唇を離した雪は、瞳の奥に怪しげな光を宿したまま、微笑を浮かべた。淡い月の光が、少女から女へと変化した雪を照らす。子供のままの私は、浅く息をしたまま、雪のことを見つめる。

 雪の指先が私の唇に触れる。それだけで、身体中が痺れる。

「兎斗って、おいしいね」

 雪がくすくすと笑った。私は恥ずかしくなって、雪から目をそらす。

「雪はまずかった。苦い味がした」

「甘いだけじゃ可愛くないでしょ?」

 雪がそう言って、いたずらっぽく微笑んだので、私は呆れた表情を作った。愉快気に肩をすくめた雪は「兎斗にプレゼントがあるんだ」と、パジャマのポケットに手を入れて、小さな白い箱を出した。箱には金色の文字で、どこかのブランドの文字が印刷されていた。

「なに、それ?」

「兎斗に似合うかなって思って、買ってきたの。箱、開けてみて」

 雪に手渡された箱を開ける。中には少しくすんだ金色の懐中時計が入っていた。ネックレスの細いチェーンがついている。

「これ、雪が選んでくれたの?」

 雪は柔らかい表情を浮かべながら頷く。

「そうだよ」

 だから、何も言わずに家を出て行ったんだ。懐中時計を箱から出して、見つめる。蓋を開くと、鍵の形をした秒針が、規則正しく動いていた。

 雪が私のためにこれを選んでくれたことが、すごく、嬉しかった。今日は、朝起きたら雪がいなくて、ずっと帰ってこなくて、すごく怖かった。雪を待ちながら、ひとりぼっちで考えていた。私にはどうしても雪が必要なんだと思った。

 自分でも手に負えないくらい感情が絡まって、溢れそうになって、私は泣き出してしまった。雪は私の涙を見て、驚いた顔をした。

「どうしたの、兎斗?」

「べつに、なんでもない!」

 私は雪の胸に飛び込む。少しぐらついた雪は、私の背中に腕を回した。

 お願い。どこにも行かないで。

 言いたくても、言えなかった。

「兎斗が泣いてるとこ、初めて見たよ」

「恥ずかしいから、見ないで」

「うん。分かったよ」

 雪は私の髪を指で梳いた。私は雪の胸の中で小さく呟く。

「ずっと大事にするから」

 ありがとう、と私が言うと、雪は嬉しそうに笑った。

「それって、時計の話? 私の話?」

 雪が意地悪な声で質問をしてきたので、私は雪の肩を押した。

「もう寝るから。おやすみ」

 許されるのであれば、雪のこと、ずっと大切にしたい。だけど、雪は私のものじゃない。それは、分かっている。だから、あと少し、ほんのちょっとでも長く、こんな時間が続いて欲しい。

 夜風が髪に絡みつく。私は部屋の中に戻る。雪はベランダで、タバコを一本吸ってから、ベッドの中に入ってきた。タオルケットの中で、いつもように、指を絡める。

「おやすみ、兎斗」

「おやすみ」

 深い眠りに吸い込まれていく途中、雪の声が聞えた気がした。

 怖がらなくてもいいんだよ。

 雪の言葉の意味を掴もうとしたときにはもう、私は観客席に座っていて、雪の言葉を忘れてしまっていた。

 私の隣の席には、白いうさぎが座っている。唸るようなブザーの音と、上がっていくワインレッドの幕。私はまた、ここで夢を見る。

 

 

 その日は通院日だったが、午後から宮地が家に来ていた。宮地は夏休みに入ってから、何度も私の部屋を訪れていた。宮地には、雪が夏休みの間、家に泊まることになったという話をして、本当のことは話していなかった。けれど、察しのいい宮地のことだ。雪がただ私の家に泊まりに来たわけではないということに、すぐに気が付いたかもしれない。しかし、踏み込んでくるようなことは絶対にしなくて、宮地らしいな、と思った。

 宮地は、夏休み中、ほとんどの日にバイトが入れていた。お金が欲しい、というのももちろんあると思うが、宮地の本当の目的は、外で時間を潰すことだった。宮地は自分の家にいるのが嫌いだ。だから、しょっちゅう私の家で夕飯を食べていく。家族と一緒にいたくないという宮地の気持ちは、私にはよく分かるし、昔はお互いに親近感みたいなものを抱いていた。だから、宮地と二人で夕飯を食べている時は安心したし、誰にも邪魔されない場所で固まっている自分達が、少し強い生き物になれたような感じもした。

 宮地は夏休みに入ってから、毎日忙しいけれど、充実しているみたいだった。表情もなんだか柔らかくて、気持ちも落ち着いているのが分かる。

 雪と宮地はだいぶ仲良くなったが、雪は宮地に対しては、抱きついたり、指を絡めたりすることはなかった。宮地の方は、なんだかんだ言って雪に甘く、雪の代わりにお風呂を洗ったり、洗濯物を畳んだりしていた。面倒見のいい姉と、甘えるのが上手い妹のような二人を見るのは面白かった。

 雪はたまに宮地が遊びに来ると嬉しそうだったし、宮地も雪に甘えられるのは嫌いじゃないようだった。そんな二人に留守番を任せて、私は病院に向かった。

 

 

 いつものように、予定の診察時間からだいぶ遅れて、私の名前が呼ばれる。クーラーの効いた部屋の中で、清潔な白衣を着た先生が、私のことを待っていた。

「久しぶり。夏休み楽しんでる?」

「まぁ、そこそこ」

 私が答えると、先生がにやっと笑った。もちろん先生には雪と生活していることを話していない。夏休み中は、どこかに行ったり、バーベキューをしたりなど、夏休みっぽいことは一つもしていないが、雪と一緒にいるだけで楽しかった。

「へぇ。だいぶ充実してるみたいじゃん。良いなぁ。私も夏休み欲しい」

「そういうわけじゃないです。大人は夏休みがなくて可哀想ですね」

 雪と一緒に暮らすようになってから、今までは代わり映えのしなかった日々に、色がつくようになった。雪と食べたご飯や、雪と見た映画。他愛もない会話の一つ一つが、数え切れないほどの思い出になって、私達の間に積み重なっていった。

 全部覚えていたいな、と思う。きっと、それは不可能なことだろうけど。

「そう言う兎斗だって、気が付いたら大人になっちゃってるよ。まぁ、大人も可哀想なだけじゃないさ。兎斗もそのうち分かるよ」

「私が大人になったら先生はおばさんになってますね」

「私は永遠の十八歳だから、年は取らないの」

 先生がペンの先をびしっとこちらに向けてきた。私は「はぁ」と言って、顔を傾ける。

「あくまでもその設定は続くんですね」

「設定じゃないからね、これ」

 先生はそう言うと、カルテを開いた。このカルテの中には、私の忘れた夢の記憶も書き記してある。

「最近は、悪夢を見ませんでした」

 私の言葉を聞いた先生が、視線をカルテから私に移す。どこか笑み含んだ顔と冷静な瞳で、じっと私のことを見つめてくる。

「それは嘘だね」

 図星で、思わず目をそらす。そんな私を見て先生はにやっと笑ったあとに、少しだけ悲しそうな顔した。

「すみません」

 取り繕うこともできなかったし、したくなかった。先生は嘘よりも真実を望んでいると知っていて、それでも私は嘘をついた。私が下を向くと、先生が聞いてきた。

「なにか思い出したくない夢でも見たの?」

 とても優しい声に、胸が締め付けられる。

「そういうわけじゃ、ないんです」

 私がさっき嘘をついたのは、雪のことをどう説明すればいいのか、分からなかったからだ。でも、やっぱり、先生は私の嘘をすぐに見抜いた。だからって、叔母と生活する同級生の女の子を盗んできた話なんて、できるわけがない。

「どうしても言いたくないことだったら、無理に言わなくても良いけどね。でもここは人に言いたくないことを吐き出してもいい場所なんだよ」

 私には、先生には話せない秘密ができた。この部屋で吐き出せない秘密。

 私は短い沈黙の後、ぽつりと話し出した。

「悪夢ばかり見る友達がいるんです。私はその子の側で寝ています。その子の夢を、食べるんです。嫌な夢ばかり見ました。死を連想させるようなものばかりです。でも、私は苦しくないんです。その子が、気持ちよく、安らかに眠れるなら、それで良いんです」

 先生は黙って私の話を聞いていた。その瞳からは、胸の内で何を思っているのかは読み取れない。

「……そっか。すごいね。すごいじゃん、兎斗。それは、誰にでもできることじゃないよ。普通の人には、耐えられない。強いね。兎斗は。強くて、優しい」

 先生の心から感動したような声に戸惑う。私は先生に、すべては話せなかった。

「私は、別に」

 私にとってこの病気は、人に誇れるようなものではない。ずっと隠していたいし、人に知られたくない。でも、この病気のおかげで、私は雪を守ることができる。そのためなら、どんな悪夢にだって耐えられる。

「私は兎斗のこと、ちゃんと守るからね。でも、これだけは約束してほしい」

 私は顔を上げて先生を見る。先生はまっすぐに私を見つめて言った。

「その優しさで、自分の身を滅ぼしちゃだめだ」

「大丈夫、ですよ」

 もともと、宮地としか関わりを持たず、そこに存在しているのか、していないのか、分からないような自分だった。雪が私を必要としてくれている今、私には存在する意義がある。現実の世界でも、夢の中でも、私はこの身を雪につくそう。それが、私に幸福や、温かさを教えてくれた雪への、せめてもの恩返しだ。

