「ひゃっ、あははっ、ちょっと、兎斗! やめなさいよ」
「正直に答えてくれないと、もっと強くするよ」
私が言うと、宮地は「そんなの知らないわよ!」と言った。なので、私は手加減せずに爪を立てて宮地の足の裏をくすぐった。
「やだ、あ、あはははっ。やめなさいよっ」
「宮地が正直に答えるまで、ずーっとこちょこちょしてあげる。早く答えないと、笑い過ぎて死んじうかも」
雪がまとわりつくような妖艶な声で言う。宮地は顔を真っ赤にしながら首を横に振る。雪の手が、脇の下から、胸の下へ移動する。すると、宮地の反応が明らかに変わった。
「はぁっ、ちょっと、どこ触ってるのよ。んっ」
「気持ちいいところをくすぐられると辛いよね。知ってる? くすぐったいのって、気持ちいいのと同じことなんだよ」
「そんなの知らないわよ、ひゃ、あっ」
宮地の呼吸が、荒く、熱くなる。宮地がこんなに乱れているのを見たのも初めてだ。
「ほら。気持ちよくて頭くらくらしてきたでしょ? じゃあ、もう一回聞くね。宮地は今、年上の女の人と付き合ってる?」
「私はっ、別に」
宮地はあくまでも真実は口にしないつもりのようだ。
「嘘ついたらお仕置きだからね」
雪が宮地の脇の下に手を置く。宮地はそれだけで、笑い声を出す。
「……付き合ってるわよ。ほら、正直に答えたでしょ。だから、早く離してよ!」
「残念。話はここで終わりじゃないんだよね」
雪の言葉で、宮地の表情が絶望に染まる。雪はこういうことに関しては、サディストの女王様みたいになる。
「私達はね、宮地にその女の人と別れて欲しいと思ってるんだ」
「なんでよ?」
宮地が雪を睨む。宮地は笑顔を浮かべて、指先をわきわきと動かした。すると、宮地がすぐに弱気な表情を浮かべた。
「実はね、その女の人、私のお母さんの妹なの」
「え?」
宮地が目を見開いて、雪のことを見る。やっぱり、宮地は亜利沙が雪の叔母であることを知らずに付き合っていたのだろう。
「それでね、宮地にお願いがあるの」
「……何?」
雪の言いたいことをもう察しているのか、怒ったような宮地の表情の下で、色々な感情が絡まっているのが分かった。亜利沙のこと、本当に好きだったんだ、と思う。宮地は私のためにあんな顔をしてくれないだろう。私だって、自分のことで宮地をあんなに切実な表情にさせる自信がない。
それでも、駄目だ。私は宮地と亜利沙を離れさせたい。それが私のわがままだったとしても。
「亜利沙と別れて欲しい」
私はそう言って、宮地の瞳を見つめた。宮地は瞬きすることなく、揺るぎのない視線をこちらに寄こしてくる。私は意地でも視線を逸らさなかった。いつもは、私達の視線がこんなに長い時間重なりあうことはない。
恋とか、愛とか、そんなのもはや感情と言葉の暴力だ。私は知らないし分からない。たとえその関係が純粋なものであろうと、歪であろうと、二人の心は繋がっていて、他人が口を挟めることじゃない。だけど、私はずるいから、口を挟むし手を出す。
考えすぎると、溺れそうだ。宮地の切実な瞳や、私の知らない、宮地と亜利沙の思い出に。わがままな私を許して欲しい。だけど、絶対に許さないで欲しい。
宮地のことは絶対に取り戻さないといけないと思った。宮地はひとりぼっちの私に手を差し伸べてくれた人だから。
「ね、お願い。宮地」
雪の声は想像していたよりもずっと真剣で、私は驚いた。宮地も、驚いていたように見える。宮地は小さな唇をきゅっと閉じると、短い間考え込むように黙っていた。
「分かったわ。あなた達がそう言うなら、そうするわ」
私は静かに瞬きを繰り返す。雪はふんわりと笑って頷いた。
「ありがとう」
雪が宮地の鼻の頭にちょこんと指で触れる。宮地は力が抜けたような笑顔を浮かべた。
これでいい。これで、いいんだ。そうやって、自分に言い聞かせる。
亜利沙のことが好きな宮地の表情を、頭の中から消してしまいたいのにできなかった。
愛って、何。でも、きっと宮地は亜利沙のことを愛している。二人の関係性は危ないはずなのに、その気持ちには不純なものなんて一つも混じっていないように思えて、愛を知らない私は、戸惑っていた。
宮地の手首の拘束を解く。開放された宮地は、ほっとした顔を浮かべた。
「悶えてるみゃーち、可愛かったなぁ。またくすぐってあげようか?」
私が意地悪く言うと、宮地は耳まで真っ赤になった。
「絶対嫌。兎斗のこと一生許さないから」
「なんで私だけ……」
雪だってくすぐってたし、と苦笑する。いじけたように頬を膨らます宮地が可愛くて、私は宮地の頭に手を置いた。宮地がびくっと肩を揺らす。
「ごめんね。お願いね、宮地」
宮地の耳元で囁く。宮地の肌はほんのりと汗ばんでいて、シャンプーや石鹸の甘い香りがした。
宮地は何も答えなかった。ただ、静かに頷くと、寂しそうな顔をして、自分の手元を見ていた。手首には、タオルで縛った跡が赤く残っているけど、明日にはもう完全に消えているだろう。
亜利沙と宮地の関係がこのまま続いていくと、宮地がここに帰ってこなくなる気がして怖かった。宮地の首元にキスマークをつける亜利沙の元へ行く宮地を、笑顔で送りだすことは私にはできない。
宮地は私達と一緒にいるよりも、亜利沙と一緒にいた方が幸せなのだろうか。そんなことを考え始めたら、私の中の世界が地面から崩れ落ちていきそうだ。
私には宮地しかいない。そう思っていた時期が確かにあったし、今だって私は、宮地がいないと駄目なままだ。
だから、離れないで欲しい。この水槽の中で、私と雪と、一緒にいて欲しい。
次の日、雪と出かける約束のある土曜日の深夜、隣で眠っていた雪に肩を揺さぶられて目を覚ました。私は久しぶりに楽しい夢を見ていたので、その余韻を引きずりながら、ゆるゆると欠伸をすると、雪が小さく震えているのが分かった。
「どうしたの、雪?」
「あのね、久しぶりに、怖い夢を見たの」
雪は暗闇の中で、不安そうなか細い声を出した。泣いているみたいだ。私は指で雪の涙を拭う。悲しみだけでできたような、冷たい涙だった。
「ごめん。雪の夢、食べてあげられなくて」
自分の意思で人の夢を食べることはできないけれど、今日の私が気を抜いていたのは確かだった。だから、珍しく楽しい夢を見たのだろう。楽しい夢を見ているときは気持ちが愉快でも、結局私は、誰かが見るはずだったその愉快な夢を奪ったということになる。人から奪うのは、悪夢だけで充分だ。みんなが見たくないものを、私だけが見ればいい。
私は雪を自分の胸へ引き寄せた。小さく嗚咽を漏らす雪の身体は、くたりとしていて、ほんのりと温かかった。
「兎斗はいつもこんなに苦しい思いをしてるの?」
「別に、苦しくないよ。もう、慣れたから」
雪は顔を上げて私のことを見た。幼い少女のような瞳に、私が映る。
「でも、こんなに苦しいことに慣れるなんて、悲しいよ」
私は雪の頭を撫でる。私が乾かしてあげた、ふわりとした髪を指で梳く。
「悲しくないよ。私が雪の悪い夢、全部食べてあげる」
雪のためなら、痛みだって、苦しみだって受け入れられる気がする。こんなことははじめてだから、自分でも不思議な感じがする。昔は自分のことしか考えていなかったのに、雪のことしか考えていない自分らしくない今の自分は、それでもちゃんと私だった。
雪は布団の中でもぞもぞと身じろぎすると、私に唇を触れ合わせるだけのキスをした。
「兎斗、いつもありがとう。これからもずっと、私と一緒にいて?」
「うん。当たり前だよ」
「約束だよ」
雪が私の小指に、小指を絡めて、ふにゃりと笑った。
「うん」
私はもう、雪無しでは生きていけない。でも、雪は違うと思う。ずっととか、永遠とか、そんな言葉に全身を預けることが、私にはできない。刹那的なものでもいい。私は雪に出会えただけで嬉しかった。だから、この関係が終わるまでずっと、私と一緒にいて欲しい。
雪の、この小指の温かさを、私は絶対に忘れない。
‡‡‡‡‡‡‡‡
私達は、もう一度、眠りの世界に落ちていった。観客席で目を覚ます。本当は、悪夢を見とき、苦しくないわけじゃない。精神だって、体力だって、それなりに消耗する。でも、雪や宮地のためだと思えば、いくらだって耐えられる。だって二人は削られていった体力や気持ち以上に大切なものを私にくれたから。
だからこれは、私からのお返し。二人の眠りが幸福であることが、私の願い。たいしたプレゼントも渡せないし、上手くありがとうと言えない私は、これくらいのことしかできない。それでも、二人のためにこの身を尽くしたかった。
私の隣の席に座ったうさぎが言う。
「幸せそうだね。兎斗」
私は突き放すような口調で答える。
「別に」
「幸福って、甘ったるくて美味しくないから嫌いなんだ」
「あんたのことなんてどうでもいい」
私はわざと大きな舌打ちをして威嚇する。もちろん、うさぎはこんなことではひるまない。それくらいは、分かっている。
「雪に出会ってから君は君じゃないみたいだ」
「生活や考えが変わっても、私は私だから」
「君は、守るものが出来て、脆くなった」
ブザー音が鳴る。ワインレッドの幕が上がっていく。うさぎの言葉に対する苛立ちで、瞳の奥がぐらぐらした。確かに、私は雪に出会ってから、弱くなったのかもしれない。雪が私に黙って外に買い物に行ったとき、私は雪が帰ってこなくなるのが怖くて泣いた。雪と雪のバイト先の男の人が仲良くしている夢を見たとき、嫉妬したし、夢の世界と現実の世界の区別もつけられなくなって、雪にきつく当たってしまった。
自分を守ることで精一杯だったあの頃は、孤独という透明な壁が私を覆っていて、その中は清潔で、私は潔癖だった。雪はその壁だって、飴細工のように溶かして私の側にやってきた。今まで私が近づききれなかった宮地を引き連れて。
雪との生活は、甘く、時にぴりりとしていて、私はもう、頑丈さを装うこともできなくなった。雪の匂いや、温もりを知った私は雪が離れていくのが怖くて、さらに脆くなった。
でも、別にいい。脆くたって、弱くたって、それで構わない。
私は一人じゃない。雪と共に生きている。もしも辛くなった私が、雪に寄りかかっても、雪ならきっと、笑って許してくれると思う。
「孤独なあんたには私の気持ちは分からない」
もうすぐで幕が上がりきりそうだ。私が不敵な笑みを浮かべると、うさぎはじっと私のことを見つめた。
映った映像には見覚えがあった。これは、私達の部屋。カーテンが閉まっているので、恐らく夜だろう。ソファーには、下着姿の雪と、私が座っていた。私達は、一緒にテレビを見ていた。雪の好きそうな、つまらない恋愛映画だ。机の上には、お酒の缶と、サイダーのペットボトル。お揃いのグラスが並んでいる。雪がスナック菓子をつまんで、私の口の中に入れた。私は少し面倒くさそうな顔をしながらも、スナック菓子を咀嚼した。雪が楽しそうに笑う。お酒を飲んでいるからか、その頬は赤らんでいる。
二人の声は聞こえなかった。観客席も、しんと静まり返っている。時々、じりじりと、機械がテープを読み込むような音がするだけだった。
