昨晩、サラが湖畔の離宮に戻ってきたときは小雨が降っていたが、今日は晴天だった。そうはいっても、もう〝ニリヤの晴れ空〟とはいかない。太陽は雲の裏に隠れ、空の色をわずかに
数時間後、小さな表彰の式典が離宮において行われる。そこでは王女みずからの手で、栄誉と祝福を象徴する花冠がサラの頭に乗せられる──そしてスーにも。
スーを離宮に連れてかえったサラのふるまいには、だれもが賛同したわけではない。とくに連絡役の裏切りのあととあって、素性のわからないこそ泥はよけいに騎士たちからの信頼を得るのが難しかった。サラもスーを離宮に留まらせようとは考えたことがなく、望んでいたのは、ふさわしい褒賞を王女が与え、そしてよい行き先があるよう取りはからうことだけだった。
昨晩、この招かれざる客をどこに落ちつかせるかについて、王女とパールたちは深夜まで続く議論を交わし、サラもその場にいた。
パールの見方に従うなら、騎士団に力を貸した市民を称える方法にならい、スーにはたっぷりと褒賞金を渡すということになる。カロリーンは、商人の家に養女として送ろうと提案した。アナベルは、スーをシルヴィアのもとに送り、この先しばらく様子を見てもよいのではないかと考えていた。時局がなかなか読めない以上、このような戦力が必要になるかもしれないのだ。
最後に発言したのはアーシュラ王女だった。
──さきほど、クロウクル家のパトリシアに彼女と諸島語で話してもらいました。パトリシアによれば、彼女の諸島語はとても流暢で、大ノルンの方面のなまりがはっきりあるといいます。出身地については、彼女は噓を言っていないのでしょう。背中にも、たしかにむちの痕と焼き印が残っていました。ひとまずわれわれは、彼女のことを行いを改めた泥棒だと信じます。しかしなにが〝行いを改めた〟ことになるのかは、われわれが代わりに決められることではありません。いまの選択肢を並べて、当人に選ばせるのがよいでしょう。サラ、彼女はどれを選ぶと考えますか?
──まだ知りあって十数日で、スーについて知っていることは限られます。ですがあの子の、心を入れかえるという決心は本物だと信じています。選ぶのはいちばん困難な道のはずです。
──こうしてはどうでしょう、あなたが明日の表彰の式典のまえに、彼女の意思を聞き出すというのは。できるかぎりそれに応えましょう。
昨夜王女に言いわたされたことを思い出しながら、サラは草地を通りぬけ、花園の西にある林に足を向けていた。そこはサラがふだん、毎朝剣の鍛錬をする場所だった。
いまスーは、居室で静かに眠っているはず。
昨夜雨が降ったばかりで、草の上はすこし滑りやすくなっている。
アデリーンとパトリシアの剣術は果敢さの一手で、練習用の剣の打ちあう音が遠く離れたところまで聞こえたのもうなずけた。何度かやりあい、たがいの技のやりとりが進んではいたが、どちらも勝ちへの決め手を出せていない。
サラが現れたのに気づいて、二人は示しあわせたように同時に手を止めた。
「トルン様」二人は同時に膝を曲げ、礼を送る。ミアも同じように礼をする寸前だったが、そのまえに反応することができた。このところようやく、騎士としての自覚が身につきはじめたらしい。
「昨夜ロータに聞いたけれど、二人とも入団試験の予定が決まったの?」サラは二人に尋ねる。
「今月の末に」アデリーンが言った。「ダイアンもわたしたちといっしょに試験に参加します。いまは馬の世話をしているところで、もうすこししたらここに来ていっしょに練習をします」
「そろって合格できるのを願うけれど」
「わたしの剣術は、試験に合格するでしょうか?」パトリシアが訊いてきた。
「もともと基礎はいいから、そのままの腕を見せられれば、試験に落ちる不安はないでしょうね。ただし、準備の動きが大きすぎて、相手にすぐに見すかされてしまう。そういった習慣はゆっくり
「わたしはどうでしょう?」
「アデリーン、はじめてミアと試合をしたとき、何手も繰り出していないうちに疲れて息も絶え絶えになっていたでしょう。いまのあなたは、息づかいの意識に関してかなり進歩している。入団試験は持久戦だから、体力を残しておくことに気をつければきっと合格するでしょう」
「わたしだって試験に合格したの。あなたたちは小さいときから騎士の訓練を受けて、それだけの基礎を身につけているんだから、心配することなんてないでしょう?」横でミアが言う。
「ミア、あなたはこの子たちの先輩なのだから、そんな弱気なことを言うよりも、しっかりと手本を見せるようにしなさい」サラは手をさすりながら言う。「アデリーン、剣を持たせて。パトリシア、ミアに剣を渡して」
ミアは〝勘弁してください〟と顔に書いてあるようなもので、ため息をつきながら練習用の剣を手に取る。しかし構えに移ると、その視線はたちまち鋭くなった。
