「へぇ。意外と可愛い顔してるんだね」
猫宮の言葉で、自分が今マスクをしていないことに気がついた私は、床に落ちたマスクをすぐに拾って装着した。そのまま、猫宮の頬を手のひらで打つ。ばちんと破裂音のような音が鳴った。猫宮の顔が傾く。
誰にも、見られたくなかった。私の大嫌いな醜い顔。見られたくなかったから、必死に隠してきたはずだった。
「信じられない」
私が噛み潰すように言うと、部屋のドアが開いた。部屋に入ってきたのは、同じクラスの宮地だった。宮地は私達を見ると少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに冷めた顔をつきになって言った。
「兎斗、もう授業始まってるから行くわよ」
私は無言で頷き、宮地と共に部屋を出て体育館に向かった。その授業中、猫宮が体育館に現れることはなかった。
猫宮とは、今後一切関わらないようにしよう。私はそう胸に誓って、それからの日々は猫宮をいつもよりも警戒し、極力避けて生活するようにしていた。元々関わりがなかったので、普段の生活と何ら変わりはなかったのだが、今度は猫宮からの視線を感じるようになった。
移動教室の際や、昼休みの際に誰かの視線を感じて、そちらの方に目を向けると、そこにはいつも猫宮がいた。猫宮は私と目が合うと、私にだけ分かるように、僅かに口の端を吊り上げた。その表情が憎たらしくて、私はすぐに目をそらすと、心の中で舌打ちした。
猫宮に無理やりされたキスの感覚は、まだ忘れられなかった。ふとした瞬間に思い出しては、嫌悪感に肌が粟立つ。猫宮はこちらのことをチラチラと見てくるくせに、教室内で私に話しかけるようなことは絶対にしなかった。猫宮はあえて話しかけずに視線を寄こすことで、猫宮のことを気にしないようにしている私の気を引こうとしているように思えた。からかわれているような気分だった。今日も、猫宮からの視線を感じた。
授業終了のチャイムが鳴って、帰り支度を手早く済ませた私は、席を立った。誰もいないトイレに立ち寄り、鏡に映った私の顔がちゃんとマスクで隠れているのを見て、安堵する。あの日から、人前でマスクを外さないようにさらに徹底するようになった。猫宮がそうだったように、同じクラスでも、マスクを外したときの私の顔を知っている人もほとんどいない。携帯の電源を入れると、画面にはスケジュールアプリからの通知が届いていて、それを見た私は、今日が通院日であることを思い出す。病院の帰りに夕飯の材料でも買っていこうか、と考えていると、トイレに人が入ってきた。私が携帯の画面を見たままトイレから出ようとすると、「ねぇ」と声をかけられて、私はその声の主をすぐに理解した。
顔をあげると、微笑みを浮かべた猫宮が私の前に立っていた。
「兎斗ちゃん、最近私のこと避けてるみたいだけど、どうしてかな?」
私のことを、兎斗ちゃんと呼ぶのは、クラスの中でも猫宮だけだ。なかには、私の苗字すら覚えていない人もいるだろう。だが、猫宮に名前を呼ばれるのは不快でしかなかった。猫宮が一歩私に近づく、私はあの時のキスを思い出して、すぐに後ずさった。また、鼻の奥が焼けるような甘い香りがやってくる。
「あなたのことが嫌いだから」
私は猫宮のことを睨み付ける。ここで少しでも胸の内の揺らぎを見せてしまえば、私は劣勢になるだろうと思い、険しくした表情を決して崩さなかった。嫌いな猫宮に気持ちで負けたくない。猫宮は私のことを試すように、じっと私の目を見つめてきた。
「じゃあ、なんで私の夢ばかり見るの?」
そう言った猫宮はくすりと小さく笑った。猫宮の言葉を頭の中で何度もなぞり、理解したとき、怒りで目の前が白く燃えた気がした。
「見たくて見てるわけじゃない!」
私の声が、鋭く響いた。喉の奥に細かい痛みが走り、私は顔をしかめた。
私だって、他人の夢を見なくて済むなら、それ以上に幸福なことはない。毎晩、眠りにつくのが恐ろしかった。なのに、眠気はいつも私を飲み込んで支配する。他人の喜びも、悲しみも、知りたくなかったし、見たくなかった。母は私を病気だと言った。病人のあなたのせいで迷惑がかかる。母は病院の帰り道に、うんざりしたように呟いた。
いらないと思って、簡単に捨てられるものだったら、私はこんなに苦労をしていなかった。こんなにひねくれていなかった。
憤慨する私をよそに、猫宮は冷静な態度で私を観察していた。高ぶっていた感情の矛先が見つけられなくなった私は胸に悔しさを滲ませ、口を
「私も、同じだよ。昔から、見たくない夢ばっかり見る」