雪といるときの自分は、なんだかんだ言って、嬉しそうだ。そのくせ、不機嫌を装ったむすっとした顔をしているので、本当に素直じゃないなと思った。思わず苦笑が漏れる。二人はしばらく、黙って映画を見ていた。雪が眠そうに目を擦っていると、私が口を開いて、何か言った。雪は不思議そうに首を傾げる。私は苛立ったような顔して、また何か言う。雪はしゅんとした顔をしたが、言葉を返した。私はそれを聞いて、堰を切ったように、怒りをぶちまける。
一体、何の話をしているんだろう。雪の辛そうな顔を見ていると、胸が痛んだ。雪もそのうちに、一歩も引かずに言い返すようになり、次第に激しい口論に発展していった。私の瞳は鋭く、雪は噛みつくような目をしていた。二人の間で、激しい炎が燃えているかのようだった。しかし、雪の言葉を聞いた私は、下を向いて、表情を消し、ぴたりと動かなくなった。雪が目を瞬く。私がキッチンに向かう。取り出してきたのは、いつも料理をする際に使う包丁だった。雪が息を飲んで、後ずさった。顔は血色を失い、青ざめていた。机の角に足をぶつけた雪が、バランスを崩して転ぶ。私は床に崩れた雪の腹に迷うことなく包丁を突き刺した。雪が目を見開く。刺された箇所から、赤い血がじわりと溢れ出した。床に広がっていく血を見つめる私の目があまりにも恐ろしくて、全身に悪寒が走る。舞台の幕が下がっていく。私の隣で、うさぎがくすくすと笑っていた。
‡‡‡‡‡‡‡‡
目を覚ますと、全身にじっとりと冷たい汗をかいていた。服が身体に張り付いて、その不快感に顔を歪める。カーテンが開けられていて、柔らかく透き通った光がフローリングを照らす。もう、朝になったのだろうか。隣には雪がいなくて、一瞬、息が止まった。どくどくと、心臓が音を鳴らす。怖くなった私は、ベッドから飛び出て、リビングへ向かった。
「雪」
雪はキッチンでホットケーキを焼いていた。雪がキッチンで料理をしているのを見るのなんて、初めてだ。
「兎斗!」
振り返った雪が、フライ返しを放り投げて、私に抱きついた。あまりの勢いに、私の身体がふらつく。私は雪のキャミソールの中に手を入れて、お腹を触った。傷のないお腹は柔らかく、さらさらとしていた。雪は小さく笑い声を漏らしながら、身をよじらせた。どうしたの、と聞かれた私は、なんでもないよ、と答える。
やっぱり、あれは夢だった。現実で起こったことじゃない。安心すると、身体から力が抜けそうになった。
本当に、最悪な夢だった。雪の血や、私の瞳が、今でも鮮明に頭に浮かぶ。それだけで、また息が苦しくなる。私が黙り込んでいると、雪が子猫のように私の胸におでこをすり寄せて、安堵したように息を吐いた。
「どうしたの、雪」
今日の雪は少しおかしかった。いつもなら、私が目を覚ましただけで、こんなに勢い良く抱きついてきたりしないし、雪が自分から料理を作るなんて、有り得ない。同じ夢を見たわけではないはずなのに、今日の雪は悲しそうな顔をしている。
「兎斗がこのままずっと眠ってたらどうしようと思ったの」
「え?」
なんのことか分からず、私が小さく声を漏らすと、雪は私から身体を離して、テレビをつけた。テレビの左上に表示された時刻は、午後二時だった。私はテレビの画面を見たまま、動けなくなる。
「兎斗がね、私の夢、食べてくれるって言ったでしょ。今日の朝、兎斗は目覚まし時計がなっても、私が起こそうとしても、起きなかったの。だからね、私のせいなのかもしれないっ思って、私のせいで、兎斗がこのままずっと眠ってたらどうしようと思って、すごく怖かった。宮地に電話したらね、兎斗は疲れてるかもしれないから寝かしておいてって言われたの。あのね、兎斗が起きたら、一緒にご飯食べようと思って、それで、ホットケーキ焼いてたの。でも、兎斗みたいにうまく作れなかったの。ごめんね」
雪がぽろぽろと涙をこぼした。私はキッチンの方に目をやる。大きすぎる二枚のホットケーキは黒焦げだった。
「ごめん。ごめんね、雪。今日、遊園地行こうって、約束してたのに」
今日のために、昨日の夜は早く寝たはずだった。雪は今日のことをすごく楽しみにしていて、着ていく服も、付けていくアクセサリーも、持っていく鞄も、一週間も前から用意していた。
なのに私は、こんなにも長い間眠っていて、雪との約束を台無しにしてしまった。
どうしよう。雪はこの日のためにバイトも休みにしてくれたのに。考えても時間は戻らなくて、本当に悲しいのは雪のはずなのに、私も悲しくなった。
「そんなこと、どうでもいいんだよ。私は兎斗がいてくれれば、それでいいもん」
雪の透明な涙は、雪の心が綺麗だから流れるのだろうと思った。だけど私は、雪がこの日をどれだけ楽しみにしていたか、一番よく知っている。もう一度、時計を見る。確か、閉園は六時だったはずだ。
「雪。行こうよ。遊園地。雪の作ったごはん食べてさ。だから、急いで用意して?」
びっくりした顔の雪が涙を拭う。
「でも、今から行ったら、遊園地閉まっちゃうよ」
「大丈夫。乗り物、たくさん乗れないかもしれないけど、何か一つには乗れるよ。行こうよ。雪」
雪の瞳にまた、涙の粒が浮かぶ。雪は何度も頷いて、くしゃくしゃな笑顔を浮かべた。雪の作ったホットケーキを食べて、家を出る支度をした。肩がレース仕様になっているワンピースを着て、いつもより甘めのメイクをした雪は、とても可愛かった。私達は電車に乗り、バスに乗り、夕方に近づいていく流れる景色を一緒に見ていた。バスの中では、雪が私の手を握っていた。嬉しそうな笑顔を咲かせる雪の瞳には、何かに怯えるような色が浮かんでいた。私は雪の手を握り返しながら、今日の夢のことについて考えていた。
こんなに眠っていたことなんて、始めてだった。いつもは目覚ましが鳴ったら起きられるのに、今日は雪が起こそうとしても、起きられなかった。病気からくる睡眠過多だろうか。それとも偶然だろうか。目覚めなかった私の空白の時間は、あまりにも長くて、恐ろしさを感じた。
確かに、最近は何故か眠くなることが多い。夢もやけにリアルで、誰の夢を見ているのか分からないこともあった。足元に絡まった夢の影が、どんどん私を夢の世界に引きずり込んでいくような、そんな感覚がした。
「兎斗、ほら、遊園地見えてきたよ」
雪が窓の外を指さす。遠くにジェットコースターや観覧車が見えた。
「本当だ」
「すごいね。兎斗。私遊園地初めて」
「そうなの?」
そういう私も、遊園地には片手で数えられる程度しか来たことがなかった。雪が恥ずかしそうに目を細めて頷く。
「ずっと来てみたかったんだ。兎斗、本当にありがとう」
「うん」
雪は本当に健気だ。今日のことを楽しみにしていたのに、眠り続けた私のことを、怒ることもなく本気で心配してくれて、私のためにホットケーキも焼いてくれた。雪の焼いてくれたホットケーキは、大きくて、苦くて、でもほんのりと甘かった。
「私ね、好きな人と遊園地デートするのが夢だったんだ」
雪が微笑んで私のことを見る。頬染めるピンク色は、チークの色なのか、雪自身の色なのか分からなかったけれど、その両方もかもしれなかった。
「雪は乙女だね」
「恋する女の子はみんな乙女なんだよ」
「なにそれ」
私が笑うと、雪も一緒になって笑った。バスが遊園地に到着する。私達はバスを降りて、入場券を購入した。
もうそろそろで閉園になります、と受付の女の人に言われたが、それでもいいです、と答えた。閉園間際の遊園地は閑散としていて、場内には、閉園を知らせる物悲しい音楽が流れていた。
「すごいね。広い! あっちにメリーゴーランドがある。あ、あれはコーヒーカップ!」
私と手をつないで歩く雪は、きらきらと目を輝かせて、アトラクションを眺めている。
「多分、アトラクション一つしか乗れないと思う。雪、好きなの一つ選んで」
本当は、雪と一緒に全部のアトラクションに乗りたかった。喜ぶ雪を、そばで見ていたかった。だけど、私のせいでこんな時間になってしまった。それでも雪は嬉しそうだった。子供みたいな目をして、とても楽しそうだった。
「どうしよう。あ、私、あれに乗りたいな」
雪が選んだのは、観覧車だった。大きい観覧車は、ゆっくりとくるくる回っている。
「いいよ。そうしよう」
私達が観覧車に乗り込もうとすると、私達以外に観覧車に乗る人はいなくて、貸切状態だった。ポップな制服を着たスタッフが扉を閉めると、私達を乗せた丸くて小さな部屋が、ゆっくりと上がっていった。
私と雪は向き合って座っていた。雪はしばらく景色を眺めていたが、私の方を向いて、嬉しそうに笑った。
「すごいね、兎斗。みんなちっちゃく見える」
「そうだね」
空は焦がされたオレンジ色をしている。私は景色を見るふりをしながら、ずっと雪のことを見ていた。いつも隣にいる雪と真っ直ぐ向き合うことが、とても珍しいことのように感じられた。
ふわふわの髪には、金色のヘアピンがさしてあった。ピンク系のメイクは似合っていたし、透けたレースから見える肩は綺麗だった。好きな人と遊園地デートをするのが夢、と雪が言っていたのを思い出す。とびきりのお洒落をした雪は、宇宙で一番可愛かった。
「雪」
「どうしたの? 兎斗」
「もし、私が目覚めなくなっちゃったら、どうしよう」
私はいつまで、雪の側にいられるんだろう。私はずっと、雪のことを守ってあげられるだろうか。正直、自信がなかった。私はどんどん、夢の世界に溺れていって、そのまま存在さえも消えていきそうな気がする。昔はそれでもいいと思っていた。でも、雪に出会った今、それが何より恐ろしかった。
雪が私のことを見つめる。立ち上がった雪が、私の頬に触れて、唇にそっとキスをした。
「大丈夫。私が絶対に起こしてあげるから」
雪はそう言って、微笑んだ。私の瞳の端から、涙がこぼれた。雪が私のことをぎゅっと抱きしめる。
「雪」
「なに?」
好きだよ、と言おうとしたけど、言えなかった。そう言ってしまったら、何かが大きく変わってしまう気がした。
でも、雪のことは好きだ。すごく、好きだ。
うまく言葉にできなくてごめん。ちゃんと伝えられなくてごめん。でも、私には雪しかいない。雪の代わりなんて、世界中のどこを探したって見つからない。
「待ってるよ。雪が起こしにきてくれるの、ずっと待ってる」
私が言うと、雪は「まかせて」と言って、腕に力を込めた。苦しくて、温かくて、嬉しかった。
私には雪がいる。だから何も怖くないと思った。
だって、私のお姫様は、誰よりも強くて優しい。
世界がオレンジ色に輝いている。ノイズ交じりの寂しいメロディー。甘いストロベリーの香り。雪の柔らかい体温。それは夢みたいに美しくて、けれど夢ではなかった。
このまま、時間が止まってしまえばいいのにな、と思った。
その日はカウンセリングがあって、いつものように病院に向かった。先生とのカウンセリングを終え、部屋を出ようとした時だった。立ち上がった先生が、私のことを後ろから抱きしめた。先生は私の首元に鼻を近づけ、何かを確認するように匂いを嗅いだ。
