買ってきた材料を使って、デザートのティラミスとソースを作った。二つを作り終えても、夕飯まで思ったより時間があったので、ティラミスを冷蔵庫で冷やしながら、夕方のニュースでも見ようかな、と考える。
リビングに行くと、雪が宮地にぐいぐいと話しかけていて、それに答える宮地は、疲れきった顔をしていた。私に気が付いた宮地は、すがるような目で私を見てくる。可愛い顔もできるじゃん、と思った私は、宮地の困っている顔をもっと見たくなったが、可哀想なので助け舟を出す。
「ティラミス、雪の分は多めにしといたよ。好きなんでしょ?」
雪は顔を綻ばせて、こくこくと頷く。
「嬉しい。私、ティラミス大好き。ありがとう。兎斗」
「それは良かった」
宮地は雪から開放されたことで、あからさまにほっとした表情を浮かべる。大人っぽく冷静な宮地は、意外と思っていることが顔に出やすいので、見ていて楽しい。
「あのね、黒森さんがね、ペンケースとか、リュックとか可愛いから、いつもどこでお買い物してるのって話してたんだ」
雪が興奮した様子で言った。確かに、宮地はファッションから文房具まで、自分の持ち物に気を抜かない。可愛いものが大好きで、強いこだわりがある。
「へぇ。宮地はおしゃれさんだからね。そういうの、たくさん教えてもらえばいいよ」
私が言うと、宮地が睨み付けてきた。雪は宮地の細かい表情の変化に気づいておらず、にこにことして嬉しそうだ。
「うん。分かった。黒森さんとお話できて楽しいな」
「私も、楽しいわ」
宮地が作り笑いを浮かべる。本当は疲れてるくせに、と思う。雪がいると、こんなに面白い宮地が見られるらしい。新しい発見だ。
しばらく三人でテレビを見た後、私はパスタの麺を茹で始めた。ちょうど麵が茹で上がる頃に宮地がやってきて、食器を用意してくれた。同じ柄のお皿が三枚なくて、雪の分だけ、違うお皿になる。
「なんかさ、今まで二人だけでご飯食べてたときは、こんなこと想像もしてなかったよね」
食器棚には、同じ柄のお皿が二枚ずつ揃えてある。安いものだけど、私と宮地でこれが可愛いとか、いや派手すぎるとか言いながら、同じものを買ったのだ。この家に来客なんて、絶対にないと思っていたから、同じお皿が二枚あれば、それで充分だった。
「そうね。まさか、猫宮さんと一緒にこの部屋で食事をするなんて、思ってもみなかったわ」
「こんなこともあるんだね」
「なんだか、不思議な感じだわ」
確かに、不思議な感じだ。この部屋に宮地意外の人がやってくるなんて、想像をしたことがなかったし、望んだこともなかった。しかもやって来たのが雪だなんて、あの頃の自分に言っても信じてもらえないだろう。
私はパスタとソースをあえながら、小さく笑う。雪が「お腹すいた」と言って、キッチンにやってきた。狭いキッチンで、私達はぎゅうぎゅう詰めになりながら並ぶ。
「もうちょっとでできるから、待ってて」
「分かった。あ、美味しそう!」
雪はパスタを見て、目を輝かせる。そんな雪を見て、宮地も嬉しそうに笑っていた。
楽しいな、と思った。今まで、誰かと一緒にいるときにそう思うことが罪なことのように感じていていたけれど、今ならそう思ってもいいだろう。
飲み物を用意して、「いただきます」と手を合わせる。二人用のローテーブルは、三人で使うには窮屈だったけれど、その窮屈さも嫌ではなかった。
パスタを食べた雪は「美味しい」と言って、子供のようにはしゃいだ。
「うん。美味しいわ」
宮地はパスタをゆっくりと味わうように食べていた。はじめて作ったカルボナーラは、自分でも会心の出来だった。
「はじめてにしては上出来でしょ?」
「そうね。今まで食べたカルボナーラのなかで一番美味しいわ」
私に対してお世辞なんて滅多に口にしない宮地が言うのなら、本当にそうなのだろう。思わず、笑みがこぼれた。
「え、本当? みゃーちに喜んでもらいたくて頑張ったんだよ」
私の言葉を聞いた宮地は、フォークを止めて、恥ずかしそうな顔した。どうやら、喜んでいるらしい。私がにやつきながら宮地を見つめていると「じろじろ見ないでよ」と怒られた。
「ごめんごめん」
私は謝って、フォークにパスタを絡める。そんな私達のやりとりを見ていた雪がぽつりと呟いた。
「兎斗と黒森さんって、夫婦みたいだね」
「え?」
「え」
私と宮地は、同時に驚きの声をあげる。カルボナーラを混ぜ合わせながら言葉を続ける雪は、頬を膨らませていて、怒っているように見えた。
夫婦って、もっと仲が良いものなんじゃないだろうか。でも、仲の良くない夫婦もいるし、雪にはそう見えたのだろう。夫婦みたいと言われてもあまり嬉しくはないが。
「だって、黒森さんと一緒にいるときの兎斗、すごく楽しそうなんだもん。私、こんなに楽しそうな兎斗、見たことない」
「そんなことはないと思うけど」
全然、自覚がない。宮地といるときの私は、そんなに楽しそうにしているのだろうか。私と宮地は傍から見たら、つまらなさそうに不貞腐れている二人組のように映るとばかり思っていた。
「兎斗の一番は私だと思ってた。なんか、ちょっと悔しいな」
下を向いた雪が呟く。関わる人間が少ない私は、友人に対して、一番とか二番とか、順位をつけたことがなく、雪の感覚がよく分からなかったが、雪の悲しげな表情を見た私は、これは雪にとって重要なことなんだなと感じた。
「私なんかに嫉妬してもどうしよもないわよ」
宮地はさらりとした混じり気のない声で言った。私もその通りだと思った。実際、そこまで仲は良くないし、ちょっとしたことで口論になることもしばしばだ。
「でも……」
雪はまだ複雑そうな表情をして、
「貴女は兎斗にとって特別な女の子だわ。きっと兎斗も、貴女の前では、私の知らない顔をしてるんじゃないかしら」
「そうなのかな?」
雪が私の顔をちらりと見た。私は特別という言葉の意味について考える。たくさんのクラスメイトがいる中で、雪が隣に座っていてくれることが嬉しいと思う。屈託のない笑顔も、話しかけてくれるときの声も、甘い香りも、優しい体温も、雪のものだから、受け入れることができる。これが、特別なのだろうか。もう少しで掴めそうなその言葉の意味に手を伸ばすのを躊躇する私はきっと、臆病なんだろう。
私の中にはうさぎがいる。他人に近づいて、求めてしまえば、それは深く、果てがないはずだ。そのことが、ずっと恐ろしかった。私の一番を望んでくれた雪を、私が大切にしたら、罰が下るかもしれない。受け入れることも、求めることも、私の場合、きっとその先に待っているのは幸せなことばかりじゃない。でも、誰かと手を繋いだのも、離れていてもその人の髪の香りを鮮明に思い出せるのも、これが初めてだった。
