「いまわたしが話したこと、繰りかえしてみましょう」イーディスが言う。「火の王ムスペルが、エルドゥリア王国を建てたところから」
ミアは深く息を吸いこんで、顔を上げ、できるだけ机のうえのノートを見ないようにした──そこに記されているのは、走り書きした断片的な言葉だけだったが。午前中しっかり休んだあとのことで、ミアの顔にもう疲れは見えなかった。
午後をまるまる使って、ミアは図書室で先輩たちから新人としての教育を受けることになっていた。
授業の内容と教師の人選は団長のパールが決めた。朝の儀式が終わったあと、クララと何人かの若い騎士たちに役目が配分された。彼女たちは午前の時間を準備に充てることができた。
具体的な割りあてはというと、イーディスとロータがヴィグリド大陸の歴史を担当し、サラが現在の政局の解説を担当。クララは騎士団の日常の任務と注意事項についてミアに説明することになった──この部分はふつう最後に回される。たいてい、最後に耳にした話題がいちばん強く記憶に残るものだからだ。
いまはその四人が長机の同じ側に座り、ミアがその向かいにいる。
歴史と古代の文献に精通しているビビアン・ロッペルスムは隣の机にいる。教師たちになにか心もとない点があったら、こちらに助けを求めることができた。離宮に長期滞在しているもう一人の学者であるミリアム・スロフテレンはいま、応接室でウィノナに諸島語についての問題で意見を尋ねているところだ。図書館の維持を任されている箕帚人のクリスティーナ(この名は初代のベーフェラント女伯爵と同じだったから、サラははっきりと記憶していた)は書架のまえに立って、古代文献の目録との照合をしていた。
クリスティーナによって、席についている一人ひとりにお茶とクッキーの用意もされていた。
「火の王ムスペルは十万の騎兵隊を率いて、三百年にわたる
「エルドゥリア王国のことはとりあえずそこまでにして、建国戦争についてのあなたの考えを話してみて」イーディスが机に広げていた歴史書を閉じた。自分の先祖についての物語なのだから、もちろん充分すぎるほど知っていることだ。「建国戦争は、避けられないものだったと思う?」
「……避ける?」
イーディスはうなずく。「もしあなたがムスペル七世だったら、海の民の侵入を避ける方法はなにか持っていた?」
「考えたことがなくて」ミアは困惑した顔になり、黙りこんだ。意識しないうちに、わきに座っているサラに視線を向ける。サラはここでも目をそらし、うつむいて手にした資料を見つめていた。イーディスとロータによる授業が終わると、サラの番が来るのだ。
「おかしな質問だった?」
「よくわからないの、どうしてエルドゥリアの君主のために策を考えないといけないの?」
「剣術の手合わせと同じで、相手がどんな手を取るかまえもって見当を付けておかないと、対抗策は出てこないの。戦争について理解するのも同じ理屈よ」イーディスは言う。「もしくは、訊きかたを変えてみましょう。ムスペル七世はどんな誤りを犯したせいで、国土の半分を失うことになったと思う?」
「王は、アムゼルの会戦でテルネーゼン将軍から軍の指揮権を奪ってはいけなかった。もし戦いの素人だった王が陣頭で指揮にあたることがなかったら、戦いはあそこまでの惨敗にならなかっただろうし、テルネーゼン将軍も直属の部隊を連れて寝返ることは……」
「たしかにそれは、ムスペル七世が〈建国者〉エリックに敗れた原因の一つね。だけれど、そのときにはすでに戦争は勃発していたの。もしかすると、あの戦争を避ける方法があったかもしれないわ」そう言ってから、イーディスは横にいるロータのほうに顔を向けた。「〈背信者〉ユージーンの子孫として──ロータ・テルネーゼン、なにか考えはある?」
「考えもなにもあると思う?」ロータは鼻を鳴らし、歯ぎしりしながら言う。「あなたの先祖はとても幸運ね、ムスペル七世のでたらめな指揮を相手にできたから、戦功を挙げて、公爵に封じられて、いまあなたがここに座る機会を手にしているんだもの。もしわたしの先祖が、軍の指揮権を急に奪われなかったら……」
それを聞いたサラが、慌てて話をさえぎる。
「イーディスは、ムスペル七世には建国戦争の勃発を止める方法があったかを訊いているの」
「わかっているわ、でも……」
打つ手なしとなって、サラは机の下でロータを
「それなら、質問にまじめに答えてあげましょうか」ロータは咳ばらいした。「建国戦争が勃発する十年まえの時点で、ムスペル七世は一つ、取りかえしのつかない過ちを犯していたの。〈建国者〉エリックを侯爵に封じて、そのうえ〈セイウチの角〉をむざむざ領地として与えてしまった──その後、エリックの大軍はそこから上陸してきたんだから」
「それもそれなりの理屈ではあるわね」イーディスが答える。「しかし、当時の局面では、〈建国者〉エリックが〈セイウチの角〉を占領するのも時間の問題でしかなかったわ。大ノルン諸島からの海賊がそこに上陸さえしてくれれば、エリックは海賊を掃討するという建前を掲げてそこを占拠することができた。実際には海賊の侵入すらなかったとしても、部下に命じてそのふりをさせれば済むんだから。むしろわたしは、ムスペル七世がエリックを侯爵に封じていなかったら、戦争の勃発は数年早まっていたかもしれないと考える」
昨日までは、平民の生まれのミアにとって歴史や時局に関心を持つ義務はなかった。学ぶべきことはいくらでもある。二人の議論を聞きながら、ミアはまた視線をサラに向けた。今度は、サラが目をそらすことはなくなっていた。ミアに向かってうなずいたのは、自分がこの話題を終わらせてあげると伝えたかのようだった。
