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 窓の外が透明な光に満ちたころ、雪が静かに目を覚ました。私は雪と手を繋いだまま、ベッドの上に座っていた。雪は私と手を繋いでいることに気がつくと、黙って私に抱きついた。腕には力がこもっており、抱きついているというよりかは、しがみついていると言った方が正しかった。雪の柔らかな身体に、私の骨ばった身体が沈んでいく。

 私は雪の背中に手を伸ばした。雪に自分から触れるのは、これが初めてだった。指の腹をそっと、雪のキャミソールの上に置く。さらりとした感触の先には、ふわふわとしたぬくもりがあった。ゆっくりと手のひらを背中に当てると、触れ合った部分に火でもつけたかのような体温が回る。

私の手が熱いのか、雪の手が熱いのか、分からない。それとも、私達の肌が重なっているから、こんなにも温かいのか。

雪は私の肌の香りでも吸い込むかのように、私の肩に鼻を押し付けいていたが、小さく息を吐き出して笑った。

「すごいね。朝起きたら兎斗がいるんだもん。びっくりしちゃった」

「一緒に寝たんだから、当然でしょ」

 ずっと私のそばにいてね、と言ったのは、雪の方なのに。だから、私は雪から手を離さなかった。ずっと一緒にいた。

「そっか。すごい。すごいなぁ……」

 雪は安心したように、泣きながら笑っていた。

「あのさ、雪」

「何? 兎斗」

 私は腕に力を込める。雪が驚く気配を感じた。雪も、気がついたのだろうか。私が雪に初めて触れたことに。

「雪、何かやばいことさせられてるんじゃないの?」

 雪が息を飲む。雪は小さく鼻を啜り、しばらくの間、何も言わなかった。私は静かに瞼を閉じて、開くことを繰り返す。雪が言葉を発するまで、永遠に待つつもりだった。

 目を覚ました町はもう動き出していて、どこからか、車が風を切る音が聞こえてきた。

「叔母さんが」

 雪は何かを言いかけて、やめた。小さく息を吸った雪は、言葉に笑みを含ませながら言った。

「私、叔母さんといることに疲れちゃった」

 言い切った雪は清々としていて、軽く笑って見せた。

 雪が言いかけてやめた言葉の先を私は知っている。雪の夢を食べた、私だけが知っている。雪は亜利沙を悪者にしたくなかったから、ちゃんと立ち止まったのだろう。私は雪のそういうところが嫌いじゃない。

「じゃあ、私が雪のこと、盗んであげるよ」

 それならば、私が悪者になってみせよう。

 

 

「これで全部?」

 私は大きめショルダーバッグを肩にかけ、右手にトートバッグを持った。

「うん。後は必要になったら買えばいいから」

 薄ピンクのスニーカーを履きながら、雪が言う。雪は背中に大きなリュックサックを一つと、肩にトートバッグを二つかけていた。

 女子高生一人が家出するのに、この量の荷物が多いのか少ないのかは分からないが、もうすでに肩が外れそうだ。

 私達は雪の家で、雪の家出の準備をした。雪の家の中の間取りは夢の中で見た通りで、二階には見覚えのある扉があったが、私がその部屋のドアノブを捻ることはなかった。雪は家の中にある大きめの鞄を集め、その中に荷物を詰めた。必要なものだから仕方がないのだが、とにかく服がかさばる。教科書や参考書、バスタオルからアクセサリーまで、雪は小一時間ほどで荷物をまとめた。平日の昼間だから亜利沙は家にいない、と雪は言ったものの、いつ亜利沙が家に戻ってきてもおかしくない、と思った私達は、少し慌てていた。

 雪は最後に、友人の家にしばらく泊まります、と書き置きをして、部屋を出た。

「それじゃあ、行こうか。雪」

「うん」

 重たい荷物を持っているにもかかわらず、雪の表情は明るい。私は雪のその表情を見て、少し安堵する。少々強引に雪の手を引いてしまった気がしていたからだ。でも、それはいつも雪が私に対してやってくることで、これでおあいこだった。

 家を出て、玄関の鍵を掛けた雪は、ポストの中に鍵を放り込んだ。

「鍵くらいは一応持っておいた方がいいんじゃないの?」

 私が言うと、雪は首を横に振って答えた。

「もう当分帰ってくるつもりもないから」

 雪が良いなら、それで良いか、と思う。私だって、何の計画もなしに雪を連れ出したため、これから私達がどうなっていくのか、見当もつかない。雪は二階の一室にちらりと目をやったが、何事もなかったかのように、「行こ」と言って、歩き出した。