私は、頷いた。
「雪のことは、大事に思ってるよ。大切にしたいと思う」
雪は目を見開くと、ほどけるような笑顔を浮かべた。静かに顎を引いて、緩んだ口元を覆う。
「私も、兎斗が大切だよ。大好きだよ」
「大好き、ね。ありがとう。雪」
誰かに好意を伝えたり、伝えられたりすることもあまりなくて、喜びと羞恥がつま先や頭の中をふわふわさせるから困った。宮地はそんな私達を見て、小さく笑顔を作ると、食事を続けた。
デザートを食べ終わると、午後七時前になっていた。食器を片付けた後、携帯で時刻を確認した雪が「そろそろ帰らないと」と言って、慌てて家に帰っていった。雪が帰った後は、私と宮地で食後の紅茶を飲みながら、しばらくテレビを見た。雪がいなくなると、部屋の中が一気に静かになるんだな、と思う。テレビの画面を見つめる宮地の横顔は、無垢な少女のように幼く見える。けれど、中身は大人びていて、そのギャップが、昔の私にはとても魅力的に見えた。それに、私の心の傷口と、宮地の心の傷口が、とても似ていると思った。抱えた孤独の色が、限りなく近い気がした。
八時前になると、宮地が「そろそろ帰るわ」と言って、立ち上がった。私は宮地を玄関まで送る。ローファーを履いている宮地をなんとなく眺めていると、宮地が私の目をじっと見てきたので、「どうしたの?」と首を傾げる。宮地はすぐに私から目をそらすと、ぶっきらぼうに言った。
「今日は夕飯作ってくれてありがとう。美味しかったわ」
「それは良かった」
私が笑顔を見せると、宮地は照れ隠しなのか、怒ったような顔をして、艶のある長い黒髪を指で梳いた。
「おやすみなさい。兎斗」
「うん。おやすみ。宮地」
宮地がドアを開けたとき、ちらりと見えた夜空には、小さな星が瞬いていた。
また三人で集まれたらいいなと思った。そしたら、雪も宮地も寂しくなくなるだろうか。きっと、それぞれが抱えた孤独は、そんなに簡単に埋まるものではないけれど。
雪が家で夕飯を食べたあの日から、雪はしょっちゅう私の家に遊びにくるようになり、挙句の果てには、私の家に入り浸るようになった。宮地が家にやってくる日は、三人で夕食を食べた。
今日は病院だったので、そのことを伝えると、雪は私の鍵を借りて、先に家に帰った。雪はいつも、午後七時前には家に帰っていくのだが、毎日一緒にいるため、遊びに来ているというよりかは、野良猫が家に住み着いている、というような感じだった。雪は本当に遠慮などをせず、私の家の中でも、我が家にいるかのようにくつろいでいた。
病院の待合室で今晩の夕飯のレシピを調べる私は、小さくため息をついた。雪は好き嫌いが激しく、偏食家だった。まず、ご飯があまり好きではなく、そばも嫌い、うどんも嫌いで、食べられるのはサラダとパスタとパンだけだった。パンは甘いパンでないと食べる気がしないらしく、バケットなどを出しても、あまり手をつけない。
雪の主な主食は、ケーキやプリン、マカロンなどのスイーツで、それ以外は基本的に食べる気が起きないらしい。弁当箱が呆れるほど小さいのも、そういう理由があるからだと言う。
わがままな雪は、私が夕飯に唐揚げや麻婆豆腐を作ると、むっとして全然口をつけてくれない。私の家の冷蔵庫には、いつのまにかカスタード入りのアップルパイや、シュークリームなどが買い置きされていて、今まで空だったお菓子棚には、所狭しと新商品のクッキーや、季節限定のチョコレート菓子が並べられていた。
雪が甘いものを食べたいのなら、そうすればいいし、食べたくないものを無理に食べさせる気もないのだが、同じテーブルで違う食事を摂るというのが、今まで家族や宮地と食事をしてきた私からすると違和感があり、どうにか雪の食べられそうなものを探していく日々だった。今日は家にある食材で、鶏肉のトマト煮を作ろうか、と考えるが、雪が食べてくれるかどうかは分からない。
「荻原兎斗さーん」
先生に名前を呼ばれて、私はポケットに携帯を入れて立ち上がると、診察室に向かった。診察室の中は、クーラーが効いていて、心地よかった。先生は夏だというのに、長袖の白衣を着ていたが、清潔な色をした白衣はあまり暑苦しく見えなかった。
「久しぶりだね。調子はどうかな?」
「別に、どうしよもないです」
「どうもしないですって言おうとしたのかな?」
先生が可笑しくてたまらないという風に笑うので、私はいらっとした。
「どっちでもいいじゃないですか」
わざわざ揚げ足を取らないで欲しい、と思ったが、私もいつも同じことをやっている。
「うんうん。分かるよ。日本語って難しいよね」
先生が腕を組んでわざとらしく頷く。私をからかっているときの先生はやけに生き生きしているから、腹が立つ。
「私、これでも国語は得意なんです。国語だけなら、クラス十位以内には入るので」
「まぁ、国語なんてテスト勉強しなくてもできるしねー」
先生が当たり前のように言うので、嫌みか、と思う。先生も一応医師をやっているので、それなりに賢いことは分かっていたが、この人はきっと、テスト勉強をそんなにしなくてもいい点数が取れるタイプだろう。先生からはそういうタイプ特有の余裕を感じる。
「どうせ先生には私の気持ちなんて分かりませんよ」
「いやいや、そんなことないって。私達長い付き合いじゃん。兎斗の考えてること、私はちゃんと分かってるからね」
先生が自慢げな顔で、とんとんと自分のこめかみをつつく。
「それはそれで気味が悪いですね」
私は露骨に顔をしかめた。
「そんなこと言わないでよ」
笑いながら言った先生は、「またいつもの話に変わるけど、最近、印象に残った夢はなにかな」とようやく本題に入った。
私はここ最近の夢を思い出そうとする。夢は時間が経つほどおぼろげになって、気がつくと内容も忘れてしまっているので、よっぽど印象深いものでないと、記憶に残らない。ここ一週間は、あまり悪夢を見なかった。
「この町の王様になった人が市民のみんなから崇められる夢です。あとは、猫とロールケーキを食べた夢」
多分、どちらもクラスメイトの夢だ。この病気は、関わりのある人間の夢を取り込んでしまうと言われているのだが、単にすれ違っただけの人間や、少し言葉を交わしただけの人間など、浅い関わりでも夢を見ることがある。そして、関わりが深ければ深いほど、その人間の夢を見ることが多くなる。
「へぇ。楽しそうじゃん。この町の王様って、どんなことするの?」
