もう声優やめちゃおっかなー。
ソファでぐでーっとしながら先月の支払い明細を眺めていると、それを切に思う。
つい今しがた大学から帰ってきて、ポストを確認すると、宅配便の不在通知や公共料金の請求書なんかと一緒に、わたしの支払い明細が入っていた。
そんなわけで……。
やってまいりました! 毎月恒例辛い現実対面ターイム!
ぴりぴりーっと封筒を破って、お目当てのうっすーいペライチの紙を御開ちょ〜う!
えー、願いましては先月のアフレコ一話分が一万五千円。かけること四週分。足すことの、よくわからん無名の低予算くさいソシャゲの無駄謎ボイス収録数十ワードで一万五千円。
しめて、七万五千円。
かと思いきや、その額面通りに自分に入ってくるわけではない。
事務所の契約料。まぁマネジメントしてもらってる手数料的なアレがソレでナニなもんでざっくり三割ほど引かれていく。
さらに源泉税だの消費税だのその他ナントカ税だのの税金諸々が差っ引かれる。源泉ってなんなの、温泉でも掘ってるの?
そんなこんなでわたしの手元に入ってくるのは七割以下。
ざっくり計算で先月の稼ぎはぽっきり五万円くらいでしゃっきりポン。
……やべぇなこれ。
そこいらのフリーターの給与明細より全然やべぇなこれ。
日払いの派遣バイト週二でやってる方が稼げるとかやべぇなこれ。
もし仮にわたしが週三でバイトを始めてしまったら、収入の比率からしてフリーターを名乗らざるを得なくなってしまう……。
やばい。
なにがやばいってマジやばい。
閑古鳥が輪唱斉唱大合唱なわたしでも、デビュー間もない新人としては結構順調な部類であるという事実がマジでやばい。
売れない声優の仕事のなさは異常。
ビビる。声優業界の闇が深すぎる。
今や、老若男女にゃにゃんこ猫も杓子も声優になりたがり、犬も歩けば声優専門学校に入学していく史上空前の声優ブーム。
声優にまつわるコンテンツが売れに売れて熟れ熟れジュクジュク弾けまくりの声優バブル。
だからこそ、わたしもブームという風に乗り、バブルの勢いでブラザーに一枚嚙んでウォンビーロングしたわけで……。
なのに、実体経済とあまりにかけ離れてやしませんかね……。
これが一人暮らしだったらそれこそ文字通りの死活問題なのだけれど、幸いなことに、わたしには同居人がいる。
サンキュー悟浄君。サンキュー社畜。
ソファから跳ね起きて、今はどこぞで勤務中の悟浄君に南無南無と手を合わせてから、わたしはてこてこ悟浄君の部屋へ向かった。
悟浄君の部屋は結構こざっぱりしていて物が少ない。断捨離なのかミニマリストなのかミヒマルGTなのか知らないが、おかげで探し物はすぐに見つかった。
デスクの一番大きい引き出しを開けると、そこにはお金関係の書類がファイリングされているバインダーがある。
そいつを失敬して、リビングに戻る。ついでにこないだ現場でもらってきた差し入れのカステラも戸棚から取ってきた。
福砂屋のキューブカステラ。美味しいし見た目可愛いし、人目を気にせずささっとパクッて持って帰れてわたしはとても好きだ。ラノベ原作アニメの原作者の割りに、なかなかいいチョイス。
持って帰りづらいものや、結構なお値段張るお菓子はさすがのわたしもちょっと遠慮がちになってしまうからね。ていうか、あからさまに高価な差し入れとか申し訳なくなる。そんな高いお菓子いただくと、ついつい下心を勘ぐってしまい、むしろ逆に引くまである。いや、あの、ほんと声優さんと話したそうにしているラノベ作家さん、マジでちょっとアレですから……。
何事においても適切な距離感や関係性というものがあるのだ。
例えば、マグカップに注いだこの牛乳とカステラのように。あるいは、声優のわたしとマネージャーの悟浄君のように。
……もっとも、三割も差っ引いてやがることが適切かは微妙だけど。
しかし、わたしから三割も抜いてんだから、あやつ、それなりに給料貰っているはずだ……。
兄のものが妹のものになるのは世の習い。小さい頃はおもちゃが勝手にお下がりになったし、英語の辞書もわたしのものになった。
つまり、悟浄君のお給料がわたしのお下がりになる可能性は充分にある。ていうか普通に考えてわたしのもの。こんな格言を知っている? お前のものは俺のもの。俺のものも俺のもの……。
そう考えればうきうきわくわく。ローテーブルにおやつの用意をし、ついでに髪を一つにまとめて、ソファにダイブ!
剝き出しナマ足放り出し、鼻歌小唄を口ずさみつつ、カップ片手にカウチカステラでバインダーを開いた。ひらりとめくれば、そこには悟浄君の給与明細が挟んである。

今時の会社なら給与明細も電子化されているのだろうけれど、うちの事務所はまだそういう体制が整っていないらしい。
まぁ、社員数少ないからその手の設備投資するよりこっちの方が楽でお金かかんないのかもしれないね。知らんけど。
というわけで、悟浄君のお給料はいかほどか……。
オープン・ザ・プライス! アンド・ハンターチャンス!
どぅるるるるるるーとドラムロールを口ずさみ、一番下の桁から指さして、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん……と数えていたら、その指がぴたりと止まってしまった。
やべぇなこれ……。
ゴールデンハンマーで殴られたみたいにタイムショック受けたよ、わたし。
おいおいお前新卒か? っていうくらいの額しか貰ってないんですけど、あの人……。
わたしと悟浄君の月の稼ぎを合算しても三十万いかないなんて……。
ちとせはめのまえがまっくらになった!
☆ ☆ ☆
リビングにわたしの声が響いた。
「おお、悟浄君! こんな月給とは情けない!」
しばしの間、茫然としていたらしい。
はっと我に返ったときにはカステラをむしゃむしゃ食べ終え、いつの間に淹れたのやら温かくて甘いミルクティーを飲んで人心地ついていた。人生は苦いから、ミルクティーくらいは甘くないとね……。
しかし、どれだけ現実逃避しても、現実はわたしを追っかけてくる。……なんだこいつわたしのファンなのか。
なぁんだやっぱりわたし大人気じゃん!
……などと、言葉をこねくり回して現実逃避を試みたが、数字はどうにもこねくり回せない。
インディアンもミスター・ポポも、そして数字も噓を吐かないのだ。
ふっと虚しいため息を吐いて、わたしの支払い明細と悟浄君の給与明細を見比べる。
まぁ、悟浄君に関しては、薄給とはいえ社畜だからまだいい。
極端な話、悟浄君は社畜だから別に仕事をしなくても毎月お金が入ってくる。しかも社会保険料だって半分は会社が出してくれる神仕様。くそぅ、社畜のくせに生意気な……。
その点、声優は働かなければお金は入ってこないし、社会保険料だって全額自分持ちだ。
まぁ、当たり前といえば当たり前。
声優という職業はいわゆるところの個人事業主というやつに分類されるのだから。
なので、わたしの明細には「給与」とは記されていない。個人事業主烏丸千歳に対して取引先である声優事務所ナンバーワンプロデュースが、報酬を支払った明細として、この紙を送ってきているわけだ。
いやまぁ、一部には事務所の社員扱いのところもあるらしいけれど。でも、ほとんど多くは個人事業主、のはず。……たぶん。知らんけど。だって、声優の友達少ないし……。
それはさておき。
個人事業主といえば、代表取締役社長とか最高経営責任者とかマネージングディレクターとかプレイングマネージャーにも似たような甘美な響きがちりばめられていて、あたかもセレブリティな雰囲気がそこはかとなく漂っている。
けれど、その実態はといえば、すべての責任を自分一人がひっかぶることを美しく言い換えただけに過ぎない。
言ってみれば、毎試合先発烏丸千歳状態。
わたしわたし雨わたしなローテーションのうえに、セットアッパーわたし、クローザーわたし、神様仏様千歳様の継投パターン。
打順に至っては一番センターわたしに始まり、クリンナップは三番サードわたし、四番ファーストわたし、五番DHわたし、果ては九番ライトまでわたし。そのうえ、監督のわたしが、「代打、わたしや!」とか言い出す始末。なんなら球団幹部もオーナーもわたしな烏丸チトセーズ。
そんなひどい采配で毎シーズン戦い続けていかねばらないのが、声・リーグ。
競争相手がアホほど多いのに、勝っても後の保証がまったくない。仮に売れてもブームは一瞬で去ってしまう。その消費サイクルの速さたるやファミスタのピノくらい速い。
過酷過ぎるよ、声・リーグ……。
生きるも死ぬも自分次第。
すべては自己責任。
だというのに、まったくと言っていいほどわたしの思い通りにはならない不自由なことこの上ない我が身……。報酬は自分の願う収入には届かず、スケジュールだってプライベートの予定を立てられないほどに曖昧。一応事務所に所属している以上、勝手に仕事をするわけにもいかない。
ごりっごりの縛りプレイ。
その縛りに耐えたからと言って、やりたい仕事ができるわけでもない。いやいや、そもそもわたし程度だとまず仕事がないのだけれど。
おかしい……、事業主なのに……。
落ち着け、落ち着けわたし。
今一度よく考えるんだ。ごろんとソファで寝返りを打って論理的に情報を整理してみる。
超論理的に三段論法を用いて説明するのであれば次のようになるはずだ。
『わたし、烏丸千歳は声優である』
↓
『声優は個人事業主である』
↓
『つまり、わたしは主』
↓
『よって、わたしはマスター。略してわたマス』
以上のことから、わたしはわたマス声優だということになる。
なのに、シンデレラガールになれそうな気配もなければ、ミリオンセラーにもライブにもまるで縁がなく、本当にわたマス声優なのだろうかと疑いたくなってくる。
悟浄君の稼ぎもやばいし、わたしの稼ぎもやばい。
今はまだわたしが学生ということもあって、親の援助をありがたーくいただきながらこのマンションに住めている。
わたしが言うことでもないが、新宿にほど近いそこそこいいお値段するマンションに何不自由なく住めているわたしの身分はなかなかどうしてそれなりにいいと言える。
この部屋を普通に賃貸で借りていたら悟浄君の月給手取り分は瀕死の大ダメージを受けて、ゲージが真っ赤になるところだ。
しかし、その援助もわたしが大学を卒業したら打ち切られてしまうこと請け合い……。
……どげんかせんといかんぜよ。
決意とともに、悟浄君の明細をじっと見る。
──よし。
今度からは成城石井じゃなく、まいばすけっとでお買い物をし、浮いたお金を自分の懐に入れて貯金していこうと誓いを新たにするどうも庶民派のわたしです。
さしあたって、悟浄君から貰っている生活費のうち三分の一ほど懐に入れれば……、とぽちぽち電卓で計算してみるとあら不思議! 大学生にしては結構なお金を持ってるように見えるじゃん!
などと純情な勘定をしていると、携帯電話がぶるりと震えた。
なんじゃらほいと画面を見れば、LINEのプッシュ通知に『ちょっと遅くなる。飯いらない』とだけあった。
ここ最近の悟浄君はいつもそっけないというか愛想がないというか。現場でもろくに会話をしようとしない。たぶん、身内だからこそ厳しくしなきゃと思っているのだろう。好きな子ほどいじめちゃう心理ってやつだ。
真面目だなぁ、悟浄君。そして、わたしのこと好きすぎるなぁ、気持ち悪いなぁ。
けれど、悟浄君が頑張っていることはわたしもよく知っている。ちょっとは優しくしてやるか……。
『お疲れ様! お仕事頑張ってね!』
きゃぴるんと可愛い笑顔を作って、ふりっくふりっくしながら文面を打ち込んだものの、これだけでは味気ない。文章だから笑顔見えないしな……。
なので、スタンプ代わりに、手取りがとても残念な額の給与明細をぱしゃっと撮影して、送信っ!
うむうむ。これで悟浄君のやる気もうなぎ上りで給与は右肩上がり。わたしは左団扇! それに、人が頑張っていると、自分も頑張ろうって気分になるしで、いいことずくめ!
──よし。
明日から頑張ろう!
先月も先週も、なんなら先日先刻昨日の今日も思ったことを心機一転、今日も今日とて新たに誓って、わたしはごろりとソファに寝転ぶのでした。

☆ ☆ ☆
殺すぞ。
その一言だけを返信して、スマホをしまった。
……まぁ、確かに?