サラは一歩踏み出して斬りかかる。実戦と比べるとほんのわずか速さをゆるめていて、ミアに軽々と防がれた。通常の速さでつぎの一手を繰り出そうと考えていたそのとき、ミアの反撃が襲ってきた。惜しいことにその反撃にこちらはまったく脅かされず、手を振りあげて防いでしまう。二本の剣の組みあいになり、膠着状態になったとき、ミアは全身の力を振りしぼってまえに押しこみ、それを受けたサラが半歩後じさった。その機会を逃さず、ミアが攻撃に移る。
相手が真剣なのを見て、サラももう手加減はしないことに決めた。攻撃を軽く受けると身をよじって逃れ、剣の柄を握っていた左手を離して腰に向かわせ、短剣を抜く動きに移り、ありもしない短剣でミアの首元を押さえつけた。
「そうとうな進歩ね、ミア。アナベルはたしかに、真剣に指導しているらしい」
「こんなことを言う資格があるのかはわからないけれど」ミアが息を切らせて言う。「サラ先輩、あなたもまえより強くなったみたい」
「ブルーメンベルクである使い手と出会って、助言をもらっていくつか悪い癖を直したの」パトリシアもこの場にいることを考えて、自分が助言を受けたのが
それからサラは、アデリーンとパトリシアを相手に順々に手合わせした。四人が胡桃の木の下に座って休んでいるところに、赤髪のダイアンが灰色の馬にまたがり、一同のまえに姿を現した。馬をつないで、ダイアンもサラの指導を受ける。厩舎で働いてきたばかりのダイアンの身体からはかすかに馬糞のにおいが漂っていて、そのにおいにサラは、ベーフェラント家で過ごしたあのころの歳月を思い出さずにはいられなかった。しかしひととおり剣術の練習を終えると、そのにおいも散り、汗が服を濡らすにおいがその代わりになった。
スーはもう起きたはずだと見はからって、四人の後輩にしばし別れを告げ、離宮の広間に戻った。
サラはちょうどいい頃合いに戻ってきて、スーは眠い目をこすりながらロータとともに朝食をとっているところだった。
スーは王都の市民の服に着替えていたが、体格の似た娘たちのだれかから借りたのだろうか。空き巣稼業で宵っ張りに慣れてしまったのか、朝のスーはいつもぼんやりしていた。
「ブルーメンベルクを救った大功臣じゃない」サラがやってくるのを見て、ロータがからかった。「さすがね、表彰の式典のまえにもしっかりと剣の鍛錬で存分に汗をかいてくるなんて」
サラはロータの横に腰を下ろし、スーは立ちあがるとサラに
「いま、ミアたちと剣技の修練をしてきたけれど、全員大きく進歩していたの。ロータ、わたしが不在だった一ヵ月、もとのところから進んでいないのはあなただけね」
「あの子たちは入団試験に臨むんでしょう。むかしのわたしのように失敗はしてほしくないわ。ほかはまだいいけれどね。もしパトリシアが試験に合格しなかったら、たぶん姉が許しはしないから」
「あのとき、あんなに必死にあなたを助けたのはすこし後悔ね。ご両親にさんざん締めあげられたあとで訪ねていけばよかった、もしかしたらすこしは進歩していたかもしれないから」
「あなたはそんなに無情ではないでしょう」そう言って、ロータはスーのほうを向いた。「泥棒さんはじつに幸運ね、騎士団のなかでもいちばん思いやりのあるサラと出会って。この人は、かわいらしい女の子が苦しんでいるのがなにより見たくないの。もしわたしだったら、とうに治安官のほうに送っていたところ」
「わたしも、トルン様がわたしの命を取ろうと考えなかったのに感謝してます」
「あなたもかなり、わたしの力になってくれたでしょう。あのときあなたが短剣を投げなかったら、いまはもう第七治安官の剣に殺されていたから」サラは言う。「スー、なにか求める褒賞があればなんでも言ってみなさい」
「トルン様はわたしが心を入れかえる機会をくれました。これ以上の褒賞はなにもありません」
「わたしの上司たちが議論して、あなたに与える褒賞の案を三つ考えたの。わたしたちはあなたに褒美のお金を与えて、ずっと先まで食うに困らない日々を過ごしてもらうことができる。養女として商人の家に向かわせることもできる。あなたは名家のお嬢さまとして指導を受け、結婚のときにもたいへんな額の持参金が手に入る。あなたは騎士団のために働いて、この先同じように長所を発揮することもできる。危険に出くわすかもしれないけれど、王女様が無事に即位すればあなたは功臣のなかに肩を並べることができる。あなたはどの案がほかより自分に合っていると思う?」
スーはしばし躊躇したあと、小さい声で〝ぜんぶではいけませんか〟と尋ね、サラとロータはおかしくなって笑い声を上げた。
「それがあなたの答え? なら王女様にそう報告しましょう」
「王女様は怒りますか?」
「それはなんとも。わたしたちには王女様のご機嫌がつかめないから」サラは言う。「すべての褒賞をあなたに与えるのも無理ではない。お金を渡してから、王都で商人の養女という立場に落ちついてもらい、同時に調査や聞きこみの仕事を任せる。三つは対立しない」
「王都はどんなところなんですか? あそこで船を降りたとき、しっかり見る間もなく馬車に乗ったから……」
「ブルーメンベルクとよく似たところ」
「ここに残って、あなたの手助けをするのは無理なんですか」