「駅前の寂れた商店街でパレードをやってました」
面白かった夢の話を聞くときの先生は、嬉しそうだ。出来れば、先生には面白かった夢の話だけ聞かせてあげたい。昔はそうしようとしていたが、先生にすぐにばれた。怖かった夢も、楽しかった夢も、ここではちゃんと言葉にして私に聞かせて、と真剣な顔で言われてから、先生の言った通り、印象に残った夢を話すようにしている。
「パレードかぁ。いいねぇ。楽しそうじゃん」
「はい。市民もみんな笑顔で、カラフルな紙吹雪が舞っていて、楽器隊の人達が演奏していて、とても賑やかでした」
あの夢の、たくさんの色やメロディーに満ちた鮮やかな情景を思い出す。冷たい風が吹き抜けて、灰色の陰が落ちたいつも薄暗いはずの商店街が、賑やかな喧騒に包まれて、遊園地のようだった。
「なるほどね。その王様は市民のみんなに慕われる王様だったんだね。それはいいことだね」
「そうですね。市民にすごく信頼されている感じがしました」
先生はカルテに、ハ―バリウムのボールペンをスラスラと走らせる。その字はこちらからはハッキリとは読めなくて、先生はいつも私の話をどう書き留めているのだろう、と気になる。
「猫とロールケーキを食べる夢も、面白そうだね」
「はい。絵本に出てくるような、二足歩行のちょっとデフォルメされたような猫でした。木造の小さな家で、紅茶を淹れて、大きなロールケーキを食べていました。器用にフォークも使っていましたよ」
暖かい夢だったな、と思い出す。ロールケーキのスポンジはふわふわとしていて、きれいなたまご色をしていた。二つに切られた赤いイチゴと生クリームが包まれたケーキは大きく、粉砂糖がふりかけてあって、それが真っ白な粉雪のようで綺麗だった。
「へぇ。可愛いね。その猫はなにか喋ったりしたの? それとも、にゃあにゃあ言ってたの?」
「なにか喋っていましたよ。恐らくこの夢を見ていた人と。もう内容もあまり覚えていませんけど、賢そうな猫だなと思いました」
この夢を見ている人は、声を聞く限り、女の子だったと思う。女の子は、猫に悩み相談をして、猫はその女の子の話に相槌を打ち、的確なアドバイスをしていた。
夢の見え方も様々だ。夢を見ている本人が夢の中でどう動いているのか観客席から見えるものもあれば、自分がその夢を見ているかのように、夢を見ている人間の目に映ったものが映像として映る夢もある。たまに、小説のように文章が並んでいたり、漫画のようにコマが割られた夢も見る。そのため、今自分の見ている夢が誰の夢なのか、分からないこともあった。
「猫に悩み相談か。どんなアドバイスがもらえるのか気になるね。たとえばさ、今の時代って、考えていることをすぐに発信できるようでいて、みんな本心は絶対に人に
この病院の診察時間がいつも押しているのは、多分患者が多いからだろう。先生は、忙しい素振りなんて全く見せずに笑っているが、この部屋で毎日、絶えることのない患者達と向き合っている。
「先生は猫の手も借りたいと思いますか?」
先生は笑みを浮かべて、首を横に振った。それを見た私は少し安心した。
病院に来ると、神経が過敏になる。清潔な診察室や、僅かに緊張感の漂う待合室。私は医師のちょっとした声のトーンの変化や、言葉のニュアンスなども気にしてしまうので、先生がいつも明るく、冗談も交えながら私に接してくれるのが、ありがたかった。
「頑固な兎斗の面倒を見られるのも、私だけだと思ってるよ」
頑固と言われると腹が立つが、その通りかもしれない。そう思いながら、私はマスクの針金の部分をきゅっとつまむ。
「あ、それ。兎斗ってさ、嬉しいことがあったときとか、ちょっと困ったことがあるときとか、そうやってマスクの鼻のところいじるよね」
先生は自分の鼻を指差して笑う。
「そうですか?」
その癖は自分も知らなかった。首を傾げて、マスクの針金部分に触れた私は、自分がまた無意識に鼻の方に指を持っていっていることに気が付いて、はっとする。
「あ、ほら。また触ってる」
先生は私を指差して、けらけらと笑う。
「別にいいじゃないですか。あと、人に指ささないでください」
私のちょっとした癖にも気がつく先生は、本当に私の考えていることが分かるのかもしれない。でも、私は先生の考えていることが全部分かるのかと言われたら、頷ける自信がない。
「はいはい。すみませーん」
先生は、わはははと豪快に笑う。先生の笑い声は部屋の中でよく響いたので、外に漏れていないか心配だった。
「先生、ここは病院なんだから静かにしてください」
子供っぽい先生でも、やっぱり子供の私とは違う。大人になった私は、先生みたいに大声を上げて笑えているだろうか。多分、無理だろうな、と思う。そもそも、私が大人になれるかどうかも分からない。
「そうだね。兎斗の言う通りだ。もっと静かにしよう」
先生は目を閉じると、深く頷いた。先生はよく見ると、まつ毛が長い。メイクは全体的に派手すぎず、丁寧だった。綺麗な人だな、と一瞬思ってしまった自分が悔しい。
先生は黙っていれば美人に見えるが、言動や行動は幼稚で、完璧な美人とは言い難い。私は先生の整った顔立ちを少しの間見つめていたが、先生が目を開いたので、すぐに視線を逸らした。
昔から、美しい人が羨ましかった。私は自分が美しくないことを、物心ついたときから自覚していた。もっと自分を愛せたら、このマスクの息苦しさにだって、慣れずに済んだだろうと思う。
次の通院日について話をしながら、私は薄手のカーディガンの袖を引っ張って、指を覆った。傷だらけで、かさついた自分の手が隠れて見えなくなったことに安堵した私は、家で待っている雪のことを思い出す。
私は昔から、色々なものを隠してばかりで、何もかもさらけ出せる雪とは正反対だ。
家に帰ると、玄関には黒いローファーが脱ぎ捨てられていて、私はその靴を揃えてから、部屋にあがる。贅沢に冷房を効かせたリビングは、長袖の私でも丁度いいほどに涼しい。床には制服が脱ぎ捨てられてあったので、私はそれを手に取り、ハンガーにかけた。リビングのソファーでは、下着姿の雪が横になっていた。ソファーの手前に置かれたローテーブルには、洋菓子店で買ってきたものなのか、ピンク色をした食べかけのフルーツゼリーが置いてあった。
「おかえりー」
雪が体を起こして、笑顔を見せる。花柄のレース刺繍が施されたブラジャーに、チュール素材のキャミソール。同じく、花柄の刺繍が施されたショーツ。足を組むと柔らかく形を変える白い太ももから、ほっそりとしたふくらはぎまでのラインは、雑誌モデルの足にも引けを取らないと私は思う。