確かに、声優プロダクションのマネージャーという職業はさして稼げるものではない。いや、ぶっちゃけ稼げない。もっと上の立場、例えば統括部長だのチーフマネージャーだのの役職付き、それこそ社長だとかになれば話は別だ。だが、そういったポジションにない勤続年数も短い新卒入社の平社員の給料などたかが知れている。
それでも、世に数多ある、余人に社名を広く知られるでもない一般的中小企業、零細企業の入社二、三年の若手社員程度の基本給は貰っているとは思う。
うん、いや、貰っているはず。たぶん絶対。そう信じてる。信じることに罪はないはず……。俺の月給も年収も低すぎるということはなく、中央値で考えれば一般的なはずだ。平均値の場合にはその限りではないかもしれないけれど。……まぁ、労働時間は一般的ではないかな。
この仕事はいわゆるところの九時五時的な感覚の労働環境ではない。土日はほぼ毎週、誰かしらのイベント稼働が存在するし、映画の舞台挨拶なんて入ったりしたら朝は千葉、昼は東京、夜横浜、翌日名古屋、大阪、京都と東海道を行き来して関東関西をぐるぐる回ることも珍しくない。平日でもアフレコ現場によってはてっぺんを回ることもある。
そういった種々の仕事も、それなりに経験を積んだ役者のアテンドであれば本人に任せてしまうこともあるが、大御所、あるいは若手に関してはさすがについていないとまずい。
そんなわけで、もう十九時を回ったというのに、これから現場に向かわなければならない。裁量労働制ってほんとクソ。残業という概念が存在しないから毎日がエブリデイノー残業デー。みなし残業とはいったいなんだったのか……。
救いと言えるのは、これから向かう現場はサクサクで終わりそうなことくらいだろうか。
地下鉄で新宿から数駅行った高円寺、一見ややみすぼらしい雑居ビルの一室が本日最後の現場だ。
がたがたと軋み、不安な音をたてる古ぼけたエレベーターに乗り、三階へと赴く。
そのフロアの一室には小さなスタジオがある。普段アフレコが行われている音響スタジオと比べればだいぶ規模は小さい。
一口に音響スタジオと言ってもその用途はまちまちだ。
アニメのアフレコスタジオであれば、作品公式サイトなどでキャストの集合写真が載っていることも多いから見たことがある人もいるだろう。あるいは、バンドの経験者で貸しスタジオを借りたことがあれば近しい想像はできるかもしれない。
そうしたアフレコスタジオ以外にも、ラジオやナレーションを収録するような小さいスタジオが多々ある。三十平米にも満たない一室にブースが一つだけみたいな小規模なスタジオが都内にはいくつも点在しているのだ。
他にも普通のマンションの一室に設えてあるハウススタジオと呼ぶようなものもある。その手のスタジオは音響制作会社や作曲家やアーティストが所有していたり、借りていたりするが、ちょっとしたキャラソンやラジオ、ドラマCDの収録などで使わせてもらうことも多い。
大きいスタジオでいえば、劇伴、要はBGMを収録するためのフルオーケストラが入れるようなスタジオだってある。そういうところはどこぞの体育館かと見まがうほどに大きい。
もちろん、今あげた大中小すべての大きさのスタジオを取り揃え、いくつもブースを構えているところだって存在する。ロシア大使館近くのあそこなんかはその代表例だ。
さらにさらに、映像編集を請け負うスタジオにも、当然収録ブースが設置されている。
だから、まぁ、要するに、都内にはスタジオが数限りなく存在しているのだ。
どこのスタジオを使うことになるかは、音響制作会社の采配によってまちまち。忙しいときには一日で三つも四つもスタジオをはしごすることになる。
そんなこんなで本日三つ目にやって来たスタジオが、この高円寺ポップンフューチャーサウンドたらいう小さなスタジオだ。
入口で靴を脱いで、スリッパに履き替える。なぜだか小さめのスタジオは土足厳禁であることが多い気がする。
部屋のつくりはごくシンプル。扉を開けてすぐにリビングスペースのようなロビーが広がり、調整室へと至る重いドア。その調整室を通り抜けた先にブースがある。それらすべて合わせてだいたい四十平米といったところだろうか。ラジオやナレーションを収録するには充分な広さだろう。
それ故、スタジオに入ればすぐ、ロビーのテーブルで幸せそうな表情を浮かべ、お弁当をパクパクしている女性の姿も視界に入ってくる。
向こうも俺に気づいたのか、お箸を持っていない方の手を軽く上げた。お箸を持った手は卵焼きをはしっとつかみ、口元へと運ばれている。しばし、もぐもぐした後、んむっと飲み込むと、明るい笑顔を見せた。
「おー、悟浄君やん。おはよう」
挨拶のイントネーションは関西弁。ふわふわしたセミロングの茶髪とゆるめのパーカーという格好も相まって、気さくな雰囲気を抱かせる。
片倉京。弊社ナンバーワンプロデュースの声優だ。
「おはようございます。弁当持ってきたんですか?」
向かいの椅子を引いて座ると、片倉さんは小さな弁当箱を自慢げに見せてきて、ぐいと胸を張る。
「せやでー、お金ないからなぁ」
ケラケラとなんでもないことのように笑っているが、片倉さんのおおよその稼ぎを知っている身としてはいまいち笑いづらい……。
幸せ笑顔でお弁当をつついている片倉さんをまじまじ見ていると、不意に目が合う。片倉さんが口元に箸をやったまま、きょとんとした顔で小首を傾げる。が、すぐになにかに思い至ったらしい。
「はっ!」
言うや否や、しゅばばばっと弁当箱を隠し、俺をじっとジト目で見る。
「……あげへんよ」
「いりません……」
俺も外回り続きでしっかり食事をとったわけではないが、それでも、今の片倉さんからなけなしのおかずを取ろうとは思わない。
すると、片倉さんは「なーんや」と安心したように息を吐くと、今度は小さく握られたおむすびをはむはむへけへけし始める。

「そしたら、なに?」
「いや、うまそうに食うなと思って見てただけです」
「それな!」
親指でぐいっと口元を拭うと、片倉さんは俺をびしっと指さす。
「や、ちゃうねん。バイト十七時までのはずやってんけど、代わりの高校生がなかなか来んくてなー」
なにがちゃうのか全然わからん……。そのちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうんちゃう? くらいわからん。戸惑うこちらをよそに片倉さんは時にもぐもぐし、時にはむはむし、話を続ける。
「おかげでめっちゃお腹減ったわ。だから今食べよ思て。……収録中、お腹鳴ったら恥ずかしいし」
恥ずかしそうに一言付け足した。
「まぁ、どこの現場でもみんなお腹鳴らしてますからね」
言うと、片倉さんはお茶をこくこく飲みながら、うんうんせやせやとばかりに頷いた。
実際、ガラスの向こう側、調整室の方へ入ると、いろんな音がめっちゃ聞こえてくる。お腹の音どころか、台本が擦れるペーパーノイズやブーツの足音のような微細な音までマイクは拾うのだ。
収録中はもちろんだが、休憩中もマイクは生きていることが結構ある。だから、原作者への悪口とかも拾ってしまうので気を付けてほしい。ほんとに。
「ごちそうさん」
ぱんっと手を合わせると、片倉さんはささっと手早く弁当箱をしまい始める。
「わざわざ弁当作るなんてすごいですね……」
「一人暮らしも貧乏暮らしも長いから、いい加減慣れただけよ。そんな大変なもんでもないしな」
少し照れたように片倉さんは笑う。だが、ちらっと見た感じ、そのお弁当は豪華さこそないものの、くるくる綺麗に巻かれた卵焼きや、いい具合につやが出たきんぴらゴボウなどからは確かな技量が感じられた。
親元を離れてそれなりに歳月の経つ俺だが、一向に料理の腕は上がらない、というか、そもそも自炊をしようとする時間も気概もない。それを考えれば片倉さんの料理の腕は称賛に値する。……いやまぁ、若い女性の手作り弁当できんぴらゴボウってどうなんだろうって気がしなくもないけど。
「謙遜するようなことでもないんじゃないですか。結構手間暇かかってるように見えたし」
「そ、そう? そんなアレでもないけど」
片倉さんはふわふわの髪の毛をくしゃくしゃと指先で丸めながらそっぽを向く。かと思えば、今度はごほんごほんと咳払いをし、ふっふっふっとやけにわざとらしく笑い始める。
「なかなか見る目あるやんか。違いのわかる男やね。確かに、悟浄君の言うとおり、このお弁当は暇で手間のかかる京ちゃんが作って……ってこらー! 誰が仕事なくて手間かかる面倒な女やねん」
「そんなこと言ってないんだよなぁ……」
ばしっと軽く胸をはたかれる。照れ隠しなのかなんなのかよくわかんねぇな……。
「まぁ、暇だからやるってもんでもないですからすごいと思いますよ。うちの妹だって暇だけど家事なんもやらんし」
「あー、まぁ、若い子はしゃーないんちゃうかな。ほら、言うやん? 亀の甲より年のこ……こらー! 誰がアラサーやねん! うちか! ……うちやな。うん、うちやわ」
片倉さんの声は後半ほとんど聞き取れないくらいに小さくなっている。
年齢のことを自分から言い出して、勝手に落ち込むのやめてほしいなぁ……。
関西出身だからなのか、それとも彼女自身の個性なのかは判然としないが、片倉京はなかなか独特のノリだ。
それが面白いかどうかはさておき、可愛げやインパクトはある。……うん、まぁ、面白いかどうかはさておきね?
今後はもっと、片倉さんの個性を生かした仕事を模索していくべきなのだろうか……。
ともあれ、まずは目の前の仕事だ。
「そろそろはじめまーす」
音響制作の担当さんが調整室からてくてくやって来て一声掛けてくる。
「はーい。よろしくお願いします」
片倉さんは台本を手に立ち上がると、調整室へと向かう。俺もそれに続いた。
「よろしくお願いします!」
スタッフの方々に元気よく挨拶しながら、片倉さんがブースへと入っていく。
今日はアクションゲームのボイス収録だ。それも、片倉さんがやるような端役だと、立ち会うスタッフの数もさして多くない。音響監督とゲームのディレクター、ミキサーくらいのもの。他には、なにをやっているのかわからない人、おそらくはプロデューサーだかライターだかが一人二人、入れ代わり立ち代わり入ってくる程度だ。
その調整室で俺も収録を見守る。
ミキサー卓からはブース内を覗ける小窓がついている。ちょうど片倉さんがマイク前に座るところだった。ブース内の席につくと、小さな机にプリントアウトされた台本を広げている。
「では、キャラのチェック、一枚目からいきまーす。キューランプついたら自分のタイミングで始めていただいて大丈夫でーす」
音響監督がトークバックを介して、片倉さんに指示を出すと、ガラスの向こうの片倉さんが頷きを返す。
『はい、よろしくお願いします』
スピーカーを通して片倉さんの声が響く。集中するためなのか、浅く深呼吸する息遣いさえもマイクは拾って届けてくる。
「では、回していきまーす」
音響監督が手元のボタンを操作すると、ブース内のキューランプが点滅する。
片倉さんが一度、すぅっと小さく息を吸った。
『えい!』
『やあ!』
『とあ!』
『ぶるわあ!』
そんな叫び声がひたすら響いてくる。
ゲームボイスの収録はたいてい一人で演じるものだ。中には某有名RPGのように、アニメさながらにキャストが揃って収録することもあるらしいが、そういうタイトルはごく一部だ。
だいたいのゲーム収録の現場はこんな風にちょっとシュールな光景が見られることになる。
RPGやノベルゲームのように、シナリオが存在している場合には、キャラクター性を鑑みて云々シナリオの文脈が云々などと言いつつ、スタッフ側が注意して聞くものだが、アクションゲームだと正直なにを基準にオーケーを出すのか微妙な気がする。特に、今片倉さんが演じている汎用武将のエディットボイスみたいなものならなおさらだ。
なので、ガラスのこっち側もふんふんと頷き、うん、まぁそうねって感じの雰囲気だ。……みんな、慣れてるからね! 良いか悪いかは経験を通じてわかるからね!
逆に言えば、その雰囲気を把握するために、俺たちマネージャーが収録に同席しているという側面もある。
芝居の良し悪しの判断はタイトルの方向性やディレクションをする人によって変わってくる。
そうした匙加減について、スタッフ側の反応を見るのも、俺たちマネージャーの仕事の一つだ。
現場がどういったニュアンスを必要としているのか、肌感覚で理解し、役者にアドバイスができるようにしておくのだ。……まぁ、すべてのマネージャーがそういうことをしているかはまた別の話。ただ、俺はそうしているというだけのこと。
収録の仕方も仕事の仕方もタイトルによって、人によって違う。たった一つの正解というのが存在しない。前の現場で当たり前だったことが次の現場では通用しないなんてことも珍しくない。
だから、できることは経験値を上げ、どんな現場でも対応できるようにすることだけだ。
『どうやら私たちの方が優勢のようですねぇ〜。それではさらりと片づけてまいりましょうか』
テストの後、本番が始まり、片倉さんが最後のセリフを読み終えると、音響監督がトークバックをぽちと押す。
「はーい、お待ちくださーい」
くるりと、椅子を回してスタッフ側に振り返り、収録した一連の箇所を確認していく。
スタッフ側からいくつか出た修正を取りまとめている間、ガラスの向こう側の片倉さんは水を飲みながら、こっちを気にするようにちらと窺ってくる。
俺と目が合うと、おどけたように小さく手を振ってきた。そういうのちょっと恥ずかしいからやめてほしいな……。
そうこうしているうちに、リテイク箇所が出揃い、音響監督がまたぞろトークバックをぽちーとやる。
「お待たせです。すいません、二枚目、最後。セリフ部分ですが、ちょーっとイントネーションなまっちゃったみたいなんで……」
『あー! すいません!』
片倉さんは、謝るイントネーションがすでに関西っぽくなってしまっている。それを聞いたディレクターらしき人がふむんと頷いた。
「へー。関西の子なんだね」
などと、雑談を始めるスタッフ陣の会話に耳を澄ましているうちに、収録は滞りなく進んでいった。
本日の片倉さんの収録ワード数は五十前後。
拘束時間はだいたい三十分程度。グッダグダの現場だとこの倍はかかることもあるが、今日のスタッフも片倉さんも慣れているので、進行はサクサクだ。
音響監督の「はい、いただきましたー。お疲れ様ですー」の声を合図に片倉さんがブースから出てくる。挨拶を済ませて、ささっと退散。俺もその後に続いてスタジオを後にした。
エレベーターを降りて、駅まで向かう間、片倉さんは俺の横に並んでてくてく歩く。
「お疲れさん。どうやった?」
いよっとバッグを背負い直しながら、片倉さんが尋ねてきた。
「まぁ、問題はないんじゃないですかね」
自分が聞いていた片倉さんの芝居、それとガラスのこっち側の反応を思い出しながらそんなことを言った。すると、片倉さんが露骨に不満げに膨れっ面になる。俺より年上の割りに、こういうリアクションは妙にあどけない。
「冷たいなー。もっとなんかないん?」
そう聞かれてしまえば、こちらも真剣に答えるしかない。
「いや、ほんとにそれらしい問題はないと思います。しいて言えば問題ないことが問題というか……。技術的に求められてる水準はクリアしてるし、修正能力も高い。欲を言えば、どれだけ印象残せるかになってくると思いますが、今回みたいな汎用系のエディットボイスはむしろ無個性さが必要とされたりするから判断がつきづらいですね。そのあたりはゲームに落とし込んだときの画面演出やユーザの心理状況に左右される部分も大きいですから、情報量の総和で考えるしかないですけど、少なくとも現場の声のイメージだけなら印象は良かったんじゃないですか」
「ながっ! 話ながっ! 校長先生か」
「そっちが聞いたんですけどね……」
ばしっと肩をはたかれて、顔をしかめていると、片倉さんは楽しげにころころ笑う。
「まぁ、けど、参考にはなるかな。女同士やとそういう話あんませんし」
「そういうもんですか?」
「そうやね。まだ養成所おった頃とかは結構話したりもしたけどなー。現場出るようになったらあんませんようになったわ」
肩の凝りをほぐすように軽く首を回すと、片倉さんは懐かしむように呟いた。
確かに言われてみれば、女性声優同士で芝居がどうとか演技論がどうとかいう話をしている姿はあまり見た覚えがない。一方で、男性声優同士だとデビューしてそれなりに経っても飲みの場で熱く議論を交わしたりもする。まぁ、別にそれをもってして男性声優が真面目だとかそういう話ではなく、単純な文化の違いととらえるべきだろう。
往々にして、女性の会話は共感をメインにしがちで、男性の場合は競争意識が働きやすい、というだけのこと。いや、もちろん個人差があるけれども。