「ここではあなたはなんの役にも立てない。王都には深く守られた場所というのがあって、そここそあなたの腕前をいちばん発揮できる場所だから」サラは言う。「騎士団が王都に送りこんでいるシルヴィアはとてもいい人。あの人も孤児の生まれで、かなりの苦労をして自分の努力によって騎士になったうえに重責を任されているから、きっと悪い扱いはしない。わたしも毎月、王都に行く番がやってくるのだし」
「わかってます」スーは言った。褒賞の話をしているというのに、その琥珀色の目に喜びの色はまったくなく、満ちているのは不安とためらいだ。最後に一言言う。「ほんとうに心を入れかえられたならよかったのに」
スーのことはひとまずロータに任せ、サラは王女の部屋にやってきた。このとき王女はすでに騎士団の制服に着替え、化粧鏡のまえに座っていた。藍色のワンピースをまとったイーディスがその髪をとかしている。
「あの子はなんと?」
「褒賞金も欲しいし、養女にもなりたい、それにわたしたちのためにも働きたいそうです」
「そう、なら叶えてあげましょう」
「ほんとうに、素性のわからない泥棒をわたしたちのために働かせるおつもりですか?」王女の銀髪を耳元で結い、髪網で固定しながらイーディスが尋ねた。
「シルヴィアは以前から、王都の密偵は値段が高すぎるし信用が置けないと不満を持っていて、わたしたち専属の密偵を育てられたらと言っていました。サラの話を聞くに、スーには見込みがあります。シルヴィアに任せればわたしも安心できますから」
「しかし……」
「絶対の信頼に見合う人などいません、大事なのは危険をできるかぎり小さくすることでしょう」そう言って王女は立ちあがり、イーディスに手伝わせて化粧台に置いてあった剣を腰元に差した。「あなたももう着替えに行くといいでしょう」
イーディスは王女に礼を送り、そして面白くなさそうな様子でサラに〝あなたも大手柄を立てておめでとう〟と言うとその場を出ていった。
「あなたたちの仲を良くするための方法はなにかありませんか?」王女が苦笑する。
「イーディスが手柄を挙げられる機会をお与えになれば、彼女との関係はおのずとよくなるでしょう」
「できないことはあなたもわかっているでしょう。もしわたしの身になにかあったなら、継承権を持つイーディスはゼーラントの最後の希望となります。当人にとってはすこしばかり残酷ではありますが、ひとまず彼女のことは温室で育て、守るしかありません。わたしのことを恨んだとしてもかまいません」
「イーディスが、王女様を恨むことはありません」
「約束してください、サラ」非常に決然とした王女の声は、命令に近かった。「もし実際にその日が来たなら、いまわたしに尽くしているのと同じように、イーディスに尽くしてください」
「約束いたしましょう」
「このことはパールには頼めません。彼女はわたしを重んじすぎて、王国そのものさえ上回りますから」王女は化粧台に置いていた銀の王冠を手に取り、頭に載せ、鏡に向かってすこし整えた。「わたしにもイーディスの思いはわかります、わたしもパールによって温室で育てられ、守られてきたのです」
そこに響いたノックの音はアナベルのもので、今日まる一日の護衛の任務は彼女に任されている。
サラが王女の部屋を出たときには、儀式が始まるまでの時間はあまり残っていなかった。二階に通じる階段を通りがかったところで、ここでもイーディスと出くわした。このとき相手は騎士団の制服に着替えて、後ろにドゥファを従えていた。
イーディスは〝まったく、巡りあわせが悪い〟とこぼしながら階段を下りてきて、サラと肩を並べた。
「素性のわからない人間を離宮に連れてきて、なにか問題が起きたらどうするの、責任は取れるの?」
「王女様はもう、スーをシルヴィアのところに送ると決めていらっしゃるの。ここにいるあいだは、なにをしようともだれかが付いている。もともと私物のたぐいはなかったし、きのうは沐浴のあとに服を替えたから、なにも隠すことはできない。このまえ護身のためにわたしから短剣を渡したけれど、それもいまは返してもらっている。あなたの考えすぎでしょう」
「あの子が王女様を暗殺することは心配していないの──たぶん、そんな大それたことはできないでしょう。だとしても、ここであの子がなにかを盗んだだけでも、あなたの評判にはかかわるの」イーディスは言う。「王女様がこれだけあなたを信用しておられるのだから、その厚意を裏切ってはいけないでしょう」
「そんなにわたしのことを考えてくれるなんて」
「あなたのことは嫌いだけれど、そんなことは言ってもわたしはフルスト家の娘なの。ベーフェラント家と婚約しているあなたとは同盟相手に違いない。どんなにいやな相手でも同盟相手にはなるしかないの。わたしは同盟相手として忠告しているだけ」
サラはふと、もしその関わりがなかったなら、自分とイーディスとはいまよりも和やかに付きあうことができ、ことによれば親しい関係の友人になっていたかもしれないと内心思った。しかし結局、それを言葉にすることはなかった。
表彰の式典は、湖畔でとりおこなわれた。
