
バイト五日目。
まだ本格的な夏休みは迎えていないにもかかわらず、少しずつこのビーチも
観光地はイベント合わせで泊まりに来る客が多い。この混雑も、恐らくは花火大会の影響なのだろう。
俺たちといえば、
これなら花火大会の日にもある程度戦力になれるだろう。
そう思った矢先のことだった。
「すまん、誰かスーパーに食材の買い出しに行ってくれないか?」
昼のピークが過ぎた頃、申し訳なさそうに店長がそんなことを言ってきた。
「買い出しですか? いつもは配達してもらってるのに」
毎朝、業者がトラックで配達に来て店長が検品する姿を見ている俺は、不思議に思って首を傾げた。
「ああ。業者の手違いで
なるほど。本当は店長が行くのが一番なのだろうが、さすがに俺たちだけじゃ海の家を回せないもんなあ。
「あ、じゃあ私行きまーす! 原付持ってるし!」
と、そのピンチに手を上げたのは香乃だった。
確かに原付を持っている香乃は、買い出しにぴったりである。
ある一点を除けば。
「香乃……お前、普段食材の買い物とかしてるか?」
嫌な予感を覚えつつ確認すると、香乃は不敵に笑った。
「ふ……したことないね! 正直食材の値段相場とか分からないし、なんなら鮮度の目利きも厳しいレベル!」
「堂々と言うな!」
家庭料理ならそれでいいかもしれないが、店でお客相手に出すものが万が一傷んでいたら困る。まして、ものが腐りやすい夏だし。
食材の買い物というのは、意外とスキルがいるものなのである。
「うーん……誰かもう一人付いていってくれないか?」
店長もさすがに不安になったのか、付き添いを募集した。
「私と碧は無理だろうな。怪我があるし、重い物とか運ぶのは厳しい」
二条が少し申し訳なさそうな態度でNGを出してきた。
「うん。確かに足引っ張っちゃいそう」
碧も困ったような表情ながらも二条に同意した。
まあこの二人はそうだろうな。原付に全ての荷物が乗るとは限らないし、スーパーまではそこそこ距離もある。身体に不安のある奴らは除外するべきだろう。
「俺も食材の目利きとかはちょっとな。東雲さんと同レベルの買い物スキルだと思う」
次いで、銀司も苦笑いを浮かべて脱落を宣言した。
「となると……俺か」
自然と同伴が決定してしまい、深々と
一応、両親が共働きであるため生活用品の買い物はよくしているし、食材の善し悪しもある程度なら分かる。
「お、陸か。私をエスコートできる喜び、しっかり
「そんなもん噛み締めるくらいならハバネロでも噛み締めたほうがマシだわ」
謎のドヤ顔をする香乃に、俺はこれ以上ないくらいの渋面を返した。
「巳城君、これ買い物メモと財布。あとクーラーボックス持っていって」
「了解です」
「じゃ、行ってきまーす!」
店長から必要なものを渡された俺は、香乃とともに海の家を出た。
「ちょっと待ってて。原付取ってくる」
「おう」
ちょこまかと走って駐車スペースに消えていく香乃を見送ってから、俺は夏の日差しを見上げる。
自宅にいた頃は不快でしかなかった暑さも、夏の海で浴びると風情に感じるから不思議なものだ。
「じゃ、行こうか」
俺が夏の風情を満喫していると、原付の
二人、歩き出す。
「それにしても、二人で買い物なんて久しぶりだね。中学の頃は結構あったけど」
原付を引いたまま歩く香乃は、上機嫌で思い出話を振ってきた。
「そうだな。碧に用事があった時とかは二人で行ったっけ」