猫宮が柔らかく微笑む。猫宮の周りの温度が、急に温かくなり、優しい光を帯びた気がした。それを眩しく感じた私は、震えた吐息を吐いて、足元を見つめる。
「じゃあ、またね」
猫宮が、トイレから出ていく。ドアが静かに閉まり、猫宮の足音がだんだん遠くなっていった。
私はやっぱり、猫宮の夢を見ていたんだ。猫宮のことなんて、どうでもいいはずだった。私の中のあいつは、猫宮の何に惹かれ、喰いたいと思ったのだろうか。私は、マスクの上から唇に触れる。まだ、私の周りには、猫宮の甘い香りが薄っすらと残っていた。
待合室の若草色のソファーに座り、壁に掛けられた時計で時刻を確認していると、今日も診察時間が押しているのが分かった。私の担当の医師があの人になってから、診察の予定時刻ちょうどに診察室に通されたことなど、一度もなかった。私もそれを分かっていて、あえて予定時刻よりも遅くここに来る。
新しく図書館で借りてきた本を読み進め、名前を呼ばれるのを待つ。待合室では、有名なアニメ映画のオルゴールアレンジが、薄っすらと小さく流れている。アロマディフューザーからは、洗剤のような、清潔感がありながらも人の心を穏やかにする香りが漂い、照明の光も、ぬくもりを感じさせるような色をしていた。
私の学校からほど近いメンタルクリニックは、いつも患者でいっぱいだった。待合室のソファーに腰掛ける患者の中には、暗い表情をした人も、健康的に見える顔つきの人もいた。昔から病院は嫌いだったが、ここは他の病院よりも雰囲気が良かった。
診察室は二部屋あり、二人の医師が患者に対してのカウンセリングを行っている。私の担当医師は女の先生で、本人は永遠の十八歳を自称するが、恐らく二十代後半か三十代前半くらいだろう。私は高校一年生の頃からこの病院に通院しているので、もう一年以上あの人にカウンセリングしてもらっていることになる。先生は雑談が好きで、よく笑う。私のことを呼び捨てにして、早く彼氏でも作りなよ、とからかってくるのが面倒だが、先生と話す時間は嫌いじゃなかった。
私は中学のとき、初めて親に精神科病院に連れていかれた。初診で一時間以上のカウンセリングをして、その後に何度も通院した結果、私が夢喰い症候群に侵されていることを医師から告げられた。自分の抱える悩みに病名がついたことや、医師の一言で自分が一瞬にして病人になってしまったことに、気味の悪い感覚を覚えた。全部あのうさぎのせいだ。そう思って生きてきた私は、医師の説明を聞いて唖然とした。
夢喰い症候群とは、現代の奇病と呼ばれ、無意識に関わりのある人間の夢を見てしまう病だった。百万人に一人程度の確率でかかる病気らしく、主に過眠などの睡眠障害の症状がでると言われている。患者達は他人の夢を見たと証言するが、今のところ他人の夢を別の人間が取り込むことが出来ているかの証明は出来ないため、精神疾患として扱われていた。主な治療法はカウンセリングで、病状の重さも人それぞれだという。
私の抱えている悩みと同じ悩みを持つ人間が、この世に何人もいることに驚いた。百万人に一人だという患者達も、私と同じく、白いうさぎを飲み込んだのだろうか。そのことを医師に聞いて、みんな同じことを訴えているんですよと答えられたら、何年も抱えてきた私の悩みが特別ではないものの一つになってしまいそうで、医師に質問することができなかった。
私は日常生活に支障をきたす程、病状は重くないが、カウンセリングは定期的に受けるよう、病院側から言われていた。高校に進学する際、私は親と離れて一人暮らしをすることにしたが、親からも週一回のカウンセリングだけはしっかりと行くようにときつく言われている。
「
間延びした声で、先生が私の名前を呼ぶ、私は鞄の中に本をしまって、診察室の扉を開けた。部屋の中では、椅子に座った先生がくるくるとペン回しをしていた。長い髪をゆるく巻いて、サイズの合った白衣を着こなす先生には、仕事着に埋もれてしまわないような華があり、それなりに綺麗なのだが、恋人はいないらしい。
私は椅子に座り、赤茶色の机を挟んで先生と向き合う。先生のカルテには、びっしりと乱雑な文字が書き込まれている。
「こんにちは。一週間ぶりだけど調子どう?」
「どうもこうもないです」
「はっはっはっ。兎斗は相変わらずだなぁ。そろそろ彼氏は出来たかな?」
先生も相変わらずで、ニヤニヤした顔で私をからかってくる。こういう話題を出しても私が喜ばないことを知っているくせに。本当に、面倒くさい。
「出来るわけないでしょう。そもそも欲しいとも思わないですし。先生のほうこそ、恋人は出来たんですか?」