「無理だけは、しないで欲しい」

「無理なんて、してないですよ」

 身体が壊れても、心が壊れても、それが雪のためならば、私はそれで幸せだ。自分が、どんどん盲目になっていくのを、自覚はしている。

 それでもいい。雪がいれば、それでいい。

 よろしく頼むよ、と先生は笑った。その笑みには、少しのほの暗さも含まれていて、けれども私がその意味に気がつくことはなかった。

 

 

 家に帰ると、部屋が甘く温かい香りでいっぱいになっていた。

「おかえり、兎斗」

 お出迎えに来た雪が、笑顔を咲かせた。雪の笑顔を見ると、安心する。私はマスクを外しながら、「ただいま」と返事をする。

「何か作ってるの?」

 私が聞くと、雪はとても自慢げな顔をして、ふふん、と胸を張った。

「宮地と一緒にケーキ作ったんだ。兎斗のために作ったんだよ!」

「へぇ。二人で作ったの。すごいじゃん。ありがとう。雪」

 私は自分よりも背の高い雪の頭を撫でた。さらさらのおでこを撫でられた雪は、嬉しそうに笑って、私に抱きつく。スポンジが焼けるときの甘い香りが、雪の髪にも絡みついていて、美味しそうな匂いがした。

「もっと褒めて!」

「雪、すごい。天才」

「やったー!」

 雪が子供のようにはしゃぐので、私は笑った。雪の腕の中で雪の体温や柔らかさを感じていると、ソファーで本を読んでいた宮地が言った。

「雪が言い出したのよ。兎斗のためにケーキを作りたいって。まぁ、結局はほとんど私が作ったようなものだけれど」

「私だって頑張ったもん!」

 怒った雪が頬を膨らます。私が膨らんだ頬をつつくと、ぷす、と空気が抜けて、それが面白かったのか、雪は楽しそうに笑った。

「みゃーちもありがとね」

 私が言うと、宮地の頬が淡いピンク色に染まった。宮地はそれを隠すように下を向いて、本を読むふりをする。

「雪が作りたいって言ったから、作っただけだから」

 本当に、雪のお姉ちゃんみたいだな、と思って、私はくすくすと笑った。宮地が「何よ」と睨んできたので、「なんでもないよ」と言って返した。

 ここが、私の居場所。雪がいて、宮地がいて、二人は私のことを大切にしてくれる。

 その優しさで、自分の身を滅ぼしちゃだめだ、と先生の言葉が耳に蘇る。大丈夫。私はきっと、そんなことにはならない。だって、今の私は二人を守ることで保たれているから。

「ね、兎斗が帰ってきたから、ケーキ食べようよ」

 雪が言うと、宮地が「そうね」と言って立ち上がった。雪が紅茶を淹れてくれて、宮地がケーキを切り分けた。二人が作ったのは、ロールケーキだった。ふわふわのスポンジで、苺とクリームを包んでいる。

「すごい、綺麗にできたじゃん」

「でしょでしょ?」

 雪は弾んだ声で言って、笑顔を見せる。ケーキを食べるとき、なんの記念日でもないのに、三人で乾杯した。かちん、と音が鳴って、湯気の立つ紅茶が揺れた。

 昔、ロールケーキを食べる夢を見たような気がするな、と思い出す。どんな夢だったかは、もう忘れてしまったけれど。

「美味しい」

 私が言うと、宮地と雪はお互いを見つめ合って、顔を綻ばせた。そんな二人のやり取りが可愛いな、と思った。

「良かった。でもこれ、本当に美味しいよ。ね、宮地」

 雪がわずかに身を乗り出しながら言う。

「そうね。やっぱり私には料理のセンスがあるんだわ」

 宮地が涼しげな表情で紅茶に口をつける。

「あ、ひどい! 私も一緒に作ったじゃん!」

「そうね。冗談よ。冗談」

 雪が抗議の声をあげると、宮地は楽しそうに笑った。からかわれた雪は、不服そうな表情をしながらも、どこか嬉しそうだった。私はそんな二人を見て、二人が仲良くなってくれて、本当に良かったな、と思った。私達は学校ではバラバラで、関わる友人のタイプも違うけれど、ここでこうやって集まれば、冗談を言って笑い合うことができる。クラスメイトから見たら、私達の関係は奇妙に映るかもしれないが、私達は私達で、それなりに楽しくやっていた。

 ケーキを食べ終えて、食器の片付けをしている際、雪のいないところで宮地が言った。

「兎斗、最近ちゃんと眠れているの?」

 宮地の言葉に、目を瞬く。宮地の顔を見ると、真剣な表情をした宮地の瞳の奥に悲しみの色が沈んでいるように見えて驚いた。どうして、そんなに悲しそうな目をするんだろう。

「え、なんで? ちゃんと寝てるけど」

「それならいいのだけれど。最近の兎斗はぼーっとしてることが多いし、顔色も良くないから」

 宮地は少し声を潜めて言った。雪に聞えないようにするためだろう。視線はリビングでテレビを見る雪を気にして、ちらちらと動いていた。

「心配してくれてるの? ありがと、みゃーち。あと、顔色悪いのはいつものことだから」

 私が笑うと、宮地は怒ったような顔をした。いつもとは違う厳しい表情に、少し身が竦んだ。

「兎斗はいつも、重要なことを教えてくれないわ。いつも、隠してばかり」

 宮地の声は鋭く、けれどわずかに震えていた。その震えが、怒りからくるものなのか、悲しみからくるものなのか、私には分からなかった。もしかしたら、そのどちらもかもしれなかった。

「そんなことないよ。宮地と雪にだけは、本当のこと、言えるから」

 二人の前では正直でいようと思っている。だって私には、雪と宮地しかいない。隠し事だって、二人の前ではしないつもりだ。

「それでも、私達に言いたくない本当のことは言わないでしょう?」

 宮地の言葉は真理を突いていた。私はまだ、雪と生活するようになってから悪夢を頻繁に見るようになったことを、誰にも話していない。私は少しムキになって答えた。

「それは、誰だってそうでしょ?」

 宮地だってそうじゃん、と私が言うと、宮地は悔しさと悲しみの混じったような顔をした。

「どうしたの? 二人とも」

 雪が私達の間にひょこっと顔を出して、私達の会話は終わった。

「なんでもないわよ」

 宮地が雪に笑いかける。「そっか」と雪は頷く。私は黙ってトイレに向かった。

 胸の奥が、じりじりする。

 

 夏休みも、そろそろ終わりに近づいてきた。日中は相変わらず、焦げ付くような暑さだ。夜になると少し涼しくなって、私達は夜寝る前、ベランダに出て、星を眺めるのを日課にしていた。

 今日も、ベランダに出て、空を見上げる。雪は私の隣で、ちびちびとお酒を飲んでいた。

「雪」

「なに?」

「夏休みなのに、どこにも連れていってあげられなくて、ごめん」

 この夏休みは、海に行くことも、バーベキューに行くこともなかった。原因は私のやる気のなさだったのだが、雪もどこかに遊びに行きたいとか、退屈だとか、言わなかった。たまに二人で買い物に行き、雪の服や下着を見たり、レンタルビデオ店に行って、DVDを借りてきて、映画を見るくらいのことしかしなかったが、私はそれで満足だった。しかし、雪はどうなのだろう。本当は、もっと遠くに行きたかったり、普段はできないようなことをしたかっただろうか。

「いいよ。兎斗が隣にいてくれるだけで楽しいもん」

 お酒を子猫のようにペロペロと舐めながら、雪が言った。その言葉に嘘がないことが、私には分かった。私も、雪が隣にいてくれるだけで楽しい。

「それなら、良いけど」

 私は安堵の気持ちから、少しだけ目を細める。

「あ、でも、兎斗としたいことがあるんだ」

 雪はお酒を飲み干すと、にこりと笑った。酔いが回り始めたのか、首筋も赤く染まっている。

「なに?」

「秘密。もう、寝よう」

 雪はそう言って、部屋の中に戻っていった。私は不思議に思いながらも、ベッドに向かう。横になって雪を待っていると、やってきた雪は手にフェイスタオルを持っていた。雪は私の上に馬乗りになると、私の両手首を掴み、まとめた。

「どうしたの、雪」

 私は驚いて少し大きな声を出した。頬を赤く染めた雪の瞳は艶やかだった、完全に酔っている。雪は何も答えず、フェイスタオルで、私の手首を縛った。手首を拘束され、雪に馬乗りになられていることで、身動きが取れなくなった私は戸惑い、雪を見上げた。雪は少女の面影を消し去った、女の顔をしていた。雪は時々、こんな顔をする。こんな顔をして、唇を重ねてくる。その時は、気持ちが良すぎて、身体がぐずぐずにとろけてしまいそうになる。私はまだ、快楽が恐ろしく、享受できなかった。

「やだ、離して、ゆき」

 怖くなった私は、必死に訴えかけようとしたが、声が小さく擦れていく。雪が顔を近づけてきて、私はぎゅっと目を瞑った。雪の唇が、私の耳たぶに触れる。

「ん」

 私は短く声を漏らす。雪は鋭い舌先で、耳たぶを舐め、そして甘噛みみした。

「ゆきっ、やだ」

 私は泣きそうになりながら、泡のように頼りない声を出す。雪は何も答えない。私の身体の中の熱の塊が、どんどん大きくなって、ぐるぐると回る。雪のざらりとした舌が首筋を撫でた時、やってきた刺激に耐え切れなかった私は、小さく震えた。

 瞳の端から、熱い涙がこぼれる、雪はそれを、丁寧に舐めとった。

「しょっぱいね。海ってこんな味がするのかな」

 雪が囁くような声で言った。鼓膜を淡く揺らすその声ですら、今の私の身体を刺激する。「ねぇ、兎斗。私、兎斗とずっと、こうしてみたかった」

 雪が私の服の中に手を入れる。鋭く甘い電流が走って、私は小さく声を上げた。何度も首を横に振っても、雪はやめてくれなかった。焦らすように、からかって遊ぶように、その指先はお腹からその上へとゆっくりとのぼっていく。その動きは、私の傷を確かめているようでもあった。