サラが口を開く。「わたしは、ムスペル七世が犯した最大の過ちは、〈片腕〉アーネストが小ノルン諸島を統一するのを放っておいたことだと思う。もしアーネストが十一の島すべてを懐におさめていなかったら、その継承者のエリック一世も、大陸に進撃して建国戦争の口火を切ることはできなかったんだから」
「偶然ね、わたしの考えと同じよ」そう言って、イーディスはサラに視線を送る。
「それはお
「学院でも、そう考えている人はいるの」
横の机に座っていたビビアンもこの議論に加わってきた。
ビビアンを引きとって育てたロッペルスム家は、自由都市ブルーメンベルクでも有数の豪商で、副団長のカロリーンの生家であるプスコフ家とは切っても切れない仲であり、対立もあるが手を結ぶこともたびたびだった。幸い、二つの家はアーシュラ王女に肩入れするという点では同じ立場だった。養女であるビビアンは事業の切り盛りには関わったことがなく、十一歳のとき、街の東に位置するウーベグレン学院に送られて、シルケボー教授に付いて古代文献の研究にたずさわっていた。いまでは、二十歳になったばかりの彼女は旧世界の共用語を自在に扱えるようになり、また辞典を使って十種類以上の古代の言語を読むことができた。
言語についてのビビアンの天賦はだれもが認めていたが、その学術上の意見はかなりの人々からの反対に
それからすこしして、打撃を受けていたビビアンは王女からの招きを受けて、湖畔の離宮に書庫に収められた旧世界文献を調査するためやってきた。期間は一年だった。
五月初めの
「まえに、スヒールモニコーフ教授の論文を読んだことがある。彼女は諸島史研究の権威なのだけど。教授は、もしムスペル七世がドルクナ島の領主を裏から支援して、〈片腕〉アーネストからの攻勢を何度かしのげるよう手を貸していたら、そのまえにアーネストに征服されていたいくつかの島は奮い立って、反抗を始め、武力に頼って成立していた連盟は崩れ去ったと考えていた」
話題が自分の故郷に触れたからだろうか、これまで口を開いてこなかったクララも話に加わってきた。
「わたしの記憶が確かなら、そのころムスペル七世はまだ十八歳で、親政を始めたばかりだったでしょう。そこまで計算できたはずはないわ。当時のエルドゥリア人はきっとなにも知らずに、アーネストが小ノルン諸島を統一したあとは、矛先を大ノルン諸島に向けると思っていたんでしょう。純真な火の民たちは、アーネストが代わりに海賊たちを掃討してくれるのを望んでいたのよ」
「それが彼らの見当違いだった」ビビアンが言う。「大ノルン諸島ほど土地がやせていて、南方への航路にあるわけでもない場所は、征服してもなんの意味もないのに……」
それはすなわち、現在にいたるまで大ノルン諸島が海賊の横行する無法地帯であり、いまだどの君主の統治地域にも組みこまれていない理由でもあった。
「だとしたら」ミアが突然口を開き、一同の議論を止めさせた。「もし目のまえで二人が決闘していたなら、ただ見物しているだけではだめで、いつでも準備を固めておくべきだと。なぜなら、勝利した側が剣先をこちらに向けてくるかもしれないから──フルスト様……イーディス、わたしにこの理屈をわかってほしかったの?」
ミアが議論の内容をまったく理解していないのを見て、イーディスはため息をついた。
「そういうことにしておきなさい。個人に当てはめるならたしかにそう、だけどいくつかの勢力どうしの力比べではそれよりずっと複雑になるの。敵対しあっている複数の勢力があって、その勢力のどれもこちらにとって将来の脅威だとしたら、いちばんの手はたがいに均衡を保たせて、一つだけが成長するのを防ぐよう策を弄することよ。二人の決闘なら、もし勝ち負けが付かなければいつか手打ちのときがやってくるけど、集団どうしならそうはならない、永遠に争わせておく手があるものなの。いまわたしたちが大ノルン諸島の海賊たちを相手にするとき、おもに使っているのがこの方法で……いまはわからなくてもかまわないわ、これから理解するだろうから」
そう言うと、同情のこもった目でサラを見た。
もうすこしあとで、サラは現在の情勢をミアに説明することになるが、どれだけ理解してくれるだろうか。
わたしの担当分は話しおわったわ、と言いながら、イーディスは立ちあがり、
ロータは
ロータが担当するのは、建国戦争からの三百年の歴史だ。その内容を一時間のうちに圧縮するのはかなり難しい。午前中、サラと相談して、ロータはいくつかとくに重要な部分を選び出していた。たとえばブルーメンベルクの独立、新暦七七六年の海賊の大侵入、クリスティーナ一世とオットー一世の共同統治による〈双子時代〉と二人が仕掛けた〈七十日戦争〉があった。
「……
ミアは静かにうなずいて、紙に〝軽率〟と単語を書き、そのうしろにバツ印を書いた。軽率さは避けるべき、という意味なのだろう。
「当時、クリスティーナ一世とオットー一世が二人で率いていた騎兵隊は、エルドゥリア王国の領内を破竹の勢いで進み、首都のブレナティに攻めいるのも、もはや時間の問題だった。もし、こちらの精鋭部隊がフリューロートの丘で待ち伏せを受けなかったら、もしかするとこのときにヴィグリド大陸は統一されたかもしれないわ」ロータが話す。「この戦いまで、こちらはエルドゥリア王国に対してつねに有利な立場にあったの。兵力と経済的状況どちらもそうで、姉弟が〈七十日戦争〉の開戦に踏みきった理由もこれだった。だけれど三十年まえのこの待ち伏せがなにもかもを変えてしまって、こちらは一万二千の騎兵を失い、賠償金と身代金も払いおえるのに十年かかることになった……」
それを聞いて、ミアの眉間にしわが刻まれる。
