【2】合宿初日
急遽決まった一高マーシャル・マジック・アーツ部四日間の夏合宿、初日の早朝。
「おはよう、アーシャ」
自宅最寄り駅の改札外で待っていたアリサの許へ、ダッフルバッグを背負った茉莉花が朝の挨拶をしながら駆け寄った。
「待った?」
「おはよう。ほんの少しだから大丈夫だよ」
笑顔で答えて、アリサは地面に置いていたバッグのハンドルを手に取った。茉莉花とお揃いの、キャスター付きのダッフルバッグだ。それを茉莉花のように背負うのではなく、キャリーバッグ(トロリーバッグ)のようにレンガタイルの床を転がして、アリサは改札を通り抜けた。
そのすぐ後に茉莉花が続く。彼女のバッグはアリサの物より膨れているが、背負っていても全く重そうな素振りを見せていなかった。
まだ七時にもなっていないし今はお盆シーズンなのだが、プラットホームは無人ではなかった。それでも百年前のようにホームが人で溢れかえることはない。二人は三組待ちで個型電車に乗った。
個型電車には二人乗りと四人乗りの車輌があり、料金は「一人幾ら」で計算される。そして、二人以下で四人乗りの車輌を利用すると追加料金が発生する。
輸送効率を上げる為、個型電車のサイズは必要最小限に抑えられている。二人で二人乗りの個型電車を利用すると、荷物を置くスペースが無い。その為、旅行などで大きな荷物を持ち込む場合は追加料金を払って四人乗りの個型電車を利用するか、敢えて別々の車輌を利用するのが一般的だ。
だが彼女たちは、車輌を別にするという選択肢は採らなかった。だからといって、追加料金も選ばなかった。
個型電車の中で二人は、膝の上に大きなダッフルバッグを抱えていた。中身は主として着替えとはいえ結構重いし、何より嵩張る。二人とも太ってはいないし女性として特に大柄というわけでもないが、それでも窮屈であることは否めなかった。
そんなわけだから合宿地の最寄り駅で個型電車を降りた直後に、アリサと茉莉花が解放感から揃って「んんーっ」と声を出しながら大きく伸びをしたのは自然なことだった。
「アーシャ、涙が出てるよ」
茉莉花がそう言いながらアリサの顔に手を伸ばす。
「ミーナだって」
アリサはその手を拒むのではなく、同じように手を伸ばして指で茉莉花の涙を拭った。
「行こっか」
茉莉花がダッフルバッグを背負いながら改札の外へ目を向ける。
そこには小陽が待っていた。
「そうだね」
今度はアリサもバッグを背負って、手を振る小陽に小さく手を振り返した。
駅前に集まったのはマジック・アーツ部の合宿参加者だけではなかった。合宿所が隣接しているので、山岳部の部員も小陽の父親が共同経営者を務めるトウホウ技産のバスに同乗することになっている。
「小陽、うちは全員揃ったぜ」
浄偉が山岳部の集合状況を小陽に伝える。彼にこの役目が与えられたのは、山岳部内で浄偉が小陽の「幼馴染み」と認識されているからだ。また、バスを手配したのが小陽だから、という理由もあった。
「ジョーイ。部長さんが挨拶されているのはOBの方ですか?」
小陽が見ている先では山岳部の部長が彼女の知らない、二十歳前後の体格が良い男性に最敬礼で頭を下げている。
小陽の視線をたどって、浄偉は「ああ……」と呟いた。
「あの人は西城先輩だ。『克災救難大』の二年生で、今回の合宿に指導役として来てくれた、先々代の部長だよ」
「……『コクサイキュウナンダイ』って『レスキュー大』のことですよね?」
「おっ、相変わらず物知りだな」
「あそこは魔法を使わない災害救助を教えているんじゃありませんでしたっけ?」
「言いたいことは分かる」
訝しげな表情を浮かべる小陽に、浄偉はそう言って頷いた。
「でも、魔法師以外にやりたい仕事があるなら、それに役立つ進学先を選ぶのも一つの道じゃないか?」
「それは、そうですね……。西城先輩は消防士を目指しているんですか?」
「そこまで詳しくは知らん。機会があったら訊いておいてやるよ」
そのセリフと共に浄偉は背を向けた。
「無理に訊かなくても良いですからね!」
彼の背中に小陽が叫ぶ。
浄偉は「分かった」と言うように、背を向けたまま片手を挙げた。