 お願い。見ないで。ずっと知らないでいて。私の涙は溢れ続ける。

 怖い。頭が、おかしくなりそう。

 膨らんでいく熱の塊は、まるで怪物のようだった。私の中で、うねり、暴れる。

 雪の手が、私の服を捲った。私は思わず、息を止めた。私のお腹があらわになる。傷だらけの、醜い身体。窓から入ってくる夜風が、私の肌に触れる。

「見ないで」

 私はか細い声で言った。吐息が細かく震えていた。涙の跡が、どんどん冷たくなっていく。

雪は私のお腹に顔を近づけた。

「やっ、やだ。やめて」

 子供のような声で、私は叫んだ。雪は私のお腹に出来た傷を、舌先で丁寧に舐めた。やめようと思ってもやめられなかった自傷。直りかけの傷はガサガサとしていて、雪はその傷を癒していく動物のように、何度も、何度も、傷を舐める。

 ぴりっとした痛みに覆い被さるように、温かく甘い感覚が流れてきた。熱い吐息をこぼす私に、雪が言った。

「これが、気持ちいいってことなんだよ」

 私はいやいやをするように、首を振った。

「はっ、ん、ゆき」

 こわい、と私言うと、雪は私の頬を撫でた。

「こわくないよ。気持ちがいいのと、幸せは、同じものだから」

 本当に、そうなのか分からなくて、でも、気持ちが良くて、私は嗚咽を漏らしながら、か細く喘ぐ。

「兎斗の傷、私が全部、愛してあげる。愛して、治してあげる」

 ぴちゃぴちゃと、水音がする。私の傷がふやけていく。また、泣きそうになる。こんな醜い傷も、雪は愛してくれる。口の端からこぼれる甘い声が、自分の声じゃないみたいだ。

「あっ、ゆき」

「なに? 兎斗」

 雪は私の傷を一つ一つ愛おしむように撫で、舐めていく。

「私のなかに、うさぎが、いる気がする」

「うさぎ?」

 私は、こくりと頷いた。私の中に住む、白いうさぎ。他人の夢を喰う、悪いうさぎ。ずっと、怖かった。ずっと、寂しかった。

 雪に、助けて欲しい。

 雪が私の首にゆっくりと触れた、そして、指先から、手のひらに、じわじわと力を込めていく。息が苦しくなって、視界の端が白んだ。私の身体が、勝手に酸素を求めて、もっと、もっと、と空気を吸い込む。喉仏を圧迫されたことで、吐き気を覚え、舌の先が震えるのを感じた。意識が重みを失って、揺らめく。

「……そんなうさぎ、私が殺してあげるよ」

 私は雪のその言葉に、儚くもはっきりとした、一筋の光のような救いを見出した。

 

 

 夏休みが終わる三日前、宮地と雪と三人で出掛けることになった。宮地の提案だった。食器を買いに行こう、と宮地が言ったのだ。私の家にある食器は、宮地の分と私の分で、同じ柄のものが二つずつあったので、よく使う大きさのお皿を雪の分も合わせて、三枚分買って揃えたいとのことだった。

 宮地と出掛けるのは明日だが、雪は相当、楽しみにしているみたいだった。明日着る服や、それに合わせるアクセサリーを選んだりして、嬉しそうだった。どれがいいかな、と聞かれても、私にはファッションのことなど全く分からないので、全部似合うと思うと答えたら、そういうことじゃない、と怒られた。

 雪と宮地は、たまに一緒に出掛けている。雪は宮地のセンスの良さを気に入っているし、多分私と一緒に買い物をするよりも、話が合う宮地と店を見る方が楽しいだろう。三人で出掛けるのは、なんだかんだ言って今回が初めてだ。もう学校の課題も終わっているし、夏休みの最後にちょっとした思い出ができて、雪も嬉しいんじゃないだろうか。

 雪がお風呂に入っている際、私はタンスの引き出しを開けた。中には、細々とした小物や、使う当てのないアクセサリーなどが入っている。

 藍色の小箱を手に取って開く。中には、金色の小さな鍵のネックレスが入っている。細かな部分に、リボンの装飾がついていたり、アンティーク風の加工が施されているそれは、宮地と付き合っていたころ、宮地がプレゼントしてくれたものだった。箱を開けた時は、嬉しくて、恥ずかしくて、こんなに可愛いもの、私はつけない、と言ったら、そのまま喧嘩になった。あの頃は私も宮地も、今よりずっと幼稚で、頭が悪くて、思い出すとおかしくて笑ってしまう。

 箱から出したネックレスを、手のひらに乗せて見つめる。

 少し前、宮地と、喧嘩とまではいかなくても、口論になりかけた。宮地は私のことを心配して声をかけてくれたのだから、宮地は全然悪くなくて、すぐにむきになった私がいけなかった。ああやって宮地と衝突したのは久しぶりだったので、あの時、雪が来てくれて助かった。その日は少しぎくしゃくした私達だったが、宮地はあの後も普通にこの家に遊びに来てくれたし、ちょっとした口論になったことを引きずらなかった。やっぱり、宮地は大人っぽいな、と思う。

 宮地がこうやって、遊びに行こうと誘ってくれたのも、きっと雪と私のためだ。そう考えると、私はいつも宮地から色々なものを貰ってばかりな気がする。

「兎斗はいつも、重要なことを教えてくれないわ」と宮地は言った。宮地の言う通りだった。

もう少し、素直になりたい。正直になりたい。

 

 

 その日の夜、私は宮地の夢を見た。あのネックレスが引き金かもしれない。宮地が家で家族と誕生日会をする夢。大きなホールのショートケーキには、ロウソクが十四本。この時の宮地は十四歳だ。高校で出会った私達は、この時点ではまだお互いの顔も名前も知らない。今と同じで、髪の毛をツインテールに結った宮地は、私がプレゼントしたレースのリボンではない、他のリボンをつけていた。宮地の父親と母親が、嬉しそうに手を叩き、ハッピーバースデーの歌を歌う。嬉しそうに顔を綻ばせた宮地も、一緒になって歌う。リビングの棚に、宮地の写真が並んでいる。去年の誕生日会の写真もあった。大きなチョコレートケーキを前に、笑顔を浮かべる宮地と、宮地の父親と母親。

 重なる三人の歌声。少しタイミングがずれた手拍子。三人はとても楽しそうだ。

 でも、これは本当にあったことではない。宮地には、一つ上の姉と、二つ下の弟がいる。

 学歴優秀な姉と、眉目秀麗な弟は、両親からとても愛されている。私には何もない、と宮地は言う。宮地は姉と弟に対して、強い劣等感を抱いていた。

 宮地にとって、この夢は幸福な夢なのだろうか、それとも孤独な夢なのだろうか。目覚めた宮地がどう感じるのか、私には分からなかったが、もうこの夢は私が食べてしまっている。

 宮地の劣等感も、私が食べてあげられたらいいのに。でも、そんなことをしたら、宮地は今の宮地ではなくなってしまうだろうか。

 

 翌日、目覚ましが鳴るよりも早く、雪に起こされた。宮地が家に来るまでまだ時間があるし、もう少し眠っていたかった。そう思いながら、ベッドの上でぐずぐずしていると、雪がお腹が空いた、と言い出して、私はあくびを噛み殺しながら朝食を作った。今日は雪の希望で、少し豪華にフレンチトーストを作る。ポイントは、焼く前にレンジに入れて、液を染み込ませることだ。

 完成したフレンチトーストに、雪はバニラアイスを添えて食べていた。雪は本当に甘いものが好きだ。フレンチトーストに合わせてコーヒーを出したが、雪はミルクをたっぷり加え、はちみつを溶かしていた。

 今売れている文房具とか、どこかのアイス屋さんの情報を流す朝の平和なニュースを見ながら、少し薄いコーヒーを飲む。フレンチトーストは我ながら上出来で、今度宮地にもおやつに作ってあげようかな、と思う。宮地も甘党で、パンケーキとか、マカロンとか、可愛い食べ物が好きだ。私の前ではあまり食べないけれど。

 食器の片付けをして、ゆっくりと、外に出る支度をした。服にこだわりのない私は、肌が隠せるように、薄手で長袖のロングティーシャツに、スキニーパンツを履く。タンスの引き出しを開けて、少し迷った後、宮地のくれたネックレスをつけることにした。自分でつけようと思っても、慣れていないせいか全然できなくて、雪にやってもらった。

「可愛いネックレスだね。兎斗、こんなの持ってたっけ?」

「うん、まぁ」

 私は曖昧に答えた。宮地に貰った、と言えなかったのが何故なのか、私にも分からなかった。

 宮地は十時ぴったりに私達を迎えに来た。駅に行き、電車に乗って、隣町まで向かう。私達の住む町は、スーパーやドラックストアなど、生活必需品を販売する店は揃っているものの、洋服や雑貨などを売っているお店はあまりない。

 電車の席が空いていたので、三人で並んで座る。私の左側には宮地、右側には雪が座っている。宮地とこんなに近くに座ることなんて珍しくて、なんとなく落ち着かない。私達には、どちらかがソファーに座っているときには、自分はソファーに座らないという暗黙の了解があるため、宮地が肩の触れ合うほどの距離にいることもあまりない。

