小礼拝堂が建立されたその時代、まだ一枚の大ガラスを作ることのできる技術は育っていなかった。当時の工匠たちが力を尽くしても、できあがるのはせいぜい椀の口ほどの大きさの色ガラスで、それを鉛の線で継ぎあわせて、あわれなほど小さい組みあわせ窓を作ることしかできなかった。いまでもときおり地方の教会に同じような様式の窓が残っているのは、建造者がその質朴なたたずまいか、日当たりが限られるゆえの神秘的な雰囲気に惹かれているのだろうか。

 東西二方の外壁、ステンドグラスのすこし下には浮彫レリーフが彫刻されているが、二百年の雨風の侵食を受けてすこしばかり傷んでいるうえ、思うままに育った藤のつるに覆われてしまい、なかなか全体の姿を見わたすことはできなかった。

 対して、青銅製のドアがあるつまかべは無傷に近い形で保たれ、訪れる者たちはみなエリック二世時代の彫刻のたたずまいを目の当たりにする。妻壁のレリーフは、波形の紋様を挟んで上下三段に分かれている。船のかいを手にした海の神、コールガが最上段の中央に位置し、その手一つで育てあげたと神話に語られる娘たちが周りを取りまいている。二段目にいるのはコールガによって陸に置き去られた子供たち。絵画や彫刻に現れることは珍しいブルンナとフウェリニャ──冷泉と温泉とをつかさどる双子の女神たち──が二段目の中央に彫られている。三段目にいるのは子の子、より世俗世界との結びつきが強い神々たちだった。

 入団試験を通過するそのまえにサラは、慣例どおり三ヵ月間〈箕帚人フィルギャ〉と呼ばれる下仕えの侍女を務めた。あのころは花壇の世話をするように命じられ、花壇のいちばん奥にあるこの礼拝堂の掃除も任されていた。

 あれは暗い金色の長髪を切るまえのことで、サラの身体はいまよりもはるかに弱々しかった。

 毎朝井戸から汲んだ桶の水を提げ、花壇の端から端まで歩いてここにやってくると、階段と床を掃除し、祭壇としょくだいを拭き清め、そして虫よけの薬を戸口に塗るまでがサラの日課だった。こうしたおきまりの仕事を済ませたあとはよく、すこしばかり質朴なレリーフのまえで足を止め、すっかり聞きなじんでいる英雄と神々の顔をそれぞれ眺めていた。

 騎士に任じられてからの三年間、ほとんどここに戻っていなかったサラは、もうレリーフとステンドグラスの姿を思い出せなくなっていたし、箕帚人としての仕事の細部についてすら遠い記憶になっていた。とはいえ叙任式の前夜、ここでてつとうに励んだときに意識したものすべては忘れるはずもなかった──うずく膝の痛み、閉じられたドアから広間に浸みいってくる冷気、ろうそくの火に照らし出されたコールガ像。あのときは諸島語で書かれた祈禱文をあんしょうしつづけるよう自分に言いきかせながらも、心のなかの興奮、それと未来へのさまざまな憧れと憂慮はいっこうに収められなかった。

 いまこのとき、ドア一枚むこうにいるミアは、徹夜禱をまっとうして、まもなくみずからの叙任式を迎えようとしている。

 まだらにさびの浮いた青銅のドアを押しひらき、サラは礼拝堂に入っていく。

 ステンドグラスやなかば開いたドアから室内に射す朝の光、そして祭壇のろうそくに照らされて、コールガ像のまえにひざまずく少女の姿をサラは見た。少女は深緑の羊毛のケープを羽織り、くるぶしまでを隠す白い亜麻のワンピースをまとっていた。靴は脱いで、そばに揃えて置いてある。膝の下には毛皮で作られた敷物を敷いて、それと羊毛の織物が足にかけてあった──昨夜、サラが出ていくときにかけてやったものだ。

 そちらに向かいサラは歩を進めていく。先輩の足音はミアの耳にも届いているはずだが、サラがその肩に手を置き、一声かけるまで祈りの姿勢は崩れなかった。

「もう時間だから、服を着替えに行きましょう」

 言われてようやくミアは合わせた両手を離し、目を開け、サラのほうを向いた。

「トルン様……」

「儀式が終わったら、私のことは〝サラ〟と呼んでね」

 これから自分が先輩たちの名前をじかに呼ぶことを想像したのか、ミアの顔に赤みが広がった。

「ひとりで立てる?」そう尋ねたあとで、すこしばかり無駄な質問だったと感じた。「支えてあげる」

 ミアはうなずき、サラの力を借りながら苦労して立ちあがると、ふらつきながらその場で足を上げ下ろしした。腰をかがめ、ふくらはぎを軽く叩いて、苦しそうに息を切らせながら、声を上げないようにこらえている。サラはそれを支えながらひとまず数歩歩いてみて、まともに立てるようになったのを確かめて手を離した。

 こうして最後にだれかを支えたのは、エルザが諸島へ転任になるまえ、ここで徹夜禱を全うしたときのことだった。サラには思い出したくもないことなのに、その日の光景はつぎつぎ目のまえに浮かんできた。否応なく、エルザが立たされた審判の場を思い出してしまう。裸足のまま敷石にひざまずく先輩の小刻みに震える後ろ姿も、それに続く別れも……

「トルン様、この敷物は巻いておいたほうがいいですか?」

 都合よく、ミアの言葉が考えを断ち切ってくれた。

「そこに置いたままにしておいたら。掃除の担当の子が片づけてくれるから」

 ミアが靴を履いているあいだ、サラは青銅に銀のめっきをした祭壇に数歩歩いていった。祭壇の上には、銀の糸で織られた幕が広げられている。燭台には固まった白いろうがうんと溜まっていた。一晩中燃えつづけたろうそくはほぼ残っておらず、このまま放っておいてもじきにひとりでに消えるだろう。祭壇の奥に立つコールガの像を見つめ、静かに祈りを捧げる。

