サラとロータが乗った馬車が王都グルントヴィに着くころには、もう夕暮れどきになっていた。
馬車は赤レンガで築かれたオウスリティン門を抜けて外市街に入り、そこにちょうど、夕陽の下のサモンド大聖堂から鐘の音が響いた。道端の通行人たちは鐘の音を聞いてあちこちで足を止め、大聖堂のほうを向いて静かに祈っている。サラとロータもうつむいて祈りを捧げた。教会のまえの広場を通るときには鐘の音は終わっていて、人の波はふたたびうねりはじめていた。馬車は急がずにしばらく進んだあと、中央通りをはさんで二つに分かれるアウストリ市場を抜けて、ベストラ橋にやってきた。騎士団の屯所がある内市街はエギル川の対岸に広がっている。
すぐに二人は橋の上で、一日の勤務を終えて内市街に戻るところの騎士の一隊に出くわす。多くは王家の騎士団の面々で、貴族の生まれの騎士たち何人かは、サラもその名を思い出すことができる。直後、一隊のなかから藍色の制服に身を包んだクララとミアの姿を見つけた。
クララとミアは、日よけのための
そこでサラは車夫に馬車を止めさせ、ロータとともに外に降りて、二人の団員と合流した。サラを目にすると、疲れのせいで開かなくなる寸前だったミアの両目にふたたび光が
「はじめて王都で勤務した気分はどう?」
「まえの二日はそうでもなかったけど、今日はちょっと大変でした。朝起きたときには全身が痛くて、足は
「まだ三日目でしょう。十日めにはもっとつらくなるわ」
それを聞いて、光が点ったばかりのミアの翡翠色の瞳は、一瞬にしてまた輝きを失った。
「もう一、二日持ちこたえれば大丈夫」横からクララがなぐさめる。「間に一日か二日、歩かないで、ずっと馬の背に座って大通りを巡回する日があるの、すこしは足が休められるわ」
「それはそうね」ロータはうなずきながら、その横で話を続けた。「ただし、一日じゅう馬の
「つらさなんて二の次、王都の勤務の安全がなにより大事」そう言って、サラはミアが腰に差した剣に目をやった。「ここまでで、なにか面倒ごとには出くわした?」
ミアは首を振る。
「まだいちども剣は抜いていない」クララが言う。「ミアは新人だから、危険な地域の巡回に向かわせるはずがないわ。わたしたち、大聖堂と市場の近くの路地をずっと回っていて、遠くてもせいぜいヴェストリ区まで、
王都の北の端に位置するノルズリ港は、ゼーラント王国全体で比べたとしてももっとも危険な地域と言えた。港の出入口はエギル川とネルサス川の交わる場所に作られている。エギル川の流れに沿って下っていくと数日で、ゼーラント最大の海港、ニャルザルに着く。ネルサス川では王都グルントヴィと自由都市ブルーメンベルクを行き来する船がそこかしこに姿を見せていた。
来る日も来る日も数えきれないほどの富がここに集められ、また次々とほかの場所に運ばれていく。
ノルズリ港独特の悪臭──悪くなった魚介のにおいに汗くささが混じっている──は毎日、夕刻の風に乗って王都のすみずみまで運ばれる。そのにおいの強烈さは、港の近くの路地につきまとって消えない血のにおいを都合よく覆いかくしていた。死体が川に浮かぶのはそこでは特段の話題でもなく、死体が下流の村々に漂っていきでもしなければ人目を引かない。埠頭の一帯は奥深く根を張ったいかがわしい組織に支配されているが、どの勢力もきまって貴族や大商人を後ろ盾に得ているせいで、王家の騎士団もめったに手出しはできないのだった。定例の巡回もふつう、ひときわ経験を積んだ騎士が担当するが、それでも形式的以上のものではなかった。法の外にいる
サラは最初の勤務でエルザにノルズリ港まで連れていかれたが、幸いクララからミアへの指導はそこまで過激でない。
「離宮にいたときと同じで、毎日お風呂に入れたらいいんですけど」ミアが言う。それこそがなにより慣れないところらしい。「こっちに来てから、毎日盆一つのお湯しか使えないから」
「それでも上等よ。シルヴィアの話だと、まえに王宮で侍女を務めていたときは毎日盆一つの冷たい水しか与えられなくて、冬になったらことによると凍ってしまうというから。そのあと離宮に来て箕帚人になって、ひさしぶりにお湯で湯浴みができたって」クララは言う。「もう一日耐えればいいの。明日は、王家の騎士団の屯所にある浴室を使う番が回ってくるから」
「王女様がくださる環境がすばらしすぎて、わたしたちは慣らされてしまっているんでしょうね。これが戦場だったら、冷たい水すらないかもしれないのに」
サラの言葉を聞いて、ロータが鼻を鳴らす。「ほんとうに自分を鍛えたかったら、身を清めるのを十日やめると決めてもいいわよ、わたしはなにも言わないわ──遠くに逃げるようにするだけで」
「二人とも同じ部屋に泊まって、行動も組になってするのに、どこに逃げるっていうの?」クララが横からからかう。
「それもそうか、この人とはもともと一つに縛りつけられてしまったんだから、逃げようにも逃げられないということね」ロータは腹立たしげに言ったが、表情からしだいに光が失せていき、途中で足を止める。「そもそもは、サラがわたしを家から連れもどしてきたのだし」
二年前、サラは王女の命を受けて、テルネーゼン家からロータを離宮に連れかえった。それは、エルザの同行なしではじめて単独で遂行した任務だった。
そのとき、ロータはすでに三ヵ月の期間を終えた箕帚人で、入団試験に参加する資格を手にしたが、あまりの緊張のせいでしくじり、試験通過が危うかった。幼いころから騎士としての訓練を受けてきた貴族の令嬢としては、そうとうに珍しいことだ。首席試験官だったカロリーンは軽くなぐさめの言葉をかけたあと、離宮に残ってもう三ヵ月準備を整えるようにすすめた。ロータの父は、この件を聞くと人を差しむけて、娘を連れかえると言い出した。伯爵が送りこんだ家臣をまえにして、王女には咎めることができなかったが、馬車が遠くに行ってしまったあとで、伯爵と交渉しロータを連れもどすようサラに命じ、急いで短い手紙を書いたのだった。
サラは馬を急がせ、あっという間にロータが乗った馬車を追いぬいていった。最後には、サラは一日早くテルネーゼン家の城に到着していた。王女がみずから記した手紙を読んだ伯爵は、娘が離宮でいま以上の剣術指導が受けられると、サラが証明してみせたら、王女の頼みに応じると口にした。そのためつぎの日の朝、サラは伯爵の護衛官と剣術勝負をするはめになった。サラが三度勝ったところで、馬車を降りたばかりのロータがびくびくと震えながら広間に入ってきた。伯爵はロータに歩みよってその頰を張りとばしたあと、すぐに娘を連れていくようサラに言ったのだった。
この一件はたちまち離宮に広がり、尾ひれがつけられた変形までいくつか生まれた。いちばんとんでもない例だと、サラはたった一人で伯爵夫妻と城内の護衛全員を打ち負かして、地下の牢屋に捕らわれていたロータを救い出したのだという。それからサラは箕帚人たちのなかでとくに尊敬を捧げられる騎士の一人になり、ロータも三ヵ月後、無事に試験を通過した。