バスはマジック・アーツ部が使うトウホウ技産の研修所前で停まった。全員がバスを降りてそれぞれの合宿所に向かう。なお山岳部の合宿所は、ほぼ隣と言って良い近距離にあった。
マジック・アーツ部とアリサたちが泊まるトウホウ技産の研修所は和室だった。企業の研修所(合宿所)が今時和室というのは珍しい気もするが、人数の調整がし易いという点は合理的かもしれない。
部屋は和室が六部屋用意されていた。マジック・アーツ部男子用に三部屋、女子用に二部屋。そしてアリサ、明、日和、小陽の部屋だ。残念ながら、ではなく当然のことながら、茉莉花はマジック・アーツ部の部員と同室でアリサとは別室だった。
部屋に荷物を置き、全員がトレーニングウェアに着替えたところで──アリサたちも一応、一高の体操服に着替えた──昼食になった。
食事は部員による自炊ではなく、研修所の食堂が提供してくれることになっている。これは経営者の娘に忖度したサービスではなく、厨房を貸して食中毒を出されでもしたら企業のダメージになるからだ。
合宿参加メンバーは独り暮らしをしている者が多い。また、厨房には自動調理機が揃っている。だから自炊をしなければならなかったとしても不自由は無いが、時間になれば食事が出てくるのであれば、そちらの方が楽だ。心置きなくトレーニングに打ち込めるので、部員としても賄い付きの方がありがたかった。
「食事の後、早速練習?」
アリサが隣の席に座った茉莉花に訊ねる。
茉莉花は食堂に入るなり、アリサの許へ駆け寄った。部屋が別々なのは仕方が無いから食事の時くらい、という心情を彼女は全身で表現していた。その結果、こうしてアリサの隣をゲットしている。……最初から皆は「アリサの隣が茉莉花の席」と思っていたから、実のところそんなに慌てる必要は無かった。ただそのように野暮な指摘をする者は無く、全員が茉莉花の独り相撲を温かい目で見守っていたのだった。
「山岳部と一緒に山道でロードワークって聞いてる」
「山道で!? それ、危なくない?」
そう訊ねたのは向かい側に座った明だ。
「山道って言ってもアップダウンがきついだけで危なくないんだって」
「安全には配慮されているのね……。そりゃそうか」
茉莉花の回答に、明が納得の表情を浮かべた。
ここは西の外れとはいえ関東州の旧東京都。魔法大学や魔法科高校だけでなく、一般の大学や企業も合宿地として利用している。危険な箇所が皆無ではないが、トレーニングに使えるトレッキングコースは整備されていた。
「じゃあ、私も走ろうかしら」
明は陸上部。専門は走り高跳びだが、走るのはやはり好きなようだ。
「人数制限があるわけじゃ無いから良いと思うよ。そうだ、アーシャも一緒に走ろうよ」
茉莉花が無邪気にアリサを誘う。
「そうね……」
アリサの外見は「深窓の令嬢」で運動が得意そうには見えない。だが実は体を動かすのも好きだし、運動神経も発達している。体力も人一倍だ。
「……一緒に行くよ」
アリサが迷ったのは、ほんの短い時間だった。
嬉しそうに「うん!」と頷く茉莉花から、アリサは視線を移動させた。
「日和と小陽はどうする?」
「あたしはやめとく」
「私もちょっと……」
日和は面倒くさそうに、小陽は「滅相もない」と言わんばかりに首を横に振った。
◇ ◇ ◇
昼食の後、日和は宿泊する研修所を小陽に案内してもらっていた。
研修所には宿泊関係の施設だけでなく資料室もあって、大小様々な機械模型が展示ケースに収められている。模型だけでなく古いエンジンの実物らしき物もあった。
「これなんて随分古そう」
ケースの一番奥に展示されていた、実物のエンジンと思われる機械を日和が指差す。
「二十世紀後半の2ストですね。模型ではなく実物です」
「つーすと?」
「2ストロークガソリンエンジンの略語です。2サイクルエンジンとも呼ばれていました」
小陽が嬉しそうに解説する。好きな物について語る喜びが、口調だけでなく表情や仕草にも表れていた。
「へーっ、ガソリンエンジン……」
内燃機関エンジンは二〇九九年現在でも広く使用されている。だがそのほとんどは水素燃焼エンジンやエタノール/メタノールエンジンで、市中でガソリンエンジンが使用されるケースは皆無と言って良い。
