空が白みはじめたころ、ひづめと車輪の音が耳に届いてサラは目を醒ました。ベーフェラント家の応援が到着したのだ。サラは湖畔の騎士団の制服に着替えて出迎えた。十数名の騎士はベーフェラント家の紋章を刺繡した長衣に身を包み、銀色のマントをまとって、騎馬姿で家のまえにやってきた。リサ・フェンリルもそのなかにいる。後ろには三台の馬車も従えていた。
騎士たちの到着で、家の居間はひどく狭苦しく見えた。
統率役だった騎士はヴィグディスとリチャードに、女伯爵が二人に作戦指揮の重任をあずけたと伝えた。その命を受けいれた二人は、みなを円卓のまえに集め、ブルーメンベルクの地図をまえにして人員の配置を進めていった。
サラはウーベグレン学院に送られる。〈酔いどれ〉ハーラルが同じ場所に行くことになっていた。
作戦会議はほんの短時間で終わった。料理人のカレンが一同に簡単な朝食を用意していた。食事が終わると、若く威勢のいい騎士たち数人がさっそく命じられた場所に駆けていき、北港のような危険な地域に送られる者たちは全身に鎧を身につけた。サラは出発のまえに、スーの様子を見ていこうと考えた。
物置を開けると、毛布にくるまり、壁にもたれて座るスーが目に入った。
「おはよう、騎士様」
「今日は一日、ここでおとなしくしていること」
「いまから全員出払うの?」スーは言う。「泥棒のあたし一人置いていって、この家を空っぽにされる心配はない?」
「カレンが見ていてくれる。料理人だからといって見くびらないほうがいい。包丁を扱わせたら、腕に覚えのある傭兵だって防ぎきれるとは限らないんだから」
「連れてってください。力になれます」
「わたしたちは本物の戦いに向かうの。こそ泥一人がどんな役に立つの?」
「できることならいっぱいあります。壁を登って敵の様子を偵察したり、それか囲まれたときに外に逃げて知らせたり……あたしより壁登りがうまいやつは、そうすぐには見つからないはずです」
「そこそこは使えそうだけれど。ほんとうに付いてくるの? 身の安全は保証できないのに」
「自分のことは守れる」くるまっていた毛布を脱ぐ。「でなかったら、ここまで生きてこれません」
「なるほど、どうやって自分のことを守るの?」サラはため息をついた。「わたしに付いてきなさい、護身のための武器を選んであげる」
サラはスーを連れて、甲冑に着替えていたヴィグディスに話しかけ、予備の武器はどこに置いてあるか尋ねた。武器をしまってある戸棚を開けると、片方の側面に長剣や刺剣がかかっていて、斧槍もいくつか壁にもたせてあった。しかしこのたぐいの武器がスーに合わないのは明らかだ。もう片方の側面からは木の板が突き出し、そこに盾や短剣が並んでいた。
スーは、精巧な装飾のある短剣を一本手に取った。鞘にはめこまれた何粒かの琥珀は、照らすのが薄明るい朝の光であっても輝いて見えた。
「これがいい?」
スーはうなずく。「すごく金になりそう」
「あなたにはお似合いね」サラは、スーの琥珀色の瞳を見つめて言った。
短剣を腰に差す手伝いをし、サラはスーを連れて居間に行くとひとまず腹にものを入れた。騎士たちはもうほとんどが出発していた。そのうちのだれかは、ここに戻ってこられないかもしれない。
甲冑をまとったリサが、兜を腕に抱いて窓辺に立っている。仲間を待っているらしい。任されているのは裕福な地区の巡回だった。
「狂信者たちはこそこそしないで、早く飛び出してきて死んでほしいものだけど。こんな恰好をして一日中太陽の下にはいたくないもの」サラに話しかける。「学院を任されたのはほんとうにうらやましい。もしいつまでも敵が現れなかったら、書庫の本を何冊かみつくろって暇をつぶせるぐらい暇になるでしょう」
「敵はきっと現れる。あなどらないほうがいいと思う」
「リチャードの話だと、昨夜治安官が名簿をもとに何人も逮捕したっていうでしょう。計画が明るみに出ているのに、連中はわざわざ危ない道を選ぶと思う?」
「信者たちは死を恐れていないの」サラは答えた。「今日死ぬことはすでに決めていて、目標は死ぬまでにとにかく財産をかき集めて、来世に持っていくことだけ。全身武装で立っているあなたを見たら、この一団は恐れるどころか、その甲冑をわがものにすることしか考えないでしょうね」
そこに、鎧を着こんだヴィグディスが廊下を下りてきて、リサに〝出発しましょう〟と声をかけた。出ていくまぎわ、身の安全に気をつけるようサラに言うのも忘れなかった。
サラは、居間のすみで寝たふりをしている〈酔いどれ〉ハーラルのところに歩いていく。足音を聞きつけたのか、ハーラルが目を開けた。
彼はもともと船住みの傭兵だった。女伯爵が諸島を訪れたとき海賊の襲撃に遭い、双方が甲板の上で乱闘になった。ハーラルが身一つで敵船に乗りうつり、船長を斬り殺した結果、頭領を失った海賊たちはたちまち総崩れになり、騎士たちと傭兵の側は最小限の犠牲で勝利を収めたのだった。ベーフェラント家の領地に戻ってくると、女伯爵は彼の功績を称え、そして騎士に封じた。騎士になってからも、ハーラルは傭兵のころの習慣を改めず、酒に酔っていない日はなかった。傭兵たちが比較の相手ならそこまで多く飲むわけでもなかったが、騎士からすればそれでも酒びたりのうちであり、そこから〈酔いどれ〉のあだ名がついたのだった。
「昨日、やつらに捕まったんだってな」
「うっかり油断して、待ち伏せにやられたの。今日は用心する」
「今日おれたちはのんびり待って、向こうから来てくれるのを迎え討つんだ。用心して気を配ることなんてない、ばっさりやればそれで終わりだ」そう言いながら、サラの横にいるスーに視線を向ける。「こいつも連れていくつもりか?」
「この子は壁登りが得意なの。もし包囲されたら、外にその知らせを届けられる」
「そんなのが心配か。ほんとうに包囲されたら、おれがこの剣で裂け目を作ってやる」ハーラルは立ちあがり、壁に立てかけてあった両手剣を持ちあげて肩にかつぎあげると、スーのまえにやってきて、その小さい頭を軽く叩いた。「運がよかったな、こそ泥さんよ。サラに出会えたとはな。しっかり近くにいろよ、これから伯爵夫人になるっていうんだから」
「伯爵夫人?」スーは半信半疑の様子でサラを見る。
「たしかにわたしは、ベーフェラント家の後継ぎと婚約しているけど」サラは肩をすくめた。「だけれどいまのわたしは、なんの変哲もないただの騎士」
「ほんとに、なんにも教えてくれないんだから」スーは言う。「何日かして、自分は変装して街を見に来たアーシュラ王女本人だって言われても、信じると思います」
ウーベグレン学院に向かう途中でも、ハーラルは忘れずサラをからかってきたが、かえって緊張はほぐれた。これからなにに立ちむかうことになるかは、だれにも予想できないのだ。