 隣を歩く雪の横顔を見る。悲しそうには見えなかった。

「これからは、家事も分担制にするから」

 そう言っても、多分やらないだろうなと分かっていて、冗談のつもりで言うと、雪は唇を尖らせた。

「えー。兎斗の方がお掃除もお料理も上手だよ」

「自分の仕事を人に押し付けようとしないで」

 私の言葉に、雪はふふっと笑った。珍しくメイクをしていない雪は、いつもより子供っぽく見えた。

 これからは、夜寝るときも、朝目覚めたときも、隣に雪がいるのか、と思う。クラスでも隣の席なので、私達は一日のほとんどを一緒に過ごすことになる。

 不思議だ。苦手だったはずの雪がいつのまにか、隣にいて当たり前の存在になっている。

 大切にしなくちゃいけないな、と思う。だって、私は雪という、亜利沙にとっての宝物を盗んできたのだから。

 しばらく歩いた私達は、荷物が重くて疲れてしまったので、川沿いの草むらに腰を下した。川からは、水の香りが、足元からは、土や草の香りがした。今日はよく晴れていて、空の青色はくっきりとしている。雪は私の隣でしばらく携帯をいじっていたが、急に立ち上がると、川の方へ歩いていった。私も立ち上がり、雪についていくと、雪は川の中に携帯を投げた。

 太陽の光をきらきらと反射する透明な川の水は、雪の携帯を飲み込んだ。ぽちゃんと音がして、水しぶきが飛ぶ。

 私は驚いて、雪の顔を見る。雪はすっきりとした顔をしていた。その表情を見ていたら、何で携帯を投げたのか、聞く必要などないと思った。

「兎斗が一緒にいてくれれば、こんなものいらない」

 雪はそう言って、微笑んだ。

「もったいないことするなぁ。女子高生にとっては、携帯は命の次に大事でしょ?」

 雪の言葉が、嬉しかった。だけど、私は素直じゃないから、正直にありがとうなんて言わない。言わなくても、私の気持ちは充分、雪に伝わっているはずだ。

「携帯よりも、兎斗の方が大事だから」

 強い風が吹いて、草花が揺れた。私は雪の手に自分の指を絡ませて、雪のおでこに、自分のおでこを重ねた。

「私ね、夢喰い症候群っていう病気にかかってるんだよ」

「夢喰い症候群?」

 雪の瞬きの音が聞えた。そうだよ、と私は言葉を続ける。

「他人の夢を食べちゃう病気」

「そんな病気があるの?」

 いつか、伝えなければいけないと思っていた。私は普通じゃない。だけど、当たり前を手放してでも、雪のことを助けたい。

 私も、そう。携帯より、何より、雪のことが大切だ。

 私は目を閉じて、自分の鼻の頭を、雪の鼻の頭につけた。

「うん。これからは、雪の悪い夢、私が全部食べるから。私が、雪のこと、守るから」

 もともと、私達は二人で一つだったのかもしれない。そう思えるほど、雪の体温は心地よく、雪の香りは優しかった。

 私は雪を守り抜いてみせる。もう、覚悟はできている。

「兎斗」

 雪が私の名前を呼ぶ。だいすきだよ、と雪は言った。

 こうして、私達の生活が始まった。

 

「ちょっと、雪!」

 浴槽の扉を開けた私は、驚いて大声を上げてしまった。急いで服を着てリビングに向かう。お風呂上りの雪はリビングのソファーに横になって、テレビを見ていたが、きょとんとした顔で私のことを見た。

「どうしたの、兎斗?」

「どうしたの、じゃなくて、何、あれ。お風呂が大変なことになってるんだけど」

 私の言葉を聞いて、雪が顔を綻ばせる。私は怒って言ったのに、雪はまるで母親に褒められた少女のような顔をしていた。

「薔薇風呂だよ。綺麗でしょ? 一回やってみたかったんだ」

 雪は悪びれる様子もなく言った。私は大きくため息をつく。

 お風呂に入ろうと思って浴室の扉を開けたら、浴槽に大量の薔薇の花びらが浮かんでいた。透明な水の上で揺れる赤い花びらは、綺麗じゃないことはなかったが、どれだけ掃除が大変かと思うと、楽しむ気持ちよりも先に、うんざりした気持ちがやってくる。

