六回裏 モラトリアムの終わり。



 夜の浜辺で、私は一人ぼんやりと花火を眺めていた。

 香乃が見つかったという連絡を受けたのは三十分前。

 だけど浜辺はいまだにすさまじい人混みで、陸がここに来るのは時間がかかるだろう。

「……結局、一人で見ることになっちゃったな」

 ここは屋台がある並びから遠いせいか、人気はだいぶ少ない。

 花火を見るにはいいスポットというのは、そういうところもあるのだろう。

 おかげで、けんそうに邪魔されることもなく空に咲く大輪の花を眺めることができた。

 とはいえ、どんな絶景も一人では意味がない。

 以前、この浜辺に来た時のことを思い出す。

『碧の肩も、夏休み中にはリハビリ終わりそうだしな』

 そう言われて、私はドキッとしてしまった。

 肩のリハビリが終わるのは、喜ばしいことのはずなのに。

 理由はもう分かっている。

 ソフトを失った私は空っぽで、何もない人間。いつまでもこのままじゃいけないと思っている。

 だけど──心のどこかで、今の状況がずっと続けばいいと思ってもいる。

 陸がずっと側にいてくれて、さーやちゃんや銀司君も一緒にいて。

 毎日が楽しく、ずっとずっとこんな日が続けばいいのにと。

「……そんな都合のいい話、あるわけないのにね」

 中学の時もそうだった。陸がいて、香乃がいて、ソフトボールが楽しくて。

 そんな日常はある日唐突に壊れた。

 陸と香乃の関係が壊れて、それに追い打ちをかけるように私も肩を壊して。

 楽しかった日々というのは、ある時に唐突に崩れ去るもの。

 その時に何も残らないのならばまだいいのだろう、前に進むしかないのだから。

 けど、現実はそんなにドライじゃない。

 終わったからと言って、何もかもがれいさっぱり消えてくれるわけではないのだ。

 粉々に砕け散った日常のざんが、ずっと自分をからる。

 たとえばそれはソフトボールに対する未練だったり、再会した香乃に抱いた気まずさだったり。

 あの頃、確かに幸せを作っていてくれたものの欠片かけらが、少しずつ自分の心に痛みを残すのだ。

『碧はどうなんだろうね』

 その結果が、あれだ。

 私に向けられたわけじゃないあの問いかけは、しかし私にとって致命的なものだった。

 陸の存在は私にとって命綱。それを陸自身も分かっている。

 だから私の告白は成功する。あまりにも不実な形で。

 それはとても認められない。きっと今告白に成功しても、私は耐えられない。

 中途半端なぬるま湯を楽しんで、いつまでも空っぽであることを維持しようとしたから、陸だけがずっと命綱になってしまった。

 だから、私はいい加減、砕け散った過去の欠片と向き合わなければならない。

 きっと、陸が今香乃に対してやっているように。

 そう決意を固めると同時に、一際大きく、美しい花火が空に咲いて、すぐに散った。

『本日の花火は以上となります。皆様、暗くなっておりますので足下に注意してお帰りください』

 直後、そんなアナウンスが浜辺に響く。

「……終わっちゃったか」

 夏の浜辺が、寒々しく明かりを失う。

 花火の後はいつも寂しいものだけど、見知らぬ土地で、たった一人で味わうせきりよう感は、いつもの比じゃなかった。

 見上げても花火は打ち上がらず、夜空に残った煙は揺蕩たゆたって星を隠し、人々は私に目もくれず帰路につく。

 まるで世界で一人きりになったような孤独。

「……碧!」

 その時だった。

 帰っていく人の流れに逆らってこちらに飛び出した人が、私の名前を呼びながら走ってきた。

 暗くて顔はよく見えない。

 けど私には誰かすぐに分かった。

「陸!」

 私が呼びかけると、彼は息を切らしながらこちらに走り寄ってくる。

 そしてすぐ目の前まで来ると立ち止まり、ひざに手をついて深呼吸をした。

「……悪い、急いだんだけど、間に合わなくて」

 荒い呼吸を整えようともせず、申し訳なさそうに謝ってくる陸。

 だけど構わない。

 間に合わなくたって、ここにちゃんと来てくれた。

 それだけで、私にとっては十分だから。

「いいよ、この混雑じゃ仕方ないって」

 香乃と一緒にいたまま、こっちに来なかったらどうしようって少し心配だったから。

 息を整えた陸は、私が怒っていないことが分かったのか、ほっとした様子を見せる。

「でも無駄足になっちゃったね」

 周りを見れば、もう人気は完全になくなった。

 遠くに見える喧噪と明かりもほとんど届かず、すぐ近くにいる陸の表情も見づらい。

「いや、ちょうどいいものがあるよ。せっかくだし、やっていこうぜ」

 そこで陸は、自分の手に持ったビニール袋を掲げてみせた。

「なにそれ?」

「友情の証だってさ」

 小首を傾げる私に、陸は要領を得ない返答をしてくる。

 ただ、それが香乃からの贈り物であることは分かった。

 暗くてよく見えない視界で、陸が何か作業を続ける。

「えーと、こうして……お、出来た」

 やがて、彼は組み立てた何かを見て満足そうにうなずいた。

 見れば、それは小さな船のような形をしている。

 陸はそれを持って海の中に入っていった。

「陸、危ないよ?」