サラたちが離宮の中心の建物を出てすぐに、集合を知らせる鐘の音が響いた。メイヤール湖に通じる小道の左右には柳の木が植えられ、制服に身を固めた騎士たちがちらほらと木陰を歩いている。湖を望む草地にやってくると、サラはすぐに人影のなかからロータとスーを見つけだした。いまスーは華麗な青のワンピースのドレスに着替えていて、それはロータが
イーディスはドゥファとともに、察しよくサラたちからは離れたところに立っていた。
「イーディスといっしょに来たの?」ロータが尋ねる。
「今日も会いたくない相手に限って出くわすの、もう二度も」
「それはほんとうに運が悪いわね」
「わたしはあの人が嫌いではなくて、向こうばかりがわたしを嫌っているだけなのに」サラが言う。「でもイーディスも、わたしのことは嫌いだけれど、わたしの立場のせいで同盟相手になるしかないと決まっている、と言っていた」
「たしかに、はじめから決まってしまうことというのはたくさんある」ロータの言葉は意味ありげだった。「それが運命ね」
サラがうっすらと感じているのは、表彰の式典が終わったあと、ロータが自分になにか伝えてくるのではないかということだった。もしくはスーを王都に送りとどけたあとかもしれない──聞かされるのは、自分がとっくに予感しながら、なかなか確かめる気が起きなかったことだ。しかしいまサラは、ひとまず考えないことを選んだ。
湖はあおあおとしたモルク山を映し、そよ風が細かく波を立てていく。
団長のパールと副団長のカロリーンはすでに姿を見せていて、その横には花冠を捧げ持つ箕帚人が二人立っている。騎士たちはおのずと四列になり並んでいく。
すぐに、アナベルに付きそわれたアーシュラ王女も湖のまえにやってきた。
騎士たちが勢ぞろいし、短く王女は伝えるべきことを述べた。
「今日わたしたちがここに集まったのは、わたしたちの仲間の一人と、それに力を貸した平民の一人を表彰するためです。湖畔の騎士団の団員サラ・トルンは、入団のその日から一日として騎士の名を汚すことなく、後輩からは模範とされています。さらに先頃には自由都市ブルーメンベルクにおいて、治安軍に協力し反乱を治め、市民を守っています。教団が残していた糸口をまっさきに見つけ出し、反乱に加わった第七治安官をその手で打ち負かし、また敵の手に落ちたロッペルスム一家を命を投げ出して助け出し、当地の人々からはいちばんの功績を挙げたと称えられています。その途中において、グラウガウス島の生まれのスーはサラの感化を受けて行いをあらため、賊の鎮圧に大いに力を捧げました。ここにわたしは、ゼーラント王国の王位継承者、湖畔の騎士団の創立者の名において二人を表彰し、栄誉と祝福の象徴である花冠を授けます」
王女の言葉が終わり、パールがサラを呼ぶ。
王女のまえにサラはやってきて、片膝を立ててひざまずいた。王女は箕帚人の手から、新しく摘んだ花で編んだ花冠を受けとり、サラの頭に載せると〝永遠に勝利がともにありますように〟と祝福の言葉を述べた。サラも王女の服のすそに口づけ、感謝を表す。
花冠を授けられたサラは列に戻り、パールはスーに進み出るよう呼びかけた。
サラとすれちがった瞬間、その耳元でスーは低くなにかを口にした。サラはすぐには反応できず、もう二歩歩いたところで、あれはおそらく〝ごめんなさい〟だったと気づいた。
慌てて振り向くと、スーはすでに、花冠を両手で持った王女のすぐまえまで来ていた。
視界のなかで、スーはひざまずくことなく、まえに突進し、王女が腰に佩いていた剣に手を伸ばした。柄を握って剣を引きぬき、王女やそのそばに立っていたパールたちはまったく止めるのが追いつかない。
しかし、鞘のなかから引き出されたのは完全な長さの刃ではなく、これ以上ないほど短い剣の根元だけだった。
そこに、王女が振りあげた両手がスーの顔を殴りつけたが、スーは後ろに飛びのいて避ける。パールとアナベル、カロリーンがただちに剣を抜き、王女を囲んで立つ。騎士たちもそれぞれに剣を抜き、スーに迫りはじめた。
スーは服のすそをからげて、離宮に向けて大股に駆け出していた。いちばん近くにいたサラは急いで追いつき、剣を振るい斬りかかった。身を翻したスーは、折れた剣と鍔との角でその一撃を受けとめた。
サラに向けられたその琥珀色の目は冷えきって、いっさいの表情が消えていた。
スーは勢いよく地面を蹴って飛びのき、折れた剣をサラに投げつけた。サラが剣を振るって防いだ間に、スーは数メートルさきに駆け出している。追いすがる騎士たちのまえでスーは厩舎に逃げこみ、直後、灰色の馬にまたがって飛び出してきて、北東に向かい突っ走った。騎士たちもつぎつぎと厩舎に入り、戦馬にまたがって後を追う。ロータやイーディスの姿もそこにあった。
サラも厩舎に駆けこもうとしたところで、パールの声に止められた。振り向いた瞬間に拳が向かってきて地面に転がされ、頭に載った花冠も外れ、泥土のなかに落ちた。
「王女様があらかじめ用心していなかったら、たいへんなことが起きていた」パールはサラを起こす。右手がふたたび持ち上がったが、やってきたアーシュラ王女がその腕をつかんだ。
