第一章 お前の妹、ひかえめに言ってド変態だぞ……



 自宅に帰ってきた俺はリビングのソファで頭を抱えていた。

 すずちゃんが俺の官能小説を読んでいるなんてありえない。

 だって官能小説だぞ? それもきんしんそうかん兄妹の妹を兄の友人が寝取るという、なかなかハードな官能小説をあの鈴音ちゃんが読んでいるなんて、普通に考えてありえないだろ。

 少なくとも俺の知っている鈴音ちゃんはそんなものを好んで読むような女の子ではない。

 鈴音ちゃんは学園一の淑女で、隣を通り過ぎるだけで甘い香りが漂うような美しさと清潔感の極みにいるような女の子だ。

 そんな女の子が、どうして、こんなえない童貞である俺が書いた汚らわしい小説を読まなきゃなんない。

 彼女にとって俺の小説なんて、タイトルを聞くだけで耳を塞ぎたくなるような低俗なものに違いない。

 そう考えると、やっぱり今朝のことは何かの勘違いだという気がしてきた。

 そうだ。やっぱりそんなことありえない。

 そう自分に言い聞かせていると、不意にリビングのドアが開いた。

 家に誰もいないと思い込んでいた俺は思わずビクついてしまい、持っていたスマホを床に落としてしまう。

 ドアを見やると、そこには買い物袋を持った妹、ゆきの姿があった。そして、落下したスマホには俺の官能小説の編集ページが思いっきり表示されている。

 やっば……。

 俺は慌ててスマホを拾い上げてポケットに隠す。

「お、おう、妹よっ。帰っていたのか?」

 そのあまりにもぎこちなく不自然な俺の態度に、深雪は不思議そうに首をかしげた。

 そして、不意に何かに気がついたように目を細めると、疑うように「じ……」と俺を見つめる。

「おにい、なんか怪しい顔してる……」

「怪しい顔? さて、なんのことやら」

「おにい、なんかえっちな目してたもん……」

「おやおや、両親からもらった大切な目をえっちな目呼ばわりとは心外だな」

「私は両親から貰った大切な目をえっちな目にした、おにいに怒ってるの」

「残念だな。このえっちな目は親父おやじからの遺伝だぜ」

「うぅ……反論できない……」

 はい論破。

 けどなんでだろう……論破したはずなのに少し胸が苦しい……。

 どうやら、深雪は俺がスマホでこっそりアダルトサイトを見ていたと疑っているらしい。

 それは完全なる誤解だ。

 俺はアダルトサイトの閲覧者ではない。

 アダルトコンテンツの制作者だっ!!

 でも、そんな弁解をすると、さらに妹から軽蔑の目で見られるのは必至なので、黙っておくことにした。

 深雪はしばらく俺のことを汚い物でも見るような目でにらんでいたが、不意に「はぁ……」とため息をつくと、リビングへと入ってくる。

「そのえっちな目で鈴音ちゃんのこと見たら怒るからね……」

 鈴音ちゃん? あ、そういえば……。

 と、そこで俺は、今日鈴音ちゃんが深雪からお菓子作りを教わるために我が家にやってくることを思い出す。そして、思い出すと同時にリビングにもう一人少女が入ってきた。

 鈴音ちゃんだ。鈴音ちゃんは深雪同様に買い物袋を手にぶら下げていた。

 彼女は俺の顔を見るなりわずかに微笑ほほえむ。

 可愛かわいい……。

 一瞬とはいえ、俺は学園のアイドルづき鈴音の笑顔を独り占めしているという事実に、ほおを綻ばせずにはいられない。

「おにいっ!!

 が、そんな俺の心を見透かすように深雪が、鋭い視線でけんせいしてくる。

「先輩、今日はお邪魔しますね」

 相変わらずの笑顔でそう言う鈴音ちゃんに、俺は「あ、ああ、まあ自分の家だと思って使ってくれていいから」と、一家の主のような返事をしつつも確信する。

 やっぱり今朝のことは何かの間違いだったんだ。

 こんなに天使みたいな笑みを浮かべる彼女が俺の官能小説を読んでいるなんてありえない。

 やっぱり俺の見間違いだったんだ。

 そうに違いない。

 ってか、そうであってくれ。

 と、そこで深雪が不意に俺の前までやってきた。

「ほらほら、今からこのリビングは男子禁制なの。おにいは部屋に帰った帰った」

 ここは素直に退散したほうがよさそうだ。ソファから立ち上がり、リビングを出るために鈴音ちゃんの前を横切ろうとした。

「先輩のぶんのクッキーも頑張って作りますね」

 そこで鈴音ちゃんが俺を見上げてそう言った。

「俺のぶん?」

「先輩は甘いのはあまり好きではないですか?」

「いや、そういうことじゃなくて……いいのか、俺なんかが食っても」

「はい、迷惑でなければ先輩にも味見してもらいたいです」

「ありがとう。じゃあ楽しみに待ってるよ」

 そう答えると、少し不安な顔をしていた鈴音ちゃんは再び笑顔を取り戻して「はい」と小さくうなずいた。


 部屋に戻った俺は、昨日すでに書き終えていた官能小説の最新話をすいこうすることにした。

 一時間ほどかけて、細かいセリフの変更や誤字脱字の修正を終えるとそのまま投稿ボタンを押す。

 終わった……。

 液晶と睨めっこをしてすっかり目が疲れた俺は、そのまま机にもたれ掛かって目を閉じた。

 それからぼーっと五分ぐらい休んでいると、不意にスマホから♪ピロリロリンと通知音が鳴る。

 ゆっくりと目を開けて、スマホに目を落とすと、そこには『あなたの小説に感想が書かれました』の文字。俺は慌ててスマホを手に取って通知をタップする。

 ってか感想書くの早すぎじゃねえか?

 なんて驚きつつも感想を読んでいく。

『こののん様へ。最新話、読ませていただきました。今回もとても面白く、それでいてとても刺激的でした。私自身、ハルカちゃんになったような気持ちになり、恥ずかしいですが少しだけ興奮しました。次の話にも期待していますね』

 幸いなことに感想欄には好意的なコメントが書かれており、胸をろす。

 やっぱり小説を書いていて、自作を褒められることほどうれしいことはない。この喜びを忘れないうちに返信を書こうと、コメント欄へと画面をスクロールしようとした。

 が、そこでその感想にまだ続きがあることに気がつく。

『追伸 実は今日、先生の作品を読んでいることが兄の親友にバレてしまったかもしれません。先生の作品は大好きですが、私がえっちな女の子だと男の子に思われるのは、やっぱり少し恥ずかしいです……』

 その一文を読んだ瞬間、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。

 ちょっと待て……その感想に心当たりがありすぎるぞ……。

 感想を書いてくれたのは毎話、熱心に俺の作品に感想を書いてくれている常連の読者さんだ。

 その人が女の人だったことすら俺は今初めて知ったのだが、この際、そんなことはどうでもいい。

 問題は彼女が官能小説を読んでいることが兄の親友にバレたという記述だ。

 今朝、俺は鈴音ちゃんのスマホに官能小説が表示されているのを偶然見てしまった。そして、鈴音ちゃんは親友の妹だ。

 これを偶然と呼んでいいのだろうか?