「クリスティーナ一世とオットー一世が戦死して、王位を継いだのは二人の叔父であるアルフレッド、つまりいまの国王陛下エリック三世の父親で、アーシュラ王女の祖父ね。アルフレッド一世の在位中の十五年間は、とにかくエルドゥリア王国との関係を修復することに力が注がれた。王はたくさんの譲歩を与えたわ、たとえばエルドゥリア王国の船が南方の航路を通行することを許した。とても長いあいだ、二つの国家は一触即発の状態で、なにもかもが完全な平穏に向かったのは、十六年まえ、国王陛下がエルドゥリア王国の王女を妃に迎えてから……だけれどここの話は、サラに説明してもらうことにするわね」
そうして、ロータはサラと席を交換した。
サラの授業は、一つの質問から始まった──
「ミア、われわれと火の民を比べて、継承権がらみで最大の差異はなにか知っている?」
「それはわかります。エルドゥリア王国では、男子だけに継承権があって、女子にはない」
「おおまかにはその通り。実際の場合はもうすこし複雑になるけれど」ビビアンが言う。「火の民は、ムスペル二世が発布したスピネヴィール法典を奉じている。そこではあらゆる貴族の地位や土地、それにともなう権力は男性のみが継承できると定めていて、継承の優先順位は生まれの順番で決まる。女子は遺言にしたがって一部の財産を継承する権利があるけれど、土地や家屋敷を含めることはできず、その財産は実際には未来の夫に管理がゆだねられることになる。娘が未婚の場合は、結婚していないうちは後見人が代わりにその財産を管理することになって、結婚したあとにはその夫にゆだねられる」
「エルドゥリアの女性たちは、そんな法律を納得して受けいれているんでしょうか?」
「だとしたら、なにができると思うの?」
「武器を手に取って……」そう言ったところで、ミアはすこしためらった。「でも、エルドゥリアの女は武器に触れないと聞いたことがある、貴族の令嬢でも馬には乗らないと」
「正直言って、うらやましいことではない? ひょっとするとそれこそが、貴族の令嬢のあるべき姿なのかもしれない」ロータはうつむいて自分の右手に目を落とす。「その人たちの手はきっと柔らかいんでしょう。もしかすると刺繡をするときにうっかり指を傷つけたり、もしくは指ぬきが当たってちょっとしたたこができるかもしれないけれど、きっと私のような荒れた手ではないわ。その人たちの肩先だって、腰つきだって、きっと叙事詩に出てくる仙女のようにみごとに細いんでしょう。ふわりと軽い服を着て、当人だってふわりと軽くて、わたしたちのようにいつでもこちこちの
「でもロータ、知っている? エルドゥリアにはスピネヴィール法典以外にも、明文化していない決まりがたくさんあるの」サラは友人の言葉に割りこんだ。「たとえば、夫は藤のつるや細い木の棒で妻を叩くことができる、その道具が親指より細ければ違法ではないの。そんなことが自分の身に起きて、耐えられる?」
「わたしは甘ったれのエルドゥリアの女とは違うの、家で喰らった棍棒は親指よりずっと太かったわ」ロータはこともなげに言う。「だけれど、もしこれから結婚して、夫がわたしに
「それはわたしも心から確信できる」サラは軽く手を叩き、この不愉快な話題を終わらせた。ふたたび視線を、向かいのミアに向ける。「本題に戻りましょう。スピネヴィール法典は女性の権利を排除しているけれど、女系の男性の子孫が継承権を持つことは明確には否定していないの」
「女系の男性の子孫?」
「たとえば、娘から生まれた孫ね。
ミアは紙に、〝十二世〟と〝外孫〟と記した。
「イングリッド王女の嫁ぎ先、イェリング家の紋章は一頭の猟犬で、ラルヴィク大公の紋章は背中合わせの二頭の
それを聞いてミアは、〝外孫〟の横に王冠の絵を描いた。とはいえエルドゥリアの王冠が無数の炎型の飾りでできているのは知らないらしく、描かれたのはゼーラント王国の船型の王冠だった。
「アーシュラ王女と団長のパールはなぜ、湖畔の騎士団を創設したか、その理由はわかる?」
ミアは困惑を浮かべた顔でサラを見た。
「アーシュラ王女に、母親の違う弟と妹がいるのは知っているでしょうね」
「アリス王女とオズワルド王子ですね?」
「そう。アーシュラ王女を産んだアグネス王妃が亡くなってから、国王陛下はロザムンド王女を妃に迎えた。彼女はエルドゥリアの現在の国王、ムスペル十九世の娘。アリス王女とオズワルド王子は、国王陛下とロザムンド王妃の子供ね」
「その悪い女が、ずっと王女様を目の敵にしてるんですね?」
「たしかにあの人はずっと王女様を目の敵にしているし、それに〝悪い女〟らしい手口を使っているのもたしか。でも結局のところはあの人も、こちらとは違う立場に立って、違う目的を持っているだけ。ロザムンド王妃はそもそもエルドゥリア人なのだから、それなりの意図を、もしくは……使命を、持っているの」
「国王陛下はどうしてあの人を妃にしたの?」ミアは不服げに怒りながら言う。「あの人が宮廷で邪魔だてしなかったら、王女様は王宮で暮らしつづけて、国王陛下のそばにいられたのに……」
実際には、王女はみずから王宮を出ることを申し出て、ここに移ってきたのだった。それはサラもよく知っている。しかしミアの言うことを訂正はしなかった。サラも一度、もし国王のエリック三世が後妻を迎えなかったとして、王女の性格でおとなしく王宮に収まっていただろうかと想像したことがある。しかし結論は出なかった。
「ロザムンド王女を妃に迎えたのは、ある種の政治的な妥協だったの」サラは説明する。「さきにロータが話したけれど、〈七十日戦争〉以来、こちらはエルドゥリア王国に対して不利な立場が続いていた。もしふたたび戦争が勃発したら、おそらく国土を大きく失うことになるでしょうね。結婚も、短い平和を手にするための手段の一つでしかないの。しかし、このその場しのぎの方法が、王国に新たな危機をもたらした……」