財産を奪いとろうとしている信者たちにとって、学院の優先順位は低いはずだ。大図書館が所蔵している旧世界文献は、その道の人間にとっての価値ははかり知れないが、どこの馬の骨とも知れない連中にもそれがわかるとはかぎらない。サラとハーラルの二人しか送りこまれていないことも、ヴィグディスとリチャードがここを厳重に守るべき場所と考えていないのを裏づけている。
しかし戦いにあたっては、なにがあろうとあまり楽観的に考えないほうがいい。
クララの死を思い出さずにはいられなかった。当時自分たちはほとんど勝利を手にしていて、クララも全身に鎧をまとっていたのに、素人の一撃によってまだ若い命を散らした。一万分の一の確率しかなかったとしても、不幸というのは現実になるものだ。騎士たる身、どれだけ他愛ない任務をまえにしても、最悪の場合に向け心の準備をしておいたほうがいい。
もしあの信者たちを裏で動かす輩に、たまたま来世で蔵書家になろうとする者がいたら、わたしたちは激戦に巻きこまれることになる──サラの頭にそう考えが浮かんだが、口には出さなかった。
学院にやってくると、多くはない番兵たちは大図書館の正面入口のまえに集められており、戦闘訓練を受けた教員と学生たちが武器を手に、番兵のうしろに立っているのが目に入った。数はあわせて二十数名にもならない。実際に戦闘になったら、彼らがなにかの役に立つことはあまりなさそうだと、サラは心得ていた。もしウーベグレンの学生がスズリ学院の学生のように決闘に熱を上げていたなら、わざわざそれを守りに来なくてもよかった──ふとそんな考えが浮かんだ。
直後、サラの目が
ビビアンもサラの姿に気づき、歩きよってくる。
「執政官から報せを受けたあと、人手はすべて大図書館に集めてある」ビビアンは言う。「もし敵が攻めてきたら、入口を固く閉ざして救援を待つ。とはいっても向こうの目標は財産だから、なかの莫大な価値の蔵書を焼かれないための用心は無用のはず」
「安心して、ここは向こうが重点的に攻める標的にはならないから」
「だといいけれど。歴史上、ブルーメンベルクは何回か海賊に侵入されているけれど、大ノルン諸島からの招かれざる客たちは、図書館から略奪したことはないの」
「もし今日、大人数の暴徒が攻めてくるようなことになったら、あなたは仲間と図書館に逃げこんで入口を閉ざして。わたしとハーラルが突破して応援を呼んでくる」サラはそう言い、そばにいたスーを指さした。「この子は壁や屋根もかるがる上る腕があるの、もしわたしとハーラルが倒れたら、この子も助けを呼ぶことができる」
「ふたりとも、倒れるはずはない」ビビアンは言う。「この子、手伝いに雇ってきたの?」
「いえ、昨日わたしがたまたま捕まえた、ただのこそ泥」
そこに、灰色のローブをまとい、杖を突いている老人が図書館の入口に現れ、近くの人々がそろって礼を送っていた。背中は曲がり、しなびた顔つきで、髪はほとんど抜けおちている。老人はサラにまっすぐ向かってきた。
「こちらは評議会のシンクヴァトラ教授」ビビアンがサラに近寄って耳打ちした。
それを聞いて、サラも老人に礼を送る。老人の目元が
「ベーフェラント家の騎士よ、参着に評議会を代表して感謝を申しあげる」
「市民を守るのはこちらの責務です」
「今日騒ぎを起こす暴徒は〈七短剣の聖女〉の信者たちだと聞いたが」
「そのとおりですが」
「その名前には見覚えがあるのだ」シンクヴァトラ教授は続ける。「書庫のどこかの本でな。昨夜ドランゲイから報せを受けて、ふと思い出したのだ。美しい挿絵の入った旧世界文献だったと記憶している。昨夜一晩じゅう書庫を探してみても見つからなかったが、何者かが持ち出したのかもしれぬ」
「いつその本をご覧になったのでしょう?」
「四、五十年まえだな。まだロッペルスム嬢と同じ、員数外の講師だったときだ。お恥ずかしい話だが、この歳になると、一分まえになにを話したかすら忘れてしまうのに、数十年まえの記憶にかぎって
「その本に彼らの教義が書かれていたのですか?」
「教義らしいものが書かれていた記憶はないな、覚えているかぎりでは、なにかの物語と、土地の事物や気風について記されているだけだった。そこからなにか教義を読みとった者がいたのかもしれぬがな。そなたら海の民の教義が、もとから第八聖典に記されていたのではなく、代々の祭司がたえず充実させていったのと同じだ、増築を続ける砦のようにな。すまない、そちらの信仰につい失礼を言ってしまった。そうではなく、教義をたえず発展させていった賢者たちには感服しているし、いまここまで高くそびえたつ砦には恐れ入るのだがね」
「われわれが首謀者を捕らえたら、その本も取りもどせるでしょう」
「もし本に大図書館の印が押されていたら、ここに送りとどけてはくれないか」教授は言う。「邪心による読みこみで、それは危険な書物に変わってしまっているのだ。ここで保管するのがなにより安全だ」
シンクヴァトラ教授が立ちさってすこししたころ、サラたちは第一陣の攻撃に遭遇した──〝攻撃〟となど言ってはあまりに向こうに甘いというものだろう。襲ってきたのはだらしない身なりの
図書館のまえに武器を持った一団がいるのを目にし、侵入者たちは自分たちの不利を悟って、慌てて引きかえそうとした。ハーラルが両手剣を抜いてあとを追い、二人を斬り伏せ、あと一人、おびえてへたりこんだところを生け捕りにした。
ひとしきり問いつめてわかったが、やってきた面々はすでにイーヴァルディ通りを襲ってきていた。
まもなく、市街の各所から突撃の
「イーヴァルディ通りのほうは、治安軍と聖女の信者がぶつかってます──信者のほうが人数は勝ってるけど、武器の長さが足りなくて、治安官のほうの斧槍兵が押しかえしてるところ──三つめの軍勢が入ってきました。鎧を着て、上に赤いマントを羽織ってる、たぶんタイリンヘン家の部隊です──信者は前後から挟みうちで、潰される寸前です」
「市庁舎広場のほうは?」
「治安軍とベーフェラント家の騎士が、敵の軍団の相手をしてます──向こうにも治安軍の制服を着てるのがけっこういて、先頭にいるのは白い服を着てる女──また信者がひとかたまり広場に来ました、同じ制服は着てなくて、さっき学院のほうまで来たやつらみたい──新しく来たやつらはすぐに散り散りになってる──治安軍からの裏切り者のほうも、しんがりにすこしだけ残して、ほかは退却しようとしてます」
「撤退はどの方向に?」
「方向は……」間があって、ふたたび上からスーの声が響いた。「あたしたちのいるほうに向かってます」
それを聞いたハーラルが数歩進み出て、血にまみれた両手剣を地面に突きたてた。「いいぞ、かかってこい」
一同を率いているのは背の高い黒髪の女で、三十歳ごろに見える。右手には華麗な装飾のある刺剣を握り、左手には牛革を張った盾を持って、腰には