自分が声優をやっていた頃にはあまり気にしていなかったことだな……と思っていると、片倉さんが不意に笑った。
「……なんですか?」
聞くと、片倉さんは口元に手をやり微笑みを抑えると、いやに温かな眼差しを向けてくる。
「いやー、悟浄君、もうすっかりマネージャーさんなんやなぁと思って。昔は同じ現場におったのに不思議。なんかおかしいわ」
「俺もまだ違和感ありますよ」
つい苦笑を返してしまう。
金魚鉢の中にいた頃には見えなかった光景に戸惑うことは多い。音響の現場だけでも数多くの人が関わっていることを事実としては知っていても、どこかで実感がなかった。
この業界、奥が深いし、闇も深い。
なのに、世間は狭い。
声優をやめた後も、またこうして片倉さんと仕事をしているのはなかなかに不思議な感じがする。
その感覚は片倉さんも同様なのだろう。お互い抱いた違和感を整理するように、片倉さんが小さく咳払いをした。
「えっと、もう烏丸さんって呼んだ方がいいんかな?」
「別に変えなくていいですよ」
「んー、それもなーんか……」
言いながらほけーっと夜空を見上げた片倉さんがぽんと手を打った。
「あ、間とってゴジョーさん、とか。妹ちゃんも同じ事務所なんやし」
「千歳のこと知ってたんですか」
意外だ……。いや、意外でもないか。ゴミカス新人のくせに声優業舐めきっている奴がいると悪い意味で注目されていてもおかしくない。大丈夫かな、うちの千歳ちゃんの評判は……と、ちょっと心配しながら片倉さんの反応を窺う。と、片倉さんは俺の視線にふむんと首を傾げる。
「そらまぁ話くらいは聞いとるよ。おうたことはないけど」
良かった……。このまま千歳の悪口大会に移行したりしたら、俺もノリノリで参加して優勝しているところだった。そんな安堵が吐息とともに出てくる。
「まぁ、現場で会ったら仲良くしてやってください」
言うと、片倉さんはけろりとした顔で口を開く。
「当たり前やん。現場では誰が相手でも仲良うするよ」
「その返答、闇が深くないですかね……」
上っ面だけは、みたいな言葉が省略されてそうな雰囲気に恐れおののいていると、片倉さんは冗談冗談とばかりに笑う。
だが、すぐにその笑みを抑えると、冷めた表情で足元を見た。
「うちより若い子、がんがん入ってくるなぁ……」
ふと口にした呟きは、声こそ小さいが、聞き流してしまうには、あまりに大きな意味を孕んでいる。
ただ、それに返すべき言葉が思いつかなかった。
適当なことを口にして、励ますのは簡単だ。けれど、その言葉になんの意味もないことは俺自身が理解している。おそらくは片倉さん自身も。
「うしっ、頑張ろ」
やがて、短い沈黙を打ち切るように言うと、片倉さんはびしっと敬礼を決める。
「そしたらうちこっちやから。お疲れ様でした!」
「……ええ。お疲れ様です」
ぺこっと一礼して、改札を抜けていく片倉さんを見送り、俺は逆のホームへと向かう。

ほどなくしてやって来た電車に乗り込み、扉近くに陣取った。ゆっくりと走り始めた電車に揺られながら、ふと考えてしまう。
声優、特に女性声優の活躍サイクルは速い。
新人、いわゆるジュニアと呼ばれる期間にある程度の実績やクライアントへの印象を残さなければ、その後継続的に仕事をしていくのは厳しい。
極論、声を出して演技をする、というのは誰にでもできてしまう。その技量の差はもちろんあるが、可視化、数値化されづらい、ある種の芸術系スポーツと似たような難しさがそこにはある。
だからこそ、目に見える実績、あるいは人に与える印象が重要になってくる。技術的にまったくダメでも、「味がある」や「これはこれでリアル」みたいな謎の評価を受けて起用されることだってあるのだ。
なので、技術以外の面、つまりは自身のポジションや個性を確立していくことが必要になってくる。
それがなければ、上位互換、下位互換、代替品はいくらでもいるのだ。
否。
声優だけではない。正しくは業界のほとんどが歯車だ。
極端な話、例えば一部の有名監督、有名声優、有名原作者、あるいは一部のプロデューサー。そうしたごく少数の特別な人間以外は代替可能な存在だ。
そんなわけがない。誰もが個性を持ってアニメづくりに参画している! と言いたくても言えない現実がある。
少なくとも、俺はそうだった。いや、今もそう思っている節がある。
かつて存在した烏丸悟浄という声優も、今現在存在する烏丸悟浄という声優事務所マネージャーも、いなければいないで誰かがそのポジションについて、きっとうまく回ってしまうのだ。
やがて、地下鉄は俺の最寄り駅へと向かい、緩やかに減速を始める。足元がぐらつくような震動を確かに感じながら、ドアの前へと移動した。
正面のガラスに映るのはひどく疲れた自分の仏頂面。
オンリーワンにもセンスオブワンダーにも程遠い。その真実に気づいて、それでもなお踏みとどまれるか。
ガラスに映った自分が、昔のように問いかける。
その問いの答えは今までもこれからも付きまとうのだ。
──嫌なことを思い出した。
そういうときは軽く酒を飲んでさっさと寝てしまうに限る。
かつかつと革靴を鳴らして、駅の階段を上ると、通りに出てすぐのコンビニで発泡酒とつまみをかごに放り込んでいく。
三本目の五百mℓ缶を手にしたところで、自分の稼ぎに思い至り、こそっと棚に戻した。
烏丸家の懐事情は厳しいのだ。俺の稼ぎも相当にあれだが、過酷な女性声優業界に身を置く我が妹、千歳の行く末も不透明。
兄としてもマネージャーとしても、どうにかせねばなぁと思いつつ、会計を済ませて、コンビニ袋を提げて自宅マンションへと続く道を歩く。
まだまだ新人の千歳だが、下の世代の子たちが出てくるようになる日はそう先の話ではない。そのときまでに、千歳が自分の道を選べるようにしてやることが俺の役割だろう。
そんなことを思いつつ、玄関を開ける。
「お、悟浄君おかえりー」
リビングからはふんふんと鼻歌交じりの声が聞こえてくる。
「ただいま」
言いながら、リビングのドアを開けて絶句した。
千歳がソファに寝転び、マンガを読みながら足をパタパタさせている。それはまぁいい。ちょっと可愛らしいからな。
問題は部屋の惨状だ。
ちらとテーブルに目をやれば、開かれた様子のない台本とチェック用のDVDが放り出されている。その近くには飲みかけのマグカップとカステラの残骸が放置されていた。お兄ちゃん、思わずため息がこぼれてきちゃうよ。
が、そんなクッソでかいため息を吐いても、千歳はどこ吹く風の平気の平左。てとてと歩み寄ってきて、コンビニ袋の中を検め始める。
「コンビニ寄ってきたんなら、アイスかなんか買ってきてくれれば良かったのに……」
言いながら、千歳が鮭トバの封を開け、一つ口に放り込む。あむあむと嚙み締める姿は非常にのほほんとしてらっしゃる。それを見ていると、さっきまで考えていたことが口を衝いて出てしまった。
「千歳ちゃん、ちょっと聞きたいんだけどさ、君、危機感ってある?」
「……は?」
怪訝な顔で首を捻る千歳ちゃん。が、やがてなにかを思い出したように手を打った。
「あ、あるある! めっちゃある! さっきさ、八重とLINEしてて聞いたんだけど、転用料っていうのがあるらしいんだよ!」
千歳は俺の手を取り、ソファへと引っ張っていくと、いそいそ支払い明細を取り出して見せてくる。
「でもね、明細にはそれが書かれてないの! やばくない!? わたし、騙されてない!? これちゃんと払われるのかなぁ……」
渋い顔しながら鮭トバを齧る千歳ちゃん。ああ、危機感ってその手の危機感……。
「そういうのじゃなくて、この先のこととか将来とかが聞きたいんだが……」
言うと、千歳ははてと首を捻るが、やがて真面目くさって咳払いすると、俺の向かいに正座した。軽く唇を嚙むその表情には憂いが浮かぶ。
「わたしだって先々のことについては確かに多少ちょっと不安なこともあるよ? ……でもね? 今は足元をちゃんと見る時期だと思うの」
「ほう。足元を」
なんだこいつ、もしかして意外にちゃんと考えているのか。などと、感心しかけた矢先、千歳はぽんぽんと支払い明細を指さす。
「そう、足元。まぁ、足元というか、お足についてというかおぜぜについてというか」
言いながら千歳は正座を崩して胡坐をかくと、すっとまるで菩薩のようなポーズをとった。指先はオッケーウフフ☆と言い出さんばかりだ。
あ、うん。転用料にまだこだわるのね。
「その辺はあとで説明するからちょっと待て……。その前にお前は声優として足りないものがある。なにかわかるか」
コンビニ袋から発泡酒を取り出し、テーブルにとんと置く。じっと千歳を見つめると、千歳は顎に手をやり、うーんと考えてから小さく挙手した。
「……収入?」
「う、うん……。まぁ、それはそうなんだが」
おいおい、こいつ我が妹ながらほんとメンタルだけは強ぇな。呆れるのを通り越して普通に軽蔑したぞ……。
「それだけでなくて、収入に繫がってくる仕事のために必要なものがまず欠けてる」
まだ酒も飲んでないのに痛み始める頭を抱えて、俺はさっそく一本目の発泡酒を開けた。

☆ ☆ ☆
昨日の夜はひどい目にあった……。
気づけば、悟浄君からたっぷりお小言をもらういつものパターン。曰く、声優烏丸千歳に足りないのは技術とか情熱とか向上心とかプロ意識とか危機感とかいろいろ並べ立て、最終的には速さが足りないということらしい。なるほど、わからん。
それにしても、なぜああもくどくどとお説教ができるのか。くどくどどころか、最後はわふーわふー言ってたまである。しかも、一生ため息吐いてたし。
ああいうのほんとやめてほしい。二人暮らしなのに機嫌悪いとか最悪過ぎる。
などと、口にしてしまえばまたぞろ悟浄君から小言が飛んでくるのは目に見えていたので、賢いわたしはただ態度で示すだけにしておいた。
換気扇の前で缶ビール片手に煙草を吸う悟浄君を鬱陶しそうに見ていたし、比較文学のレポートはキータッチをがったがった言わせながら書いた。ついでに、家を出るときはトドメとばかりに普段の五割増しの力でドアを閉じた。
これならさすがの悟浄君もわたしに気を遣うだろう。ふふふ、女子高育ちのわたしは非言語コミュニケーションのプロなのだよ……。
プロのわたしはアフレコ現場にだって、私情を持ち込んだりはしない。
もしかすると、現場に悟浄君が現れるかもしれないけれど、妹としてではなく、一声優として他人行儀に振る舞おうと心に決めているプロ意識の高いどうもわたしです。
そんなこんなで今日も数少ないお仕事へやって来るわたし。
そして、今日も今日とて、地蔵タイムで空気と同化し、ワンワードとなんとなくなガヤでギャラ泥棒なわたし……。
相変わらずのモブ・オブ・ザ・モブなので、現場に馴染んでいる感はいまいちない。
アフレコが終わると今日イチ大きい声で挨拶をして、そそくさとブースを後にした。ミキサールームへも顔を出し、お別れのご挨拶を済ませて、ロビーにやって来ると、ようやく解放された気分になる。
なぜなら、そのロビーには八重がいるからだ。
「ちーちゃん、お疲れ様ぁ」
八重はゆるゆるしたカットソーにジーンズを合わせたその格好も相まって、なんともほんわかした雰囲気を醸し出している。おかげでだいぶ癒された。
「お疲れ、八重」
挨拶を返してふはぁとため息を吐く。
別に疲れるほど仕事をしてはいないのだが、どうも気疲れしているらしい。
どうにも胸を張って「仕事しています!」と言えないので、現場にいるだけで気を遣ってしまうのだ。なかなかどうして小物なわたし。わたしくらいの小物ともなると、もはや小物界の大御所と呼べそう。
現場の皆さんは前途あるクソモブにもっと優しくすべきなのでは? 皆さんクソモブ時代にアフレコ現場で辛い思いをしたのなら今ここでわたしに温かく接することで負の連鎖を断ち切るべきなのでは?
などと、思いはするものの、その感覚を共有できそうなのが、同程度の魂ランクの八重しかいない。
同類相哀れむというやつだろうか。仕事ない人同士がつるむのがこの業界の定石だ。
というか、あれだな。自然、自分と同じくらいのレベルの人たちとつるむようになるのは、学校でも会社でも同じかもしれない。
いろんな意味で友達っていいなぁ。こう、気持ちを分かち合うっていうかね! こいつもダメだからわたしも安心、みたいなね! サンキュー八重! アイラブ八重!
「んじゃ、ご飯いこっか」
「うん」
気持ちが軽くなったので、いつもの通りウキウキで食事に誘い、八重を重くしに行くことにした。
スタジオを出て、てくてく歩くことしばし。
以前にも来たことがあるオサレなバルでエルダーフラワーソーダを一気飲みした。
「えっと、フードのオーダーを……」
と、メニューに伸ばしかけた手を、八重にがしっとつかまれた。
「ちーちゃん……」
「一応言っとくね。私、まだダイエットしてるの」
「ほう……」
相槌を打ちつつ、目を細めて八重の肢体をじっくりとっくり眺めまわす。ダイエットしているという割りに効果はあまり出ていないようだが……と思っていたのを、視線から感じ取ったらしい。八重は恥じらうように頰を染め、胸元を搔き合わせると身体をよじって顔を逸らす。
「き、昨日からまたしてるのっ!」
「あ、そう……」
悟浄くんの禁煙みたいなものかな……。うちの悟浄君ももう何十回と禁煙に成功しているからね!
ともあれ、友人の頼みとあらば力を貸すのもやぶさかではない。わたしは八重の肩に手をやり、にこっと微笑む。
「わかった、八重。わたしも協力するよ」
ぱあっと八重の顔が輝く。
「すいません、このTボーンステーキっていうのと、アンチョビポテト、それからボロネーゼとマルゲリータ。あと、アヒージョ。食後に季節のシャーベットとジェラート三種お願いします」
オーダーを取りに来てくれた店員さんに手早く注文を伝える。
すると、八重の顔がどんよりと曇った。わなわなと震えている八重の口元にそっと指を当て、安心させるようにゆっくりと首を振ってみせた。
「大丈夫だよ。八重の分、わたしが半分食べてあげる。シェアしよ? そしたら、量もカロリーも半分こで二倍食べられるよ。……つまり計算上、四倍食べることができる」
わたしが右手と左手にそれぞれVサインを出して、いえーいぴーすぴーすにばいにばーいとアピールしてみせると、八重がはてと小首を捻る。
「えっえっ、……え?」
八重は混乱しているのか、わたしと同じように両手にぴーすで目をぐるぐる回し始めた。
やはりな。
昨日から何日かぶり何度目かのダイエットを始めたということは、今この瞬間相当お腹が減っているに違いない。糖質をカットした結果、なんだか頭が回っていない気分になっていることだろう。
そんなときに響いてくる「シェアしよう」とかいう提案。そう言われて断れる腹ペコ女子などいない。さぁ、心の枷を解くがいい……。
わたしの放った魔法の言葉に八重の身体がぐらつき始める。こうかはばつぐんだ!
「ううっ……じゃ、じゃあちょっと貰うね」
ふっ、落ちたな……。
わたしとて、伊達に中高六年間を女子高で育っていない。女同士の足の引っ張り合いは得意中の得意。ありとあらゆる手練手管と甘言讒言を用いて、友達のダイエットを阻止することこそが女の友情。
心せよ。得てして、人を堕落させる言葉は聞こえがいいものなのだ……。
美味しいご飯と美味しいご飯、美味しいご飯が待ってるだろなと適当な小唄を口ずさみつつ、運ばれてくる料理に舌鼓を打っていると、昨日の悟浄君のお説教のせいでダークネスになっていた気分も晴れやかになってきた。
ストレスが溜まったときは食べるに限る。主に八重が。八重、三度の飯より飯が好きだからな。結果、一日四回食べてるからな。知らないけど。
結局、八重も目の前のご飯の誘惑には勝てず、ちょっと貰うと言いながらピッツァとパスタをペロリと平らげていた。
八重を肥やすことにほの暗い喜びを覚えながら食べるご飯は非常に美味しく、わたしも八重も満足感を味わえてWin‐Winな関係と言える。
人を堕落の道に誘うのって気持ちいいなぁ……。
落ちていくときもみんな一緒だと安心感があるし、誰かがそこからさらに落ちていくともはや幸福感じるまであるよね!
「うん、満足した」
食事の締めに、俺たちの満足はこれからだと言わんばかりにジェラートを堪能していると、八重があっと思い出したように口を開く。
「そういえばね、今日、河口さんから教えてもらったんだけど」
「河口さん? 誰?」
「いっ、一緒にいたよぉ! 共演者だよぉ!」
「ほう……。何役の人?」
「えっと……。女子生徒、だけど」
ほーん、じゃあわたしたちと同じように、番レギュで呼ばれてる人かな。いまいち覚えがないけど。
「で、その河なんとかさんがなんだって?」
「河口さんだよぉ!」
ぷりぷり怒りながら八重はバッグからなにか取り出した。
「あのね、これ、一緒に行かない?」
八重が差し出してきたのは謎のA4用紙だ。そいつを受け取ってなんじゃらほいと目を通す。
ふむ?