 いや、インターネットは全世界につながっているのだ。広い世界の中でこの程度の偶然の一致はあり得るのかもしれない。

 だけど、ここまでの偶然ってそんなによくあることなのだろうか……。

 ダメだ……胸のざわめきが止まらない。

 いや、でもちょっと待て。鈴音ちゃんは今、俺の家のキッチンでお菓子作りにいそしんでいるはずだ。

 隣に深雪もいるのに、俺の作品を読んだうえで、こんなに長い感想を書くことなんて可能なのだろうか?

 そうだ。そんなのは不可能だ。だから、これはやっぱり偶然の一致だ。

 そう自分に言い聞かせた。いや、言い聞かせないと平常心を保つことができなかった。

 俺は頭の中で『おちつけりゆうろう。おちつけ竜太郎』と唱えながら返信欄を開く。

『すず様へ』

 そこまで書いて、俺は今更ながらいつも感想を書いてくれているこの読者のアカウント名が『すず』であることに気がついた。

 すず……すず……鈴音……。

 いやいや偶然だ。そうに違いない。

 震える手で返信を入力する。

『すず様へ さっそくのご感想ありがとうございます。すず様のご期待に応えられてよかったです。次話ではさらに展開がある予定ですので、ご期待ください』

 ここまでは定型文のような返信だ。その文章の下に俺は『追伸』と入力する。

『確かにそれは恥ずかしいですね。今後は一人で読まれることをお勧めします』

 そう入力して、返信ボタンをタップした。感想欄に新たに俺の返事が表示されるのを確認してスマホを置く。

 が、それから五分もしないうちにまた俺のスマホの通知音が鳴った。

『あなたにメッセージが届きました』

 そう書かれていた。

 この通知は小説サイトにダイレクトメッセージが届いたことをお知らせするものだ。

 メッセージ?

 俺は恐る恐る通知ボタンをタップする。そして、そこに書かれたメッセージにがくぜんとした。

『こののん様へ さっそくのお返事ありがとうございます。実は今、その兄の友人の家にいます。ちょっと怖いですが、バレているかどうかそれとなく確認してきますね』

 コンコン。

 と、そこで誰かが俺の部屋をノックした。その不意打ちに、俺は思わず「うわっ!?」と椅子から滑り落ちそうになった。

「おにい、開けてもいい?」

 ドアの向こう側から聞こえたのは深雪の声だった。

 なんだよ。驚かせんなよ……。

 わずかにホッとして椅子に座りなおす。

「いいよ。勝手に開けろ」

 そう答えると、ドアがゆっくりと開いた。

 ドアの前に姿を現したのは深雪……ではなく鈴音ちゃんだった。

「す、鈴音ちゃんっ!?

 俺の驚く顔に、鈴音ちゃんもまた少し驚いたように目を見開く。そして、なぜだろうか? わずかに頬を紅潮させているように見えた。

「ど、どうかしたの?」

 そう尋ねると鈴音ちゃんは「え、え~と……それは……」と少し困惑した様子で後ろ手に隠していた包み紙を、両手で胸に押し当てるように抱えた。

「鈴音ちゃんが、おにいにもクッキー食べてほしいんだって。だから、味見してあげてほしいの」

 と、そこで鈴音ちゃんの背中から深雪がひょっこりと顔を出す。

「ああ、そういえば……」

 そういえば、さっき先輩のぶんも作るって言ってたっけ? 正直、今の俺には鈴音ちゃんのクッキーを心待ちにしている余裕はなく、すっかり忘れていた。

「入ってもいいですか?」

 と、尋ねる鈴音ちゃんに「もちろん」と答えると、彼女は部屋に入ってきた。

 彼女は制服の上にウサギのプリントされた自前のエプロンを付けていて、それがよく似合っている。

 俺の知っている鈴音ちゃんだった。何も変わらないいつものじゆんしんで清潔感に満ちた女の子。

 だけど、彼女は俺の官能小説を読んでいる。それどころか、今、持っているそのクッキーを作りながらも、頭の中は官能小説のことで一杯なのかもしれない。そんなこと誰が想像できるだろうか?

 俺の中で水無月鈴音という女の子像がガラガラと音をたてながら崩れ去ろうとしていた。


 実際のところ、どうして鈴音ちゃんが俺の部屋に来たのかはわからない。鈴音ちゃんが俺の官能小説を読んでいるなんて、普通に考えればあり得ないし、彼女の言う通り単に俺にクッキーの味見をしてほしかっただけかもしれないし。

 が、三人で折り畳みの机を囲みながらクッキーを頬張っている間、俺の緊張が緩むことは一切なかった。

 正直なところ、クッキーの味も全く感じない。

 もちろん、それは鈴音ちゃんのクッキーがマズいというわけじゃない。きっと美味うまいんだろうよ。少なくとも昨日の俺なら欠片かけら一つ残さずに食っていたに違いない。

 が、

…………

 鈴音ちゃんは俺がクッキーを食っている間、ただ黙ったまま、ちらちらと俺の表情をうかがっていた。

「黙ってないで、感想ぐらい言ってあげれば?」

 と、そこでしびれを切らした深雪が俺を睨む。

 そこでハッとする。

「え? あ、ごめん。美味いよ。めちゃくちゃ美味い。ありがとな」

 と、とってつけたような賛辞を贈るが、鈴音ちゃんはそれでも満足したようにほっと胸を撫で下ろした。そして、わずかに笑みを浮かべると俺を見つめる。

「じゃあ、私たちはそろそろリビングに戻るね」

 深雪がそう言って立ち上がる。どうやら、俺の部屋に長居したくないらしい。鈴音ちゃんを促すようにドアへと歩いていく深雪だったが、鈴音ちゃんは「う、うん……」と答えはするものの、なかなか立ち上がろうとはしない。

「鈴音ちゃん?」

 と、そこで不思議に思った深雪が首を傾げていると、彼女はエプロンのポケットから何かの包み紙を取り出した。

「実は、クッキーをいただくときに一緒に飲もうと思って紅茶を持ってきたの。すっかり忘れてたんだけど、一緒に飲まない? せ、先輩もよければどうですか? アールグレイっていうかんきつけいの紅茶なんですが……」

 もしかしたら勘違いかもしれない。

 だけど、なんとなくだが鈴音ちゃんの言葉は、紅茶を飲みたいというよりは、もう少しこの部屋にとどまっていたいと言っているように聞こえた。

 そう感じたのはどうやら深雪も一緒だったようで、一瞬、不思議そうに俺と目を合わせてから「じゃあせっかくだし貰おうかな。鈴音ちゃん、それ貸して。私がれてきてあげる」と笑みを浮かべて部屋を出ていった。

