シルヴィアと王都での勤務にあたる面々を除いて、湖畔の騎士団の団員はほとんどが
この一年、ビビアンは毎日図書室で古代の文献を書き写すいっぽうで、スロフテレン嬢が貧しい生まれの少女たちに読み書きを教える手伝いをしていた。王女と騎士たちもよく彼女をお茶に誘い、ウーベグレンの学者でなければ知らない逸話を話してもらっていた。
ベーフェラント家の領地は自由都市ブルーメンベルクに近く、ビビアンはまだ学生のころに女伯爵の城を訪れたことがあり、サラとは顔を合わせたことのある仲だった。騎士団の団員たちのなかで、古代言語を学ぶのにいちばん熱心な一人はイーディス・フルストだ。イーディスとサラとはぎくしゃくした仲だったが、ビビアンはこの二人ともにうまく付きあっていた。そのため箕帚人たちは裏で、もしいつかフルスト様とトルン様が決闘になったら、あいだに入って仲立ちができるのはロッペルスム様しかいない──と話しあっていた。
王女はサラに、ビビアンをウーベグレン学院に送りとどける役目を任せていた。イーディスが知ったらきっと面白くないだろうというのはすぐに想像がつく。
出発の前夜、王女はサラに言い含めた。
「ビビアンはあちらに戻ったら、書庫で〈七短剣の聖女〉についての情報を調べてみると話していました。あなたもブルーメンベルクでしばらく過ごして、ビビアンのほうでなにか発見があったら、連絡役を通してわたしのところに知らせるといいでしょう」そう言って王女は、印付きの指輪を外してサラに手渡した。「ですがあまり長居はしすぎないように。六月の中旬になっても進展がなかったら戻ってきなさい。そのあと、とても重要な任務を頼むことになりますから」
指輪のほかに王女は、直筆の手紙を何通かサラに渡した。
ビビアンと仲のいい団員たち何人かが、出発のまえの晩に送別の集まりを開いた。ちょうど、
離宮からブルーメンベルクには、陸路と水路どちらでも向かうことができる。陸路のほうがすこし早く、六、七日しかかからずに着くが、ライメルスワール侯爵の領地を通る必要があるということで、二人は水路を選んだ。最初に馬車に乗って王都に到着し、ノルズリ港でロッペルスム家の商船に乗りこんで、ネルサス川を流れに沿って下っていく。シルヴィアとプリシラがノルズリ港に来て、二人を送り出してくれた。
この旅路には十二、三日かかった。
ビビアンは、この一年で書き写した大量の文献を一つのトランクに収めていた。ほかには一箱の書物も運んでいて、それはすべてプリシラに頼んで王都で買いもとめてあったものだった。
ロッペルスム家の養女であるビビアンは、船上で姫君のようなもてなしにあずかっていた。このあいだだけ暮らすよう、船長からは自分の部屋を差し出されていた。サラはもともとほかの女の船員たちとともに過ごすはずだったが、ビビアンに呼ばれて同室になった。商船の航行は穏やかで、ビビアンは船上で作業を続けることができた。サラはエルドゥリア王国の歴史について記した本を読み、ときどき船上の傭兵たちと手合わせし剣技に磨きをかけた。
五日後、商船は商業都市フレーゲストに到着し、そこでまる一日停泊することになった。フレーゲストは三人の領主の領地が接する場所にあり、建国戦争のあとすぐに商人たちによって建てられた街で、いまはアークレイリ家が実質的に治めている。ここで作られる布地や絹織物は、国じゅうの仕立屋のもとに届くだけでなく、ブルーメンベルクの船隊を通じて遠く南の大陸でも売れていた。アークレイリ家が日々蓄えている財産はばかにならない規模で、ブルーメンベルクの名家いくつかに匹敵するほどだった。さらにこの家はかなりの数の傭兵を抱え、外には〈黄金の羊毛の騎士団〉と自称していた──もちろんこの呼び名は、王室の承認を受けていない。
王女がサラに預けた手紙のなかには、アークレイリ家宛ての一通があった。
ビビアンの仲立ちを得て、サラは山の中腹に建つ市庁舎でアークレイリ家の当主と面会し、無事に彼に手紙を届けた。
手紙は蜜蠟で封がされていて、もちろんサラに内容を見ることはできなかったが、予想は難しくなかった。現在アークレイリ家がなによりも切実に求めるものといえば、貴族の肩書のほかになにもない。王女はそれを条件に、彼らの支持を取りつけるのだろう。王妃の一派も同じ条件を出すことはできる。しかし、王女とどこよりも関係の深いベーフェラント家の領地はこの下流に位置し、アークレイリ家と王女とが対立することがあれば、ブルーメンベルクに送り出す商船が妨害を受けることもありうる。その点を念押しするためだろうか、ビビアンはサラを紹介するとき、わざわざ〝ベーフェラント家と婚約を結んでいる〟と付けくわえていた。
市庁舎を出ると、ビビアンは市街をぶらついていこうと誘ってきた。船が出発するのは夜になってからで、時間は充分にあり、サラに断る理由はなかった。
山のふもとから港まで続いている市街には商家が立ちならび、馬車や馬が途切れることなく行きかっていた。サラが着ている騎士団の制服とビビアンの着ている緑色のワンピースはどちらもフレーゲストで生産された布地を使っていて、ビビアンのほうはさらにこの街の仕立屋が仕上げたものだった。新しい趣味はかならずと言っていいほどこの街の職人によって考え出され、それから王都を中心としてゼーラント王国じゅうに広がっていくのだ。
路上では傭兵らしい風情の姿も見かけたが、二人とすれちがうと決まってサラに警戒の視線を向けてきた。
「この服は、ここでは目立ちすぎるんじゃない?」
「もしかするとその制服のデザインがすてきだと思って、生地も自分たちのより上等だから、おもわずなんども見てしまうのかもしれないでしょう」
