後輩に覚えさせたのは確かにオレだ」
頷くレオ。
彼を見る茉莉花の視線が熱を帯びた。
「午前の登攀訓練を見て分かりました。火狩君が十文字竜樹の魔法に耐えられたのは、あの硬化魔法を使ったからですよね!」
ただしその「熱」は、異性に向ける「熱っぽい視線」の「熱」とは性質が異なるものだった。
「十文字? 十師族の十文字か?」
「そうです。十文字竜樹は十文字家の直系で三高の一年です」
茉莉花が竜樹を呼び捨てにしているのは彼のアリサに対する態度が、耳にするだけでも腹立たしいものだからだ。
「十文字家の直系が一高じゃなくて三高に通っているのか……」
レオは「何か事情がありそうだな」という呟きを他人に聞こえるか聞こえないかの小声で付け加えた。
しかしレオは、その事情を訊ねなかった。
「──それで、硬化魔法はマジック・アーツにも使えそうだ、と考えたってわけか」
「はい。さっき間近で見て確信しました」
レオが興味本位の質問をしなかったことに、茉莉花は戸惑わなかった。彼女の意識は新たな武器、新たな「鎧」を手に入れることに向いていた。
「よし。そんじゃ、始めるか。まずはそうだな、思いっ切り殴り掛かってきな。蹴りでも良いぜ。オレがそれを、硬化魔法で受け止めてやるよ」
理屈よりも体験が先、ということだろう。
レオが胸を貸すつもりでいるのは、彼の態度から明らかだ。自分の防御が破られるとは微塵も考えていない。
自分の方が勝っているという絶対の自信。
それが、茉莉花の闘志に火を付ける。──否、既に着火していた闘志をますます燃え上がらせた。
「分かりました。行きます!」
茉莉花は無意識に[リアクティブ・アーマー]を発動し、魔法の装甲を纏った拳でレオに殴り掛かった。
「あっ!?」
茉莉花が意図せずに個体装甲魔法を発動したのを見て、見物していたアリサは思わず声を上げた。
[リアクティブ・アーマー]の威力を知っているアリサは茉莉花を制止しようとした。だが彼女が「ダメッ!」と叫ぶ前に、茉莉花の拳はレオの身体に──彼が着ているTシャツに届いた。
レオのTシャツは、拳の形に凹むどころか皺もできていなかった。
拳とTシャツに挟まれた空気が破裂音を鳴らす。
想子の場が揺れる。
空気を揺らす物理的な音はそれほど大きくなかったが、肉体の耳には捉えられない想子の「音」は、巨岩同士の衝突と錯覚させる「轟音」だった。
「うそ……」
アリサが呆然と呟く。
幾ら相手が卒業生とはいえ、茉莉花の[リアクティブ・アーマー]がここまで完璧に受け止められるとは、予想外を通り越して信じ難かった。
茉莉花の──『遠上』家の[リアクティブ・アーマー]は旧第十研が『十神』に与えた魔法だ。その強度は、同じく旧第十研で開発された十文字家の[ファランクス]に決して劣るものではない。
十文字家の障壁魔法は魔法関係者の間で、日本魔法界最硬と言われている。その魔法障壁にあのOBの硬化魔法は匹敵するのか……、という驚き。
「まさか」
隣で明が驚嘆の声を上げる。
驚いているのは自分だけじゃないんだ……と、アリサは思った。
「あのペンダントはローゼンの思考操作型CAD? あれを使っている人が日本にいるなんて」
だが明の驚きは、アリサとは対象を別にしていた。「驚くところ、そこ?」とアリサは思ったが、明が魔工師志望であることを考えれば不思議ではない。
完全思考操作型CADを最初に商品化したのはドイツのローゼン・マギクラフトだが、現在の世界シェアは汎用性とコスパに優れた日本のFLTが七割を占めている。ローゼンの製品にも部分的に見れば勝っている点はある。だが使用されているのは主に西ヨーロッパ地域で、日本で見掛けることはほとんど無い。
明は司波達也の熱狂的なファン──と言うより信者で、CADも当然、彼が開発したFLT製の思考操作型を愛用しているが、ピーキーで技術者としては色々と面白いローゼン製に興味が無いわけではなかった。
「そう言えば西城先輩の名前ってドイツ系だったわね。もしかして、ローゼンと関係があるのかしら……」
明の独り言がアリサの耳に届く。
それが事実と知らないアリサは「飛躍しすぎじゃないかな?」と考えた。
「驚いたな」
そのセリフは独り言では無かった。言葉どおりの表情を浮かべている千香の目は茉莉花とレオの二人へ向けられているが、隣に立つ千種に話し掛けるものだったことは口調で分かった。
「茉莉花の魔法に小揺るぎもしないとは……」
千香はアリサと同じ驚きを共有していた。
「俺も驚いたよ。硬化魔法の強度もそうだけど、西城先輩、凄い足腰だな」
「んっ? どういう意味だ?」
千香が目を千種に向ける。
「西城先輩は自分の服に硬化魔法を掛けたのだと思う」
「そうだろうな。だが、それが何で足腰の強さにつながるんだ?」
「シールド魔法と違って硬化魔法は対象物の変形を阻止するだけだ。空間座標を固定する効果は無い」
シールド魔法は領域魔法の一つ。特定の空間に対して魔法で干渉し、対物不透過や電磁波遮断などの特殊な効果を持たせるものだ。
その性質上、シールド魔法は原則として特定の空間座標に固定される。シールドを動かす、シールドに覆われた状態で移動するのは、実は高度な応用技術なのである。