こういった経緯を思い出してサラはため息をつき〝覚えているならいい〟と言った。
四人はそのまま橋のむこうに歩いていく。
「シルヴィアは今日、いっしょに行動ではなかったの?」サラが訊いた。
「騎士団のところに、
「あっという間にそんな時期ね」
「そうよ、また一年でいちばん忙しいときが来る」そう言って、クララはミアのほうを向く。「入団した時期がすこし悪かったわね、入ってすぐに新緑祭の準備の仕事に関わるんだから。この時期には全国の貴族が王都に集まってくるから、山ほど護衛の仕事をすることになるし、街道の警備も強化しないといけない。祝典が正式に始まったあとは、王家の騎士団の人たちとともに国王陛下が街を一周するパレードに付き添って、祈禱式に武術大会、舞踏会に参加するの。毎年、新緑祭が終わったあとには一、二日の休みがあるのが救いね」
「武術大会にはわたしも出場するんですか?」ミアが落ちつかない様子で訊く。
「団体戦があれば、あなたの番も回ってきたかもね」クララは言う。「
「八年前の武術大会では王女様も参加したと聞いたけれど、ほんとうなんでしょうか?」
「わたしも、そんなことがあったと聞いているわ」
「ほんとうよ、この目で見たんだから」ロータが口をはさんだ。「そのときはまだ小さくて、いまでは覚えていないことばかりだけど。だけれど二つ、はっきり覚えていることがあるの。一つはお父様が試合に参加して、しかもさんざんに負けたこと、二つめは王女様が見事な手さばきで、一突きで相手を馬から落としたことよ。ただそれから、王女様が参加したところは見ていないわ」
「それ以上参加しないように、パールが言ったんじゃない?」サラは言う。「こういう試合で、ちょっとした〝事故〟を起こすのは簡単そのものなわけだから。王妃のほうに王女様を害する機会を与えるわけにはいかない。武勇を印象づけたいというだけなら、一度参加すればそれで充分」
「だったら、どうしてパールは毎年参加するの?」ロータが尋ねる。「あれだけ何度も勝って、もう充分に深く印象づけられているでしょう」
「理由はわかりきっているじゃないの」クララが答えた。「湖畔の騎士団のため、王女様の名誉のために、毎年わたしたちのだれかは勝たないといけないの。そして相手がだれであっても、パールはきっと勝つことができる──ほかの人にはその実力がないでしょう」
「たしかに、そういうことなんでしょうね。われらが団長を見るたびに、心がくじけるような気分になるもの。あの人は騎士の模範も同然でしょう、さすがはクリスティーナの子孫ね。わたしではきっとああいう騎士にはなれないわ」そう言ったところで、ロータは同情を含んだ目でサラを見た。「だからサラがどうしてそこまで必死になるのかもわかるのよ、この人はパールの背中を見ながら育ってきたわけだから」
「あなた、十何歳のときのあの人といっしょに暮らしたことはないでしょう。パールと比べたら、わたしはちっとも必死だなんて言えない。あの人を目標にしようと思ったことだってないわ。わたしにとって、パールは領主の家の長女で、つねに手の届かない存在」
「あの人は手が届かない存在かもしれないけれど、その弟には手が届いたわけね」
「もうそのことでからかうのはやめて」サラは気づかないうちに声が高くなっていて、そのせいでまえを歩いていた王家の騎士団の面々がこちらを振りかえってきた。すこし恥ずかしくなってうつむき、深く息を吸いこんで、声を抑えて続けた。「どうしてあなたといると、結局いつもこの話題が出てくるんでしょうね」
「ロータはあなたの婚約者に焼きもちを焼いているだけかもしれないわ、いつかある日、その人はサラをそばから連れさってしまうんだもの」横からクララが言った。
今度はロータが顔を赤らめる番で、サラはなにか考えている様子でうなずいた。
「もしくはわたしがこの縁談を辞退して、一生
「婚約を破棄して、パールは許してくれるかしら?」
「もちろんそんなことはないでしょう」サラはとうとうこらえきれずに笑いだした。「たぶん、あなたも許してもらえない」
気づけば、一同は橋を渡りきる手前まで来ていた。
夕陽はすでに、山の上に建つ城のむこうに沈んでいた。夕霞がいまも輝かしく空の一面を覆っている。対して、川面の波の冴えた光はすこしばかり輝きが失せて見える。水面をめぐっていた鳥の群れもつぎつぎ巣に戻りはじめていた。ロータは帽子を取り、結っていた髪をほどいて、夕べの風に茶色の髪がそよぎ散らされるに任せた。そばを歩いていたサラは思わずちらちらと視線を向けて、その髪を一つかみ手に取り、そして相手が口を開くまえにすぐ手を放した。
「あなたのお父様は正しかった。騎士になったとしても、髪を短くする必要はない」サラは言う。「こんなにきれいな髪、切ってしまうのはあまりにもったいないから」
内市街にたどりついた四人は、中央通りを一区画ぶん進み、左手の路地に折れ、それからゆるい坂を上って、王都における湖畔の騎士団の屯所にやってきた。典型的なマルガレーテ一世時代の様式の館で、屋根裏を除いて四階建て、
前の代の君主だったオズワルド一世が治めた時代と比べると、マルガレーテ一世期の建築の装飾はずっと奥ゆかしくなっていたが、いまの目で見ればそれでも手が込みすぎているように思えた。柱、ひさしの下、窓に挟まれた壁面、どこもレリーフで装飾されている。多くは英雄や神々たちの像で、ほかにいくつか刻まれているのは館の最初の主の家紋──一匹の魚を口にくわえた
しかし、この紋章を使っていた家は〈七十日戦争〉のあとまもなく、敵と通じたために貴族の肩書を剝奪され、一族すべてがヴィティン島に流されて、この屋敷を含む財産も没収に遭った。ここにある鷗のレリーフいくつかは、彼らが王都に残したかぎられた痕跡なのかもしれない。アルフレッド一世は在位時、愛人にここをあてがい住まわせていた。八年前、現在の国王エリック三世はこの建物を王女に贈った。十六歳の誕生日のプレゼントだった。湖畔の離宮の改築が済むまで、王女とパールは一時期ここで暮らしていて、その後は王都における湖畔の騎士団の屯所になっている。
箕帚人のプリシラがドアを開け、サラたちを迎えいれた。
館の一階は小さい礼拝堂になっている。祭壇のあたりの天井はずっと高く、二階の半分の空間に食いこんでいる。二階はそれなりに広さのあるオーク造りの居間で、騎士たちはそこで食事をとり、会議を開く。三、四階には居室が十部屋あり、ふだんはほとんどが空いていて、毎年
一行は狭い螺旋階段を上って、二階の居間にやってくる。
シルヴィアは窓辺に座って本を読んでいた。一同が戻ってきたのを見ると本を閉じて、立ちあがって迎えいれると、居間の中央にある円卓に歩いていって腰を下ろした。サラたちも円卓に向かって座る。