「先生?」
先生の鼻の先が首元に触れると、くすぐったくなって、私はぴくりと肩を縮めた。先生の長い髪からは、薔薇の香りがした。背の高い先生の長い腕は、私に絡みついて、身動きがとれなかった。
「あぁ、やっぱり。同じ香りだ。私の可愛い猫ちゃん達を攫っていったのは君だね?」
「なんのことですか?」
先生の香りに溺れそうになりながら、弱弱しい声で言葉を返す。先生の体温と私の体温が重なり、さらに熱くなっていく。夏でも涼やかな先生にも、ちゃんと血は巡っているんだと、うまく働かない頭で思う。
先生が私から身体を離す。私は振り向いて、先生の顔を見上げた。先生は笑みを浮かべていた。細められた瞳に浮かぶ、妖しい光。似ている。誰かに、とても似ている。
「……雪?」
先生はくすくすと笑った。甘く苦いその笑みに、胸がざわめく。
「あんまり言われないけど、あの子と私って似てるのかな? あぁ、でも、兎斗もずっと気付かなかったしね。別に、私があの子を産んだわけじゃないから、顔が似てなくてもおかしくはないか」
「どういう、ことですか」
先生は冷たい表情をして言った。
「誰にも渡したくなかったのに」
コンコンと部屋がノックされて、受付へと続く扉が開いた。扉を開けたのは、いつもお会計をしてくれる若い女の人だった。
「亜利沙先生、急ぎのお電話です」
「はーい。了解。今行きます」
声も笑顔もガラリと変わった先生が、はつらつとした声で返事して、部屋を出ていこうとする。驚いてその場に立ち尽くす私に、先生が言った。
「それじゃ、また来週。待ってるね。兎斗」
先生が部屋の扉を閉める。冷や汗がこめかみを伝った。
先生が雪の叔母で、宮地の恋人の亜利沙。私は亜利沙のことを知っていた。声も、笑顔も。雪と仲良くなる、ずっと前から。
なんで。どうして。
やっぱり、と言っていた先生は、雪と私のことにいつから気づいていたんだろう。宮地のこともそうだ。先生の言う通り、私は亜利沙から大切なものを奪っていった。大切な人を攫っていった。そんな私の前で、先生はいつも通り笑っていた。私のことをからかって、冗談を言い合って、カウンセリングをしてくれた。
今日だって、いつもと変わらなかったのに、その笑顔の下で何を考えていたんだろう。怒っていたようには見えない。だけど、先生は絶対に怒りの感情を表に出さない人だ。
私は感覚が遠のいた足で、待合室に向かう。若草色のソファーも、アロマディフューザーから立ち上る香りも、今まで当たり前だったものすべてが、嘘で出来ているように感じられた。
先生のことを考えて、最初に頭に浮かんだのは、ごめんなさい、という言葉だった。
雪のことも、宮地のことも、守りたいだけだった。だけど、正義の味方ぶるつもりはなくて、いつだって自分は悪者なんだと自分を戒めてきたはずだった。
私が奪ったのは、雪と宮地だけじゃなかった。先生の安心も、幸福も、私がすべて奪っていった。そのことに自覚がなかった私は、一番たちが悪い。
でも、こうでもしなければ、二人だって沈んでいったはずだ。亜利沙という海の中に。もしかしたら、それが危険だと思っているのは私だけなのかもしれない。海の中に沈んだ二人は、私と一緒に水槽の中で過ごしているよりも、ずっと幸せになっていたかもしれない。
もしもの世界の話を考えたって、どうしよもないのは分かっている。だけど、私のしたことは、正解ではなかったと思う。
先生は、寂しかっただろうか。辛かっただろうか。きっと、そうだったはずだ。だって、ひとりぼっちの寂しさも、辛さも、私が一番知っている。
診察代を払い、おぼつかない足で家に帰った。家には、雪と宮地がいて、二人の顔を見た私は、立っていられなくなって床に崩れ落ちた。
「どうしたの?」
雪が心配した顔を浮かべて、私の隣にしゃがみ込んだ。やっぱり、先生に似ていると思った。瞳の中の色や佇まいが、私の記憶の中の先生と重なる。
「顔色悪いわよ」
宮地が私の顔を覗き込む。不安そうに私のことを見ている。私は宮地の大切な人を傷つけた。そして、先生の大切な人を奪った。
他人の愛を犠牲にして、宝物を手元に集めて、それで幸福なんて、馬鹿みたいだ。私は最低なことをした。こんな私は、誰にも許されてはいけないんだ。
「ごめん。ちょっと、眠い」
二人の瞳があまりにも汚れがなく綺麗で、そこには私に対する優しさしかないことを知った私は、怖くなって寝室に向かった。
盗んで、奪って、それでしか幸せになれない私は、救われてはいけない。もう、消えてしまいたい。誰も傷つけないように。何も奪わないように。
私は泥沼のような眠りに沈んでいった。夢の中に引きずり込まれる感覚の中で、そうだ、と思った。私はずっとここにいればいい。夢の中の世界で、あの観客席に座って、ずっと他人の悪い夢ばかりを喰い続けていたらいい。それくらいしか私にはできないし、なんてお似合いな役目なんだろう。
‡‡‡‡‡‡‡‡
観客席で目を覚ました。いつもと景色が違うので、はっとする。観客席も、舞台も、格段に広くなっている。まるで、海外のオペラ劇場のようだ。客席は、豪奢で煌びやかで、息を飲むほどだった。黒い影がいくつも揺らめいて、まるでそこに誰かが座っているかのようだ。ざわざわと、聞き取れない言葉たちがホール内を埋め尽くす。
私はずっとここにいるべきだと望んだからだろうか。だから、この世界は景色を変えたのだろうか。でも、いつだってそうだった。この世界は、私を受け入れてくれた。私がここに来たくない時だって、私を無理やりここに連れ込んで、他人の夢を見せた。
外の世界とは違う。こここそが、私の居場所。だって、ここにいれば、母に病気扱いされないし、学校にだって行かなくていい。宮地も雪もここに来られないから、私が二人を独占することはできないし、私はずっと一人でここにいられる。
それはとてもいいことのように思えた。これこそが、私の幸福のように思えた。私は外の世界にいるべきじゃない。外の世界では、私はうまくやっていけないし、他人に迷惑ばかりかけてしまう。
ここが、唯一、私を受け止めてくれる場所。私を求めてくれる場所。低いブザー音が鳴る。心地良いなと思う。ここで何が壊れようと、何が燃えようと、外の世界には関係なくて、私はそれを眺めているだけ。悲しむ人なんて誰もいないし、悲しむ必要もない。
すごく楽だ。息をするだけで苦しくなる外の世界とは大違いだ。私の隣の席にうさぎが座る。私はただ、幕が上がるのを見つめていた。
幕が上がりきると、そこには何も映っていなかった。観客席がざわつく。うさぎがぴょんと席から離れて、どこかへ行ってしまった。真っ白な壁に当てられる、眩いライト。けれど、舞台に立つ役者は誰もいない。
観客席の方から、足音が聞えた。その足音はしっかりとしているのに、どこか軽やかで、弾むようだった。私は白い壁を見つめ続ける。幕が上がると、自分の意識で自分の身体を動かすことができない。ただ、舞台の上での出来事を見続けていることしかできない。
「そう思ってるのは貴女だけだけどね」
聞き覚えのある声がした。でも、私の知っている声よりも少し幼い。私は目を瞬く。けれど、身体は動かせない。
「さ、立ち上がってよ。兎斗。この世は舞台、人はみな役者。いつまで観客ぶってるつもり?」
カツッ、とヒールの音がホール内に響く。艶めく真っ赤なパンプス。白と赤のドレス。長い髪に薔薇の香り。私は顔を上げる。そこには、まだ少女だった頃の亜利沙がいた。
「先生?」
「ここではその呼び方はやめてもらいたいな。っていうかそもそも、先生って柄じゃないし」
亜利沙はそう言って肩をすくめながら笑う。
深みのある瞳に、それを縁取る長いまつ毛。白い肌に、整った鼻。色っぽい唇は赤色をしているが、口紅を塗っているわけではなさそうだ。
今、私の目の前に立っている亜利沙は、まるで女王のようだった。
「なんで、ここに?」
女王のような少女の亜利沙を見ていると、少女のような先生の笑顔が脳裏をよぎった。胸が苦しくなり、低く早い鼓動が身体中に響く。
この人に見せる顔なんて、ないと思っていた。ごめんなさいも言わないで逃げ出してきたはずなのに、なんでここに亜利沙がいるんだろう。
「私がここにいる理由なんて、聞かなくても分かるでしょ?」
亜利沙は呆れたように言うが、私には分からなかった。顔を強張らせた私の手を、亜利沙が握った。白くて滑らかな手に、しゅっとした綺麗な指。亜利沙は握った手をぐっと引き、私を立ち上がらせた。
幕が上がっているのに、自分の身体を動かせるなんて、ありえない。こんなことは今までなかった。驚いた私は亜利沙の方を見る。亜利沙は嬉しそうに笑った。
「ほら、自分の思い通りに動けるでしょ?」
「……どうして」
「さっきから、質問ばっかり。答えは全部、兎斗が知ってるよ」
分からない。私は何も知らない。繋いだ手が温かくて、私は息を飲む。この場所で温かさを感じたことなんて、今まで一度もなかった。私が黙ったまま俯いていると、亜利沙が私の手を引いて歩き出した。
「亜利沙?」
私が亜利沙の名前を呼んでも、亜利沙は振り向かなかった。コツコツと、高いヒールの音が響く。観客のざわめきは、まるで大きな波のようだった。うるさくて、耳を塞ぎたくなる。
「ねぇ、兎斗」
「……何?」
亜利沙が私の名前を呼ぶたびに、頭がキリキリと痛んだ。
ごめんなさい。先生。何もかもを奪っていった私のこと、絶対に許さないで。
「この先に行ったら、もう戻ってこられなくなっちゃうかもしれない。それでも、一緒に来てくれる?」
舞台のすぐ近くで、亜利沙が立ち止まる。雪とそっくりな瞳で、亜利沙は私のことを見つめた。
あぁ、そうだ。私には雪がいる。雪は私のこと、絶対に起こしてくれるって言ってくれた。だけど、雪だって、亜利沙から奪ってきた子だ。あの子は、私のだけの子じゃない。私達は寄り添いあうべきじゃなかった。ずっと他人のままでいれば良かった。
ずっと、眠っていたい。誰もいないここで、誰にも迷惑をかけないで生きていきたい。
いや、もう生きることすらどうでもいい。もう何も奪いたくない。
「いいよ」
戻れなくてもいい。私には帰るべき場所なんてない。ずっと、ここにいればいい。
「約束だよ。兎斗。私とずっと一緒いてね」
亜利沙が笑った。赤い唇は薔薇の花のようだった。
私は頷いた。
私達の足元に、階段ができる。舞台へと続く階段を、私達は上っていく。観客席から悲鳴が上がる。つんざくような悲鳴を聞きながら階段を上がる亜利沙があまりにも嬉しそうだったので、私は楽しくもないのに、一人で微笑んでいた。
階段を上りきる。スポットライトの光が首の裏側を焼く。白い壁が歪んで、渦を巻く。
「さ、行こう。兎斗」
亜利沙の指先に、力が籠る。私はその手を握り返す。
これでいい。もう一生、私がここから出られないように、鍵をかけてほしい。