「ね。ちなみに中学三年になったあたりから露骨に碧が用事で一緒に行けないっていう日増えたけど、あれはなんでなのかな?」
と、香乃はすげえ確信犯的なニヤニヤ笑いを浮かべながら、わざとらしく
「……さあな。進学のことも考えなきゃいけないし、忙しかったんだろ」
「そっか。私はてっきり陸が私と二人きりになれるよう碧に相談した結果かと思った」
「分かってんなら聞くんじゃねえ!」
遠回しな攻め方から一転、ド直球を投げてくる香乃。緩急ついた厄介な配球に、俺は完璧に崩されてしまった。
「当時は碧がマジで忙しいのかなって心配したものだけど、陸の策略だったとはねえ。へー、ふーん、可愛いことするね」
「おいやめろ! よりによってお前がその部分を批評するな! なんだ、この黒歴史朗読会! 俺もう帰るぞ!」
マジで
「あははっ! 冗談だって」
「まったく……だからお前と二人行動は嫌だったんだ」
「昔は碧に頼んでまで二人きりになろうとしたくせに?」
「やかましいわ!」
俺たちの買い出しは、なかなか前途多難な幕開けとなった。
三十分後。
スーパーに着いた俺たちは、買い物メモに従って食材を選び、さっさと支払いを済ませて店を出た。
「えーと、もやしとにんじん、中華
「おう。こっちも調味料類は問題なしだ。この辺は原付で頼む」
念のための最終確認を済ませ、俺たちは担当ごとに買ったものを運ぶ。
「よしよし、意外とスムーズに終わったね。これでサボる時間ができた。ちょっと他の海の家に遊びに行こうよ、陸」
また悪い顔で何か言い出した香乃である。
「断る。悪いが俺は仕事に誠実な男だ」
冷たい目で香乃を見るも、彼女はまるで効いた様子がない。
「ふむ。じゃあ言い方を変えよう。商売敵の店を敵情視察しに行こう」
「同じじゃねえか。そんな
そもそも、香乃は原付のサイドバッグに荷物を入れてるから負担がないが、俺は普通にクーラーボックスを肩に掛けて運んでいるため、早く帰ったほうが楽である。
よって、悪魔の
「いやいや、仕事が早めに終わって暇な時間ができたら、自分から仕事を見つけて働くのが理想の店員ってものじゃない?」
「まあ、そりゃあな」
「でしょ? 今私たちは早めに買い物を終えて時間が空いている。ならこの時間を使って敵情視察という新しい仕事をするべきだよ」
「む……」
屁理屈のはずなのだが、なんとなく筋が通っているような気がして、反論が浮かばない。
「いやけどなあ……ちょっとどうかと」
なんとなく釈然としないものを感じ、感情だけで否定するも、やはり理屈が通っていないため我ながら弱々しい。
と、そんな俺を見てあと一押しと思ったのか、香乃がずいっと俺の目を正面から見つめてきた。
「考えてもみなよ。店に戻ったとしても今は
「そう……なのか? なんかそんな気がしてきた」
確かに店に戻っても今は暇だしな。この時間、五人は過剰戦力だ。
「……分かった。敵情視察に行くか」
じっくり考えた末、なんとなく香乃の言葉が正論な気がした俺は、彼女に同意することにした。
「やった! ふっ……チョロ」
ガッツポーズを取った後、ぼそっとなんか言ってる香乃。聞こえてんぞ。
とはいえ、一度同意した以上は今さら翻すのも優柔不断だ。
やると決めたら、ちゃんと敵情視察をしよう。
「じゃ、行くか」
「りょうかーい!」
クーラーボックスの
スーパーから少し歩くと、俺たちの海の家がある浜辺に戻ってくる。
「私たちの職場から一番近い海の家は、ここから二百メートルくらい離れた場所にある店だね。一番のライバルだから気合いを入れるように。あと私がナンパされないよう気を張っていてください」