「ただいま、雪。クーラー強すぎだから、もっと弱くしてよ」
クーラーの設定温度については、いつも口をうるさくして言っているはずなのだが、雪は適当に返事をするだけで、私の話なんて聞いていない。
クーラーのリモコンが自分の手に届かないところにあることに気が付いた雪は、だらんとソファーに横になって言った。
「えー。めんどくさい。兎斗がやってよ」
寝転んでいると、豊満な胸がさらに主張をする。キャミソールに薄っすらと隠されたくびれのラインが、際立って見えた。
「それくらい自分でやってよ」
そう言いながらも、私はリモコンを手に取り、設定温度をあげる。面倒くさがりな雪は絶対にリモコンに手を伸ばさないだろうと思ったからだ。
「あんまり弱くしないでね」
ソファーの肘置きに足を乗せながら、雪は甘えた声で言う。
「分かってる」
私はそう返事をしながら、自分には丁度いいが、雪が見たら怒るであろう温度まで、ボタンを押した。親に色々言われないように、電気代も節約しなければならない。リモコンを戻した私は、寝転んだ雪に、自分の座るスペースを開けさせて、ソファーに腰を下ろした。テレビの画面には、私の知らない、外国の女優と俳優が映っており、二人はベッドの上で唇を重ねていた。映画を見るのが好きな雪は、またレンタルしてきたDVDを流しているみたいだ。特に興味もなく、その映像を眺めていると、雪の香水の香りが鼻の奥を撫でた。
「そのゼリー、兎斗にあげる。美味しいよ」
「食べかけのものを人に押し付けないでよ」
私は雪にも聞こえるように、大きなため息をつく。
「えー。別にいいじゃん。本当に美味しいんだよ」
雪は本当に美味しいものは他人にあげずに、一人で食べる性格なのを私は知っている。どうせ、お腹がいっぱいになったとか、あまり美味しくなかったからとか、そういう理由があって、私に押し付けようとしているのだろう。
「一度手をつけたものは最後までちゃんと食べて。あと私、今お腹空いてないから」
雪には基本、もったいないという精神がない。口に合わないものは残すし、新しいものが好きだ。本当に贅沢でわがまま。
「分かったよ。じゃあ、あとでデザートに食べるから、冷やしといて」
私は雪に言われた通りに食べかけのゼリーを冷蔵庫に入れ、銀色のスプーンを流しに置いた。
雪が自分勝手でわがままなことには、気がついていたはずだった。それでも、外にいるときの雪はまだ可愛いほうだ。化けの皮が剝がれた雪のわがまま加減には、私も呆れてしまった。
まず、靴を揃えない。他人の家でも下着姿で過ごし、脱いだ服は畳まない。テレビを占領して、私の見たい番組など絶対に見せてくれないし、飲み物すら私に用意させようとする。たまに、家から持ってきたカクテルを飲み、タバコも吸う、自堕落で享楽的な雪は、まさにこの部屋の女王だった。雪は、宮地にはわがままは言わないが、私はもはや召使いのようにこき使われている。
雪に言われるがまま動いてしまう私も私だ。しかし、口喧嘩では雪には勝てず、不機嫌な雪は私の手に負えなかった。私だって、好きでこんなことをしているわけではない。ここは雪の城と化してしまったので、渋々従っているだけだった。
私がソファーに座ると、雪が私の太ももの上に足を乗せてきた。つるりとした膝小僧に、薄紫色のネイルが施された爪。最初は下着姿の雪にうろたえたし、直視もできなかったが、もう完全に慣れてきて、抵抗感もなくなった。下着姿の雪にべたべたと触れられても、もうなんとも思わない。
雪の色々にだんだん免疫がついてきて、諦めと妥協で日々がぐっと過ごしやすくなるのを知った。それと同時に、私が雪に適合していくのを感じて、自分のことが気の毒に思えた。
兎斗は完全に雪の尻に敷かれてるわね、と宮地に言われ、認めたくはないが、その通りだと思った。だんだん、雪のわがままに付き合う日々が日常化してきている。
雪の方を見ると、雪は気持ちよさそうに眠っていた。眠る雪の首元には、赤いキスマークがいくつかついている。どこで、誰につけられたものなのか、言及したことは一度もない。野良猫のように気まぐれな雪の行動を私が知る必要もないし、雪の行動を縛りたいなど思ったこともない。
ただ、雪はこの家に来ると安心できるようだし、私の傍にいると、嫌な夢を見ないで眠ることができると言っているので、雪がここに来たいと思ってここに来ているうちは、受け入れようと思っている。
私はしばらく流れたままになっていた映画を見ていたが、やがて退屈になって本を読み始めた。雪は退廃的な男女の恋愛を描いた映画が好きだったが、私の好みではなく、雪の選ぶ映画はどれもつまらなく感じた。
雪が眠っていると、テレビから流れる音声と部屋の静寂が耳に触れて、空気が薄く灰色に染まっていくような感じがする。雪の寝顔は、夢で見た幼い頃の雪を思い出させる。あどけなく無防備なこの表情は、雪が私を信頼しているから見られるのか、それともある程度親交を深めた人間になら誰にでも見せるものなのかは分からない。
白くさらりとした頬に薄くのせられたコーラルピンクのチークと、ばれない程度に引いたアイライン。透明なマスカラの塗られたまつ毛。この部屋では気を抜くことができるからか、リップは落ちかけて、小さな唇は本来の色で柔らかく膨らんでいた。
雪は自分を飾ることに関しては、繊細で、苦労も厭ない。香水の香りの調節も上手で、誰にも見せないはずの足のネイルが剥がれかけているところなんて見たことがない。腕や足はつるつるとしていて、下着のほつれすら見つけられない。
外の世界では、純情可憐な少女を演じる雪は、この家で服を脱ぐと、急に甘く官能的な女の香りを放つ。落ちかけたリップも、眠たげに細めた目も、やけに扇情的だ。少し前、雪は甘いカクテルを舐めながら、これが私の本当の姿なんだよ、と言った。
「兎斗は学校にいるときの私のほうが好き?」とアルコールで頬が赤くなった雪が微笑を浮かべて聞いてきたので、私は首を横に振った。
私はこっちの雪を割と気に入っていた。自堕落な雪と共に過ごす時間は、私にとっては案外と心地の良いものなのかもしれない。雪という気まぐれな野良猫が部屋に寄り付いて、毎日がだらしなく、そして賑やかになった。
そろそろ夕飯の支度をしようと思って、雪を起こさないように雪の足をどけ、立ち上がる。映画はすでに終わっていて、テレビにはチャプター画面が映っていた。
今日は少しでも手を付けてくれればいいのだが、と考えながら、お米を炊き、鶏肉のトマト煮とサラダを作った。