日和は魔法を使えるとはいえ、それ以外の分野では一般の女子高校生だ。ガソリンエンジンの実物を見るのは、これが初めてだった。
「このエンジンを積んだ我が社のレースマシンが世界一になったこともあるんですよ」
誇らしげに、小陽は「我が社」と言う。父親がトウホウ技産の大株主だから、ではなく仲間意識、身内意識から出た言葉だった。
「世界一って、レースで?」
「ええ。世界グランプリって呼ばれていた頃の、オートバイのロードレース世界選手権で」
「小陽がバイク部に入部してたのって、もしかしてそれが理由? もう一度ロードレースで世界一になりたいとか?」
日和の問い掛けを、小陽は「い、いいえ」と慌てて否定した。
だがそれは、本心からのものではないように見えた。
「そんなに恥ずかしがらなくても……。女の子がレースを好きでも、別におかしくないと思うよ。レースクイーンになりたいって女子もいるんだし」
ガソリンエンジンではないが内燃機関のモーターレースは現在も行われている。また一時期ポリティカル・コレクトネスと呼ばれる文化統制主義、非民主的価値観強制によって弾圧されたレースクイーンという職業も、既に職業選択の自由を取り戻している。
「……本当に、レースだけが目的ではないんですよ。私は単純に、機械が好きなんです」
恥ずかしそうに抗弁する小陽。ただ「レースだけが」と言っている時点で、彼女の本音は明らかだった。
少なくとも、レースが動機の一つになっているのは確かだと日和は考えた。だがそれを口に出して指摘する程、彼女の性格は悪くない。
「あっちのは新しそう」
自分から話を逸らす目的で、日和は別のショーケースへと目を向けた。
「え、ええ。それはですね……」
急な話題転換に戸惑いつつも、小陽は日和が指差す展示物について丁寧に説明していった。
◇ ◇ ◇
マジック・アーツ部はこの合宿に約半数の十八人が参加している。山岳部は全員参加の十九人だ。これにアリサと明、それにコーチ役で来ているOB・OG各一名の合計四十一人が一団となって山道を駆けていた。
競走ではないのでペースはそれほど速くない。ただし走る速さを揃える為に、半数以上が手足に錘を付けていたり砂袋を詰めたフレームザック(背負子のようなフレームを持つリュックサック)を背負っていたりしている。
飛び入り参加のアリサと明は、走力とは関係なく加重を免除されていた。二人のポジションは集団の最後尾近くだ。そしてアリサの隣には、両手足だけでなく腰にもウエイトを巻いている茉莉花がいた。
「茉莉花、貴女のそれ、幾らなんでも重くないの?」
アリサを挟んで反対側を走っている明が茉莉花に訊ねた。彼女の息は少し弾んでいる。陸上部の活動で走ること自体には慣れていても、起伏の多いコースは勝手が違うのだろう。
「これ位、平気だよ」
その言葉どおり、茉莉花は少しも苦しそうな顔をしていないし、呼吸もほとんど乱れていなかった。
「あたしより明の方が辛そうだけど」
「この程度、慣れているわ」
茉莉花の指摘に、明は強気の答えを返す。もしかしたら強がりかもしれなかったが、それを指摘しても何も生み出さない。
「ところでアーシャは大丈夫? 日差しがきつくない?」
茉莉花は非生産的な口論に踏み込むのではなく、相手をアリサに変えた。
「平気よ」
アリサの答えはその言葉だけでなく、口調まで涼しげだった。
しかし茉莉花はアリサが紫外線を苦手としているのを知っている。
「でも」
今度は「本当に平気なのか」と茉莉花は訊ねようとした。
「アリサ」
しかしその問いを明が遮った。
「魔法を使っているでしょ」
質問ではなく、断定の口調。
「うん」
アリサはまるで悪びれた様子も無く、明の決め付けを認めた。
「えっ、気付かなかった。もしかして、魔法で紫外線を遮断しているの?」
茉莉花が器用に、走りながら小さく飛び上がって驚きを表現する。
「紫外線だけじゃないわよね」
またしても明が会話に割り込んだ。
「良く分かるね」
今度はアリサが表情と口調で驚きを表した。ただし、走るペースに乱れは無い。
「アリサ、余り汗をかいていないじゃない。赤外線も遮断しているんでしょ」
明の指摘に、茉莉花が顔をアリサに近付けた。