「よくわからないけれど、自分の王女をこちらに嫁がせたなら、エルドゥリア王国のほうが損をした側でしょう。もしほんとうに有利な立場にいるなら、どうしてこの縁談を受けいれる気になったんですか?」
「ミア、海の民の考えで火の民のことを推しはからないの。エルドゥリアの王室にとっては、王女たちの縁談は以前から、なによりやっかいな問題だったのだから。彼女たちは王位を継ぐことはできない、火の民の宗教には女性の祭司もいない、だからどこかに嫁ぐことが唯一の道になる。だけれど〈鷹犬の戦い〉を経てからは、王女の嫁ぎ先はすべて、王室にとって脅威になりかねない。もし地位と権力を持つ家に王女が嫁いだら、おそらくあの戦争を繰りかえさせることになるでしょう。しかし身分の
「王女をこちらに嫁がせて、その王女とこちらの国王に子供が生まれて、反対にむこうの王子と王位を争う心配はしなかったんですか?」
「やっと問題の核心に気づいたのね」サラは言う。「国王陛下の犯した最大の過ちは、ロザムンド王女を妃に迎えたことではなくて、彼女とのあいだに子供を作ったことなの、しかもエルドゥリアの王位を継ぐ資格のある男子を……」
「騎士として、
「いえ、わかりません」ミアは困惑した目を大きく見開いて、サラに視線を向けた。「それがどうして過ちなんでしょう? オズワルド王子がエルドゥリア王室にとっての脅威になりえるとして、その身をこちらが押さえているなら、良いことではないんですか?」
「これが〈七十日戦争〉以前だったら、たしかに良いことね。われわれはむこうの国王の崩御を待って、すかさずオズワルド王子の継承権を宣言し、大義名分を持ってエルドゥリアに兵を送ることができた。でもこちらはすでに、有利な地位を失っているの。そうした状況で、オズワルド王子は身体に残った矢尻のように、わたしたちにとっての脅威にしかならない」
「それは、エルドゥリアの人間が反対に王子を利用するということ?」
サラはうなずいた。
「できるだけ極端な状況を考えてみるのもいいかもしれない」そう続ける。「もしオズワルド王子がエルドゥリアとゼーラントの王位を同時に継いだら、なにが起きるでしょうね?」
「二つの王国が……」ミアはためらったが、最後にはその言葉を口にした。「一つになる?」
「二つの王国は、ゼーラントが不利な状況で一つになる、つまりヴィグリド大陸はふたたびエルドゥリアの統治下に置かれるの。もしかすると長く廃止されていたスピネヴィール法典がふたたび広められるかもしれない、われわれの言葉に含まれる諸島の語彙はすべて除かれるかもしれない、歴史に例のないほど大きな、〈建国戦争〉や〈七十日戦争〉よりもはるかに大規模な戦争が起きるかもしれない、そしてこちらの勝算はあまりないように見える……」
「でも、そういう過程はぜんぶ、オズワルド王子が王位を継承できる前提でしょう」ミアが言った。「エルドゥリアのほうのことは
「アリス王女もロザムンド王妃の娘ね。もしオズワルド王子に位を継がせることだけを考えるなら、王妃は王女に継承権を放棄させる手ぐらいあるでしょう」
「でもアーシュラ王女はゆずりません、違いますか?」
「もちろんゆずらないでしょう。だから王妃の一派にとっては、あの方が最大の脅威なの。むこうはどうにかして王女様を排除しようとする。そしてわれわれは、アーシュラ王女が無事に王位を継げるよう助けないといけない──それが、王女様とパールが湖畔の騎士団を創設した理由なの。王女様が無事に王位を継いだときだけ、ゼーラントが
それを聞いて、ミアはとうとう任務の巨大さを悟った様子で、厳粛な表情になっていく。この瞬間から、猟師の家に生まれた、世間知らずの十六歳の少女は、陰謀と抵抗の渦に巻きこまれていくのだ。
「でもこの騎士団には、四十五人の団員しかいません。いったい、王女様のためになにができるんですか?」
「もし戦争が勃発したら、騎士四十五人はひとたまりもなく消えてしまう。でもこれはいちばん先に目に入る数字でしかなくて、われわれのほんとうの実力とは違うの。表面的には、ここは慣例にしたがって設立された小規模な騎士団のように見えるけれど、実際の状況はそこからはほど遠い」サラは言う。「湖畔の騎士団は、政治的な同盟なの──王女を支持するすべての勢力からなる、政治同盟」
「政治同盟?」
「われわれがほんとうに動かすことのできる戦力は四十五人どころではないわ。すくなくとも四千人の騎士、五万人以上の歩兵と三百隻の軍船がある」
サラの言葉を聞いたミアはすこしとまどったようで、その横に座る先輩たちに目を向けたが、みなうなずき、賛同している様子だった。
「この場にいる人たちを例にしましょう。イーディスはフルスト公爵の娘で、ロータはテルネーゼン伯爵の娘、この両家のゼーラントでの影響力はよく知っているでしょう。あなたの指導役のクララはコーラルリーフ島の島主の娘で……」
その話にロータが割って入った。「そしてこのサラ・トルン嬢は将来のベーフェラント伯爵と婚約している」
「わたしはわざわざ紹介するほどでもないから。そのつながりがなかったとしても、われわれの団長、パールもベーフェラント家の長女──誓いのために継承権は放棄しているけれど。それに王女を産んだアグネス王妃は現在の女伯爵の妹にあたるでしょう。なにがあったとしても、ベーフェラント家は王女の側に立つ」サラは話す。「侍従長のアナベルはスハウウェン辺境伯の娘。それを産んだ母親はある山の民の部族の族長で、重大な状況では山の民の
「フルスト、テルネーゼン、ベーフェラント、スハウウェン……建国戦争の五大功臣が勢ぞろいしそうですね」ミアが言う。「わたしの覚えちがいでなかったら、まえの侍従長のフリシンゲン様も五大功臣の子孫だったんでしょう?」