ご飯が炊きあがるころに雪がちょうど目を覚ました。雪は目を擦りながら、小さくあくびをし、映画が終わっているのに気がつくと、もう一度ごろんとソファーに寝転がった。
「雪、ご飯できたよ」
「うん、分かった」
雪がまだ眠たげな顔をしながら、テーブルにつく。私は鶏肉のトマト煮やサラダを運んで、少し迷ってから、雪の茶碗に少量のご飯を盛った。それを雪の前に出すと、白米が嫌いな雪は、頬を膨らませたが、私が睨み付けると、黙って手を合わせた。
雪とうまくやっていくコツは、気持ちで負けないことと、勝てないと思ったらあっさりと自分から引くことだ。最近は、その見極めが上手くなった。
「いただきます」
「いただきまーす」
雪はまず、サラダに手をつけた。小皿に大盛りにしたサラダを食べ終わると、雪は鶏肉のトマト煮に手をつけた。最初は微妙な顔をしていた雪だが、咀嚼を続けると、その表情がぱっと変わる。
「どう、美味しい?」
「うん! 美味しい!」
雪がぱくぱくと鶏肉を食べる。そして、ご飯も少しずつ口に運ぶ。どうやら、雪のお気に召したようだ。これでまた、料理のレパートリーが一つ増えた。あのレシピはどこかにメモしておこう。
「そういえばさ、雪」
「ん、なに?」
雪は箸の動きを止めて、首を傾げる。
「そろそろ七時だけど、大丈夫?」
私は壁にかけられた時計の方に目をやる。雪はいつも七時になる前には家に帰っていたが、今の時刻は六時五十分を過ぎていた。門限があるのかどうか分からないが、雪がちゃんと決まった時間に帰るのが意外だと感じていた。
雪はふふふ、と笑うと、鼻歌まじりに左右に身体を揺らした。雪がご機嫌な理由が、私にはまだ分からない。
「今日は兎斗の家に泊まることにしました!」
「え?」
そんなの聞いていないし、急すぎる。私が耳を疑うと、雪は床に置いてあったどこかのブランドのロゴが印刷されたトートバッグを手に取って、洗面道具や、明日の分の下着と着換えを取り出した。
「今日はお泊り会だよ」
「泊まっていいよなんて言った覚えないんだけど」
相変わらず、自分勝手すぎる。怒ったように言ってはみるものの、この様子だと、雪は絶対にこの家に泊まっていくつもりだろう。私はすぐに、お風呂を洗わなきゃいけないとか、洗濯機は早めに回そうとか、しなければいけないことについて思案する。
どうせなら、金曜日や休日に泊まっていけばいいのに。何故、今日を選んだのだろう。平日は学校があって何かと忙しい。しかし、私の家に泊まる準備は完璧なので、今さっき思いついたわけではないようだ。
「今日は二人で夜更かししようよ。兎斗と見ようと思って他にも映画たくさん借りてきたんだよ」
「明日学校だから無理。あと、雪の選ぶ映画はいつもつまらない」
「兎斗のほうこそ、いつもニュースばっかり見ててつまんないよ」
「今の情報を知っておくことは大事だから、ニュースを見ることも必要だと思うけど」
雪は不機嫌そうに唸る。私の家では、夕方や夜になるとニュースを見るのが習慣になっていたので、それが染み付いてしまっていた。アニメも見ないし、バラエティー番組も騒がしくて苦手なので、テレビをつけてもニュースしか見るものがないという理由もある。
「だって、ニュースって難しい話と悲しい話ばっかりなんだもん。見たくないよ。映画見てたほうが楽しいじゃん」
「私だって、どうでもいい男女のベッドシーンなんて見たくない。ニュースを見てたほうが楽しい」
雪の顔が真っ赤になる。雪は必死になって言った。
「別にそういうシーンが好きなわけじゃないから!」
「え、そうなの?」
雪はそういうシーンのある映画を好んで、選んできているのだと思っていたが、どうやら違うらしい。
「そうだよ! 兎斗のばかー!」
私は肩をすくめて、食事を続ける。宮地と違って、雪は何を考えているのか、分からないことが時々ある。他人なのだから、それは当たり前なのだが、こうやって雪に怒られることも少なくない。
食事を終え、後片付けを済ませた私は、お風呂を洗い、雪がお風呂に入ると、洗濯機を回した。家事もひと段落したところで、静かなリビングで一人お茶を飲み、ニュースを見た。確かに、ニュース番組を見ていても、悲しい話や難しい話の方が多いように感じる。ニュースが嫌いな雪の気持ちも分からなくはない。
雪は楽観的なようでいて、悲しい話には人一倍敏感だ。人の黒いところも、あまり見たくはないのだろう。女子は総じて他人の悪口を言うのが好きだが、雪は人の悪口を絶対に言わない。わがままでも、面倒くさがりでも、小さな花のようなその繊細さがあるからこそ、私は雪とやっていくことができているのかもしれない。
「お風呂、気持ちよかったよ」
下着姿の雪がバスタオルで髪を拭きながら、部屋に戻ってきた。石鹸の甘い香りが、ふわりと部屋を舞う。雪は扇風機の前にしゃがみ込むと、冷たい風を浴びて、気持ちよさそうに目を細めた。
「雪、髪の毛乾かさないと風邪ひくよ」
「えーめんどくさい」
扇風機の風で、雪の声が宇宙人みたいになる。
私はリモコンを手に取り、ニュースからバラエティー番組にチャンネルを切り替えると、洗面所からブラシとドライヤーを持ってきて、ソファーに座る。子猫のようにやってきた雪は私の足の間に収まると、くすくすと笑った。雪は何でもかんでも私にやらせようとするから困る。まぁ、基本的に何でもやってしまう私も悪いのだが。
濡れた雪の髪に熱風をあて、ブラシでとかす。細く、柔らかい雪の髪の毛は、次第にふわりと膨らんできた。前髪も丁寧にブローしてあげると、雪は満足そうに頷いた。
「ありがとう。兎斗」
「別にいいけど、自分のことは自分でやってほしい」
そう言っても無駄なことくらい分かっている。でも、こういう体を保っていないと、雪はますます私をこき使うだろう。
「分かってるよ。だって、私が甘えられるのは兎斗だけなんだもん」
雪が私に頬を摺り寄せてくる。髪の毛はまだ熱を含んでいて、ひだまりのように暖かかった。
「それにしても甘えすぎだと思うけど」
「えーいいじゃん」
雪は甘ったるい声を出す。学校にいるとき雪からは想像もできない姿だ。クラスメイトや先生が見たら、きっと驚くと思う。
「よくない」
「兎斗はほんとに怒りんぼさんだね」
実際は私より怒った雪のほうがはるかに怖いのだが、それを言ったら、雪は本当に怒りそうなので、口には出さないでおいた。
「じゃあ、私、お風呂入ってくるから」
「はーい」
私はブラシと扇風機をまとめて立ち上がる。雪はテレビに映る騒がしいバラエティー番組を楽しそうに見つめていた。