歩くうち二人は川べりにやってきて、石の腰掛けに腰を下ろした。そこからはちょうど港全体が一目に見渡せた。風も波も穏やかなこの五月、船がそれぞれに掲げる旗はぐったりと旗竿にまといついていて、二人はかなり時間をかけてようやく、似た型の船が並ぶなかからロッペルスム家の船を見つけ出した。
「この一年は、とても早かった」
「そうね、あっという間に過ぎてしまった。だけれど、たくさんのことが起きたわ」
「たしかに、あなたはたくさんのことを経験したでしょう。わたしは毎日図書室にこもっているだけで、あなたたちになんの力も貸せなかったけれど」
「あなたは、わたしたちにたくさんのことを教えてくれたの。とくにイーディスは、古代の共用語を学びだす勢いだったでしょう。ほかのみなも、あなたから古代文献のなかの逸話を聞くのが好きだった」サラは言う。「ずっと離宮に残ってくれればよかったのに」
「それもいいでしょうね。王女様が同意されるかはわからないけれど」
「きっと同意してくださるでしょう、ロッペルスム家はわたしたちにとって最大の協力者の一つだから。でもそれがありえないのもわかっているの。ウーベグレンに戻るのは間違っていない──あそこでしかあなたの研究は続けられないわけだから」
「わたしの研究はもう終わっているけれど」ビビアンはうつむいた。「ウーベグレンに戻ったとしても、まえの研究を続けることはありえない」
「あなたの研究は、いつか認められるはず」
「いえ、認められるかとはべつの話。わたし自身がもう続けたくない」ビビアンは答える。「いまわたしは、あのときあの論文が却下されたのをとてもありがたいと思っているから。もしあの論文が公になっていたら、悪い結果しか生まなかった」
「悪い結果?」
ビビアンはうなずく。「あのとき評議会の面々がみな王女様の陣営で、わたしの研究の詳しい内容を表に出さなかったからよかったけれど、思い出すと心から恐ろしくなってくる」
「あなたの『旧世界文献における実録と虚構』は、なにか王女様を傷つける内容があったの?」
「王女様だけではなくて、すべての女騎士を傷つけて、もしくはゼーラントの国の根本を揺るがしてしまう──もしだれかに利用されてしまったら。まえのわたしは
「ビビアン、いったい何を書いたの?」
「わたしは、すべての学者を悩ませる難題を解決したいと考えていた──旧世界文献のうちのどれが実録で、どれが虚構なのか。原型に近い形で保存されている文献には、結びの部分や表紙にこれが
「〈内証法〉は、文書の内容から判断するということ?」ビビアンがうなずくのを見て、サラは続けた。「とても複雑なんでしょうね、想像できる。この時代の人が書いた本でも、実録なのかでっちあげなのかは判断が難しいんだから。それが古代文献となればね」
「この分野において、ウーベグレンで影響が大きいのはマルガレーテ一世期に始まった〈文体派〉。各種の言語の古代文献から文体の特徴を分析して、どういった特徴を備えた文献がより
「あなたは新しい方法を提示したの?」
「とはいっても完全に新しい方法とは言えない──同じ方法のひな形を備えていた論文はまえにもいくつかあって、わたしはそれをまとめあげただけ」ビビアンは答える。「わたしが提出したのは〈虚構事象の原則〉」
「虚構……事象?」
「簡単にまとめるなら、もしどこかの時代である事象が虚構だと判定できたとして、同時代の文献に同じものが現れて、しかもそれが文献のなかでたしかに存在するものとして描かれていたら、その文献は虚構を述べた作品で、実録ではないということ」
「例を言ってくれる?」
「論文でわたしが挙げたのはものすごくまずい例で、その例を挙げていなかったら、もしかすると却下はされなかったかもしれない」ビビアンが続ける。「わたしは書庫で、旧世界の共用語の辞典を見つけた。歯抜けだらけではあったけれど、出版の時期を記したページは運よく残ってくれていた。その本が出版されたのは、終末の二世紀まえ。終末のまえの世紀に出版された書物だってほとんど見つかっていないのに。その辞書はいちばん古い部類の旧世界文献。サラ、これがなにを意味しているかはわかる?」
サラは首を振った。
「つまり、その辞典は原初の七経典や第八聖典と同じ時代に属するということ」
原初の七経典とは、人類の生きのこりが〈原初の塔〉で発見した七冊の本のことで、多くは古代の共用語で書かれ、内容は旧世界の歴史や詩歌、医学や絵の技術と広きにわたっている。
第八聖典というのは海の民が諸島にたどりついてから発見した旧世界文献で、古代諸島語で書かれている。表紙はひどく破損していたが、運よく扉のページは残っていて、みなはその題名──『コールガの守り手』を知ることができた。本には、旧世界の神々は〈
この旧世界の書物は、終末のあとの海水の氾濫とそれから水が引いていった場面を予言していたということで、聖典として扱われていた。神学者の解釈によれば、海の民たちが〈原初の塔〉に閉じこめられたそのとき、遠くのある孤島で四人の騎士がコールガの導きによって黒竜を殺し、海水を引かせたので、それによって海の民たちは〈原初の塔〉を出て諸島に向かうことができたのだという。本で予言されている戦いが起きたのは、この本が発見されたミミル島だった。それからはその場所も聖地となった。
「ビビアン、あなたまさか……」
「そう、その〝まさか〟。第八聖典には竜殺しの描写が出てきて、かなりの分量を使ってその竜を描写している。だけれど例の同時代の辞典は、竜を〝想像上の動物〟と定義していた。それゆえわたしは、第八聖典はおそらく予言書などではなくて、ただの
「でもあれは、終末のできごとを正確に予言していたんじゃ?」