 ふと自分の首元を見たら、ネックレスが服で隠れてしまっていることに気がついて、元に戻す。隣で宮地がはっと息を飲む気配があった。けれども、何も言わない。

 やっぱり、宮地も覚えていたんだ。私はわずかに意地悪な笑みを浮かべて、宮地の方に視線を寄こさなかった。

 隣町には、デパートやショッピングモールがあり、それも徒歩であるける距離に揃っているので、私達はまず、食器類の品揃えが一番良さそうな、ショッピングモールへ向かった。

 キッチン用具売り場には、様々な調理器具が並んでおり、カラフルなフライパンや面白そうな便利グッズなどが目を引いた。宮地はお皿の並ぶコーナーに行くと、私達が食事の際によく使うサイズの小皿を手に取った。

「こんな感じのものがいいかしら」

「そうだね。三枚、同じの買おうよ」

 私は頷いて答えた。

「えー。私こっちがいいな」

 雪が水玉模様のお皿を手に取る。雪は水玉模様が好きだ。

「じゃあ、こっちにする?」

 お皿を手に持ったままの宮地に聞く。宮地が選んだお皿は、ピンク色でレース模様がついている、いかにも宮地の好きそうなデザインだった。

「雪がそうしたいのなら、それでいいけれど」

「うん。これがいい。これにする!」

 雪はきらきらとした笑みを浮かべた。私と宮地だけだったら、これがいいとかこれはいやだとか、軽く喧嘩になっていただろうけど、雪がいると、宮地は雪の意見を尊重してあげることが多い。

 その他にも、お皿を三枚ずつ買って、その後は雪や宮地の服を見るために、何件か店を回った。宮地の好むファッションの系統と、雪の好む系統は違う。宮地はフリルやリボンがついているようなロリータっぽい甘い服を好むが、雪は意外とシンプルなものを好んで着ている気がする。でも、肌の露出が多い服が好きで、ロングスカートやズボンを履くことは滅多にない。

 服に興味のない私は、二人からセンスのない人という扱いを受けていた。不服だったが、その通りなので、私は、これが似合うとか、これが可愛いとか言ってはしゃぐ二人を見ているだけだ。後は、荷物持ち。何故だか、家族の買い物に付き合わされる父親の気持ちが分かるような気がした。

 一通り、二人の見たい店を回った後、遅めの昼食を取った。雪の希望で、パスタを食べた。宮地と服を買うのが楽しかったのか、雪はご機嫌だった。パスタもちゃんと完食すると、デザートにパフェを注文して、宮地と二人で食べていた。

「美味しいね」

 雪が宮地に笑いかける。

「そうね」

 頷いた宮地は、甘い物が食べられて幸せなのか、いつもよりも和んだ表情をしていた。宮地は本当に、こういう時だけは可愛い。

「宮地は雪とデートしてるとき、いつも二人で甘い物食べてるの?」

 私が聞くと、宮地は恥ずかしそうな顔をしたが、すぐにいつものような怒った顔になった。宮地は私の前ではやけに虚勢を張りたがる。それは私も同じだけど。

「まぁ、そうね」

「私とデートしたときはこういうの、一度も食べたことないのにね」

 私が笑みを浮かべながら言うと、宮地は間髪入れずに言った。

「私達、デートなんてしたことないじゃない」

 宮地の言う通りだった。私達はデートと呼べるようなデートをしたことがない。少しからかってみたくなっただけだ。

 私達の会話を聞いている雪は、きょとんとした顔で首を傾げた。そろそろ、言ってもいいだろうか、と思う。隠していたわけではないけれど、ずっと雪に教えていなかったことを。

「雪、私と宮地って、昔付き合ってたんだよ」

「え!」

 驚いた雪は、思わず立ち上がりそうになっていた。宮地が私のことを鋭く睨み付ける。やっぱり、宮地も雪に教えていなかったみたいだ。まぁ、あの時の記憶は、私達にとってはもう黒歴史だ。

「付き合っていたって言っても、本当に何もしなかったわ。それに、すぐに別れたもの」

 宮地は急ぎ気味な早口で喋った。動揺しているみたいだ。少し、面白い。

「そんなことないじゃん。私とみゃーちはラブラブだったでしょ?」

 動揺している宮地をもっと揺さぶりたくて、そんな冗談を口にする。宮地の顔がもっと怖くなったので、私は肩をすくめた。

「そんな訳ないじゃない。何か私に言いたいことでもあるの?」

「別に、なにもないよ」

 私はアイスコーヒーのストローに口をつける。溶けかけた氷のせいで、味が薄い。

「ほんとに、二人とも付き合ってたの?」

 雪は何故かしゅんとした顔をしていた。その理由が私には分からなかった。

「でも、今は完全に恋愛感情もないもの。別に心配しなくていいのよ。雪」

 宮地は妹に言い聞かせる姉のような口調で言った。悲しそうな目をしていた雪が小さく頷く。

「……うん」

「そんなに悲しそうな顔、しないで。私は雪から兎斗を取ったりしないわ」

 宮地が雪の手に自分の手を重ねて、優しく微笑んだ。下を向いたまま瞬きを繰り返していた雪は顔を上げて宮地の方を見た。

「うん。ありがとう」

 宮地の手、あったかいね、と雪が言った。宮地が雪に触れるところを見たのは初めてだった。とても、自然な触れ方だ。胸の奥が、ちりっと焼けたように痛んだ。

 なんだろう、これ。痛みの理由がすぐには分からなくて、不思議に思う。

 雪に触れられるのは、私だけだと思っていた。宮地に触れられた雪は、すごく嬉しそうだ。安心したような顔をしている。

 これが、嫉妬なのか。私は宮地に、嫉妬しているんだろうか。さっきまでの雪の表情の意味が分かりそうな気がしたけど、分かってしまうのが怖かった。

 雪の体温を知っているのが私だけではないということ。その事実が、何故か嫌だった。宮地も、亜利沙も、雪の温かさを知っている。雪は私だけのものじゃないって、分かっている。雪は雪だ。それでも雪の一番近くにいたいと望む私は、強欲なのだろうか。

 私は二人を見ないようにして、アイスコーヒーを啜った。中身が全部なくなってしまって、ストローを甘噛みする。

 雪が私を変えていく。知らなかったことも、分からなかった感情も、見て見ぬふりができなくなっていく。私はそれが、怖かった。

 

 その日の夜、家に帰ってきた雪は、遊び疲れたみたいで、いつもよりも大人しかった。私がお風呂からあがると、雪がリビングで宮地に選んで貰った服やアクセサリーを見つめながら、柔らかく温かい微笑みを浮かべていた。私はそんな雪の手を取って、ベッドまで引っ張った。濡れた髪のまま、暗い寝室のベッドに横たわった私は言った。

「雪に、してほしい」

 雪は驚いた顔をしたが、小さく不敵な笑みを浮かべた。

「なにしてほしいの?」

 頬の内側が、燃えるように熱くなる。視界が涙で滲んだ。

「さわって」

 か細い声が震える。雪と初めてこうしたあの日から、私は何度もベッドの上で雪に傷を舐めてもらっていた。雪はその舌や指先で、ぼろぼろの肌をしたばけものみたいな私を飼いならす。雪に触れられているときは、身体中が熱くなって、頭がくらくらして、とても切ないのに、幸せな気持ちになった。

「兎斗からおねだりしてくれるなんて珍しいね」

 疲れて大人しかったはずの雪の目が、薄く輝いていた。女の顔の雪。今までは怖かったはずなのに、最近はこの表情を期待して、待ちわびている自分がいる。

「雪のせいだよ」

 雪に出会って知った感情は、キラキラしたものばかりではなかった。ちりちりと胸を焼くような嫉妬心になんて、気が付きたくなかった。

 私は何も知らない自分のことが、本当は好きだった。潔癖ぶった自分。他の人が必要とするものを、自分には必要がないと言って、跳ね除ける自分。いつのまにかそんな自分が、強くてかっこいいと思っていた。

 でも、雪に振り回される私はどうしよもなく女の子で、弱くてかっこ悪くて、欲しがりだった。

 これも、全部、全部、雪のせいだ。

「愛は人を狂わせるんだよ。誰だって普通じゃいられなくなるの」

 雪は私の手首をタオルで縛り上げる。簡単に振りほどけないように、跡がつくほど、ぎゅっと力強く。手首を拘束されると、身体の芯がじん、と熱を持つ。

「愛? 愛って、何?」

 私は子供のような声で言った。なんだか、嫌な言葉だな、と思った。浅ましくて、陳腐なもののように感じた。

「そっか。やっぱり兎斗には分からないんだね」

 私の頬を撫でた雪がひどく悲しそうな顔をしていたので、喉の奥をぎゅっと絞られるような痛みを感じた。何も言えない私に、雪が口づけする。そのまま、舌を入れてくる。最近は雪の舌をどう受け入れればいいのか、分かるようになってきた。

 頭が蕩けそう。自然と、涙が溢れてきた。雪が服の中に手を入れてきて、私は小さく震える。

 雪に変えられていくことを嫌がる私は今、何もかもを雪に塗りつぶしてもらうことを望んでいる。

 

「お金がなくなってきちゃった」と雪が言い出したのは、夏休みが明けて、一週間ほど過ぎた頃だった。雪は金遣いが荒く、今までは亜利沙から貰ったお小遣いで色々買っていたらしいが、もう亜利沙からお小遣いは貰えないため、お金は減っていく一方だった。そんな雪の話を聞いて、宮地が今のバイト先に雪を誘った。土日は忙しいけれど、時給はそこそこ良いらしい。

 雪は無事、面接に合格し、バイトを始めることになった。これが人生で初のバイトらしい。雪が本当に働けるのかどうか不安だったが、雪は家以外では外面が良いし、何より宮地が雪の面倒を見てくれるのが心強かった。