湖畔の騎士団の全団員でも、シルヴィア・ハールレムの生まれはもっとも下層に数えられる。もともとは教会で育てられた孤児で、十歳のときに王宮に送られていちばん下位の侍女になり、王女が騎士団を設立すると湖畔の離宮行きを申し出て、初めの箕帚人たちの一人になった。四年間の訓練を経て、シルヴィアは入団試験を通過する。最初の箕帚人たちのなかではいちばん速い成長だった。
二年前、指導役だったハンナが殉職すると、シルヴィアはハンナの任務を引きつぐことをみずから名乗り出た。王都に常駐し、入れかわりやってくる騎士たちの手助けや、王家の騎士団との連絡を担うのだ。それと同じ時期シルヴィアは、代名詞になっていた赤髪を切ってしまい、最低限の長さだけを残していた。ハンナと結婚の約束を結んでいたヒルフェルスム辺境伯家は、シルヴィアを新しく縁談の相手に選びたいと言い出したが、シルヴィアによって遠回しに断られた。
全員が席に着くと、クララはシルヴィアに、王家の騎士団との会議について尋ねた。
「
「まったく、嬉しくもおかしくもないわね」
「どんなおかしなことを待ってたの? 港のあたりを任されるのはありえないのに」
「それもそうね」クララは言う。「王妃の側がほんとうにわたしたちを根絶やしにしたいなら、王家の騎士団を抱きこんで、とてもやっかいな任務が割りあてられるように仕向けてもいいんだから──たとえば新緑祭までに、ノルズリ港に巣くう勢力をすべて消すだとか。そうなったら、それこそわたしたちはあとかたもなく壊滅するわ」
「王妃だって、そこまであからさまなことはしないでしょう、国王陛下に気づかれてしまうから」シルヴィアは言う。「これからしばらく、わたしたちの受けもつ区域でなにか起こらないといいけれど」
「今晩、情報を探りに行ってこようか」サラが言った。「実際に災いの種があるなら、なるべく早く見つけて、来月王女様がやってくるまでに片づけてしまうほうがいいでしょう」
「例の、エルザから紹介された情報屋に会いにいくの?」シルヴィアが訊く。
サラはうなずいた。
「そうね。ついでに港のあたりの勢力の動きも探りを入れてみて」シルヴィアは言う。「わたしたちの受けもちの区域ではないけれど、わたしたちが護衛する貴族の何人かは船に乗ってきて、あそこから上陸するの。万一のために、あそこの状況を探っておいたほうがいいわ。わたしも王家の騎士団にいる友達に話を聞いておく」
そこに箕帚人のプリシラが居間にやってきて、夕飯の準備はできていて、いつでも食事にできると騎士たちに告げた。それを聞いたシルヴィアは、料理を運んでくるように言った。たちまち円卓には食事の皿が並び、そこにはパンにチーズ、ゆでた野菜、干した牛肉と油焼きのスズキが盛られている。プリシラは一人に一杯ずつ甘酒を注ぐことも忘れなかった。ここの食事は離宮よりもずっと充実していて、それはここに住みこんでいる料理人のヨハンナはたった数名を相手にすればいいのに対して、離宮の四人の料理人と手伝いの箕帚人たちは二百人近くの腹を満たす必要があるからかもしれなかった。
食事が始まってから、シルヴィアは王家の騎士団の近況を話題に出した。
「最近、不穏な噂を聞いているの、これも王家の騎士団にいる友達が話してくれたんだけれど」シルヴィアは話す。「その人によると、騎士団にいるかつての火の民たちが、団員のあいだで教えを広めていて、コールガを信仰していた騎士を自分たちの秘密結社に引きこもうとしているんだって」
「秘密結社って?」クララが尋ねる。
「なんでも〈聖火の騎士団〉だったか──とりあえず、そんなような名前。騎士団にいるかつての火の民たちはかねてからこそこそ動いていて、まえから人目を避けて、火の神を崇拝する秘密の儀式を続けているの。だけれど最近その人たちが、新しい仲間を取りこみはじめているらしくて。王妃の周りの人間が、わたしたちと敵対するために兵力を集めていると考えていいんじゃない?」
「あなたの友達も誘われたの?」ロータが訊いた。
「あの子は誘われるはずがないわ。火の神を崇める集団に、女がいるはずがある?」
「わたしたちも、かつての火の民の家で生まれた娘たちをすべて引きこんでしまえばいいんじゃないかしら」クララが言った。
「ほんとうに、ライメルスワール家の令嬢のことが忘れられないのね」シルヴィアが答えた。「あの人は頑固すぎて、わたしたちのところに引きこむのはいまひとつ望み薄でしょう。幸い、あの人でも〈聖火の騎士団〉は受けいれられないけれど。ほんとうに内戦が勃発したとして、あの人が重任を託されることはない。カペレ子爵の妹のマリアはまえから火の民の信仰にうっすらと疑いを持っていて、兄との関係も最悪だから、実際に引きこむとしたらあの人から始めるのもいいでしょうね」
「あの人も優秀な騎士ね──ケイト・ライメルスワールほど優秀ではないけれど」クララが答える。「それで、かつての火の民たちに引きいれられたその海の民たちは、いったい〈聖火の騎士団〉のどこに惹かれたの? そんな男しかいない結社に入ろうとするなんて、まさかそういう趣味があるんじゃないでしょうね」
「わたしたち湖畔の騎士団だって女しかいない。そういう目でわたしたちを見る人たちも少なくないのは否定できないでしょう。酒場を回る吟遊詩人たちにも、わたしたちのお話をひねり出している人たちがよくいるし」
「その口を閉じさせる手はないの?」ロータがいらだちをにじませて尋ねる。自分とサラがすでに話の種として目を付けられていることも、もう思いいたっているのだろう。
「方法がないわけではなくて、ただその必要がないだけ」シルヴィアは手にしていたフォークを置き、苦笑いを浮かべた。「その口ばかりが回る輩たちのおかげで、市民のあいだでわたしたちはとても有名なの。陰でこっそりと教えを広めて、秘密結社なんかを作ることしかできないかつての火の民の一団よりもずっとね──あまり知られすぎると、良いことだなんて言えないときもあるけど」
食事が終わると、サラはプリシラからランプを受けとり、ロータと連れだって部屋に戻った。
離宮の一人部屋と比べてもいくらも大きくないその居室は、二台のベッドが大部分の空間を占拠していた。ウォルナットのクローゼットはオズワルド一世期の
くだんの〝情報屋〟に会うには、身にまとっている騎士団の制服は人目を引きすぎるように思えた。なのでサラとロータは平服に着替え、長剣と短剣を提げなおして、ランプを手に階段を下りていった。
二人が居間にまた戻ったとき、もうシルヴィアの姿はそこになく、クララとミアだけが円卓に座っていた。卓上には王都の地図が広げられていて、クララはミアにそれぞれの通りの名前と目印になる建築物を教えているところだった。
「スルサル通りには赤い屋根の建物があって、上には銀色の
「覚えてます」