「わーくしょっぷ?」
「うん」
ちらと八重に視線をやると、八重はにこにこ微笑みを浮かべている。
ワークショップってなんだろう……。作業着とか売ってそうだし、仕事ワクワクしそう。ついでに住み慣れた我が家で幾三が歌ってそう。いや、それはリフォームする方だな……。
「ふーん、ワークショップねぇ……」
ワークショップってなに? とは聞けない気位だけは無駄に高い、どうもわたしです。
そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、八重はのほほんと、ワークショップの話を続ける。
「勉強になるよーって言われて。良かったらちーちゃんも一緒に行かない?」
「……うーん、行けたらね」
行けたら行くとかいう万能の回答で誤魔化しつつ、そのA4用紙を隅から隅まで読み進めた。
そこから得た情報に加え、八重の発言から類推するに、どうやらワークショップというのは、ざっくり言えば勉強会とか研究会的なイベントのようだ。
「八重はワークショップ行ったことあるの?」
「ううん、ないよ。でも、いろんな人と知り合えるし、今回のは音響監督さんが主催だからスキルアップにもなるんだって。人脈も広がるよって言ってた」
「へぇ……」
人脈かぁ。……いい言葉だな!
金脈や鉱脈にも似た響きがあって、それさえあれば、会う人みんなお金に見えてくる素敵ワード。今やわたしの好きな言葉ランキング初登場一位。
おいおい、わたしが人脈なんて手にしちゃったら鬼に金棒どころかセーラー服と機関銃じゃん。機関銃さえあればどんな声優だって倒せちゃうよ、物理的に……。
そんな素敵イベントに誘ってくれるなんて、八重はいい子なの? わたしならそんなお得な情報独占してるよ! 共有するって素敵! 持つべきは有益な話を分かち合う友! 優しさのお裾分けをしてくれるなんて、この子の正体は『ペイ・フォワード』主演ハーレイ・ジョエル・オスメント君なのでは?
はっ!
いけないいけない……。人を堕落させる言葉は聞こえがいいものだってさっき自分で思ったばかりだぞ……。
そうやって言葉巧みにわたしを誘って、あんなことやこんなことするつもりなんでしょ! 悟浄君の持ってるエロ同人みたいに! エロ同人みたいに!
わたしは人の悪意からの言葉はほぼ百パーで受け取るが、善意からの言葉はまったく信じないことにしている。
なんの見返りもなく、美味しい情報を与えるなど考えられない……。
つまり、八重はまだなにか隠しているに違いない!
「八重は黒いなぁ……」
「黒っ!? く、黒くないよぉ!」
八重が両手をぶんぶん振って、否定する。その必死さが怪しい……。なにを隠しているのかしらと、もう一度ワークショップのお知らせプリントをじっくり読み返す。
すると、意外な落とし穴を発見してしまった。
参加費一回五千円……。三時間十回コース。なんだよ、金とんのかよ……。
さては、狙いはこっちかと、真向かいに座る八重に射貫くような視線を向けた。
「八重はわたしを紹介すると、何パー入ってくるの?」
「ま、マルチじゃないよぉ!」
はわはわ言いながら憤慨する様子は緑髪のちょっぴりドジなメイドロボみたいな感じで、あたかもマルチって感じ丸出しだ。
ますます怪しい。普通の女の子がこんなあざとい行動をとるはずがない……。
「その、私はちーちゃんと一緒に行ければなって思っただけで……」
困ったように指を組んでとつとつと拙い言葉で言い募る八重を、わたしはなおもじーっと見る。
すると、その圧力に屈したのか、やがて八重はこそっと目を逸らした。
「あ、えっと……。知らない人ばっかりだと、ちょっと心細いから、……ちーちゃんがいてくれたらなって、思ったんだけど」
八重はわたしの反応を窺うように、不安げな眼差しをちらと向けてくる。
拗ねたような唇はぽしょぽしょとウィスパー気味にけなげな言葉を紡ぎ、細い指先がほんのり染まった頰を搔く。わたしの視線から逃れようと身体はよじっているのに、上目遣いの濡れた瞳はわたしをとらえている。

やっぱり八重は黒だし、犯人はヤス。そういう可愛いお願いの仕方は男子になら通じるのだろうけれど、……わたしにも通じてしまうんだなぁ、これが。
ふっと短いため息を吐いて肩を竦めると、わたしは手を伸ばして、八重の頭をぽんと撫でる。
「まぁ、いいや。試しに一回だけわたしも行くよ」
「ほんとに?」
「うん」
「ありがと! ちーちゃん!」
八重は安心したようにほわっとした柔らかい笑みを浮かべる。まぁ、頼りにされるというのは悪い気分ではないな。
「んじゃ、そろそろ帰りますか。このプリント貰ってっていい?」
ぱぱっと手早く荷物をまとめながら聞くと、八重も同じく帰り支度を整えつつ、ぐっと拳を握って力強く答える。
「いいよ! ちーちゃんの分も貰っておいたから!」
「ありがと」
……しかし、こいつ、わたしの分まで貰っているということは、わたしが河なんとかさんに誘われないこと前提で動いているのでは?
そんな疑問を抑え込みつつ、さくさく会計を終えて、店の外に出るともう結構いい時間だ。駅で八重と別れて、電車に揺られることしばし。
八重から貰ったワークショップのプリントをもう一度見てみた。
まぁ、わたしもなにかしらはしなければ、とは思っていたのだ。どう考えたって今の日曜大工さながらの週休六日のままでいいはずがない。収入的にも将来的にも自尊心的にも。
このワークショップとやらに行けば、わたしに足りないものというのが手に入る気がする。
そう思うと、悟浄君の待つ自宅へ向かう足も軽くなるってなもんよ! ダッシュで帰ると、勢いよく玄関ドアを開ける。
「ただいま!」
「お、おう……。おかえり」
リビングへ飛び込むと、家着のジャージ姿の悟浄君がソファに腰かけ、ぽかーんとしていた。その油断が命取り!
「悟浄君! わたしに足りないものがなにかわかったよ!」
悟浄君の隣に座ってそう言うと、悟浄君は、はてなんの話やらと一瞬眉根を寄せる。が、すぐに思い至ったのか、ふっと苦笑した。
「ほう。ようやく気づいたか」
悟浄君がわたしに向き直る。思いのほか、まっすぐな眼差しには試すような色合いが強い。
それでも、すでに答えを手にしたわたしが怯むことはない。だから、真っ向から見つめ返し、胸を張って言ってやった。
「もうばっちり気づいたね。わたしに足りなかったもの、それは……、人脈!」
「違うんだよなぁ……」
悟浄君が肩を落として深いため息を吐く。……その態度はちょっとカチンとくるぞ。
「や、違くはないでしょ。わたし、人脈全然ないし知り合いとか超少ないし」
「お、おう。そうか……」
どうやらわたしの理路整然とした反論にぐうの音も出ないようだな! 完全論破! 完全勝利! いつだって勝利とは虚しいものです……。でも、敗北者のはずの悟浄君もどこか虚しげどころか憐れんでいるっぽい表情なのは気のせいでしょうか。
「今の答えは不正解だが、一応その回答の根拠を聞こうか」
疲れた顔の悟浄君が、頭痛薬をぷちっと一錠押し出すと、そのまま手元の缶ビールで流し込む。
そんなやれやれ……みたいな表情されてしまうとわたしもなにか言い返す気になれず、しぶしぶバッグから件のワークショップのプリントを取り出した。
悟浄君はローテーブルに置かれていた眼鏡をかけると、そのプリントをしげしげと眺める。
「ワークショップねぇ……」
「や、なんか八重に誘われてさぁ……。なんかね、音響監督が主催してて、そこに行くとコネになったり人脈に繫がったり、コネクション形成に役立ったりするんだって!」
「ワークショップ本来の目的からずれてるんだよなぁ……」
齧りたての知識をフルに動員して、悟浄君に説明してみるも、なかなか色よい反応は返ってこない。
こうなったら最後のダメ押しだ。
「いいじゃん、ほら、ついでにスキルアップにも繫がるし! だから、いいでしょ。ワークショップに行っても」
「うーん……」
悟浄君はプリントに胡散臭げな視線を向けて渋い顔をしている。まるで子供に進研ゼミをねだられている親みたいだ。
しばしの間、悩んでいるようだったが、やがてその紙をぴんと指ではじく。
「金の無駄だ」
「なっ……」
おかしい、進研ゼミならここで保護者が賛成して、学んだことがそのままテストに出て、試験にも合格、恋人もできて、その後の人生が保証される流れなのに! どうなってんのこの流れ! 流れ、滞ってるよ! 流れるのは個人情報だけだとでもいうの!?
混乱するわたしをよそに、悟浄君は煙草をくわえて、一服ぷかりとやる。呆れたようなため息とともに、とんでもないこと言いよりおった。
「お前が行っても意味ない」
「ぬぉっ……」
全否定。まさかの全否定。
ワークショップも、わたしのやる気も、わたしの人脈形成計画も、わたしの将来設計も、わたしの約束された勝利の剣も。
悟浄君は眼鏡を外すと、髪をかき上げ、ふーっと深いため息を吐いた。
そして、鋭い視線を向けてくる。
「千歳。こんなの行く前に、まず今いる現場でちゃんと学び取ることを優先しろ。目の前のことできない奴が新しくなんか始められるわけねぇだろ」
切れ長の目から放たれる冷たい視線が、氷柱のように突き刺さる。
悟浄君のこの目、苦手。
ドストレートのド正論に返す言葉などあるはずもなし。だいたい、正論というのは言うもの、振りかざすものであって、聞くものではない。
わたしはわなわなぷるぷる震える手で、ワークショップのプリントをひっつかむと立ち上がる。
「もういい! 烏丸ップはもう解散! 事務所から独立だよ! なんなら卒論も出してセンテンススプリングだよ!」
「お前はなにを言ってるんだ……」
「悟浄君のあほー!」
捨て台詞を残して、シャバダ〜っとダッシュで自室へと逃げるわたし……。
☆ ☆ ☆
烏丸ップ解散報道で我が家に激震が走って早数日……。気づけば烏丸ップは半ば空中分解、半ば冷戦状態に突入している。
この状況をどうにか打破すべく、わたしもわたしなりにわたしのやり方で解決を図ることにした。
冷戦状態を終わらせるには終戦させるのが正解! 情報を制すものが世界を制す。まずは悟浄君の外堀から埋めなくちゃ! 情報戦は乙女とアイドルのたしなみなのです。ターゲットは八重。
「八重、聞いてよ、悟浄君ひどいんだよ。今日のワークショップのこと、ざっくり切られたの! 無駄とか意味ないとか一言だけで済ませやがったの!」
「えっ……、なんかちょっと意外だねっ」
ワークショップが行われるスタジオへと向かう途中、そんな話の切り出し方をすると、八重はわたわたっとした様子で驚いていた。
ふむ、話の摑みとしてはまぁまぁかな。ここからさらにたたみかけて、世論を味方につけなきゃ!
「全然意外じゃないよ。その後もひどい言葉のワードローブがオンパレードだよ。他にも、ゴミカスとかクソ新人とか人生舐めプとか殺すぞとか!」
「その辺のは毎日言われてるような気がするよぅ」
案外冷静に返されてしまった……。こいつ、さては大手メディアに踊らされない賢いユーザーだな?
ちょっと話を盛り過ぎたかもしれない。反省しつつ、頭をこっつん作戦。そして、今度は適当なことを言って煙に巻くもくもく作戦です!
「うん、いやまぁ悟浄君はほら、口悪いって言うか、人の気持ちがわからないって言うか。……ね?」
「でも、烏丸さんってダメ出しするときはすっごい話長いから、なんか意外」
「あー……」
駅からスタジオまでの道のり、てとてとわたしについて歩く八重の言葉に思わず頷く。
悟浄君、褒めることは全然ないくせに、わたしを悪く言うときだけはやたらに饒舌だからな……。人の悪口言うときは生き生きしてるとかなんなの? 似た者兄妹なの?