 かくして、俺と鈴音ちゃんは部屋に二人取り残されてしまったのだが……。

…………

 気まずい……。

 鈴音ちゃんはテーブルを挟んで向かい側で行儀よく正座していた。

 が、彼女もまた俺同様に気まずさを感じているようで、何やらそわそわした様子で落ち着きがない。そして、なぜか頬もわずかに紅潮させている。

 ここは年上である俺が何か話を振らなきゃまずいよな……。

 意を決して口を開いてみた。

「そういえば──」

「ちょっと兄に──」

 最悪だ。

 俺と鈴音ちゃんは同時に声を出したせいで、お互いの言葉がかき消されてしまう。

「ご、ごめん、どうぞ」

 鈴音ちゃんに発言を譲ると、彼女は少し申し訳なさそうに口を開いた。

「兄にペットの餌の写真を送らなければならないので、少しスマホを触りますね?」

「え? うん、全然大丈夫だよ。そういやしようのやつ、餌の名前がわからないとか言ってたもんな」

「そ、そうなんです……」

 そう言うと、鈴音ちゃんはエプロンからスマホを取り出して、何かを入力し始めた。そんな彼女を眺めながら、俺は思う。

 やっぱりこんなに可愛くてれんな女の子が官能小説なんて……。

 そんなことを考えていると、彼女はメッセージを入力し終えたのか、スマホをポケットに入れた。

 その直後だった。

 ♪ピロリロリン

 スマホの通知音が部屋に響いた。鳴ったのは俺のスマホだ。

 なんだ……この絶妙すぎるタイミングは……。鈴音ちゃんがスマホをポケットに戻した瞬間、俺のスマホの通知が鳴る。

 そんな奇跡みたいなタイミングに、俺はあえてスマホの通知を無視することにした……のだが。

「はわわっ……」

 鈴音ちゃんはそんな声を上げて頬を真っ赤にした。

 あ、これはやばいかも……。

 鈴音ちゃんよ……。翔太にメルの餌の写真を送ったのではなかったのかい?

 鈴音ちゃんは信じられないとでも言いたげに俺をじっと見つめていた。

 そりゃそうだ。あまりにも通知音の鳴るタイミングが完璧すぎる。

 だが待て。まだ何とか言い逃れはできるはずだ。

 ここで俺は一芝居打つことにした。スマホを手に取ると「あ、あははっ……」とひきつった笑顔を浮かべる。

「そ、そういえば今日はソシャゲの大幅アップデートがあったんだった。そのせいでやたら通知が届くんだよね……」

「そ、そうなんですね……」

 と、その明らかに不自然な俺の言葉に鈴音ちゃんも合わせるように苦笑いを浮かべた。

 マズい……これはマズい……。

 俺は慌てて小説投稿サイトのアプリを開く。そこには『すず』さんから届いたアプリ内のダイレクトメッセージが表示されていた。

『兄の友人が挙動不審です。もしかしたら本当に私が先生の小説を読んでいることがバレてしまったかもしれません泣』

 OH……NO……。

 どうやら今の俺は挙動不審らしい……。

 いや、まだだ。

 俺は首を横に振った。百歩譲って俺が鈴音ちゃんの官能小説趣味を知ってしまったことがバレる分には問題ない。

 いや、大ありだけど、俺がその小説の作者であることがバレることと比べれば傷は小さいのだ。

「やっぱり、ソシャゲのアプデの通知だったよ。ホント困ったもんだね。あははっ……」

 とにかくソシャゲの通知だということでここは押し切るしかないのだ。

…………

 が、そんな俺の言葉に鈴音ちゃんは何も答えない。

 あ、やばい……。

 彼女は今にも泣き出しそうな顔で、スマホと俺の顔を交互に見やった。

 そんな鈴音ちゃんを見て見ぬふりをして、アプリの設定を開く。

 とりあえず通知をオフにしなければまずい。普段あまり使わない設定を眺めて必死に通知の設定欄を捜す俺。

 だが、見つからない。

 いや、どこかにはあるんだろうけど、焦りのせいと設定を使い慣れていなかったせいで通知を切ることができない。

 あーヤバいヤバい……俺の人生終わっちゃう……。

 鈴音ちゃんに作者が俺だなんてバレたら、本気で人生終わっちゃう……。

 鈴音ちゃん同様に、俺もまた泣きそうになりながら設定をいじっていた……のだが。

♪ピロリロリン

 と、また何かの通知音が鳴った。

 そして、

♪ピロリロリン

♪ピロリロリン

♪ピロリロリン

♪ピロリロリン

♪ピロリロリン

♪ピロリロリン

 と通知音が止まらなくなった。

 おいおい、どうしたどうしたっ!?

 スマホがバグったのかっ!?

 メッセージを開くと、そこには泣き顔の絵文字が連投されていた。

 まるで鈴音ちゃんの今のお気持ちを表現するように……。

 顔を上げると「はわわっ……」と声を漏らしながら、スマホの画面をタップする鈴音ちゃんの姿。

 めちゃくちゃ連打してる……。

 そして、

「せ、先輩っ」

 鈴音ちゃんが俺を呼んだ。

「は、はい……」

 終わった……完全に終わった……。

 目がうるうるするのを感じながら彼女へと視線を向ける。彼女は恥ずかしいのか、ぎゅっと握った手で口元を隠しながら俺から視線をらした。

 可愛い。

 けど、今はその可愛さにれている場合ではない。

「先輩、一つお尋ねしてもいいですか?」

「は、はい……なんでしょうか?」

「は、ハルカちゃんにはモデルはいるんですか?」

「なっ……」

 絶句した。

 鈴音ちゃんからこののんの正体が自分であることを追及されると身構えていた俺だったが、彼女が口にしたのはその先のことだった。

 もはや鈴音ちゃんの中では、こののん=俺であることは確認をするまでもない事実のようだ。

 彼女はその上でさらに質問してきている。

 そして、その質問は俺にとっては致命的な質問だった。

 鈴音ちゃんは気づいている……。完全に気づいてしまっている……。

「先輩の小説に出てくるハルカちゃんって……」

…………

「わ、私のこと……ですか?」

 この日、俺の身に、考えられうる最悪な事態が起こってしまった。

 バレた……。鈴音ちゃんに俺が官能小説を書いていることがバレてしまった。

 いや、それだけではない。それどころか、ヒロインのモデルが彼女であることがバレてしまった。

 彼女は相変わらず泣き出しそうな顔で俺を見つめている。

 怒っているのだろうか?