 雪は週三回ほどのペースでシフトを入れていた。そろそろ仕事にも慣れてきたから兎斗に来てほしいと言われて、私は雪のバイト先に向かった。

 店に入ると、木曜日の夕食時だったが、意外と混んでいた。家族連れや、カップル。一人で来ているお客さんもいた。以前、宮地のバイト姿を見にきたことがあったが、相変わらず店内はメルヘンチックで、絵本の中に迷い込んだような気分になる。

「いらっしゃいませ」

 はつらつとした声と共に厨房から出てきたのは、フリルが施された青いチェック柄のエプロンを着た雪だった。似合っているし、なかなか様になっていた。

「来てくれたんだね。待ってたよ!」

 雪が顔を綻ばせる。厨房から出てきた時は大人っぽい表情をしていた雪の顔が、ぐっと幼くなった。その表情は自分だけが見みられるものだと思うと、嬉しくなった。

「うん。雪、制服似合う」

「ほんと? 嬉しいな。でも、この制服可愛いよね」

 雪が軽々とした足取りで、私を空いている席に案内してくれる。私が席に着くと、雪は良く冷えたレモン水と、お手拭きを出してくれた。

「ありがとう。雪」

「うん。メニューはこれだよ。注文が決まったら、このボタン押してね」

 どこかの席のボタンが押されたのか、店内に高い音が響く。雪は「今、お伺いします」とはきはきとした声で言って、早足で歩いて行く。宮地が働いているところを見に来たときも思ったが、飲食店って結構ハードだ。私は絶対にできないだろう。

 私は店長のおすすめだというハンバーグを注文して、本を読んだり、雪が働く姿を見たりしながら、食事が出てくるのを待った。雪はお客さん相手に、明るい笑みを浮かべて、丁寧な接客をしていた。

 頑張っているみたいだ。思わず一人で微笑みそうになっている自分がいて、慌てて下を向く。

 ハンバーグは美味しかった。それなりに量もあり、お腹もいっぱいになった。私がお会計をしていると、ホールを歩き回っている雪が、小さく手を振ってくれた。仕事も大変そうなので、雪が家に帰ってきたら労ってあげようと思って、私は帰り道にちょっと高級なアイスを買った。

 

「雪は制服が似合ってたし、接客も丁寧だし、ちゃんとしてた」

 宮地が家に遊びに来たとき、その日は雪がバイトで、私は宮地に雪のバイト姿を見に行ったときの話をした。

「まぁ、雪はミスも少ないし、よく気が付くし、先輩達からも好かれてるわ」

「へぇ。なんかさ、雪が働いてるところ見て感動しちゃったよ。母親みたいな気持ちになった。いつもだらしないところ見てるからかな」

 雪はやれと言われたことはやらないし、私がいると何もしなくなる。脱ぎ捨てられている服を洗濯機に入れたり、食器を片付けたり、そういうのは全部私の仕事だ。甘やかしすぎる自分が悪いことも分かってはいるのだが、もう仕方のないことだと諦めている。

 私の言葉を聞いて、宮地が、珍しく楽しそうに笑った。

「そうね。その気持ち、分からなくもないわ」

「お給料が入ったら、チョコフォンデュ食べに行こうって雪が言ってた。すごいね、雪も宮地も自分でお金稼いで」

 私は親の仕送りで生活をしているため、自分の買いたい物をなんでも変えるというわけではないし、無駄遣いをすると食費が危なくなる。けれど、バイトなんて私にできるはずがないし、家事や通院があるので、働けるだけの余裕がない。

「大変だけど、やりがいがあるし、お金があると自由も増えるわ」

「そっか。宮地がバイト先すすめてくれて良かったよ。雪もなんだかんだ言って楽しそうだし」

 雪はバイトが終わって家に帰ってくると、今日は店長に褒めてもらえたとか、こんな面白いお客さんが来たとか、喜々として教えてくれた。私はそんな雪の話を聞きながら、雪と一緒に遅めの夕食を食べる。生き生きとしている雪を見ているのは、嬉しかった。

「そうね。最近は清水さんとも特に仲がよさそうだし」

「清水さんって誰?」

 知らない名前だ。私が首を傾げると、宮地は紅茶を一口飲んで言った。

「大学生。背が高くてほっそりしてる男の人」

「男?」

 聞き返した私の声は、固かった。

「そうね」

 それがどうしたの、という顔で、宮地は私を見た。

「別に、なんでもないよ」

 私は本当になんでもないような顔をして、マグカップに口をつけた。まただ。胸がちりちりと焼けるように痛い。

 雪が男の人とも仲良くやれるタイプだって、知ってる。男子に好かれるような子だというのも。

 ずるい、と思った。私のこと、大好きって言ったくせに。でも、雪のこと縛りたくないと思ったのは、私だ。私にとって、雪は誰よりも特別な存在だ。私達の愛は友愛よりももっと深いところにあって、けれども私達は恋人じゃない。雪の中の特別がいくつあっても、それは雪のことなのだから、そこに私の意思は関係ない。それに、バイト先の先輩と雪が仲良くなっただけで、こんなに動揺している自分が馬鹿みたいだ。

 宮地は私のことをしばらく見つめていた。宮地は口に手を当てて、しばらく黙っていた。まるで、私の心の中を覗いたみたいに。失言した、という顔で。

 宮地が家に帰った後は、洗濯物を畳んでいても、夕食を作っていても、私の頭の中は清水さんという大学生のことでいっぱいだった。一体、どんな人なのだろうか。多分、厨房で働いているのだろう。前、雪のバイト先に行ったときは、ホールに男の人はいなかった。

 作ったポトフの味見をすると、舌がひりつくほどしょっぱかった。ぼーっとしていたせいで、今日は料理の味もおかしい。

 私は長いため息をついた。本当は、家に雪がいないのが、すごく嫌だ。雪のいない部屋は、静かで、空っぽで、色のない静寂は耳に絡みついてくる。雪がこの場所以外に居場所があるのはいいことだ。居心地も良さそうで、本人も幸せそうだった。

 でも、私は少し怖かった。今まで雪には私しかいないはずだったのに、雪にはもう行きたいと思える場所がある。会いたいと思える人がいる。なんだか、雪の中の私がどんどん軽くなっていくようで、私は自分の欲の深さにやっと気が付いた。

 求めすぎちゃ駄目だ。私の中で雪が一番だからって、雪の中の一番を強要するようなことはしてはいけない。分かっている。分かっているけど、どうしてこんなに苦しいんだろう。

 清水さんの話を、雪の口から聞いたことがない。雪は清水さんのことを、隠そうとしていたのだろうか。いや、特に意味はないのかもしれない。

 頭の中で、雪の笑顔や言葉がぐるぐると回って、ぐちゃぐちゃに混じる。なんだか、とても眠い。私はコンロの火を止めると、ソファーに横になった。

 眠りにつくかつかないかの浅いところにいると、頭の中に、つけっぱなしにしたテレビから流れるニュースの音声が混じってきた。私はリモコンを手に取ってテレビを消す。部屋が静かになると、身体が芯から沈んでいくような感覚に包まれる。

 目を覚ます。私はいつものように観客席に座っている。私の隣の席には、うさぎが座っている。ぴくぴくと動く小さな鼻を見ていると、恐怖や苛立ちがないまぜになって腹の底でうごめいたが、雪の言葉を思い出して、静かに息を吸う。大丈夫。このうさぎも、いつか雪が殺してくれる。

 

 

    ‡‡‡‡‡‡‡‡

 

 

 ブザー音が鳴って、幕が上がる。三日月の輝く夜道を、男女が腕を組んで歩いている。見慣れた後ろ姿に、息が止まりそうになる。女の子の方は、雪だった。雪の隣には、背が高くてほっそりとした男の人がいる。あれが、清水さんだろうか。

 二人は顔を見合わせて笑い合う。とても仲睦まじい様子で、雪はくつろいだような表情をしていた。清水さんの顔は、よく見えない。ぼんやりと靄がかかっている。

 人も車も通らない道を歩く二人は、他愛もない会話をする。くすくすと、雪が楽しげに笑う。清水さんは温和そうな人で、言葉遣いも、親しさのなかに相手を思いやるような丁寧さがあった。

 雪が自分の指を清水さんの指に絡ませる。そのまま二人は、小さなマンションの部屋に向かう。玄関に入ると、雪は背伸びをして清水さんに抱きつき、清水さんの唇に口づけをした。清水さんは、少し驚いたような様子で、けれども嬉しそうだった。

 なんだろう。これ。目も耳も、何もかもを塞ぎたい。雪の甘い声。幸せそうな顔。暗がりの中の二人。

 酷い。酷過ぎるよ。雪。

 頭が割れるように痛い。私が思わず顔を歪めると、幕がゆっくりと下りていく。

「雪は誰かに愛されることに依存しているんだよ」

 私の声で、うさぎが言った。だから君は特別じゃないんだよ、と。

 

 

    ‡‡‡‡‡‡‡‡

 

 

 はっと目を覚ます。身体中にじっとりとした汗が浮かんでいて、息は浅く荒かった。頭はまだ痛くて、こめかみを押さえると、咳が出た。風邪を引いたのかもしれない。

 薬箱を開けると、風邪薬が切れていた。まだ、ドラックストアはやっているだろうか。財布と携帯だけ持って、部屋を出る。アパートの階段の下から、男女の声が聞こえた。片方は雪だった。