 ただでさえ夜の海な上、彼自身も岩礁があるから入らないほうがいいと言っていたのに。

 げんに思う私に、陸は笑いかけた。

「大丈夫。見てろって」

 陸は笑うと、いつの間にか持っていたライターで火を起こした。

 そうして、海に浮かべた船に着火する。

 途端、ふわりと光の花が海面に咲いた。

「わぁ……」

 思わず感嘆の吐息を零す。

 船の上で、半球状に広がった花火が淡い光を放っていた。

「一般用の水上花火なんだってさ」

 私の隣に戻ってきた陸が、船の上に咲いた花火を見ながらつぶやいた。

「ここは潮の関係で、夜になると岩礁に囲まれた部分が湖みたいになるんだ。波がなくなるから、こうやって小型の水上花火を浮かべるのにピッタリなんだと」

 陸の話を聞いて、ふと思い出すことがあった。

「ここ、夕方より夜のほうが本番って言ってたけど、これのこと?」

 前にここに来た時に聞いた台詞せりふ

 私の問いに、陸は首肯する。

「ああ。前はこの花火が名物だったんだが、花火のざんがいをそのまま放置する客が多くて廃止になったんだってさ。でも、今回だけ特別に香乃が花火大会の運営と仲良くなって分けてもらったんだ」

「あの香乃が……」

 初対面の人と打ち解けて、こんなものをもらえるまでになったなんて。

「びっくりだろ? あの人見知りだった奴が、そんなことまでできるようになったんだぜ」

 私と同じ感想を抱いたのか、穏やかな表情でそう語る陸。

「だから、俺もちゃんと前に進まなきゃって思った」

 静かに、だけど強い決意のにじむ言葉。

 それで二人の結末を察した。

「……仲直り、できたんだ」

「ああ」

 頷く陸。

 最大の恋敵と関係修復したという。

 だけど香乃に対するしつは湧かない。

 ただ、このままでは二人に置いていかれるというのだけは分かった。

 ……それは、嫌だな。

 私も勇気を出さなきゃ。

「ねえ陸。私ね、肩が治ったらソフト部に入ろうと思う」

 そう宣言すると、陸はこっちを見た。

 花火に照らされた彼の顔は、驚いたような表情を作っている。

「野手としてってことか?」

「ううん。投手として」

 リハビリが終われば復帰はできる。ただし、昔みたいには決して投げられない。

 必ずレベルは落ちるから、競技との付き合い方は変えなければならない。

 私に下された、覆らない宣告。

「それは……」

 陸もそれを知っているからか、何を言うかしゆんじゆんするかのように目を逸らした。

 報われない挑戦をしようとしている親友を止めるべきか、応援するべきか、迷っているのだろう。

「分かってる。私にはもう昔みたいな球は二度と投げられないって」

 あんなに練習したライズボールも、チェンジアップも、二度と投げられない。

 分かってはいる。分かってはいるけど──本当は分かっていない。

 もしかしたら投げられるかもしれない。

 医者の言うことなんてただのおおで、本当は昔と変わらず投げられるかもしれない。

 あるいは私の身体が常人離れした回復力を見せていて、奇跡の復活をしているかもしれない。

 そんな毒にも等しい小さな希望は確かに私の中にあって、それを手放せないでいた。

 確認さえしなければ、ずっとその可能性は〇%にはならないから。

 それをしないから、まだソフトへの未練を断ち切れない。だから前に進めない。

 でも私は、そんな『もしかしたら』にすがっていくのをもうやめようと思う。

「確認したいんだ。もう無理なこと。昔みたいには投げられない。もう過去には戻れない。それを、ちゃんと自分で確認しなきゃ私は前に進めない」

 ──だから、これは葬式だ。

『もしかしたら』の世界で生き続ける、西園寺碧という投手の。

「そっか」

 私の決意を聞いて、陸は優しく微笑した。

「引退試合、最後まで投げられなかったもんな」

「うん。今度こそちゃんと引退する」

 力強く答えて、私は少しだけ前に出て花火を見た。

 今、顔を見られたら、きっと私の強がりがバレてしまうから。

 そう、強がりだ。本当は怖い。

 だって一度向き合ったらもう逃げ場はない。空っぽな自分を、なんの言い訳もなく受け止めなければならないのだ。

 けど、その恐怖と闘わなければ私に先はないから。

 だから、私は少し強がってそう宣言した。

「なら、引退した後の予定は全部俺にくれ。一緒に新しいこと探そう」

 言葉とともに、不意に後ろから抱きしめられた。

 私の心をつなぎ止めるように。一人にならないように。

 ……そうだよね。顔を見なくても、陸なら私の強がり、分かっちゃうよね。

 包み込まれる温かさに、私は張り詰めたものが解けていくのを感じた。

「あのね、全部終わったら……陸に言いたいことがあるんだ、私」

 ちゃんと引退して、新しく夢中になれるものを見つけて、陸が命綱じゃなくなったら。

 きっと、好きだと伝えるのだ。

「その時は、ちゃんと聞いてくれる?」

「ああ」

 陸は頷き、耳元でささやいてくる。

「実はな、俺も全部終わったら碧に伝えたいことがあるんだ」

「……うん。それも、ちゃんと聞く」

 新しい、大切な約束。

 それを交わした私たちは、花火が消えるまで静かに眺め続けるのだった。