「その建物の横に、一本の路地がある」クララは地図の対応する場所を指さしながら話す。「そこはわたしたちがよく使う抜け道で、アウストリ市場の近くの混みあう道を避けて、直接ヴェストリ区まで向かえるの。だけどそこはがらくたが積みあがっていて、馬で通るのはあまり簡単とはいえない……」
サラとロータは二人のじゃまはせず、手を振ってみせただけで居間を離れ、階段を下りた。通りに出ると、空はすっかり暗くなっている。月はまだ上ってくるまえで、薄暗い明かりがそこここで通り沿いの窓から射しているだけだった。まばらに見える通行人たちも、多くは明かりを手にしている。ベストラ橋を通るとき、港のほうの灯火を望むことができた。外市街にやってくると、二人はがらんとしたアウストリ市場を抜け、すれちがったのは王家の騎士団の巡回担当だけだった。大聖堂のまえの広場に残っているのも、ことのほか敬虔に祈りを捧げる人々だけだった。いま、昼間にはこれ以上なくにぎわっていた場所はのこらず静まりかえっていて、いつまでも帰ろうとしない人々の多くは、すでに港の近くの小さい酒場に押しよせている。とはいえ二人の目的地はそこではない。
二人はそのまま東に進み、ネルサス川そばのグリョータ通りまで歩いてくる。そこはスズリ学院の外縁にあたる。いつもこの時間になると、通りの酒場はきまって大学生たちでごったがえす。
サラはロータを連れて、〈菩提樹〉という店に入っていく。
店外には菩提樹で作られた大きな盾がかかっていて、それが店名の由来なのかもしれない。
店にいる客はほとんどがサラと同じような年齢か、もしくはすこしばかり年上で、年かさの者は一人もいない。一目で大学生とわかる客たちは、男女を問わず腰に武器を差していた──間違った差しかたを選んでいて、必要なときにただちに剣を抜くのは苦労するだろう者ばかりだったが。マルガレーテ一世が戒律を発布し、王家の騎士団の団員間での決闘を禁じてから、スズリ学院は新たに決闘の温床になっていた。騎士たちが名誉を重んじるのに対して、学生たちの決闘の理由はだいたいもっと幼稚かつ
店でいちばん大きいテーブルには、十数人の男女が輪になって座っていて、全員べろべろに酔っぱらい、下品な話をわめいている。サラはそこからなるべく離れた空席を選んだ。しかし、二人が腰を下ろすと、横のテーブルにいた三人の若い男がカード遊びの手を止めて、顔を近づけあってなにか低い声でぶつぶつ話しながら、しきりに二人のほうにちらちらと視線を向けてきた。
そこに、黄色のワンピースを着た少女が二人のテーブルにやってきて、飲み物は何にするか訊いてきた。ヴィティン島で作られる蒸留酒が欲しいとサラは答えたが、ないと知らされるとベーフェラント伯爵の領所で作られるジンに変えた。ロータはテルネーゼン伯爵領産の
少女がいなくなると、隣のテーブルの三人が突然大声で話を始めた。
「おまえ、わが国はどうして〈七十日戦争〉でエルドゥリアに負けたんだと思う?」そのうちの一人、短いひげを生やした若い男が口を開いた。「開戦のまえは、こっちの国力がどう見ても勝っていたじゃないか」
「理由は簡単さ」サラとロータに背を向けている男が答えた。「こっちは武器に
「それって、女騎士たちのことだろう?」もう一人いた男が口を開く。そう話しながら、サラたちのいるほうに視線を向ける。「おれもそう思うぜ。女騎士は生まれつき身体のほうで遅れを取ってるんだ、戦闘力は下がるさ。もしあいつらにあてがわれた資源を男に渡してたら、あの戦争でこっちが負けることはなかっただろうな」
「貴族のお嬢様がたは、そもそも騎士を嫁入りまえの楽しみとしか思ってないのさ」ひげのほうが言う。「騎士は男でも女でも、十五歳まで訓練しないと戦力にはならない。男の騎士は五十歳まで奉職できるが、同じだけの資源を費やして育成した女騎士のほうは、だいたい三十歳にならないで退役して結婚するんだぞ。もったいなくはないか?」
「このまま女騎士が国の資源を無駄づかいするのを許してたら、そのうち国ごと滅んでもおかしかないな」
「知ってるか、〈七十日戦争〉で
「たしかにあいつらは、フリューロートの丘で山ほど血を出したわけだ、それも下だけじゃなく」
王女が離宮に移り住み、湖畔の騎士団を設立してからというもの、このたぐいの女騎士亡国論が王都に
パールの目からすれば、こうした発言は世に広まるとおそらくそれ以上の人々の反感を呼び、もとは立場が揺れていた市民たちは彼女たちの支持に回るだろうということだった。
パールは正しかったようだ。
いま、黄色の服の少女が酒のカップを両手に持ち、サラたちのほうに歩いてくる。くだんのテーブルの横を通ったとき足を止め、礼儀を保ちながら三人の学生に声をかけた。
「お客さんたち、このまま国に身を捧げた英雄を侮辱するようだったら、場所を替えてもらえませんか、もしかするとエルドゥリア王国の酒場のほうが歓迎してくれるかもしれませんよ」
その言葉は三人を怒らせたようだった。
しかし、彼らが少女に怒りの視線を向けたとき、まわりのテーブルの人々もそろってこちらをにらみつけているのに気づく。血の気の多い若者にいたっては数人、剣を抜こうとしている者もいた。
そのとき、ロータが立ちあがって、少女の手から葡萄酒の入ったカップを取り、一息で飲みほした。それでも気が収まらなかったのか、サラが頼んだジンも続けて飲みほすと、ランタンを取って、サラに〝行きましょう〟と一声かけた。サラも何も言わずに立ちあがり、ポケットから銀貨を一枚出して黄色の服の少女に渡す。
酒場を出た二人は、学院の方向に通りを途中まで歩き、あの三人の学生が付いてきていないのを確かめてようやく一息ついた。自分たちが店を出たあと、ほかの客があの学生たちに決闘を挑んだかは、自分たちが気にする必要のないことだった。
「受けとった?」ロータがサラの耳元に近づいて訊く。口からはアルコールの香りが漂っていた。
サラは握っていた左の拳を開く。手のひらには二度折りたたまれた紙きれが乗っていた。あの黄色の服の少女が、ロータが全員の目を引きつけているすきにこっそりと握らせてきたものだった。紙きれを開き、ロータとともにランタンの光を頼りにそこに書かれた文字を読む。それはヴェストリ区の住所、より正確に言うならある路地の名前だった。
「この場所はわかる?」ロータが訊く。
「あの赤い看板がある時計屋の裏か──すごく髪が薄い店主の、時計屋」
「どうしてこの路地を知っているの?」
「エルザに覚えさせられたの」サラは歩みを進め、ヴェストリ区に向かって歩き出す。ランタンを提げたロータがその横を歩いた。「むかし、あの人は王都の地図を渡してきて、なんの地名も書いていないのをわたしが自分で埋めることになったの。わたしが一ヵ月かけて地名をすべて埋めたら、あの人はその地図を焼きすてて、また空白の地図を埋めさせた。それを何回か繰りかえしたら、忘れたくても忘れられない」