洗面所で顔を洗い、浴室に入ったとき、シャンプーの位置がいつもと違うことに気が付いた。そういえば、自分の家のお風呂を他人が使うことは、これが初めてかもしれない。胸のあたりが、トクトクと音を立てたので、慌てて押さえつける。
なんでドキドキしてるんだ、私。
頬が熱くなったのは、浴槽から立ち上る湯気のせいだろう。私は手早く髪の毛と身体を洗うと、浴槽に浸かることもせずに、浴室からでた。
短い髪の毛をドライヤーで乾かして、リビングに戻ると、雪が食べかけにしていたピンク色のゼリーを食べていた。机の上には、白色のサワーが注がれたグラスが置いてあり、雪は少し酔っているようだった。
「雪、一口ちょうだい」
私が言うと、雪はスプーンですくったゼリーを私の口に運んでくれた。
「はい。あーん」
赤色に近い、透明なピンク色のゼリーは、つるりと私の喉を滑っていく。すぐに飲み込んでしまったため、味はよく分からなかったが、甘酸っぱい香りが口内に残る。私は胸に手を当て、自分の鼓動を確かめた。全然、うるさくない。やっぱり、さっきのは気のせいだったのかもしれない。多分、浴室で他人の存在を感じたのは初めてだったので、少し驚いただけだ。
「美味しい」
「でしょ? もっと食べていいよ」
雪は多めにゼリーをすくって、私の口元に近づけてくる。
「いや、いい」
私は唇を親指で拭って、ソファーに座る。そもそも、雪はいつも下着姿なので、いまさら雪の裸を意識して、緊張している私もおかしい。頭の中がうるさくて、いつのまにか怖い顔をしていた私に、雪が近づいてきた。
「兎斗、耳赤いよ。どうしたの?」
私の耳たぶをつまんだ雪が、柔らかい唇で私の耳に触れる。
「ひゃっ」
雪の唇が触れた部分が甘くビリビリと痺れて、私は小さく声を上げる。
「兎斗って結構敏感だよね」
「違う、そういうわけじゃない」
「うそつき」
雪は私の首筋を舌でゆるゆるとなぞった。身体が中心から熱くなっていく感じがして、苦しい。頭が変になりそうだ。自分の吐息が乱れていくのに気づいた私は、雪の肩を手で押す。
「やめて、雪」
雪は私の頬を撫で、いたずらっぽく笑った。
「あ、兎斗、その顔可愛い」
「うるさい」
私は雪に軽くデコピンする。雪は「う」と言って、おでこを押さえると、楽しそうに笑った。酔っているときの雪はやたらと絡んでくるから、面倒くさい。お腹の奥に溜まったとろとろとした熱が徐々に冷めていくのに安心していると、雪がグラスの縁を指でつぅっとなぞりながら言った。
「兎斗ってさ、私以外の人とキスしたことないでしょ?」
「当たり前でしょ」
私はあの最悪な雪とのキスを思い出した。あれがファーストキスだった。そもそも自分の唇と他人の唇を重ね合わせる行為自体、理解に苦しむのだが、スキンシップが好きな雪にとっては、あれも挨拶のようなものなのかもしれない。
「あのね、ファーストキスの相手って、忘れたくても忘れられないんだよ。だから、私、兎斗の初めての相手になれて嬉しいな」
「あれは合意の上ではなかったでしょ」
むしろ、強引に奪われたと言っても過言ではない。しかも、あろうことか、雪は舌まで入れようとしてきた。本当に信じられない。
「いいの。いいの。兎斗は無理やりされるほうが好きでしょ?」
「私のことマゾヒストみたいに言わないでよ」
雪は私の言葉を聞いて、軽やかに笑った。グラスに口をつけた雪は、視線だけこちらに寄こして言った。
「ねぇ、兎斗。もう一回キスしようよ」
「やだ」
もう酔っぱらいに付き合うのは散々だ。私が麦茶を飲みに立ち上がると、雪はつまらなさそうな顔をした。
「つれないなぁ」
「つれなくて結構」
私は雪みたいに気軽に人に触れないし、あいさつ程度の気持ちでキスをしたりしない。つまらなくてつれない奴だと思われても構わない。
私はキッチンで麦茶を飲み、長く息を吐いた。
ファーストキスの相手は忘れたくても忘れられない、という雪の言葉を頭の中でなぞる。そんな言葉を口にできるのは、雪が私以外の人間ともキスをしたことがあるからだろう。私の中にはもうすでに、雪の声や、香りや、肌の柔らかささえも、すべて焼き付いてしまっていた。全部、雪のせいだ。
私の身体に染み込んでいく雪の色。雪は、私の初めてのキスを奪った、忘れたくても忘れられない相手。
リビングでお酒を飲む雪は、ふぁ、とあくびをした。ふわりと透けた白いキャミソールが覆った背中が、やけに色っぽく見えた。
ベッドに入ったのは、十二時過ぎだった。一人暮らしなので、もちろん二人分の寝具はなく、私はソファーで寝る、と言ったら、雪に布団の中に引きずり込まれた。雪に背を向けようとすると、雪は私の肩を掴んで、向き合う形にさせた。雪の温かい吐息が頬にかかる。甘い香りと、アルコールの苦い香りが混じっている。
下着姿で抱きついてきた雪の身体は熱かった。夜だから涼しいと言っても、雪のみずみずしく、温かい肌が服の上から重なっていると、暑苦しかった。
「雪、あつい」
「あったかくて気持ちいいね」
雪は私を抱きしめる腕に、きゅっと力を込めた。鎖骨から、石鹸の匂いがうっすらと香る。夜の闇に似た藍色のカーテンが、冷たい夜風でふわりと膨らんだ。
「そういうことじゃない。暑苦しい」
「でも、こうやって兎斗のあったかさを感じてるとね、すごく安心するんだよ。兎斗は小さくて、いつもぽかぽかしてて、可愛い」
安心。今まで、私は誰かを安心させたことなんてあっただろうか。私はいつも人を不安にさせる。私自身も、他人といると不安になる。
胸の底がふんわりと温まっていくような、この感覚を安心というのだろうか。私も雪の体温を感じていると、安心する。
雪は私の髪を撫でた。くすぐったく、慣れない感覚に身をよじらせると、雪はくすくすと笑った。
「私は小さくない。あと、可愛いとか言わないで」
「可愛いって言われるの、嫌いなの?」
雪は不思議そうに聞いてきた。そんな言葉は私には似合わないし、そもそも私は、可愛いという言葉を乱用する女子が苦手だ。
「あんまり、好きじゃない。あんなわたあめみたいな言葉」
「わたあめ?」
薄暗い闇の中で、雪の目が艶っぽく光って見える。雪は私のことをじっと見つめていた。
「白くて、ふわふわしてて、口に入れたときは甘いけど、すぐ溶けて、どんな味だったかも忘れる。女の子が口にする可愛いって言葉は、わたあめと一緒だよ」
「なるほど。でも、私、わたあめ大好き」
雪が屈託なく笑う。私達は正反対で、雪が光なら、私は闇だ。白く眩い雪は、暗い場所でぐずぐずしている私さえ包み込んでしまう。雪といると、胸に芽生えた濁った感情さえも消えてなくなりそうな気がする。