 諸神を産み育てたこの海の女神に祈ったのは、ミアが兵刃に害されず騎士として生きられるよう加護を与えてくれること、そして遠く流刑の地にいるエルザがなにごともなく、早く戻ってきてくれることだった。

 礼拝堂を出ようとすると、ミアがまだ苦労しながら歩いているのに気づき、つかまれるよう手を差し出した。その好意にミアは感謝していたが、手を伸ばしてくることはなかった。

 ドアを出て階段を下りたところで、掃除を任されている箕帚人が水を入れた桶を提げてやってくるのに出くわした。

 十三、四歳ほどらしい少女で、翡翠色の瞳と高く通った鼻筋だけを見ると先祖は諸島の生まれのように思えるが、縮れた黒髪を見るに、山の民の血も引いているのだろうとサラは考えた。こうした混血はスハウウェン辺境伯の領地ではよく見るが、王国のほかの地方ではなかなか出会わないものだ。

 仕事にはまったく慣れていないらしく、水をなみなみと汲んでしまい歩くのに苦労しているうえ、すこしずつ水がこぼれている。身につけている白のエプロンとうす青をした制服のスカートのすそまで濡れていた。

 離宮にいる箕帚人は百人近く、歳は十二歳から二十歳までさまざまで、少女一人ひとりの名前を覚えるのはサラには不可能だった。しかし箕帚人は騎士に声をかけるとき、相手の姓氏を正しく呼ばなければならない。

 たとえ、ここにいる騎士は箕帚人よりはるかに数が少なく、流刑になったエルザと行方のわからないローズマリーを入れたとして四十四人しかいないとしても──二時間後にはこれが四十五人になる──とはいえ、騎士全員の顔と姓氏を対応させるにはそれなりの時間が必要になる。

 だから、すこし頭の回る新人はたいてい先輩たちとともに行動して、先輩も気を利かせてむこうからやってくる騎士がだれかまえもって教えたり、もしくは歩き去ってからひととおりの紹介をしたりする。しかし、いたずら好きの騎士というのはいるもので、どこかに一人はぐれた新人がいるとすかさず近づいて、自分のことがわかるか試すことがある。もちろん、哀れな新人が名前を言えなかったり、まちがえたりしても、騎士に責められることはない。

 考えてみれば、ごく少数の初期の構成者と王家の騎士団から転入してきたイーディスをべつとして、ここの騎士は期間の長短はあってもみないちどは箕帚人を務めたことがあって、その苦労を知っているのだ。

 その期間は、試験を一度で通過していたサラの場合は三ヵ月で、ここにやってきてから騎士としての訓練を受けはじめたミアの場合は四年だった。

 むこうからやってきた少女は二人に気づくと桶を下ろし、〝トルン様〟と声をかけながら膝を折って跪礼カーテシーを送ったあと、まもなく箕帚人としての生活から抜け出すミアを祝福した。少女のことをミアは〝ヴィル〟と呼んでいて、名前はもしかして〝ヴィレリア〟だろうかとサラは推測したが、確かめることはしなかった。

 少女が階段を上がっていったあと、ミアはサラに話した。「あの子はあなたを崇拝しているんです、いつ聞いても〝トルン様のような騎士になりたい〟とばかり言っていて」

「あなたも似たようなことを言っていた覚えがあるけれど。〝スハウウェン様のような騎士になりたい〟って」

「いまはそうは思ってません、わたしもトルン様を目標にします」ミアが答えた。その口ぶりは真剣で、冗談を言っている様子ではなかった。「スハウウェン様が侍従長になってから、みんなすこし怖がっているんです」

「意地悪ばかり言ってくるの?」

「意地悪というわけじゃないけれど、なんというか思いやりが薄くて。わたしと同じ年にここに来た子がいるんですが、ずっと努力を重ねているのにいつになっても技術が伸びなくて、そのうち自分は騎士に向いていないんだと決心して、スハウウェン様に頼みこんだんです。もうこれ以上騎士の訓練を受けたくない、仕事が増えたってかまわないと。そうしたらスハウウェン様にようしゃなく𠮟られたんです。あの子、ここに残ったほうがいいのか迷って、いまとても苦しんでいるんです」

 ミアが言っているのがだれのことかは知らないが、その少女がおかれたような苦境については、サラも見てこなかったわけではない。

 騎士としての訓練の教程には馬術や剣術、宮廷の礼法もあり、平民の家の娘たちからすればほとんどがここに来てはじめて接することになる。数年の期間で、そういった科目を入団試験に通過する水準までとくするのはどう考えても簡単ではなく、結局のところ騎士になれる人間は少ない。汗ととうつう、そして数えきれないほどの挫折がついてまわる。半数以上の少女はミアくらいの歳になるとあきらめることを選び、離宮のさまざまな職分の見習いに入るか、もしくは目標を失って、悄然とここを出ていくことになる。

「あなたと歳は同じなの?」

 ミアはうなずく。

「なら、短く見てももう三、四年は準備を続けられるでしょう、こんなに早くあきらめる必要はない」サラは言う。「わたしがアナベルだったら、やっぱり訓練を受けつづけさせると思う。いまはあきらめたいと思って、自分は騎士に向いていないと確信していても、いつか考えを変えるかもしれないでしょう。そのとき技量が崩れていたら、後悔してももう遅いもの」