なんて香乃が色々と話した矢先だった。
「おーい、そこの二人」
早速、怪しげな男が話しかけてきた。
派手な金髪と日に焼けた肌をアロハシャツに包み、グラサンをかけた二十代後半とおぼしき男性。
アロハ男は俺たちの前に立ちはだかると、無駄に
「ねえ君、可愛いねえ。隣の子は彼氏さん?」
その問いかけに、俺は思わず渋面を浮かべた。
「いや違いま──」
「はい、そうです!」
俺が否定するより早く、香乃が晴れやかな笑顔で肯定してしまった。
当然、俺はギロリと彼女を
「おいこら、何を勝手なことを」
「いいじゃん。こっちのほうが早く終わるだろうし」
こそこそ小声でクレームを入れるも、香乃も小声で言い返してきた。
確かにこっちのほうが楽だし手っ取り早いのは分かる。分かるが……。
「お前、もしこれが碧に伝わったら……!」
「だいじょーぶだって。いざとなったら私が説明するし」
心配する俺とは対照的に、気楽に請け合う香乃。
とはいえ終わってしまったことは仕方ない。せめて、さっさと解放してもらおう。
そう思ったのだが、男は何故か満足げな顔をした。
「いやあ、やっぱりカップルか! ちょうどよかった!」
想定外のリアクションに、俺と香乃は
すると男は浜辺の一点を指差した。
見れば、そこには簡易的な特設ステージのようなものが出来ていて、見物客らしき人々が集まっている。
「今さ、浜辺のベストカップルコンテストをやってるんだよね。俺、イベントスタッフなんだけど、出場者を探してるんだ。二人で出てみない? 一位になったら賞品もあるよ」
「え、楽しそう。出ま──」
「すみません、仕事中なので」
目を輝かせて出場しようとする香乃を、今度は俺が遮った。
よりによって、そんなもんに出てたまるか。
「むぅ、賞品……」
香乃が不服そうに
「仕事中……ああ、もしかしてあっちにある海の家?」
店のロゴが書かれた俺たちのTシャツを見て察したのか、男がそう訊ねてきた。
「まあそうですね」
俺が肯定すると、男は何故かこれ幸いと言わんばかりに
「そっかそっか。ならカップルコンテストの隣でやってる海の家看板料理コンテストのほうに出ない? そっちもうちの管轄だから」
続けざまの勧誘に、俺は若干呆れてしまった。
「……なんでそんなにイベントやってるんですか」
「花火大会に照準合わせてやってきた観光客を少しでも多く捕まえたいってことで、この時期の浜辺はずっとこんな感じよ」
なるほど。観光地ならではの事情というやつか。
「いいなあ、楽しそう。ねえ陸、こっちなら出てもよくない? お店の宣伝にもなるし」
香乃はそわそわした様子で俺のシャツの
「まあ、店長が許可くれたらな」
正直、そんな面倒ごとに巻き込まれたくはないが、俺が言っても聞かないのは目に見えている。
さすがに勤務時間中にこんなイベントの参加許可なんて下りないだろうし、ここは良識ある大人に止めてもらおう。
「りょーかい!」
香乃はびしっと敬礼してから、スマホを取り出して店長に電話を掛ける。
「あ、もしもし。東雲です。今陸と一緒なんですけど、海の家看板料理コンテストなるものがやってましてですね。あ、はい。多分それです。え、そうだったんですか? はい、はい……了解でーす。じゃあ陸にもそう伝えるんで」
会話の途中から香乃の声が明らかに弾んでいた。
あれ、なんか嫌な予感がするな。