「つまり、話をまとめると悟浄君が悪いってことだよね」
さくさくちょっきり話をまとめてうんうん頷くわたしに、八重があはーと苦笑する。
「そうじゃないと思うけど……。ちーちゃん、今、ケンカしてるの?」
「いや、ケンカとかじゃないから。あれだよ、例えるなら楽屋内でちょっと雰囲気が悪いとか会話しないとか、悟浄君が烏丸ップ内で孤立してるとかその程度の感じだよ」
「それはケンカじゃないのかなぁ……」
ケンカじゃない。
断じてケンカなんかじゃない。
……たぶんケンカにもなってない。
まぁ、しかし、それはそれとして、せっかくやる気を出したわたしに水を差さなくてもいいと思う。
先日のやり取りを思い出して、ぷりぷりしながらブーツを鳴らす。すると、八重もわたしに歩調を合わせて、パーカーをぱたぱたなびかせついてきた。
少々むすっとしつつ、駅から歩くこと数分。さしたる距離も行かぬうちに、目的地に到着する。かえでスタジオという少々古ぼけたスタジオだ。
階段をカンカン鳴らしながら三階まで上る。
重苦しい扉を開けば、そこにはざっと二十人くらいの人がすでにやって来ていた。どうやら参加者の中ではわたしたちが最後だったらしい。
「おはようございます」
わたしと八重が挨拶をして、ロビーの端に並ぶと、ちょうど出席者の確認をしていたらしい三十そこそこの小綺麗な格好をした女性が話しかけてきた。
「久我山さん。おはよう」
「あ、河口さん。おはようございます。今日はよろしくお願いします」
どうやら、この方が八重をワークショップに誘ってくれた河なんとかさんらしい。ぺこりと八重が頭を下げたのに、わたしも合わせる。
「烏丸千歳です。よろしくお願いします」
「ええ、よろしくね。それじゃあ、みんなブース入りましょうか」
河口さんに促され、わたしたちはぞろぞろとブースへと移動する。
ブース内に入ると、そこには薄手の緑のカーペットが敷かれ、壁際にはずらりと椅子が並べられていた。みんながその椅子を見た瞬間、ささっと素早く目配せが送られ、誰がどこに座るか、空気の読み合いが発生する。業界内でも椅子取りゲームしてるわたしたちは、ブース内でも椅子取りゲームをする運命にあるのです……。
が、そこはそれ。文字通り、業界の末席を汚しに汚しまくっているモブ界のヘドロこと烏丸ヘドロは、そんな空気の中でも我が物顔で入口すぐ横、端の席をゲットできるのである。烏丸ヘドロって我ながらひどいネーミングだな……。
そんなこんなでいち早く椅子取りゲームから一抜けを決めると、八重がわたしの横にすっと座る。
誰かが座ると、それを基準にしたように皆、めいめいに自分が座る椅子を定めて、すっと着席。
なんとなく、横の人と挨拶がてら軽いおしゃべりをし始めると、えふんえふんおほん言いながら、初老の男性がブース内に入ってきた。
すると、皆が一斉に立ち上がる。
「おはようございます」
別に揃えたわけでもないのに、綺麗にハモる挨拶に、その男性は軽く手を挙げて応えた。そして、もう一つ咳払いをして、ブースの正面中央に立った。
「えー、今日のね、講師をします、音響監督の恩田です。今回のね、ワークショップはジュニア対象ってことでね、みんな勉強になることもたくさんあると思うんでね、ぜひね、一つでも多くのことをね、学んで帰ってもらえればと思います」
恩田さんは、しゃべるときの癖なのか、文節を句切るように話す。小学一年の国語で学んだ『先生あのね』を思い出してしまったぞ。
「じゃあね、始めてこうと思うんでね、自己紹介してもらってね。あ、名前と事務所だけでいいから」
恩田さんが言うと、わたしとは逆サイド、ブースの奥側の人を「じゃあ、君からね」と指名する。
「あ、はい。アトリエプロの境田です。よろしくお願いします」
「たんぽぽこーぽの島田です。よろしくお願いします」
「同じくたんぽぽこーぽの町田です。よろしくお願いします」
一人立って座ればその隣が立って座る。そんなとてもゆっくりしたウェーブは順繰りにブース内を一周していく。
その後もどこそこの行田だの郷田だの相田だのと短い自己紹介が続く、少々退屈な時間が過ぎていった。暇だなぁと横を見やれば、八重は挨拶する一人一人の顔を見ては小声で名前を復唱し、覚えようと頑張っている。偉いな八重……。わたしなんて、事務所の名前さえも覚えらんないよ……。
というか、この業界、事務所の数が多過ぎるのではないかと思う。大きいところから小さいところまで実に様々な事務所があるのだ。それこそ俳優さんやお笑い芸人さんがいるような芸能界に広く知られた巨大事務所から、昔からある劇団、あるいは声優さんが個人で作った事務所まで、まぁ、多種多様。自称声優事務所まで含めたら、その数は百や二百ではきかないのではないだろうか。
世の中、わたしの知らないことがたくさんだなぁなどと、死ぬほど他人事感覚で皆様の挨拶を聞き流していると、覚えのある名前が耳に入ってくる。
「あ、はい! えっと、ナンバーワンプロデュースの久我山八重です。今日はよろしくお願いします!」
はわっとした第一声、はきはきとした口調、されど聞き心地はどこか甘い声音。
気づけば、自己紹介の順番はわたしの隣、八重までやって来ていた。んじゃ、わたしもちゃちゃっと済ませますかね。と、立ち上がろうとしたとき、ほう、と感心するような声がそこかしこから聞こえた。
「へぇ、ナンプロかぁ」
驚きにも似た感嘆を口にしたのは講師である音響監督の恩田さんだった。他にも、似たような反応をしている人が何人かいる。
なんだろ、うちの事務所ってなんかやらかしたのかな。あれか、社長が娘に会社継がせたいのに敏腕マネージャーが乗っ取りを企ててた、みたいなお家騒動でもあったのか。いや、ないと思うけど。
ともあれ、わたしもさくっと自己紹介を済ませておかなくては。静かなざわめきが収まるのを待って、よっこいせっと立つ。
「ナンバーワンプロデュースの烏丸千歳です。本日はよろしくお願い致します」
そうとだけ言って、またすっと着席。これでブース内にいる人は全員自己紹介を終えた。
恩田さんはうんと小さく頷くと、またぞろ咳払いを一つ。
「うん、じゃあ、よろしくお願いしますー。それじゃあ……最初は声出しもかねて、発声と滑舌の練習していこうか」
言って、小脇に抱えていた紙束から一枚を取り出す。ワークショップに来るにあたり、事前に渡されているDVDとプリント類の一枚だ。
そこには、母音全体の発声練習とか二重母音・調音の練習とかカ行発声練習とか鼻濁音練習とかいくつか項目分けされて、例文が載っている。
「では、最初から」
恩田さんが、すっとキュー出しをすると、皆一斉に読み始める。
「相生、葵瓜、家葵、野葵。天の宮の、お宮の前の飴屋にあんまと尼が雨宿り」
プリントの例文をまま読みながら、ふと懐かしさを覚える。養成所の基礎科にいた頃に、この手の滑舌練習をよくした。授業の中で触れたのは何度かしかなかったけれど、悟浄君を相手によく聞かせたものだ。その度に、死ぬほどダメ出しされたけど……。
まぁ、あの頃はまだ夢だの野心だの野望だの欲望だのといったものを抱いていたので、それはもう熱心にやっていたものだ。
それが今や残っているのは欲望だけという体たらく……。どうしてこうなったやらと思いつつ、出てきそうになるため息を声に変えて、つらつらと読み上げていく。
いくら早口言葉をつっかえずに読むことができたって、人気声優になれるわけじゃない。
だというのに、少し昔のわたしは外郎売の口上をうまく言えただけで、めっちゃ嬉しがっていたのだから、無知というか無邪気というか無邪気可愛いというか……。
そんな過去を振り返る心中とは裏腹に、例文を読み進める声はすらすらと先へ進んでいく。
「親亀の背中に子亀を乗せて、子亀の背中に孫亀乗せて、孫亀の背中に曾孫亀乗せて、親亀こけたら子亀孫亀曾孫亀みなこけた」
例文プリントの最後の項目、鼻濁音の練習までを終えて、ふーっと小さく息を吐く。
こうやって、提示されたものをただ読むだけならこの仕事も楽だったのになぁ……と首を捻っていると、周りの人たちも同じように首を捻っていた。中にはぷるるるるると唇を震わせて息を吐く人もいる。それを見てわたしももう一度首を捻る。なんだか、みんなあんまりな出来のような……。
そんな人たちを見て、恩田さんも苦笑い。
「はい、えー、これはみんなできるようにね、練習してくださいね」
その言葉に、みんなが威勢の良い返事をする。さっきまでのつっかえつっかえ嚙み嚙みの発声とは打って変わって、大変元気がよろしい。
「じゃあ、最初に配布してある台本と映像にあわせて、アフレコ実演行ってみようね」
言って、恩田さんがブースを出て、ミキサールームの方へと回った。
ようやく、ワークショップらしいことができるなとわたしが肩をぐるぐる回していると、隣に座る八重がちょいちょいと肩をつついてきた。なんじゃらほいと八重によりかかるように顔を近づけると、こしょっと耳打ちされた。
「やっぱりちーちゃんすごいね」
「は?」
ウィスパーボイスが耳朶をくすぐり、甘い香りが鼻孔をくすぐり、ついでに、自尊心までくすぐられて、わたしはついつい身を仰け反らせてしまった。
「や、別になんもしてないんだけど……」
半ばドン引きで言うと、八重はくすっと笑う。
「そういうところがだよ」
「はぁ、そう……」
よくわからんこと言う子だな……。不思議ちゃんキャラでも狙ってるのかな……。確かに売れるためにはそういうのも必要だと思うけど、今時はそういうの流行らないからやめた方がいいんじゃないかなぁ……と思いつつもけして言わないつつましいわたしなのでした。
なんて会話をしているうちに、ワークショップは着々と次のフェイズへと進行していた。
『それじゃあね、えっと、自己紹介してもらった順番でね、五人ずつ、実際にやってみようか』
ミキサールームからトークバックを介して、恩田さんの指示が飛んだ。
すると、何田さんたちだったか忘れたけれど、その何田さんたちがすっと立ち、マイク前へ向かう。
まぁ、二十人一気にアフレコ実演するわけにもいかないからな。となると、ここでも見学、地蔵タイムのわたし。
もはやわたしの職業、プロ見学者なのではなかろうか。
なので、いつも通り、ぼーっとアフレコ実演の様子を眺めていた。プロ意識発動しちゃうぞ!
モニターに映るのは線撮のV。おそらくはどこぞのつてを使って、借りてきたのだろう。きっちりボールドもあって、実際のアフレコさながらの映像素材だ。……いや、実際さながらっていうなら本来色ついているのが望ましいと思うんですけどね。
普段のアフレコ現場同様に欠伸を嚙み殺しながら、自分の順番が来るのを待つ。
それにしても、普段のアフレコに輪をかけて退屈だな……。やっぱり普段のアフレコはやらかすとまずいから緊張しているのかもしれない。
偉い人や先輩がいないというのは気が楽ではあるけど、時間が経つのが遅い。
おかげで、わたしは自然と聞き流し態勢に入ってしまう。というより、聞き流すほかない。
端的に言って、普段行っているアフレコ現場に比べると、まぁ、随分とアレなのだ。もっとも最前線で活躍している人たちと比べるのも酷な話ではあるけれど。というか、ここにいる時点で、わたしもそれくらいのレベルってことだな……。
などと考えつつ、ぼーっと見ていると、どうやらこのワークショップのアフレコ実演ではテスト、修正のディレクション、そして本番と流れも実際のアフレコを踏襲しているらしい。
一通り終わるまでやはり暇なわたし。それをもう二回ほど繰り返してようやく出番がやって来た。
『じゃあね、次のグループね』
恩田さんの指示に、わたしの並びに座っていた人たちが立ち上がる。
手にはしっかと台本が握られている。チェック用のVと台本は事前に貰っていて、どの役を振られてもいいように、すでに全部チェック済みだ。
マイク前にはわたしと八重を含めて五人。そのうちの一人、長身瘦せ形三十歳くらいの女性が口を開いた。
「配役決めましょうか。私は和美希望なんだけど」
その女性が一同を眺めまわす。視線はどこか威圧的で、半ば決定事項のような響きがある。それに気圧されて、わたしはつい頷いてしまう。
「は、はぁ。まぁ、良いのでは?」
「ありがとう」
わたしの返事に、女性はにっと勝気そうな笑みを浮かべる。
和美は一番セリフが多い役だ。実際のアフレコではセリフが多かろうが少なかろうがギャラ変わんないのに、わざわざ面倒な役をやってくれるのか……。
こいつさてはめちゃめちゃやる気勢だな!
とか思っていると、他にもいました。めちゃめちゃやる気勢。
「あの〜、私も〜、和美がやりたいんですけど〜。ていうか〜、幸子さんは〜、明美の方がキャラに合ってると思うんですけど〜」
なにやらもう一人がご立腹の様子で腰をくねらせながら異を唱え始めた。さらにもう一人も髪をかき上げてうんと同意する。
「暮石さんはー、明美の方がー、アピれると思いますー。あ、わたしはー、和美やりたいでーす」
間延びコンビに言われ、長身瘦せ形の女性、暮石幸子さんとやらは少しムッとする。
「じゃあ、じゃんけんね。他は和美希望いない?」
苛立ちの表情のまま、暮石幸子さんとやらはわたしと八重をじろっと見る。
先ほど良いのではとか言ってしまった手前、わたしに否があるはずもなく、八重もまた威圧されたようにこくこくと頷く。
それを確認すると、暮石さんはしゅっとシャドーボクシングをしてから、間延びコンビに向き直る。
「最初はグー、じゃんけんぽん!」
不意打ち気味に始まったじゃんけんは三度の相子を挟み、暮石さんの勝利に終わった。
すごい、単なるワークショップなのに、みんな役を取るのに本気なんだ……。
なるほどなるほど。
ワークショップは勉強になる。
……やっぱり役を取るには運と駆け引きが必要なんだな! じゃんけん練習しなきゃ!
などと。
頭の悪い現実逃避をしながらアフレコ実演に臨んだ結果、余り物の役をやらされたわたしの出番は即終了。
わたしたちのグループの実演が終わると、今度はミキサールームへと呼び込まれる。
そこで、ミキサー卓に座った恩田さんが計器類を示しながら、さっき録った音源を聞かせてくれた。
今はちょうどわたしたちが録ったシーンをリプレイしている。暮石幸子さんが演じた和美のセリフが流れてくると、恩田さんがストップをかけ、音の波形を示す計器をぽんと指差した。
「ここね、見て。さっきのセリフとね、シチュエーション全然違うのに波形似ちゃってるでしょ? ということはね、音の使い方でね、違いを表現できてないってことなんだね」
恩田さんがミキサー卓にあるトラックボールをくるるーといじると、モニターの映像もきゅるるーと巻き戻しになり、件のセリフの箇所がぱっと再生される。そして、再度波形を見せてくれた。
「ここね! ここ!」
言われると、みんな「なるほど……」みたいな顔をして頷いていた。おいおい、みんなわかったのかよ、ほんとかよ。すげぇな。……ほんとか? わたし、音の波形とか見ても全然わかんないぞ……。いや、この芝居がダメなのは聞いてればわかるけど。
もしかして、エリート集団に放り込まれてしまったのかとおののいていると、恩田さんがぱんと手を打った。
「じゃあね、ぼくが言ったことをね、意識してもう一回行ってみようか」
その笑顔に押されるように、ぞろぞろとブースへと戻っていく。途中、隣にいる八重にこそっと話しかける。
「……さっきのわかった?」
「え? うん」
八重はなんでもないことのように答えた。
「そ、そっか……。わたし、波形とか気にしたことないからよくわかんなかったんだけど……」
ひょっとして置いてかれているのではという不安が頭をよぎり、正直に話してみる。すると、八重はほえーという顔で聞いていたが、ふいにくすっと微笑んだ。
「ちーちゃんらしいね」
「ははっ、そうかえ……」
思わず乾いた笑いが出てしまった。
わたしらしい、とはいうものの。わたしがわたしらしくあるがために、足踏み状態になっているのもまた事実なのであるからして……。
思い悩んでいると、八重も小首を傾げて考え考えしながら口を開く。
「ちーちゃんは感性でやってるっていうか、感覚型? みたいな感じだから、気にしなくてもいいと思うよ。できてるんだし」
むんっと胸の前で両の拳を握って八重が励ましてくれる。
「そうかなぁ……」
「そうだよ! 感性の人だよ!」
八重はにこぱーっと弾けるような笑顔でそう言ってくれるのですが、それはもしやわたしが理論を理解できないアホの子だと遠回しに言ってやしないでしょうか……。
いや、実際アホの子なんだろう、わたしは。今までなんとなくやってきて、なんとなくできてしまったから深く考えることがなかったのだ。
八重にアホの子呼ばわりされても仕方ないな。いや仕方なくはない。許さん。
まぁ、波形とかは今度っから気にするということで、まずはわたしがわかる範囲のことをやろう。
キャラのことよく考えて、話を理解して、ちゃんと演じる。それがわたしのわかることすべて。
……それって、いつもやってることと同じなような。わたしって進歩ないなぁ。
そう思いつつも、再度のアフレコ実演に臨んだ。
ブース内に戻って、再びマイク前に立つ。
目をつぶって、ふーっと深い息を吐いた。
いつも通りのやり方だけれど、少しだけ、考えてみる。
シチュエーションが違うなら、当然、音の使い方も異なる。同じようなセリフや語尾であっても、音が変わるのは当然だ。仮に、音の波形が同じであったとしても与えるニュアンスには変化があるべき。
意識すること、それだけで言葉の響きは確かに変わる。
もう一度、目をつぶったまま深呼吸。
さっきまでの芝居を忘れるように、大きく息を吐いてからゆっくり目を開く。
そして、台本を読み直し、さっき見た映像の表情や位置関係、相手が言ったセリフ、話の流れを思い出す。
まっさらになった心の泉に少しずつ、違った形の石を放り込んでいけば、自然、さざ波が起きて、波紋が消える。その姿を克明に思い描く。
これで準備は整った。
モニター上のキューランプが灯り、Vが流れる。
キャラが動く。相手がセリフを言う。物語は進んでいく。彼女たちの心も加速していく。
感情の泉は揺れ、石が飛び込む。水は色づき、形を変えて流れ出す。
そうしてこぼれ出てくるセリフを、マイク前で口にした。
ボールドが消え、わたしはマイク前からさっと下がる。
……たぶん、これで合っているはず。
自信があるわけじゃない。それでも、手ごたえはある。少なくとも、わたしの中では合っている。
そんな実感を抱きながら、シーンが終わるのを静かに待つ。
やがて、そのシーンを録り終えると、トークバックから恩田さんの声がかかった。
『はい、いただきましたー。えっと、そうね。まず暮石さんね、うん、良くなったね。うん、今後もね、さっき言ったこと意識してね、継続して練習してください』
恩田さんが柔らかな口調で順々に講評を述べていく。続いて、間延びコンビにも似たようなことを言って、ようやく八重の番。
『えっとね、それから久我山さんね』
「は、はい」
沙汰を待っていた八重が緊張したように返事をする。が、続いて恩田さんが口にしたのは意外な言葉だった。
『あとね、烏丸さん』
「は、はぁ」
急に呼ばれて、つい身構える。
すると、ガラスの向こうからはうんうんと上機嫌そうな声が聞こえてきた。
『とても良かったねぇ。やっぱりナンプロはちゃんとしてるね。これからもね、その調子でね、頑張ってください』
「あ、ありがとうございます」
意外な言葉にぽかーんとしつつも、なんとか答える。口にした後、微笑みが遅れてやって来た。
八重と顔を見合わせると、えへへと照れ笑いが漏れてきた。
褒められれば当然悪い気はしない。それが普通だ。そのあたり、わたしは結構俗人というか凡人というか普通なのだ。
特別じゃないどこにでもいる苦しくったって悲しくったって涙が出ちゃうごくごく普通の女の子、わたし烏丸千歳。なので、むしろもっと褒めて伸ばして敬い崇め奉るべきだと思う。
恩田さんはダメ出しするにしても、基本褒めてくれるからとても良い気分。指導者はかくあるべきですね。なーんだ、ワークショップ、結構いいところじゃん。ちょろいちょろい!