ビビアンはその顔に見覚えがあった。「あなたは……第七治安官のナイメーヘン様?」
「どきなさい!」答えはなかったが、否定されるでもなかった。「死にたくないのなら道を空けて、全員を図書館から外に出すことね。あなたたちを傷つけないことは約束する」
ナイメーヘンはいま、大図書館を名目上占領してから自殺することだけを考えているのだとサラは知っていた。しかしその願いも、かなえられることはない。
答えがないのを見ると、ナイメーヘンの号令とともに斧槍を手にした治安軍たちが飛びこんでくる。ハーラルが一声気合をかけて剣を振りおろし、斧槍が二本斬りとばされた。なかでも度胸のある一人の兵士は、柄だけになった斧槍を捨てて腰元の剣を抜き、ハーラルに斬りかかる。今度斬りとばされたのは、血にまみれたその首だった。
その光景を見たほかの人間はしりごみして足を踏み出せず、円弧型の陣形に広がってにらみあうばかりだった。
配下がハーラルとやりあっているあいだに、ナイメーヘンはサラに向かってきた。右手の刺剣は頭の上まで持ちあげてサラにまっすぐ狙いをつけ、左手は盾を掲げ、目のすぐ横に構えている。
サラは長剣を抜いて応戦にかかった。
長さではナイメーヘンの刺剣が有利に立っている。すぐさま右足を踏み出しての一突きがやってきて、サラは身をひねってかわした。相手はもう二度突きを繰り出し、狙いはどちらもサラの眉間に定められていた。サラは軽く身をかがめて攻撃を避けるほかない。しかしナイメーヘンからの攻めはここで終わらず、突きのつぎには薙ぎはらうように刺剣が襲ってきた。サラは剣を持ちあげて防ぐ。ひたすらに願ったのは刺剣が鈍い音とともに二つに折れることだったが、気づくと相手はほとんど力をこめておらず、刺剣が軽く弾かれたつぎの瞬間にはまた突きに移っていた。サラはすばやく身をひねってどうにか避けたが、そのせいであやうく平衡を崩して地面に倒れこむところだった。
ここまで続いた動きでナイメーヘンはかなり体力を消耗していて、水をも漏らさぬ防御の構えを取りながらも、何度か荒い息をついていた。
サラには相手の隙が見つけられない。つぎに攻撃してくるのを待って、反撃の機をうかがうしかない。
数秒間の対峙のあと、ナイメーヘンがふたたび攻撃を始めるまえの構えに移り、サラも内心すばやく対策を固めた──ナイメーヘンがこちらに踏みこんでくるとともに、自分は腰をかがめて突きの攻撃をかわし、同時に相手の右足へ横薙ぎに斬りかかろうという考えだ。
しかし、ナイメーヘンが繰り出したのはさきほどのような突きではなかった。一瞬にして腕が持ちあがり、サラの頭上に向けて剣を振りおろしてくる。
予測を誤ったサラは、相手が足を踏み出した瞬間かすかに腰をかがめていた。幸い、相手の腕の動作に気づくのが間に合って、左に身体を傾けながら剣で防ぎ、この一撃をかわすことはできたが、その結果体勢が崩れ、地面に転がった。
ナイメーヘンが有利に立ったのを見て、もとはその後ろに立っていた治安軍たちがつぎつぎと動きだし、交戦中の二人を通りすぎて、学院の番兵や学生たちに攻撃を仕掛けようとしていた。ハーラルはサラの名前を叫びながら両手剣を全力で振りまわし、自分を囲む治安軍を一歩また一歩と下がらせて、すこしずつサラのほうに近づいていったが、それでも距離はかなり離れたままだ。
サラはすばやく身体を起こし、肩の痛みをこらえながら左手で短剣を抜き、ナイメーヘンが剣を振るう先手を取って、全力をこめ短剣を投げつけた。これはエルザから教わった技で、不面目ではあるが、ここぞというときに命を守ってくれる。
ナイメーヘンも即座に反応して、自分に向かって飛んできた短剣を盾で弾きかえした。サラもその隙に体勢を整えていたが、それでも立ち上がるまでの時間はなかった。ナイメーヘンの握る剣が振りおろされようとしている。
そのとき、一本の短剣がサラの頭越しにナイメーヘンに飛んでいった。
琥珀を埋めこんだ、高速で回転するその短剣は刺剣の鍔に当たる。弾かれたあとナイメーヘンの耳元をかすめていき、右耳に傷を作り、髪をいく筋か斬りとばしていく。
その一瞬、サラはナイメーヘンの隙を目の当たりにしていた。しかし騎士の誇りゆえにその機会を狙って攻めることはできず、立ちあがって一歩あとじさった。
さきほどまで屋根の上で状況を観察していたスーだったが、サラのそばにその姿を現していた。
「あなた、何者?」ナイメーヘンが訊く。右耳から鮮血が流れ出し、肩にしたたり落ちる。
「行いを改めたい、ただのこそ泥だけど」スーが答える。
「ベーフェラント家の騎士、王女の使者が、こそ泥からの助太刀を必要とするとはね」
「あなたとわたし、一対一の試合だったら当然、他人の助けを受けてはいけないでしょう。逆賊を押し止め、反乱を討伐する戦いなら、そんなことまで気にするいわれはない」サラは言う。「スー、力を貸してくれてありがとう。いまは下がっていなさい、彼女にどう立ちむかえばいいかはもうわかったから」
ナイメーヘンはまたしても攻撃の構えをとり、すぐさま攻めかかった。
しかし今回、サラは身体を横にして避けることはなく、剣を上げて防ぐでもなく、身をかがめると右足で力いっぱい地面を蹴り、まえに突進したその勢いで下から長剣を振りあげた。
この一撃が狙うさきは、相手の死角になっている──突きにしろ斬りかかるにしろ、ナイメーヘンはすばやく腕を下に下ろして攻撃はできないのだ。高く構えた盾も、腰から下を守るのには向いていない。
剣は
一瞬にして局面が入れかわった。ここまでナイメーヘンに従ってきた敗残兵はこの光景をまえに、あちこちできびすを返して逃げ出すが、ハーラルに斬り伏せられた者も何人かいた。膝の下に深手を負ったナイメーヘンは、自分の力だけでは立ちあがれないはずだ。背筋を伸ばし、刺剣と盾をほうり出し、痛みに顔をゆがめて、喘ぐ息も重苦しく、澄んだ響きはなくなっている。
「いま投降すれば、死は免れられるもの?」ナイメーヘンが尋ねた。
「あなたは第七治安官として、治安軍の風紀の監督を任されていると聞きます」サラは言った。「もしほかの治安官が兵を連れて反乱を起こし、あなたに捕らえられたら、あなたたちの軍法で手心が加わることはありえますか?」
それを聞いてナイメーヘンは笑った。自嘲と絶望に満ちた笑い声だった。
「いまわたしは、なにもかも失った。ドランゲイはわたしたちの任務を解いて、財産を没収する命令を出している。あの
「それも、あなたの自業自得ではありませんか?」
「ヴェストマンがわたしたちを売ったの?」
「あの男は昨夜死にました。あなたよりはすこし運が良くて、第三治安官の地位のまま死にましたが」
「ここまで来たら、このさき聖女を信じていたとしても、来世にはなにも持っていけないでしょうね」