 いや、怒っているに決まってるよな。

 だって官能小説のモデルだぞ? 俺に勝手に官能小説に登場させられて、作中であんなことやこんなことをさせられているのだ。

 怒らないはずがない。

 軽蔑しないはずがない。

 そしてそれが当然の反応だ。

「ど、どうなんですか?」

 何も答えない俺に鈴音ちゃんは痺れを切らしたように尋ねる。

「それはその……」

「はっきり答えてください……」

 もう言い逃れなんてできない。

「お、俺の小説のハルカちゃんは……」

「は、ハルカちゃんは?」

「ハルカちゃんのモデルは……」

 そこまで言ったときだった。

「おにい……」

 ドアのほうからそんな声がした。俺と鈴音ちゃんは慌てて声のほうへと顔を向ける。

 そこにはティーポットの乗ったお盆を持った深雪が立っていた。


 深雪の乱入もあり、結局、鈴音ちゃんと込み入った話はできなかった。

 深雪に変に勘繰られないよう、あくまで自然を装って紅茶を楽しんだつもりだが、俺も鈴音ちゃんも終始挙動不審だったと思う。

 そして、紅茶を飲み終えたところでこの日はお開きとなった。

「深雪ちゃん、今日はありがとう。それに先輩も今日はお邪魔しました」

 玄関まで見送りに出た俺と深雪に鈴音ちゃんが挨拶をする。

 そのころには鈴音ちゃんもようやく平常心を取り戻したのか、いつもと変わらぬ天使のような微笑を浮かべていた。

 彼女はローファーに足を入れるとそのまま片足立ちになって、かかとの部分に指を入れる。その際に彼女のスカートがひらりとわずかに翻った。

 靴を履くだけでも、それが鈴音ちゃんだというだけで、その仕草が、小説の描写に使えそうに感じるから恐ろしい。

 靴を履き終えると鈴音ちゃんは俺に一度丁寧にお辞儀をしてから、深雪に「じゃあね」と小さく手を振ってかなをあとにした。

 このぶんだと、しばらく連載は進められそうにないな、精神的に……。

 ドアが閉まるまで鈴音ちゃんに「またね!」と元気よく手を振っていた深雪だったが、ドアが閉まった瞬間、手を下ろして俺を見上げる。

「おにい」

 そのなんとも無機質な声に「なんだよ……」とやや動揺しながら返事をすると、彼女は怒ったようにむっと頬を膨らませた。

「おにいっ!! どういうことか説明して」

 一瞬何事かと困惑したが、すぐに俺は彼女の怒りの理由を悟った。

 やばい……バレた……。

 きっと深雪は聞いたのだ、紅茶を淹れて部屋に戻ってくるときに俺と鈴音ちゃんの会話を聞いたのだ。

 ちょっと待て。それってヤバくねえか?

 俺が官能小説を書いているだけならまだしも、それを鈴音ちゃんが読んでいたなんて知られたら、深雪に殺されても文句は言えない。

「説明ってなんのことだよ……」

 が、俺はバレバレとわかっていてあえてシラを切る。

 拷問にかけられたって鈴音ちゃんの名誉を守るために口は割らないっ!!

 そんな俺を深雪はしばらく黙って睨んでいた。

 そして、

「今日の鈴音ちゃん、おにいのこと異性を見る目で見ていたよ……わけがわからないんだけど……」

 深雪はそう言って首を傾げた。

 官能小説の件がバレたと思い込んでいた俺は、予想外の言葉にやや拍子抜けする。

「は、はあ? 異性を見るような目? なんだよそれ」

「私にも理解できないから聞いてるんだけど」

「いや、異性って、一応俺は鈴音ちゃんにとって異性だし……」

「そういうことじゃないよ。今日の鈴音ちゃんは明らかにおにいのことを片思いの男子を見るような目で見てたよ」

「は、はあっ!?

 何を言い出すかと思えばそんなことを言う深雪。

 いったい、いつ鈴音ちゃんがそんな目で俺を見た?

「私ね、鈴音ちゃんとは長い付き合いだからわかるの。今日の鈴音ちゃんは明らかにおにいのことを異性として意識してた……」

 そこまで言われて俺はハッとした。

 どうやら目の前の馬鹿な妹は何か大きな勘違いをしているらしい。

 確かに今日の鈴音ちゃんは終始落ち着きがなく、俺の顔色を窺うような仕草をしていた。が、それは別に俺に好意を持っていたからじゃない。

 単に、自分が官能小説を読んでいる事実が、俺にバレていないか確認していただけだ。

 けど、そんな弁解は口が裂けてもできるはずがないよな……。

「そ、そんなのお前の勘違いだろ。だいたい考えてもみろ。俺みたいな冴えない男にどうして鈴音ちゃんが色目なんか使わなきゃなんない」

「わかんない……。けどこれだけはわかるもん。鈴音ちゃんは今日メスの顔をしてた」

「なんだよメスの顔って……」

「ってか、おにいって、いつ鈴音ちゃんと連絡先交換したの?」

「いやいや、交換なんかしてねえよ」

「じゃあ、鈴音ちゃんがお菓子作りの合間にそわそわしながらスマホで連絡を取ってたのは、おにいじゃないってことでいいの?」

「そわそわしながら連絡? ……あっ……」

 いや、ちょっと待て。それは勘違いだぞ深雪。

 彼女はそわそわしながら俺と連絡してたんじゃない。

 そわそわしながら官能小説の感想を書いてたんだよっ!!

 と、声を大にして言ってやりたかった。が、もちろんそんな説明ができるわけもなく、それどころか俺の「あっ……」という反応に、深雪の疑いは確信に変わる。

「本当はこっそり鈴音ちゃんと連絡とってたんでしょ~。怒らないからこの深雪ちゃんに正直に話してみ?」

「いや違うっつうの……」

「おにいってホント隠し事下手だね。それに鈴音ちゃん、おにいがクッキー食べてるときも同じようにそわそわしながら、おにいのこと、ちらちら見てたよ?」

 いや、だからそれも官能小説をだな……。

 ああ、ダメだ。何一つ真実が説明できなくて歯がゆいっ!!

「私にはわかるの。たぶん、鈴音ちゃんおにいのこと好きだよ」

 と、そこで深雪はか嬉しそうな笑みを浮かべてそう言った。

「はあ? 鈴音ちゃんが? それだけはない」

「私だって昨日まではありえないと思ってた。けど、あれは間違いない。そっか、おにいにクッキーの味見をしてほしいって言ってたのも、そういうことだったんだ……納得、納得っ」

 と、一人で嬉しそうに納得する深雪。

 本当に女子校生という生き物はこの手の話が大好物らしい。

 が、確かに事情を知らなければ、深雪がそう勘違いするのも無理はないかもしれない。

 深雪はにゅっと首を伸ばして俺に顔を近づけるとにんまりと笑う。

「おにい、私がキューピッドになってあげよっか?」

「余計なお世話だな。それに鈴音ちゃんが俺を好きになるなんてありえない」

 軽蔑されている可能性はあるけどな。

 が、今日の深雪はしつこい。

 首を横に振ると「ううん、そんなことないって。きっとチャンスだよ」とあくまでキューピッドを務めるつもりらしい。

「考えてみて? 相手は鈴音ちゃんなんだよ? あの誰が目に入れても痛くないぐらい可愛い鈴音ちゃんが、おにいなんかに気があるんだよ? こんなの人生最初で最後のチャンスだよっ!!