そんなこんなで、ワークショップは三時間程度で終了した。
いやー、これでわたしも恩田さんに認められたわけでお仕事ごりごり来ちゃうな。わたしの人脈コネクションがついに始まったな。
なんて、考えながら、よっこらしょっと席を立とうとすると、どどどどどっと人の群れがブースの出口に殺到していた。
なに、みんなそんなに早く帰りたいの? と不思議に思いつつ、わたしと八重もその後に、続いてブースを出た。
すると、ロビーでは、音響監督恩田さんの前に長蛇の列ができていた。
先頭では、暮石幸子さんがすすっとなにやら取り出して、平身低頭してらっしゃる。
「オフィスはうすの暮石幸子です。今日はありがとうございました。ほんとすごい勉強になりました」
言いながら、そっとなにかを渡している。
どうやら、プロフィールや名刺、ボイスサンプルCDの詰め合わせらしい。見れば、後ろに並ぶ人たちも同じようなものを用意していた。
へぇ、そういうの持ってるんだぁとか感心していると、最初に挨拶を終えた暮石さんがふふんと肩で風切ってやって来る。その場に棒立ちしているわたしと八重に気づくと、怪訝な顔で声を掛けてきた。
「あら、あなたたちはご挨拶しなくていいの?」
「え、や、ご挨拶はする気ですけど……」
「ふーん……。もしかして手ぶら?」
答えたわたしの手元を見て、暮石さんはやれやれとため息を吐く。
「そんなんじゃダメよ。あなた、ここになにしに来てるの? 名刺、プロフィール、ボイサン持ち歩くのは常識。こういう地道な営業活動ができるかで差がつくんだから」
ふふんとドヤ顔で暮石さんは言う。差がつくという割りに、みなさん同じことやっているように見えるのは気のせいでしょうか……。
ともあれ、みんながやっているのに、わたしがやっていないというのは確かに差がついているとは言える。
でも、ボイサンなんて、そんなの持ってきてないぞ……。持ち物欄に書いといてよ!
うむむと唸っていると、同じように困り顔の八重がわたしの袖をくいと引く。
「ち、ちーちゃん、私たち、どうしよっか」
「て言っても、なにも持ってないし……」
わたしの笑顔があれば充分じゃない? そんなことない?
はて、どうしようかしらと思っていると、スタジオ入口のドアがきいと開く。
「お、ちょうど終わったみたいですね。恩田さん。お店押さえてきましたよ」
言いながら入ってきたのは、このワークショップに誘ってくれた河なんとかさんだった。
一声掛けると監督は列の相手もそこそこに、ポケットから取り出した封筒を河なんとかさんに手渡した。
「ありがとう。あ、そうだ。今日手伝ってもらったお礼」
「はい、毎度。まぁ、なにもしてないんですけどねー」
言いながら、封筒の中身をひいふうみいと数え始める河なんとかさん。どうやら謝礼の類らしい。
ほー、ブース内で見かけないと思ったら、河なんとかさんは手伝いに呼ばれて来てたからだったのか。
などと、納得していると、監督が列の前に戻ってきた。
「それじゃ、続きはお店でいいかなー?」
言うと、その場にいた人たちから「いいともー」みたいな良いお返事が返ってくる。
……これ、わたしも行かないとまずいのかな。レッツ・飲みニケーション?
思いつつ、隣を見やると、八重も緊張の面持ちで頷きを返してくれた。
☆ ☆ ☆
飲みニケーション!
なんていうと、今時の若者は敬遠してしまうかもしれない。いや、俺もまだまだ今時の若者ではあるけれど。
なんなら、今さっき仕事先から帰ってきたばっかりで、ようやくできた自由な時間を満喫しようとしている今時の働く若者だ。
最近の若い世代は自身の余暇を重要視する傾向が強いとも聞く。それが飲みニケーションに対する忌避感にも繫がっているのかもしれない。
だが、その飲みニケーションとやらが、この業界ではまだまだ有用であることも事実。
もっとも俺のようなマネージャーが参加するのは、上司に無理矢理連れていかれるような類のものではない。
マネージャーが行く飲み会は、たいてい横の繫がりで呼ばれる。いわば業界飲みとでも称すべきものだ。
その業界飲みは事務所関係の同業だけでなく、業界の様々な人がやって来る。
例えばメーカーのプロデューサーさん、宣伝さんやアニメ雑誌・声優雑誌の記事を書くライターさん、ラジオの構成作家さん、スタジオの音響制作担当さんなど、まぁ、多岐にわたる。
けれど、接待や営業というほど大げさではなく、ただ、現場で顔を合わせる人たちとの情報交換やねぎらい、懇親会の意味合いが強い。
一方で、情報交換とはつまるところ、情報戦の始まりを意味することでもある。
故に、その飲み会に呼ばれるということは戦場に赴くことと同義だ。
まぁ、そんなわけで……。今日も、その戦場への召集令状が届いてしまった……。
ハンガーにつるしたばかりだったジャケットのポケットでぶるぶるとスマホが震える。
確認してみると、付き合いのあるメーカーP、畑中さんからの「今夜新宿どう!?」という簡潔極まりない飲みのお誘いメッセージ。
俺の返信は決まっている。
『五秒で行きます』みたいな謎のスタンプを送信。
グッバイ余暇。ハロー飲み会。
まだ、温もりの残っているジャケットをハンガーから引っこ抜いて、ばさっと羽織る。
スーツという名の戦闘服に身を包むと、革靴をつっかけ、すぐに家を出た。
そのままてくてく駅前まで急いで歩く。ここから新宿なら西武線で一駅。すぐに着く。
できることならゆっくり休みたかったが、そうも言っていられない。
うちのような中堅どころの事務所は役者だけでなく、事務所そのもの、ひいてはマネージャー個人もアピールしていかなければならない。
ましてや、ナンバーワンプロデュースは独立独歩の気風がある会社だ。しがらみが少ない分、代わりにコネクションも弱い。
レコード会社の傘下なわけでもなければ、パッケージメーカーと業務提携しているわけでもない。グループ組織に専門学校があるわけでもない。一応、養成所を構えてはいるが、純粋な声優育成のためだけで、それがコネとして機能するわけではない。
だから、当社ナンバーワンプロデュースと業界を繫ぐのは、横の繫がりとこれまでに積み上げてきた実績だ。
幸い、社長である難波さんが適当な人というか、ちゃらんぽらんというか、ノリと勢いだけはある人なので、業界内では難波社長というキャラクター性によって会社のことを覚えてもらうことが多い。
名前や存在を覚えてもらえさえすれば、うちの役者は実力者が粒ぞろい。仕事を勝ち取っていける。
事務所と傘下の養成所の規模は小さいながらも、否、小さいからこそ、育成に関してはかなり厳しく絞っている。
だから、不肖の妹、烏丸千歳も、地力に関してだけは、あるはずなのだ。
だというのに、なぜあいつはそれを素直に伸ばさないのか。いつもいつも横道に逸れおってからに。
まぁ、ワークショップに行くと言い出しただけ、進歩といえば進歩だろう。もっとも、その動機が不純なのが問題なのだが。
千歳は人脈やコネというものについて、根本的な勘違いをしている。
だが、言って素直に聞くような奴でもない。
やってみせ、言って聞かせ、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ。五十六ちゃんの言う通りだ。
電車に乗る前、駅前の広場で足を止める。
喫煙所で、煙草に火をつけて、生け垣に絡みついた季節外れのイルミネーションを眺めた。その電飾は繫げて、光るからこそ意味を成している。
ふーっと、ため息交じりに煙を吐いた。
人脈というものの、本当の使い方。
俺自身が示さなければ。
☆ ☆ ☆
かえでスタジオ近くの居酒屋はわいわいがやがやと賑わっている。
ワークショップ後に、そのまま一行がなだれ込み、あれよあれよという間にみんなすっかり出来上がっていた。
わたしと八重はまだぎりぎりお酒が飲めない年齢なので、ずっとウーロン茶だ。おかげで、いまいちその輪の中に溶け込めない。
ぱっと眺め見るに、どうやらワークショップに来ていた人たちは皆わたしたちより年上らしい。
平均年齢はざっくり二十代後半から三十代前半といったところか。つまり、わたしと八重はこの飲み会の場で最年少というわけだ。
……ところで、この日本社会においては、最年少の者が飲み会で必ずしなければならないことがあるのをご存じだろうか。
料理やお酒の手配? 下座に座ること? 酔った人間の介抱? それともかくし芸や一発芸?
うんうん、確かにそういうのも必要とされるかもしれない。でも、いずれもケース・バイ・ケース。必ずってわけじゃない。
では、正解はなんだろうか。
それはずばり!
目上の人から説教をされること!
そんなわけで、わたしも八重もがっつり暮石幸子さんと間延びコンビに捕まって、がっつりなにか語られてしまっていた。
わたしの正面に座る暮石さんは良い感じにお酒が回ってきたのか、頰を紅潮させて、だんっとジョッキを勢いよくテーブルに叩きつける。
「でも、事務所の言うことだけを真に受けてちゃダメだよ。自分で考えて動かないと」
「ですよね」
エイヒレを齧りながら素直に頷くわたし。いやほんと悟浄君の言うことを真に受けてちゃいけない。わたしはわたしでちゃんと考えて行動するべきなのである。
すると、はす向かいに座っている間延びコンビの片割れがピスタチオをぱきっとやりながら暮石さんを指さした。
「幸子さんの言うこと超わかるー。やっぱり私たちってもうプロなわけじゃないですかー?」
「それある〜」
横から間延びコンビのもう一人が枝豆をぷつっとやりながら合いの手を入れた。おかげで、暮石さんもノリノリになってくる。
「そう。プロなわけ。個人事業主だし、誰も守ってくれないから全部自分でやらないといけないの。アゴアシも自分持ち。営業だって自分で掛けなきゃ」
「アゴアシ?」
聞きなれない言葉にわたしと八重が首を捻ると、暮石さんはぺちーんと自分のおでこを叩いた。なんて鬱陶しいリアクションなんだ……。
「あーごめ。つい出ちゃった。業界用語」
「アゴは食事代でー」
「アシは交通費ね〜」
間延びコンビが揃って解説してくれる。ほう、なんかそれっぽい言い方だな。覚えておこう。
心のメモ帳に深く刻み込んでいると、暮石さんは景気よくもう一杯呷る。
「なんの話してたっけ。あ、そうだ。だからセルフプロデュースが必要なわけ。ほら、実力通りじゃない世界じゃん?」
「ですね」
またしても素直に頷くわたし。ほんと世界はいつになったらわたしの真価に気づくのか。わたしは悪くない、社会が悪い。
「セルフプロデュースってどんなことすればいいか、難しいですよね」
八重が両手でグラスを抱えながらぽつりと言う。すると、間延びコンビがここぞとばかりに前に出てくる。
「それは〜、SNSで情報発信とか〜」
「こういう場でー営業掛けていくとかー?」
「やっぱりきっかけが大事なワケ」
最後に、暮石さんが引き取って話をまとめる。そして、すかさず八重がわぁっと感嘆の声を漏らしてぱんと手を打った。
「なるほどぉ」
無垢な笑顔を向けられて、暮石さんもふっと先輩らしい優しい微笑みを浮かべる。
「だから、こういう集まりとかワークショップは久我山さんのプラスになると思うよ」
「人脈大事だよね〜」
「やっぱりコネがあるとないとでは全然違うからー」
間延びコンビが続けて言うと、八重は真剣な顔で頷く。
「勉強になります」
うんうん、いやー、ほんと勉強になるなぁ。と、わたしも頷く。あとは具体的、かつ効果的な方法論が提示されさえすれば完璧だな!
というわけで、その具体的な部分を聞き出そうとずいっと体を前に倒す。
すると、それに気づいた暮石さんがわたしの肩をぽんと叩いた。
「まぁ、あなたも頑張りなよ」
「はいッ! ……はい?」
あの、具体的な方法を教えてほしかったんですけど……と、思ったのもつかの間。
「ナンプロも有名どころの事務所だけど、それに胡坐かいてちゃダメだよ、絶対。ナンプロって新人の面倒あんまり見ないって聞くし。今いる人たちの稼働に精一杯じゃん?」
暮石さんは話題を少しずつスライドさせ、気づけば、事務所批判になっていた。おお、じりじり寝技に持ち込むとかさすがだな、幸子グレイシー。
しかし、残念。
事務所批判はわたしのもっとも得意とするフィールドなのだ。ナンプロの悪口でわたしに勝てると思うなよ!
「ほんとナンプロ最悪ですよ! わたしみたいな新人を育てる気全然ないっていうか! 大きいの経験させないと伸びるものも伸びないじゃないですか!」
水を得た魚、あるいはグラウンドに持ち込んだグレイシーのごとく、果敢に攻めるわたしに幸子グレイシーも応じてくれる。ジョッキをぐびりとやると、煙草に火をつけ、物憂げな所作でふーっと薄荷の香りが混じった煙を吐き出した。
「でしょ? 私もそういう話聞いてたから、ナンプロ入るのやめようと思ってさぁ。オーディション受けるにしても、やっぱり、自分の子飼いに回しちゃうからこっちには仕事来ないらしいじゃん?」
「ありますあります、わたしも番レギュ行ってもそれきりみたいな! そこから繫がらないみたいな!」
話を合わせてそんなことを口走ると、途端に空気がひやりとした。
「ふーん、まぁ、そうだよね」
暮石さんが目を細めて、わたしを薄眼で見た。その視線はメンソールが含まれているように冷たい。
「……へぇ」
「ま、そうそう繫がるものじゃないしね」
間延びコンビはわたしから視線を外し、手元のスマホをちらと見ている。
っべー。
なんかミスったっぽい……。あの間延びコンビの声も今は間延びしてないし……。
地雷はどこだったんだろうかとマインスイーパーしてみると、ふと気づく。
たぶん番レギュってとこかな……。
わたし自身、アホほど仕事してないので忘れがちなのだが、毎週現場に呼ばれるだけでもたいそうなものなのだそうな。
いかんいかん、愚痴風自慢に聞こえてしまったかもしれない。悟浄君をはじめとして、わたしに対する世間の評価が低過ぎるから、つい自虐的になってしまうんだよな……。
わたしは案外なかなかそれなりにデキる子! すごいすごいわたしすごい!