「それなら最後の機会を逃さずに、充分にコールガに懺悔して、許しを請うことです」
サラとスーは短剣を拾いあげ、ハーラルはナイメーヘンの武器を拾っていった。すこしして、ロザリンに率いられた治安軍の小部隊が学院に現れた。さきほど学院に闖入してきた敗残兵たちほど見苦しくはないが、鎧は多かれ少なかれ血で汚れ、または武器がかすめていった痕を残していた。
「遅くなって申し訳ないわ」ロザリンは理由を説明しなかった。その身を汚す血を見れば、ここまでの途上で抵抗に遭い手間取ったことは容易に想像できた。「死傷者はいないでしょう?」
「こちらは全員無事」サラは言った。「相手は損害があるけれど」
地面に座りこんだナイメーヘンに視線を向けた。「かなりひどい傷のようね」
「それでも、三十数名が逃げていったの」
「その連中は南港のほうに向かって、第五治安官のシュターデがもう部下を連れて追っているわ。向こうはベーフェラント家の騎士も守っているし。もう逃げ道はなくなっている」ロザリンは言った。「市街の反乱はおおむね収まっているわ、鋳造所のほうの戦いがどうなっているかだけはわからないけれど」
「派遣の命令が出たら、いますぐにでも従うから」
「あなたがナイメーヘンを倒したの?」
「わたしが」サラはそばにいたスーのことを指さす。「そこの泥棒も手を貸してくれた」
「反逆者の第七治安官を捕らえたことは、ドランゲイに知らせておいたほうがいいわ。トルン嬢、わたしと市庁舎に行きましょう。しばらくはわたしの部下がここを守っておく」そしてスーのほうを向く。「あなたも付いてきて」
ロザリンは丸腰になったナイメーヘンを立たせ、足を引きずる彼女に手を貸して市庁舎に向かった。サラとスーはそのあとを付いていく。
市庁舎に到着すると、番兵は二階にある執政官の執務室に一同を通した。
現れたドランゲイは身だしなみは整えていたが、表情は疲れきっている。彼がまえにしている巨大な机には、ハウビャルト島も含んだブルーメンベルクの地図が広げられていた。
近くには手を縛られたグウィネスが座り、その横には兵士が立っている。ナイメーヘンはグウィネスの姿を見た瞬間に鼻を鳴らし、〝あなただったの〟と一言言った。グウィネスはうつむいて、彼女の視線を避けた。ことの次第を聞いたドランゲイは、裁きのときまでナイメーヘンを収監するように命じ、サラにはどんな褒賞が欲しいかと尋ねた。
「湖畔の騎士団の決めごとでは、許可を得ずにわたしが外からの褒賞を受けることはできません」サラは言った。「この功労はゲーゼ嬢のものとしてください。昨夜わたしの命を救ってくれなかったら、わたしは治安局の地下室でいたぶられ、死んでいたのですから」
「かまわない」ドランゲイは答える。「さきほど報告があったが、鋳造所の戦況が膠着状態に入っている。敵の人数が想像より多い。監獄でも暴動が起きている。ゲーゼ治安官候補、シュターデが戻ってきたら連れだってハウビャルト島の支援に行ってくれ」
しかし第五治安官シュターデが現れるよりもまえに、一同は悪い知らせを耳にすることになった。
ベーフェラント家の紋章が入った服を着た若者が、息を切らして執務室に飛びこんできた。サラはその顔に見覚えがあった。リサと同時に騎士に封じられたレイフ・トロンデラーグだ。
「ロッペルスム家の屋敷を信者の一団が占領して、家族を人質に、身代金を用意しろと言っています」そう言って、しわの寄った羊皮紙をドランゲイに渡すと、苦りきった顔でサラのほうに目をやってきた。「信者たちはほかにも追加の条件を付けてきて……」
紙に目を通したドランゲイは鼻を鳴らし、〝死にぎわまで交渉するつもりか〟と口にした。
「身代金はいくら求められているの?」ロザリンが尋ねた。
「二十万デナリ。すべて金貨にしろとの要求で──つまり金貨二千枚を、二時間のうちに用意して持ってこいと。これは難しい話じゃありません」
「結局は死ぬまえに金を稼いでおきたいだけなのだから、向こうが自殺すれば、そのお金は戻ってくるでしょう」サラは言った。「それが追加の条件とかいうもの?」
「いや、それだけではない」そう言って、ドランゲイは紙をサラに渡した。「もう一つの追加の条件は、自分たちの指定した人間が金を持ってくることだ」
脅迫状に目を落とすと、最後の一行に相手が要求する人選が記されているのが目に入った──計画を漏らした密告者、そして湖畔の騎士団の団員サラ・トルン。
読みおえたサラは、脅迫状をロザリンに渡す。
「連中は死にぎわに金を手にするだけではなくて、もくろみを台無しにした人間を殺して、うさ晴らしをしたいようですね」
「人質を助けるほかの手段を考えるから。あなたを危険にさらすわけにはいかない」ロザリンが言う。
「ロッペルスム家は王女の協力者の一つで、その養女はわたしの友人です。見過ごすわけにはいきません、多少の危険なら犯す意味はある」サラは言って、近くに座っているグウィネスに視線を向けた。「ただ、この〝密告者〟に協力する気があるかどうか」
「協力? 手柄で埋め合わせをする機会をくれるつもりなの、それとも死にに行かせようとしているの」
「その両方」サラは言う。「私に付いて同志に身代金を届けに行くつもりはある?」
「選べるのなら、自ら危険に飛びこむようなそんな真似をする人はいない」そう言いながら、グウィネスは縛られた両手を持ちあげる。「だけれど、いまのわたしには選びようがない。あなたに従って遣わされるしかない」
「トルン嬢、ほんとうに身代金を運ぶつもりなのか」ドランゲイが訊いた。
「ご安心ください、充分に備えをしていけば、連中がわたしたちを傷つけることはありません」
「それならロザリンに協力してもらおう、なにか必要があったらなんでも伝えてくれ」
一行は市庁舎を出て、市街西部の裕福な区域に早足で向かった。通りに通行人はほとんどおらず、家々の窓も閉ざされている。あちこちで巡回中の騎士や治安軍の兵士に出会い、まだ運び出されていない死体が街角に積みあげられているのも目に入った。
ロッペルスム家の屋敷は、昨晩サラが潜入したグリンケル家よりもずっと大きく、塀もさらに高い。鎧に身を包んだリサとヴィグディスが、数名の治安軍の兵士とともに閉ざされた門のまえに立っていた。
二人にロザリンのことを紹介したあと、サラは尋ねた。
「人質は無事?」
「こちらの要求で、向こうはロッペルスム夫妻に短い手紙を書かせて、さっき石をくるんで外に投げ落としてきたの」ヴィグディスは手にしていたしわの寄った羊皮紙二枚を持ちあげ、サラに見せた。「学院のビビアンを呼びに行かせてある、筆跡が本物か判断できるから」
「向こうの人数は何名くらいなの? 人質は何名?」
「ロッペルスム家は使用人と番兵を入れてぜんぶで十四人、殺された人間がいるかはわからない。敵の人数はまだ確認できていないわ」