おののく俺をよそに、香乃は通話を終えるなり晴れやかな笑みを浮かべた。
「陸、店長の許可下りたよ。出よう!」
「嘘だろ!?」
思わず
「マジだって。このイベント、宣伝になるから店長が毎年出てたんだって。今年は腰が悪いから参加を見送ってたけど、私たちが出たいなら任せるって言ってくれたよ」
「……藪蛇だったかー」
深々と
とはいえ、許可が出たのなら断るわけにもいかない。
「OK、助かるよ。じゃあ案内するから付いてきて」
俺たちの間で話がまとまったのが分かったのか、チャラいイベントスタッフさんは手招きして歩き出した。
「よしよし! ほら行くよー、陸」
「……お前といると、本当に変なことに巻き込まれるなあ」
予想外の展開に戸惑いながらも、俺は香乃とともにスタッフの後を追った。
それから十五分後。
俺たちは浜辺に用意された特設ステージの上に立っていた。
周囲にはそれなりの数のギャラリー。参加したのは俺たちを含め八組の海の家。
ここで目立てば、確かに店の宣伝になるだろう。
目立てば、の話だが。
「なあ香乃。今さらだが、お前ちゃんと料理作れるのか?」
目の前に作られた簡易キッチンを前に、俺は恐る恐る
「もちろん。陸たちが来るまで、客からのナンパがうざすぎてキッチンの仕事やってること多かったからね。とりあえず看板料理の焼きそばだけは作れるようになったよ!」
自信満々にサムズアップする香乃。
そうだよな。いくらなんでも自分が料理できない状況でこんなイベント参加しようなんて言い出すわけがないか。
俺としたことが余計な心配をしてしまったようだ。
『はーい、それではこれより海の家最強看板料理決定戦を始めます!』
さっきのチャラいイベントスタッフがマイクを持ってMCを始めた。器用だな、あの人。
『それでは今回のイベントに参加してくれた八つの海の家を順番に紹介していきましょう。まずはこちら!』
MCがどんどん店を紹介していく。
そして、すぐに俺たちの番も来た。
『さあ、そして今回の飛び入り参加枠にして注目枠。美人看板娘が自ら乗り込んできた! 海神屋さんです!』
紹介とともに香乃が笑顔で手を振ると、観客が
「……またこいつの見た目に
ぼそりと
「ほう、まさに私に痛い目に遭わされた陸が言うと説得力あるね」
「アホか。俺は別にお前の見た目に騙されたわけじゃねえよ。初めて会った時のこと忘れたか」
「ほうほう。つまり陸ったら私の中身にべた
「あはは。昔の俺って女の趣味悪かったんだなあ」
互いに笑顔で火花を散らせる。
俺たちがそんなしょうもないやりとりをしていると、他のメンツの紹介も終わり、いよいよ調理開始に入りそうだった。
『それでは制限時間は三十分。調理スタートです!』
MCのコールとともに全員が作業にかかった。
当然、香乃も臨戦態勢に入る。
「では役割分担をするよ! まずは陸が材料を全部切る! そして私はそれを見て頑張れって応援する! 以上!」
「分担って言葉の意味知ってるか!? どう見てもワンオペなんだわ!」
一方的な役割押しつけに抗議するも、香乃は動こうとしない。
「だって私、包丁使えないし! いいの? ここで私が食材を血まみれにしたらまず負けるよ?」
「おい、料理修業してたんじゃないのかよ!」
唐突なカミングアウトに驚く俺に、香乃は何故か堂々と胸を張った。
「しましたとも! けど材料は全部店長があらかじめ切ってくれてたからね! 私は切った材料を調理することしかできないよ!」
「能力偏り過ぎだろ!