「あっ、本当だ。じゃあ、紫外線遮断と赤外線遮断の二つの魔法を使っているの?」
「ううん、一つだけ」
アリサの答えに茉莉花が「?」という顔になる。
「じゃあ[不可視光線フィルター]? 赤外線と紫外線を同時に遮断しているの?」
訊ねる明の声には驚きと呆れが等量混じっていた。
「そうだよ」
アリサの答えはあっさりしたものだ。自慢げな要素は何処にも見当たらなかった。
「へぇ~、大したもんだ」
そこへ背後から、野太い声が割り込んできた。
野太く、口調も砕けたものだったが、野卑な印象は無い。
「ああ、振り向くなよ。オレの方から声を掛けておいて何だが、ちゃんと前を見てなきゃ危ねえからな」
注意を受けて、振り向き掛けていた茉莉花が慌てて前へ向き直った。
「オレは山岳部OBの西城レオンハルトって者だ。真面目に走っているところを邪魔しちまって、すまなかったな」
「いえ、あたしたちの方こそ無駄話をしてすみませんでした」
茉莉花は前を向いたまま、大声で反省の言葉を伝えた。
「そんくらい余裕があるのは頼もしいんだが、足下には気を付けろよ」
西城レオンハルト──レオは苦笑気味に応えを返す。なおこの遣り取りの間にも、彼らは同じペースで走り続けている。
「はい!」
三人の中で最も体育会系な茉莉花が威勢良く返事をした。
「おう。最後まで気を付けてな」
その応えが聞こえた直後、茉莉花の横をがっちりした男性──レオが追い越していった。
彼は背中に、他の部員の倍のサイズに膨れたフレームザックを軽々と背負っていた。
集団の先頭に出たレオは、それまで先導役を務めていたOGと短く言葉を交わして役目を交代する。
「ジョーイ、バテてんじゃねーぞ」
そして部長命令で先頭を走らされている浄偉に活を入れた。
「オスッ!」
大声で返事をした浄偉だが、その息遣いは少し苦しそうだ。彼が背負っているフレームザックはレオの半分の大きさだが、それは三年生男子が使っている荷重と同じ重さだ。浄偉はヒョロリとした見た目に反して、筋力でも持久力でも山岳部一年生の中では一番だが、二年間多く鍛えている三年生には敵わない。
もっとも無加重ですっかり息が上がっている一年生もいるから、彼らのことを考えれば無茶なトレーニングとも言えないだろう。むしろ、こうして「会話」という負荷を与えるくらいでちょうど良いのかもしれない。
「ところでジョーイ。ちと訊きたいんだけど」
「何ですか、レオ先輩」
浄偉がレオと会うのは今日でまだ三回目だ。だが二人は「ジョーイ」「レオ先輩」と自然に呼び合う仲になっている。
「後ろの方を走っている淡い金髪の女子にオレ、見覚えが無いんだが。彼女、マジック・アーツ部員かい? 格闘少女ってイメージじゃなかったけどな」
「金髪女子……ああ、十文字さんですか。彼女はマジック・アーツ部じゃありません。ゲストですよ」
「十文字? 十師族の十文字か?」
レオの口調のニュアンスは、驚きや意外感よりも何故か疑問の割合が大きかった。
「そうですけど」
「似てねぇ!」
「……確かに、似ているとは言えませんね」
レオと浄偉の温度差は、思い浮かべた比較対象の違いによる。レオが思い浮かべたのは十文字家当主の克人で、浄偉は一高副会長の勇人だった。
「……だが、十文字家の娘さんなら納得だな」
しかしレオの声には一転して、納得感が宿る。
「何か、あったんですか?」
浄偉の息が、本格的に怪しくなってきた。
「その女子、赤外線と紫外線を同時に遮断する[不可視光線フィルター]を走りながら維持していやがった。しかもCADの補助無しだぜ」
「凄いですね」
会話を続けるのが苦しくなった浄偉の受け答えが雑になる。
「まったくだ」
一方、レオは浄偉の倍以上の荷物を背負いながら涼しい顔だ。後輩のお座なりな応答も「もう息が上がったのか?」「だらしねえなぁ」程度にしか思っていない。
「凄いと言えば、一緒に走っていたボブカットの女子も中々だったな。両手両足だけでなく、ベルトまで着けてまるで息を乱していなかったぜ」
「ああ、そっちは、マジック・アーツ部の、一年ですよ」
遂に浄偉の答えが途切れ途切れのものとなる。
「ほぉ、格闘少女か。あいつが好きそうなタイプだな」
「あいつ?」