「人の家で勝手なことしないでよ。後、片付けはちゃんと自分でやって」

 私が言うと、雪は立ち上がって、後ろから私に抱きついた。

「ここは私と兎斗のお家でしょ? ね、これから一緒にお風呂入ろっか。私、もう一回入りたいな」

 雪が私の耳にそっと吐息を吹きかける。ぞわっとした感覚に、私は小さく肩を震わせる。

「絶対に嫌。一人で入る」

「えー。つまんないなぁ。兎斗と一緒にお風呂入りたかったのに」

 私は雪の言葉を無視して、洗面所に向かう。服を脱いで、浴室に入ると、薔薇の豊かな香りが私を包んだ。

 薔薇風呂なんて、乙女チックな趣味だな、と思う。まるで、お姫様みたいじゃないか。まぁ、雪らしいか。

 両手で浴槽のお湯をすくった。しっとりと濡れた赤い花びらを見つめる。

 雪との生活が始まって、一週間が経った。学校は夏休みに入って、私達は一日の大半をこの部屋で過ごしている。

 今年は暴力的とも言える猛暑で、外の施設に行って涼むより、クーラーの効いた部屋で過ごす方が賢い選択と言えた。それに、雪はこの家の外に出ることを少し怖がっているようだった。亜利沙のことが気になるのだろう。亜利沙が仕事に行っている時間帯は、ほんのわずかな警戒心を滲ませながら外に出るが、夕方になるとあまりこの部屋から出たがらない。

 雪の家出は、あまり大事になっていないようだ。雪が行方不明の少女として扱われることになったらどうしようかと思ったが、町の新聞を読んでも、県内のニュースを見ても、そんな話はない。しかし、亜利沙だって、雪が本当に友人の家に泊まりに行っただけ、とは思わないはずだ。私は亜利沙という人間がどんな人間なのか、詳しくは知らない。だから、亜利沙がこういう状況に置かれた時、どう動くのか私には分からない。

 亜利沙は雪のことを学校に連絡しただろうか。雪の携帯はもうとっくに川に流されてどこかにいってしまったので、雪の周りの人間がどう動いているのか、把握できなかった。

 それでも、私のやることはただ一つだ。雪を隠し続けること。雪がここを離れたいと思うまで。隠し事の多い私のことだ。今さら隠し事が一つ増えたところで、どうってことはない。

 私は温かいお湯の満ちた浴槽に浸かる。一面を埋める赤色が、湯船の中の私の肌を見えなくさせた。

 本当に、手のかかるお姫様をかっさらってきたものだな、と一人笑う。私は、王子様になれなくとも、せめて騎士くらいにはなれるだろうか。まぁ、そんな柄でもないが。

 花びらの片付けは手伝わせよう。そう考えながら、湯船から出る。

 雪との日々は、それなりに楽しい。

 二人で大量の花びらを片付けて、深夜にベッドに入った。雪は私の胸に鼻を埋めて、薔薇の匂いがする、と嬉しそうに言った。

「雪も薔薇の匂いがする」

私は雪の髪を指で梳きながら、答えた。

「またやろうね」

 暗闇の中で雪が微笑むので、私はもう散々、と言って、笑った。

 陽が落ちても、部屋の中にはじっとりとした暑さが残っている。開けた窓から、頼りなく生温い夜風が入ってくる。虫の鳴き声が遠くに聞こえる。

 こんなに暑くても、私達は毎晩、同じベッドに入って、くっつきながら眠っている。雪と触れ合っていると、何故だか安心する。雪はいつも、私の胸の中で、幸せだなぁ、と呟く。噛みしめるように言うので、私は少し照れくさくて、けれども嬉しかった。雪の体温で、色々なものが蕩けていった。今まで見た悪夢も。自分に向けられた刃のような言葉も。