「さりげなく俺のことをけなしてないか?」

「じゃあ、おにいは鈴音ちゃん以上の女の子が、今後おにいのことを好きになるって思う?」

「それは……」

 くそおっ!! 言い返せない!!

「おにい、私は妹としておにいに幸せになってほしいと思ってるよ? 鈴音ちゃんは見た目も可愛いし、性格だっていい。それは親友の私が保証する。そんな女の子とのキューピッドになってあげるって言ってるのに、おにいは何が不満なの?」

 不満? そんなものあるわけねえだろ。

 そりゃ俺だって、鈴音ちゃんみたいに可愛い女の子と仲良くできるなら小躍りだってするよ。

 官能小説のモデルにするぐらいの美少女だからなっ!!

 だけど、妹よ。お前は勘違いをしている。鈴音ちゃんは俺のことが好きなんじゃない。俺の書いた官能小説が好きなんだ。

 ん? 俺、何言ってんだ?

「とにかく、おにい。よく考えてね。おにいが心配しなくても私が万事うまくやるから。あ、でも翔太くんにはバレないように気をつけてね。だって翔太くん、鈴音ちゃんとおにいが付き合ってるなんて知ったら、おにいのこと包丁で刺しかねないから」

「全然冗談になってねえ……」

 可愛い妹に俺が官能小説なんて読ませてることを知ったら、あいつは俺を石臼でいて粉にして痕跡ごと消したって不思議ではない。

「そういうことだから。おにい、頑張ってねっ!!

 そう言って深雪は俺の背中をポンとたたくと、そのままリビングへと消えていった。

 玄関でぼうぜんと立ち尽くす俺。

 ああ、なんか知らないけど色々と面倒なことに巻き込まれているような気がする……。

 俺の出来心で書き始めた官能小説は、俺の人生をあらぬ方向に導こうとしているようだ……。


    ※ ※ ※


「先週の日曜日なんて、あいつの買い物に一日中付き合わされてさ、夜にはレストランでディナーだぞ? あいつたぶん、俺を彼氏か何かと勘違いしてるぞ……」

 はいはい、今日は鈴音ちゃんの彼氏気取りができたのが嬉しかったって話ね。

 しゅごーい、翔太くんったらあの鈴音ちゃんとデートをしたんだね。親友として心から羨ましいと思うよ。

 俺みたいな冴えない高校生には一生手の届かない領域だね。それが簡単にできる翔太くんはしゅごいんだね。

 俺なんて精々、鈴音ちゃんとデートする妄想をしてブヒブヒするのが限界だもんね。ブヒィ!! ブヒィ!!

 はぁ……。

 今日も今日とて、翔太の妹自慢を聞きながらの登校だ。

 一周回って、もはやこいつの妹自慢はすがすがしくすらある。だから、今日はこいつがもっとも喜ぶであろう反応をしてやることにした。

 もちろん、口には出さないけどな。

 親友の自慢をせめてもと心の中でたたえてやっていた俺だが、実際のところはそんなことをしている場合じゃないぐらいに精神的に疲弊していた。

 この一週間、俺は官能小説が書けないでいた。

 もちろん、その原因は鈴音ちゃんが俺の小説を読んでいたこと、いや、それどころかその作品のモデルが鈴音ちゃん自身だということが本人にバレていたことだ。

 ひどい言い方ではあるが、これまでは本人にバレていないことを良いことに、俺は好き勝手書いていた。

 ときには読者の求める過激なことを作中のハルカちゃんにさせていたし、翔太との会話もよく拝借させていただいていた。

 まあ、もっとも過激な内容を求めていたのは、ニックネーム『すず』こと鈴音ちゃん本人だったのだが……。

 鈴音ちゃんだって、少なくともあの日までは自分がハルカちゃんのモデルであるとはほんの少しも考えていなかったはずだ。

 でも事実を知った今、きっと俺のことを軽蔑しているに違いないだろうな。

 その状態で俺が連載を進めるというのはもはやセクハラだ。現にあの日以来『すず』からは音沙汰がない。

 あの日から、鈴音ちゃんとは会っていなかった。

 もちろん同じ高校に通っているのだから、ときには廊下ですれ違うこともあった。けど、鈴音ちゃんは俺と目が合うと羞恥に顔を真っ赤にして逃げるように立ち去ってしまうため、全く会話はしていない。

 そりゃそうなるのも当然だ。きっと鈴音ちゃん自身、もっとも隠したかったであろう秘密を俺が知ってしまったのだから。おそらく翔太だってこの秘密は知らないはずだ。

 延々と鈴音ちゃん自慢をする翔太をおいて、俺はもんもんとしながら歩いていた。

 と、そこへ。

「お兄ちゃんっ」

 そんな声が背後からした。その声を聞いた瞬間、俺はその声の主が誰なのかを理解して顔から血の気が引く。

 振り返ると予想通り、そこには鈴音ちゃんの姿があった。

 鈴音ちゃんは朝の重い頭を一瞬にして軽くするようなさわやかな笑顔でこっちへと歩み寄ってくると、かばんから弁当箱を取り出した。

「お兄ちゃんってば、お弁当忘れてるよ……。せっかく早起きして作ったのに酷いよ……」

 そう言って鈴音ちゃんは兄である翔太に弁当箱を差し出した。

 もはや何万回と見た光景だ。

 初めのうちは単純に翔太が忘れているのだと思っていたが、ここまで続くと鈴音ちゃんに弁当を作らせていることを見せびらかすために、わざとやっているのだと確信する。

 ニヤつく翔太。

 ほんと、こいつは表情を隠すのが下手だ。

 翔太がわざとらしくニヤつきの隠せていない不愛想な表情で弁当を受け取るのを横目に、俺は鈴音ちゃんを見やった。

 直後、鈴音ちゃんは俺の視線に気づいたようで一瞬、俺と目を合わせたがその直後、頬を赤らめて俺から視線を逸らす。

「せ、先輩……おはようございます……」

「お、おう……おはよう」

 二人してぎこちなく挨拶を交わす。

 やべえ気まずい……。

 やっぱり、鈴音ちゃんは先日の件がまだ尾を引いているようだった。

 俺と鈴音ちゃんはしばらく気まずい空気を共有しながら黙っていたが、翔太が「なにぼーっと突っ立ってんだよ。行くぞ?」と俺たちをおいて歩き出すので、鈴音ちゃんは「う、うん……」と答えて翔太の後ろをついていく。

 俺もまたそんな鈴音ちゃんと一緒に歩き始めた。

 先頭に翔太。そして、少し後ろに俺と鈴音ちゃんが並んで歩く。

 俺が、横を歩く鈴音ちゃんが気になってチラチラと視線を向けていると、彼女もまた俺にチラチラと視線を送ってきているようで、不意に目が合いお互い恥ずかしくなって目を逸らすというのが何度か続いた。

 が、特に会話が始まるわけでもなく、気まずい時間が続く。能天気に鼻歌を歌っている翔太とは対照的だ。

 やっぱり怒っているのだろうか? それとも軽蔑しているのだろうか?