「おそらくはただの偶然──あの本がこれから起きるすべてを予言していたわけではなくて、そこに書かれていた内容がたまたま起こってしまったから、わたしたちがそれを予言書として扱っているだけ。旧世界で流通していた書物はとても数えきれないほどの量で、一、二冊がたまたま世界の終わりのできごとを予言していたとしてもおかしくはないでしょう」ビビアンは答えた。「実際、終末に先立つ二世紀の書物では、海水面が上昇を続けて大陸を吞みこむだろうとおおぜいの人たちが予想していた。当時とても広まっていた考えということ。そして『コールガの守り手』が述べている神話の体系や〈黄昏〉も、当時の冒険小説ではまったく珍しくない。この神話の体系については学院のヴェルナモ教授が専門家で、同じ時代の本からたくさんの情報を集めているけれど」
「だとしたら、わたしたちが信じている神話は、どうやら旧世界のだれかが夢見ただけの、吟遊詩人がいちからでっちあげた物語のようなものらしいと?」
「わたしの推測が成立しているなら……そういうこと」ビビアンは苦笑した。「わたしがもし何百年か早く生まれてこの考えを言い出していたら、連行されて聖なる泉で溺れ死んでいたでしょうね」
「〝悪い結果〟と言っていたのがどういう意味か、それでわかったわ」
「この論文が公開されたなら、海の民の信仰を揺るがすことはなくても、王妃の一派に利用されることはありえるでしょう。もとはといえば、四騎士の一人、ヘルヴォルが女だったゆえに、海の民は女性でも騎士になれる制度を築いて、いままでそれに従っているのだから。もし第八聖典がただの
「つまり、女騎士そのものも虚構だって?」サラは質問を投げかける。「旧世界に、女騎士は存在していなかったと?」
「おそらく存在していない、すくなくとも大規模に存在はしていなかった」ビビアンが答える。「わたしたちが研究したかぎり、女性が軍隊に加わる現象はおそらく
「あなたたちはそこまで研究を進めているのね」
「ウーベグレンでは、旧世界の女騎士に関する研究は禁忌になっている。こうした論文は公には発表せずに、学院の内部でだけ回し読みされるというわけ。旧世界の騎士時代にも女騎士が多数存在していたと論証して、文献の裏付けとともに出してくる学者だっているけれど。だけど、そうした文献のほとんどにも竜が現れる──わたしが言い出した方法に照らすなら、おそらくすべて虚構ということになる」
「あなたの研究を王女様はご存じなの?」
「論文の内容を王女様に漏らした人がいて。評議会の人の仕業でしょうかね。だからわたしが離宮に招かれることになった」ビビアンが答える。「そのときは、王女様はわたしを軟禁するつもりなのかと思っていたけれど」
「もしその研究を発表するのにこだわるか、もしくは論文を持って王妃のところに身をあずけるつもりだったら、ひょっとすると本当に軟禁されたかも」
「離宮に到着したらすぐに、率直に話し合うために呼び出された。あの祭司のご友人もその場にいて」
「ウィノナ?」
「その人。そのときは紫のローブを着ていて、一目で聖職者だとわかった。わたしが来たのを見て、王女様は周りの人たちを下がらせて、侍女にドアを閉めさせた」
「なんの話をしたの、すこしでも教えてくれる?」
「まずはわたしに論文の内容について詳しく述べさせて、そのあとにウィノナがしばらく考えを話した。あの人はそもそも聖職者だから、信仰に忠実な立場なのは当然でしょう。どの時代であっても、世界について人が知ることは限られているのだと言っていた。それなのに旧世界の
「王女様はなんと?」
「わたしの研究は〝とても興味深く〟て、〝ふさわしいときに〟私が発表するのを望むと」
「たしかに王女様が言いそうなこと」
「それに、建国戦争のとき、女騎士のいるゼーラントが女騎士のいないエルドゥリアを打ちやぶったことが、すでに女騎士が存在することの合理性を裏付けているとも言っていた。女騎士の地位は一本の論文で揺らぐものではないと。それでも、この時期にその研究を公表してしまうと自分と王妃との争いに巻きこまれるかもしれないから、事情がなにもかも落ちついてから発表したほうがいいと」
「だからいまのところは、その分野の研究を続ける気がないの?」
「そう、すぐに発表できる論題に切りかえたほうがいいから。充分な分量の論文を提出しないと、教授職は得られない」ビビアンは言う。「サラ、なにか思いつくことはある? わたしの研究が、王女様のためになればいいと思って」
「それなら、旧世界文献に出てくるよこしまな継母について研究してみたらどう。王女様を支持する人たちはみんな、その研究を読みたがるでしょう」
そのまま岸辺で過ごした二人は、太陽が西に沈むころ船に戻った。
商船は休み休み進み、サラもたびたび船を降りて、王女直筆の書状を届けていった。
ベーフェラント女伯爵の領地に着いたのは、すでに七日後の夕暮れどきのことだった。あたりに大型の船が停泊できるような港はなく、商船は近くのトウムレイキ湖に停まって夜を越した。女伯爵は一艘の小舟を遣わして、二人を川沿いの城に迎えいれた。
そもそもこの城が建ったのは建国戦争よりもまえで、〈
小舟は跳ねあげ式の水門を抜け、いちばん外の濠に入り、城外を半周して石段のまえに停まった。舟を降りた二人は階段を上がっていき、衛兵に案内されて城門を通り、さらに二度めの濠にかかる木の橋を通って、ようやく
途中、通りがかる使用人や衛兵たちはみな知った顔で、サラを見るとつぎつぎこちらに一声かけてきた。どうやら、自分が出ていってからのこの数年、ここはなにも変わっていないらしい──なつかしい場所に戻ってきて、サラはこころなしか感慨を覚えずにはいられなかった。