「わたしは無事でいます。あの賊が行きがけに馬を一頭奪っていっただけでしかありません。サラを責めるのはもうよしなさい、間違ったことなどしていないのですから」
「不届き者を引き入れたのはサラの間違いではありませんか」
「それも、善良すぎたからでしかありません」王女は言った。「その善良さがなければ、サラは優秀な騎士にはならなかったのです。しかしそれは弱点でもあります。わたしたちはみな弱点を持っているのですから、あまり責めすぎる必要はありません」
「申しわけございません。王女様からの信頼を裏切り、ベーフェラント家の顔にも泥を塗りました」
王女はサラを立たせ、服を汚している泥をその手ではたき落とした。
「われわれは、重要きわまりない任務をあなたに任せるつもりだった」その横でパールが言う。「しかしいまとなっては、最適の候補とはとてもいえない」
そこにミアが、すすり泣きを続ける箕帚人を一同のまえに連れてきた。厩舎で働いているダイアンだ。
「すべてわたしが止めなかったせいです、だからイザベラを奪われてしまった」
「ダイアン・ユーダリル」王女がその名を呼ぶ。「あなたの過ちはスーを止めなかったことではなく、まっさきにべつの馬にまたがって後を追わなかったことです」
「わたしが追ったとしても……」
「馬の管理はあなたの責任でしたが、あなたは馬術に自信がないために、馬を取りもどすための絶好の時機を逃したのです。もしほかのだれもあの馬を取りもどせなかったら、あなたの入団試験は取りやめにするしかありません」
「すべてはわたしの過ちです、ダイアンを責めないでください」サラは言った。「もしわたしがスーを離宮に連れてこなかったら、馬も奪われず、王女様も襲われる危険はありませんでした」
「サラ、なんども自分に力を貸し、わたしたちの役に立つかもしれない相手をわたしに引き合わせたのは、軽率な決定ではありましたが、誤った決定とは言えません。ただしダイアンが、自分の管理する馬を奪われたとき、すぐに追うことをしなかった、これは当人の手抜かりです──この是非の判断を、わたしははっきりと付けています」王女は言った。「ダイアン、良いことを挙げるなら、あの賊は純色の毛の、高貴な血統の戦馬に乗って逃げつづけるとは思えません。あまりに目につきますから。どこかで馬を乗りかえるはずです。予想通りなら、おそらくあの馬は取りもどせますが、あの賊を捕らえられるかはわかりません」
ことの進展は王女の考えたとおりになった。騎士たちは近くの村ですぐにくだんの灰色の馬を見つけた。大柄な馬をスーは村の宿屋の厩舎につないでいたが、厩舎にいた馬は盗まれていなかった。泊まり客が部屋に置いていた服と保存食が持ち去られ、ロータのものだった青のワンピースはベッドに脱ぎすてられていた。
騎士たちがスーを追っているそのあいだ、サラはパールによって部屋に謹慎するよう命じられ、ダイアンは反省室に入れられた。
サラは一人ぽつんと部屋に座り、自分がスーの裏切りにあったことにようやく多少の実感が湧いてきた。あの琥珀色の目の少女は、はじめから目的を持って自分に近づいてきたらしい。それから何度も力を貸してくれたのはなりゆきに従っただけで、自分からの信用を手にし、王女に近づく機会を得るためでしかなかったのだ。
午後、ミアがサラに食事を運んできて、馬を取りもどした報せを伝えた。
「そもそもダイアンに厩舎の仕事を紹介したのもわたし、スーを離宮に連れてきたのもわたし。わたしがダイアンに厄介ごとをもたらしたの」
「この件はダイアンの過ちに違いありません。王女様がどんな罰を下そうとも、ダイアンは受けいれないといけない」ミアは言った。「これで入団試験をあきらめなければいいんですが」
夕暮れどき、外に出ていた騎士たちがつぎつぎと離宮に戻ってきた。
ロータがサラの部屋をノックし、王女の部屋に連れていった。
そこには王女のほか、パールにカロリーン、ミア、イーディスとドゥファも集まっていた。すこしして、アナベルがダイアンを連れて部屋に入ってきた。ダイアンの顔には涙の痕が残っている。罰を受けおえたばかりらしい。
「あの賊はおそらく近くの村に身を隠していて、戻ってきて王女様を襲うおそれはつねにあります。しばらくは警戒を強める必要があります」カロリーンが言う。「もしくは、いまはほとぼりが冷めるのを待っているだけで、この先逃亡を続けることもありえます。人を
「追跡の役目はサラに任せてはどうでしょう」パールが提案した。「自分が招いた災いは、自分で解決するものです」
「それもいいでしょう」王女は言った。「あの賊はおそらくゼーラントに来たのは初めてで、慣れない土地でだれにも話を聞かないわけにはいきません。十四、五歳の娘の一人旅、しかもいかにも諸島民らしい容貌となれば、周りの注意を引くのはすぐです。サラ、よく注意を払いましょう、きっと新しい手がかりが見つかります」
「ヴィティン島まで追うことになっても、かならず連れもどします」
「サラに協力したいと思います」ミアが自ら名乗り出た。