 俺には鈴音ちゃんの心中を推し量ることはできなかった。

 ただ黙々と並んで歩いているだけ。

 そのとき鈴音ちゃんがブレザーのポケットに手を入れた。

 そんな鈴音ちゃんをさりげなく見ていると、彼女はポケットから二つ折りになった小さな紙を取り出す。

 ん?

 と、不思議に思い眺めていると、鈴音ちゃんはそっと紙を持った手を俺のほうへと伸ばしてくる。

 え?

 彼女はあろうことか、俺のブレザーのポケットにその紙をねじ込んだ。

 その突然の行動に目を丸くしていると、鈴音ちゃんは小さく首を横に振って、視線だけを兄である翔太へと向けた。

 どうやら、何も言うなということらしい。

 少なくとも彼女は翔太にバレないように俺に何かを伝えたかったようだ。

「そういえば鈴音、今日の放課後は暇か?」

 と、そこで不意に翔太が後ろを振り返って鈴音ちゃんを見やった。鈴音ちゃんは少し驚いたように「ええ?」と目を見開く。

「なんだよお前、寝ぼけてんのか? 今日の放課後は暇かって聞いたんだよ」

 と、翔太が尋ねると彼女は「ご、ごめん……今日も深雪ちゃんと約束してるの……」と謝った。

 翔太は一瞬むっとした表情を浮かべたが、相手が深雪だということもあり「それならしょうがねえな……」と一応は納得した。


 放課後、俺は自宅から三駅も離れた月本駅というこぢんまりとした駅にいた。改札を抜けると小さな商店街があり、その中に小さな喫茶店を見つける。

「あそこか……」

 店の名前は書かれてはいなかったが、駅に一番近い喫茶店はあそこで間違いなさそうだ。喫茶店へと足を進めた。

 今朝ポケットにねじ込まれた紙の正体は鈴音ちゃんからの手紙だった。

『今日の放課後、お暇ですか? もしもお時間があるなら、月本駅前の喫茶店でお話ししたいことがあります』

 達筆ながらも少し丸みがあり、書いたのが女の子だとすぐにわかる文字だった。

 文字だけで可愛いと思わせるとはさすがだ。

 どうやら今朝、鈴音ちゃんが話していた深雪と遊ぶという話は翔太を欺くためのうそだったようだ。わざわざ月本駅を指定したのも、人目につかないための配慮だろう。

 きっと俺と二人で会うなんて翔太に言ったところで許してくれないはずだ。

 俺はカップルでもないのに束縛される鈴音ちゃんをびんに思いながらも、喫茶店のドアを開けた。

 カランコロンと来店を知らせる鈴の音が響く。

 店内を見渡すと、カウンター席とテーブル席が並んでおり、昔ながらの喫茶店のテンプレのような光景が広がっていた。

 店内奥のテーブル席に見知った顔を見つける。鈴音ちゃんだ。彼女は俺に気がつくと、相変わらず少し恥ずかしそうに頬を染めて会釈した。

 いったい話って何だろう……。

 正直なところ俺には彼女が自分を呼びだした理由が全くわからず、さっきから冷や汗が止まらない。

「ごめんね。待たせた?」

 と、彼女に尋ねて椅子に座ると、彼女は首を横に振った。

「いえ、私もさっき到着したところなので」

 そう言ってわずかに微笑む鈴音ちゃん。

 と、そこへこの店のマスターらしき初老の男性がお冷を持って現れたので、ホットコーヒーを注文することにした。

「翔太に内緒で俺なんかと会って、怒られないの?」

 うちの高校に通う生徒には月本に住む人間もいる。まあ、だとしても誰もこんな小さな喫茶店には入ってこないだろうが、少し心配だ。

 鈴音ちゃんは「えへへ……」と苦笑いを浮かべる。

「お兄ちゃんが知ったらきっと不機嫌になると思います。なにせ、お兄ちゃんの誘いを断って先輩と会っているのですから……」

「ま、まあ、そうだよね……」

 露骨に不機嫌になる翔太の姿が容易に想像できた。

 マスターがお盆にあんみつを乗せてやってくる。おそらく鈴音ちゃんが注文したものだろう。テーブルに餡蜜が置かれると鈴音ちゃんは「わぁ~」と、頬を緩めた。

「美味そうだな」

「実は私、幼い頃この街に住んでいたんです。母親が時折、私をここに連れてきてくれて、この餡蜜を食べさせてくれたんです。それ以来この餡蜜が大好きで、今でも時々食べに来るんですよ」

 そう言うと鈴音ちゃんはスプーンで餡と白玉を救い上げて口へと運ぶ。

 そんな光景を眺めながら、自分も同じものを注文すればよかったと、少し後悔した。

 そんな俺の気持ちが表情に出ていたのだろうか、鈴音ちゃんは不意にこちらを見やるとクスクスと笑った。

「先輩も一口、どうですか?」

「え? でも、それだと鈴音ちゃんの分が減っちゃうし……」

「羨ましそうに見つめられると、少し食べづらいです。それに先輩にもここの餡蜜の美味おいしさを知ってほしいので」

「それなら一口だけ貰おうかな……」

 俺がそう答えると、鈴音ちゃんは再びスプーンで餡と白玉をすくい、それを俺の口の前へと差し出した。

 え? もしかしてあ~んしてくれる感じなのか?