「明日は、兎斗の爪、切ってあげる。綺麗に整えて、マニキュア塗ろうよ」

 雪はそう言って、私の長い爪を撫でた。雪は私が自傷行為を繰り返すことに気がついているようだったが、私は頑なに雪に対して自分の肌を見せなかった。

「分かった。そろそろ切ろうと思ってたとこだし。だけど、あんまり派手にしないで」

 誰かに爪を切ってもらうのも初めてだ。雪は私にたくさんの初めてをくれる。知らないことを知るのは少し怖い。だけど、雪となら大丈夫だと思える。

「うん。お揃いの色にしようね」

 雪が指を絡ませてきた。そろそろ、眠くなってきたらしい。雪の瞬きの間隔が長くなる。

「おやすみ。雪」

「うん。おやすみ」

 私と雪は目を閉じた。眠りに落ちる時、私はいつも祈る。いつか、幸福な夢の中で、雪に出会えますように。

 雪と暮らすようになってから、悪夢を見る回数が増えた。

 

 次の日、私がお風呂からあがると、雪が私の髪の毛を乾かしてくれた。普段は自分の髪を乾かすのも面倒くさがる癖に珍しい。髪に風を当て、ブラシで梳かす雪の手つきは丁寧だった。

「どうしたの? 雪が私の髪乾かすなんて珍しい」

 ドライヤーの電源を落とした雪に言う。私の髪に触れる優しい指と、熱を含んだ髪が少し照れくさかった。

「いつも兎斗が髪の毛乾かしてくれるから、そのお礼だよ」

「雪、人の髪乾かすの上手いね」

 髪の毛がいつもより潤ってサラサラになっているように感じる。雪は熱風と冷風を使いわけ、前髪も綺麗に乾かしてくれた。

「うん。亜利沙の髪、乾かすの好きだったから」

 雪はそう答えた後、はっとしたように口をつぐんだ。私達の間に、いつもとは違う空気が流れた。私の前に置かれた鏡に複雑な表情をした雪が映る。

 雪は亜利沙を愛していたのだと思う。そして今も、完全に嫌いになりきれていない。亜利沙、と名前を呼ぶその声に、今でも特別な意味が込められていることには気が付いていた。

 やっぱり、少し離れただけで、忘れられるわけがないんだ。雪の中の亜利沙の存在は、私が考えているよりもずっと大きいのだろう。

 ちり、と胸の端が焼けるような感覚があった。不安なのか、後悔なのか、その痛みの理由が、私には分からない。

 この痛みの正体が、不安や後悔だったとして、私は亜利沙に雪のことを返えそうと思えるだろうか。

 いや、多分、それはない。覚悟をして雪をここに連れてきたつもりだ。雪が帰りたいと言うまでは、返したくはない。

「爪、切ってよ」

 私が言うと、雪は頷いて、爪切りを取り出した。パチ、パチ、と私の長い爪を切っていく。三日月形の白い爪が落ちていく。当分の間、自傷はできないだろうし、やめようと思った。昔からの癖なので、簡単に直るかどうかは分からないが。

「兎斗」

 名前を呼ばれて、顔を上げる。雪が寂しそうに微笑んでいる。

「なに?」

「私ね、昨日、本当に兎斗とお風呂に入りたかったんだよ」

 雪が浴槽を花びらで埋め尽くした理由にやっと気が付いた私は、しばらくの間、何も言えなかった。一緒にお風呂に入りたいと言ったのは、冗談じゃなかったんだ。いつもはわがままを言うくせに、そんな回りくどいことしてまで私とお風呂に入りたがった雪のいじらしさに、耳が熱くなる。

私は雪の指先にキスを落した。

「いつか、ね」

 私の言葉に、雪が頬を染めて頷く。

 他人に見られたくないところを見せ合うことができるのが、愛なのだろうか。自分の知らない世界に、少し戸惑う。

 私はまだ、怖かった。雪に自分の身体を見られることが。だって、自分の嫌いなものを、自分の大切な人に見られたくない。

「兎斗がキスしてくれたの、初めてだね」

 恥じらうような表情で、雪が小さく呟く。確かに、そうだ。全然意識をしていなくて、言われてから急に恥ずかしくなる。自分の頬が一瞬で赤く染まるのを感じた。

「別に、そういうわけじゃない」

「でも、嬉しかったよ」

 雪が顔を綻ばせたので、私はまた何も言えなくなる。いつもはぐいぐい来るくせに、こういう時にこんな顔をするなんて、反則だ。

 雪は私の爪を整えると、アイスクリームのような薄黄色のマニキュアを塗っていった。舐めると甘い味がしそうな、綺麗な色だった。乾くまで服とか髪とか触っちゃだめだよ、と言われて、なんだか逆に落ち着かなくなる。