そこにスーが口を開いた。「わたしが様子を探りに行ってきます」
「あなたがすばしっこいこそ泥だといっても、陽の光のあるうちに偵察に行くのは危険すぎるわ」ヴィグディスが返した。
「まえに北港ですりをやってたときは、陽の光のあるとこで人の財布を抜きとるのだってありましたよ。泥棒稼業は昼夜おかまいなしなんです」
「だったら、くれぐれも気をつけて」サラが言った。「もし向こうに見つかったら、あなただけではなくて、人質も危険なことになる」
「用心します」
そう言ってスーは屋敷の西の塀に向かい、すばやくよじのぼって、塀の上にうずくまりしばらくあたりを見回したあと、身を躍らせ塀の向こうに姿を消した。どこに飛びおりたかはサラには見えず、おそらく建物の屋根に下りたのだろうと推測するしかない。
「まったく、なかなか手に入らない戦力を見つけてきたものね」リサが言い、両手を縛られているグウィネスにその視線を向ける。「この人が、向こうが連れてくるように求めてきた密告者なの?」
「第三治安官の手下で、自分の身のために計画を差し出したの」
「密告者一人の命と引きかえにロッペルスム一家が戻ってくるなら上出来ね。さらに金貨二千枚を足さないといけないのは気になるけど……」
「それに、わたしの命も」
「そうなると、引き合わなくなってくるわ」
スーが屋敷を探っているあいだに、ビビアンも戦鎌を手に駆けつけてきた。どうやら、家に押し入った賊と死にものぐるいの戦いを演じるつもりだったらしい。二枚の手紙の文字は両親自身が書いたものだと確認する。相手の要求を知ると、ビビアンもサラにほかの手を考えるよう諭してきた。心配はいらない、きっとビビアンの家族を助けて無事に帰ってこられるとサラは答えた。
しばらくすると、塀を乗りこえてスーが戻ってきた。
「人質は西のほうの倉庫に閉じこめられてます。小窓から覗いたら、なかに十何人かいて、みんな縛られてます。倉庫のまえを見張ってるのは二人です。庭には死体がいくつかあって、全員番兵の服でした。門の向こうは信者が二人で守ってて、母屋の玄関に三人が立ってます──一人が甲冑を着てて、のこりは傭兵の恰好。母屋にほかに何人いるのかは確かめてないけど、祭司の恰好をしてる女が窓から見えました」
「倉庫と、門の向こうを固めている人間は鎧を着ていないんでしょう?」
「そう。庭で鎧を着てるのは一人だけです」
「そういうことなら、わたしに一つ案がある。ただし、治安軍の協力が必要だけれど」サラは言った。
「必要なことがあったらなんでも言って」ロザリンが答えた。「ただ、いまは鋳造所の支援に大勢送っていて、市街で動かせる治安軍の数には限りがあるわ」
「
「塀の上に弩兵を上げて、なかの人間を射させようってこと?」
サラはうなずいた。「わたしとグウィネスが身代金を届けに入っていくときには、弩兵が準備を済ませておく。もし向こうに人質を解放する気がなくて、反対にわたしたちが入っていったら門を閉めた場合、弩兵に射撃の指示を出す。倉庫のまえで番をしている人間を倒すのが優先ね、人質が傷つけられないように。うまくいけば、門の向こうを守っている人間もそのまま倒すことができる。そのあとは安心して攻めこめるでしょう」
「たしかにいい考えだけれど、あなたの身の安全はどうやって確保するの?」
「わたしの身はわたしが守る。すぐに攻めこめれば、わたしもグウィネスも危険はない」そう言って、サラは短剣を抜き、グウィネスの両手を縛っていた縄を切った。「そのときはわたしが敵を足止めするから、門のかんぬきを開けにいって」
「弩兵が矢を外したら、門の内側の敵はわたしが相手しないといけない。武器を渡してくれたほうがいいはず」
それを聞いて、ロザリンは斧槍を持っていた兵士を呼びとめ、腰に差していた剣をグウィネスに渡した。
ロザリンはすぐに六人の弩兵を集めてきて、はしごの準備も済ませた。まもなくドランゲイの使いも身代金を届けてきた。二千枚の金貨を四つの麻袋に入れ、手押し車に載せてある。サラが試しに何歩か動かしてみるとすこし力は要ったものの、グウィネスと二人で押せばずっと楽になった。
準備万端整うと、サラはグウィネスから姓を聞き出し、門のまえに立って、なかの人間に大声で呼びかけた。
「身代金は申し入れどおり用意してある。このわたし──湖畔の騎士団のサラ・トルン──と、あなたたちを裏切ったグウィネス・ヘイランネが二人で運びいれる。門を開けなさい!」
門はすぐには開かなかったが、サラはそう長く待つこともなかった。左右両開きの白い門の片方が開けられる。サラはなかに視線を送った。視界の奥に、薄青色に塗られた母屋が現れる。入口前には甲冑を着こみ、竿と鉄球をつないだ連枷を手にした姿があり、その左右に一人ずつ傭兵の恰好をした人物が立っている。
サラとグウィネスは、金貨を積みこんだ押し車を進め、門のなかに入っていく。
サラが予想したとおり、車を押して庭に入ったとたん、数歩も進まないうちに背後の門がばたんと音を立てて閉じられた。
背後に目を走らせると、傭兵の恰好をした二人が、塀に沿って積みあげていた戸棚や箱といったあれこれをそっくりそのまま押し出し、門をふさいでいた。
この情景を見たサラは、短剣を抜くと麻袋の一つを切り裂き、入っていた金貨が砂時計の砂のように流れ出し、地面に落ちていくにまかせた。
「目当ての身代金は持ってきた。どう、解放するつもりはある?」
「残念だ」全身に鎧をまとった男が言う。鉄兜ごしに聞こえる声はくぐもり、しわがれていた。左右に立つ傭兵よりもずっと背が高く、熊のように屈強な身体つきだった。「おまえたちが板金鎧を着て死にに来ていたらよかったが。もう一稼ぎができた」
「わたしたちは人を助けに来たの。死にに来たわけではない」
「金は届いた。こちらの目論見を潰した人間ものこのことやってきた。人質を残しておく意味はない」男は、倉庫のまえを守っている傭兵二人に向けて命じた。「やれ」
このときサラは、その傭兵二人はグリンケル家の配下で、昨晩通りで自分とスーを追っていた輩のなかに彼女たちがいたことに気づいた。
一人がドアに手を伸ばし、もう一人が鞘から剣を抜く。
そのとき、ドアを開けようとしていた一人の背中に矢が突き立った。矢が飛んできた方向をもう一人が振りかえると、弩兵はとうに東側の壁に上がっていた。慌てて左手を伸ばしドアの取っ手を握って、倉庫のなかに身を隠そうとしたが、そこをすかさず二本の矢が襲う。一本は太ももを射貫き、もう一本は首に命中していた。
母屋のまえに立っていた傭兵二人はたちまち慌てふためき、建物のなかに引っ込もうとしたが、甲冑姿の大男がどなりつけた。
「何を恐れている、聖女がわれわれをお守りくださるぞ!」