「さきほどカロリーンも話していたように、あの賊は引きかえしてくるおそれがあります。離宮のほうでもとにかく人手が必要なときなのです。だからミア、あなたの頼みに許しを出すわけにはいきません。しかし、サラを一人で行動させるつもりもありません」王女はダイアンに目を向けた。「いまではあの戦馬も戻ってきたわけですから、ダイアン、あなたの入団試験は取りやめにはなりません。しかし方法は変えましょう。サラが刺客を追うそのあいだ、あなたがそばに付いて手を貸しなさい。騎士としてわれわれに加わることができるかは、そのあいだの働きによります」
「力の及ぶかぎり、トルン様に協力します」ダイアンは言った。「もう、騎士団への参加を望むことはありません」
「馬術の自信が欠けていたせいで刺客を逃がしたそのうえに、数年間わたしたちが施した教育を自責のためにすべて捨てようというのですか? これ以上わたしを失望させないように」
ダイアンが謝罪を口にするよりまえに、横のパールが口を開いた。
「二人には準備のため二時間与えましょう。出発は今晩とする」
話が終わり、部屋に戻って荷物をまとめるサラにはロータが付いていた。サラは長旅を終えたばかりで、持ち物はすべて揃っており、準備はすぐに済んだ。それから引き出しを開け、琥珀を嵌めこんだあの短剣を取り出して、腰に差し、つねに身に着けていた短剣の代わりにした。
「今日パールが、重要きわまりない任務をわたしに任せるはずだったと言っていたけれど。その任務はあなたに関わりがあるの?」サラはロータに尋ねた。
ロータはうなずく。「もう予想はついているんでしょう?」
「ついている気がする。王女様が女伯爵に、エルドゥリア語を教えられる人間をみつくろってくれるよう頼んだということは、向こうの国とつながりを作ろうとしているということ。わたしたちの同盟相手としてもっともありうるのはフローリス王子に違いない。つながりを作るためにいちばん手っとりばやいのはもちろん婚約を結ぶこと。ともかく相手は一国の王子なのだから、家柄について考えないといけない。ふさわしいのはあなたとイーディスだけ。だけれどイーディスは……」
「イーディスにはほかの使いみちがあるから、残ったのはわたししかいない。予想は九割がたあっているけれど、まだそこまでは進んでいないの。いまはまだ、わたしと王子が国境でひそかに顔を合わせる手配を進めているだけ。もし向こうが満足で、わたしも応じられるなら、そこでこの縁談は決まる」
「応じられないのなら、あなたは断ってもいい」
「サラ、わかっているだろうけれど、わたしは断ることはできないの。どうしてそんな、自分を騙すようなことをわざわざ言うの?」ロータは苦笑して言った。「イーディスがいくら覚悟に燃えていたとしても、敵を倒して手柄を挙げるような場に王女様が送りこむはずがないのと同じ。シルヴィアが心のなかでどれだけヒルフェルスム家のエゴンのことを想っていたとしても、二人がいっしょになるとはとても思えないのと同じ。すべては運命に導かれていて、わたしたちはそれぞれの運命を受け入れるほかないの」
「ごめんなさい、その場に付いていくことができなくて」
「来月のはじめ、わたしは傭兵に化けて、プスコフ家の商隊とともに国境を越えるの。カロリーンが自ら護衛に付いてくれる。国境の近くでフローリス王子と対面してからは、別の商隊にまぎれて引きかえしてくる。今回の任務はとても安全なの、心配なのは王子がわたしを気に入るかだけ」
「きっと王子は、あなたを愛するようになるでしょうね」
「だといいけれど」ロータは目に涙をためていた。「いつかこういう日は来るのだと知っていたから、心の準備は済んでいるの。貴族の家に生まれて、何不自由ない暮らしをして、最高の教育を受けたのだから、当然背負うべき責任も多くなるでしょう。だけれどパールのことはすこしうらやましいの、なにより大事な人のそばにずっといられるなんて」
「パールもいろいろなものを犠牲にしているでしょう」
「でもそれには見返りがある」そう言って、ロータは首を振った。「ごめんなさい、こんなわがままを言うものではないわ。そろそろ出発でしょう? ダイアンは準備が済んだかしら」
「厩舎のほうで待っていると言っていたけれど」
サラが荷物を取り上げ、二人はともに厩舎に向かった。
「わたしたちがここに集まることができたのも、運命の導きだった」サラは言った。「いつか別れが来るのだとしても。だけれど、いつ思いかえしたとしてもきっと、これがわたしたちの人生でもっともすばらしい時間だったと思うでしょう。ただし、わたしたちの親の代の人々が七十日戦争のあと、フリューロートの丘の惨敗を経験したように、わたしたちもいずれ、さらに残酷な現実と向きあうのだけど」
「いつか別れの日が来るとしても、わたしたちは盟友でありつづける──それで充分なのかもしれないわ」
厩舎に来ると、ダイアンとミアはさきに待っていた。
ロータとミアに別れを告げ、サラはダイアンとともに離宮を発った。馬を走らせる二人の耳には、はじめはうしろからかすかにミアの泣く声が届いていたが、それもすぐに聞こえなくなり、夜風が耳元を吹きぬけていくだけになった。