「雪は白くてふわふわしてるから、わたあめが似合うよ」
綺麗で美しい雪のことを、クラスメイト達は可愛いという言葉で括るのだろう。確かに、雪は可愛いが、口に出して褒める気はなかった。私は人を褒めるのが苦手だ。
雪は小さく肩をすくめて笑った。
「今日はずっと私のそばにいてね」
膨らんだカーテンの隙間から、粒のように小さな、白く瞬く星が見えた。雪は私に指を絡めてくる。
「うん」
どこにも行く気はない。私はずっと雪の側にいる。
雪の悪い夢だって、私が食べてあげるから。
私は指先に柔く力を込める。私達の体温は重なり、絡めた指の間でちょうどいいぬくもりが生まれる。
「ありがとう。兎斗。大好き」
私は頷き、静かに瞼を閉じる雪の、幼い顔を見ていた。
‡‡‡‡‡‡‡‡
唸るようなブザー音で目を覚ます。私がいたのは、いつもの観客席だった。ざわざわと、目には見えない他の観客達の声が、ホールの中を満たしている。幕はまだあがっていない。意味が不明な言葉の羅列や、奇怪な発音を耳で追っていると、どこからかうさぎが走ってくる。私はそのうさぎを刺すような視線で見つめた。私の隣の席に座ったうさぎは、こちらを向き、鼻をひくひくさせた。
「君は誰とも関わらないんじゃなかったの? その、雪って子のことを随分と好いているみたいだけど」
確かに、そのつもりだった。でも、私にとっての雪は、闇に溺れる私に手を伸ばしてくれた、かけがえのない存在だ。私は雪のことを守ると決めた。絶対に見放したり突き放したりしない。
「誰とも関わらずに生きて行くことなんてできないでしょ」
「でも、君は自分の意志で人を遠ざけていたはずだ」
うさぎの言う通り、今までは自分の意志で人を遠ざけていた。しかし、雪はそんな私さえも受け入れて、圧倒的な光で包み込んだ。
「個人の意志なんて、すぐに揺らぐものだから」
他人が怖かった私は、虚勢を張っていた。誰にも傷つけられたくないから、誰とも関わらなかった。孤独を知らないふりをしていた私こそが、一番孤独だった。だけど、私にはもう雪がいる。雪がいるから、一人じゃない。
「少し前の君なら、絶対にそんなことは言わなかったはずだ。まぁ、雪の夢は膨大で、美味しいからね。君が雪と関わることに対しては、僕はむしろ賛成しているくらいだ」
「私と雪の関係に勝手に賛成したり反対したりしないで」
「分かったよ。君は僕のことが本当に嫌いなんだね」
「当たり前でしょ」
うさぎのことを好いたことなど一度もない。昔からこいつは私の憎悪の対象だった。私が舌打ちすると、重たい幕がゆっくりとあがっていく。観客達のざわめきも、ボリュームを絞るように、小さくなっていった。
「ねぇ、起きて。朝だよ。っていうか、もうお昼!」
真っ暗な映像から、雪の声がした。私は一瞬、はっとするが、すぐに自分が雪の夢を見ているのだと気がつく。雪に起こされた誰かが瞼を開いたのか、映像が明るくなる。画面には、雪の顔がいっぱいに映っていた。この時の雪は中学生くらいだろうか。その顔はあどけなさを残しながらも、少し大人びていた。
人形に着せるような、フリルやリボンをあしらったキャミソールやショーツを身につけた雪の胸はまだ膨らみかけで、ブラジャーもつけていないようだった。
「おはよう。亜利沙。今日は土曜日だから、どこか行こうよ」
亜利沙。確か、雪を預かっている人の名前だった。まともな夕飯も作らない、ずぼら人という印象だ。夢は亜利沙からの視点で進んでいるようで、亜利沙の姿は見えない。
亜利沙は、雪をどかして、ゆっくりと起き上がる。
めんどくさい、とでも言われたのだろうか。亜利沙の声は聞こえないが、雪は不満そうな顔になる。
「えーなんで。一日中家にいるなんて、退屈だよ」
そこで、家全体にチャイムの音が鳴り響く。雪は寝室に置いてあるデスクにかけられた一枚の襟付きワンピースを手早く頭から被って着ると、階段を下りて、インターフォンで、客人の顔を確認した。亜利沙も、だらだらと雪についていく。
インターフォンに映っていたのは、宅急便の男の人だった。雪は下駄箱の棚から印鑑を出すと、玄関を開けた。受領印を押す姿は手慣れており、荷物を受け取った雪は、わくわくとした顔で、段ボールを机の上に置く。
「ねぇねぇ、これって、新しいお洋服?」
亜利沙が、そうだよ、と答えたのか、雪はぱっと顔を輝かせる。
「やった! 嬉しいな」
雪がガムテープをはぎ取って、箱を開ける。中に入っていたのは、胸の部分にフリルが付いた白いブラウスと、腰の部分がきゅっと締まった薄茶色のワンピースだった。スカートの部分には、トランプや、クッキー、小瓶のイラストがプリントされている。
「可愛い! ねぇ見て、この服、すごく可愛いよ!」
雪は机の上に服を広げて歓声をあげる。亜利沙はビニールから出した服に触れて、生地の質感や厚みを確かめていた。
「着てもいい?」
雪は期待に満ちた目で亜利沙を見上げる。視界が一瞬ぶれて、亜利沙が頷いたのが分かった。
雪は、その場で服を着換え始めた。ブラウスのボタンを止め、その上にワンピースを着た雪は、亜利沙に首元の赤いリボンを結んでもらい、ふわりと回った。スカートの優雅な広がりを確認した雪は、無邪気な笑顔を浮かべる。
「あ、あとタイツも」
そう言って、雪がクローゼットを開ける。クローゼットの中には、ずらりとロリータ系のドレスやワンピースが並べられていた。それも、生地やレースは上質がものばかりだ。
おもちゃ箱を覗いているみたいだと思った。これはまるで、着せ替え人形のクローゼットだ。サイズを見る限り、すべて雪のものなのだろう。雪はクローゼットの中のアンティーク調のカラーボックスから、白いタイツを選んで取り出した。雪がちらりと亜利沙の方を見る。亜利沙が頷く気配がする。雪は安心したように小さく息を吐き出すと、タイツを履き始めた。雪の、細くまだ幼さを感じさせる足が、薄い白色に覆われていく。
タイツを履き終えた雪は、「どうかな?」と言って、亜利沙を上目づかいに見る。その時の雪は、少女という通過点をゆうに通りすぎた女の顔をしていた。良いよ、と言われたのか、雪は笑顔を咲かせて、家の階段を登る。
二階の一室には、本格的なフォトスタジオがあった。白い背景に、三脚に固定された高級感のある艶めくカメラ。あの、傘を広げたような形をしたものは、光を当てる道具かなにかだろうか。部屋の端に並べられた機材はごちゃごちゃとして、コードが絡まっている。