「考えを変えると思いますか?」

「どうでしょうね、もしかするといつか、なにかのきっかけで……」

 その先は続けなかった。頭に浮かぶ〝きっかけ〟はだいたいが辛いできごとだったからだ。

 朝靄がまだ薄れるまえで、地面の草はまだ露をまとっている。鳥たちはいま渡りの最中だ。池はがらんとしていて、しらかば菩提樹リンデの枝に数羽のカラスが止まっている。去年植えた矢車菊はもう土から顔を出していた。じゃこうとげを持った枝が垣根を埋めつくしているが、一つとして花を結んではいなかった。

 紫と白の桜草たちだけが花の盛りをむかえ、早春の花園を彩っている。

 火の民の叙事詩では、一つまえの〈裁きの日レギンドームル〉のあと、数百年の寒い冬フィンブルベトルが続いていたといい、万物が枯れ落ち、地面が氷としもに覆われて、その冬が終わろうとするとき、はじめに大地に花を開かせたのが桜草だったという。その後、海の神を信じる者たちもこの物語を受けいれ、桜草を希望の象徴と見るようになった。

 しかし、友人のリリアンが以前サラに教えてくれた話では、旧世界の文献では桜草は不吉な植物で、嫁ぐまえに亡くなった少女を象徴するという──建国戦争でめざましい戦功を挙げた〈少女騎士スキャルドメール〉クリスティーナのように、あるいはサラと並んで戦いながら、二年前に不幸にも命を落としたハンナのように。

 メイヤールはんに建つこの離宮が、世間が想像するような少女たちのためのこの世の楽園でないことを、サラは心得ている。ここはむしろ、まもなく訪れる嵐のために建てられた要塞のようなもので、たえず〝死〟という名の黒雲に覆われているのだ。

 そうした残酷な現実について、ミアはまったくの無知も同然だ。

 しかしすぐに知ることになる。それを理解するのも騎士の義務だ。

 一晩ひざまずいていたミアはふだんほど軽快に足が動かず、サラの足どりも深い考えごとのために重くなっていた。それでも、二人はすぐに花園を端まで歩きとおしていた。

 離宮の通用口を入るところで、ミアが突然足を止めた。

「トルン様……」

 言いながらうつむき、サラの目を見られずに、両手を固く握りしめ、呼吸もしだいにせわしくなっていく。両の頰がふたたび赤く染まった。なんどか深呼吸したあと、ふたたび口を開いた。

「わたしの指導役になってくれますか?」

 その質問に、サラは心の準備ができていた。ミアの自分への好感は承知していて、自分もこの二年間、剣術や馬術、そして暮らしについてミアに助言するのを惜しんだことはない。しかしながら、ミアよりたった二つ上の自分が、ほんとうに新人の騎士を指導する務めをこなせるだろうか?

 サラにはいっさい確信が持てなかった。自分はあらゆることについていっさい確信を持てないのと同様に。

「わたしはまだ経験が浅いから」正直に答える。「王女様がもっと経験を積んだ先輩を指導役にててくれるでしょう」

「もうだれかわかっているんですか?」

「いえ」サラは首を振る。「だれが選ばれるか知っているのは、王女様と団長だけだから」

「それなら、トルン様が指導役に選ばれることもありえますよね?」

 ほんのかすかではあるけど、「その可能性も否定はできないわ……」

 それを聞いたミアは顔を上げて、サラに微笑みを見せた。サラも微笑みで応える。しかしその笑みはすぐに消えうせた。またしてもかつての光景がよみがえってきた。

 三年前、簡潔な儀式が終わったあと、アーシュラ王女はサラの指導役を告げた。名前を聞いたその場の全員がいぶかしんだ。王女みずからの口から告げられたのでなければ、だれかがその場で抗議していただろう。そのときのサラも、王女がなぜそんな決定をしたのかわかっていなかった。なぜ自分を、あの悪名とどろく先輩のもとに放り出すのか──フリシンゲン侯爵家の次女、エルザに。

 はじめ二人は無数に衝突したとはいえ、いま考えればあれは英明そのものの決定にちがいなかった。おそらく、騎士団全体のなかでもささいなことにこだわらないエルザだけが、サラに柔軟さを身につけさせ、決まりごとを踏みはずさない優等生から、一人前の騎士に成長させることができたのだろう。

 だからサラは、王女がだれをミアの指導役に任命するのだとしても、それが正しい選択なのだと思いたかった。

 選ばれるのが自分だったとしても……

「もしトルン様を指導役にできるなら、とっても嬉しいです」ミアが言う。

「わたしがほんとうに指導役に任命されたら、侍従長のように厳しくなるはずだから。そうなったらきっとあなたには恨まれる」建物に入ると、サラはミアを広い浴室に連れていった。廊下で二人は、あちこち奔走する箕帚人たちと幾度となくすれちがい、少女たちはみなミアを祝福した。多くはその手にかごを提げ、なかには食べものや服、装飾の材料が入っていて、おそらくはまもなく行われる儀式と夜の宴会のため準備をしているのだろう。

 夜の宴会にはだれでも出席することが許されているが、叙任式に参加するよう招かれるのはミアととくに近しい仲の女子二、三人だけだった。

 曲がりくねった廊下を二人が抜け、浴室のまえの更衣室まで来たときには、ミアと同じくらいの歳の箕帚人がすでにそこで待ちかまえていて、もくよくのあとミアが着替える騎士の制服を渡してきた。