「そうね。フリシンゲン家は〈白髪の〉ヨースタインの子孫にあたる。でもイングリッドはもう結婚して団を抜けた。わたしの指導役のエルザがフリシンゲン家の次女ね」
サラはエルザが諸島に流された件を意識的に避け、エルザのいまの上司こそ自分の婚約者であることも触れなかった。そういったこと以前に、エルザがどこにいようとも、彼女本人やそのうしろにいるフリシンゲン家はこの政治同盟の一員なのだ。
「ほかにはわれわれの副団長のカロリーン、あの人はブルーメンベルクの富商の娘ね」
「わたしは騎士団の一員ではないにしても、必要とあればロッペルスム家も王女の支援に力を尽くすはず」横のビビアンが言った。「ゼーラントとエルドゥリアが一つになったとしたら、自由都市としてのブルーメンベルクの地位も風前の灯で、吞みこまれるのは避けられない。一部の
「諸島のほうも同じ」クララもそれに続ける。「数百年まえの恨みを忘れられなくて、ゼーラントの王室に敵意を持っている家もいくつかあるけれど、エルドゥリアの陰謀が実現したら、わたしたちはなにもかもを失うわ」
「それだけ大勢の支持を得られたら、王女様の地位は安泰なんでしょう?」ミアが訊く。
サラは残念に思いながら首を振った。
「そこまで楽観はできない」そう話を始める。「建国戦争はもう二百年以上まえのことだけれど、征服された側の火の民は、いまだにゼーラント王朝の統治を望まないことも多いの。そうした人々は、火の王の統治で一日を過ごしたこともないのに──その父親の代、祖父の代、もしくはずっとまえの祖先だってないのは確かなのに──われわれを諸島に追いかえして、大陸全体をふたたびエルドゥリアの領国にしようと考えている」
「力のある貴族も、そこに入っているんですか?」
「火の神を崇めている家は、もともとやむをえずわれわれに従ったところもあるの。〈建国者〉エリックは当時、情勢を安定させるために、そういった家の土地や爵位を剝奪せずに、信仰を変えるよう迫ることもなく、臣服することだけを要求している。そうした家は〈
クララがサラの話に続ける。「去年の
「そうそう」イーディスが言う。「あれだけ優秀で、しかも最初に産まれた子供なんだから、もしライメルスワール家の子でなかったらきっと爵位を継げたでしょうね」
「ライメルスワール家は、女子の継承を許していないの?」ミアが尋ねた。
「〈火に仕える者〉の家に生まれた女子たちは、かならず継承権を放棄するように迫られるの」イーディスが答えた。「こちらではスピネヴィール法典はすでに廃止されているけれど、私的にそれを遵守することは邪魔だてできないわ」
「ひょっとすると、ケイト・ライメルスワールをここに引きいれることはできるかもしれない」ロータが話に入ってきた。「ほんとうに引きいれるに値するならだけれど」
「引きいれるに値するのはたしかね」クララはため息をつきながら首を振った。「だけれど難しすぎる。貴族の娘に自分の家族と信仰を裏切らせるのは、そこまで簡単なことではないわ。継承権を放棄するよう迫ってくる家族と、女が祭司を務めるのを禁じる信仰であっても……」
「国内のそうした勢力だけを相手にするなら、こちらはもう充分な力を持っているの。ほんとうに内戦が始まったとしても、勝つ自信ならある」サラが話の方向を変えた。「だけれど、もしエルドゥリアが介入してきたら、話はすこしばかり面倒になる」
「そこまで悲観することはないでしょう」ビビアンが言った。「エルドゥリアだっていっさいの波風がないわけではない。ロザムンド王妃には、弟のフローリス王子がいるでしょう。彼こそが王位継承順では第一位にあたる。王妃にとっては、フローリス王子も排除しなければならない障害。酒と女に
「フローリス王子を引きこむのは、ケイト・ライメルスワールよりずっと簡単でしょうね」イーディスが言った。「もう三十を超えているけれど、これまでだれとも婚約していないの。縁談という手なら使える……」
「王女様をあの人に嫁がせるつもり?」ロータが笑った。
「あの王子に王女様が嫁ぐことはないわ、そうなったらほんとうにゼーラントが吞みこまれてしまうもの」イーディスはひどく真剣な口ぶりで、相手が冗談を言ったのに気づいていないようだった。「これだけの団員がいるのだから、きっと小さいころから王子様に嫁ぐことを夢見ていた人もいるでしょう。その夢を叶える機会を用意したらいけない?」
「王子も好きなように結婚できるわけではなくて、家柄の釣りあいは問題になるでしょう」ロータがさらに茶々を入れる。「イーディス、あなたも海の民の考えで火の民のことを予想しているわ。たしかに、わたしたちの側では、女騎士にはどんな貴族にでも嫁ぐ資格があるし、歴史的には低い階級の女騎士が王妃になった先例もある。だけれどエルドゥリア人はそうは考えないの」
「それなら、テルネーゼン家のお嬢様のあなたこそお似合いじゃないの」
「テルネーゼン家は伯爵家でしかないわ、それより公爵家の一人娘のあなたのほうが、政略結婚の犠牲者にはふさわしいじゃない」
二人がやりあっているところに、突然ドアが開く音が響いた。サラはミリアムが戻ってきたのだと思ったが、振りかえってみると箕帚人のクリスティーナが部屋を出ていったのだった。
気まずい沈黙が流れたあと、最初に口を開いたのはミアだった。
「トルン様……サラと、団長の弟の婚約も政略結婚なんでしょうか?」
「いえ、サラの場合はやや特殊なの」サラがいつになっても答えないのを見て、ロータが代わりに話しだした。「ベーフェラント家はもともと、臣下の騎士の娘たちから将来の伯爵夫人を選ぶという考えなの。サラはそこから選ばれただけ」