「あ、野球のことはよく分からないので、全然そのたとえピンと来ないです」
「それに関しては悪かったよ!」
ぐだぐだになりつつも、俺は仕方なく包丁を握った。
店で見た焼きそばの具材を思い返しながら、材料をリズミカルに切っていく。
「え……陸、普通に包丁使えるじゃん」
そんな俺の包丁
「そりゃあこれくらいはな」
うちは共働きなため、俺も多少の料理スキルが付いている。
シニアから帰ってきて夕食がない時とか待ってられなかったし。
「ぐぬぅ……そういえば昔から器用な奴だったよね。恋愛以外は」
「余計な一言を挟むな。ちなみに碧も料理できてたぞ」
悔しそうに
「なんか悔しいんだけど! ちょっと私にも切らせて!」
と、それが効き過ぎたのか、香乃が包丁仕事に立候補してきた。
「駄目に決まってんだろ! 指切ったらアウトって言ったのお前じゃねえか!」
「だとしても! 人にはリスクを背負ってもチャレンジしなきゃいけない時がある!」
「それは今じゃないと思う! くそ、早く切り終えないと!」
香乃が余計なことをする前に作業を終えるべく、俺は包丁の速度を上げた。
「あ、待って待って!」
次々と切り刻まれていくにんじんやキャベツの山を見て、わたわたする香乃。が、もう遅い。
「よっしゃ終了! さあ切り終えたぞ!」
俺は達成感とともに包丁を置き、切り終えた材料を香乃に差し出す。
「むぅ……いじわる」
よほど悔しかったのか、香乃は唇を
「お前が決めた役割分担だろうが。ほら、早くやれ」
「はーい」
まだちょっと不満そうだったが、自分の出番が来てテンションが上がったのか、香乃はすぐに上機嫌に戻る。
フライパンに火を入れ、火の通りにくい野菜から
「どう? この慣れた手つき!」
「思ったよりできててびっくりした」
ちょっと不安だったが、実際に見た香乃の作業姿は結構様になっている。
変に茶化して水を差すのも悪いし、ここは褒めて伸ばしてやろう。
「おお、陸が皮肉を言わない! すごい、ちゃんと私のこと褒めて伸ばそうとしてる! いいよ、陸! コミュニケーション頑張ってるよ!」
「逆に俺を褒めて伸ばそうとしなくていいから! 手元に集中してくれ!」
「はーい!」
返事をすると、香乃は鼻歌交じりに調理を続ける。
そうして数分後、彼女は出来上がった焼きそばを盛り付け、満足そうに
「よし、完成!」
香乃がそう宣言をすると、スタッフの人が近づいてきた。
「はーい、お疲れ様です。じゃ、審査員のところに持っていきますねー」
運ばれる焼きそばを香乃は自信ありげに、俺は割と緊張しながら見守っていた。
視線の先で、審査員の男性が一口食べる。
すると彼はこっちを見て、ぐっと親指を立ててみせた。
「お、高評価っぽい! やったね、陸!」
審査員のリアクションに気をよくしたのか、香乃は俺に向かって両手を掲げてハイタッチを要求してきた。
「おう、安心したわ」
俺も素直に喜び、香乃と両手を打ち合わせる。
「うんうん、やっぱり参加してよかったね。陸は手を引いてあげた私に感謝すること」
一瞬、また反論してやろうかと思ったが、心底楽しそうな香乃を見たら、そんな気も失せてしまった。
「はいはい。ありがとうございます」
……まったく。
人見知りなところもぼっちなところも変わったけど、こうやって人を振り回すのがうまいところだけは変わらない。
嫌々巻き込まれているはずなのに、気付けばこっちが楽しくなってしまうような。
本当にこいつは昔からそうだ。最後の一線で、ちゃんと人の心に寄り添う。
そういうところに、かつての俺はやられてしまったのだ。
『さて、全チームの試食と採点が終わりました! これから結果発表に移ります!』
MCのコールを、
『優勝は──』
コンテストが終わり、集まっていた人たちもまばらに
俺と香乃はイベントの余韻が漂う浜辺に座り、店に戻る前に休憩を取っていた。
「いやー四位とはね」