 赤髪で顔にそばかすのあるその少女は、サラの記憶に残っていた。名前はたしか〝ダイアン〟といって、テルネーゼン伯爵領で生まれた農家の娘だ。その関係もあって、サラの友人でテルネーゼン伯爵家のひとり娘、ロータがよく個人的に指導をしている。サラもロータの代わりになんどか指導したことがあった。ダイアンの剣技はとびぬけたものとは言えないが、幼いころの基礎のない箕帚人としてはかなり上々のうちに入り、率直に言うならミアも勝っているとはかぎらない。だが足を引っぱっているのが馬術で、試験を通る水準はいつになってもはるかに遠い。

 ダイアンも同じようにミアを祝福するが、口調にはゆううつがこもっていた。

 ミアが脱いだケープを受けとったつぎに、「儀式が終わったら、〝デルフト様〟と呼ばないと」と一言口にする。

「同じように〝ミア〟と呼んでよ。少なくとも、そばにほかの人がいないときぐらいは」

「そんなことはできない」ケープをたたみ籠におさめながら、抑えた声で言う。その言葉はさらに物悲しく響いた。「侍従長に知られたら〝お話〟に呼ばれてしまうもの」

「ダイアン、ごめんなさい」

「どうして謝るの? わたしがひどい役立たずだからなの、こんなにずっと訓練してもまだ入団試験に通らないなんて……」ダイアンは袖で涙をぬぐい、顔を上げて、むりに笑顔を作った。「今日はあなたのほんとうに大事な日なのに、こんなこと言って、まったく自分勝手ね。ごめんなさい、ミア、できるだけ早く追いつくから」

 それを聞いてサラはもう理解していた。さきほどミアが話していた、目標を失った少女というのはこのダイアンのことなのだ。こうした別れは──二人は同じ屋根の下に身を置き、同じ主君に忠誠を捧げているのに、違った階層に属することになり、もう同じ食事のテーブルにつくことはできないし、それどころか名前で呼びあうこともできない──この離宮ではしょっちゅう現実になっていた。あるときは、姉妹のような仲の二人の箕帚人がともに試験に参加したのに、一人だけが騎士になったこともあり、もう一人の少女はほどなくここを去った。

 ミアが浴室に入ると、サラはダイアンに何言かなぐさめの言葉をかけたあと、時間を作って指導をすると申し出た。ダイアンはサラの肩に抱きついて、泣きじゃくりはじめる。

 懸命にこらえ、あまり大きな声を上げないようにして、浴室にいるミアに聞かれないようにしている。

「いったいどうすれば、馬術の腕を高めることができるのでしょう?」平静を取りもどしたあと、ダイアンは尋ねた。「もうあきらめるつもりでいたのですが、ミアのために……」

「馬と長く過ごして、むこうの習性を理解すること。ほかの方法はないわ」サラは答えた。これまでのサラを多少でも知っていたら、苦もなくこの答えも予想できるはずだ。騎士の修行の一つとして、サラは十二歳のときから、十五歳になって湖畔の離宮にやってくるまでずっと、ベーフェラント伯爵家で馬小屋の管理の手伝いをし、女伯爵の御者も務めていた。ミアに至っては、猟師の娘として小さいころから家で猟犬の世話をしていたから、もともと動物を馴れさせることは得意で、馬術を身につけるのも当然すぐのことだった。

「馬の世話の役目を引きうければ、役に立ちますか?」ダイアンの声はますます小さくなっていく。「もう手遅れなんじゃ……」

「きっと間にあうわ。まずはひととおり考えてみなさい。ほんとうに馬小屋での仕事をしたいと思うなら、侍従長に言いにいくのに、わたしが付いていってあげる」

「侍従長は反対されるのではと思いませんか? すこしまえ、さんざん𠮟りつけられたばかりなのに」

「いえ、それはないわ。アナベルはきっと受けいれてくれる」サラは苦笑いして言う。「問題は、あなたが顔を合わせる勇気を出せるかだけね」

 昨夜、徹夜禱のまえにミアは一度沐浴を済ませていて、ここではざっと身体を清めるだけだったので、すぐに浴室から姿を現した。

 湖畔に位置するこの離宮はもともと、オズワルド一世が療養のため建てた場所で、完成までに五年が費やされた。それからほどなく、オズワルド一世は長女のマルガレーテに王位を譲り退位を宣言し、ここに移り住んでその後十二年経って亡くなった。

 この場所が選ばれたのは、湖畔の風景と狩猟に好都合な山林にくわえて、山奥から湧き出す二つの泉が関わっていた。離宮の西側のモルク山から湧く冷泉と、北のラッセン山から湧く温泉は、どちらも病の痛みを和らげる霊力があると伝えられている。設計者は石造りの管を二本、巧妙に配置して、湧泉がこの離宮に流れこむようにしていた。冷泉のいくらかは飲み水になり、残りは温泉といっしょにして温度の調節に使われる。ふだんみなが沐浴に使う湯は、二つの湧泉を混ぜあわせて生まれるものだった。

 落成してから百年あまり、離宮はすでに四、五回の改修を経ていて、浴室だけが建設時のままの姿を残し、オズワルド一世時代ならではのごうしゃな構えをだれもが見られるようになっている。巨大な浴槽は三十人が同時に入ることができ、底にはさまざまな色のタイルが敷かれ、さらに浴槽には四本の大理石の柱が立ち、十字型の丸天井を支えている。南側の壁の上寄りにガラスの窓が並んでいた。当時の技術では、これほどの寸法のガラスを作るのは容易とはほど遠く、運よく一枚ができあがるまでに多数の失敗を経たのではないだろうか。窓の下には人の背ほどの青銅の柱が並んで、それぞれの柱が延びた先には銀の燭台が取りつけてある。もしすべての燭台を埋めつくすなら、六、七十本のろうそくを使うことになる。しかしカンテラが普及しているいまでは、燭台たちはめったに使われることがなくなっていた。北側には壁画があり、伝説にある四騎士が龍を倒すさまが描かれている。浴室のつきあたりには祭壇型の水だまりがあって、二方からの湧泉はここで合流したのちに大浴槽に流れこむ。双子の女神、ブルンナとフウェリニャの彫像が左右をそれぞれ守っていた。