 その童貞男子には少し刺激の強すぎる鈴音ちゃんの行動に動揺していると、彼女はそんな俺がおかしかったのかまたクスクスと笑った。

 だが、スプーンを引っ込めようとはしない。

 どうやらやるしかない。

 わずかに背徳感を抱きながらも、意を決してスプーンを口に入れた。

 うむ、美味い……。

 口の中に広がる餡の甘さと、白玉のつるつるした触感が少し気温の高い今日にはちょうどいい。

 と、感想を述べたい俺だったが、鈴音ちゃんはなかなか俺の口からスプーンを抜いてくれない。

 鈴音ちゃんは相変わらずクスクスと笑いながら、指先でスプーンの柄を転がすと、俺の口の中でスプーンがくるりと一回転した。

 どうやら鈴音ちゃんのささやかな悪戯いたずらのようだ。現に彼女は少し困った表情の俺を見て楽しんでいるようだった。

 彼女の動かすスプーンの先が舌や奥歯に当たって、なんだか直接、鈴音ちゃんに指を入れられているような妙な錯覚に陥る。

 そんなことを数秒間続けたところで、彼女はスプーンを引き抜いた。

 からかわれた俺がそんな鈴音ちゃんを軽く睨むと、彼女はわずかに笑みを浮かべながらも「ごめんなさい……」と謝る。

 なんというか、彼女にそんな悪戯心があることに、俺は少し驚いていた。

 少なくとも翔太や深雪と一緒にいる鈴音ちゃんはどこまでもおしとやかで、ふざけたりなんて決してしないような女の子のイメージだ。

 いや、今も十分お淑やかなのだが、ほんの少しだけ今日の鈴音ちゃんは、いつもよりも着飾っていない、素に近い状態なのだと理解できた。

 それはそうと……。

 鈴音ちゃんの引き抜いたスプーンには俺の唾液がわずかに付着している。

 鈴音ちゃんが俺の口の中でコロコロ転がしたのだから当然だ。

 やだ……恥ずかしい……。

 が、鈴音ちゃんはとくに俺の唾液を気持ち悪がる様子もなく、餡蜜をすくって口へと運ぶ。

 そんな鈴音ちゃんの姿にわずかに動揺していると、彼女は首を傾げた。

「どうかしましたか?」

「いや、なんでもない……」

 俺がそう答えて一度、会話は途絶えた。一分ほど会話はなくなり、その間にマスターの運んできたコーヒーにミルクを落とす。

「正直なところ、穴があったら入りたいぐらいに恥ずかしかったです……」

 不意に鈴音ちゃんが口を開いた。

「え?」

「先輩の小説のことです……」

「あ、あぁ……」

 と、そこで俺は彼女の言葉を理解する。

 そりゃそうだ。恥ずかしいに決まっている。官能小説を読んでいることがバレたのもそうだが、自分をモデルにした小説が全世界に公開されているのだから。

 もっとも読者の数はそこまで多くないけど……。

「ごめん……。なんて言葉で許してもらえるとは思ってないけど……ごめん」

 だから、素直に謝ることにした。謝ったうえで、このことは俺の心の中にしまって、いっそ小説は削除してしまうつもりだった。

 けど、俺の謝罪に鈴音ちゃんは首を傾げる。

「どうして謝るのですか?」

「いや、だってそれは……」

 そんなこと説明するまでもないと思っていた。

 けど……。

「私は別に怒っていませんよ。私はただ、先輩に秘密がバレてしまったことが恥ずかしかっただけです……。先輩に軽蔑されることも怖かったですし……」

「け、軽蔑なんかしないよっ」

「でも私は、みんなが思っているような、お淑やかな女の子ではありませんよ?」

「だからって鈴音ちゃんのことを軽蔑なんてしないよ。むしろ俺はこんなにも自分の作品を読んでくれた読者に感謝したいぐらいだ」

…………

 一度会話が途切れた。数秒間の沈黙ののち鈴音ちゃんがまた口を開く。

「本当の私のこと知ってくれませんか?」

「はい?」

 不意に口にした鈴音ちゃんの言葉が理解できなかった。が、彼女の表情はいたって真剣だ。

「本当の私のこと、先輩には知っていてほしいんです。お兄ちゃんも深雪ちゃんも知らない私のこと、先輩に全部話してもいいですか?」

「鈴音ちゃんのこと? いいの? 俺なんかに話しても」

「はい、先輩にしか話せません。だって私の心のカギを開いてくれたのは先生の小説なんですから」

…………

 そう言って鈴音ちゃんは話し始めた。

「わ、私はお兄ちゃんや深雪ちゃんが思っているような、せいな女の子じゃありません……」

 きっと彼女なりに勇気を振り絞って発した言葉なのだろう。鈴音ちゃんの声はわずかに震えていた。

 そして、感情が籠もっているのだろう。彼女の声は無意識のうちにボリュームが上がっている。

「私はみんなが思っているような女の子じゃないです。私は……私はみんなが思っているよりも、もっといやらしい女なんですっ」

 一世一代の大告白。

 彼女はそのことを俺だけに伝えるつもりだったのだろう。だけど、無意識のうちに彼女の声は叫び声になっていた。

 特にいやらしい女という言葉は店内中に響きわたり、直後店内はしんと静まり返った。なにごとかと周りの常連らしき老人たちが一斉に鈴音ちゃんへと顔を向ける。

 これにはさすがの鈴音ちゃんも声の大きさに気づいたようで、今まで見たことのないほどに顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。

「す、鈴音ちゃん、少し落ち着こうか」

 そう言うと彼女は小さく頷いた。

 彼女は一度深呼吸をするとテーブルに身を乗り出すように俺に顔を近づけて、俺をじっと見つめた。

 そのせいで俺と鈴音ちゃんの顔が接近する。

 あー近い近い。

 どうやら周りに声が聞こえないようひそひそ話がしたいようだ。

 なんだこの可愛い顔は……。

 鈴音ちゃんの顔は間近で見ても、どうしようもないくらいに可愛かった。シンメトリーというのだろうか、左右に並んだ全く同じ形のふたまぶた、そしてツンと少しとがった鼻、そして艶やかな肌。

 何をとっても鈴音ちゃんの顔にはあらというものがない。そんな彼女が恥ずかしそうに頬を朱色に染めているのだ。

 どうにかなってしまいそうだ……。

 あと、なんの意味もなく翔太の顔面をぶん殴りたくなった。

「と、とにかくその……私はみんなが思っているよりも……いやらしい女なんです……」

 と、吐息のようにそんな大胆なことをささやくものだから、俺は思わず身震いしそうになる。

 事実は小説より奇なりなんていうが、少なくとも今の彼女は俺の小説の彼女よりも、数段なまめかしかった。

 でもそんな彼女の言葉に興奮している場合ではない。彼女はいたって真剣にこのことを話している。ならば、俺もまた真剣に答えてやらなければならない。

「そ、そもそもだけど……どうして鈴音ちゃんは官能小説なんて読むようになったんだ?」

 それが俺にとって一番の不思議だった。

 こんなことを言うのもなんだが、俺の作品は主に男性向けのライトノベルのアダルト版という表現が一番しっくりくる。

 それなのに、それとは無縁に思える鈴音ちゃんが読んでいたのが不思議で仕方がない。

「そ、それはその……」

 と、そこで一度治まりかけていた鈴音ちゃんの頬の紅潮がぶり返す。

「い、いや無理に答えなくてもいいよ。俺としては話したいことだけ話して、少し楽になってくれればそれで十分なんだし」

 だが、鈴音ちゃんは首を横に振る。

「いえ、今日は先輩に裸をさらすような気持ちでここに来ましたし、聞いてください」

 あー、すっごいこと言うのねこの子……。

 わかってる。わかってるよ。今のは比喩表現だってことぐらい。

 けどさ……そんなことをこんな息のかかりそうな距離で言われるんだぜ?