それを聞いた二人は、すぐに向きなおり、サラたちのいる方向に突撃してくる。死はまぬがれないと悟って、この機に〝儀式〟を終えてしまおうということらしい。
一人は駆けてくる途中で矢に胸を射貫かれて倒れ、もう一人はサラに迫ってきた。
一方、正門近くの傭兵二人は片方が矢に倒され、残りの一人がグウィネスと戦いを始めていた。
サラやグウィネスを傷つけてしまわないためだろうか、弩兵はそろって甲冑姿の大男に矢を放った。板金鎧はかなり頑丈で、命中した矢もかすかなへこみを作るだけだった。男も、手にした連枷を振りまわしながらサラたちめがけ駆けてくる。サラはうまいことに、目のまえの傭兵の隙を即座に見定め、一振りで片付けてみせ、二人を相手にする難局は避けることができた。
正門のほうからは鈍い音が何度も響いているが、門が破られるまではもうすこし時間がかかる。
大男は同朋の死体を蹴りとばし、とげを一面に埋めこんだ鉄球でサラの顔に殴りかかってくる。身体を横にしてかわし、姿勢を立てなおすよりも早く、鉄球はあっという間に方向を変えふたたびサラに向かってきた。
これにはサラは避けきれず、剣を振りかざして受けとめるしかなかった。刃をかすめ、下に落ちていく鉄球によって、鎖が剣にぐるりと巻きついた。相手は連枷を自分のほうに引きもどし、剣を握りしめるサラも前方に引きずられていく。
運よく、早いうちに剣を抜きとることができ、転倒することはなかった。
この時機を逃さずサラは前方に突っこみ、左手を相手の左肩に当て、足払いをかけた。とはいえ、甲冑に包まれた巨大な体軀はしょせん簡単に揺るがせるものではなく、相手は後ろに一歩よろけただけだった。
サラは慌てて左足を下げ、踏みつけられるのを避けた。
向きなおった相手は横薙ぎに武器を振りまわし、サラは右の地面に身体を投げ出すほかない。直後、鉄球も地面に叩きつけられる。サラは地面を二度転がってどうにか避けた。
もしもう一度鉄球が振りおろされたら、どうやっても避けることはできないはず──
しかし、金属がぶつかりあう甲高い音が男の攻勢を止めた。自分の敵を蹴倒してきたグウィネスが剣を両手で握り、重たい剣の柄を甲冑の首の後ろに叩きこんだ音だった。
この一撃の勢いに男は一度よろけたが、しかし身を翻し、グウィネスを横殴りにしようとする。グウィネスは手にした剣をほうり出し、前方に身体を投げ出して、男の右足に抱きついた。サラも機を逃さずに飛びかかって、同じ方策を選んで、剣の柄に力をこめ相手の兜に叩きつけた。
そうして二人は、甲冑姿の大男を協力して押し倒し、その勢いのままサラは馬乗りになった。
そのとき、グウィネスに蹴り倒されていた傭兵が立ちあがり、剣を振りまわし斬りかかってくる。サラは慌てて〝うしろ!〟と声を張りあげた。
グウィネスはほとんど本能的に身体をよじってその一撃を避け、それから向きなおり、奇襲を仕掛けてきた敵と向きあう。しかし、地面にほうり投げた剣は相手によってがっちりと踏みつけられていた。
地面に倒れた大男ももがきつづけ、サラ一人の力ではとうてい押さえつけていられなくなる。サラは、自分の長剣をグウィネスに投げて渡し、短剣を抜くと、腕甲と籠手のあいだの隙間に突き刺した。
男が悲鳴を上げるとともに、握りしめていた連枷の柄も手から離れる。
それと同時に、グウィネスはサラが放った剣をかがんで拾いあげ、斬撃を一度受けとめ、相手の喉に剣を突きたてていた。
大男はなおもあがきつづけ、サラを撥ねとばそうとしている。短剣を抜き面甲に突き刺そうとしたが、腕甲と籠手の隙間にはまりこみ、すぐには抜くことができない。
せっぱつまったサラは、さきほど危うく自分の命を奪うところだった連枷を拾いあげ、鎖を両手で握りしめて、とげを埋めた鉄球を相手の兜に叩きつけた。
鉄球は四度振りおろし、一度ごとにさらに力がこもった。兜は完全にへこみができ、甲冑のなかからはなんの動きも返ってこなくなる。
連枷をほうり出すと、サラの右手は震え、言うことを聞かなくなりかけていた。グウィネスの手を借りて立ちあがり、剣を受けとる。二人は正門までやってきて、門を破るのをいちど止めるよう外に声をかけて、二人で力を合わせいちばん邪魔になっている戸棚をどかし、門の片側を開けた。
真っ先に庭に入ってきたロザリンに、サラは状況を報告する。
「人質は倉庫に、まだ無事かどうかは確認できていない。母屋からはだれも出てこない。庭の信者は全員死んだ」
「あなたたちのけがは?」
「どこも。グウィネスが助けてくれたおかげ」
「あとはわたしたちに任せて」
サラの右手はいまもひとりでに震えて、しかもうっすらと痛み、この状態では自分は戦いの場に戻れないとわかった。ゆえにサラはうなずき、グウィネスを連れてロッペルスム家の敷地を出た。向こうではスーとビビアンが待っていて、彼女たちが何言も交わさないうちに、二人の治安軍の兵士が解放された人質を連れて庭のほうから歩いてきた。ビビアンはすぐに斧槍を置いて出迎え、養父母と抱きあった。
サラの姿を見たロッペルスム夫妻はさほど意外に思うような気配もなく、〝トルン嬢はきっと助けに来てくれると信じていました〟と話していた。
すこしまえ剣を貸してくれた兵士が門番をしているのに気づき、グウィネスは武器を返した。その光景を見て、サラは自分の短剣が大男の手に刺さったままなのを思い出した。いま自分の右手は力が入らないので、あとでヴィグディスに代わりに抜いてもらうしかない。
「あのときは、助けてくれてありがとう」サラは、グウィネスに向かい言った。
「トルン嬢、昨夜わたしは、あなたを殺すところだった」そう答えがある。「わたしがこの命をつないだのもあなたのおかげ。もし昨夜、あなたが諭してくれなかったら、わたしは身のほどもわきまえずに剣を抜いて、〈孔雀の羽根〉ロザリンに戦いを挑んでいた」
「いまはあなたもかなりの戦功を挙げたのだから、寛大な扱いをしてもらえるでしょう」
「だといいけれど」グウィネスは返す。「もし選ぶのだったら、ヴィティン島に流してほしい」
「どうしてあんな危険な場所に? あそこは海賊に立ちむかう前線なのに」
「危険な場所であるほど、這いあがる機会はあるから。わたしは剣術のほかにはなにもできないから、長所を見せられる場所に行くのが望ましいに決まっている。それに、たしかヴィティン島の要塞の指揮官はべーフェラント家の若息子で、ベーフェラント家の領地で生まれた騎士のあなたを助けたのだから、悪いようにはされないはず」
サラは、ウィルヘイムが自分の婚約者であることも、自分を指導した先輩がやはりそこにいることも言わずに、〝もしあそこに流されることに決まったら、わたしからウィルヘイムにうまく言っておく〟とだけ口にした。