「それじゃあ、お疲れ様です」

「うん。おやすみ、猫宮さん」

 低くて丁寧な声は夢で聞いたものとは少し違うが、私ははっとした。雪が階段を登ってくる音がする。私は部屋に戻って、玄関の鍵を閉めた。

 雪がドアノブを捻る。もちろん、扉は開かない。

「兎斗。ただいま」

 雪が部屋の中の私に呼びかける。私は何も答えない。鍵も開けない。

「あれ、兎斗?」

 雪がチャイムを押す。甲高い音が部屋中に鳴り響いた。私は扉を背に、膝を抱えてつくばった。

「入ってこないで!」

 棘を含んだような、鋭い声が出た。雪が息を飲む気配がした。

「どうしたの? 開けてよ、兎斗」

 雪は不安そうな声で言った。がちゃがちゃとドアノブを捻る。

「私の知らない男と仲良くするくらいだったら、もう一生この家に帰ってくんな!」

 私は痛む頭を押さえながら叫んだ。依存出来れば誰でも良かったのなら、どうして私を選んだんだろう。自分の意思で孤独を選んだ私は、優しくて無邪気な雪に簡単にほだされた。

 私には雪しかいないのに、雪には私以外の人がいる。

「違うよ、兎斗。そういうわけじゃないの。ねぇ、信じて。信じてよ兎斗!」

 雪が泣きそうになりながら言った。

 雪のことを信じられたら良かったのに、さっき見た夢がフラッシュバックして、頭の奥がぐらぐらと揺れる。

 私は耳を塞いで声を張り上げる。

「どっか行ってよ!」

「なんで。どうしたの、兎斗」

 雪が何かを言っていたが、耳を塞いでいたから聞こえなかった。雪はしばらくの間、ドアノブを捻ったり、チャイムを押したりしていたが、やがて諦めたように、ぱったりと気配を消した。足の感覚もなくなってきて、私はゆっくりと立ち上がりながら呟いた。

「……最悪だ」

 私が最悪なのか、雪が最悪なのか、私にも分からなかった。

 私は雪の特別なんかじゃない。私がただ、勝手に勘違いをしていただけ。

 ほら、やっぱり。誰かと関わっても、ろくなことがない。

 玄関の扉に背中を預けながら、一人で笑う。口の端は固い。頬は冷たい。瞳からは温かい涙がこぼれた。私の涙を舌ですくい取ってくれる雪はもういない。だって私が追い出したのだから。

 静かな部屋のソファーに座る。部屋の中がいつもより暗く感じた。この部屋はこんなに広かっただろうか。

 ひとりぼっちが当たり前だった。これが普通のはずだった。

 なのにどうして、こんなに寂しいんだろう。

 ソファーに横になって目を瞑る。寝たくないのに、起きていたくない。私にはどこにも逃げ場がない。助けてほしい、と思った私は、もう他人なしでは生きられなくなっている。

 雪の顔は見たくない。声も、聞きたくない。じゃあ、宮地に頼ればいいのだろうか。助けてって、ちゃんと口に出して言えるだろうか。宮地の迷惑にならないだろうか。

 誰とも関わりたくないと言っていたときの自分が、もう、他人のように思えた。弱いくせに虚勢を張っていたあの時の自分は、それでも確かに強かったのだ。

 ぬくもりが欲しい。柔らかい手のひらで、私の冷たい手を握ってほしい。優しい言葉で、私の冷え切った心を温めてほしい。

 苦しくて、悲しくて、うまく息ができない。

 雪のせいで、私はこんなに弱くなってしまった。

 

 携帯電話の着信音で目が覚めた。宮地からの電話だった。振動する携帯を手に取った私は、どうすればいいのか分からなくて、しばらくうろたえていた。宮地から電話がかかってくることも滅多にないので、やはり何か用事があるのだろう。私はぐっと唾を飲み込んで、電話に出る。

「もしもし、宮地」

 冷静に話ができるかどうか、分からない。でも、宮地の前で取り乱したくない。

「ごめんね、兎斗」

 聞こえてきたのは雪の声だった。私は目を瞬いて、携帯を握りしめる。

「何? なんで雪が宮地の携帯から電話かけてくるの?」

 私の声はひりつき、口調は刺すようだった。

「だって、私から電話しても絶対に出ないと思ったから」

 雪の声は固く張りつめていた。緊張しているのがこちらにも伝わってくる。

「だから宮地に頼んだんだ。そういうの、ずるいよ」

 宮地が電話をかけてくれたと思って、一瞬喜んだ私が馬鹿みたいだ。苛立ちはさらに熱を増す。

「そういうわけじゃないの、あのね、兎斗。清水さんは友達みたいな人で、だから付き合ってるわけじゃないの」

「そう言えば、私が納得するとでも思った?」

 私の心は凍てついて、雪の言葉が入ってくるような隙間がなかった。友達って、便利な言葉だな、と思う。そう言えばすべてを許してもらえると思っている、雪のその考え方が嫌だと思った。

「じゃあ、なんで兎斗は私と清水さんが付き合ってると思ったの」

 一歩も引かないような、はっきりとした声で雪が言った。

「なんでって、言われても……」

 夢で見た、なんて言えないし、言いたくない。私は何も言えずに口ごもる。

「そんな証拠もないでしょ。私は本当にあの人とは何もない。私が兎斗に隠すことなんて何もないから」

 雪の言う通りだった。私は二人の夢を見ただけで、二人が本当に恋愛関係を持っているのかどうかも、分かっていなかった。夢だって、すべて真実ではない。

「……ごめん、雪」

 私はあのうさぎの言葉にまんまと惑わされて、雪を突き放した。雪は何も悪くなかった。酷いのは私の方だ。夢と現実を一緒にして、雪の言葉を信じてあげられなかった。

「いいの。兎斗ならきっと分かってくれると思ってたから。こっちこそ、不安にさせちゃってごめんね」

 どうして、雪はこんなに優しいんだろう。私は感情に任せて、雪にきつくあたってしまったのに。雪はいつも私のことを信じてくれる。心も身体も、全部任せてくれる。

 雪は私を疑わない。その純真な声や瞳を、何よりも大切にしなきゃいけなかった私は、雪のことを疑ってしまった。

 私も雪のことを信じたい。すべてを預けてしまいたい。

 だけど、ずっとひとりぼっちで寂しかったから、信じきることも怖かった。

 また、泣きそうになる。私は震えた声で言った。

「雪。会いたいよ」

 弱虫な私を許してほしい。私にはそんな資格、もうないだろうか。でも、雪だったら、もう一度私のことを抱いてくれるはずだ。私はまた、雪の優しさに甘えてしまう。

「うん。私も、兎斗に会いたい」

 雪はとても安心したような、柔らかい声で言った。

 それから少しして、雪が家に帰ってきた。宮地も一緒だった。もう夜遅いからと言って、雪をここまで送ってきてくれた。

 雪が私に抱きついて、「ただいま」と言った。私は力強く雪を抱き返して、「おかえり」と答えた。雪の香りと体温は、すぐに私の身体に馴染む。私は雪の腕の中で、やっと安心することができた。

「本当に、ごめんね、雪」

 言いながら、確信する。私が最も必要としているもの。何があっても手放したくないもの。

 それは雪だった。

 このたった一人の女の子のためなら、私はなんだってできる気がした。

「謝らなくていいんだよ。私ね、本当に兎斗がいないとダメなの。兎斗じゃないと嫌なの」

「うん。私も、同じだよ。私も雪がいないとダメだ」

「もう、離さないで」

 私の耳元で雪が言った。切実な思いのこもった、小さな声だった。

「分かった」

 貴女が私から離れたいと思うときまで、私は貴女の側にいる。

私は腕に力を込めて、雪の鼓動を感じた。雪と一緒に生きたい。ままならないことだらけのこの世界で。

「兎斗」

「何?」

「名前、呼んでみたくなっただけだよ」

 雪がくすくすと嬉しそうに笑う。私も一緒になって笑った。

 雪に名前を呼んでもらうのが好きだ。その柔らかい唇で、お菓子みたいに甘い声で、兎斗って呼んで欲しい。嫌になるくらいに、たくさん。

「ありがとう。雪」

「うん」

「本当に仲がいいわね」

 宮地の声ではっと我に返る。宮地がいることを忘れていた。

「うるさいな」

 宮地の言葉に顔が熱くなった。私、かなり恥ずかしいことを言っていた気がする。

「それじゃあ、私はそろそろ帰るわ。おやすみ、雪、兎斗」

「みゃーちも泊まってきなよ。もう、こんな時間だし」

 歩き出そうとしていた宮地が私の顔をじっと見た。私は笑みを作って頷く。宮地は少しの間考え込んでから、「分かったわ。ありがとう」と言った。

 もう遅くなっていたので、交代でお風呂に入った。最初にお風呂に入った雪は、私が髪の毛を乾かしてあげると、今日は色々あって疲れたのか、ソファーで眠ってしまった。次に宮地がお風呂に入り、私はその間、お茶を飲みながら本を読んでいた。洗面所からドライヤーの音がする。髪の毛を乾かしているんだろう。そういえば、宮地をこの家に泊めたのも初めてだ。

 しばらくしてから、宮地が洗面所から出てきた。いつもツインテールにしている髪をおろしているから、雰囲気が違う。宮地の髪は黒くて長くて綺麗だ。白い肌やあどけない顔をさらに魅力的に引き立てる、

「お湯、温くなってなかった?」

「丁度良かったわよ」

「そっか。ならよかったけど」

 私は温くなったお茶に口をつけ、短い間黙って宮地の横顔を見つめた。

「宮地、ここ座って」

「なんでよ」

「いいから座って」

 宮地はムスっとした顔をしながらも、私に言われた通りに腰を下した。私は洗面所からブラシを持ってくると、宮地の長い髪を梳かした。

 宮地はびくりと肩を揺らして、でも振り向くことはしなかった。今、宮地はどんな顔をしているんだろう。とても気になるけど、見ない。私が宮地に触れたのはこれが初めてで、宮地が私に触れられたのもこれが初めてだった。