近くの村に着くと宿を取り、そのついでに宿でスーの情報を探り、翌朝にはまた村で聞きこみを始めた。しかし調査はうまく進まず、それからの二日、村のだれもスーの姿を目にしていなかったが、家のなかのパンとチーズが消えうせているのに気づいた村人はいた。カロリーンが推測したとおり、スーは村に身を隠しているらしい。日が改まり、馬を盗まれた村人が出た。サラにはこれが陽動のための策なのか判断がつかなかったが、調査の範囲を広げるほかなく、ダイアンとともにさらに離れた村で話を聞いてまわり、結果ようやく新しい手がかりをつかんだ。スーはまた新しく馬を盗み、まえに盗んできた馬は村のなかにつないであった。ガトナモウタ村の周辺で、二人は手がかりを見失った。スーはそこに馬を置いていったが、新しく馬を手に入れることはなく、村から盗まれたものもなにもなかったのだ。しかししばらく聞きこみを続けて、そこを二日前に大規模な商隊が通りすぎたばかりだとサラは知った。隊列の目的地はまさにブルーメンベルクだという。おそらくスーは商隊の荷車に身を隠して、自分がどこよりも知っている自由都市に引きかえそうとしているのだ。
短い手紙を書いて王女に調査の進展を報告すると、サラは自分の推測を裏づけるため、ダイアンとともに連夜道を急ぎ、前方の商隊に追いついた。一通り調べた結果、荷車にスーの姿はなかったが、食べものの残りかすは見つかっていた。商隊がすこしまえに通りすぎた村にサラが引きかえすと、案の定そこでは馬を奪われた村人がいた。
スーの目的地が明らかになって、追跡の任務は順調に進みだしたようだった。ブルーメンベルクに通じる陸路をたどって調べていけば、あちこちでスーに関わる手がかりが見つかった。毎度一歩遅れをとっていたとはいえ。
数日間の追跡のあと、サラはふたたびブルーメンベルクにやってきた。
これだけの大都市で、行き先の予想のつかない刺客を探し出すのは、大海に落ちた針をさらうに等しい話にほかならない。サラはやむなくドランゲイに協力を求めた。ずいぶん早くサラに再会することになったドランゲイはかなり意外そうで、用件を知ると、〝あの小娘が、そこまでいろいろなものを隠していたとは〟としきりに漏らしていた。
ドランゲイは新任の第七治安官、ロザリン・ゲーゼを呼んできた。
ロザリンはすぐに部下を総動員し、スーの行方を追わせるとともに、新しく与えられた公邸にサラとダイアンを連れていき、腰を落ちつけさせた。さらにロザリンからは、以前自分とやりあった前任の第七治安官、ナイメーヘンはすでに処刑されていて、ロザリンがその手で彼女の首を落としたと聞かされた。グウィネスは船に乗りこみ、ヴィティン島の砦めざして発っていた。
翌朝、ロザリンからサラのもとにスーの情報がもたらされた。
港の運び屋の一人が、こちらの説明と合致する少女が出航寸前の貨物船に駆けこむのを目撃したが、船員がざっと調べた結果どこにも姿を見つけられなかったという。その船は結局、予定どおりに北港を発っていた。
「貨物船の目的地は?」
「ヴィティン島」ロザリンは答えた。「大ノルン諸島に向かう航路があるのはヴィティン島だけなの。もしあの泥棒がほんとうにグラウガウス島の生まれで、故郷に逃げ帰るつもりなら、ヴィティン島で船を乗りかえるしかないわ」
「わたしもヴィティン島に向かうしかないようですね」
「向こうに行くつぎの船は三日後になるけれど」
「すべて手遅れにならずに済めばいいのですが」
自分が王女のまえで誓った大言壮語が、まさか現実のものになるとは。ほんとうにヴィティン島まであとを追うことになるのか──もし運が悪ければ、さらに遠くのグラウガウス島まで追いかけることになりかねない。エルザとウィルヘイムのことを思い出し、そして因縁のあるグウィネスもヴィティン島にいることを考え、サラはわずかに慰めを感じた。
出発までまだ三日ある。サラとダイアンは連れだってベーフェラント家の城を訪れ、自らの失態を女伯爵に報告し、そこで一夜を過ごした。離宮から走らせてきた馬はベーフェラント家の厩舎にあずけ、二人はともに水路でブルーメンベルクに戻った。滞在先に戻ったかと思うと、ビビアンが訪ねてきた。
ビビアンは、サラに命を救われた両親の代理として大きな袋に詰まったデナリ硬貨を渡し、サラの旅費に充てるようにと伝えた。またサラに守られた学院の代理として、新しく出版された本を何冊か持ってきて、船での時間つぶしにしてほしいと言う。そのうち一冊は、亡くなったばかりのヴェルナモ教授による旧世界の宗教についての著作で、ほかのほとんどは歴史に関する本だった。
ビビアンは自分の近況についても話した。
「あの〈七短剣の聖女〉を記した禁書の解読をしているの。評議会から託されてね。成果が出れば、教授職を手に入れられるはず」
「いったいあれはどういう本だったの?」