「わ、私が先輩の小説を読むようになったのはその……お兄ちゃんの影響です……」

「はあ?」

 その予想外の言葉に思わず俺は目を見開く。

「半年ほど前にソファで眠ってるお兄ちゃんを起こそうと思ったら、たまたまお兄ちゃんのスマホに目がいって、そこに先輩のその……えっちな小説が表示されていて……」

「ま、マジか……」

 ふざけんなよっ!!

 ちょっと待て、衝撃がデカすぎる。

 え? あいつ俺の小説読んでるの?

 いやいや引くわ……作者が俺であることを棚において悪いけど引くわ……。

 つまり、俺は翔太たち兄妹に隠れて、こっそり彼らをモデルにした官能小説を書いていたつもりだったが、結果的には二人とも俺の読者だったということだ。

「最初、お兄ちゃんがそんな小説を読んでいる事実を受け止められませんでした。もちろん物語として楽しんでいるだけだってことはわかっています。ですが、やっぱりショックで、しばらくお兄ちゃんが怖くなったのは事実です……」

 本当に翔太は物語として割り切っているのだろうか? その辺は甚だ怪しいが、変に話の腰を折るのも良くないので、黙っておくことにする。

「初めはなんでお兄ちゃんがそんな小説を読むのか理解できませんでした。ですが、その日から小説のことが頭から離れなくなってしまって、ある日、ベッドで横になっていたときに、出来心でその小説のタイトルを検索してしまって、気がつくと……」

 鈴音ちゃんは一度深呼吸をした。気がつくと彼女はテーブルに置いた手をギュッと力強く握りしめている。

「き、気がつくと私も夢中になってしまっていて……朝になってました……」

 この事実を喜ぶべきなのか悲しむべきなのか……。

 時間を忘れて夢中に読んでくれていたという喜びと、親友の妹の性癖をげてしまったかもしれないという悲しみの感情が胸の中で渦巻いている。

「かける言葉が、すまん以外に見つからん……」

「先輩が謝る必要はありません。むしろ、私の本当の気持ちを引き出してくれて感謝したいぐらいです」

「ちょっと待て、ってことは鈴音ちゃんまさか……」

 一瞬嫌な予感がしたが、それを否定するように鈴音ちゃんが激しく首を横に振った。

「お、お兄ちゃんはあくまでお兄ちゃんです。大好きですが恋愛感情はありません」

「な、なんだ……よかった……」

「ですが、先輩の小説がきっかけで、私は自分が無意識のうちに感情を押さえつけていたことに気がついたんです。先輩の小説はとても刺激的です。先輩の小説を読んでいる間だけは、押さえつけていた感情を目いっぱい解放することができるんです」

「感謝の気持ちは嬉しいんだけど、俺は本当に喜んでもいいのか?」

「少なくとも私は感謝しています。先輩の描くハルカちゃんは私にそっくりです。私だって本当はハルカちゃんみたいな刺激的なことがしてみたい。だけど、それはできないので、彼女に身代わりになってもらっているんです」

 と、そこまで話して鈴音ちゃんの表情が少し曇った。

「で、ですがこの気持ちは死ぬまで胸の中にしまっておくつもりでした。こんな気持ちが誰かにバレたら恥ずかしくて生きていけないです……」

「それなのに俺にバレてしまったってことか……」

 コクリと頷く。

「完全に私の落ち度です。前日の夜に読んでそのまま寝落ちしてしまったせいで、小説の画面が開いたまま家を出てしまいました……」

 なるほど、ことのてんまつが全てわかった。鈴音ちゃんは相当な覚悟で話してくれたのだろう。本当ならばこんなこと怖くて異性に話すことなんてできないはずだ。

「先輩はこんな私に幻滅しましたか?」

 鈴音ちゃんは恐る恐るそんなことを俺に尋ねた。

 もしかしたら不謹慎なのかもしれないけど、こんなにも俺の小説で感情をかき乱してくれる目の前の少女に感謝してもしきれない。

 本人は自分の感情を不純なものだと思っているかもしれないけど、きっと彼女の心はどこまでも純粋だ。

「鈴音ちゃんはどこまでも淑女で清楚な女の子だと思ってたよ」

 そこまで言って、鈴音ちゃんは驚いたように大きく目を見開く。きっと俺が幻滅していると思ったのだろう。

 だけど、話は最後まで聞いてほしい。

「だけど……だけど、きっと俺の想像は正しかったんだと思う」

「た、正しいですか? 私はこんなにも──」

「たぶん、鈴音ちゃんの感情は普通なんだと思う。俺だってそうだ。思春期の男女ってのはそういう生き物なんだよ。それをこんなにも真剣に悩む鈴音ちゃんはどこまでも純粋で無垢な女の子なんだと思う」

 だが翔太。お前だけは許さん。

 その言葉に、鈴音ちゃんは言葉も返せずにじっと俺を見つめていた。

 きっと俺たちが見つめ合っていたのは数秒間のはずだ。

 だけどその時間は無限のように長く感じた。そして、不意に鈴音ちゃんはクスッと耐えきれなくなったように笑みをこぼした。

「鈴音ちゃん?」

「ごめんなさい。ですが、やっぱり先輩に全てを打ち明けて良かったと思います。もっと素直になってもいいんですね。それがわかっただけでも気持ちが楽になりました」

 正直なところ、そこまで的確なアドバイスのようなものができたとは思っていない。けど、鈴音ちゃんの笑顔は自然だった。そしてどこまでもけがれのない無垢な笑顔。

「私は臆病なので、この感情をお兄ちゃんや深雪ちゃんに打ち明ける勇気はありません。ですが、先輩にだけはもう隠しません。先輩の前ではそういう女の子だってことを隠しません」

 晴れやかな顔でそう言ってのける鈴音ちゃん。

 ん? ちょっと待て。彼女はさらっと、とんでもないことを言ってないか……。

「で、ですから先輩も……」

 が、そこで不意に鈴音ちゃんはまた頬を赤らめる。本当に信号機のようにころころ顔色が変わる女の子だ。

「せ、先輩もその……私のことはお気になさらず執筆を続けてください」

 と、そこで話題は俺の話になる。

「先輩は私に気を遣って連載を止めておられるんですよね?」

「え? ま、まあ……さすがに鈴音ちゃんの気分を害してまで書くものじゃないしな……」

「私は先輩の小説が大好きです。これからも、もっともっと先輩の小説が読みたいです」

「でもいいのか? ヒロインのモデルは鈴音ちゃんなんだぜ?」

「大丈夫です。私なんかでよければいくらでも使ってください。私なら小説の中でもっと汚していただいても結構です」

 もっとっ!?

 俺の中ではすでにアクセル全開で汚してるつもりなんだけど……。

「お、おう……ありがとな……」

 そんなまっすぐな目でそんなことを言われても、なんて返せばいいかわからねえ……。

 彼女のそのまっすぐな目を見て俺は思った。

 もしかしたら、俺はとんでもない事態に足を踏み入れていないか?

 翔太よ。お前の妹、控えめに言ってド変態だぞ。

 きっと純真無垢なド変態だ……。