「これも、ある程度は政略結婚と言えるでしょうね」サラはすこしばかり居心地悪そうに言う。「わたしが湖畔の騎士団に入っていなかったら、女伯爵から選ばれることもありえなかった。あの人が目を付けたのは、わたしのこの身分だから」
「ミア」イーディスが言う。「いまではあなたも騎士団の一員なの、サラと同じようにその身分をうまいこと利用して、良い家に嫁いでもいいのよ」
「正直に言うとね、ミア」イーディスの当てこすりも、サラは大して気にとめていなかった。そもそもこの場には、イーディスに付いてまわっているドゥファはいないのだから、ほんとうに言い争いになれば自分とロータの二人にはかなわないはずだ。「もしあなたがどこかの貴族と婚約したなら、騎士団と王女様にとっては良い知らせなの。政治同盟を拡大するには、縁談はいちばん確かではないかもしれないけれど、いちばん早い方法なのはまちがいないでしょう」
「そのうちだれかが計略を立ててくれるわ」クララが言う。「王女に忠誠を示そうと気がはやりながら、娘をここに送りこんでいない家にとっては、一族の男を団内の女騎士と婚約させるのがなにより手早い方法なの。五月の
それを聞いて、ミアの頰がかすかに赤らむ。
「でもわたしは、ただの猟師の娘で……」
「だけれど、いまでは騎士になったの。騎士の価値はその品行と功名によって決まる。必要なだけの価値を見せつけているなら、相応の地位を手にするだけの資格があるのよ」
「わたしにできますか……その名にふさわしい騎士になれるか」
「ならないといけないわ」クララは言う。「今日の朝から、王女様が剣身でその肩を叩いたそのときから、あなたにもう退路はないの。ミア、ここまでの授業であなたにもわかったでしょう。わたしたちがここに集まっているのはおままごとをするためではないし、騎士の身分もただの名家に嫁ぐための踏み台ではない。わたしたちの一挙一動は、ヴィグリド大陸全体の未来に影響するの。アーシュラ王女の栄光と恥辱はわたしたちの栄光と恥辱で、その逆もしかりよ。もしわたしたちが失敗して、王女様を王座に就かせることができなかったら、わたしたちを待っているのもこのうえなく悲惨な結末でしょうね」
クララのその言葉をミアがまだ嚙みしめているあいだに、サラは立ちあがり、ミアの向かいの席をクララに譲った。こうして今日の授業はおしまいの部分に入り、あとはクララの担当分だけが残っていた。ミアには、騎士団の日常の任務といろいろな戒律が説明される。
「わたしたちの日常の任務はおもに三つに分かれるわ──王都での勤務と、王女様お付きの侍女の役目、それと訓練や後輩の指導ね」クララは言う。「
「戦場よりも危険?」
「ごく簡単な理屈よ、騎馬での戦いのときは完全武装をして、かなりの攻撃を受けとめられる板金の鎧を着るでしょう。軽装で出陣しなければならないとしても、
「王都で出くわすかもしれないのは、どういう敵なんですか」
「ばったりはち合わせした強盗だったり、進退きわまった泥棒だったり、ことによると酔っぱらいも……相手がだれであっても、武器を手にしているかぎりはこちらにとっては脅威よ、慎重に対応しないといけない。でも、そこまで心配することはないわ。巡回はいつも数人一組で行うから、もし立ちまわりになったら、新人のあなたを先頭に出しはしないから」
「そのとき、わたしが役に立つといいけれど」
「そのうち役に立つ日が来るわ、慌てなくても大丈夫。突然やってくる戦いにすこしずつ慣れる必要があるから。もちろん、人を殺すことにも慣れないと」
「できると思います」ミアはクララの両目を見つめながら言った。「狩りは戦争の演習だって聞いたことがあるから、だったら獲物を
「いまはそういうことは考えなくていいわ、なりゆきに任せていればいい。任務を果たすにあたって戦闘が起きたら、相手は生け捕りにするのが最善の結果なの、そうすれば有用な情報が訊き出せるから。それに、もし殺して口をきけなくしたら、罪のない人間をいいかげんに殺したのではないかと疑われるかもしれないでしょう。王妃を支持する連中にはなるべく口実を与えないこと。ただし接近戦に持ちこまれたら、どんなことでも起こりうるわ。とにかく、命を守ることが第一だから」
「わかりました」
「巡回はいつも数人一組で動くけれど、相手に数でかなわない状況にもときどき出くわすわ。もし先輩が撤退の命令を出したら、絶対に深追いしないこと」クララは真剣な表情で言う。「女騎士は戦場で、敵情の偵察の任務をよく任されるの。たとえば王女様を産んだアグネス王妃は、〈七十日戦争〉で
「巡回のとき、馬に乗る必要はあるんでしょうか?」
「場所によるわね。道路が平らで幅も広い区域、たとえばベストラ橋から市場までのあたりは、騎馬で巡回ができるわ。狭い道や、階段が多めの場所は徒歩で向かうことになる。一日歩くのはそうとう辛いわよ。さいわい、夜間の巡回は王家の騎士団が行ってくれる。急に人手が足りなくなったときは別だけれど、それ以外ではこちらに番は回ってこない。ともかく」話をまとめる。「日常の任務のなかでも、王都の巡回はいちばん辛くて危険が大きいけれど、そこからたくさん実戦経験を積むこともできる。危険にさらされた市民をわたしたちが助けたら、王女様に恩を感じて感謝してくれるでしょう」
そこに、クリスティーナがティーポットを持って戻ってきた。茶が一人ひとりに注ぎなおされるのを待って、授業はふたたび始まった。
「二つめの務めは、王女様お付きの侍女ね。そこまできつい仕事ではないけれど、楽だとはぜったいに言えない。正直に言うなら巡回よりも、王女様に付いて給仕をするほうが緊張に襲われるわ。
「どうしてわたしに?」
「あの服はあなたにいちばん似合うから」クララはからかう。「イーディスが着ているといつも、なんだかどこかがおかしい気がするの。お嬢様が思いつきで、メイドと服を交換したような感じで」