救出作戦の後始末はあっけなく終わった。ロザリンが治安軍を連れて母屋に突入したときには、なかに隠れていた人間はほとんどが自殺していた。剣を抜いて抵抗してきた信者も、求めるのは死だけだった。治安軍はつぎつぎと死体をかつぎ出し、いずれ運び出すため路上に置いている。
死体のなかには華麗な服の女がいて、サラはそれが騎士団の連絡役、マリッタ・エスターだと気づいた。この女が自分を売ったというのは確からしい。
ほかには青のローブをまとった老女の死体があり、グウィネスはそれが反乱の首謀者、〝テレジア様〟だと話した。特別なところのないその顔を見ながら、サラは昨日の夕方、教会に行ったとき説教をしていたのがこの人物だったか、確信を持てないでいた。
二人はともに、短剣で喉を突いて自殺していた。
「死体を見つけたとき、この本を抱いていたの。連中の聖典なのかもしれないわ」ロザリンは
かなり大きく作られた、おそろしく鮮烈な色彩の本だった。使われている文字は古代の共用語でも、古代諸島語でもなく、サラが見たことのない奇妙な字だった。本のほとんどすべてのページに絵が入り、短い文章の説明が添えてある。色のついた絵の一ページに、黒衣をまとった〈七短剣の聖女〉の姿があった。聖女の顔はかぶった覆いの陰にすべて隠れ、どこか薄気味悪く、恐ろしく見えた。
最後のページまで本をめくったビビアンは、ウーベグレン学院の蔵書印と管理番号を見つけた。
「たしかに大図書館の本だった」
「シンクヴァトラ教授が若いとき書庫で目にした旧世界文献には、〈七短剣の聖女〉について触れられていたというけれど、これがその本なのかもしれない」サラは言った。
「学院ではまえから、教授の記憶は写本より頼りになる、だとか言われているの。写本は間違いを起こすけれど、教授の記憶はそうでないから。それは噓ではないらしい」ビビアンが言った。「この本をウーベグレン学院のもとに戻すことはできる?」
「学院から持ち出されたものなら、もとの持ち主に返すのが当然でしょうね。ただドランゲイには一声伝えておいたほうがいいでしょう」ロザリンは言う。「ちょうど報告に向かうところだから、あなたたちもいっしょに来たら」
「この件がなくても、ロッペルスム家の娘としてはともに行かないといけないし」
ロザリンはその場の兵士に言付けをしていき、サラとスー、ビビアン、グウィネスを連れてともに市庁舎に向かった。ドランゲイの執務室に入ると、現れた彼は喜びをありありと現していた。鋳造所の戦闘は勝利に終わり、ロザリンが支援に行くまでもなくなったのだ。そのうえロッペルスム家の救出に成功したこと、そして首謀者の死体を発見したことを聞いた彼は、〝神はブルーメンベルクをお守りくださった〟と何度も口にしていた。
サラはドランゲイに作戦の経緯を説明し、スーが屋敷の偵察に入ったことにも触れ、それからさりげなくグウィネスの処罰に話題を移した。
「われわれに情報を提供し、命を投げ出してトルン嬢に協力し、ロッペルスム一家を救った。ある程度罪を減じることはできるが」ドランゲイは言う。「だが聞いておかなければならないことがある。いま、〈七短剣の聖女〉を信じているか?」
「信じています」グウィネスの答えは率直だった。「ですがわたしは、来世の富貴のために今世を棒に振る必要はないと気づきました」
「われわれは、〈聖女〉の信徒をこれからもブルーメンベルクに置いておくことはできない。追放を受け、一生戻ってくることはできなくなる」
「寛大なお心に感謝します」
「準備のため与える時間は長くない、早く自分の行き場を見つけることだ。もし二週間後にまだ街を出ていなかったら、待っているのは絞首台だぞ」
それからロザリンが〝聖典〟を手に入れたことをドランゲイに報告した。しかし、石工の出身のこの執政官は旧世界文献に興味がない様子で、ビビアンが本を差し出しても受けとることはなく、目を向けることすらせずに〝これほど危険な本は、かならず禁書書庫に入れて厳重に保管し、もう紛失しないようにすることだな〟とだけ伝えていった。
市庁舎を後にすると、ロザリンはロッペルスム家の屋敷のほうに戻ることになっていた。ビビアンがいまも動揺を隠しきれない様子なのを見て、ロザリンに同行してひとまず養父母のそばに戻るようサラは勧め、例の〝聖典〟は自分が大図書館に届けると伝えた。ビビアンは受け入れ、本をサラに渡した。
「あなたはもう解放されたけれど、いまはまだ反乱が完全におさまったわけではない。あなたに一人きりで行動はさせられないわ」ロザリンがグウィネスに向かい言った。「行き場所は考えてあるの? ゼーラントで傭兵の仕事ができるよう、わたしが紹介しましょうか?」
「ヘイランネ嬢、わたしの両親を救ってくれたのだから、ロッペルスム家の商隊はあなたを雇うのにも乗り気なはずです」
「二人とも、好意はありがたく思います。わたしは目指すところがあるので。向こうがわたしを受け入れる気があるかはわかりませんが」グウィネスはサラのほうを向く。「申し訳ないけれど、口を利いてもらうことはできる?」
「流刑を命じられるのではなくても、あなたはヴィティン島の要塞に行きたいの?」
グウィネスはうなずく。
「何日かあとに表彰の礼典があって、ベーフェラント女伯爵もきっと臨席するでしょう。そのときあの人に引き合わせるのはかまわない、きっとすすんで推薦状を書いてくれるはず」
「あなたは穏やかな日々を望まずに、自分の実力によって這いあがろうとしているのね。敵を倒して手柄を挙げようとするなら、たしかにヴィティン島は絶好の行き先だから」ロザリンは、長らく黙りこんでいるスーに目を向けた。「今日はあなたもとても力になってくれたわ、いずれ褒賞が与えられるときには、あなたにも恩恵があるでしょうね」
近くにいたグウィネスが、スーを数秒間見つめていた。「わたしたち、どこかで会ったことはある?」
そう言ってスーに近づいていく。スーは何歩も後じさり、グウィネスを近づけたくないかのようだった。ロザリンはなにかを察した様子でグウィネスの肩に手を置き〝この子はすこし人見知りだから、怯えさせないで〟と声をかけた。グウィネスもうなずき、下がるほかなかった。
わずかに気づまりな空気のなか、ロザリンとグウィネス、ビビアンはロッペルスム家の屋敷のほうに戻っていった。通り一つ隔てたウーベグレン学院に向かうサラに同行するのはスーだけだ。
「スー、これまでに二度捕まって、むち打ちと焼き印を受けたと言っていたでしょう。わたしの考えたとおりなら、あなたに刑を科したのはグウィネスだったんでしょう?」
スーは足を止め、うなずいた。
「法に触れたのはあたしだから、この件は向こうはなにも間違ったことはしてません。でも結局、あの人はヴェストマンの手下で、あの両手で罪のない人たちを死なせてきたはず。あたしがこの両手で盗みを働いたみたいに。心を入れかえようとしても、汚れた手をきれいにはできないんです」