「とても不思議な本。旧世界文献でも、あそこまで印刷が精巧なのは何冊も見たことがない。いまのところは、終末の二世紀まえの出版だと推測している。そのころは書物の落日の時代で、だけれど印刷の技術も頂点を極めた時代だった」
「このまえわたしも中身を見たけれど、わたしが見たことのない文字で書いてあったの」
「あの言語で書かれた旧世界文献はほとんど現存していないけれど、偶然あの言語と、旧世界の共用語を突きあわせられる辞典が伝わっていて、解読するのはそこまで難しいことではなかったの。だけど完全な把握までは、もう四、五年はかかるかもしれない」
「あなたでも四、五年かかるの?」
「そう。この言語は三つの文字の体系が同時に存在していて、一つが絵のような表意文字、もう二つは発音を表記しているの。表意文字一つひとつの読みかたは、前後の文によって変化する。それにこの言語は、ほかの言語からの借用語が大量に存在している。学者はふつう、三、四種類の古代言語を自在に扱えるようになってから、この言語の学習を始めるの」
「なら、そのやっかいな任務があなたに任されたということ?」
「ほんとうは、ヴェルナモ教授がこの分野の研究を仕切っていて、あの人こそが最適な人選だったけれど。残念ながら亡くなってしまった、しかもあんなに怪しい状況で」
「いまはどこまで解読できたの?」
「あの本、文字で書かれている部分はさほど多くなくて、紙幅のほとんどは挿絵だったでしょう。辞典と突きあわせてもうひととおり読んで、全体の内容はおおむねわかっている。意味のわからない場所もたくさんあって、すこしずつ研究していくしかないのだけど」
「なにが記されていたの?」
「どう表現すればいいか、わたしもわからない。ほんとうに、とても不思議な本なの。わたしたちの知らない世界を紹介しているかのようで。その世界は、わたしたちのいる世界すら上回る広さで、七つの大陸からなり、それぞれの大陸にいくつもの政治勢力が広がっている。人間の世界のほかにさまざまな神々や魔物も存在して、その国があるのは空の上と地の下。人間の世界も、天空と地底も、本に詳細な地図が描いてあった。山や川、森にも印が付いているし、大小さまざまな地名も記されている。そのほかには、何人もの英雄と予言者たちの紹介があって。どの人物の紹介にも大量の挿絵が並んでいる。そうした挿絵で、英雄や予言者はさまざまな姿勢を取って、それぞれの姿勢で違った服を着ている姿まで書かれているの。文字の説明でも、それぞれの出身と人生、最期が詳細に説明されていた。神々や魔物の紹介はそれより簡潔だったけれど、絵はすべてに付いている」
「〈七短剣の聖女〉についてはどう記してあったの?」
「〈七短剣の聖女〉は、七つの大陸を支配する神だった。本のなかの説明によれば、彼女はほかの神との戦いで顔が崩れ、それからは世の人々のまえに姿を現さずに、裏に隠れて静かに人間の世界を守っているのだと。もう一つの言及では、旅人が〈七短剣の聖女〉の像に向かって祈ると、〝広くなった視野〟が手に入るという──具体的にどんな意味なのかは、これから研究の必要がある」
「来世に地位と財産を引きつげるという文章は?」
「たしかに本には記されていたけれど、とても解釈のしにくい書きかただった。原文にはおおまかに、こんなことが書いてあった。〝旅人が旅路を
「あなたは、どんな意味だと思っているの?」
「わたしはまだ、たしかな根拠のある解釈を思いついていなくて。わたしの説明を聞いたシンクヴァトラ教授が一つの仮説を出してくれた」ビビアンは続ける。「あの人は、この本はおそらく、盤を使った遊びの一つを説明するものだと推測している」
「遊び?」
「あの人の考えでしかないけれど。教授は、この本は駒の一つひとつに物語を書きしるしたようなもので、彼らがなぜ盤の上で殺しあうのかを説明したのだと。盤の上の地形や風景、地名についても詳しく紹介してある。あの信者たちが教義として崇めていた例の言葉も、きっとこんなことを言っているにすぎない──一度の勝負で得られたお金は、次の勝負に持ち越して賭け金とすることができる」
「もし教授の推測どおりなら、あの信者たちの死はさすがに無駄だったというものね」
「どうあがいても無駄な死だったでしょう。この本には竜が現れる、しかも一種類だけではない。ここに記されているのはなにもかも作りごとなの。最近起きたことを考えると、わたしは旧世界のある詩を思い出す。そこにこんな言葉がある──〝彼らはただ恐怖と拷問と殺人を通って、愚行と妄想と錯誤を通って、神へ到ろうとしていた〟」
「いい詩ね、まるで作者本人がすべてを経験したようで」
「もしかすると旧世界でも、わたしたちが経験しているようなことが起きていたのかも。どんな時代であっても、人間は同じような過ちを、同じような悲劇を繰りかえすものだから」
ビビアンが辞去するとき、サラは玄関まで送っていった。
二人は長々と別れを惜しみ、お互いに祝福を送り、サラがヴィティン島から戻ってきたらまた会うことを約束した。
時間は午後で、この自由都市がもっともにぎわうころだった。通りは人でごった返し、ビビアンの後ろ姿はすぐに人ごみのなかに消えてしまった。