ここで過ごした歳月は愉快なばかりではなかったけれど。思いかえしてみれば、記憶を満たすのは鈍い痛みと
衛兵はサラとビビアンを連れて、広場の西側に立つ大きなオークの木に向かう。ベーフェラント女伯爵は木の下で、年若い相手と盤をはさんで座っていた。
女伯爵は漆黒の羊毛のローブに身を包み、銀色の髪は黒の髪網で押さえて、黒真珠の耳飾りを着けている。腰に差している短剣も黒い鞘に収まっていた。サラの覚えているかぎり女伯爵はいつでもこれと同じいでたちで、だれかの喪に服しているかのようだった。もしかすると彼女は、三十年まえにフリューロートの丘で失った兄と婚約者、戦友たちをいまも悼んでいるのかもしれない──もしかすると、自分の左腕のことも。妹のアグネスとエリック王子(つまりいまの国王だ)が結婚してからは、長らくその片腕でベーフェラント家を支えてきた。その後彼女はだれとも結婚することなく、パールとウィルヘイムの父親がだれなのかは世間にも知られていない──サラとウィルヘイムは婚約を結んでいるのだから、ひとまず二人が異母兄妹でないことは確かなのだが。
女伯爵と盤上で対戦しているのは、侍従長の娘リサ・フェンリルだった。サラとは同い歳で、かつてはウィルヘイムの婚約者の有力候補でもあり、去年女伯爵によって騎士に封じられたばかりだった。いまは紋章の絵図を縫いとったワンピースを着ていて、青緑色の左側にはベーフェラント家を象徴するスズキが、黄色の右側にはフェンリル家を象徴する
いま二人が使っている駒のことをサラはよく記憶していた。自分も離宮に行くまえにはこの駒を使って女伯爵と対戦したものだった。駒はヴィティン島産のセイウチの牙で作られ、
サラは、女伯爵が自分と対戦するとき、よく特殊な規則を採っていたことも思い出していた。女伯爵が動かすのは赤の側で、そして赤の王妃(これが示す歴史上の人物は〈賢妃〉エリザベートだ)は一マスしか動かせないと決める──エルドゥリアにおける女性の地位にはよく似合っていた。
いま彼女が動かしているのも赤の駒で、おそらく同じ方式でリサを有利にしているのだろう。しかし残念なことにリサは女伯爵の相手ではなく、僧正一人と騎士二人を残してみな討ちとられ、負けは決まっていた。
二人が現れたのに気づいて女伯爵とリサは立ちあがって出迎え、サラとビビアンは女伯爵に礼を送った。ひとしきり会話を交わしたあと、女伯爵は、最近ビビアンに送るつもりでいくつかの手稿の写しを作らせ、蔵書室に置いてあると口にし、そこにビビアンを連れていき渡すようリサに命じた。二人が去ると、女伯爵はサラを連れて主塔に足を向けた。
主塔は城郭の西側にあり、百メートル近い高さがある。塔の下にはドアがあるが、主塔と城郭の最上階のあいだの複道から入ることもできた。通常は川のうえの船を監視するための塔だが、女伯爵は密談のためによく頂上に人を呼んでいた。湖畔の騎士団に送られるという知らせをサラが聞かされたのも、塔のうえでのことだった。そのときの激しい雨風は、サラの内心の不安を映し出しているかのようだった。
急な螺旋階段は一人だけが通れる幅で、左右に手すりがあった。半分まで上ると小さい休憩場所があり、椅子が二つ置かれ、複道に通じるドアも見えた。女伯爵は年を重ね、また腕を片方失ってはいるが、いっさい苦労せずに上っていた。頂上まで来た二人は、窓辺に腰を下ろす。
夕日が西に沈み、窓の外の彩雲は鍛冶屋の炉のなかで燃えさかる炎のようで、広々とした川面に映し出され、行きかう帆船は火のなかを進んでいるかのようだった。川の対岸の田畑もベーフェラント家が治める領地だ。小麦と牧草はいま一面の青緑で、風に吹かれて揺れている。収穫の季節にはまだ早い。
農民たちはとくにゆったり過ごせる時期でもある。
王女が無事に即位し、自分も無事にウィルヘイムと結婚したなら、いつかこの城に戻ってきて、毎日この田園風景を目にするのだろう──サラはふとそう思った。しかし、いちど戦いが起きればこの美しい田園は残らず、川面を照らすのは夕映えではなく、野原と村々を焼きつくす
サラはまず騎士団の近況を、とくにパールが〈海と火の決闘〉ですばらしい働きをしたことを伝え、そして自分がケイト・ライメルスワールに敗れたことに後悔の念を口にし、それから王女直筆の書状を手渡した。蜜蠟で封をされた手紙を女伯爵は開け、便箋を取り出して、落日から最後に届く光を頼りに目を通した。
「殿下から、エルドゥリア語を教えられる人間を一人探してきて、あとであなたとともに離宮に遣わせるよう協力を頼まれたのよ」女伯爵は言った。「ブルーメンベルクにはあてはまる人間がたくさんいるから、わたしのなかではだれにするかもう決定しているわ。ブルーメンベルクにはどのくらい滞在するつもり?」
「長ければ、六月の中旬まで」
「時間はたっぷりあるわね。殿下がエルドゥリア語の教師を探しているのは、どういう考えだと思う?」
「勝手な憶測はできません」
「かまわないわ、口に出さずとも。それだけ賢いのなら、どういうことなのかは知っているでしょうから」
たしかにサラは、王女の考えをそれなりに察していた──おそらくはフローリス王子を引きこむための準備なのだ。縁談にまで至らないことだけをサラは願っていた。でなければ、騎士団のなかの娘が政略結婚の中心になることは必然であり、いちばんふさわしい人選となれば間違いなく……
「わたしは王女様とパールの判断を信じます」
「サラ、あの人たちの決定になにか異議でもあったら、遠慮などしないでかならず真っ向から忠告なさい。あなたはもう、厩舎の掃除を任されている小娘ではないの。いまのあなたはウィルヘイムの婚約者、未来の伯爵夫人で、その意見も重みを持つのよ」女伯爵は続ける。「いまわたしはすこしばかり後悔しているの、はじめあなたに厳しくしすぎて、あまりにも従順な性格に育ててしまったことを」