反射的に問い返した浄偉だったが、その呟きは吐く息に紛れて最早言葉になっていなかった。
問いが届かなかったレオが答えるはずもなく、彼は何が可笑しいのか、何が楽しいのか、ニヤニヤ笑いながら走り続けていた。
◇ ◇ ◇
山道のランニングが終わって、山岳部とマジック・アーツ部はそれぞれのトレーニングに分かれた。まだ夕方とも呼べない時間だったが、アリサと明はどちらにも参加せず一足先に研修所に戻った。
研修所のすぐ横にはテニスコートがある。そこで日和と小陽が対戦していた。
「あら、楽しそう」
明が言うように、二人は和気藹々とラリーをしている。勝ち負けを競う試合ではなく、楽しむ為のゲームだ。
日和は競技テニスの経験者。中学校の部活ではなくテニススクールの選手育成クラスだ。本人は「体力作りで親にやらされていた」と言っていたが、受験勉強が本格化するまで続けていたらしい。なお魔法師の家庭で子供に球技を習わせる例は多い。将来魔法師として働くならホワイトカラーより間違いなく体力は必要だし、とっさの判断力の訓練になるからだ。
そんな背景があるから、日和が上手いのはある意味当然と言える。
「意外に上手……」
だからアリサがそう呟いた対象は、日和ではなく小陽の腕前だった。
「習ってたんじゃない? 小陽はあれでもお嬢様だから」
アリサの声は独り言に相応しく小さなものだったが、明は耳聡く聞き取っていた。
「あれでも、って」
アリサの呆れ声には「小陽に失礼じゃない?」という非難のニュアンスがあった。
だがその直後に「クスッ」と漏らした笑い声が、自分のセリフを裏切っていた。
アリサたちがコート脇まで近付くと、それに気付いた日和がラリーを中断した。
「二人もやる?」
そして、右手に持ったラケットを上げてアリサと明に話し掛けた。
「ラケットは貸してもらえるのかしら」
明が乗り気を見せて訊ねる。
「もちろんですよ」
コートの反対側から近付いてきた小陽が笑顔で答えた。
「でも靴がこれだから……」
アリサは山道を想定して選んだソールの硬いランニングシューズを見下ろしながら、困り顔で微笑んだ。
研修所のコートは、何とグラスコート──天然芝。実を言えばこのコートはテニスをすることが目的ではなく、芝の手入れをする自動機の運用テストの為の物だった。
様々な条件の芝でメンテナンスロボットの運用データを取るサンプルの一つとしてのテニスコートだ。傷んだ状態になって整備されることを本来の目的として作られた物だが、限度がある。テニスのプレーでは普通なら生じない損傷は、異常なサンプルになってしまう。仮にイレギュラーなデータを許容するとしても、芝を傷つけると分かっている靴のままプレーするのはアスリートのマナーとして避けるべきだろう。
「大丈夫です。シューズも各サイズ、揃えてあります。何でしたらウェアもありますよ」
しかし大企業の研修所に抜かりは無かった。いや、「大企業の」と言うより「トウホウ技産の」と言うべきかもしれない。
「あら、良いわね」
意外というか人は見掛けによらないというか、「テニスウェア」に明が食い付いた。
「随分汗をかいちゃっているし、着替えさせてもらおうかしら。アリサもそうしなさいよ」
ただ、鼻息が荒いとか目が血走っているとか、そういう異常心理の徴候は見られなかった。
だからアリサも、拒む口実を思い付かなかった。
流されるままテニスウェアに着替えたアリサは、ネットを挟んで日和と向かい合っていた。
二人の間をボールが往き来する。それなりに球の勢いはあったが、試合ではない。二人は足を止めてラリーを続けていた。
忙しく走り回っているのは明と小陽の方だった。どうやら明はテニスの経験が無かったようで、スイングがぎこちない。技術不足を運動神経で補っていたが、スイートスポットを外すことが多くボールが中々小陽の手元に返らない。一方、小陽は初心者の域を出ているものの、走り回りながら正確に返球する程のテクニックは無い。
「そろそろ終わりにしましょう?」
ボールを打ち返すのではなくキャッチしたアリサが──正確に言えば、一旦ラケットで勢いを殺してワンバウンドさせたボールをキャッチした──そう声を掛けた時には、明も小陽もすっかり息を切らしていた。