 更衣室に戻ってきたミアは、ダイアンの手を借りながら騎士の制服に着替えた。

 コールガへの信仰を背景に、騎士と箕帚人の制服はどちらも青を基調としていて、騎士の制服がずっと深い色をしているのが違いだった。深い青の長衣アビのすそは膝の上まで届いている。立ちあがったえり袖口布カフスはどちらも銀の糸で蔓状の紋様がいとられていた。胸元に刺繡されているのは湖畔の騎士団の紋章──ゼーラントの王室を象徴する左右が立ちあがった船形の王冠を、長女を象徴する冬青ヒイラギが取りまいている──だった。いくつか並んだ真珠が紋章の上を彩っている。上衣のボタンは一つ一つが銀製だった。腰から下は白のタイツと拍車を備えたちょうという姿だ。

 箕帚人たちはみなこの服を身にまとうことを夢見るが、思いを遂げるのはごくわずかでしかない。

 ダイアンはミアのベルトを締めてやり、そして化粧台のまえに連れていって、亜麻色の長い髪を左右に分けてそれぞれ三つ編みにし、頭の後ろに垂らした。サラたちと違い髪を短く切るのを望まない女騎士たちは、離宮では多くがこうした髪型にし、外で任務にあたるときはここまで大層な手間はかけず、簡単に頭の後ろで結ぶだけのことが多かった。

 ダイアンに身支度をしてもらいながら、ここに至ってミアの顔には疲れたような色が浮かんでいた。

 サラは団長のパールへの報告のため一時この場を離れ、叙任式を控えた最後の時間を親友どうし二人で過ごさせることにした。廊下を進み、これから叙任式が行われる広間を通りすぎるときにふと、なかに視線を向けていた。

 彼女たちにとっては、ふだんばんさんの卓につく場所である。

 毎日夕食の時間になると、騎士や職工、そして厨房で手伝いをしている以外の箕帚人たちはみな広間に集まって、アーシュラ王女も現れてみなとともに食事をとる。もともと広間はいまの半分の大きさしかなかったのが、王女の命で拡張されたのだった。拡張を経た広間はたしかに二百人近くが同時に食事をとる必要に応えたが、冬の時季に暖かさを確保するのが新たな問題となった。あわれなほど小さい暖炉では広間全体を暖めるには足りないのが明らかで、食事はいつもあっという間に冷めてしまい、いちばん遠くに座る箕帚人となれば凍えて鼻水を垂らしていた。その後やむなく暖炉が二つ増築され、さらに天井をすこし低く作りかえて、この問題はどうにか解決したのだった。

 いまは数名の箕帚人が長卓と椅子を広間の左右に寄せ、叙任式のための空間を作っているところだった。ほかに数名の少女が床に膝を突いて、じゅうたんの掃除をしている。

 初期の団員たちの叙任式はすべて礼拝堂で行われていたという。三年前になって入ってきたサラはその場に居合わせられるはずもなく、当時の光景は想像するしかない。礼拝堂に入る日光の貧弱さを考えると、居合わせた人々はみな、彼女たちがなにか表沙汰にできない秘密の儀式を行っていると勘違いしたのではないだろうか。

 廊下の突きあたりにある階段に向かいサラは歩いていく。階段を上がり、そこから一つ角を折れて、団長であるパール・ベーフェラントの居室にたどりついた。ドアは施錠されていない。サラはノックして部屋に入っていく。

 騎士はみな一人ずつ自分の部屋が割りあてられている。いささか手狭な作りで、ベッドが一つに机が一つ、化粧台と手ごろな大きさの戸棚が置けるだけだが、箕帚人たちの集団宿舎よりは居心地がいい。騎士たちは華やかな物品で自分の部屋を飾ることをいっさい禁じられている。壁には騎士団の紋章をしゅうしたタペストリーが掛けられるだけで、カーテンもシーツも画一の作りだ。パールや、役職に就いているほかの先輩たちの部屋はすこしだけ広く、書類棚のいくつかや訪問者が座るための椅子がよけいに置かれている。王女の部屋さえも、広さは騎士たちの部屋二つぶん程度で、余分な装飾もまったくなかった。一階にあるいくつかの客間だけが、修繕を受けるまえの華麗な様式の装飾を残している。

「ミアの準備が整いました」机の向こうに腰かけ、忙しくペンを動かしているパールにサラは告げた。

 今年二十五歳になるパールは騎士団に創設時から関わり、いちばん年長の団員でもある。身にまとった騎士の制服には、銀色の肩章と飾緒が配されて職務を明らかにしていた。いぶし銀色の長い髪は後ろで結い上げ、黒真珠の耳飾りが見えている。海の民の風習ではと、一生嫁ぐことはないと誓った女だけが黒の真珠を身につける。パールはこの後者にちがいなかった。

 顔を上げ、サラに目を向けた。

「ミア・デルフトを指導する自信はある、サラ?」パールが突然尋ねた。

 質問に不意を突かれながらも、ひととき冷静に考えを巡らせたあと首を振った。

「正直に言えば、ありません」

「わたしもそう考えている」相変わらずパールの顔にはなんの表情も見えないが、わずかに落胆した口調だった。「王女様はあなたが引きうけるかもしれないと考えておられたけれど、わたしのほうがあなたのことをわかっていたようね」