「ぜんぶ、わたしのためだったでしょう」
「焦りすぎていたのよ。とにかく早くパールの補佐役を育てあげることばかり考えて、気づけばあなたの角をのこらず削りおとしてしまっていたのね」
「ほんとうに、パールの力になれていればいいんですが」
「あなたはよくやっているわ、サラ。もう一人前の騎士よ。とはいっても、一所を治める領主になるためには、忠誠と
「必ず心に刻みつけておきます」
二人の会話が終わると、太陽はもう地平線のむこうに隠れていた。
そのすこしあと、女伯爵はサラとビビアンを歓迎するための宴席を設けた。その場にはサラの両親も招かれている。ビビアンは酒に弱く、ジンを一杯飲んだだけで酔ってしまい、客室に連れていって休ませるようリサに女伯爵が言いつけていた。
客がおおかた帰ったころ、女伯爵はリサに、ベーフェラント家の印の付いた指輪をサラに渡すよう言いつけ、ブルーメンベルクで役に立つかもしれない、と言った。
集まりが終わって、サラはリサを自分の居室に連れていき、旧交を温めた。宴会の席ではリサはずっと女伯爵のそばに付きそって、なにも口にしていなかった。部屋に落ちつくと勢いよく飲みはじめ、サラも付きあって何杯か飲んだ。酒の力を借りて、リサは心に思ったとおりのこと、たとえばサラがパールのそばに付きそうことができるのをやっかんでいるのも言葉にしていた。そしてサラが伯爵夫人になったら、かならず自分を侍従長に任命するようにとも話した。そのすえに、折れる気配のないリサをまえにして、サラはしかたなく自分もリサの居室で眠るのを受けいれた。
「ほんとうに、あなたとウィルヘイムに早く帰ってきてほしいの」サラと並んで横になり、リサは言った。「小さいときと同じで、みんないっしょで」
「安心して。そんなに待たせはしないから」
翌日、空が白むころ、サラとビビアンは城を発った。
リサは二日酔いに苦しんではいたが、二人とともに小舟に乗って、トウムレイキ湖に停まっている商船のところまで送りとどけた。この湖からブルーメンベルクまでの行程は半日にもならなかった。
正午を迎えるころ、商船はブルーメンベルクの南港に着いた。港に入るのにそこから二時間待たされた。
ブルーメンベルクはネルサス川が海に注ぎこむ西に位置し、南北二つの港を持っている。南の港には川船が、北の港には海船が停泊する。かつてある詩人は南方から諸島、エルドゥリア王国をつなぐ海上の航路を動脈に、ゼーラント王国を貫くネルサス川の航路を静脈に喩えて、二筋の血管が合わさって世界の血の循環をかたちづくり、ブルーメンベルクこそが世界の心臓なのだと言っていた。
この貿易都市は、建国戦争が起きる以前から大陸と諸島との交流の中枢であり、表向きは近くの領主に忠誠を捧げながらも、実際にはとうに自治の体制を確立していた。〈建国者〉エリックは豊かな財力を有するブルーメンベルク市民の支持を勝ちとるために、独立した都市としての地位を承認すると約束した。領主から課される重税から一刻も早く逃れるため、商人たちは熱心にエリックの後押しをし、資金や、傭兵に船舶を提供し、戦争の序盤からそれが
街ははじめネルサス川の西岸の一区域だけだったが、その後少しずつ西に広がっていった。川沿いに見ていくと南から北に、南港、市庁舎広場、ウーベグレン学院、商店が立ちならぶイーヴァルディ通りとグロウダン通り、教会広場、北港となる。イーヴァルディ通りやグロウダン通りに沿って進むと住宅街にたどりつけ、さらに西に進めばさまざまな小さい工房が目に入る。そうした工房は、港に運ばれてきた原料を商品に加工し、世界各地に売っていた。しかし染色や製錬、ガラス作りの工房はすべて河口近くのハウビャルト島にあった。貨幣の
船を降りたサラとビビアンは、馬車に乗ってウーベグレン学院に向かった。
学院は前身を建国戦争以前までさかのぼることができ、当時、古代文献の蒐集に熱心だった五人の商人が協力して図書館を建設し、そこで所蔵品を保管するとともに、大陸じゅうから学者を募って解読作業に取りくませた。それからの三百年、学院の規模は広がりつづけ、そして充分な教育と研究の体制を実現していた。
学院を掌握しているのは終身教授たちからなる評議会だ。教授職の新設と
学院の敷地の面積は広くはなく、建物はかなり密集している。増築を繰りかえしてきた大図書館はもはや初めの構造を残していない。新しく建てられた蔵書室が年代を経た壁面に取りつき、付属する建物につながる廊下が中心の建物のあちこちから突き出して、増築された五階と六階も下の四階までとは嚙みあっていないように見えた。サラの目に映る建物は、肥満と病によって全身に肉のかたまりをぶらさげていた、晩年のオズワルド一世のようだった。
ビビアンはサラを連れて、図書館の二階の小さい蔵書室のまえに来た。
ノックをすると、なかから低く落ちついた〝入りなさい〟という声が聞こえる。なかに入ると、部屋の左右の壁に書架がずらりと置かれ、片方には古代文献が並び、片方には印刷技術が復興してからの出版物が置かれているのが目に入った。書架のあいだには巨大な机が置かれ、上では紙が山となっている。部屋にはだれの人影も見当たらなかった。
サラはもう数歩まえに進んでようやく、片眼鏡を着けた老人が奥の椅子に座っているのに気づいた。机の上の書物に視線をさえぎられていたせいで、最初は相手のことが見えなかったのだ。
二人が歩いてくるのを見て、老人は手にしていた付けペンを置き、二人に座るよう声をかけると、あいだをふさいでいる本の山をわきに動かした。