……すごいわたしがなぜこの人たちに気を遣わなきゃいけないのだろうか。という疑問はグラスの中身と一緒にごくりと飲み干すわたしはやっぱりすごい。
だが、もっとすごい奴がいた。
「うーん……」
わたしの隣に座っている八重が困ったように口元をもにゅらせてからはぁとため息を吐いた。
「呼ばれても印象うまく残せなきゃダメなんですよね……。営業頑張らなきゃって、今日、すごくそれ感じて……。こういう機会あんまりないので、すごく勉強になります!」
最後はぱぁっとにこやかな微笑みを浮かべ、きらきらの眼差しを暮石さんたちに向ける。すると、暮石さんもうむと頷いた。
「うーん、まぁ、最後は個人の勝負になってくるからねー。だから、セルフプロデュースが大事だなぁって私は思うの」
「そうやって人脈作らないときっかけもこないし〜」
「きっかけがあればあとはコネがもの言うって言うんですかー?」
そうして、話は無事にループし始める。
おお……、八重ナイスフォロー。お主なかなかやるな。ぽんと肩を叩き、八重の健闘を称える。
「え、な、なに、ちーちゃん……」
八重はぎょっと驚いたようにわたしを見る。ははは、謙遜するなよ。さすがは闇属性の女。闇の女子力が高過ぎる。
八重も仕事量的にはわたしと大差ないはずだが、この飲み会の場でのリアル立ち回りはさすがだ。あくまでも互いに褒め合うという基本を忘れていない。
ありがとう、八重。わたしも思い出したよ、乙女心ってやつを……!
ここでわたしがすべきことは自分を下げる会話でも、相手を上げる会話でもない……。
わたしはグラスを置くと、口元にそっと手をやり、真剣な面差しを作る。そして、深刻な口ぶりで話し始めた。
「……確かにそうなんですよね。わたしもですけど、今の若い子ってそういうの学んでない感じします。なんか、軽い……、っていうか」
などと、さも重々しげに、めっちゃ軽い中身のない話の切り出し方をするわたし。
「あー、基本がなってない子多いからね」
誰ぞ具体的に思い描いているのか、暮石さんは不機嫌そうにふっと煙を吐く。切り込んでいくならここだなと確信を込めて、わたしは言葉を継ぐ。
「アニメ観てても、あれ? って思うときありますよね。滑舌甘いのにいいのかな、みたいな。けど、たくさん出てる人だしって思うと、ちょっとわかんなくなっちゃって……」
「いるねー、そういうの。ね?」
暮石さんが並びに座っている間延びコンビに話を振る。すると、二人はあらぬ方向を見て首を捻った。
「え〜? います〜? あ、もしかして苑生百花とか〜?」
「柴崎万葉とかですかー?」
すっとぼけて見せた割りに、ばっちり個人名を出してくれる間延びコンビ。この二人もなかなか闇の女子力が高い。
ちなみに苑生百花は現役女子高生ながらアーティスト活動もバリバリこなす人気声優で、わたしが今出ている作品ではメインヒロインを務めている。柴崎万葉はよく知らないが、八重に聞いたところ若手の注目株で、実力派の呼び声が高いのに、グラビアアイドル並みのルックスを誇るチート声優らしい。
「まぁ、二人とも話題性が先行しがちだから、逆に可哀想だよねぇ。芝居で勝負させてもらえてないっていうか」
暮石さんが言うと、間延びコンビがうんうん頷いて続いた。
「あ〜、わかる〜」
「やっぱり芝居で勝負したいですよねー」
そして、話は苑生百花と柴崎万葉についてへとシフトしていく。
ふははは! 共通の敵を作り出す作戦はうまく行ったみたいだな! これぞわたしが女子高時代に培った闇の女子力の真骨頂よ!
自分よりも相手よりもはるかに格上の声優を槍玉にあげればみんな仲良し! 苑生百花や柴崎万葉に比べれば、わたしも暮石さんも間延びコンビもカス同然! この話題なら、まったく同じ土俵で話すことができる!
古人曰く、三人寄れば他人の悪口とも言う。
悪口は世界語。英語もエスペラント語も目じゃないぜ……。
うまいこと、場の雰囲気を盛り返したところで、すっとお手洗いに立った。
洗面台で自分の顔を見ると、頰がひくひくと引き攣っている。ずっと笑顔を作っていたから、表情筋が硬直してしまった……。
薄い扉の向こうからは、飲み会のどんちゃん騒ぎが遠く聞こえる。
「はぁ……」
おかげで、自分の疲れたため息がやけに大きく響いた。
☆ ☆ ☆
男ばかりで飲んでいると、だいたい話す内容は仕事のことに終始しがちだ。ことに、仕事の付き合いで知り合った相手であればなおのこと。別段、仕事が好きで好きでしょうがないからそれについて話すというわけではなく、互いの共通点だからというのが大きな理由だろう。小さな理由としては、プライベートな話に踏み込むタイミングを計りかねているからというのもあるかもしれない。
……まぁ、他にも理由はある。
たまに仕事関係の真面目な話題を放り込んでおかないと、気づけば下世話な方向の話をしていることがままあるからだ。往々にして、気づけば下ネタか、ギャンブル含む金儲けの話か、釣りやらミニ四駆やらの趣味の話しかしていないときがある。疲れているときの飲み会なんて、八割くらいが下ネタだ。
……男はいくつになっても男の子だからね、仕方ないね。
もっとも、気軽に下ネタが言い合えるようになれば、ある程度、仲は深まっているとも言える。やだ、男子ってほんとバカ。もし、ここに委員長がいたら、帰りの会でつるし上げられているところだった。
幸い、今はメーカーPの畑中さんと、その下についているAPの岡島さん、出版社編集の高橋さん。そして俺と男性四人しかいない。女性の音響制作の方もいらっしゃっていたが、明日早いとかでもうお帰りになられている。
ふと時計を見ればそろそろいい時間だ。岡島さんなんてさっきからうつらうつらと舟をこいでいる。
酒杯を重ね、口もだいぶ滑らかになってきたところで、思い出したように畑中さんに話を振ってみる。
「こないだオーディションの話だけ来てた今度のあれってもう音楽決まったんですか?」
聞くと、畑中さんはすぱーと煙草を一吸いしてから軽く首を捻った。
「ああ、まだ伝えてないんだっけ。えっとね、ローゼズさんだよ」
レコード会社、ローゼズはアニメの音楽事業においては有名どころだ。パッケージの発売販売、あるいはグッズ商品化等の機能を持たない分、少ない出資比率での委員会参画を武器に、一クールに何本ものアニメのOP/EDを担当するフットワークの軽さが特徴的だ。もう一つ大きな特徴として挙げられるのが、声優アーティストをあまり嵌めてこない点。OPかEDにキャラソンを切ってくる可能性はあるが、少なくともキャストが主題歌ありきで決まらないことはわかった。
「あー、音楽、ペイタックスさんじゃないんですね」
「まぁ、リスク分散だね。九頭さんとこは販売だけやってもらうんだ。あとは、商品化でどこか入ってもらうくらいかなぁ」
畑中さんの口ぶりから察するに、委員会メンバーは畑中さんのところとローゼズ、そしてペイタックスの三社。ちなみに九頭さんはペイタックスのプロデューサーで俺も何度か仕事をしている。
委員会組成と提供スポンサーの座組を聞く限りでは養成所や専門学校も入っていない。
ということは、キャスティングにおいては比較的しがらみの少ないタイトルだ。
だったら、うちの事務所にも勝負の目はある。
「今度のって、あれ? もしかして一ツ橋のラノベ原作のやつ?」
出版社の高橋さんがたこわさに箸を伸ばしながら聞くと、畑中さんがなははーと苦笑いする。
「いやーそうなんですよ」
「あー、そりゃ大変だ。あそこの編集長、戦闘民族だからねぇ……、うまくハマるといいけど」
「いやほんとまったく……。いえ、その分、頑張ってもらえるからいいんですけどね」
よその会社のことだからかニコニコ楽しそうな高橋さんに比べて、畑中さんの表情はどこか暗い。
ふむ……。これはなにかあるな。素知らぬ顔でほーんとかなんとか相槌打って聞いてみるか。
「そんなに大変な原作なんですか?」
「うーん……。まぁ、ね。なんというか、先生が職人肌っていうか……。本読みからなにからちょっと大変かも。もちろん、その分面白い作品なんだけどね?」
畑中さんは煙草をもみ消し、言葉を選びながらそんなことを言う。
「へぇ、それじゃあ、アフレコも結構かかりそうですねぇ……」
「うん、そうなるかも。そうなったらよろしくね」
畑中さんが冗談めかして、俺の腕に縋りつきゆさゆさ揺すってきた。それに俺もありがちなマネージャージョークで返す。
「いや、俺ができることないですよ。それともワンチャン俺出ちゃいますかー?」
「お、烏丸悟浄の復帰作? いいじゃんそれー!」
高橋さんがガハハ! と大笑いする。いっけね、俺の場合、普通にギャグにならねぇんだった。
「良くないですよ! うちの社長、たまにマジな顔で言うんですから。どうせ現場にいるならユー出ちゃいなよ正社員なら定額使い放題だよっつって」
「難波さんらしいなぁ」
適当ぶっこいたフォローに畑中さんがくつくつと笑みを漏らすと、どこか遠い目をして言葉を継ぐ。
「でも、音監、宍道さんだから、烏丸君とは相性良かったかもね」
宍道さんは俺も役者時代にお世話になっている。あまり主張が強いタイプではなく、原作や監督の意を汲みながら、手堅い演出をしていく人だ。
ほーん、これはいいことを聞いた。
原作者が脚本会議にも出てくる本腰の入れよう、そのうえ、編集長が武闘派。さらに、音響監督が調整型の人。となれば、ますます政治キャスティングの色合いは薄くなる。
キャスティングの力学は複雑だ。誰か一人の権力では決まらない。
キャスティング決定の権限を持つ権力機構は大きく分けて三つ。
一つは原作サイド。原作者や編集が希望するキャストの名前を挙げる。これは想像しやすいだろう。
もう一つは製作委員会サイド。つまりはパッケージメーカーやテレビ局、レコード会社。あるいはここに原作出版社やゲーム原作メーカーが入ることもある。この人たちは出資や提供、つまるところ、アニメの制作費から宣伝費からすべてを出す人々だ。お金を出すということは口を出す権利があるということに他ならない。自分たちのお金で作るのだから、決定権が大きくあって当然だ。なにより、身銭を切って商品を売らなければならないから、売り上げが見込めるキャスティングにしたいという力学が働く。
そして、残るもう一つが監督や音響監督等のスタッフサイド。有名監督のオリジナル作品だったりすれば、無論、原作者としての側面も持つ。
業界のそこかしこで、音響監督に媚びを売れ、と教える人がいるが、それだけでは大きい役は取れない。端役やモブならありうるかもしれないが、メイン級のキャストについては、多くの利害が絡むのだ。故に、音響監督にメインキャストの采配、全権が与えられることはほぼない。話し合う中で、意見を出すことは当然ある。それが採用されることもあるだろう。だが、一種の合議制を取ってアニメ制作が進められる以上、音響監督の独断だけで決まったりはしない。……ごくごく一部に例外もあるが。
いろんな人たちの希望や思惑が複雑に絡み合って、キャスティングは決まっていく。
そして、忘れてはいけない要素がスケジュールだ。
声優個人のスケジュール。音響監督のスケジュール、収録スタジオの空き状況などなど。
仮に全員一致でキャストを選んだとしても、そのキャストのスケジュールが合わなければ諦めざるを得ない。そうした種々のスケジュールのパズルを嵌めて、初めてキャスティングは完了する。
いつも思惑通りのキャスティングができるとは限らない。そういうときにこそ、新人にチャンスが巡ってくる。新人くじやチャレンジ枠などと冗談めかして言われるが、そうした部分は確実にある。
新人はやる気がある、一生懸命やる、化ける可能性がある、スケジュールが取りやすい、イベント等の稼働があってもギャラが安い等々の理由で、使う側も実力不足実績不足についてはある程度まで目をつぶり、懸けてくれる。
そういう意味合いにおいて、今度のオーディションは千歳にとっても、片倉さんや久我山にとっても、狙い目だと言える。
最初のきっかけをつかめるかは一つの試練。
一つハマればその仕事が次の仕事を呼ぶ。業界でコネや人脈と呼ばれるものの正体の多くは、これだ。
実績が実績を呼ぶのだ。売れたものがさらに売れる、というのが正しい。並ぶラーメン屋にこそ人は並ぶのと同じこと。なんのことはない。誰しも勝ち馬に乗りたいのだ。
実績こそが最大のコネクションだ。
実際に会わなくとも、作品は人を繫ぐ。
というのが俺の経験則なわけだが、例外も多く存在するのがこの業界。
誰か一人の鶴の一声で決まることもある。
故にキャスティングは常にケース・バイ・ケース、タイトル・バイ・タイトル。
昨日通じたことが今日通じないことも多々ある。たった一つの答えなどありえない。
だから、俺ができるのは少しでも正解率を上げようとすること。
そのために必要なのが情報だ。今度のオーディションで必要と思われる情報はおおよそ手に入った。
集めた情報を有機的に繫ぎ合わせて一つの解答を導き出す。人脈も情報収集も、繫いで、そこから自分なりの答えを出すための道具。それらは過程に過ぎない。一度会っただけの人や、現場で顔を合わせただけの人、名刺を交換しただけの関係を人脈とは呼ばない。繫ぎ合わせて、結果を出して、それを継続していくことで、初めて人脈たりえる。
得てして、若く未熟なときにはそのことに気づかない。俺自身、役者をやっていたときは結局世の中コネと金だなどと拗ねて諦めていたりもした。自分の実力不足を棚に上げて、よく言ったものだ。
コネクションを得ようとする者や誇示する者、人脈が最も重要だと吹聴する者は往々にして、自身がなにも持っていないからこそ、他のことで補強しようとする。翻って、それは自身の不遇さの原因を外的要素に求め、言い訳を欲しているとも言える。
自分が頼りたいと思えるほどの著名人や実力者が、勘違いした愚かな未熟者に魅力を見出すことなどないだろうに。そんなことにも気づくことができない。
とどのつまり、どんな出会いであっても、それを人脈とできるかは自分次第だ。
この業界なら役者次第。
ここから先は運否天賦の出たとこ勝負なギャンブル博打。他に俺にできることといえば、はったりの一つもかましておくことくらいだ。
「聞いてると、結構大変そうな現場ですね……。そしたら、うちの隠し玉出しちゃいますか」
「お? ほんと? 期待しちゃうよ〜」
適当ぶっこいた大噓に畑中さんがノリを合わせてくる。すると、高橋さんまで乗ってきた。
「なに、そんないい子いるの? 人気出たらうちの作品にも出してよー」
「マジすかいいんすか。でも、とりあえず高橋さんの担当作、早くアニメにしてくださいよ」
「それな! ほんとさ、畑中さんにも言ってるんだよ、アニメにしてくれって」
「えー、それってあの作品でしょ? あれ、続き全然出ないんだもん。それじゃ判断つかないよー」
畑中さんが言うと、高橋さんはあいたたたーと頭を抱える。業界特有の男子のじゃれ合いだ。
それを横目に、俺は締めにもう一杯だけ、ハイボールを呷った。
☆ ☆ ☆
締めのうどんのつゆを八重の分までずるずるっと飲み干すと、ワークショップの打ち上げはお開きと相成る頃合いだった。
多くの若手新人無名声優に囲まれた音響監督の恩田さんがほろ酔い顔で大きく手を振った。
「二次会行く人〜?」
その問いかけに、様々な人がはいはいはいと手を挙げる。
「ちーちゃん、どうする?」
「んー、帰る」
八重に聞かれて、わたしはぱっと立ち上がる。
このワークショップの参加費が五千円。そして、飲み会で四千円も払ってしまった。ぶっちゃけこれ以上のお金はない。
さて、それじゃここらでドロンしますか、と八重に目配せして、店を出ようとすると、暮石さんと間延びコンビに見咎められる。
「あら。あなたたち、二次会行かないの?」
「アピールしないとコネにならないよー?」
「投資して人脈作らないと〜」
お前も人脈にしてやろうかぁ! とでも言わんばかりの十万飛んで三十歳くらいの人脈魔族に取り囲まれてしまった。
そのボス格たる暮石さんが、千鳥足でわたしと八重に近づくと、サムズアップ。アンド・ウインク。
「つかもうぜ! チャンスと人脈!」
……七つ揃えると願いが叶うみたいなノリで言われてしまった。
「すいません、お酒飲めるようになったらぜひ!」
とかなんとか言い抜けて、するっとその場を退散することに成功した。
こういうとき、まだ未成年というのは使える。いや、もうじき二十歳になってしまうのだけれど。
お店の前でわらわらたむろしている恩田さんたちに、挨拶して、そそくさとその場を離れる。
八重と二人きりになると、ようやくいつも通りの自分に戻れた気がした。
気持ちの良い夜風が吹き抜けていく中で、んんーっと大きく伸びをする。と、隣を歩く八重がくすくす笑った。
「ちーちゃん、お疲れ様」
「うん。なんか飲み会の方が疲れた気がする……」
ややげんなりしながら言うと、八重も頷く。
「そうかも。けど、途中からは馴染んでたよ!」
「そりゃまぁね。ルールがわかれば対応はできるよ」
「るーる?」
ふーっとため息交じりに口にしたわたしの言葉に八重が小首を傾げる。
よかろう。説明して進ぜよう。女子高時代、通算四回は所属グループが変わった『孤高のはぐれ女帝』烏丸千歳の闇の女子力を舐めるなよ!