亜利沙が駆け出す。私もついていく。亜利沙と私は、渦巻く壁の中に吸い込まれる。眩い光がはじけ飛んで、その後に黒い世界が私達を包み込んだ。色とりどりの星が瞬くそこは、まるで宇宙のようだった。
亜利沙のドレスの裾が、ふわりと膨らむ。亜利沙の笑い声が聞える。瞬きをしたその瞬間、ふっと意識が途切れた。
目を覚ますと、そこには私の通う学校があった。下校時刻なのか、制服を着た学生達が、校舎から出てくる。女の子が私にぶつかりそうになったので、私はハッとして避けようとしたが、間に合いそうになかった。しかし、ぎゅっと目を瞑っても、衝撃はやってこなかった。
驚いて、女の子の方を見る。女の子は何事もなかったかのように歩いていく。自分の手のひらを見ると、私の身体は透けていた。触れようと思っても、指先は宙を撫でるだけだ。そういえば、さっきから、誰とも目が合わない。誰も私のことを認識していない。
私はとりあえず、人混みから離れた。ここが、夢の中。誰の夢かは分からない。透明になった私は、温度も風も感じない。これは誰の夢なんだろうか。
校舎を見上げる。バスケットボール部の全国大会出場を祝う垂れ幕がかかっていた。私の通う学校のバスケットボール部が強いなんて話、聞いたことがない。そう思いながら、垂れ幕を眺める。よく見ると、もう何年も前の話だった。そういえば、校舎から出てくる学生も、知らない顔ばかりだ。
ここは、今よりも数年も前の世界。私がまだ、高校生になる前の時代。私はどこへ行き、何をすればいいのだろう。観客席に座って夢を見ているのと、夢の中に入るのでは勝手が違う。途方に暮れていると、校舎から高校生時代の亜利沙が出てくるのを見つけた。隣には、色素の薄い髪を緩く三つ編みにしている、背の低い女の子がいた。亜利沙は私達と同じ学校に通っていたらしい。二人は楽しそうに笑いながら歩いている。私はとりあえず、二人についていくことにした。
二人はゆっくりと歩きながら、ずっと話をしていた。もう三十分は経っただろうか。けれども、二人は疲れた素振りも見せず、むしろ話したいことがまだまだあって困るという風に、途切れなく会話を続けている。なんだか、雪と家に帰っていたときの事を思い出す。
三つ編みの子の方の家に到着すると、亜利沙は女の子の部屋に上り、そしてまた延々とお喋りをしていた。内容は本当にどうでもいいような些細なことだったけど、二人はとてもはしゃいでいた。
正直、聞いているこっちが疲れる。よくこんなに長い間人と話していられるな、と思った。やっとお開きになったと思ったら、もう日が暮れていた。三つ編みの方の女の子は、鈴という名前らしい。鈴は玄関まで亜利沙を送りにきたが、二人とも名残惜しそうな顔をしている。
藍色の空の下を、亜利沙は一人で歩く。亜利沙は一人だと歩くのが早いらしく、私はそれについていく。
「ねぇ、誰?」
興味なんてなさそうな声で亜利沙が言った。長い一本道で、歩いているのは私と亜利沙だけだった。私は立ち止まって亜利沙の背中を見た。私は誰にも見えないはずじゃなかったのか。亜利沙にだけ、見えていたのだろうか。
亜利沙がこちらを振り返る。
「さっきから、何?」
「いや、別に」
亜利沙の真っ直ぐな視線から逃げるように、私は足元に視線を落とす。私だって、この状況に対して戸惑っていたし、何より、ずっと一緒にいてくれと言ったのは、亜利沙の方なのに。
「別にってことはないでしょ」
「まぁ、その通りだけど」
亜利沙は私との会話を忘れてしまったのだろうか。それとも、あの女王みたいな亜利沙と、今の亜利沙は関係がないのだろうか。
「ずっと私についてくるつもり?」
そうするつもりでいたし、この夢の中ではそうするしかないと思っていた。だって私には他に知っている人もいないし、行くところもない。亜利沙は怒っている風でも、面倒くさがっている風でもなさそうだ。あくまでも、私をちゃんとここに存在する人間として扱う。
「亜利沙に言われたんだよ。ずっと一緒いてねって」
「ふぅん」
言った覚えないけど、と言って、亜利沙が笑う。からからと笑うその姿が、今の先生とそっくりだと感じだが、同一人物なのだから当たり前か、と思う。
「でも、亜利沙はそう言ってた。私も、どこにも行く当てがない」
「じゃあ、いいよ。私の家に来て。一緒にお風呂入ろうよ」
「嫌」
「冗談だって」
やっぱり、昔から冗談が好きなんだ。この亜利沙は、きっと私の罪も知らない。そう思うと安心して、私も一緒になって、少しだけ笑った。
亜利沙と一緒に肩を並べて歩いた。亜利沙は歩調を私に合わせてくれた。一緒に話をしたが、亜利沙は私に対して、どこから来たのとか、誰なのとか、聞いたりはしなかった。
「鈴って子と仲いいんだね」
私が言うと、亜利沙がびっくりしたように瞬きした。
「まぁね」
「鈴と話してるときの亜利沙、すごく楽しそうだったから」
亜利沙の頬が、薄く染まった気がした。私はそれに気がついていないふりをする。
「うん。鈴と一緒にいるのは楽しいよ」
「そっか」
亜利沙の家に着いた。シンプルだが小洒落た家だった。玄関にはたくさんの靴があり、この家は四人家族であることが推測できた。亜利沙は靴を脱いで家にあがる。脱いだ靴を揃えないまま行ってしまったので、私が揃えてあげた。何故か制服姿だった私も、一応靴を脱ぐ。
亜利沙が冷たいお茶の入ったグラスを二つ持って、二階へあがる。バタバタとせわしなかった。私もそれに続いて、二階にあがる。亜利沙の入った部屋には本棚がたくさんあり、ずらりと本が並べられていた。赤いチェック柄のシーツがかかったベッドと、年季の入った勉強机。本棚の上には、ぬいぐるみが飾られていた。
意外と女の子っぽい部屋だ。リボンのついたクマのぬいぐるみや、ネコのぬいぐるみを見て、意外に思う。それとも、これくらいの年齢の女子は、普通にこういうものが好きなのだろうか。
「ここが私の部屋。本とか漫画とかは好きに読んでいいから」
「うん。ありがとう」
「あと、これ。喉乾いたでしょ。飲みなよ」
亜利沙が冷たいグラスを机の上に置いた。喉の渇きは感じなかったが、私は頷いてグラスに手を伸ばす。でも、透けた私の身体はグラスに触れられず、宙を掻いただけだった。
「ごめん。飲めない」
「やっぱり」
亜利沙は愉快気に笑うと、グラスを手に取って、中身を飲み干した。
「私が飲めないって分かってて出したの?」
「ちょっと試してみただけ。でも予想通りだった」
亜利沙がこちらに手のひらを向ける。触ってみて、と亜利沙が言う。私は恐る恐る亜利沙の手に触れる。柔らかい感触があった。そのまま、私の手と亜利沙の手はぴたりと合わさった。
「触れる」
「みんなには貴女のこと見えてないみたいだけど、私には貴女がちゃんとここにいるみたいに見えるよ」
亜利沙が言う。亜利沙の手は冷たかったが、私の体温と合わさって、熱が生まれる。
「貴女じゃなくて、兎斗。私の名前」
「うと?」
「うん」
私は頷く。そういえば、この世界の亜利沙に名前を呼んでもらうのは、これが初めてだった。その探るような発音と、不思議そうな顔に、無垢さを覚えた。この子は、まだ何も知らない。私のことも、雪のことも。そう思うと、安心した。
「可愛い名前」
亜利沙がふわっとした笑顔を浮かべる。私は急に、二人で手を合わせていることが恥ずかしくなって、亜利沙から手を離す。
「可愛くない。あと、あんまり好きじゃない」
兎、という文字が入っているのが嫌だった。そのうえ、響きが男っぽい。
亜利沙が、グラスに入ったお茶を一口飲む。下の階からご飯だよ、と声が聞えた。亜利沙のお母さんが呼んでいるらしい。
「あ、もうご飯の時間だ。兎斗はここで待ってて」
「うん。分かった」
「今日はカレーなんだ。羨ましいでしょ?」
亜利沙がニヤついてこっちを見てくる。空腹感は全くなかったが、カレーを食べられるのは少し羨ましかった。私はもう、一生ご飯も食べられないのだろうか。食事に対して強い未練はないが、なんだか、死んでいるみたいだと思った。
「別に」
私はそっぽを向いて、本棚を見ているふりをした。
不思議だった。高校生の亜利沙とは、昔からずっと仲が良かったみたいに話せる。並んだ本の背表紙を見ながら、私はずっとここにいるのかな、と考える。私の知っている今の町と、この町は少し違う。知らない建物が建っていたり、住宅地だった場所が畑だったりする。
でも、こっちの町の方が居心地がいい。誰も私のことを知らないし、見えないし、唯一私のことを見ることができる女子高生の亜利沙は優しくて、友達みたいに話してくれる。
本棚に並んでいる本も、少し古い。雪と暮らすようになってから、あまり本を読まなくなったな、と思い出す。私が本を読んでいると、私のことを構って欲しいと、雪がうるさいからだ。もともと、暇つぶしのために読んでいたのだから、そんな暇がなくなったことを、私は心のどこかで喜んでいたかもしれなかった。
亜利沙は、好きな本を読んでいいと言ったけれど、この身体じゃ本を読むこともできない。人に見えなかったり、お腹が空いたりしないのは便利だが、物に触れられないのは不便だ。亜利沙にだけ触れられることには、何か意味があるのだろうか。
それでも、昔は読書していたこともあって、本棚を眺めるのは楽しかった。並んだ背表紙の中に、知っている作家の名前を見つけた。その作家の本が何冊も置いてある。
確か、この作家は女性同士の恋愛を書くことで有名だったはずだ。なんとなく、気がついてはいた。亜利沙は鈴のことが好きだ。多分、友情的な意味ではなく、恋愛的な意味で。鈴と話すときの亜利沙の顔や、私が鈴の話をした時の頬を赤らめる姿を見て分かった。亜利沙は、鈴に恋をしている。
亜利沙は若い女の子に執着すると雪が言っていた。宮地と関係を持っていたこともあるので、その話は恐らく事実なのだろう。でも、今の亜利沙には、執着という言葉に当てはめられるようなギラつきや貪欲さはなく、ただ甘く淡い鈴への恋心を胸に潜めているように思えた。
ここは、亜利沙の夢の中なのだろうか。あの女王みたいな亜利沙は、どこにいったのだろう。この世界から出られなくても、別にいいような気がした。窓の外できらめく小さな星々は綺麗で、ここはとても平和な場所だと思った。
「ただいま」
バタバタと足音を鳴らして階段を上がってきた亜利沙が部屋のドアを開けた。私は本棚から離れて、「おかえり」と答える。
「カレー美味しかった。おかわりしちゃった」
亜利沙は元気いっぱいの笑顔を浮かべて言う。
「食べ過ぎたら太るよ」
「私太らない体質なんだ」
「……なにそれ、むかつく」
亜利沙がベッドの上に座る。私はその隣に腰を下ろした。
「でも兎斗だってほっそいじゃん。ちゃんと食べなきゃだめだよ」
「もうご飯食べられない身体になったから無理」
「かわいそーに」
亜利沙がそんなことなんて全く思っていないみたいな顔で笑った。私もこんな身体になったことに対して、戸惑いはしたものの、焦ることはなかった。