「私にも塗って」

 雪に言われて、恐る恐るとろりとした色のついた刷毛で、雪の爪を撫でる。

「兎斗、へたっぴだね」

 雪が嬉しそうにからかってくる。液が多くなってぷっくりしたり、何度も塗っていると擦れてしまったりして、上手くできない。ちょっとはみ出してしまって、しまった、と思う。雪の形の整った爪が不格好になってしまう。

「……うるさい」

 それでも、雪の爪を綺麗に塗ってあげたくて、ゆっくりとを動かす。雪はそんな私を見て、くすくすと笑う。

「夏休みに入ったら、お揃いのネイルしようねって話したの、覚えてる?」

「うん」

 その時はまだ、私達は一緒に暮らしていなかった。雪が私の手に指を絡ませてきて、毎日雪を家まで送った。あの頃の私達は、後に一緒に暮らすようになるなんて、想像もしていなかった。

「夢が叶った、って感じだね」

「小さな夢だね」

 どうして、雪は私のことを大切にしてくれるんだろう。大好きって、言ってくれるんだろう。そんな疑問が頭をよぎる。

 亜利沙以上の存在にはなれないことは分かっている。雪が私の知らない人と愛し合ってきたことも知っている。雪の中の私には、ちゃんと重みはあるのだろうか。替えが利くような存在だったら、嫌だなと思う。

「小さくても、私にとっては大切なことだったから」

 すべての爪を塗り終わって、刷毛をボトルに戻す。雪はふわりと笑みを浮かべながら、自分の爪を眺めていた。

 その姿がとても可愛くて、私は可愛いという言葉の意味をやっと知ることができた。

「似合うよ」

 私の言葉を聞いた雪が、目を細めて頷いた。

「兎斗も、似合うよ。可愛い」

「可愛いって、言わないで」

 乾き始めた自分の爪を見つめる。蕩けそうなほどに甘いこの色は、たくさんの甘いものできている雪にぴったりだと思った。

 雪は似合うって言ってくれたけど、雪にぴったりなこの色が、私に似合っているかは分からない。私は雪みたいに、甘く可愛い女の子じゃない。

「私、兎斗としたいこと、たくさんあるんだ。私の夢、一緒に叶えてね」

 雪が私の目を見つめる。雪の瞳に私が映る。私はもう、雪の前ではマスクをつけなくなった。

「うん。約束する」

 きっと私達に、永遠なんてない。雪が私から離れたいと思ったその時、私達は終わる。これは有限の幸福だ。それを忘れてはならない。でも、せめてそれまでは、雪のそばにいたい。

 

 夏休みに入って二週間目の朝、目覚めると、雪がいなかった。時間を確認したら、もう十時を過ぎていた。

「寝過ぎた……」

 睡眠過多で痛む頭を押える。色々な夢を見た気がする。ずっと寝ていたことで、かえって身体がぐったりとしていた。雪はもう起きたのだろうか、そう思いながらリビングに行くと、そこに雪の姿はなかった。

 どこかに行ったのだろうか。玄関に靴がない。朝ごはんはちゃんと食べただろうか。寝坊して、作りそびれてしまった。

 トーストを焼いて、それをコーヒーで流し込む。食事をしながら、テレビを見た。雪がいなかった頃の当たり前の休日が急に目の前に戻ってきたことに対する違和感で、味がよく分からない。

 昨日の夜、雪は何か言っていただろうか。そんな覚えもないし、思い出せない。ただ、雪が何も言わずに一人で外出するのは、珍しいことだった。雪も高校生だし、心配し過ぎなくてもいいか、と思いながらも、雪の荷物がちゃんとあるか、確認してしまう。何も減っていないのを見て、あからさまにほっとしている自分に苦笑する。

 雪との時間を有限だと思っているのは、他の誰でもなく、私じゃないか。私には、雪が好きなことを雪の好きなようにやらせてあげることしかできない。雪のことを私の言葉や行動で縛りつけたくない。

 リビングのソファーに座って、テレビを見る。しかし、テレビを見ても、内容に集中できなくて、玄関の扉や、携帯に連絡が入っているかどうかに意識がいってしまう。

 どれだけ雪のこと好きなんだ、私。

 携帯の画面に触れながら、呆れたように小さく笑う。昼食の時間になっても雪は帰って来なくて、あと少しで雪が帰ってくる、と思って待ち続けた私は、結局昼食を何も食べないまま、いつのまにか、陽が暮れていた。