「要するにさ、その場にふさわしいように話の方向性をコントロールできればいいんだよ」
「???」
言ってはみたものの、八重はいまいちぴんと来ていないようで、今度は逆方向に首を傾げた。
「あー、例えば八重についての話題だったとするじゃん」
例に挙げると、八重は照れくさそうにと身をよじってはにかむ。
「う、うん……、なんか話題にされるって恥ずかしいなぁ」
「で、そうすると、八重をハブる方向に話は向いていくじゃん」
「なんで!?」
さっきまでの可愛らしさはどこかへ吹き飛び、八重が悲鳴にも似た声を上げる。
「いや、だから例えばの話。ていうか、女子が他の女子の話題出すなんて、だいたいそういう話のときでしょ」
「そ、そんなことな……、ない、よ? ね?」
うぬ、ぐぬと言葉に詰まる八重。心のどこかで思い当たる節があるのか、全力で否定することができずにいるらしい。だから、八重って好き。
言葉よりも態度が雄弁に語る八重の同意を受けて、わたしはたとえ話を続ける。
「そしたら、こう言うわけよ。『でもさー、八重って頑張ってるよね。……まぁちょっとアレだけど』ってね」
「ううっ……嫌な言い方だよぉ」
「そうすると、『うーん、まぁそうね、ちょっとアレかもね』、みたいな反応が来るじゃん。そしたらまぁ勝ったようなもんだよ。いつのまにかみんなの態度が変わってて、気づけばハブってなもんよ」
「う、うーん……。そ、そうかなぁ?」
どうやら八重はまだ現実と戦っているらしい。うなりながら頭を抱えている。
あらあらおとぼけ。そなたもおなごなら身に覚えがあろうに……。しゃーない、一思いにとどめを刺してやるか。わたしは八重の肩をぽんと叩く。
「そうだよ! わたしはこれで高校時代二回ハブられてる」
「られ!? された側なの!?」
「ハブられ過ぎて、小中高大養成所で通算七冠だよ。女羽生善治って言われてたよ、言われてないけど」
適当ぶっこいていると、八重が驚愕に目を見開きわたしをまじまじと見ていた。
「やっぱりちーちゃんってすごい……」
称賛なのか羨望なのかなんなのかわからないが、わたしはとりあえず胸を張っておくことにした。
「まあね。あ。そうだ。話、変わるけどさ」
言うと、八重がほっとした様子で胸をなでおろし、頷きを返し、わたしの言葉を待つ。
「暮石さんって頑張ってるよね。まぁ、ちょっとアレだけど」
「話、変わってないよぉ!」
なんて、そんなどうでもいい話をしながら、わたしたちは駅までの道を歩いた。
人気のない夜道には解放感があって、わたしは縁石にひょいと飛び乗ると、平均台の上を歩くようにゆっくり進んでいく。
「ちーちゃんが、なんで女子高で生きてこられたのか不思議だよぅ……」
歩調を緩めて、わたしの横を歩く八重がぷくぷくと頰を膨らませながら呟いていた。
おっしゃる通り。わたしも不思議だ。友達だって少ないし、実の兄とでさえケンカばかり。こんなわたしが人脈作りなんてどだい無理な話なのだ。
確かに、オトナたちが言うように、人脈とかコネとか媚びを売るとか営業活動だとかが必要な場合はたぶんあるんだろう。
その意味では、オトナたちの言っていることは正論だ。けれど、どこか空虚でもある。
どうしたって口と性格と底意地が悪いわたしはオトナたちが使う聞こえの良い言葉とは相性が悪いらしい。
きっと、わたしはああいうオトナにはなれないだろう。ならないだろう。なりたくはない。
☆ ☆ ☆
新宿で乗り換える八重が一足先に電車を降り、わたしはそのまましばし一人で山手線に揺られていた。
最寄り駅に降り立って、目に飛び込んでくるのはバスロータリーを兼ねた大きな広場。
そこは近くの大学に通う学生たちがわいわいはっちゃけ、ウェイウェイ騒いでいた。新歓コンパも時期的には終盤。もう一、二週間もすれば、多少は落ち着くだろう。
その賑々しい集団から逃げるように、駅から長く延びるこの街のメインストリートをつったかつったか早足で急ぐ。それにしても、わたしのコンパ誘われなさは異常。……まぁ、サークルとか入ってないから当然だけど。わたしはどうもああいうノリが苦手らしい。もちろん、馴染もうと頑張ればそれなりにこなすけど、別に楽しいわけじゃないし。
騒々しい駅前から離れても、喧騒は響いてくる。
都がどうたら西北がどうたら白雲がどうした靡いてこうしたと肩を組みながら歌われる迷惑極まりない大声の校歌を背に受けながら、マンションのエレベーターに乗り込んだ。
ここまでやって来るとさすがに静かだ。このマンション、お家賃がそこそこするため、住人もそこそこの稼ぎがある人たちのようで、夜はそこそこひっそりしてしいる。
エレベーターがゆっくり一階一階上がっていくたび、重力にも似た空気がじんわりとのしかかってきた。先日の烏丸ップ解散騒動があって以来、悟浄君とはあんまり話せていない。というか、わたしがシャットアウトしていただけなのだけれど。しかも、その解散騒動の契機となったワークショップが今日あったことも悟浄君は承知している。
その小競り合いの原因であるワークショップが本当にわたしの役に立つなら、胸を張って「ガハハ! どや! ワシの言った通りじゃろう!」と大見得の一つも切るのだが、それもちょっと微妙な出来。人脈などまるで作れていないし、技術的な収穫も養成所で学んだことや普段やっていることの再確認ができたという程度で、これではどうにもドヤれない。
なんだか気が重いなぁ。と思いつつ、鍵をかちゃかちゃ回して、玄関ドアを開いた。
「……ただいま」
小声で言って入ると、廊下の先、リビングのドアががちゃと開いた。
「おかえり」
「あ、うん……」
廊下の端と端で視線を合わせ、わたしは都会で見つかったハクビシンみたいにぴたっと動きを止めた。会話らしい会話もなく、そのまま自分の部屋へ引っ込もうとするわたし。すると、悟浄君が小さな咳払いを一つして、ふいっとそっぽを向いた。
「……アイスあるぞ」
そう言って、リビングの中へと引っ込んでいく。わたしは自室のドアに手をかけたまま、その後ろ姿をぽかーんと見つめていた。
プチケンカ中のわたしをわざわざ出迎えて、アイスを買ってきてくれているなんて……。
ははーん、さてはあれだな。わたしと仲直りしたいんだな、これは……。もしくは、わたしに謝る機会を誰かに作ってもらって、なにがあっても前を見て、ただ前を見て進みたいと思っているに違いない。
ツンデレだなぁ、悟浄君。そして、わたしのこと好き過ぎるなぁ、気持ち悪いなぁ。
わたしも悟浄君に続いてリビングに入る。テーブルの上にはコンビニ袋が転がっていて、白地のビニールに色とりどりのパッケージが透けて見えた。
「ハーゲンかな? それともダッツ?」
「違う」
悟浄君は缶ビール片手に、ソファにどっかと座る。
「じゃあ何くまかなー。それとも何ボーデンかな」
と、うきうき気分で袋をがさがさやっていたわたしの手に、ひんやりとした四角い感触。それをぱつと拾い上げてみると、見慣れた赤白黒のデザイン。
「ピノ……。うん、まぁピノうまいけどさ……」
いや、まだ諦めるのは早い! 他にも買ってあるはずだ! と袋をさらにがさがさやるが、出てくるのはピノばかりだった。うん、いやピノうまいけど。
二箱もってソファに座り、ぶつくさ言いながら封を開ける。
「愛がないよ愛がー。もっと気持ち込めてほしいなぁ……、あ、うまい」
「ハート入りはレアだからな」
適当なことを言いながら、横に座る悟浄君がひょいと手を伸ばしてピノを一粒かっさらっていた。
二人でピノをあむあむ食べていると、悟浄君が缶ビールをぐびりとやってからおもむろに口を開いた。
「どうだった、ワークショップは」
問いかけてくる表情は柔らかく、声音も落ち着いていた。だから、わたしもなるべく素直に答える。
「……悟浄君の言った通りだった。なんか、わたしが行ってもあんまり参考にならない気がする」
「だろうな。あのワークショップはお前よりもまだ前のステップの人たちを対象にしてるよ。少なくとも、うちの所属や預かりの連中なら、そのレベルはクリアしてる」
淡々と悟浄君は言う。確かに、ワークショップの恩田さんもナンプロを評価していたような口ぶりだった。ナンプロの名前を聞いた周囲の反応から察するに、どうやらうちはそこそこそれなりに知られた事務所だったらしい。こう、なんか中堅、みたいな。
「今日のは良心的な方かも知らんが、世の中、金を巻き上げることだけが目的のワークショップはいくらでもある。……もちろん、本当に身になるワークショップもたくさんあるけどな」
悟浄君の言い方にはどこか遠い日を懐かしむような色があった。悟浄君にも、わたしと同じような時期があったのかもしれない。
「で、人脈は作れたのか?」
神妙に話を聞いていると、悟浄君がからかうように聞いてきた。思わずわたしは苦笑してしまう。
「いやー、ダメだったよ。わたしには無理だね。ちやほやされると思って声優やってるのに、わたしがちやほやしなきゃいけないっておかしくない?」

「アホか、お前……。ハート強すぎだろ……」
悟浄君が頭を抱えて深いため息を吐いて、それからふっと笑みを漏らした。
「お前は声優向きかもしれないな」
「そ、そう?」
悟浄君がそんな風に言うのは珍しい。意外な言葉のせいで、わたしはちょっと頰が熱くなるのを感じて、肩にかかる髪を指先でくるりと回してしまった。
すると、悟浄君は真面目な顔でわたしをじっと見つめる。その真剣な眼差しに思わず息が詰まった。悟浄君は次になにを言うのだろうと、とくとくとかすかに早まる鼓動を感じながら、黙って言葉の続きを待っていると、引き結ばれた口が開かれる。
「技術も感性も心構えもゴミカス同然だが……。でも、その性格の悪さと舐めくさった根性だけは一流だ」
「褒められてない……」
やっぱり悟浄君だった……と脱力して、ついついふーっと息が漏れ出てくる。ワークショップの音響監督・恩田さんとは大違いだなぁ……。まぁ、あの場において、わたしは『お客様』扱いも同然だから優しい言葉をかけてもらえて当たり前なのだ。
悟浄君はわたしの先生じゃない。
わたしのマネージャーだ。
いつだって悟浄君はわたしを素直に褒めたりしない。飴と鞭どころか、雨霰とばかりに鞭を振るう。
八重が言っていた。悟浄君はダメ出しするときはすっごい話が長いって。逆に言えば、評価している項目については口数が少ないってことだ。
わたしにあのワークショップが必要ないと悟浄君が言ったのは、わたしの技術的な面については評価していたからなんだ。おいおい、八重、悟浄君のことなかなか理解してるじゃん。なんなの? 悟浄君のこと好きなの? ヒューヒュー! なんの天然水だよヒューヒュー! 付き合っちゃえよヒューヒュー! ……まぁ、お兄ちゃんは誰にもあげないけど。
性格と底意地が悪いわたしには、口と目つきが悪い悟浄君のやり方があっている。
我知らず、ふっと笑みがこぼれ出すわたしを見て、悟浄君も同じく笑った。そして、その笑みを抑えると、小さく息を吐いてからわたしの名前を呼んだ。
「千歳。話がある」
言って、ソファわきに置いてあったビジネスバッグを取ると、中から数冊のライトノベルと、クリップ留めされた紙束を出した。それをぽんと叩いて、わたしの顔をじっと見つめる。
「この作品、獲りに行くぞ」
言葉こそ短いけれど、声は重々しい。
そして、またあの目でわたしを見る。刃のように鋭くて、青い炎みたいに静かな眼差し。
わたしの返事は決まっている。
「……うん」
茶化すことも、ふざけることも、とぼけることもしない。たぶん、今のわたしの目は悟浄君と似ているはずだ。
わたしの言葉に悟浄君は確かめるように頷きを返して、クリップ留めされたプリントをついっと指で押す。手に取ってぱらぱら見ると、どうやらキャラクター設定とオーディション原稿らしかった。
「各事務所、一役一人までの制限がかけられてる」
悟浄君の言葉に頷きだけで相槌を返し、わたしは原稿を読みすすめる。キャラ設定は三キャラ分。つまり、ナンバーワンプロデュースでは三人までしかこの作品を受けられないのだ。その事実に一瞬震えが走る。
「……まぁ、まずはテープだし、そんなの無視して出しちゃえばいいんだけど」
なんか小声で言いましたよ、この人……。ちらと視線を向けると、悟浄君が誤魔化すようにゲフンゲフン咳払いして、また真面目くさった表情を作った。
「再来週あたり、事務所でテープ録って、その出来で誰を出すか決める。そのつもりでいろ」
言われて、スマホでうちの事務所のHPを調べてみた。
現在、ナンプロの女性声優は正所属準所属預かり含めて二十人にも満たない。その中には八重もいる。そこから三人というのは、質で勝負することを掲げているナンプロの中では充分に狭き門だ。
そして、事務所内で決まったとしても、今度は他の事務所の声優たちと役を争うことになる。事務所も声優も数えきれないくらいたくさんいるのだ。
その膨大な人数で、たった一つの席を奪い合う。
事務所内でも競争は、順位争いはもう始まっているのだ。たぶん、八重ともこの枠を争うことになる。
わたしはスマホのブラウザを閉じると、ローテーブルに並べられたオーディション原稿を手に取った。
もしかしたら、わたしが演じることになるかもしれないヒロインたち。作中でもその人気を争っている彼女たち。そう思うと、あまり得意でないライトノベルでもうまくやっていけそうな気がする。
どの子を演じられるかはわからないけど、心の内で語りかけてみる。
頑張ろうね。
──ナンバーワンに、なろう。
[#2 孤高の千歳と闇の女子力・了]