「ほんとに、あの人のしそうなことね」ロータは話を変える。「そういえば、さっきの学生たちはどうしてわたしたちが騎士だってわかったんでしょうね、この恰好は学生には見えない?」
「以前の巡回のときに見られていたのかもしれないし、歩くときの姿勢が物語っていたのかも。服を変えたとしても、癖はそう簡単に変わらないでしょう。女学生はわたしたちのようには歩かないから」
「プリシラはスズリ学院の聴講生なんじゃなかった? あの人の歩きかたはとても騎士らしいけれど」
「とはいってもまる五年騎士の訓練を受けた聴講生なんだから。騎士になっていなくても、そうした癖はたぶん死ぬまで変えられないんでしょう」サラは言う。「さっきの学生はなにひとつわかっていない。女騎士は二十何歳かで退役するとしても、一生付きまとうものはあるの」
──訓練と実戦のなかで磨かれた人格もそうだし、騎士の生涯には避けられない、恐れや傷病、そして仲間を失う苦しみもそうだった。
ヴェストリ区は職人たちが住む土地で、工房がひしめき、道路も複雑に入りくんでいた。どれだけ狭く、短い路地であってもそれぞれが名前を持っていたが、住民たちが話に出すときは、どこかの店か工房の〝裏〟としか言われない。わざわざすべての地名を覚えた騎士でなければ、ほかの人間があの紙きれを手にしたとしても、目指す地点がどこかわかったとは限らない。昼間はひとでごったがえす通りも、この時間になれば通行人はいくらもいない。この場所の照明も、内市街やスズリ学院の近くのような明るさとは大違いだった。幸い二人がヴェストリ区の境界を越えるころには明るい月が昇っていて、遠くからでも住所の印を確かめることができた。
サラは慣れた様子でロータを連れて路地を通り、たちまち約束の場所にやってきた。その路地はせいぜい一人しか通れず、曲がりくねって一目で見とおすことはできないが、二、三十歩も歩けば抜けられてしまう。壁にもたれてしばらく待っていると、ぼろの服を着た老人が二人の向かいから歩いてきた。
全身が酒臭く、杖につかまりながら苦労して歩き、たびたび手をれんがの壁に突いている。
「ご老人」サラは言葉をかける。「なんの酒を飲んで、そこまで酔っぱらっているの?」
「フリシンゲン侯爵の領地で作るアマレットさ、ヴィティン島の蒸留酒もな」
「さっき店でヴィティン島の蒸留酒を頼んだときには、売り切れだと言われたけど」
「あの酒は最近人気が出て、安くても一瓶で五十デナリはするもんでね」老人は言う。「あんた、その金は出せるのかい?」
「先月はまだ三十デナリ程度じゃなかった?」
「
「値段はそれでかまわない」サラは言う。「まえからの決まりどおり、明日には店に届けさせる。わたしは、そっちが売る酒が自分の求めているもので、その値に釣りあうのか、確信がないだけ」
「言ってみな、なにが訊きたい」
「
「動きなんかありゃしないさ」老人は言う。「この時期、なんでこんなに蒸留酒が買えなくなるか知ってるか? 毎年新緑祭が近づくと、密輸の取りしまりを受けもってる部隊は一時王都のほうに呼ばれちまうんだ。港の連中が諸島の蒸留酒をこっそりエルドゥリアに密輸しようとするなら、絶好の時期だろう。連中に騒ぎを起こすひまなんかないってことでね」
「そんな情報だけじゃ、五十デナリには釣りあわない」
「あとはなにが知りたいんだ」
「先月、スクレイタ通りで金細工師が品物をまとめて奪われて、いままで見つかっていないでしょう。あの件の続きはある?」
「あのときの品はまだ出てきとらんよ。溶かされたのかもしれんし、まだ売られてないのかもしれん」
「もう別の場所に運ばれたとしてもおかしくない」
「グルントヴィじゃ、売りさばく経路なんかいくらでもある、わざわざ運び出す危険を冒す必要なんかないさ。あの品が出てきたら、わしらの耳に入ってるはずだ。これだけ経ってもなんの知らせもないってのは、なかなか妙な話だな」
「その酒は今日は売れないようね」
「もう一つ話をしてやろうじゃないか」そう言って、老人はまたすこし二人に歩きよった。「内市街のヴァナルガンド通りはあんたらの受けもちだろう?」
サラは答えない。否定が返ってこないのを見た老人は話を続けた。
「最近ヴァナルガンド通りで、妙なことが起きたんだ。ある娘が、となりの一家が一晩にして全員知らない人間に入れかわったのに気づいたそうでね。親たちはその件を見回りの騎士に報告したが、取りあっちゃくれなかった」
「いつごろのこと?」
「二週間は経っとらんな」
「ほんとうならそうした報告を受けた場合、騎士が黙って見すごすはずはないのだけれど」サラは言う。「その娘はまだかなり小さいの?」
「知らんよ、娘としか聞いてない」
「十七、八歳だって娘と言うし、五、六歳だって言うでしょう」
「その娘の歳が大事なのかい?」
「その日に巡回していた騎士にとっては大事だったんでしょう。わたしはどうだっていい」肩をすくめる。「大人はいろいろな理由で噓をついて、子供のほうがかえって誠実──そういう道理を説く旧世界のおとぎ話がなかった? その家の場所を教えて、時間を作って調べにいくから」
「おれの酒には買い手が付いたらしいな?」
「明日の朝、店に金が届くから」
その言葉を聞いて、老人は満足げにうなずいた。
「この妙な話に気づいたのは、リュンビュ=ターベック家の娘さ」
「その家なら知っている。父親はニャルザルの生まれの商人で、薬を売っているでしょう。母親は医者で、ヴァナルガンド通りで診療所を開いている」
「そうさ、その家だ。詳しいことはそいつらに訊くといい」
情報を伝えてしまうと、老人はまた杖に頼りながらふらふらと歩いていき、暗闇のなかに姿を消した。サラとロータは大きい通りに向けて歩いていく。
大通りはヴェストリ区を端から端まで貫いており、二人はベストラ橋に戻ってきた。
「さっきの情報、ほんとうに五十デナリの価値があったの?」さきほどは一言も口にしなかったロータが訊く。
「エルザが言っていたの、情報を買うのは
「あの人が言いそうなことね。騎士団じゅうを見ても、博打を比較の相手に出してくるのはあの人だけでしょう」
「もしその子の話がほんとうだったなら、この情報はたしかに出した額の元が取れるかもしれない」
「となりの一家がいきなり知らない人間に入れかわったって、それがどういう話になるの? 急に家を譲りわたしただけかもしれないし、もしくは家を出る用があって、一時管理を頼んでいるのかも」
「
「最悪の可能性、というのは?」
「新緑祭のときにはパレードの隊列が街を一周して、国王から各所の貴族まで参加する……」
「それは、となりに突然現れた知らない人間というのが、刺客かもしれないって?」
「すくなくとも、可能性はあるでしょう」サラは答える。「その可能性があるなら、調べておいたほうがいい」