「ゼーラントに資料を読みに行っていたのではなかったかな、いつウーベグレンに戻ってきたのだろうね?」老人はビビアンに尋ねた。
「今日戻ってきたばかりです」
「戻ってきたばかりでわしのところに来るとは、なにか急な用があるのか?」ビビアンが口を開くまえに、サラに視線が向けられた。「こちらは?」
「湖畔の騎士団のサラ・トルンと申します。アーシュラ王女からロッペルスム嬢の護衛をおおせつかりました」
「ヴェルナモ教授」ビビアンが言う。「教授は古代宗教研究の権威です。わたしたちからお話を聞きたいことがあります」
「きみたち?」ヴェルナモ教授はその言葉を
サラはうなずいて、身に着けていた革のかばんから、ネストヴェズ家の荘園での戦利品である木の像を取り出し、教授に手渡した。
「〈七短剣の聖女〉について聞いたことはありませんか」
教授は木の像をしばらく入念に眺めたあと、なんどか〈七短剣の聖女〉と口のなかでつぶやき、そのすえに首を振って、像をまたサラに返した。
「記憶にないな、旧世界の信仰ではないのだろう」教授は言う。「きみたちはどこでその言葉を聞いて、この像を手に入れたのかね?」
「強盗の一団からです」
「強盗? どこの生まれの者だ?」
「わかっていませんが、諸島の人間でないはずというのは確かです」
「その信仰について、ほかになにを知っている?」
「知っているのはこれだけです」サラは言う。「わたしたちは〈七短剣の聖女〉を信仰する強盗たちの二団を壊滅させたのですが、一人も生かして捕らえることはできなかったのです。圧倒的な劣勢に立たされていたというのに、おとなしく縄につく様子がなく、決死の抵抗をして、捕まってしまったらすぐさま自殺したか、仲間に自分を殺させていました」
「それはとても興味深い情報だな」教授はしばし考えこんで言った。「ひょっとするとその者たちの教義では、敵に降伏してはならない、さもなくば死後に報いを受けると定めてあるのかもしれない。もしくはその者たちの教義では、死んだ理由の違いによってべつべつの死後の世界に送られる、とも考えられる。同様の教義は、旧世界の宗教ではよく見られるのだよ」
「旧世界でいちばん広まっていた宗教では、自殺は禁じられた行為だったと聞いています」ビビアンが言う。
「旧世界の信仰はさまざまで、
「教義が彼らを死に急がせたとお考えで?」サラが尋ねる。
「それは大いにありうる」教授は言う。「旧世界の信仰の多くで、戦死はひときわ奨励されていた行為だった。そうした信徒たちは広く、戦死したものは天の国に上ることができるか、主神のそばにたどりつけると考えていた。汎神論をとる宗教のなかでは、戦死した人間が神にまでなることもあった」
「それなら、自殺した人間は?」ビビアンが訊く。
「戦いの場から逃げようとせず、捕虜になることも望まずに自殺したのなら、それもふつうは戦死とみなされる」
「では、あの強盗たちは死後の幸福のために殺され、また自殺することを選んだと……」
「これはわしの推測でしかないぞ。第八聖典にも似たような発想がなかったかね? 四騎士のうちオーラヴは黒竜エングルとの戦いで負傷して息絶え、その魂は永遠にコールガのそばに置かれた」
「しかし本には〝コールガからの哀れみと祝福〟だったと記されていて、どちらかというと特例だったように見えます」ビビアンが応じる。
「〈
「ほかの死にかたの場合は?」
「いにしえの神の体系を信じるものたちは、病気や寿命によって穏やかに死んでいった者は、死後その魂が〈ヘルハイム〉と呼ばれる冥界に送られると考えていた。〈ヘルハイム〉は地底にあり、暗く寒々しく、良い行き場とはとても言えない。しかし戦死した者の魂は〈ワルハラ〉という名の華麗な宮殿に送られ、主神オーディンに仕える戦士となるというのだ。この神話の体系を信じている者たちからすれば、それこそがなにより光栄であり、幸福な行き先だった」
「あの強盗たちもいにしえの神の体系を信じていたのだとすれば、すべて話が通ります」
「わしの知るかぎり、いにしえの神の体系には〈七短剣の聖女〉などいないのは残念だがな。もしかするとその者たちの信仰にも似たような規則があったのかもしれないな。もしそうだとすれば、彼らがあとさきを考えず強盗を行ったのも、ことによると財産のためでなく、死のうという一心だけだったのかもしれないな。いまはどこも平穏で、戦死のためにはみずから戦いを作り出すしかないだろう」
「それはじつに危険な信仰です」サラは言った。
「もちろん、これはわしの推測でしかないがね」
「トルン嬢はブルーメンベルクにしばらくとどまります」ビビアンが言った。「わたしは、そのあいだにさらに多少文献を読みこんで、〈七短剣の聖女〉につながる手がかりが見つからないか探ってみるつもりです」
「それはとてもすばらしいことだな、ビビアン」教授は言う。「もしなにか発見があれば、論文を書いて評議会に提出するといい、ことによるときみの求める職が手に入るかもしれないぞ」
ヴェルナモ教授の研究室を出て、ビビアンはサラを図書館の外まで連れていった。二人を送ってきた馬車はまだそこで待っていた。ビビアンに別れを告げ、馬車に乗ったサラは
宿の場所はイーヴァルディ通りの西の端で、年季の入った三階建ての木造建築だった。一階が酒場で、二階が上等な客室、三階は見知らぬ相手と同室になる安上がりな部屋だった。サラは二階の廊下のいちばん奥の部屋に入った。荷物を運びこむと、青灰色の長衣に着替えた。諸島から来た傭兵たちが日常的に着ているものだ。
宿を出たサラは教会広場に徒歩で向かい、到着したときには夕暮れどきになっていた。