 宮地の髪の毛は癖がなく、絡まりも少ないので、ブラシがするすると通って、梳かすのが楽しかった。

「綺麗だね。宮地。あ、髪の話だよ」

「分かってるわよ。髪の毛には気を使ってるの」

 宮地は苛立ったように言った。確かに、髪は女の命って言うよよなぁと思いながら、私はひそめるように笑う。

「へぇ。宮地ってやっぱり、女の子だね」

「兎斗に女の子扱いされるのは、なんだか嫌だわ」

 宮地は正直だな、と思う。宮地は友人の前ではふわふわしているけれど、私の前では憎まれ口だって叩く。私は学校にいるときの宮地より、こっちの宮地の方が好きだ。でも、両方合わせて宮地だから、そんなところを含めて面白い子だと思う。

「私さ、雪が男の人と付き合ってるかもって思ったとき、すごく苦しかったんだよね。誰かに助けてほしいって思った。そのときにさ、一番に宮地の顔が浮かんだんだよ。私、自分が思ってたよりもずっと、宮地のこと頼りにしてたみたい」

 宮地が私の使っていたマグカップの中身を確認する。お酒飲んだわけじゃないから、と私は笑った。

「……私も、何かあったときには、一番に兎斗の顔が浮かぶわ。兎斗に頼りたくないって思いながら、兎斗のこと一番頼りにしてる」

「なんで、私に頼りたくないの」

 私は小さく笑い声を上げながら、私も同じだ、と思った。今日、あの時、宮地に助けてほしいと思った私は同時に、宮地にかっこわるいところを見られたくないと思った。

 かっこつけて、虚勢を張って、嘘をつきながら、思ったことは口に出す。私達は本当に、面倒くさい付き合い方をしているんだな、と思う。でも、これが私達だ。他の誰でもない、私と宮地の関係だ。

「みゃーちが世界で一番可愛いよ」

 私が言うと、宮地はため息をついた。

「それ、雪が聞いたら怒るわよ」

「雪は宇宙で一番可愛いから」

 宮地は呆れたように笑って、「惚気ないでよ」と言った。まぁ、あなた達らしいけれど、と宮地は呟く。雪の安らかな寝息が聞こえる。

 世界一可愛い宮地と、宇宙一可愛い雪に囲まれた私は、誰よりも幸福なのかもしれない。そんな馬鹿みたいなことを考えた私は、小さく微笑んだ。

「いつもありがとう。みゃーち」

 宮地の肩に触れながら言う。私達の間にあった見えない壁は、もうなくなっている。宮地はガラスの固まりでも、人形でもなんでもなくて、温かくて、柔らかい、普通の女の子だった。

「こちらこそ。いつもありがとう。兎斗」

 私達の間に沈黙が落ちる。普段、こういうことを言い合わないから、恥ずかしくなってきた。宮地も同じなのだろう。首筋が赤くなっていく。

「……紅茶でも飲む?」

「……そうね」

 キッチンに向かう際、ちらりと宮地の顔を見た。照れているのか、困っているのか、忙しそうな顔をした宮地は、ほんのりと笑みを浮かべていた。

 やっぱり、みゃーちが世界で一番可愛いよ。胸の中で呟いた私は、宮地の好きなアップルティーのパックを手に取った。

 その日の夜、久しぶりに宮地の夢を見た。次は宮地の家から、宮地が消えた夢だった。宮地の姉の誕生日パーティー。宮地の父親と母親と弟は、手を叩き、声を合わせて、ハッピーバースデーの歌を歌う。そこに宮地がいないことには誰も気づかず、みんな幸せそうな顔をしている。

 宮地の考えていることと、私の考えていることは似ている。

 自分は家族に必要とされていないんじゃないか。そんな不安が、常に心を焼いている。

 家に居場所がない。家族といると息苦しい。だから私達は、居場所や、呼吸ができる場所を探して必死になっている。

 この部屋は、水槽のような場所だ。ここにいれば、誰にも邪魔されない。仲間だけで集まって、丁度いい水温の中を泳ぐことができる。

 学校で優等生を演じる雪。家族といると劣等感に押し潰されそうになる宮地。強がりで誰よりも弱虫な私。

 例え小さな水槽でも、私達は集まっているだけで安心できる。ちゃんと、呼吸することができる。

 宮地の夢を食べられて良かったな、と思う。だって、こんなに悲しい夢、宮地に見せられない。

 外の世界は怖い。熱すぎるし、寒すぎて、言葉は身を削るナイフのようだ。

 だから、私はこの水槽を守る。二人が安心できるように。いつでも帰って来られるように。

観客席に座って、閉じていく幕を見つめながら二人のことを想う。

 もしも、私が溺れてしまいそうになったら、二人に助けて欲しい。最近、夢の世界が現実の私に浸食し始めてきているように感じる。

 

「ちょっとトイレ行ってくるね」

 雪が再生していた映画を止めて立ち上がった。

「うん」

 ぼんやりと画面を眺めていた私は頷く。雪がトイレの扉を閉める音を聞いて、私はため息をついた。この映画、信じられないくらいつまらない。でも雪は楽しそうに見ていたので、そう思っても口には出さなかった。雪のセンスは悪くないと思う。けれど、私の趣味と雪の趣味が圧倒的合わない。

 私は机の上のグラスを手に取って、一口飲む。サイダーにしては、少し苦味があって微かに眉をひそめたが、喉が乾いていたので、一気に飲み干す。

 戻ってきた雪が映画を再生させて、私達はしばらくの間、長くて退屈な映画を見ていた。三十分くらい過ぎた頃、身体がおかしくなってきた。身体中が熱くて、じんじんした。視界はぼんやりと霞んで、頭がくらくらする。吐き出す息も熱を含んで、おかしい、と額に手を当てたとき、雪が驚いたように言った。

「わ、兎斗、顔真っ赤だよ」

 私は力なく頷く。なんだか気持ちが悪くなってきた。

「頭がくらくらする」

 雪は机の上の空になったグラスを持ち上げて、「あ」と声を上げた。

「兎斗、私のお酒とサイダー間違えて飲んじゃったでしょ」

 雪の言葉で、今の症状が酔いからきているものだと気が付く。だから、あんなに変な味がしたのか。

「そうかもしれない」

「大丈夫? 兎斗、お酒弱いんだね。飲んだのも初めてでしょ」

「当たり前でしょ」

 身体中が炎に包まれているかのように、火照っていた。

「どうしよう。少し休んでたら楽になると思うけど」

 雪が私の頬に触れる。淡い電流が走ったかのように、私の肩はびくっと震えた。くらくらする頭と、霞んだ視界で捉えた雪が、いつもよりも魅力的に見えて、もっと触れて欲しいと思った私は、気がついたら下着姿の雪の肩に触れていた。そのまま雪を引き寄せて、唇を重ねる。舌の先で唇をなぞると、雪は抵抗なく唇を開いてくれた。自分の舌を、雪の舌に絡ませて、雪の歯列をなぞる。腰の辺りがぞわぞわして無意識に身体が動いてしまう。私の唾液と雪の唾液がとろりと混ざって、口の端を伝う。

 よく分からないけど、すごく気持ちがいい。大きな波のような快楽に耐えられない私は、瞳に涙を浮かべる。

 長いキスを終えて、唇を離す。雪がにやりと笑った。

「兎斗からしてくれたの、初めてだね。下手だけど、可愛い」

 また、子ども扱いされた。それが癪に障った私は、雪をソファーに押し倒した。今まで挑発的な表情を浮かべていた雪は、雪に跨る私を見上げて、びっくりしたように目を見開いた。いつもは、雪が私に跨っているので、こんなことははじめてだ。

 花柄の刺繍が施されたブラジャーの上に手を置くと、雪は小さく声を漏らした。

 雪の耳に、そっと息を吹く。雪はぎゅっと目を閉じて、小さく吐息を漏らした。私はそのまま、雪の耳たぶに口づけして、唇で挟み込む。雪がいつもやってくれるみたいに、片手で、お腹や太ももを優しく撫でる。

 雪の身体が熱くなっていくのが分かる。雪は私の下で身体をくねらせた。雪は内ももが弱いみたいで、そこを何度もなぞると、こらえるような表情をしながら、とろけた声を出した。

「雪、おもしろい」

 私が首筋を撫でると、雪は甘い声で鳴いた。

「兎斗、酔いすぎだよ」

 雪の言葉を唇で塞ぐ。雪の唾液は甘い香りがする。私の与える刺激で、雪が悶えているのが楽しくて、私は雪の色々な場所に触れて、その声や反応を確かめた。

「もう、むりだよ、兎斗、頭、おかしくなりそう」

 頬を紅潮させた雪が力の抜けた腕で私を抱きしめて、どろどろに甘く崩れた声で言った。

「分かった」

 雪を開放してあげると、雪は薄く瞼を開きながら、ゆっくりと息を整えていた。

「可愛いよ。雪」

 私が雪のおでこを撫でると、雪は片手で顔を隠した。

「やめて。……恥ずかしいよ」

 私がくすくすと笑うと、雪は泣きそうな子供みたいな目で私を見つめた。もっと、雪を泣かせたい。甘い涙をこぼして欲しい。そう思ったのは、酔っていたからだろうか、それとも雪が可愛かったからだろうか。

 その日から、私は自分から雪に触れるようになった。私の刺激で身をよじらせる雪は、震えた声で私の名前を呼んだ。ベッドの上では、雪が私の傷を優しく舐めてくれた。

 雪はもう、私に対してキスが下手だと言わなくなった。

 