「サラは似合っていない?」
「わたしが着るのはずいぶんお似合いでしょうね」サラがロータの言葉に続ける。「ここに来るまえは、ベーフェラント家で侍女をしていたから」
「サラは真面目すぎて、まるでメイドの
それにはイーディスが、〝わたしもそう思う〟と応じた。
「いずれにしても、いちばん似合わないのはわたしね。それでも、心のなかでは気が進まないことこのうえないのに、毎月何日か着ないといけないのだけど」クララの視線がミアに戻ってくる。「だけれどミア、あなたもあの服に着替えたらとても似合うでしょうね」
「だと思います」ミアは苦笑した。「いまこの騎士の制服のほうが、あまり合って見えないから……」
「ふだんの訓練を続けていれば、だんだんこの服もそれらしくなるわ。王都に駐留しているときと、王女様のところで侍女を務めているとき以外は、これからもわたしが騎士としての訓練を指導する。いまあなたは、試験は通ったけれども、実戦に必要なところに達するにはほど遠いわ。さいわい弓の扱いは得意だから、騎馬射手を目指して努力してみてもいいわね」
「馬に乗って矢を射るのは、全然得意じゃないんです」
「馬術も弓矢もすばらしいのに、いっしょにしたらだめなの? たぶんまだ慣れていないだけで、もっと練習すればよくなるでしょう」クララは言う。「箕帚人のときと同じで、騎士になってからも毎月二日間は休みがある。生理痛があったり三日目でもまだ重いときは、延ばすこともできるわ」
「先輩がたは、休みのときはなにをしているんでしょう?」
「わたしだったら、オメランデン様から絵を教わっているわ」クララが答えた。ドロテア・オメランデンは離宮に定住している職工の一人だった。紋章絵師の娘で、紋章に関する知識に精通し、地図や肖像画を描くのも得意にしている。「絵も斥候にとって必須の技能で、いつか役に立つかもしれないから」
「わたしはここに来て読書をする」イーディスが言った。「ビビアンとスロフテレン様からすこし古代語を教わっているの。ロータのほうは、たぶん部屋でリュートをいじっているんでしょう? もしかするといつか頭がどうにかなって、急に爵位の継承権と騎士の身分を捨てて、吟遊詩人になろうとするかも。でもわたしたちのなかでいちばんすごいのはって言ったら、サラでしょうね、いままで休んだことがないんだから」
「わたしは身体の状態に合わせて訓練の負荷を変えるから、それが休憩ということかな」
「ミア、これは喜ぶところよ。クララが指導してくれるんだから」ミアがサラを慕っていることについて、イーディスはなにひとつ知らないのかもしれない。わかっていながらわざと言っているというのもありえる。「これがサラだったら、休みを取るのも許さないわ。どころか、二日の休みのことをそもそも教えないかもしれない」
ミアはサラのほうを向き、ここでも元気のない表情を浮かべた。
「ともかく」クララは話をまとめる。「この二日の休みは、自分が有意義と思うことをしておくの。この次は、あまり楽しく思える話題ではないかもしれないわね。もう気づいているかしら、あなたに振りわけられた部屋には壁に一枚紙が貼ってあって、そこに騎士団の戒律が書かれているの」
「見ましたが」
「できればなるべく早く覚えこんでおきなさい、そのうち抜き出してわたしが試験をするから。今日は、そのなかの三条だけ強調しておくつもり。この三条はいちばん破ってしまいやすいから。第一条、箕帚人へのいじめを禁じる」
「今日の朝まではわたしも箕帚人だったのに、心変わりしてまえの同僚をいじめだすなんて、あると思いますか?」
「箕帚人だったとき、だれかうまくいかない子はいた?」クララは横の二人を指さす。「イーディスとロータのように」
「いないわけじゃありません。安心してください、いまの身分を使ってだれにも仕返ししようとは思いませんから」
「すこしばかりの仕返しまで許されないわけではないの。もしまえに、ちょっかいを出してきた子がだれかいたなら、これからは、他よりもこきつかったり、小言を言ってやったり、もしくは何回かよけいに礼をさせたりしていいわ。ただしあまりやりすぎないように。騎士が箕帚人に手を上げることは許されない」
「わかりました」
「この戒律に触れたときの罰は、たいして厳しくはないけれど、とても屈辱的よ。いまのその服を脱ぐしかなくなり、箕帚人の制服をふたたび着て、しばらくもとの集団寮に戻って暮らすことになる。しかもいちばんの重労働を言いつけられるの、許しが出るまでね。ふつうは短くても、二、三ヵ月は続く」クララは話す。「覚えているでしょう、去年この戒律を破って、箕帚人になる罰を受けた人がいたのを」
ミアはうなずいた。
「罰を受けたデボラは、まえは高飛車な娘だったでしょう。正直、自分にたてついた箕帚人に手を上げたとしてまったく意外ではなかったわ。罰を受けているあいだ、どんな様子だった?」
「言ってみれば、最悪でした」ミアが答える。「顔を張りとばされたほうの子が、わたしたちみんなに口を利かないように言いつけて、侍従長も、あの人の非をうるさく言ってばかりで」
「想像がつくわ。あれから彼女は、この離宮でもいちばん卑屈でおとなしい騎士になったのだから。だれに会っても
「わたしの剣術の腕なら、こちらが怪我をさせられないで済むだけで充分です」
「破られることの多い第二の戒律は、私闘の禁止。この〝私闘〟というのは、騎士と騎士とが許しを得ずにやりあうことね」クララは続ける。「箕帚人の規則にも、似たような決まりがあったと思うけれど」
「そうです、さきに手を出したほうは侍従長から鞭を受けないといけなくて、もしまえもって約束をしてやりあったら、両方が罰を受ける」