二人が内市街の屯所に戻ると、このときも箕帚人のプリシラがドアを開けてくれた。ミアとクララはもう居室に戻って休んでいて、シルヴィアは居間の円卓に座って本を読んでいる。卓上に何枚か図面が広げられているのは、プリシラの覚え書きなのだろう。サラとロータが腰を落ちつけたあと、思ったとおりプリシラはその席に座った。
プリシラはシルヴィアと同じく、最初に務めはじめた箕帚人だった。まだ入団試験を通過できず、しかしなかなか出ていこうともせずに、そのうちシルヴィアとともに王都に送られるとともに、王女の命に従ってスズリ学院で建築関係の教程を聴講している。
「なにか情報は訊き出せた?」シルヴィアが本を閉じて尋ねた。
「港のあたりではしばらく騒ぎはないだろうと。それと、一つ面白い情報を買いとってきたの」ヴァナルガンド通りの奇妙なできごとについて話した。
「その情報にいくら払ったの?」
「五十デナリ」
「ずいぶん得をしたみたい」シルヴィアは笑い、プリシラのほうを向いた。「明日学院に行くとき、ついでにお金を〈菩提樹〉に持っていって」
「了解」
「明日の朝、いっしょにヴァナルガンド通りに行ってみよう」シルヴィアの表情がふたたび真剣なものになる。「この件はなるべく早く片づけたほうがいい」
「クララとミアも呼ぶ?」
「あの二人にも声をかけるのがいいと思う。もしそこで暮らしているのがほんとうに、王都に送りこまれた刺客だとしたら、激しい戦いになるのは避けられないから」
「ただの誤解だといいけれど」ロータが言った。
「幸運を期待しておかないほうがいい」シルヴィアが返す。「今晩はゆっくり休むことにしましょう。明日はひと働きしないといけないかも」
つぎの日、サラはふだんよりも早く目を
サラがいでたちを完全に整えるころ、ロータがしょぼつく目をこすりながら起きてきた。ざっと洗面を済ませたあと、サラが鎖帷子を着せてやり、その髪も結ってやった。
二人が居間に行くと、クララとミア、シルヴィアもすでに身だしなみを整え、そこで待っていた。簡単に朝食を済ませて、一同はヴァナルガンド通りに向けて出発する。
ヴァナルガンド通りは内市街の南東のすみに位置していて、住民は豊かな商人が主になる。建国戦争のとき、〈白髪の〉ヨースタインは部隊を率いてこの近くの城壁を掘りくずし、当時もっとも堅固だった要塞にまっさきに攻め入った。そのせいでこの区域はもっとも破壊がひどく、建国戦争まえから残ることができた建築などほとんど見当たらない。これから訪ねることになるリュンビュ=ターベック家は、母方の先祖エイル・リュンビュが建国戦争中に軍医を務め、グルントヴィの都が作られたあとにヴァナルガンド通りに居をかまえ、代々診療所を開いて現在に至る。
診療所は白い二階建ての建物だ。数枚のステンドグラスに描かれているのはどれも先祖のエイルが兵士を救う光景で、庭にはりんごの木が何本か生えているので、見つけ出すのは簡単だった。
シルヴィアはこの診療所の顔なじみだった。去年の冬、左膝の古傷にさんざん苦しめられたとき、痛みを和らげられたのはここで出された
診療所のドアをノックして、迎えに出てきたのは弟子のジェニーだった。いきさつを話すと、主の女医者を呼んでくる。
「うちの娘のファニーが気づいたの」彼女は話す。「先月に十歳になったばっかりだけれど、とても賢い子で、噓なんかついたことがないの」
「ほかにはだれも見ていないの?」
「あれからだれも、家から人が出てくるのは見ていないわね。どの部屋もカーテンを閉めているの。だけれどなかにはいるはず、夜にはむこうから物音が聞こえてくるし、煙突からもときどき煙が出るし」
「もともとのとなりの住人は、どういう人なんでしょう」
「旦那さんは諸島のほうから来た酒の商人ね、ホフスさんというの。十何年かまえにあの家を買って。諸島の商人たちはそこだけで輪を作るから、うちとは大してつきあいがなかったの、家のだれかが具合を悪くしたときだけ、うちを訪ねてきたわ」
「お嬢さんはどうやって異変に気づいたの?」
「すこしまえ、ファニーが庭から走ってきて、となりの家から知らない人たちが出てきたと言ってきたの。わたしは気に留めないで、あちらにお客さんがいたのだろうとだけ思って。そうしたら次の日にも、同じ人たちを見たと言いだして。ちょうどその日の午後、諸島から来た商人がうちに薬を取りにいらしたものだから、彼女に最近ホフスさん一家を見たか訊いたのだけど、先月から見ていない、旦那さんは商売にかかわる大事な会議も欠席しているそうで。それでこれはおかしいと思って、見回りの騎士のかたにこの件を報告したの」
「しかし、見回りの騎士は話を受けつけなかった?」
相手はうなずく。
「それはその人たちの失策でしょう。となりというのは、東のあの家のことね?」そう言って、シルヴィアは診療所の東にある屋敷を指さした。ここから目に入る窓はすべてカーテンが下ろされている。診療所の西側の家では、庭でメイドが花に水をやっていた。
「そう、あの家ね」
「いまから調べに行きましょう。ことによると最悪のことが起きているかもしれない、しばらく外には出てこないように」
女医者がドアを閉めると、一同はとなりにある問題の家を観察しはじめた。屋根裏のある二階建ての家で、深い緑色に塗られている。正面は真新しく見えるので、最近修繕をしたのかもしれない。屋根から伸びている煙突は古く汚れた様子で、建物の実際の年齢を明らかにしていた。おそらくここはとなりの診療所と同じく、建国戦争が終わってまもないころ完成したのだろう。
そして彼女たちは、計画を決めた。サラがドアをノックし、ロータとクララ、ミアがそのあとに従って、状況が変わった場合はただちに戦闘に加わる。シルヴィアは建物の裏の路地に回りこんでその方面を固め、窓から飛びおりて逃げられるのを防ぐ。
作戦開始のまえ、シルヴィアは一言だけ、〝なるべく生け捕りに〟と言いふくめた。
一同はそう広くない庭を抜けて、サラがドアをノックした。なかなか人が出てこないので、さらに手荒な態度でその分厚い木のドアを七、八度叩いた。それからもうしばらく経ってようやく、ドアの向こうから足音が聞こえ、一人の男がドアを開けて四人のまえに姿を現した。
男の見た目は三十歳ごろというところで、頭は赤毛、身にまとっている褐色のローブは上等な生地でできているが、ぶかぶかに見え、おそらく当人の身体に合わせたものではないのだろう。
腰には長剣を差している。
「ソフスさんはいらっしゃいますか?」サラは格式ばった口調で尋ねた。「騎士団の者です。来ていただきたい用件があるのですが」
「あの人は……」
「旦那さんは留守ですか? 奥さんかお子さんでもかまわないのですが」
「あの一家は急な用事で街を出ていましてね」男は落ちつかない表情で、噓をついているのは明らかだった。「おれは家のことをするために雇われただけで」
「ソフスさんのところで働いて何年になるのですか?」