 最近は、雪がバイトに行っている時間も寂しいと思わなくなった。むしろ、雪が帰っているのが楽しみだったし、距離が離れていても、心のどこかが繋がっているような、温かい感じがしていた。

 それに、雪がバイトの日でも、宮地が家に遊びに来てくれることもあったので、私は宮地と一緒にご飯を作ったり、テレビを見たりした。夕方のニュースを流しながら、私が本を読んでいると、宮地が「本当に不思議ね」とひとりごとのような声で言った。

「何が?」

 私は顔を上げて宮地を見た。宮地はどこか大人っぽい表情を浮かべている。

「あなたは人に愛されるのも、人を愛すのも下手だったのにね」

 宮地は私の目を見ると、いたずらっぽく笑みを浮かべた。宮地だって、そうだったくせに。私は宮地との交際を思い出して、バツの悪い表情を浮かべる。

「ごめんね。上手く愛してあげられなくて」

 宮地と付き合っていたときは、人の愛し方なんて、知らなかったし、分からなかった。だけど、宮地のことは好きだった。燃えるような気持ちでも、甘い気持ちでもなかったけれど、私達はじりじりとお互いの距離を測りながら、それでも一緒にいると安心できた。こんな人は今までいなかった。

「別にいいの。私も同じだったから、おあいこだわ」

「宮地はさ」

「何?」

 宮地が私のことを見る。どこか不機嫌な顔と、不満そうな目。こんな宮地を見られるのも、多分私だけだ。だからって、優越感に浸るとか、そんなことはないけど。

「好きな人、いるの?」

 宮地が一瞬だけ視線を逸らした。あれ、と思う。宮地は呆れたように小さく笑うと、「いないわよ」と言った。

 宮地が今、嘘をついたのが、私には分かった。好きな人、いるんだ。でも、宮地は教えてくれなかった。正直に答えてくれなかった。裏切られた、とは思わない。悲しいとも思わない。お互いに踏み込まないことが、私達の掟。そうしようと決めたわけではないけれど、自然にそうなっていた。

「まぁ、どうでもいいんだけどさ」

 私は立ち上がってキッチンに向かう。本当はどうでもよくない。でも、宮地はもう私の彼女じゃないから、私には関係のないことだ。

 

 翌日、体育の着替えの際に、宮地の首元に赤い跡がついているのに気がついた。痣ではなさそうだ。あれはキスマークだろうか。つけたこともつけられたこともないからよく分からない。だけど、赤い跡は一つだけじゃなくて、宮地の首元にいくつもあった。

 宮地の恋人は、独占欲の強い人なのだろうか。キスマークについては気になったが、つっこむようなことはしなかった。それでも、体育の授業中、瞳の裏を埋め尽くすのは、宮地の白くて細い首に浮かんだあの赤い跡のことで、無意識に何か不穏なものを感じ取っていたのは確かだった。そういえば最近、宮地は私の家に来ることも少なくなった気がする。でも、学校では誰かと特別仲が良さそうには見えないし、いつも通りだった。

 その日の夜、私はなんとなくという感じを装って、雪に宮地の話をした。

「宮地の首にキスマークがついてた」

 雪はこういう話題ではしゃぎそうだと思ったのに、雪の反応は逆だった。雪はあからさまに気まずそうな顔をして、急に黙り込んだ。

「どうしたの雪?」

 私が聞いても、雪はしばらく重苦しい沈黙を続けていた。やっと口を開いた雪は、自分の罪を独白するような声で言った。

「あのね、私、見ちゃったの。宮地が亜利沙の車に乗ってるのを。私、怖くてその場からすぐに逃げ出しちゃったけど、あれは多分、見間違いじゃなかったよ」

「宮地が、雪の叔母さんと?」

 俯いた雪は切なそうな表情を浮かべていた。

 どうして、宮地が亜利沙の車に乗るんだろう。なにか、関わりがあるのだろうか。でも、なんでよりにもよって宮地なんだろうか。

「あのね、亜利沙は若い女の子が好きなの。あれは、好みとかじゃなくて、もう執着って感じなんだ。だからね、亜利沙は女子高生の私を、すごく愛してくれたの、嫌になるくらいに。亜利沙はきっと、私が大きくなるのが怖がってると思うんだ。前は、特に焦ってた」

「でも、なんで宮地と」

 好みじゃなくて、執着。雪の表情を見ていると、胸の中の不安はさらに肥大化した。

「どこでどう仲良くなったのかも、私には分からないけど、あの時の宮地、すごく嬉しそうだった。幸せそうな顔してた」

 宮地が本当に幸せだったとしても、私は嫌だと思った。亜利沙ことを完全に知っているわけではないし、簡単に否定もできないが、宮地の身体に亜利沙の跡がつくのが嫌だったし、雪の時みたいに、宮地の写真が撮られていたらと思うと、お腹の底が怒りでかき回されるようだった。

「どうにか、別れさせる方法はないかな」

「え?」

 雪が息を飲んだのが分かった。私だって、今の自分の発言が自分勝手だということくらい、分かっている。今の亜利沙と宮地は確かに幸せかもしれない。本当に愛し合っているかもしれない。だけど私は、宮地が汚されるのが嫌だった。

「私のわがままかもしれないけど、宮地のこと守りたいんだよ。どうすればいいのかな」

 雪が顔を綻ばせる。花が咲くようなその温かい笑顔に、私は一瞬見入ってしまう。

「兎斗は本当に宮地に優しいね」

「そういうわけじゃないけど」

 私と宮地はお互いの不安も、劣等感も知っている。友達でも、恋人でもなくても、自分のことを大切にするように、お互いのことを大切にする。踏み込まないことが優しさだと思っていた。だけど、きっとそれじゃ駄目だ。私は宮地を取り戻したい。

「あのね、兎斗」

 雪が私の耳元で囁く。

「……なるほど」

 私は頷いて、明日私の家に来るように、宮地にメッセージを送った。

 

 翌日、宮地はちゃんと、部屋にやってきた。いつも通りのどこか不機嫌な顔でソファーに座りながら、テレビを見ている。宮地の隣にちょこんと腰掛けた雪が言う。

「あのね、私、最近マッサージ覚えたんだ。宮地にもやってあげるね」

「大丈夫よ。私、どこも凝っていないから」

「本当に気持ちいいんだよ。それに、自分が気づいていなくても、結構身体は疲れてるから」

 押し気味の雪に、宮地は困ったような顔をしながらも、「じゃあ、頼もうかしら」と言った。雪がにこりと笑う。私はその二人のやり取りをそれとなく見ていた。

「ソファーじゃ狭いから、ベッドに行こうよ」

「そうね。分かったわ」

 雪に導かれ、宮地がベッドに向かう。私は宮地を自然にベッドまで連れていく雪の手際の良さに感心しながら、二人について行った。

「じゃあ、そこに仰向けになって」

「なんで仰向けなの?」

「ね、早く」

 宮地は不思議そうな顔をするが、雪は引かない。笑顔で宮地をベッドに寝かせる。仰向けになった宮地に、馬乗りになった雪が言う。

「捕まえた」

 雪の瞳に、鋭く怪しい光が宿る。雪は枕元に置いてあったタオルで、手際よく宮地を拘束する。流石雪だ。

「ちょっと! 雪、何してるのよ!」

 宮地が暴れようとするが、拘束をされていることで、うまく身動きがとれないようだった。

「尋問タイムだよ。早く吐いちゃったほうが楽になるよ」

 雪はなんだか、楽しんでいるみたいだ。いきいきしたその横顔を見ながら、まぁいいか、と思う。この作戦は雪がいないと決行できなかった。

「何の話? 離しなさい、雪!」

「ブレザーは邪魔だから脱がせちゃおっか」

 雪は鼻歌でも歌いだしそうな調子で、手早く宮地のブレザーを脱がせた。

「兎斗も見てないでなんとかしなさいよ!」

 鋭い怒号が飛んできた。雪の時よりも怖い。私は肩をすくめて、何も答えなかった。

「それじゃあ、はじめまーす」

 雪が宮地の脇の下に手を置く。宮地はそれだけで、ぴくんと跳ねた。宮地も結構敏感なのだろうか。こっちにとっては好都合だ。

「ちょっと、何するつもり?」

 雪が少しずつ指先を動かす。堪え切れなくなった宮地は、すぐに笑い声を上げた。

「宮地、こちょこちょ弱いでしょ? お腹ぴくぴくしてるよ。可愛いね」

 雪が嬉しそうに言う。

「やだ、ゆきっ、やめて」

 宮地が顔を真っ赤にしながら首を振る。雪はにやりと笑みを浮かべて、さらに指の速度を早めた。細長い雪の指先が、宮地の脇の下で踊っているのを見ていると、見ているこっちもくすぐったくなってくる。

「こちょこちょこちょー。ほら、くすぐったくなってきた?」

 雪が宮地の耳元で囁くように喋る。流石雪だ。攻め方がいやらしい。

「やめて、耳元で喋らないでよっ」

 宮地の笑い声に甘さも混じってくる。強制的に笑わされている宮地は苦しそうだ。

「宮地はさ、年上の女の人と付き合ってるでしょ?」

 雪が一旦手を止めて聞いた。必死に息を整えながら、宮地が言った。

「そんなわけ、ないじゃない」

「兎斗は足をこちょこちょしてあげて。手加減しちゃ駄目だよ」

 雪が楽しそうな笑顔を浮かべて言った。またくすぐられて宮地の笑い声が響く。宮地は感度がいいのか、くすぐられて悶える様は、普段の宮地とは全く違っていた。私は恐る恐る宮地の足の裏に触れる。つぅっと線を引くように指を下すと、宮地がびくびくと震えた。