 出会って十数年になるのだから、それ以上にわたしを知っている人はいないでしょう──サラは考えながら、ミアに対して若干のうしろめたさを覚えていた。すこしして王女が告げる名前を耳にしたとき、ミアはきっと失望するだろう。それがだれの名前か、サラも知らないとはいえ。

 いずれにしても自分ではない。

「あなたも準備しなさい、鐘が鳴ったらすぐに儀式に参加するように」そう言ったところで、パールはふとなにかを思い出す。「そういえば、きのうウィルヘイムからの手紙を受けとったわ、あなたによろしくと。来月はあなたに直接手紙を書くと言っていた」

「エルザについてなにかありましたか?」

「ウィルヘイムは書いていなかった」パールはため息をつき、またうつむいてなにかを書きはじめる。「書いていなくて、わたしは安心したわ。すくなくとも、最近はなにもしでかしていないということだから」

 パールの部屋を出ると、サラは友人のロータと落ちあってから二人で儀式に向かうことに決めた。

 ロータの部屋も二階にある。

 サラが訪れたとき部屋のドアは開いていて、ロータは鏡のまえに座り、美しいとびいろの髪をブラシでかしていた。サラはロータが髪を下ろした姿を気に入っていたが、あいにく離宮において目にする機会はほとんどなかった。

 初めてロータを目にしたときから、サラはこの一歳下の相手に引きつけられていた。

 そのころロータは箕帚人として離宮にやってきたばかりで、窓のまえの椅子に立ってガラスを拭いていたところを、サラがエルザとともに通りがかり目を留めた。ほんのすこし先まで歩いたところで、サラはエルザから、〝さっきの女の子〟の出身を当ててみるように言われた。どう考えてもエルザはそれがテルネーゼン家の娘だと知ったうえで、サラに見当はずれのことを言わせようとしていた。そして予想通り、サラは間違えた──ここに来るまえのその娘は羊飼い、ただしきっとゼーラント王国でいちばんきれいな羊飼いだったと推測したのだった。

 同じ貴族の家のひとり娘でも、フルスト家のイーディスの美しさは冷え冷えとしている。そのまっすぐに伸びた金髪、すい色の瞳、細かいところまで整った顔だちはすべて、拒絶の気配を放っていた。どの求婚者も、その顔をまえにすると口がきけなくなるのだ。ロータの美しさはそれよりも奥ゆかしく、親しみやすいものだ。同年代の娘のだれも、その美しさを否定はしないだろうが、そこに敵意を持つことはめったにないはずだ。

「わたしも髪を切る決心がつけばいいんだけれど」ロータはサラに目を向ける。「あいにく、お父さまが切るのを許してくれないの。何日かまえにも手紙で、テルネーゼン家の娘は騎士になっても髪を短くしてはならないって釘を刺してきたから」

「どうしていけないの。なにか理由は聞かされたの?」

「特別な理由はないの、せいぜい招待を受けて宮廷の晩餐会に参加するかもしれないから、それとね……縁談に影響しないように。ああもう、わたしも団長のように一生嫁ぎはしないと誓えたらって思うけれど」ロータは力なく言う。「もしくは、あなたみたいに早々と嫁ぎ先を決めるのでもいい──そうじゃない、未来の伯爵夫人?」

「わたしはパールの顔を立てるために、あの人の弟との婚約を引きうけたの」

 これは本当のことでもある。

 サラの心中では、ウィルヘイムはいまでも自分をからかってばかりの少年だった。王家の騎士団の命で群島に駐留し、いまではエルザの上司にあたるとはいえ、このところはほとんど顔を合わせていないせいか、サラからの印象はいつまでも少年時代のままだった。

「知ってるかしら、サラ、女の子たちはみんなあなたをうらやんでいるの。あの子たちは、騎士にさえなれば〝トルン様のように立派な相手に嫁げる〟と思っている」

「そのほうがいいわ。今度その子たちに訊いてみる、だれかわたしの代わりにウィルヘイムに嫁いでくれないかって。もし名乗り出る子がいたら、〝未来の伯爵夫人〟になってもらえばいい」

「団長は同意するかしら?」ロータはくしを置いて訊く。

「当然だめでしょうね」サラはそのそばに歩いていき、櫛を手にとってもてあそぶ。「パールのことはよく知っているから。相談の余地のあることだったら、わたしに相談しにくる。そうでなかったらただ命令してくる。この縁談では、わたしの意見なんてまったく訊いてこなかった。さっき一つ、相談を持ちかけられたけれど……」

「どんな用事? 当てさせて……ミアの指導者になる気があるか、訊かれたの?」

「そんなところね」

「どう答えたの?」

「パールのこと、まったくわかっていないのね。私に役目が務まると考えたなら、相談なんかせずに、はじめから私に命令してくる──弟と婚約するよう命令したときと同じでね」

「そうやって言うと、ミアの指導役になるのは伯爵夫人になるよりずっと難しい、ってことにならない?」

「パールからすれば、ほんとうにそうなのかも」サラは櫛を化粧台に戻す。「しかも伯爵夫人ではなくて、ただの〝未来の伯爵夫人〟なんだから。未来のことはだれもわからない」

 ロータが髪を結いおえると、二人は部屋から広間に向かった。

 一階に下りてすぐ、離宮の西の端にあるしょうろうから鐘の音が聞こえてきた。全騎士を広間に集める合図だ。二人が広間に入ると、そこにはすでにちらほらと数名の姿があった。ただしそれより後に続々と現れた数のほうが多く、どうやらみな鐘の音が聞こえてから動き出すのが習慣になっているらしい。

 サラと同い年のイーディス・フルストは二人よりも早く着いていた。サラにちらりと目をやり、それから何も見なかったようなそぶりで、そばにいるドゥファ・ビルンとなにか話を続ける。