広場の西側はコールガを祀るフレインリフル大聖堂で、東側はムスペルを祀るエグシェル大聖堂──火の民の慣習に従って、〝神殿〟と呼んでもいい。ブルーメンベルクの市民はそれほど信心深くなく、この二つの教会を訪れる多くは外からここにやってきた人間だった。
屹立するフレインリフル大聖堂にサラは入る。堂内では年配の
晩禱が近づいていて、祭壇から離れていない何列かの席は人で埋まっており、後ろ側の列は人がまばらだった。
後ろから四列目の席にサラはやってきて、ベージュ色のローブを着た女のそばに腰を下ろした。女は三十歳前後らしく、なんの特徴もない顔をしている。うつむいて、静かに祈っている様子で、サラがそばに座っても気づいて顔を向けてくることはなかった。
サラは王女から渡された指輪を取り出し、右手の人差し指にはめて、膝の上に手を置いた。すると、横にいた女が口を開いた。
「その指輪、真珠がないわね。ここで着けるのはやめておきなさい」
サラは指輪を外し、ポケットにしまった。
「祈りに来たの?」
「今日ブルーメンベルクに着いたばかりで、ちょうどここを通りがかって。ここのニリヤ像は有名で、霊験あらたかだというから見に来たの」
「あの追放された長女に、なにか訴えたいことがあるのかしら?」女は言う。「なにかひどく差しせまったことでなければ、伝えたいことは紙に書くといいわ。像のまえにひざまずいて、たちまち消えてしまう声で祈るよりも、書きしるしたほうがかえってニリヤと話が通じやすいもの」
騎士団の連絡役との顔合わせが済み、サラは晩禱が始まるまえに大聖堂を出た。
サラはもとの道を歩いて宿に戻った。夕陽に向かって、人のひしめくイーヴァルディ通りを歩き、あちこちで響く物売りの声を聞いていると、すこし物寂しい気分になった。自分が不在にしているあいだ、騎士団の仲間たちはどう過ごしているだろうか──ミアには新しい指導役が付いただろうか、ダイアンとアデリーンは入団試験を通過するという目標に一歩近づいただろうか、ロータが王都で勤務に出るとき臨時の相棒はだれが務めるだろうか。
そんなことを考えていると、サラの足どりはゆるみ、通りを歩ききったときには空は暗くなっていた。
宿に戻るとまずは部屋に入り、ランプに火を入れて、午後にヴェルナモ教授から聞いた推測を短い手紙にまとめた。明日の夕方に大聖堂に行き、連絡役に渡す考えだった。あの連絡役はふだんから夜に紛れて伝書鳩を飛ばし、王女とパールにブルーメンベルクの細かい動静をいろいろと報告している。サラははじめ、今日の夕方会ったときにヴェルナモ教授の推測を相手に報告するつもりだったが、あの場で手紙にするよう忠告を受けた。幸い差しせまった状況ではなく、一日遅れたとしても問題はない。
手紙はすぐに書きおえ、はじめから入念に読みかえす。
この仮説を受けいれたくはなかった。死後の世界の幸福のためにホフス家とネストヴェズ家の全員を死なせ、自らのことも殺す人間がいるとはなかなか想像できなかった。それ以上に許せないのは、そのせいでクララも命を落としたことだ。アイセル家の長女であるクララは、島主の地位を継いで一地方の諸侯になっていたはずで、二十という歳で桜草とともに葬られるのではなかった。
手紙を折りたたみ、身に着けている革のかばんに入れて、夕食のため階下に向かった。酒場にはすでにかなりの数の客がいた。カウンターの向こうの女主人に鶏肉のワイン煮(その無情な別名──〝小鳥の墓〟を口にする気は起きなかった)とビールを頼み、すみの席を選んで腰を下ろした。
ブルーメンベルクは世界の心臓と称えられてはいるが、食べもののまずいことで知られていた。鶏のワイン煮はいくらもせずに運ばれてきたが、当然味をどうこう言うものではなかった。
外の食事を口にするたびサラは、王都の屯所で働く料理人ヨハンナの腕の鮮やかさに感心せずにはいられなかった。
そこに、竪琴を手にした老人が酒場に入ってきて、女主人からの許しを得ると、階段近くの椅子に腰を下ろし、客たちの座興に歌を始めた。はじめにこのところ流行っている小唄をいくつか歌うが、内容はどれも男女の睦みあいばかりだった。歓声がまばらなのを見て、老人は弦の調子を合わせると、
どうか足を止め、弦の音をお聞きください
ここに歌うは、はるか古くから伝わる悲歌
どんなに白けた心持ちの歌い手であっても
涙で声がつまり、そうは最後まで歌えない
レクステイナルに生まれた
コールガの鏡箱のもっとも美しき真珠
ほんのひととき、この世に遣わされた
それでも汚れた俗世への祝福となった
かつてはコールガのスカートを彩り
大海原と、夕日とかもめを友として
冬には漁の網を繕っていたその娘は
ニリヤに従ってかの岬に馳せ参じた
岬はその名を
盛りの付いた
娘は剣によって敵将の首を
血に染められた結い髪を切りおとした
ニリヤは南を目指した、しかし後を追う軍勢は
春の女神の足どりには追いつくことができない
鮮血は道をおそろしくぬかるませ、それよりも
死骸につまずかぬよう、気を張らねばならない
頭に銀の冠を戴いたかの王はそれに耐えかね
難攻不落のグルントヴィをめざし軍を進めた
許せるものか、その手で積みかさねた功績が
ギルディング山の夕雲のごとく消え去るのを
クリスティーナ、エリックの軍勢において
もっとも勇ましく美しい、盾を持った娘は
託された百人余りの兵隊たちを引き連れて
ネルサスの川上に向かい、急襲を仕掛ける
敵からの応援を阻まんがため遣わされ
軍勢は川岸の山肌に潜み、待ち構えた
火の民は馬から転げ落ち、水中に沈み
ゆえにネルサス川の流れも色を変えた
クリスティーナはそれからも川を遡り
ブルーメンベルクの先祖と落ちあった
ともに目指すものは一つ、誓ったのは
トウムレイキ湖の砦を叩きつぶすこと