「別にいいよ。私が願ったことだから」
消えてしまいたいと願ったのは私だ。この世界にいる透明な私は、もう何も奪うことはできない。これで良かった。これが、私の望んだことだった。
「へぇ。寂しいお願いだね。私は透明人間になるのは嫌だな。だって、みんなに気づいてもらえないって、悲しいじゃん」
「悲しくない。もともと、透明人間みたいなものだったから」
雪や宮地と出会う前の私は、家族からも必要とされず、友人もいなくて、存在していないようなものだった。それでも、それが当たり前になると、不思議と悲しいと思うこともなくなっていた。強くて弱い私は、もうこれ以上傷つかないようにと孤独の鎧をまとっていた。
「でも、兎斗はひとりぼっちじゃないじゃん。だって私がいるんだもん」
亜利沙が身体を寄せてきた。亜利沙の身体は細かったが、柔らかかった。亜利沙の笑顔を見ていると、喉の奥がきゅっとなった。
「そうだね。私には、亜利沙がいる」
でも、私は亜利沙の宝物を奪って、ひとりぼっちにしてしまった。亜利沙の隣で笑う資格なんて私にはない。
「あのね、私、明日鈴に告白しようと思うんだ」
「え、本当に?」
私が目を瞬くと、亜利沙は笑顔のまま頷いた。
「うん。だから、振られたら慰めて」
「振られるかどうかなんて、まだ分からないでしょ」
私はそう言いながら、胸の奥がひりつくのを感じた。自分でも、何故か分からなかった。
鈴も亜利沙のことが好きだと思う。でも、鈴が恋愛的な意味で亜利沙を好いているかは分からない。だから、無責任に大丈夫だよなんて言えない。亜利沙もそれを分かっているから、こんなことを言ったんだろう。
痛みの原因を探ろうとして気がつく。私はあの時、観覧車の中で、雪に好きだと言おうとして辞めた。その一言を口にすれば、何かが終わって、何かが始まる気がした。それが、怖かった。亜利沙は怖くないのだろうか。どうして、振られたら慰めてなんて、笑って言えるんだろう。私だったらそんな未来が怖すぎて、死んでしまうだろう。
「片思いしてる方が幸せだって分かってるよ」
私の心を読んだみたいに、亜利沙が言った。
「え?」
「でもさ、一人で喜んだり、悲しんだりするのに疲れたんだよね。どうせだったら、好きな人と喜んだり悲しんだりしたいじゃん?」
「……そうかな?」
私には、分からなかった。感情は一人で処理するもので、他人と共有するものではないと思っていた。亜利沙は、好きな人と感情を共有できたら、幸せなのだろうか。例えそれが、悲しみであったとしても。
「うん。それに、鈴も絶対私のこと好きだって。だってほら、私こんなに美人だし」
「自信過剰なところは昔から変わらないんだね」
「え、どういうこと?」
「別に。なんでもないよ」
下の階から、亜利沙の名前を呼ぶ声がした。亜利沙は立ち上がると、「お風呂入ってくるね」と下の階に向かった。私はベッドに座りながら、雪のことを考えていた。
雪は私のこと、本当に好きだったのだろうか。雪は私に対して、何度も大好きだと言った。だけど、私は上手く答えられなかった。雪の口にする「大好き」は、友達としての大好きなのだろうか。それとも、恋愛的な意味での大好きなのだろうか。キスをしても、身体を重ねても、雪と恋人でいるような気はしなかった。そもそも、私は恋心だって、あまりよく知らない。宮地へのあの思いも、独占欲や憧れからくるものかもしれなかった。
どうして、亜利沙は自分の思いに気づけたのだろう。それが、恋だと思ったのだろう。一歩踏み出す勇気が、私にはなかった。
片思いをしていた方が幸せって、亜利沙が言った。私も無意識のうちにそう思っていたのかもしれない。でも、告白したらその幸せすら失われるかもしれない。なのに、亜利沙は自分の思いを伝えることを選んだ。
亜利沙の告白が成功すればいいなと思った。そして、亜利沙と鈴が幸せになれば、私も嬉しい。私は二人の温かい未来を願って、目を閉じた。その時、部屋の扉が開いた。びっくりして、肩が震えた。部屋に入ってきたのは亜利沙ではなく、スーツ姿の女の人だった。背は高くないが、姿勢が良く、きりりとした印象を受けたが、温和そうな顔立ちをしている。雪のお母さんだ、とすぐに気が付き、私はうろたえる。しかし、透明な私に雪のお母さんが気がつくわけもなく、雪のお母さんは、本棚をじっと見つめていた。
本を借りにきたのだろうか、と思ったら、そうではないみたいだった。雪のお母さんは、並んだ背表紙を鋭く睨み付けている。女性同士の恋愛を描いた小説の並ぶコーナーだった。その後ろ姿に、冷たい何かを感じて、私は唾液を飲み込んだ。
雪のお母さんは本を手に取ることもなく、ふっと部屋から出ていった。ドアが完全に閉じられると、緊張で身体が固まっていたことに気がつく。
しばらくして、亜利沙が部屋に戻ってきた。髪を乾かした亜利沙は、サイダーとスナック菓子を手に持っていた。
「まだ食べるの?」
私が聞くと、亜利沙は明るく笑った。
「うん。どうせ今日は寝れないだろうし、兎斗とお話しようかなって思って」
「別にいいけど」
亜利沙もやっぱり、緊張するんだ、と思った。亜利沙はペットボトルの蓋を開けると、コクコクと喉を鳴らして、サイダーを飲む。私は亜利沙のお姉さんが部屋に来たことを伝えようと思って、辞めた。あの冷たい後ろ姿に何か不穏なものを感じたからだ。
「兎斗は眠くないの?」
「うん。あんまり、眠気を感じない」
それは多分、ここが夢だからだろう。夢の中の私はこうやって活動していても、実際の私は眠っているはずだ。
「それなら良かったよ。じゃあ、今日は二人でパーティーだね」
「パーティーね。まぁ悪くないんじゃない」
私が言うと、亜利沙は可笑しそうに笑う。
「ね、兎斗。乾杯しようよ」
亜利沙がペットボトルの口をこちらに向ける。私はそこにこつんと拳を当てた。
「夜だし、あんまりうるさくし過ぎないようにね」
亜利沙のお姉さんのことが、まだ気になっていた。勝手に亜利沙の部屋に入ってきて、本を手に取ることなくじっと見つめていた亜利沙のお姉さんは、あの時何を考えていたのだろう。鋭い瞳と冷たい後ろ姿は、まだ鮮明に瞼の裏に刻まれていた。
「うん。分かってるって。兎斗もはしゃぎすぎないようにね」
「それだけは絶対にないから」
「兎斗は面白いなぁ」
亜利沙は、あはははは、と大きな声で笑った。私はそんな亜利沙の口を塞いで、「だから静かにしてって言ったでしょ」と亜利沙を睨む。
「分かったよ。ねぇ、夜はまだまだ長いよ。何の話しようか?」
「亜利沙と鈴の話、聞かせて」
私の言葉に、亜利沙が目をぱちくりさせる。私から目を逸らした亜利沙は、恥ずかしそうに笑った。
「いいよ。聞かせてあげる」
少女の亜利沙は頬を染める。私はそんな亜利沙を見て、小さく微笑んだ。
亜利沙は鈴との話をたくさん聞かせてくれた。二人でプールに行った話や、電車で遠くまで出かけたら、迷子になってしまった話。授業中の回し手紙や、二人だけの交換ノートの話。学校の帰り道に、鈴から手を繋いでくれた時の話。
二人の思い出は、甘くて、爽やかで、少し酸っぱくもあって、思い出を語る亜利沙は幸せそうな顔をしていた。話を聞いている私は、心の底がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
「鈴に大好きって言われると、どきどきしちゃうんだよね。きっと、友達としてってことなんだろうけど」
亜利沙の言葉に、私ははっとしたが、なんでもないような顔をして頷いた。
「私が鈴に振られたらさ、きっともう友達には戻れないね。そしたら、親友も友達も同時に失うことになる」
確かに、そうだ。そして、失なわれた友情は、簡単には修復することができない。私だって、そのことに気がついていたはずなのに、その考えに言葉を与えるのが怖かった。真っ直ぐな亜利沙の言葉は、何もかもをうやむやにしたがる私にとっては、ナイフのように鋭く感じた。
「なんで振られることを前提に話すの」
むっとした私が固い声で言うと、亜利沙は首を横に振った。
「そういうわけじゃないよ。そんな未来もあるんだなってこと、忘れちゃいけないなって思って」
「……亜利沙はすごいね」
「え? なんで」
スナック菓子を口に放り投げた亜利沙が、私の方を見る。
「それでも、告白するんだ。私だったら、できない」
私の言葉を聞いた亜利沙は、にっと笑った。
「だって、鈴のことが好きだから」
亜利沙の笑顔が眩しくて、私は下を向く。
「気持ちを伝えたら、迷惑になるとか思わないの?」
自分の気持ちに言葉にするのが怖かった。自分の気持ちを伝えたら、迷惑になると思った。雪に好きって伝えようとして辞めた。私を守るためだった。
「自分の気持ちに嘘つきたくないから。好きな人の前では正直でいたい」
亜利沙の声を聞きながら、唇を噛み締める。こんな、きれいごとみたいなことを、亜利沙は本気で言っている。正直な亜利沙と、嘘つきな私は、表と裏みたいだ。太陽みたいにきらきらした亜利沙は眩しい。眩しくて、羨ましかった。
私は自分の隣に座った亜利沙の手に触れる。この世界で、唯一、私のことが見える人。私が触れられる人。
私はずっと、亜利沙みたいな人になりたかった。
亜利沙の手を、ぎゅっと握る。
「負けないで」
私が言うと、亜利沙は笑顔で答えた。
「恋は勝ち負けじゃないでしょ?」
私は顎を引きながら、違う。と思った。女の子同士の恋は、二人だけのものではない。時間とか、無責任な他人が説く常識とか、色々なものが牙を向いてやってくる。だから、負けないで欲しいと思った。私の言った「負けないで」は、そういう意味だ。
カーテンの隙間から、白い光が差している。亜利沙は立ち上がると、カーテンを開いた。広がる薄だいだい色の空で、金と白の粒子が瞬いているように見えた。
「朝だね。兎斗」
「うん。そうだね」
亜利沙がこちらに身体を向ける。輝く朝日を背に、亜利沙が言った。
「私、頑張るね」
「うん」
私はそう答えながら、視界が水っぽく歪むのを感じた。
夕焼けに染まる長い道を歩く二人を見ていた。二人の影が、私の足元まで伸びている。私はその影を踏まないように歩く。
「私、ずっと鈴が好きだった」
亜利沙が言った。その声は僅かに震えている。
「私も亜利沙が好きだよ」
鈴がのんびりと答えた。告白されたことに気がついていないようだ。
「そういうことじゃなくて、恋愛的な意味で好きってこと」
亜利沙が恥ずかしそうに顔を歪めた。鈴は首を傾げて亜利沙のことを見た。
二人が立ち止まる。私も足を止めて、二人のことをじっと見つめた。
「私も、そうなのかなぁ。私もね、亜利沙が好き。亜利沙のことが一番好きだよ」
「私も鈴が一番好きだよ」
「そっか。嬉しいな」
鈴が手を合わせてふんわりと微笑む。亜利沙は困ったように笑っている。鈴は少し天然なところがある。
「さっきの告白のつもりだったんだけど」