 ドゥファの両親はフルスト公爵に仕える騎士で、だから彼女にとってイーディスは、サラにとってのパールと同じく領主の家のお嬢様であり、心を尽くして相手をしなければならない。サラの記憶では、ドゥファはいつでもイーディスのそばに付きそって、片時も離れないと言っていいほどだった。しかし、それが本人の望みからなのかどうかは知るすべがない。ことによると、両親かもしくはフルスト公爵夫妻からの言いつけを守っているだけかもしれなかった。

 サラとロータは、イーディスとドゥファからは離れた場所に陣取ることにした。

 広間に揃った騎士たちは整然と六列に並んだうえで、ミアと王女の入場のために通り道を空けている。職工とその弟子たちは騎士たちの後ろに立つ。用意を終わらせた箕帚人たちはつぎつぎと会場を出ていき、二人の少女だけが広間のなかに残った。二人は心得た様子で正面扉の近くに立ち、ほかの面々とは距離を取っている。

 再び鐘が鳴り、アーシュラ王女がパールを護衛に連れて入場してくる。この機会のために王都グルントヴィからやってきた女祭司ヴォルヴァのウィノナがすぐ後に続く。

 王女は赤紫色のローブを身にまとい、そこにラピスラズリの粉で染めた青のマントを重ねている。マントは楕円形にエメラルドをめこんだピンで止められていた。銀色のベルトに差した一振りの剣は、牛革で覆った黒檀の鞘に収まっている。銀色の長い髪を耳元に結い、髪網クレスパンで押しつつんでいる。頭に乗った船形の冠は王位継承者の象徴であり、父王の冠と比べたときの違いは、こちらにはいっさい宝石が埋めこまれておらず、寸法がすこしばかり小さいというだけだった。左手には印章として紋を刻みつけた銀の指輪が三つまっている。

 ウィノナは銀のけんじょうを手にし、さらに深い紫のローブをまとっていた。それはコールガに仕える聖職者だけが着ることのできる色で、小ノルン諸島で採れる巻貝の血で染められている。彼女は王女の乳母の娘であり、もとは王女お付きの侍女を務めていたのが、王女の手配でミミル島の神学院に行き、学びを終えたあとは王都のサイムンドゥル大聖堂で祭司を務めることになり現在に至る。王女がなにごともなく王座に就くなら、ウィノナが主教の位に就くのも時間の問題でしかないのは予想できることだった。

 王家の騎士団における任命の典礼と比べるなら、離宮で行われる儀式は多くが質素で、面白みがないと言えなくもなかった。やかましい軍楽隊も、白のローブを着た合唱隊もなく、周囲を取りかこむ人々の姿もないのだから。たとえそうだとしても、聖職者が祈禱文を詠誦する手続きばかりは省略するわけにはいかない。だから新人が入団するたび、王女はウィノナを呼びよせて儀式を執りおこなうよう頼んでいた。

 このすぐ後から広間に入ってきたのが副団長のカロリーン・プスコフで、以前から騎士団や離宮全体の財政を管理している。初期の団員たちのなかで、カロリーンひとりが平民の出身だった。自由都市ブルーメンベルクの富商の娘だという。

 両親はおのおのが事業を仕切り、ともに並々ならぬ財産を蓄えていて、それゆえに娘は幼いころから騎士になるための教育を受ける機会があった。カロリーンの剣術と馬術はなかなかの域にいるが、体格があまりに小柄なのと、両親が騎士団の中心的な援助者であることもあって、これまで実戦に加わるよう派遣されることはなく、机仕事だけをこなしていた。その背恰好にくわえて、左目に嵌めた片眼鏡モノクルも彼女の象徴だった。

 カロリーンの手には、新しく製作された剣が握られていた。

 最後に入場してきたのは侍従長のアナベルとミア、そして後ろを歩くダイアンだった。扉を入ったあとダイアンは二人に付いて先に進むのではなく、そろそろと広間の正面扉を閉めて、もう二人の箕帚人の横に立った。

 アナベル・スハウウェンは現任の辺境伯と山の民の族長との娘だった。二つの血が流れるアナベルは山の民の特徴を多く受けつぎ、背丈は高く、肌はやや深い色で、瞳も黒曜石のような色をして、ただ一つ暗い灰色の、わずかに金色を帯びた髪だけが父親の外見から受けついだものだった。騎射と近接格闘にけ、剣術もきわめて巧みで、団長のパールに匹敵するとしてもおかしくない。侍従長としてのアナベルは、前任のイングリッド・フリシンゲン以上に厳しく、箕帚人フィルギャたち全員にみずからの目標を定めるよう求めている。将来騎士になるか、職工の弟子になるか、どちらでもなければ〝ここに残る価値はない〟と。

 ミアの足は完全にもとに戻ったらしい。とはいえあまりの緊張で腰はぴんと伸びきり、足どりはすこしばかりぎこちなかった。アナベルはミアを広間のいちばん奥、絨毯を二枚重ねた場所に連れていって、数歩下がりほかの騎士たちと並んで立った。

 王女とウィノナはみなのほうを向き、壁にかかっている騎士団の紋章を縫いとったタペストリーには背を向ける。パールとカロリーンは王女のそばに立っていた。

 ミアがみなに背を向け、王女から六、七歩離れたところにひざまずいた。

 昨夜に始まり、ひざまずいてきた時間はかなり長いが、もうすこしばかり耐えないといけない。

 ウィノナが一歩進み出て、諸島語で祈禱文の詠誦を始めた。それはサラの祖先たちが使っていた言語で、いまも大ノルン諸島では共用語になっている。しかしながら、建国戦争以来のこの三百余年で、海の民と火の民の言語はすっかり一つに融合し、結果、より多くの人々に使われる新しい言語が生まれている。大ノルン諸島の人々はその新しい言語を〈低地語〉と呼び、山の民たちの〈高地語〉と区別している。エルドゥリア王国の人々はそれを〈ゼーラント語〉と呼んでいた。サラからすればそうした呼び名はどれもささいなことだった。サラにとっての母語だからだ。かつて祖先たちが使っていた諸島語のほうは反対に、学ばないかぎり身につけられないなじみのない言語になっていた。