香乃は記念品としてもらった賞状を掲げ、苦笑を浮かべた。
「ネタにもならない微妙な成績だったな」
銅メダルにギリ届かなかった結果に、俺も微妙な気分になる。
「やっぱり敗因はあれだね。協調性」
「主にお前のな」
「なんだとー。それじゃまるで私が陸のことをむちゃくちゃ振り回して失敗したみたいじゃん」
「まるでじゃないんだわ。まさにその通りなんだけど」
包丁仕事を無茶振りしたあげく、途中で気が変わって奪おうとしてくる暴君ムーブ。ブラック企業でももうちょっと筋が通った業務命令を出すわ。
「ふーん、まあいいよ。四位とはいえ、表彰されるなんて小学校以来だし」
とはいえ、香乃としてはそんなに順位は気にならなかったのか、満足げに頷いて賞状を仕舞った。
「俺もシニア以来だな、こういうの」
うちのシニアは結構な強豪だったため、大会で優勝して表彰されることは何度かあった。
「あ。そういえば、今さらだけど陸って野球辞めたんだね」
シニアという単語から連想したのか、香乃がそんな話題を振ってきた。
「ああ。中学でやりきったよ」
そう報告すると、香乃は微笑を浮かべた。
「そっか。よかったんじゃない? 陸、ずっと無理してたんだし」
「まあな。おかげでまだ野球を好きでいられている」
強豪のシニアや甲子園常連校での練習。
そういう頂点を目指す野球も素晴らしいものだと思うが、俺には合わなかった。
身体は付いていけても、心が付いてこないとでも言うのだろうか。
試合で活躍できなかったからって死ぬほど悔しがることも、勝たなきゃ意味がないなんて本気で言うことも俺にはできなかった。
だから、どんどん俺の野球は苦しくなって……きっとあのまま続けていたら、二度とバットもボールも触りたくないと思う日が来ていたのだろう。
「後悔がないようで何よりだよ」
「……ああ」
そう思えたのは、きっと香乃のおかげでもある。
誰にも言えなかった俺の苦しさに気付いてくれた。それをよしとしてくれた。
あの出来事がなかったら俺はきっと保たなかったし、今みたいに辞めてからも野球が趣味と言えるほどの気持ちは残らなかったかもしれない。
本人には言えないけど、そういうところは感謝している。
「私は、後悔したけどね」
どこか寂しそうに、香乃がそう
「後悔って……何を?」
言葉の意味が分からず
「陸の告白、断ったこと」
「──────」
その、あまりにも意外な発言に、俺は絶句した。
香乃は硬直する俺を
「勘違いしないでね。別にあの時、本当は陸のことが好きだったとか、今さら未練があるとか、そういうわけじゃないし」
そう
「……ただね、陸の告白を断った後、私には何もなくなっちゃったから。陸も碧も離れて、楽しかった毎日が終わって……そうしたら私には何も残らなかった。そんなの、陸を拒絶した時から分かっていたのに、本当の意味で覚悟ができてなかった」
……俺がフラれた後、香乃と学校で顔を突き合わせることはほとんどなくなった。
失恋の傷が癒えない俺は意図的に避けていたし、香乃もそうだったのだろう。
だから、彼女があの後、どういう日々を送っていたのかは初めて知った。
「あんなふうになるくらいなら、陸の告白を受けておけばよかったって結構後悔したんだ」
唐突で、だけどずっとそこにあったはずの本音の吐露。
何か言わなくては、と思ったけど、言葉が思いつかなかった。
だってもう取り返せない。俺たちの過去は終わったもので、口にしてしまった告白は取り消せなくて、俺と決裂した後の香乃の孤独も、なかったことになんてできないから。
「ま、今はもう新しい友達もできたし、毎日それなりに楽しいし、割り切れてはいるけどね。ただ──」
香乃は、滅多に見せない真剣な表情で再びこっちを見た。
「──碧はどうなんだろうね?」
何かを試すような、測るような香乃の言葉。
それを受けて、俺も思い至った。
もし、今の碧が俺との関係を失ったら、あいつには何が残る?