「わたしもこの手で人を殺している。数えてはいないけれど、十人はいるでしょう。今日も二人を殺した。一人は剣で、もう一人は連枷で──わたしはその男の頭を砕いたの。まだ息があるんじゃないかと恐れて、四回続けて殴った。この二、三年で、わたしの手ももう血にまみれているの」
「でもそもそもは、騎士の使命を果たすため、弱い者を守るために……」
「そんなに立派な言いかたをしなくていいの。どれも仕方がなかっただけのこと。相手を殺さなければ、死ぬのは自分だったから。手を汚したくないのなら、この両手まで失うことになる」そう言って、サラはスーの手を取り、相手の顔のまえに持ちあげた。「この手を使ってなにをしたとしても、まだ手があるのなら、はじめからやり直す機会はあるの」
スーははっきりしない顔でうなずき、それからはずっと沈黙を続けた。
二人が大図書館に着いたときには、外を守っていた治安軍はすでに撤収し、ハーラルの姿も残っておらず、学院の番兵たちだけが入口を守っていた。
サラが用件を説明すると、番兵は二人を一階のいちばん奥にある目録室に連れていった。
目録室の空間の大部分は、ずらりと並んだ棚に占拠されている。人の背ほどの棚は、十列ほどの数ではきかなかった。棚には小さい引き出しが作られ、そのなかは図書の情報を記したカードで埋めつくされているのだろうとすぐに想像できた。窓辺に、四人が腰を下ろせる机が置かれている。一人の若者が、入口に向きあうようにそこに座っていた。髪はまだ豊かに生えているが、分厚い眼鏡をかけていた。もう一人、老人がこちらに背を向けて座っており、しみの浮いたはげ頭だけが見えた。
若者が立ちあがり、二人を迎えいれる。
「治安軍が、反乱の首謀者のもとからこの本を手に入れてきました。おそらく彼らの〝聖典〟でしょう。ウーベグレンの印と蔵書番号があるのに気づいたのはロッペルスム嬢で、ここから持ち出されたもののはずです」
若者はその〝聖典〟をサラから受けとり、机に置いて、最後のページを開き、大図書館の蔵書印と書きこまれた番号を見つけた。
「禁書書庫の本だ。ぼくには口出しする権限はなくて、あそこの担当のウーセン夫人に
「これで本は届けましたから、あとのことはそちらに任せます」
サラは出ていこうとしたが、近くに座っていた老人に呼びとめられた。
「トルン嬢、ここでまた会うとはな」
その老人が、昨日ビビアンとともに訪ねていったヴェルナモ教授だったことに、サラはいま気づいた。
「スワン、ウーセン夫人のところに行ってきなさい。わしはこちらの騎士のかたにお訊きしたいことがあるのでな」
スワンという若者が本を手に出ていくと、ヴェルナモ教授はサラたちを座らせた。
「トルン嬢、〈七短剣の聖女〉がどのような信仰なのか、そちらで調べは付いたのかな」
「治安軍が信者を多少捕らえているから、きっとなにか訊き出せるでしょう。いまは彼らの〝聖典〟も見つかっていて、教授のような学者が時間をかけて研究できればと」
「彼らの教義について、きみはどのくらい知っている?」
「偶然耳に入っただけですが、どうやら彼らは、今世での財産や地位を来世にも持ちこめると考えているようです」
「それはなかなか特殊な信仰だな」ヴェルナモ教授は言う。「わしの研究では、旧世界の宗教は厭世的な考えに満ちていた。多くは財産や享楽を敵視して、清貧と禁欲を勧めていた。信者たちは苦行で自らを痛めつけることに熱を上げ、俗世を卑しむべきものと考え、死を救いと考えていたのだよ。とはいえそうした信仰が生まれることもべつだんおかしくはない。宗教というものはつまるところ、虚無に抗うために生まれるものだからな。人には死が待っている。おのおのが俗世で手にしたあらゆるものもいずれ失われる、だから常理を超えた存在によって心を慰める必要があるのだね」
その話にサラはさほどの興味もなく、早く仲間と落ちあうことばかりを考えていた。とはいっても、老人の長広舌をさえぎるのは騎士のふるまいに反することではあり、そのさきを聞くしかなかった。
「トルン嬢、きみも知るように、ブルーメンベルクは商業都市で、この街のすべては利益を原動力にして回っている。しかし、巨大な財産を抱えた商人であってもいずれは死ぬ。信仰するのが海の女神であれ火の神であれ、一デナリたりともあちらの世界には運んでいけないのだ。それを知っていながら、彼らはなぜ富をかき集めようとする?」
「財産があれば享楽が得られるから、でしょうか?」
「しかし現実では、貪欲で計算高い商人たちは他人から一デナリ刻みで絞りとるだけでなく、自分を絞りあげるときにも決して容赦せんのだ。抜きんでて成功した商人というのはえてして手元の金をばらまくことなく、投資にあてることが多い」
「自らの子女にお金を残すためかもしれません」
「それもたしかに理由だろう。しかし究極の難題はやはり解決できない──虚無だ。死んでしまえばすべての財産を失うだけでなく、自らの子女とも別れなければならない」
「なら、教授はどうお考えなのでしょう?」
「わしは反古の山にのめりこんで、旧世界の宗教を研究する学者にすぎん、金持ちの考えなどわかるものか。人というのはじつに興味深い生物だ、死が待っていることを知りながら必死にあがき、いつか失われてしまうものを求める。だがそういった者どもに、溜めこんだ財産も、勝ちとった地位も、すべてそのまま来世に持ちこむことができると伝えたなら、状況がなにか変わりはしないだろうかね? 日に夜に励み、名と利を追う人々にもはや後顧の憂いはなくなる。生命の短さを、俗世の虚しさを嘆く人々も奮い立つだろう。考えてみたまえ、そのような信仰をブルーメンベルクに広めることができたなら、どのような結果を生むだろうか?」
「結果なら、教授もご覧になったとおりです」
「わしのある知人が、似たような試みを仕掛けた」ヴェルナモ教授は急に話の方向を変えた。「もう何年もまえ、教授の職を手にしてまもない学者が、ふと禁書書庫にこの〝聖典〟を発見したのだ。なかに記された教義を読んだその男は、そのような信仰がブルーメンベルクにとって有益だと考え、それを広めようと考えた。そのため本を持ち出し、ふだんから宗教の問題について話を聞きに来ていた
「興味深いお話でした、ヴェルナモ教授。その学者が、みずからの行いの責任を取ることを望むばかりです」
その一言を最後に、サラとスーは連れだって大図書館をあとにした。
次の日の朝、ネルサス川から死体を引きあげた者がいて、確認の結果ヴェルナモ教授の死体だと判明した。治安官は、教授は酒に酔って溺れ死んだのだと推測した。その晩は騒乱の鎮圧を祝って、街じゅうが飲み明かしていたからだ。しかし当人に近しい者たちはみな、ヴェルナモ教授は酒を一滴も飲まないと知っていた。