そして、二人の撮影会が始まった。
雪は白い背景の前に立ち、様々なポーズをして見せた。ふわりとスカートを膨らませてみたり、ぺたんと女の子らしく座って、こちらを見上げたり、わざと笑みを消して、視線を外したりした。写真を撮られ慣れているのだろう。雪の見せるポーズは、中学生の記念撮影というよりかは、雑誌に出てくるモデルを思わせる。
亜利沙はまつ毛の先の細かな動きでさえも、カメラに収めるかのように、素早くシャッターを切った。ストロボの眩い光が、絶え間なく雪を包む。
亜利沙は数え切れないほどの写真を撮った。雪は表情やポーズを瞬時に計算し、服を殺さず自分も殺さないような魅せ方をして、ひと時も集中力を途切れさせなかった。
亜利沙がシャッターを切るのをやめると、雪は年相応の少女の顔に戻った。白い光の中で小さく伸びをする雪は、達成感に満ちたような顔をして、同時に亜利沙に褒められるのを期待しているような目をしていた。
亜利沙が手招きをする。雪は亜利沙の腰にしがみつく。亜利沙が雪の頭を撫でると、雪は気持ちよさそうに目を細めた。亜利沙は右手を雪の首にまわし、左手で耳の縁をそっとなぞった。それを繰り返していると、雪はぴくんと震え、次第に熱っぽい吐息を吐くようになった。亜利沙の手は、耳から首へ、ゆっくりとおりていく。つぅっと首筋を撫でられた雪は、吐息を震わせた。亜利沙の手は、触れるか触れないかの加減で、雪の身体のラインをなぞる。脇腹のあたりをくすぐるようにかすめられた雪は、艶っぽい声を出した。亜利沙が、雪の肩に手を置くと、雪は頷いて、床に座った。軽く開いて伸ばした雪の足を、今度は上から下へ、亜利沙が時間をかけてなぞる。雪は頬を紅潮させて、瞳に涙を浮かべながら、切なげな顔で亜利沙を見つめた。
これ以上、見たくない。私は喉の奥がぎゅっと締め付けらたように痛むのを感じた。でもここに座った以上、舞台上で起こる出来事から目を逸らすことは許されなかった。中学生相手に、何をしているんだ。最初にやってきたのは、まだ顔も見たことがない、亜利沙への苛立ちだった。けれど、雪の方もいやいややらされてるようには見えなくて、さらに腹が立った。嬉しそうな雪は亜利沙を見る。私は亜利沙を通して、嬉しそうな雪を見る。
なんで、こんなことを。
亜利沙は、雪の太ももの内側を、指先で何度も柔く擦った、今にも涙を零しそうな雪の吐息は、苦しげに乱れる。
「亜利沙」
雪が亜利沙の名前を呼ぶ。亜利沙は、雪の赤い頬に触れる。
二人は唇を触れ合わせた。水音が絡まり合う音がする。私は無意識に唾液を飲み込んでいて、こくんと、小さな音が鳴った。
唇を離した雪は、幸福そうな顔をしていた。亜利沙はそんな雪の首を、両手で包む。ぐ、と亜利沙が両手に力を込めた。亜利沙の手の甲に、青色の血管が浮き上がる。雪は、驚きに満ちた表情で、目を見開いた。
「あ……」
雪の絞り出すような声は、すぐに消えてなくなった。雪は亜利沙の下で暴れようとするが、亜利沙の重みで動けないようだった。雪の顔色が、だんだんと悪くなる。瞳がせわしなく揺れて、口の端から唾液がこぼれる。
つぅっと、雪の頬に涙が伝った。雪が目を閉じて、動かなくなった。
亜利沙は、自分の手のひらを見つめる。雪の涙は、頬の上で消えてなくなっていた。
下りてきた赤い幕が、舞台の上を覆い隠していく。知らない間に私も息を止めていたようで、思い出したように大量の空気を吸い込んだ。ここの空気は、温かくも冷たくもなく、色も味もない。
私は何度、この場所で雪が死ぬところを見てきたのだろう。手を伸ばすことも、声を出すこともできずに、ただ雪が朽ちるのを見ているのは、身体的にも精神的にも苦痛で、私はその痛みを、忘れることなく引きずり続けていた。
でも、これが雪のためになるのであれば、それで良かった。雪が安心して眠れるように。ただ、それだけだった。
‡‡‡‡‡‡‡‡
身体の芯が、ふっと浮くような感覚がする。目を覚ました私は、カーテンの隙間から差し込む、薄黄色の光に気がつく。
手のひらが、温かかった。見れば、私はまだ雪と手を繋いだままだった。雪はまだ眠っているようだ。雪の頬に、透明な涙が伝っているのを見て、私は息を飲む。先ほどまで見ていた、雪が首を絞められる夢を思い出したからだ。
携帯のバイブ音が鳴り響く。雪の携帯だ。放っておこうと思ったが、あまりにもうるさく、このままでは雪が目を覚ましてしまうので、手に取る。
【どこにいるの。どうしたの。早く返事をしなさい。】
画面を開くと、大量のメッセージと不在着信表示される。メッセージの差出人は、亜利沙だった。ぞっと背筋に悪寒が走る。ボタンを押すと、解除コードに使うボタンを押した位置や軌跡が画面に残っていて、簡単にロックを解除することができた。
悪いことをしている、という意識がありながらも、私は雪のメールボックスを開いた。亜利沙からのメールをいくつか開くと、亜利沙は相当怒っているようだった。雪は亜利沙には何も伝えず、この部屋に泊まったらしい。
どうして雪はこんな、家出みたいなことをしたのだろう。
私は雪の頬に浮かんだ涙の線をそっと指で拭う。雪のまつ毛の先が少し震えたように見えたが、雪は目を覚まさなかった。
メールアプリの使用履歴を消そうと携帯を操作していると、写真フォルダのアプリが開いたままになっているのに気が付いた。カメラロールには雪の写真がずらりと並んでいて、私は目を見張った。
どれもこれも、白い背景をバックに撮られたものだ。ここがどこなのか、私は知っている。カメラに目線を向けてポーズをとる雪は、ふわふわのロリータ服を着ていたり、際どい下着姿を身に付けていたりした。
先ほど見た夢は、現実に基づいたものだったのだろうか。夢で見た、まだ胸も膨らみかけだったあどけなさの残る顔の雪と、写真に映っている今の雪の顔が重なる。
亜利沙、と私の知らない人の名前を呼ぶ雪の声が耳に蘇って、私は奥歯を噛み締める。もしも、雪と亜利沙が、実際にあんなことをしていたら。そう思うと、恐ろしさに目が眩む。二人だけの写真撮影も、その後のあの行為も、これは雪が本当に望んでいることなのだろうか。
分からない。踏み込めない。誰かの心の奥底に自分から触れた経験が、私にはない。私はいつのまにか、雪のことを何もかも知っているような気になっていた。
画面に映るのは、私の知らない雪だった。
いつも七時前には家に帰っていく雪が、亜利沙に無断でこの部屋に泊まった理由。これは雪からの救難信号なのだと、私は勝手に思うことにした。
私は雪を助けたい。今度は、私の番だ。