「四……五年だけれど」
「そうですか? なら雇い主がなんという名かは知っているでしょう?」
それを聞いて、相手はサラの罠にはまったことを察したらしい。あわてて剣を抜こうと手を伸ばしたが、一歩遅かった。剣を抜く速さでは、長年訓練を受けたサラにかなわないのは明らかだった。震えの止まらない男の指が剣の柄に触れたかと思うと、サラの剣が二本の指を切りとばしていた。
男が叫び声を上げながら、指を切られた右手を振りまわしているあいだに、サラは一歩進みでて、相手の腰の剣を左手で抜き、二本の剣を交差させて男の首に当てた。抵抗不能になった男はたちまちロータとクララによって押したおされる。切られた指からはいまも鮮血が噴き出しつづけていた。
奪った剣を床に放ったサラは、振りかえってミアに視線を向けた。顔を真っ青にし、こちらを見られないでいる姿が目に入る。
ミアにとってこの場面は血なまぐさすぎた。
サラは腰の縄をほどき、ミアにほうり投げて、同時に命令を下した。「縛って。剣を抜いて向けておいて、逃がさないように」
ミアは唇をかたく結び、うなずいて、言われたとおりに動く。ミア一人では手に余るかもしれないと心配したクララは、庭に残って付きそい、同時に正面の窓から人が逃げるのを食いとめることにした。
サラとロータは屋敷に踏みこみ、狭い玄関ホールを抜けたさき、広い居間に入っていった。一階の玄関を入ってすぐに居間を置くのは諸島の方面の習慣で、建国戦争後に王都で建築された家々も似たような作りをしている。正方形のオークの板を継ぎあわせた天井はすこし年季が入っているようだが、室内のしつらえは真新しい。床には青の絨毯が敷かれている。
二人が数歩足を進めたかと思うと、居間の反対側のドアが乱暴に開いて、二人の男がこちらに向かってきた。一人は五十歳ごろで、髪にはもう白いものが混じっている。もう一人はいくらか若かったが、年寄りじみたあごひげをたくわえていた。この二人も体格に合わない服を着て、手には長剣を握っていた。
すこし若いほうの男がサラに向かってきて、もう一人がロータに狙いを定めた。
すぐにサラは、相手は剣術について完全な素人であるのを察した。剣を握りしめ、前に足を進めて止まろうとしないが、二人のあいだの距離をいっさい意識していない。見ていると、二本の剣の先端が一つに触れあった。それでも男はゆっくりと前に進みつづけ、サラは両者の武器が交わる場所に目をこらしている──剣の長さの五分の一の場所、四分の一、三分の一……
そのあいだずっと、サラは慣れた様子で相手の剣をくりかえし
そしてとうとう、
しばらく
この限界まで張りつめた状況でも、さらに経験を積んだ騎士であれば冷静に別の技を選び、相手を生かしておけたのかもしれなかった。しかしサラには不可能だった。判断を下すよりもまえに、身体が代わりに一連の動作を終えてしまっていた。
男の身体から剣を抜きさり、一歩さがる。男は手にしていた剣をほうり出し、胸元を押さえて、身をよじりながら床に倒れた。
どんな医者でも手のほどこしようがない致命傷だ。数分のうちに死ぬだろう。
そのときロータは、白髪混じりの男と対峙している最中だった。相手はゆっくりと一歩ずつ押しもどされ、すでに壁のところまで来ていた。とうとう男はこらえきれずに動き、ロータの胸に剣を突き出したが、苦もなく防がれた。
ロータは即座に剣をひらめかせて相手の左腕に切りつけ、腕に深い傷を刻みこんだ。激痛で男の動きが鈍ったその隙にロータは一歩踏み出し、男を蹴りたおすとともに、剣の柄をがっちりとつかんで放さない相手の右手を踏みつけ、剣の先を喉元に据えた。
サラは急いで歩きより、腰の縄を一本ほどいて、男の両手を背中で縛りあげようとした。
しかし、男のつぎの行動は二人の予想を超えていた。
男はいきなり上半身を持ちあげ、ロータが手にしている刃に向かっていった。剣の切っ先がその首を切りさき、鮮血がロータの
その展開はあまりにも突然で、ロータは思わず数歩後じさり、あやうく転びそうになった。
サラのほうを向く。しかしサラにもこの男がどうしてそんなことをしたのかわからず、首を振って返すしかなかった。
二人は深く息を吸いこみ、居間の奥のドアを入って、長さのない廊下を進んでいった。廊下の突きあたりには二階に通じる階段があった。廊下の両側にあるドアを一つずつ開けるが、むこうには一人の姿もない。なので階段を上がり、二階に向かう。
ロータの歩く場所には、血に染まった足跡が点々と残る。
二階に着いてすぐ、荒い息づかいがサラの耳に届いた。二人は慎重に数歩進む。廊下の両側にはそれぞれ閉まりきっていないドアがあり、両方のドアから息の音が聞こえていた。二人は視線を交わし、心のなかで三つ数え、同時に二つのドアを蹴りあけた。
ドアの向こうには、たがいに似たつくりの寝室があり、それぞれ刃物を手にした女がなかに立っていた。
サラとロータは分かれて部屋に踏みこみ、それぞれの相手との対決に移った。
サラのまえにいるのは、まだ歳のいっていない赤毛の女だった。身にまとっている長いワンピースは明らかに身体に合っておらず、腰回りがすこしばかりきつそうで、スカートの裾はすでに床に引きずっている。
手に握っているのは、精妙に飾りたてられた
スズリ学院の学生は、決闘のときこのたぐいの刺剣を使いたがる。決闘をしないとしても、いつもそれを腰に差し、繊細な彫刻のある手元の覆いを見せびらかしている。しかしサラの目からすれば、素人が簡単に使いこなせる武器ではとうていなかった。あの学生たちが命を懸ける決闘は、騎士からすれば
いまサラが悩まなければならないのは、どうすれば相手を戦闘中にうっかり殺してしまわないかのほうだった。
剣術に関して、目のまえの女はあの学生たち以上の素人だった。剣を高々と頭の上に掲げ、左手を鍔に添えて、サラに向けて斬りかかってきた──明らかに、刺剣の正しい使いかたではない。
剣を持ちあげて受けとめたあと、かすかに身体をひねって剣を外した。相手が慣性に従ってなおも前に進むそのいっぽうで、サラはその背後に回りこんで、剣の柄ですばやく女の背中を突いた。相手が倒れこんだあと、床に落ちた刺剣をサラは蹴りとばした。
サラに激しい一撃を食らっても、女は頑強なところを見せ、その場で気を失うことはなかった。それでもすでに身動きはできず、サラが背中で両手を縛りあげるに任せるしかなかった。
そのときロータは、戦闘のなかで相手の喉を切りさいていた。望んでいた結果のようには見えない。刃に残った血を振りはらったあと、死体をまえにして深々とため息をつく。
「ぜんぶで何人いるの?」床に倒れている女にサラは尋ねた。
「六人」女は言う。「あたしを入れて」
つまりまだ一人、片づけていない仲間がいる。