流れ星のごとく矢は襲い来て、年若い英霊たちも
流れ星のごとく、みるまにその命を散らしていく
彼らは顧みられることもなく、血だまりに葬られ
砕けた鎧と折れた剣、それが墓石の代わりとなる
いくつも矢を受け、娘の命は風前の灯火
しかし天命によってこの世に留められた
だが恩寵に
なおも残酷な行く末が待ちかまえていた
カップのビールはまだ飲みおわっていなかったが、サラはその先を聞きたくはなかった。銅貨を数枚テーブルに置いて、席を立った。この
しかしサラは、詩人が歌うクリスティーナの行く末を聞く気が起きなかった。
この物語のしめくくりは充分すぎるほど知っている。クリスティーナは
クリスティーナは〈建国者〉エリックとブルーメンベルクのために戦い勝利したが、最後には女の身体に敗れたのだった。
階段を上って、もうすこしあとで公共浴場に湯浴みに行こうかと考えをめぐらせながら、サラは廊下の突きあたりの部屋に向かった。戸口に来たところで異状に気づいた。
ドアが施錠されていない。もともとかけていた錠前も床にほうり出されていた。
手荒にドアを開け、部屋に飛びこむ。机のうえのランプが点いていて、自分の荷物が何者かに開けられ、ものが床に散らばっているのが目に入った。窓はしっかり閉まっていて、室内に人影は見えない。静かに身をかがめ、ベッドの下を調べたがここにも人はいない。そしてサラは、ベッドの横にあるクローゼットに視線を向けた。
腰に差した剣を抜き、ゆっくりとクローゼットに近づいていく。
「出てきなさい。そこに隠れているのはわかってる」そう言いながら、左右の扉のすきまに剣の切っ先で狙いをつけた。なかに隠れている人間の反応がないのを見て、左手の関節で剣身を軽く叩き、澄んだ音を立てるともう一言続けた。「出てこなかったら痛い目に遭うけれど」
「そんなことしないで……」
すこし幼い感じの声がクローゼットのなかから聞こえ、そして向こうから扉が開かれて、ようやくサラにも泥棒の姿を目にすることができた──十四、五歳といった様子の少女で、自分に向けられた切っ先におびえてぶるぶる震えているところだった。
銀色の髪に琥珀色の目の娘で、ひどい裁断の丈の長い服を着て、足にはぼろぼろになった、先のとがった革靴を履いていた。服が隠しているのは太ももの途中までで、だれが見ても短めの足がそこから露わになっている。足にはすりむいたところがあり、いくつかあざもできていた。
しかし街角のスリが全身薄汚れているのとは違い、全体的にはそれなりに清潔な印象だった。どうやら同業者ではあっても、空き巣を働く泥棒はもうすこし体裁というものがあるらしい。
粗布のかばんを手にしている。盗んだものをそこに入れるのだろう。
「出てきて」サラは命令し、床に散らばった私物を指さした。「あなたは運がいい。ちょうどあなたのようなこそ泥に使うための縄が準備してあるの。そこの縄を拾って、腕に巻いて。いますぐ!」
少女はあきらめたような顔でうなずくと、それに従った。
サラは手早く剣を鞘に収め、大股に近づくと縄にほどきづらい結び目を作り、それから床に膝を突くよう少女に命じた。
「傭兵様、あたしをどうするおつもりでしょう?」
どうやらこの少女は、サラの服からこちらを傭兵だと思っているらしい。湖畔の騎士団の紋章を刺繡した制服も、いま床に投げ出されているが、こんなこそ泥にはおそらく見覚えがないのだろう。
「こそ泥を捕まえてどうするもないでしょう? 治安官のところに送るに決まってる」
「それはやめてください、どうか! あいつらに縛り首にされちゃう」
「捕まるのは初めてではないようね」ブルーメンベルクの法律によれば、泥棒は初めて捕まったときにはむち打ちを受け、二度目は焼き印を押され、その後に盗みを働いて捕まると絞首刑に処されるのだった。「もう鞭と焼きごての味は経験済み?」
少女はうなずく。
「縛り首になるとわかっているなら、どうしてまた盗んだの?」
「これしかできないんです」
「訛りを聞くに、地元の人間ではなさそう。どうしてブルーメンベルクでそんな稼業に就いているの?」
「来てすぐは北港のグレースの下でしばらくやってたんです、だいたいは街中の盗みで、見つかったって大人がなんとかしてくれて。そしたらグレースが〈灰〉の連中に叩き殺されて、街中の仕事はできなくなって、あたしは空き巣狙いなんか始めて……ぜんぶ食うためなんだけど」
「どこから来たの?」
「グラウガウス島から」少女は答えた。大ノルン諸島の最南端にある島で、いくつかの海賊がそこに拠点を築いている。「あっちにいても食っていけなくて」
「両親は?」
「知らない。海賊に殺されたのかも、海賊になって小ノルンのやつらに殺されたのかも」
「名前はなんというの?」
「スー」答えが返ってくる。「みんなスーって呼ぶ」
このスーという少女をどう扱おうか、サラはひそかに思案を始めていた。絞首台に送るのはもちろん忍びないが、とはいえこのまま解放するわけにもいかない。
ひととおり考えてみると、この少女はベーフェラント家の領地に送るのが最善の選択のように思えた。ベーフェラント家はブルーメンベルクとの行き来も多く、この市街にも邸宅を持っている。まずは少女をそこに連れていって、駐留する騎士の交代のときともに連れていかせようと考えた。ちょうど刈り入れの時期が近づいていて、人手は必要だ。もし心を入れかえることもなく、むこうでも同じ稼業を始めたなら、女伯爵の気性では当然手心が加えられることはない……
だがそのとき、スーの言葉がサラの考えをさえぎった。
「そうだ、傭兵様、どうしてあの像を持ってるんです?」スーは言う。「騎士様も〈七短剣の聖女〉の信者なんですか?」