「騎士への罰はそこまで慈悲深くないわ」
「あれでも〝慈悲深い〟んでしょうか」ミアは口をとがらせる。クララの言ったことにすこし不満があるようだった。「同じ鞭でも、フリシンゲン様が手にすると〝慈悲深い〟んですが、スハウウェン様は容赦がなくて」
「長い目で見れば慈悲深いことこのうえない罰よ。痛みもそのうち去って、あなたたちの未来には影響しない。この戒律に触れた騎士に科される罰は、一時の流刑、つまり小ノルン諸島の果てまで送られるの。そこは海賊を食いとめる前線にあたる。一年かそこら送られるだけでもさまざまな危険に出くわして、しかも騎士人生には汚点が残る」
「それはたしかにかなり、厳しい話です」
「二人の騎士が実際にやりあったら、人命が失われてもまったくおかしくない」クララは説く。「この戒律は殴りあいを一律に禁じている以上に、大事なのは武器を持った戦いを禁じていること、とくに決闘の誘いを受けることや、決闘を申しこむのを禁じていることね。聞いたことがあるかもしれないけれど、オズワルド一世のころ、王家の騎士団では決闘が日常で、毎年二、三十人の団員が私闘で命を落としていたの。マルガレーテ王女が王位を継いでからは新しい戒律を発布して、やっと状況はすこしよくなった」
「湖畔の騎士団でも、決闘をした人が?」
「もちろんいないわ。イーディスとロータのような水と油の仲でも、そんなかたちで問題を解決はしない」
それを聞いたイーディスは〝もうわたしたちを例に出さないで〟と一言文句を言い、ロータはその横でこっそりと笑うだけだった。
「しかし、わたしたちは毎月十日を王都で過ごすことになるけれど、あそこは私闘の温床なの。もし王家の騎士団の人間から〝剣技の
「わたしの剣術の腕でそんな誘いを受けたら、死ににいくようなものですね」ミアが言う。「だけど、もしなにか面倒を起こしてむこうから決闘を申しこまれたら、どうすればいいんですか? 約束に応じなかったら、騎士団の名誉を傷つけるんじゃ?」
「そんな事態になったら早いうちに報告しなさい、王女様と団長が処理の手だてを考えてくれるわ。元凶があなただったとしても、騎士団が相応の罰を与えるから、そのために命を落とす必要はない」クララが答える。「わたしもまえに決闘に誘われたことがあるわ。
「ほんとうに剣術の腕を競いたかっただけかも」サラが言う。
「手紙はあまりはっきりした書きかたではなかったの。わたしもその程度で終わるのか、それともほんとうに命を
「破られることが多い、三つめの戒律というのは何なんですか?」
「勝手に持ち場を離れないこと。もし休暇や休憩のときでも、事前に知らせておかなければならない」クララが答えた。「王都での巡回も、もしくは王女様の侍女を務めるときも、理由なく役目を休むことは許されない。箕帚人の規則にもこの決まりはあるでしょう?」
「はい。いちど破ったら、徹夜の
「騎士が戒律を破ったときも、徹夜の懺悔の罰を受けるわ。いきさつの重大さによっては、そのうえ流刑になるかもしれない。フリシンゲン家のエルザは、つまりまえの侍従長の妹だけれど、勝手に持ち場を離れたために流刑になっているわ。しかも無期限の流刑に」
「どうしてそんなに重い罰が?」
「彼女はまる十日いなくなっていたの、しかもドレンテ侯爵が領内で開いた武術大会に参加するためにね。個人的に武術大会に参加することもはっきりと禁止されているわ」そうクララは話す。「だけれど一つ敬服するのは、エルザがライメルスワール家のケイトを負かしたことね、わたしは引き分けにしかできなかった」
「どうしてそんなことを?」
「それはわたしにはわからないわ。サラ、ミアに理由を説明してあげたことはある? エルザがなぜ、流刑を覚悟であの武術大会に参加したのか」
サラは首を振って、静かに〝一度もない〟と言った。
ひそかに考えているのは、エルザはヴィティン島に流されることだけを目的に、わざと戒律を破ったのではないかということだった。ひょっとするとエルザにはあそこに向かわなければならない理由があって、サラがそれをいっさい知らないだけなのかもしれない。もちろん、ただの心のはずみという可能性も否定できなかった。エルザのふるまいはだれひとりとして予測不能で、姉のイングリッドでさえお手上げだったのだから。
気づかぬうちに、落日の名残が西向きの窓から図書室に振りまかれていた。目にまぶしい、しかしわずかに気だるさを帯びた色だった。まっすぐ射してくる陽光が、並んだ机をゆっくりと這いあがっていき、インク瓶とガチョウの羽根ペンが机に落とす影もすこしずつ長く伸びていく。そうしていると、橙色の光はミアのまえに広げられた帳面を照らし出した。ミアはそこにケイト・ライメルスワールの名前を記したばかりだった。はじめは書きとめるつもりはなかったのに、クララが何度もその名に触れたからだ。最後に書かれたその字のインクはまだ乾かず、夕陽の強い光を照りかえしている。対して、それよりまえに書かれた文字はみなすこしばかり暗く目に映った。
「もういい時間ね、今日の授業はここまでにしましょう」クララが言った。「これから一年、あなたは毎月こういった授業を受けることになるわ。わたしからは課題も与えて、あなたに自分で分析してもらうことにする。今日は最初だから、課題もそれなりに簡単よ。エルドゥリア王国の軍事力についての資料を調べて、大まかに整理して、来月の授業のときにわたしに報告して」
「わかりました」
そうして、ミアはケイト・ライメルスワールの名前の下に課題の内容を書きとめた。
「ざっと片づけたら、いっしょに広間に行きましょう、夜の祝宴はもうそろそろ準備ができているだろうから」クララが言う。「ミア、あなたが加わったのを歓迎するための祝宴なのよ、早く行くといいわ」