「え、本当に? じゃあ、私達、これから恋人なの?」
「鈴がそれで良ければ、ね」
鈴は亜利沙のことを見上げる。私の胸がトクトクと音を鳴らした。この音が二人に聞こえていないか心配になって、胸を押さえつける。鈴が亜利沙の手を取る。亜利沙が目を見開いた。
「よろしくお願いします」
鈴はそう言って、微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
亜利沙は、とても幸せそうに笑った。
それから、鈴と亜利沙は恋人同士になった。下校中は人目を盗んで手をつなぎ、頻繁にお互いの家を行き来するようになった。夜になると、交換ノートの空欄をびっしりと埋めて、朝は二人で学校に登校した。
どんどん親密になっていく二人はとても幸福そうだった。これが、女の子同士の付き合い方なのだろうか。宮地とうまく付き合えず、雪に気持ちを伝えられなかった私は、二人の側にいてもまだ、分からなかった。
ある日、亜利沙の部屋に鈴が来た。二人はいくら話しても話題がつきないようで、一時間以上、もうずっと話しっぱなしだった。
亜利沙がオレンジジュースを飲んでいると、鈴が亜利沙のことを上目遣いに見つめて言った。
「ねぇ、亜利沙。キスしてみようよ」
亜利沙がびっくりしたように鈴の方を見る。私も、驚いて声が出そうになった。いつもにこにこと笑っているはずの鈴が、恥ずかしそうに下を向く。
「いいよ」
亜利沙がベッドの上に座っている鈴の頬に触れる。鈴の肩がぴくりと震えた。見てはいけないと思うのに、二人から目を逸らせない。鈴は緊張したように目を閉じる。長いまつ毛が影を作る。
亜利沙が鈴の唇に自分の唇を重ねた。そして、ゆっくりと離す。たった数秒のことが、永遠のことのように思えた。鈴はまだ目を閉じたままだ。亜利沙は、私の方を見て目を細めると、唇に人差し指を当てた。子ども扱いをされたような気がして、私はむっとした。
「亜利沙の唇、柔らかいね」
照れた顔をした鈴が嬉しそうに言った。
「恥ずかしいから、そういうこと言わないで」
亜利沙は困ったように頬を掻く。
「でも、私は亜利沙の唇好きだよ。赤くて、小さくて、綺麗だもん」
鈴の言葉を聞いた亜利沙は、鈴の肩を掴み、鈴を押し倒した。強引なその動作には荒々しさがなく、亜利沙が鈴のことをよく想っているのが分かった。鈴もそれを分かっているのか、されるがままで、ベッドに倒れた。
亜利沙がまた、口づけをする。今度は舌を入れて、長いキスをする。鈴が吐息を漏らしながら、身体をよじった。亜利沙が唇を離すと、鈴は頬を硬直させて、ぐったりとしていた。
「私も鈴の唇好きだよ。柔らかくて可愛い」
亜利沙が鈴の唇を指でなぞった。瞳を潤ませた鈴が小さく震えた。
鈴が家に帰って、私達が部屋で二人きりになると、亜利沙が私のことをからかってきた。
「ごめんね。兎斗には刺激が強すぎたかな」
「別に。そんなことないから。ああいうの、慣れてるし」
私と雪だって、キスくらいはした。というより、それ以上もした。そのことを亜利沙が知らないのは当たり前だが、何も知らないと思われるのは困る。
「え、そうなの。兎斗ったら不純だなぁ」
虚勢を張ったつもりが、逆に突かれてしまった。私は悔しくて、亜利沙を睨む。
「亜利沙こそ、なんでそんなに上手いの。初めてじゃないの?」
唇の重ね方も、身体への触れ方も、やけに慣れているように感じて、大人っぽいと思った。
「ああいうのは経験じゃなくて才能だから」
亜利沙は足を組んでかっこつける。腹が立った私は、亜利沙の肩を小突いた。
「私、鈴が来てるときは部屋から出てた方がいいかな」
キスをしているところを、他人に見られるのも嫌だろう。私だって、空気くらいは読む。
亜利沙はにやにやと笑った。
「別に見ててもいいんだよ」
「興味ないから」
「兎斗は嘘つきだなぁ。あんな顔して私達のこと見てた癖に」
「そんなことないから」
一体、どんな顔をして二人のことを見ていたんだろう。恥ずかしくて、頬が熱くなる。亜利沙が私の頬をつついて笑う。
「兎斗は可愛いなぁ」
「……女たらし」
私が言うと、亜利沙が大きな声で笑った。
それから私は、鈴と亜利沙が二人きりになるときは、部屋の外に出るようになった。一人で外を散歩したり、部屋の外で座っていたりと、時間の潰し方はまちまちだった。二人が付き合ってから、一か月程が経った。最近は、部屋の中から、甘く小さな声が聞こえてくるようになった。私はドアを背にして、しゃがみ込み、二人の声に耳を澄ましていた。しっとりと濡れたその声を聞くと、何故か安心できた。
亜利沙も、鈴のぬくもりを知ったのかな、と思う。私はもう、雪の体温すら忘れそうだった。
二人のことを見ていると、いつも宮地と雪のことを思い出す。私がうまく愛してあげられなかった宮地と、私のことを大好きだと言ってくれた雪。今頃、二人は何をしているんだろう。だけど、私はずっとここにいることを誓った。もう二人のもとには戻れないし、私はあの世界に戻ってはいけない。
雪も宮地も、私のことを忘れていくんだろうな、と思う。でも、私はずっと二人のことを忘れないだろう。私は二人に迷惑をかけすぎた。
誰かが、階段を上がってくる音がした。私は立ち上がって、階段を見下ろす。透明な自分の身体に慣れた今でも、こういう瞬間は緊張して、身体がこわばる。やってきたのは、亜利沙の姉だった。二人の声が止む。亜利沙の姉は、亜利沙の部屋のドアの前で足を止めた。亜利沙の姉がドアを睨んでいたので、私は思わず、息を飲んだ。
亜利沙の姉がドアをノックする。力強さのある音だった。今、ドアを開けられたら大変だ。心臓がきゅっと締め付けられたように苦しくなるのを感じた。
「はーい」
亜利沙の声に動揺は感じられない。亜利沙の姉の瞳が、さらに鋭さを増した。
「誰か来てるの?」
「うん。友達が来てるよ」
「そう」
亜利沙の姉は冷たい声で答えると、自分の部屋に戻っていった。なんだか、嫌な感じがする。直感的にそう思った。私は、亜利沙の姉が亜利沙に対して冷ややかな目を向ける瞬間があることに気がついていた。
その日は、鈴はいつもよりも少し早く家に帰っていった。私が部屋に入ると、亜利沙は姉について何も口にしなかった。けれど、亜利沙も本当は驚いていたんだろう。私にはそれが分かった。
下の階から、亜利沙の母親の声がした。もう夕飯の時間なのか、と思う。
「それじゃあ、ご飯食べてくるね」
亜利沙がそう言って、部屋から出ていく。それと同時に、亜利沙の姉が自室から出てきた。亜利沙の表情に緊張が走るが、それは注意深く観察していないと分からない程の変化だった。だが、亜利沙の姉はその変化に気がついている気がした。
「亜利沙。話があるの」
「ああ、うん」
亜利沙が頷いて、薄く笑う。亜利沙の姉はくすりとも笑わず、無表情を貫いていた。あとで部屋に来るかと亜利沙が聞くと、亜利沙の姉は、下で話すから大丈夫だと答えた。なんだか、嫌な予感がした。亜利沙と、亜利沙の姉が階段を下りていく。私もその二人に続いて、階段を下りた。
食卓につくと、まだ何も知らないであろう亜利沙の母親が、鼻歌まじりにご飯をよそっていた。亜利沙の母親が、亜利沙の姉にご飯茶碗を出すと、亜利沙の姉は、いらないと言って首を横に振った。
亜利沙が横目に私のことを見た。平然を装っているが、その瞳は孤独な子供を思わせるような色が浮かんでいる。どうにかこの状況を打破する方法はないかと考えを巡らせても、透明な私には何もできなかった。結局、夢の中でも私は何もできないままだ。雪が死ぬあの夢を見ているときのように、私は誰のことも救えないただの傍観者だ。
母親が食卓につく。いただきます、と言って三人が手を合わせると、亜利沙の姉はさっそく話を切り出した。
「ねぇ。亜利沙。本当は鈴って女の子と付き合ってるんじゃないの?」
一瞬、息が止まるのを感じた。なんとなくだが、分かってはいた。亜利沙の姉が、亜利沙と鈴の交際に気がついていることに。でも、黙ってくれると思っていた。よりにもよって母親の前でこの話をするなんて、信じられなかった。
亜利沙の表情が固まる。亜利沙の動揺が伝わったのだろう。亜利沙の姉は畳み掛けるように話を続けた。
「私さ、見たんだよ。二人が手を繋いでるところ。だから今日も早く帰ってきたんだけどさ。ねぇ、本当は付き合ってるんだよね?」
今すぐ、亜利沙の姉の口を塞ぎたかった。もう、これ以上何も喋らないで欲しかった。亜利沙の母親が困惑した表情で、亜利沙のことを見た。亜利沙は首を傾げて笑う。
「そんなわけないじゃん。それに、友達だって手くらい繋ぐでしょ? 普通のことじゃん」
「誤魔化さないで。私、あなた達の交換日記も読んだから」
その言葉に、私は目を瞬く。いつの間にそんなことをしていたんだろう。
「え?」
亜利沙の声は小さく、頼りなかった。笑顔も消えて、瞳は絶望に揺れていた。
「ねぇ、亜利沙。本気なの? 本当にあの子のことが好きなの?」
亜利沙の姉は凍てつくような瞳で亜利沙のことを見つめ続ける。その視線は、亜利沙を突き刺す凶器に等しかった。苦しい。亜利沙と心が繋がっているみたいに。私のことじゃないのに、不安と恐怖で潰れそうだ。
「そんなわけないじゃない。ねぇ、亜利沙。ほら、何言ってるの、お姉ちゃん。亜利沙がびっくりしてるでしょう?」
亜利沙の母親が慌てたように言った。母親のフォローも、この状況では気休めにもならなかった。亜利沙は黙って下を向いている。
「遊びなわけないじゃん! 本気じゃない恋なんて、恋じゃない!」
立ち上がった亜利沙が鋭く叫んだ。鼓膜がびりびりと震える。亜利沙の姉が目を見開いた。
「なにそれ。頭おかしいんじゃないの。それ、恋じゃないよ。あんたが勘違いしてるだけ。バカじゃないの!」
亜利沙の姉が怒気を含んだ声で言った。亜利沙の母親は、そんな二人を見てうろたえている。
「バカはそっちでしょ! 人の交換日記勝手に覗くなんて、最低。信じられない!」
亜利沙はもう、笑顔で取り繕うこともしなくなった。それも当然だと思った。私だって、二人の交換日記は読ませてもらったことがない。あれは二人だけの秘密で、二人だけの宝物だ。他人が勝手に読んでいいものじゃない。
「……同性愛なんて気持ち悪い」
亜利沙の姉は吐き捨てるように言うと、部屋を出ていった。亜利沙は拳を握ってその場に立っていたが、その拳は震えていた。亜利沙の母親がそんな亜利沙の肩を抱く。
「亜利沙が同性愛者なんて、あり得ないわよね。ねぇ。そうでしょ? 本当は違うでしょう?」
酷すぎる、と思った。母親も、姉も、亜利沙のことなんて何一つ考えていていない。だけど、これは、他人事じゃない。
私の家族だって、女の子同士の恋を嫌悪しているかもしれない。自分の娘には関係ないことだと思っているかもしれない。
亜利沙の顔から、色が抜け落ちた。亜利沙は母親の肩を押して、崩れ落ちる。
「どうして」