◇ ◇ ◇
「あれっ、まだ入ってたんだ」
女子マジック・アーツ部員の中で真っ先に湯船へやって来た茉莉花が、お湯に浸かっている明と小陽を見て意外そうな声を上げた。なお、一年生の茉莉花が一番乗りだったのは女子部員のほとんどがすぐに入浴できないほど疲労している為だ。また、一緒に浴室に来た千香を含む少数の上級生は、まだ髪や身体を洗い終わっていなかった。
「アーシャは?」
「アリサさんと日和さんは先に上がりました……」
茉莉花の質問に小陽が疲れ切った声で答える。
「……なんでそんなに疲れているの?」
明はともかく──彼女も一目で分かる程ぐったりしていた──ランニングに参加していない小陽が何故ここまで疲労しているのか、茉莉花は本気で首を捻った。
「あの後、四人でテニスをしたの」
茉莉花の問いに明が答える。
「ああ、すぐ横にテニスコートがあったね。試合でもしたの?」
「いいえ。アリサは日和と、私は小陽とラリーをしたんだけど、とにかく走り回らされちゃって」
「あれは私だけが悪いんじゃありませんよぉ……」
明のセリフに、小陽が今にもブクブクと湯の中に沈んでいきそうな表情で抗議した。
「……お疲れ様」
事情が吞み込めない茉莉花は、困惑顔で取り敢えず二人に慰労の言葉を掛けた。

◇ ◇ ◇
夜、九時過ぎ。茉莉花がアリサたちの部屋を訪ねてきた。
いきなりアリサに抱き付き、「エヘヘ……」と甘えた声を出す茉莉花。
アリサは目を白黒させて「どうしたの?」と焦った声で訊ねる。
「だって、お風呂の時も夕食の時も一緒じゃなかったんだもん」
茉莉花は少し幼い口調で答える。やや拗ねている感じだ。
「……仕方無いよ。夕食はミーティングを兼ねていたんでしょう」
マジック・アーツ部は夕食の席で、今日の反省と明日の予定、強化方針を話し合っていた。実は同じ時間にアリサたちも食堂にいたのだが、邪魔にならないよう離れた席に座っていた。
「分かってるよぉ。だから今、アリサ成分を補給してるの」
「何それ……」
アリサは心底呆れている声を漏らしたが、だからといって茉莉花を振り解こうとはしなかった。
「茉莉花さん、まだ寝なくて良いんですか?」
部活の合宿では消灯時間も決められているはず。そう考えた小陽が横から訊ねる。
「消灯は十一時。今は部屋で勉強の時間」
アリサの胸に顔を埋めた状態で、茉莉花はくぐもった声の答えを返した。
「勉強の時間があるんだね……」
日和が感心を込めた呟きを漏らす。
「茉莉花は部屋で勉強しなくて良いの?」
明は咎めるような声で茉莉花に訊ねた。──委員長気質と言うべきだろうか。
「アーシャに教えてもらうって言って許可をもらってきたから大丈夫」
アリサの胸にスリスリと頰を擦り付けながら茉莉花は明の質問に答えた。
「そっか」
アリサが妙に優しい声を漏らして茉莉花の髪を撫でる。
茉莉花はうっとりと目を細めた。まるで喉を撫でられている猫の姿。今にもゴロゴロと喉を鳴らしそうな表情だ。
しかし。
「じゃあ、勉強しないとね」
次のアリサのセリフに、茉莉花はハッと顔を上げた。
アリサの胸から顔を離し、後退ろうとする。
しかし両肩をがっちりとアリサに摑まれてしまう。
「そうね。せっかく勉強の時間を作ってくれているんだから」
明がそう言って立ち上がり、壁際に片付けられていた座卓を部屋の中央に据える。軽量な素材で作られている座卓は、女子一人でも簡単に移動できた。
明は大真面目な顔をしていたが、その裏で面白がっているのが何となく感じられた。
「これを使ってください」
小陽がクローゼットから研修所の備品の大型ノート端末を出して座卓に置いた。こちらは完全に善意の表情だ。
小陽の操作で、クラウドサーバーに保存された一般科目の教科書が端末に表示された。
「……どうぞ。残念ながら魔法科目の教科書にはアクセスできませんけど」
「一般科目の勉強も大切よ。単位を取れなかったら進級できなくなっちゃう」
アリサが茉莉花の背後に回り、彼女を座卓の前に座らせた。
「そんなの、ミーナも嫌でしょう?」
そしてアリサは茉莉花の耳に唇を寄せ、ゾクッとするような色っぽい声で囁いた。
「──うん、嫌だ。頑張る」
率直に言って、茉莉花はチョロかった。