「そうか。シールド魔法は原則として固定されているから、打撃を受けても吹っ飛ばされることはない。対物シールドが維持されている限り、運動エネルギーは中に伝わらない。でも硬化魔法は服を固めるだけだから、衝撃は防げても運動量は伝達される」
「そのとおり。でも西城先輩は後退るどころか、ちょっと仰け反ることもなかった。凄い足腰と体幹の強さだよ」
千種の称賛に、千香も大きく頷いた。
◇ ◇ ◇
ギャラリーはレオの思い掛けない実力に衝撃を受けていたが、実際に相対している茉莉花に動揺は無かった。意外感も皆無だった。彼女にあるのは強者に出会った高揚感。昨日のロードワークで、走っている後ろ姿を見ただけで茉莉花は直感していた。
「この人は強い」と。
硬化魔法の手解きを請うたのも、彼の強さを直接確かめてみたい、あわよくば戦ってみたいというのが真の目的だった。
「……っていうのが硬化魔法の原理だ。と言っても、説明されただけじゃ分からないだろ。オレも上手く説明できたって自信はねぇし」
「いえ、ご説明は理解できました。ただ、聞いただけでは使えるようにならないというのは仰るとおりです」
砕けた口調で説明を終えたレオに、茉莉花は武道系女子の丁寧な言葉遣いで応えを返した。
「そうだよな。そこで遠上には、硬化魔法を実際に体験してもらう」
レオはそう言って、アシスタント役に呼んだ山岳部の部長に合図した。
部員から「筋肉ダルマ」の愛称で親しまれている(?)山岳部部長・田守冬季輔が登山用の前開きベストを茉莉花に渡して着るように指示する。
「このベストは魔法道具なのでしょうか?」
ベストを着てボタンをかけ終えた茉莉花が「気を付け」の姿勢でレオに訊ねた。
「いや、普通のベストだ。けど、安心しな。山岳部の後輩はこのやり方で硬化魔法を身に付けているし、この練習方法を考えてくれたのは達也だからな」
「それって司波達也先輩のことですか!?」
大声で質問したのは茉莉花ではない。
明だ。
彼女は見学の列から一歩踏み出し、レオに向かって今にも詰め寄りそうな勢いだった。
「お、おう。その達也だ」
二メートル以上離れているにも拘わらず、レオは明の勢いに圧倒され、少し引いていた。
「……すみません、邪魔してしまって」
隣のアリサに小声でたしなめられて、明は謝罪しつつ列の中に戻った。
「いや、気にしなくて良いぜ。……遠上、ちょっと肩に触らせてもらう。動かないでくれよ」
茉莉花は要領を得ない顔をしながらも「はい」と切れの良い応えを返す。
レオは正面から茉莉花に近付き、彼女の左肩に軽く右手を置いた。
次の瞬間、ベストを想子光が覆う。
魔法が発動し、余剰想子がベストの表面から漏出したのだ。
茉莉花が反射的に身を固くした。
「驚かして悪い。魔法が下手くそなもんでよ」
「──いえ、そんなことは」
茉莉花の応えは、お世辞ではなかった。
今発動したレオの魔法は、確かに荒っぽかった。想子の運用に、緻密さを欠いていた。
しかし発動の速さ、力強さには、目を見張るものがあった。
「だが魔法は上手く掛かったな」
レオ自身も、過程はともかく結果には満足しているようだ。
「よし、遠上。動いてみな」
「……何をすれば良いんでしょうか」
「まずは前屈と後屈だ」
言われたとおり、茉莉花は身体を前に倒す──倒そうとした。
だが、上手く行かない。ぎこちない、ロボットのような動作になっている。
どれほど柔軟性に富む人間でも、上半身を前に倒す際にはわずかに背中が丸まる。だがその自然な動作が魔法で固まったベストに阻まれていた。
茉莉花は理解の表情を浮かべながら、今度は後ろに反ろうとした。
しかしその動作も同様に妨害を受ける。
茉莉花は後屈を中断し、右手で拳を作って着ているベストをノックの要領で叩いた。
「コンコン」というノック音こそしなかったが、手応えは分厚い木の扉と同じだった。
「まさしく鎧ですね……」
茉莉花が独り言のように感想を漏らす。
「遠上。手触りじゃなくて魔法を感じるんだ。硬化魔法が掛かっている服を自分が着ている感覚をな」
「分かりました」
茉莉花は目を閉じて、上半身を軽く曲げたり捻ったりした。そして抵抗を受ける度、眉を顰めて耳を澄ますような顔付きになる。
「どうだ。感じ取れたか?」
「……すみません。攻撃してみていただけませんか」
微かに首を傾げた後、茉莉花はそう求めた。防御に使う技術だから、実際に攻撃を受けてみれば効果が分かりやすいのではないかと考えたのだ。
レオは「ほぅ」という表情を浮かべた。「思い切りが良いな」と感心したのだ。
「それはオレじゃない方が良いな」
そう言ってレオがギャラリーの顔を見回す。
「私がやります」
その視線に応えて千香が進み出た。
レオは「そうか、頼んだ」と頷きながら千香に場所を譲る。
「茉莉花、面白いな」
茉莉花と向かい合った千香が、ニヤリと笑った。
「はい、部長」
茉莉花は無邪気な笑みを返す。千香のそれより子供っぽい笑顔だが、新しい技術にワクワクしている点は共通していた。
「行くぜ、茉莉花」
千香が茉莉花の瞳を正面からのぞき込んで合図を送る。
「お願いします!」
茉莉花が千香の顔をしっかりと見詰めて応えを返す。
千香が鋭く踏み込み、茉莉花のボディへ中段突きを放った──。