亜利沙の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。亜利沙は涙を拭う力も残っていないようだった。涙は止まらず、雫になって床に落ちていく。
どうして、どうして、と亜利沙は繰り返した。私は亜利沙の肩を抱いた。亜利沙の身体は冷たかった。体温も、立ち上がる力さえ、亜利沙の姉と、母親の無神経な言葉が奪っていったように思えた。
泣いている亜利沙を見て、亜利沙の母親が泣いていた。透明なその涙が何を意味するのか、私には分からなかった。知りたくもないと思った。
次の日、亜利沙は鈴と下校せずに、一人で家に帰った。私はその亜利沙の半歩後ろを歩いていた。昨日から亜利沙は、ずっと黙ったままだ。家族とも私とも口を聞かなかった。ぼんやりとした目をしていたと思えば、噛みつくような目になることもある。亜利沙の心が殺されたような気がして、悲しくなった。
今日は亜利沙の笑顔を一度も見ていない。いつもみたいに、兎斗って呼んでもらえなかった。亜利沙のことが心配だった。だけど、どうやって声をかければいいのか分からなかった。どうやって触れたら、亜利沙の心を温められるのか、分からなかった。
いつも二つ並んでいるはずの影は、一つだけになって、薄く伸びたそれはとても悲しそうだった。鈴だって、急に亜利沙の態度が変わって、戸惑っていたし、落ち込んでいた。私は鈴の寂しそうな顔も見ていた。鈴は亜利沙に何かを言いかけて、やめた。あの時、何を言おうとしていたのだろう。声にならなかった鈴の言葉を知ろうとして初めて、自分が亜利沙にしか気づいてもらえないことがとても悲しいことに気が付いた。ずっと一緒にいたはずなのに、鈴は私の存在にすら気がついていない。
唯一、私のことが見える亜利沙のことだって、私は助けてあげられなかった。私は亜利沙のためにここに来たのだと思っていた。だけど、何もできない私なんて、いてもいなくても同じだった。むしろ、いない方がまだましだとすら思えた。
ずっと一緒にいてね、と、亜利沙は言ってくれた。私と一緒にいることを望んでくれた女王の亜利沙と、今の亜利沙は違うことくらい分かっている。でも、私は今の亜利沙に必要としてもらいたかった。今の亜利沙の隣にいたかった。
「亜利沙」
名前を呼んでも、亜利沙は振り向かない。前へ進む足からは、力が感じられない。あの頃の私みたいだと思った。塞ぎこんで、閉じこもっていた、孤独な私。ひとりぼっちの私。亜利沙をひとりぼっちにしないためにここに来たはずなのに、亜利沙はこんなにも孤独だった。
亜利沙と鈴の距離が、どんどん離れていった。二人はもう、会話することもなくなった。交換日記は、亜利沙が捨ててしまった。亜利沙は学校以外の時間は部屋に籠りがちになり、あまり笑わなくなった。私は学校から帰ってきて、本を読む亜利沙の隣に座っていた。亜利沙は私とは口を聞いてくれたが、もう家族とはほとんど口を聞いていない。私に対しても、前のように冗談を言ってくれることもなくなった。亜利沙は時々、孤独に耐えられなくなると、私のことをきつく抱きしめた。自分がぬいぐるみになったような気持ちがした。それでも、亜利沙のためになるのならと、亜利沙の好きなようにさせた。私から亜利沙に触れることはなかった。今の亜利沙は、私が触れたら壊れそうな程に脆かった。隣にいるはずなのに、亜利沙がどんどん自分から遠ざかっていくような気がした。私を抱きしめた亜利沙の苦しそうな呼吸が耳から離れなかった。
亜利沙の誕生日になった。亜利沙の誕生日を祝ってくれる人は誰もいなかった。鈴も、亜利沙の姉も、亜利沙の母も、亜利沙の誕生日を祝ってくれなかった。亜利沙は黙って、私のことをきつく抱きしめた。
誕生日、おめでとう。私はその言葉を飲み込んだ。亜利沙が声をあげて泣いていた。
亜利沙の誕生日から数日が経った。亜利沙の下駄箱の中に、手紙が入っていた。鈴からの手紙だった。家に帰って、亜利沙が手紙の中身を読んだ。手紙には、二人の交換日記を埋めていたあの可愛らしい丸文字で、「好きな人ができました。今までありがとうございました」と書いてあった。
亜利沙はその手紙を丸めると、今にも中身が溢れ出しそうなごみ箱に放り投げた。亜利沙はベッドの上に膝を抱えて座る。一日中カーテンを閉め切っていて、薄暗い部屋の闇がさらに増していく。こんなに早く夜になるなんて、あり得ない。でも、夢の中の世界には普通も当たり前もない。
「亜利沙……」
真夜中のようになった部屋の中で、私は亜利沙に一歩近づく。何て声をかければいいんだろう。亜利沙も、鈴も悪くないはずだ。じゃあ、誰が悪いのか。
違う。私が今しなくてはいけないのは犯人捜しじゃない。何か、亜利沙に言葉を。亜利沙の心に光が差すような、決定的で圧倒的な力を持った言葉を。
でも、私には分からない。もう一歩、亜利沙に近づく。暗い部屋の中、亜利沙の姿だけがぼんやりと光って見えた。
「近寄らないで!」
亜利沙が叫んだ。拒絶の言葉に身が竦み、思わず立ち止まる。
「ねぇ、亜利沙。大丈夫だよ」
「何が、大丈夫なの? 何も大丈夫じゃないじゃん!」
亜利沙の言う通りだった。私は何も言い返せず、息が浅くなるのを感じた。
どうして、亜利沙がこんな寂しい思いをしなければならないのだろう。
どうして、亜利沙と鈴の恋は悲しい結末を迎えなければならなかったのだろう。
二人の幸せそうな笑い声を、今でも覚えている。でも、それももう思い出だ。時間が経つにつれ、擦れて、消えていく。まるで、影も形もない夢のように。
あんなに、愛し合っていたはずなのに。
「亜利沙は悪くないよ」
「じゃあ、誰が悪いの? 誰を責めたらいいの? その人を責めたら私が幸せになれるの? そんなことしたって、鈴は戻ってこない! 適当なこと言わないで!」
「……そういうことじゃないよ」
「誰も、何も分かってくれない。誰のことも信じられない。どっか行ってよ、兎斗」
胸に鋭い痛みが走った。亜利沙は、私のことも信じてくれないんだ。私の言葉は、亜利沙には届かないんだ。ずっと一緒にいたはずの私達の心は、こんなにも遠く離れてしまった。
「私とずっと一緒にいてって言ったのは、亜利沙だよ」
「そんなこと言った覚えない! 兎斗だって、私のこと何も理解してないくせに!」
「そうかもしれないけど、亜利沙のこと、理解したかったんだよ。亜利沙のこと、信じたかった」
「そんなの無理だよ! 鈴は私のこと大好きって言ってくれた。これからも、ずっと好きだって言ってくれた。だけど、人の気持ちなんて、あんなに簡単に変わっちゃうんだよ!」
「でも、鈴は本当に亜利沙が好きだったよ。だから、そう言ったんだと思うよ。鈴に嘘つくつもりはなかったよ」
瞼の裏に浮かんだのは、雪の姿だった。私は雪の言葉を信じてあげられなかった。人の心なんて、すぐに移り変わってしまう。その時は愛し合っていたとしても、飽きられれば、ゴミみたいに、簡単に捨てられてしまうのではないか。それが怖くて、雪の言葉に心を預けることができなかった。
「女の子同士の愛に永遠なんてない。もう誰も、愛したくない!」
亜利沙の言葉にはっとして、息を呑んだ。部屋のガラスが割れて、床が傾く。亜利沙に手を伸ばす。口から言葉が出てこない。亜利沙がどんどん遠くなっていく。世界はどんどん崩れていく。
「亜利沙!」
名前を呼んで、理解する。
私が亜利沙に何も言えなかった理由。私が一歩踏み出して、その手を握ることができなかったのは、亜利沙が、私が思っていることと同じことを言ったからだ。
私も、そう思う。女の子同士の愛に永遠なんてない。
だから、雪に気持ちを伝えられなかった。亜利沙に手が届かなかった。何も言葉が浮かばなかった。
深い闇が私を包んだ。どんな光さえも飲み込むような、その闇の中に溺れる私は、なぜだかやっと安心できたような気がした。
最初から、私の居場所なんてどこにもなかったんだ。
目が覚めると、私は椅子に座っていた。純白のテーブルクロスが敷かれた長いテーブルには、大きなケーキやカラフルなマカロンなど、色とりどりのお菓子が用意されていた。私の手元に置かれた紅茶からは白い湯気が立ち、揺らめいていた。どこからか、ピアノの音が聞こえる。私は赤いバラが囲むどこかの庭にいた。空は青色だったが、絵の具で塗りつぶしたかのような、単調な色だった。白い雲は、綿をちぎって並べたかのようだ。
「あのケーキ、美味しそうでしょ?」
赤と白のドレスを纏った亜利沙が、私の隣の席に座っていた。テーブルを囲むようにずらりと椅子が並べられているものの、私達の他に椅子に座っている者はいない。
「ごめん。亜利沙」
私は俯いて言った。亜利沙は口元を手で隠して、くすくすと笑った。
「いいんだよ。あの頃の私はね、兎斗がどう頑張ってもああなっちゃう運命だったから。人はね、絶望を受け入れて成長するからね。あれは、私にはなくてはならないものなんだよ。だから、兎斗のせいじゃないんだよ」
「でも、亜利沙はあんなに悲しんでた。あんな痛みならない方がいい」
私の力で運命が変えられなくても、私にできることはあったはずだ。何もしなかったのは私だ。私は亜利沙を救えなかった。
「痛みを知らない人っていうのは、往々にして傲慢で自分勝手なんだ。兎斗なら私の言っていることが分かるよね」
亜利沙の言っていることが、私には理解できた。けれど、頷くことはしなかった。
「でも、私は亜利沙のこと、守りたかった」
「本当はそんなこと、思ってないんじゃない?」
私は顔を上げて亜利沙を見た。亜利沙は笑顔を浮かべている。ずっと見たかったはずの、亜利沙の笑顔。でも、違う。私の見たかった笑顔はこんなんじゃない。
これは、亜利沙じゃない。
亜利沙に似た誰かは、笑顔のまま続ける。
「兎斗が本当に救いたかったのは、雪でも、宮地でも、私でもなくて、自分だよね」
じっとりと、身体中に汗が浮かぶ。息が苦しくなる。私は震えた声で言った。
「亜利沙、じゃないよね。あなたは誰?」
赤と白の女王は目を細めた。きらめきを纏った煙に包まれた女王は、私の姿へと変化した。
「あなたは私。私はあなた。あなたが世界の誰よりも好きなのは、私」
私の耳元で、私が囁く。甘い吐息が耳をくすぐった。
ここは、亜利沙の夢の中じゃなくて、私の夢の中なのだろうか。でも確かにあの時、私は亜利沙の夢の中にいたはずだ。頭は混乱し、身体は動かなくなっていく。
「あなたはエゴのかたまり。雪や宮地に手を差し伸べて、本当は気持ちよくなってただけでしょ? 優しい私、すごーいって思ってたんでしょ?」
「違う。そんなこと、ない」
頭の中に、様々な景色が浮かぶ。雪の笑顔。宮地の横顔。亜利沙の後ろ姿。それなのに、みんなの顔がぼやけて、はっきりとは思い出せない。
どうして、思い出せないんだろう。あんなに好きだったのに。あんなに、大切だったのに。
「亜利沙の時もそう。あなたは結局、誰も守れない自分が可愛かっただけなんだよ。どこにも居場所がない自分が、本当は何よりも愛おしいんでしょ!」