 落ち着かない気持ちで、夕食を作った。心配なら電話をすればいいのに、ひねくれた私は自分から連絡をしなかった。雪からは、電話もメッセージも来ていない。結局、一日中携帯に触れていた気がする。

 携帯が震えて、すぐに画面を確認すると、携帯の通信料金のメールだった。思わずため息をついたその時、玄関の扉が開く音がした。

「ただいまー」

 雪の声が、ふわっと耳に溶けていく。私は早足で玄関に向かうと、ノースリーブのワンピースを着た雪に抱きついた。

「どこ行ってたの」

 思わず、弱々しい声が出て、私はさらに腕に力を込めた。

「ちょっとね、お出かけ」

「ずっと雪のこと待ってた」

 甘い、苺の香水の香りを、胸いっぱいに吸い込む。サラサラした綺麗な肩におでこを押し付ける。まだ、まだ、足りない。雪が足りない。雪に体重をかけ過ぎたら、雪は倒れそうになっていた。

「ごめんね、兎斗。待っててくれて、ありがとう」

 雪が私の頬をぷに、と突いた。少し申し訳なさそうに、そして嬉しそうに目を細めながら、兎斗は本当に私のことが大好きなんだから、と言って、笑う。

 私が黙ったまま頷くと、雪は目を瞬いた。今度は、雪の方が私のことを抱きしめてくれた。その手は、ゆっくりとしていて、優しかった。

「私はどこにも行かないから、大丈夫だよ」

「ほんと?」

「うん。ほんとだよ」

 本当に、そうなのだろうか。雪はいつか、私を置いてどこかに行きそうな気がする。私から、離れていきそうな気がする。雪がいないと生きていけない私と、私がいなくても生きていける雪は違うと思う。

 私は雪の言葉で、泣きそうになってしまった。だけど、泣きそうになっているのを雪に知られたくなくて、吐息が震えそうになるのをこらえる。ずっと黙ったままの私の頭を撫でながら、雪が言った。

「兎斗は可愛いなぁ。食べちゃいたいくらいだよ」

 雪の言葉に、顔が熱くなる。私は雪から身体を離して、雪を睨む。

「ばか」

 私はうるさい心臓を押さえつけながら、キッチンに向かった。

 二人で夕食を食べて、いつも通り、雪が先に、その後に私がお風呂に入った。雪はいつもと変わらない笑顔で、私と他愛のない会話をした。その笑顔や声に、私はやっと緊張を解いてくつろぐことができた。

夜、眠る前に電気を消すと、雪が「タバコが吸いたくなった」と言って、ベランダに出たので、私もついて行った。

 ライターで、タバコに火をつける雪の隣で、ちらちらと光る小さな星々を眺める。手を伸ばせば、つまんでしまえそうだった。

「雪はいつからタバコ吸ってるの?」

「えーっとね」

 雪は白い煙を吐き出す。爽やかで苦い香りが広がる。雪はふふふ、と笑って、質問には答えなかった。

「お酒もタバコも、そんなに美味しそうに思えない」

「うん。最初はね。でも、好きになった時には、もう知らなかった頃には戻れなくなってる」

 少し、怖いな、と思った。時々、近くにいるはずの雪を遠く感じる時がある。私の知らないことを知っている雪。私にたくさんのはじめてをくれる雪は、私以上にはじめてのことを経験してきたということだ。

「雪と一緒だ」

 私が言うと、雪は「何で?」と首を傾げた。

「好きになった時には、もう知らなかった頃には戻れなくなってる、から」

 小さな声で呟いた私は、下を向いた。今、ものすごく恥ずかしいことを言った気がする。言い終わった後に気が付いたけど、もう手遅れだ。雪が私の顎に手を伸ばして、私にキスをした。柔らかい。温かい。うっすらと目を通じると、雪が私の口の中に舌を入れようとしてきた。胸の奥にちらつく恐怖感から、私が頑なに唇を閉ざしていると、雪が私の背中をつぅっと指でなぞった。

 力が抜けて、唇が緩む。雪の舌の先が、私の舌に触れる。熱くて、苦かった。

 気持ちがいいのに、息が苦しくて、泣きそうになった。倒れそうになる私を雪が支えた。私より、雪の方が身長が高いことにいまさら気が付く。