あいつには俺以外も友達がいる。二条や銀司もそうだ。
だけど、現役であるあの二人と碧の間には一つ大きな壁がある。
その壁を越えられるのは、俺しかいない。
なのに、その俺が告白して、また失敗してしまったら。
碧は、香乃のように孤独を味わうことになるのではないか。
いや──それならまだいい。
一番怖いのは、孤独になるのを恐れた碧が、俺のことを好きではないのに、告白を受けてしまうこと。
そうなった時、俺は自分を許せるのだろうか。
「どう? 困った?」
思考の海に沈んだ俺を呼び戻したのは、
「…………困らせるために言ったのかよ」
なんとか絞り出した俺の言葉に、香乃は楽しそうに頷いた。
「うん。ちょっとだけ意地悪してみた。私のこと好きって言ったのに、碧を選んだから」
「そりゃ、あれからどれだけ時間経ったと思ってるんだよ」
「今の話じゃないよ。中学の時のこと。私とのことが終わった後、碧が肩を壊したでしょ。陸は迷わず、碧を選んだ。約束したのにね」
「………………」
そうだ。
あの告白が失敗に終わって、お互いに顔を合わせて話すことができなくなって。
スマホ越しのやりとりで、確かに約束したのだ。
お互いに落ち着いたら、また今まで通り友達になろうって。
だが、そこで碧が肩を壊した。
そうして俺が選んだのは、香乃との関係修復よりも碧を支えること。
「結局、最後まで私のところには来なかったよね」
その通りだ。確かに俺は香乃を裏切っている。
あの約束は果たされることなく、俺たちはここまで来てしまったのだ。
でも──だけど。
「香乃。俺は……」
「うん。陸は碧を選ぶんだよね。たとえあの時に時間を戻したとしても、もしもなんてないくらい確実に」
少し寂しそうに香乃が告げた言葉に、俺は静かに
「……ああ」
あんな、怪我をして痛々しくなった碧を放置する選択肢は、俺の中にはないから。
俺が香乃と仲直りできなかったのは碧のせいじゃない。俺が心の整理をつけられなかったからだ。
だけど──それはそれとして、俺があの時、香乃より碧を選んだのもまた事実だ。
「でしょ? だから、ちょっとだけ意地悪したの」
それくらいされても仕方ないと思った。
香乃はずっと友達でいたかったのに、俺がそれを壊してしまった。
そして好きだと言ったくせに、あの時一人になった香乃より碧を選んでしまった。

「……悪かったよ」
出会った時からいつも香乃に振り回されていたが、最後の最後に振り回したのは俺のほうだった。
「ふふ、まだ許してあげなーい。陸が、ちゃんと答えを出すまではね」
俺の謝罪を、香乃はしてやったりという表情で拒絶した。
答え、か。
何を問われているのかは痛いほど分かる。
それに答えられなかったから、俺は心の整理がつかなかったのだ。
「香乃。俺は──」
と、俺が口を開こうとした、その時だった。
「あ、いた。おーい陸! 香乃!」
名前を呼ばれて振り向けば、遠くからバスケットを持った碧が手を振っていた。
「碧?」
「どうしたんだろ」
俺と香乃が立ち上がると、碧は小走りでこっちにやってきた。
「二人とも、お疲れ様。店長に頼まれて差し入れ持ってきたよ」
碧は手に持っていたバスケットを笑顔で掲げた。
それを見て、パッと香乃の顔が輝く。
「お、いいね。そういえばまだ私たちお昼食べてなかったし。ね、陸」
もうさっきの真剣さも寂しげな表情もない、朗らかな香乃の顔。
あの話はあそこでおしまいということだろう。
どこか消化不良な感じを覚えつつ、俺もその意図を
「そうだな。いや、香乃が作った焼きそばの残りで妥協しようかと思ってたけど、そうしなくて正解だったわ」
「おいこら、人の作った料理を妥協扱いとはいい度胸だな。ていっ」
冗談めかした俺の脇腹に、香乃がチョップを入れてきた。
「あはは。じゃあみんなで食べようか。海も
俺たちのやりとりを見て、楽しそうに笑う碧。
そうして、昼食を摂るためにレジャーシートを敷き始める。
──だけど、俺の脳裏には、目の前の美しい海よりも忘れがたい光景が
不気味なほど美しい夕焼けに照らされた教室。
窓辺に立ち、怒りと悲しみがない交ぜになったような顔で俺を見る香乃。
『──ねえ。友情を壊してまで人を好きになるって、本当に正しいことなの?』
香乃と決裂した日、最後にぶつけられた問いかけ。
あの時の答えを、俺はいまだに出せていない。