私の耳たぶに爪を立てて、私が笑った。いつのまにか、空が灰色に染まり、分厚い雲が立ち込めていた。ピアノの音色は荒々しく、私の前に置かれた紅茶が濁る。
「私は、私のことが嫌い。あなたは、私じゃない」
赤と白の女王を睨み付ける。その瞳に、わずかな困惑が浮かんだのを私は見逃さなかった。私は女王の手首を掴んで、爪を立てた。少し力を入れればすぐに折れてしまいそうなその手首には、傷跡が一つもなかった。
私の顔で、私みたいなことを言うその女王は、私ではなかった。そのまま、立ち上がろうとすると、身体が椅子に縫い付けられたように動かなくなってしまった。驚いて目を見開く私を見て、女王は笑った。
「嘘つき。あなたは本当に嘘ばっかり」
「私は自分よりも雪の方が大切だった」
雪のためなら何でもできると思った。何でもしてあげたかった。この子がいれば、もう他に欲しいものなどないと思った。
確かに私は嘘つきだ。昔から、自分の気持ちから逃げて、誤魔化してばかりいた。でも、雪への気持ちに、嘘はない。自分の気持ちから逃げられなくなるくらい、私は雪が好きだった。
私は、自分のことが嫌いだ。そして、それ以上に、雪のことを愛していた。
本当の気持ちを伝えるのが怖くて、こんなところまで来てしまった。
雪に、もう一度会いたい。雪に抱きしめてもらいたい。
もう一度、大好きだよって言って欲しい。私も、雪に伝えたいことがある。
いつまでも、ここにいては駄目だ。私の居場所はどこにもなかったわけじゃなくて、私が自分の居場所を守ろうとしていなかっただけだ。
もう一度、あの場所に帰りたい。雪の隣で、笑っていたい。
次は逃げない。ちゃんと愛してみせる。
あの子の隣が、私の唯一の居場所だ。
「雪が本当にあなたのことを必要としてると思ってるの?」
女王が私の瞳を見つめた。暗く、どろどろした瞳の中に、私が映る。
「雪は私のこと、大好きって言ってくれた」
何度も何度も、雪はそう言った。私の傷を丁寧に舐めて、私のことを大切にしてくれた。わがままで自分勝手だけど、誰よりも優しい子だった。
「あの子は誰にでもそう言うんじゃない?」
喉の奥がひりついた。動揺を悟られたくなくて、女王を睨む。けれど、目の周りに力が入らない。
女王は私に対して、軽蔑したような視線を向けながら続ける。
「ねぇ。兎斗がしたことと同じことを違う人がやったらどうなると思う。雪はね、その人に恋するんだよ。恋して、大好きだって何度も言うんだよ」
胸が痛い。視界が水っぽく歪んだ。女王は私の喉に人差し指を当てた。
「あなただけが特別じゃないの。雪は誰だって好きになる。あなたじゃなくても良かった。本当は気づいてたんじゃないの?」
女王は指先に、ぐっと力を入れた。苦しい、苦しくて、息ができない。でもそれは、喉を圧迫されているからじゃない。
喉の奥。胸の辺りが、とても痛い。瞳から、涙がこぼれた。
女王の言った通りだった。いくらでも、代わりはいる。私が雪を必要としていても、雪が私を必要としているとは限らない。私じゃなくても良かった。私がしてあげたようなことを誰かが雪にしてあげれば、雪はその人を愛すだろう。
運命なんかじゃない。永遠なんてない。私が自分勝手に恋に落ちていただけ。
私なんて、いなくても良かったのかもしれない。
宮地だってそうだ。私じゃない別の誰かと出会って、恋をしていれば、私と一緒にいるよりもずっと、幸せだったかもしれない。
「もとの世界に戻って何になるの? それだって結局はあなたの自己満足だから。あなたがいなくても世界は回るし、雪も宮地も自分の力で進んでいける。それに、この世界って、とっても安全で、あなたにとっても、都合がいいでしょ? だって、ここにはあなたの嫌いな人もいない。それに、あなたの好きな人はあなたのことが好きなわけじゃなかった!」
女王の声が、鼓膜を揺らす。机の上のケーキが、ぐちゃぐちゃに腐っていく。酷い匂いがした。どこかで、雷の音がした。
「……あなたの、言う通りかもしれない」
小さな声で言う。女王の表情に、穏やかな光が差した。
「うん。そうだよね! そうなんだよ! ずっと一緒にいようね。ここにいれば、寂しくないよ」
ピアノが、美しいメロディーを奏でた。空は、絵の具で塗りつぶしたような単調な青。紅茶からは湯気が立ち上り、ゆらゆらと揺れた。机の上には、色とりどりのタルトや、ケーキ。乗せられた果実は艶やかな光を纏って、まるで宝石のようだった。
女王の私は、椅子に座って、ティーカップを手に取った。
「ねぇ、乾杯しようよ。ケーキも好きなだけ食べていいからね」
私はティーカップを手に取った。女王のカップに自分のカップを軽くぶつけると、楽器の音色のような綺麗な音が鳴った。
女王は嬉しそうに笑う。私は紅茶を一口飲む。温かくも、冷たくもない。味もしないし、香りもない。
カップの中に透明な雫が落ちた。なんの雫なのか、すぐには分からなかった。
雫は、とめどなくカップの中に落ちていく。自分の瞳が燃えるように熱くなっていることに、遅れて気が付いた。
ここにいれば、寂しくないはずじゃなかったのだろうか。
私は誰よりも、自分のことが好き。この世界には、私を傷つける者はいない。
淹れたての紅茶と、たくさんのケーキ。とても幸福なはずなのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。
子猫の鳴き声が聞えた。私は、震えた声で呟いた。
「雪。……会いたいよ、雪」
私だって、わがままだ。雪のこと、守るって言ったのに、守られていたのは私だった。
もう一度。雪に会いたい。正解も不正解も、常識も普通も分からない。分からないけど、それでもいい。雪の隣で自分達だけの答えを見つけ出したい。
誰の言葉にも負けたくない。もう、離れたくない。
私には、雪しかいない。
「兎斗!」
雪の声が聞えた。気のせいじゃなかった。顔を上げると、そこには雪がいた。白いドレスを纏った雪は、お姫様みたいで、私はやっと、雪の笑顔を思い出すことができた。隣に座っていた女王の顔から、血の気が引いていく。
ふっと身体が軽くなった。私は立ち上がって、雪の元に駆け寄った。そのまま、勢いよく抱きつく。ストロベリーの甘い香りが鼻の奥を撫でた。雪は私を抱き留めて、笑顔を咲かせた。柔らかい肌に、優しい体温。雪はちゃんと、ここにいた。
「迎えにきてくれたの?」
「うん。私が絶対に起こしてあげるって約束したでしょ?」
「うん。そうだったね」
私は雪をきつく抱きしめる。息が苦しくなっても、それ以上に嬉しくて、幸せで、温かい涙が溢れた。
「約束、忘れてたわけじゃないよね?」
雪が私のことを試すみたいに言った。私が曖昧に返事をすると、雪が私のことをくすぐった。私は笑い声を上げながら身をよじったが、雪を離さなかった。
「一人でいた方が、楽だと思った。だけど、雪がいないと、楽しくないし、何も食べても、味がしない」
雪のいない世界がこんなに寂しいなんて、知らなかった。安全じゃなくても、辛辣な言葉が数え切れないほど存在しても、私を傷つける人がいたとしても、私は雪のいる世界にいたい。雪の隣にいたい。
「私も、同じ。兎斗がいないと、つまんない。あのね、私ずっと兎斗に会いたかった。遅くなってごめんね」
「どうして、ここに来れたの?」
私が聞くと、雪は私の頭を撫でた。雪に触れてもらうと、安心する。
「私もね、夢喰い症候群にかかっていたの。私、今兎斗の夢を食べてるの」
「雪も、そうなの?」
「うん。ずっと前からそうだった。兎斗の話を聞いて、私も同じ病気かもしれないって思った。私、昔から、よく亜利沙の夢を見てたの。兎斗が見てた私が死ぬ夢もね、亜利沙の夢だったんだよ」
だから、雪と関わりがない時期も、雪の夢を見ていたんだ。先生のことを信頼していた私は、知らずに先生の夢を食べていた。
雪は私の頭を撫でながら話を続けた。
「あのね、誰でも良かったわけじゃないんだ。私はやっぱり兎斗がいないと駄目なんだよ。私は兎斗がいないと生きていけない。だけど、兎斗も同じなのか分からなくて、怖かったんだ。私だけ兎斗を必要としてたらどうしようって思って」
「私も、同じだった。私も、雪がいないと生きていけない。でも、私の代わりなんていくらでもいるんじゃないかって思った」
雪も、同じことを思っているなんて、知らなかった。私は雪が側にいないと、うまく息もできなかった。でも、雪は違うと思った。私以外の人とも愛し合えるし、私がいなくても、やっていけると思っていた。
「あのね、兎斗」
「うん」
「私、兎斗のこと」
『好きだよ』と声が重なる。私と雪の声だ。雪が驚いたように目を瞬く。
「私も雪のことが好きだよ。大好き」
私が言うと、雪は嬉しそうに微笑んだ。雪の瞳から、涙がこぼれる。
たった一つのことを伝えるのに、こんなにも時間がかかった。
私も雪のことが、大好きだ。
「やっと、言ってくれた」
私は雪の手を握った。もう、この手を離したくないと思った。絶対に離れたくないと思った。雪となら、永遠だって望める。そんな気がした。
この子と、叶わない夢だって叶えたい。望まれない恋だとしても、私は雪のことが好きだ。
「どうやったらあっちの世界に戻れるかな?」
私が聞くと、雪はいたずらっぽく微笑んだ。
「キスしたら目覚めるかも」
「そんなおとぎ話みたいなこと、あるわけないじゃん」
「おとぎ話みたいなことだって、起きるよ。私と兎斗なら」
そう言って、雪は私に口づけした。懐かしい、柔らかい唇。世界がきらめいて、とろけていく。視界の端で、白いうさぎが逃げていくのが見えた。
綺麗なピアノのメロディーは、私達のことを祝福しているかのようだった。
‡‡‡‡‡‡‡‡
見慣れたベッドの上で目を覚ました。私の隣には、下着姿の雪がいた。私と同じタイミングで目を覚ました雪は、私と視線を交わしてくすりと笑った。
「おはよう。雪」
「うん。おはよう。兎斗」
私達が起き上がると、宮地が私達のことを抱きしめた。宮地の肩は小さく震えていた。
「おはよう。宮地」
私が言うと、宮地は震えた声で、ばか、と言った。
「どれだけ心配したと思ってるの」
「え、みゃーち、私のこと心配してくれたの?」
私がふざけたような声で聞くと、宮地はぎゅっと腕に力を込めた。
久しぶりに聞く宮地の声。懐かしい宮地の顔。まだ慣れないこの体温。本当に可愛いな、と思った。
「心配しないわけないじゃない」
「うん。ありがとう。宮地」
私は宮地の小さな背中に触れた。宮地は必死に泣き声を抑えていた。私が守りたいものは、雪だけじゃなかった。宮地と、あともう一人。私には大切な人がいる。今日は何日だっけ、と聞くと、宮地が今日の日付を答えた。
「行きたい場所があるんだ」
私の言葉に、雪が首を傾げた。宮地は赤い目元を隠す。
「赤い薔薇を買っていこうと思って」
私は部屋に降り注ぐ、明るい光を見つめながら言った。この世界の光は、こんなにも美しい。