 ウィノナが学んだ神学院では、だれしも標準的そのものの諸島語で話すことしか許されず、火の民が作ったを島に持ちこむことはできない。それはコールガへの冒瀆とみなされるのだ。そうした環境で、ウィノナは母語さながらに祖先たちの言語を身につけていたので、経典や祈禱文を頭から終わりまで暗誦し、そして一言一句ごとに信徒たちに解釈を聞かせることもできた。

 自分の祈禱がよりけいけんなものらしくなるよう、サラも諸島語の単語を独学して(自分の母語とつづりが似ている単語は多かったが、発音はまったく違っていた)いくつかの祈禱文を丸暗記して暗誦していたが、いまとなってはほとんど忘れてしまっている。ウィノナの詠誦を聞いていると、とぎれとぎれにいくつかの単語が──祝福、栄誉、守盾、慰め、救済、がいせん、鮮血、神殿──聞きとれた。

 なかには、サラが覚えていた祈禱文もそのままの姿で現れた。


あなたの慈悲は夜の暗さよりも深く

あなたの正義は汐のみちよりも確か

われわれは川の流れのように身を任せます


 その次には、ミアが宣誓する段が来る。王女が差し出した左手を両手で握り、先輩たちみなと同じく誓いを立てる──ミアは、君主と国家に忠誠を尽くすことを、神々とそのほかの地上の代弁者をあがめることを、弱き者を重んじその守り手となることを、偽りを口にせず秘密を守ることを、正義を守り、邪悪を払うことを誓った。

 王家の騎士団の誓いであればもう一つ、〝決して戦いの場で退かないこと〟がある。王女は、実戦では必ずしも当てはめられないという考えから、これを削っていた。

 宣誓が終わると、王女はもと立っていた場所に戻り、カロリーンが手にしていた剣をパールに渡す。パールは剣をウィノナのまえに差し出して、ごく少しの長さを鞘から抜き出し、ウィノナが指を剣身に触れさせ、短く祝福の言葉を送った。

 ミアはパールの手から剣を受けとり、腰元に差しいた。これからはつねにその剣がミアにつき従うことになる。

 そこに王女がみずからの腰の剣を抜き、ミアのまえに歩いてきて、銀に輝く剣身で軽く右肩を、続いて左肩を叩く。それから訓戒の言葉を口にした。騎士の名誉を重んじること、臆病ではならないが、軽率なふるまいも慎むこと、そして今後とも変わらず先輩からの指導に耳を傾けること。

 最後に、王女は剣を収め、ミアに立ちあがっていいと告げた。起立したミアは王女に礼を言ったあと、反対を向いて先輩たちからの祝福の言葉を受けた。

 湖畔の騎士団は、こうして新たな団員を一人迎えることになった。

 一同が静かになり、だれがミアの指導役になるか告げられるときがやってきた。王女がその名前を告げるよりまえに、ミアは大勢の人影のなかにサラの姿を探しはじめていた。

 ミアとサラの目が正面から合った瞬間、王女が口を開いた。

「これから一年、クララ・アイセルがミア・デルフトの指導役を務める」

 クララは現在二十歳で、小ノルン諸島の貴族の娘であり、幼いころから王都の親戚の家で育てられた。火の民の血が混じっているせいだろうか、全団員のなかでもいちばん背が高く、騎士団でいちばん背の低いカロリーンが並んで立つと胸の位置までしか届かない。その髪も、もっとも明るい色をしていた。短く切られた髪は、銀色というよりもむしろ純白に近い。箕帚人たちのあいだでもとても人気があるのは、その容貌がとりわけ叙事詩の王子に似ているからだろうか。

〝クララ様〟が指導役になると聞いたら、ほかの少女たちは嬉しさのあまり泣きだすかもしれない。しかしそれは、ミアが聞くのを期待していた名前ではない。

 サラは慌てて視線をそらす。もうミアの表情を見られなかった。

 きっとこうした瞬間が来るのはわかっていた。ミアの顔は失望と無念さに覆われている。しかし次の瞬間、ミアは懸命に笑顔を作り、クララを迎えにいった。

 ミアとクララを中心に囲んで、みなが集まってくる。王女はパールに付きそわれて、ひっそりと広間を後にした。

「後悔している?」ロータがサラの耳元に近づいて尋ねる。「話を受けたら、あそこに立っているのはあなただったかもしれないのに」

「でもあなただって、クララのほうが確かにいい人選なのは認めるしかないでしょう。わたしよりも経験があって、もっと多くのことをミアに教えてあげられる」

「あなたが指導を断ったとミアが知ったら、きっととても傷つくでしょうね」

「わたしは責任を果たすことを考えただけ。経験の多い人に指導してもらうほうがふさわしいでしょう。いまのような平和な日々はいつまで続くかわからないの。ひょっとすると王妃側がそのうちこちらへの態度を変えるかもしれない、もしくはエルドゥリアの軍隊がそのうち国境を越えてくるかもしれない……」

 サラは背を向け、立ちさろうとする。

「これが私たちの向きあわないといけない未来。今日からはミアも向きあわないといけない、ね」