相手が正直に答えたのを見て、サラはわずかに救われた気分だった。反抗する力を失った相手に暴力を振るうのは、まえからサラには抵抗があることだった。騎士の仕事がそう見映えの良いことばかりなはずはないと、わかっていてもだ。このあと話を訊き出す仕事はシルヴィアに任せよう。彼女がさまざまな手を使って犯罪者の口から情報を引きずり出すのを見たのは一度ではなく、毎度耐えきれずに背を向けることになった。
ひとまず女は放っておいて、このまま先に進むことに二人は決めた。二階のほかの寝室いくつかを入念に調べたが、そこにはだれ一人いなかった。
残り一人の仲間が隠れているのは、屋根裏しかありえないようだ。なので二人は廊下の突きあたりの階段を上っていった。
屋根裏は物置として使われている。すぐに二人は、うち捨てられた家具と長く保存できる野菜の山のあいだで、一人の死体を見つけた。
若い男で、二十歳を超えているようには見えない。古ぼけた化粧台に背中をあずけ、床に座りこんで、短剣を心臓に突き刺していた。身に着けているリネンの寝間着のローブは、毛深いすねをまったく隠せておらず、これも男の身体に合わせた服ではないらしい。
服の胸元を赤く染める血はまだ乾いていない。自殺してさほど経っていないのだろう。格闘の物音を聞きつけて勝算がないことを知り、自分の命を絶ったのだろうか。
「終わったわ」ロータはほっと息をつく。「大事件を解決したのかもしれない」
「だといいけれど。なにもかも始まったばかりのような気がする」サラは言った。「奇妙だと思わない? わたしたちがほかの人間を片づけるのにもそれなりに時間はかかったのだから、二階の寝室のどれかに駆けこんで窓から逃げ出す機会は充分にあったでしょう」
「それを言うなら、さっきわたしが油断して殺してしまった女もそうね。あの身のこなしを見るに完全な素人で、わたしたちと正面からぶつかる必要なんかまったくなかったわ。あのとき背後には窓があって、わたしたちを見てからでも窓を開けて飛びおりるには充分に間にあった。それに一階でわたしが倒したあの男も、あんなやりかたで自殺するなんて……」
「すこし不安があるの、彼らはなにかの秘密を守るために自殺したのかもしれないって」
「確かにそれはありえる」ロータは答える。「とはいってもまだ二人生きているのだから、きっとシルヴィアが秘密を引きずり出してくれるでしょう」
二人は二階に戻り、命拾いした女を連行しようとした。その腕を縛る縄をロータはつかみ、立ちあがらせて、廊下のほうに向かって歩かせる。サラはその後ろを付いていった。
すべて滞りなく見えたが、突然の出来事というものはこちらの対処を拒んでくる。
一同が階段の下り口にさしかかったとき、捕らえられた女がいきなり激しくあがいてロータの手から逃げた。両腕を後ろ手に縛りあげられているのにもかまわず、身を躍らせ、衝突音を響かせながら階段を転げおちていく。
サラとロータは慌てて後を追い様子を確かめたが、女は首が折れてしまい、息絶える寸前だとわかった。
「……守りたまえ……」その命の最後に、女は口のなかでなにかをつぶやいていた。「……の聖女よ、われらを守りたまえ……」
前触れのない自殺行為をまえにして、不吉な予感がサラの胸に湧きあがる。玄関に向けて足を進め、なるべく早くミアとクララのほうの状況を確かめようと考えた。廊下と居間を抜けた果てに、分厚いドアを押しあけたとき、その目に映ったのはなによりも見たくなかった光景だった──
ドアを開けたあと自分が制圧した男は、すでに血だまりのなかに倒れていた。首には深い傷口がある。ミアは鮮血に染まった長剣を手にし、その場に立ちつくして、何もできずに呆然としている。クララはその肩に手を置き、ミアを慰めているようだった。
戸口にサラが現れたのを見て、ミアは剣を手から落とし、こちらを向いた。
「突然起きあがったものだから……殺すつもりはなくて……」
これはミアの初めての殺人で、そして剣を抜いて相手に向けるよう命令を下した人間こそサラだった。ミアを固く抱きしめ、なにか声をかけようとしたが、言葉が出てこない。
「ほかの一味は?」クララが尋ねた。もう答えはわかっているのだろう。
「全員死んだ」ミアを抱きしめていた腕をゆっくり離し、半歩下がる。「二人はわたしたちが殺してしまって、二人は制圧後に自殺した。もう一人はわたしたちと対面するまえに自殺したの」
「あまり落ちこまないで」クララが言う。「あとで部屋を一つずつくわしく調べれば、なにか手がかりが見つかるかもしれないもの」
「手がかりなら見つけたわ」
ロータの声だった。すぐにサラの背後に姿を現し、左手に提げた銀色の鳥かごには、灰色の
その紙をサラに渡してきた。目を走らせると、それは手紙の下書きのようだった。文字はひどく乱雑で、初歩的な
つぎに狙うとこはもう見つかった。スクレイタ通りの宝石職人が新しい仕事を受けて、月末に引きわたしだ。すぐに動かないといけない。先月金細工職人のとこに入ってから、スクレイタ通りはまえより用心してて、いまの人手で相手にするのは無理だ。四、五人よこしてくれるか? うまくいったら、収穫はとんでもないことになる。七短剣の聖女よわれらを守りたまえ。
「この手紙はどこで見つけたの?」
「一階の書斎で」ロータは答える。「この鳥かごもいっしょだったわ」
「どうやらわたしたちが来るまえ、連中のだれかがほかの場所の仲間に手紙を書いていたようね。書きあがったら、この籠の伝書鳩に運ばせようとしていた」クララが言う。「これはきっと仲間のところから連れてきた鳩で、籠から出せばそれだけで仲間のところに飛んでいくんでしょうね」
「だったら、わたしたちはどうすればいい?」ロータが言う。「鳥かごを開けて鳩を放して、馬を急がせて後を追う?」
「こういう銀めっきの鳥かごは、そこらの人間が使えるものではないでしょう」サラが言った。「もしどこかの貴族の家から持ってきたものなら、その家の紋章が刻まれているかもしれない」
「ここにある」ミアが最初に見つけ、ほかの三人のためにその場所を指さした。
かごの底の中央に、銛を手にしたアシカが刻まれ、周りが波の紋様で飾られている。
「この図案は見たことがあるわ、ネストヴェズ家の紋章よ」クララが口を開いた。「ネストヴェズ家はもともと諸島の貴族で、十数年前に許可なしでエルドゥリアと交易をしたことで貴族の位を剝奪されて、領地も失ったの。そのあとも商売でお金を稼いで、懐事情が危うかったホフファイフェル侯爵から荘園を買いあげたの、王都からそう遠くないところ。必要なだけのお金を稼いで、貴族の位も買いもどすつもりでいるらしいわ」
「それが強盗と手を組んでいる理由なの?」ロータが尋ねる。
「ネストヴェズ家の商売はたしかにあまりきれいではなくて、諸島の貴族たちはみな恥に思っているけれど、そんなお金のために強盗と手を結ぶとは思えない」クララが言う。「事態はもっと悪いかもしれない。おそらくその荘園の