「残念なことに私に釣り合う人がいないからねぇ。まぁ、焦る必要はないかなと思ってるよ」
先生は背中を丸めて、机に肘をつきながら言う。私以外の患者の前では真面目にやっているのだろうかと心配になる。こんなに不真面目な医者は今まで見たことがない。
「自分のこと過大評価しすぎじゃないですか?」
その傲慢さがむしろ羨ましいくらいだ。分けてもらいたいとは思わないが。
「そんなことはないね。私はこれでも、この病院の中では出来る女扱いされているんだよ」
先生は鬱陶しいくらい自慢げな表情でこちらを見てくる。
「信憑性がない……」
確かに、先生は時折責任感を感じさせるような、凛とした表情を見せることもあるが、その表情もすぐに魔法のように消えてなくなる。それに、こっちのだらだらしている先生こそ、先生の本当の姿だと思う。
「失礼な。兎斗以外の前では真面目にやってるんだから」
「どうだか」
私が呆れた表情を浮かべると、先生は「これ本当の話だからね」と言ってカルテに目を通した。姿勢を正して、私をまっすぐに見つめる。
「それで、最近はどんな夢を見たのかな?」
カウンセリングでは、主に最近見た夢について話す。ここ一週間で印象に残った夢を私が報告し、先生がそれを記録する。後はほとんどが雑談だった。
最近見た夢、と言われて、すぐに思い出したのは、猫宮の夢だった。猫宮の夢は、私がこの高校に入ってから、何回か見たことがあったが、最近はさらに見る回数が多くなっていた。
「クラスメイトの夢です。クラスメイトが、死んでしまう夢」
「ふぅん。その子とは、仲がいいの?」
猫宮の顔を思い浮かべると、それと同時に、柔らかい唇と淫らな赤い舌の感触を思い出して、顔が熱くなるのを感じた。猫宮に負けたような気がして悔しくなる。仲がいいわけない。むしろ私は猫宮のことが嫌いだ。今までだって、ずっと関わらないようにしていたのに。
「全く、仲良くないです。何の関係もないです」
「でもさ、前に兎斗が言っていたでしょ? 自分は自分と関係のある人間の夢ばかり見る。だから、なるべく人と関わらないって。あ、もしかして、その子のことが気になってるとか」
「そんな訳ないじゃないですか!」
思わず早口になった私を見て、先生はにやりと笑った。
「へぇ。兎斗って好きな子いたんだ。カルテに書いておこうっと」
「それ今すぐ私に渡してください。燃やしてきますから」
「冗談だってば! そんなにむきにならないでよ」
先生はけらけらと笑って、カルテを自分の方にそっと寄せた。私が本気でカルテを燃やしに行くとでも思ったのだろうか。
私は猫宮のことなんてどうでもいいし、気になっているわけがない。私の中のうさぎが、勝手に猫宮を気にいっただけだ。恋愛感情なんて、もちろん全くない。今の猫宮には、嫌悪しか感じない。
「私にも、理由は分かりませんよ。でも、私がそのクラスメイトの夢を見ているのは確かなんです」
「なるほどね。ちなみにそう思う根拠は何かあるの?」
先生は少しだけ、真面目な顔になって聞いた。
「本人が言ってるのを聞いたんです。昔から、見たくない夢ばかり見るって。だからきっと、私はその子の夢を見ているんだと思います」
私の中のあいつは猫宮の見る残酷な夢に惹かれたのかもしれない。だから私が、何度も猫宮の夢を見る。本当に迷惑な話だ。
「見たくない夢、ねぇ」
先生が文字を書く手を止めて、どこか遠くを見るような目をした。夢喰い症候群にかかっていない先生も見たくない夢を見たりするのだろうか。私はあのうさぎが身体に入りこんでから、見たくない夢ばかり見て、普通の感覚が分からなくなっていた。
「たとえ興味のない人間だったとしても、その人が死ぬ夢を見るのは、楽しいことではないです」
猫宮が死ぬ夢を見た日は、最悪な気分で目覚める。特に興味もなく、関わりのない人の死。しかも、それは現実の話ではく、夢の中の話。それでも、確実な疲れと痛みは私を蝕んで、猫宮の存在が私の中でどんどん色濃くなっていった。
「だよね。私も悪夢を見た日は目覚めが悪いよ。でも、今回の話は少し気になるね。また、その子の夢を見たら教えてよ」
「分かりました」
先生が時計を確認し、机の端に置いてあった卓上カレンダーを手に取る。
「それじゃあ、来週もこの時間に来てね。あと、あんまり無理しないように」
無理なんて、しないと思う。嫌いなものは嫌いだし、やりたくないものはやりたくない私は、他の人ほど真面目に生きていないと思う。
「無理なんてしてませんよ。それじゃあ、失礼します」
先生は「じゃあね」と言って、ひらひらと手を振った。私は頭を下げて、診察室を出た。
スーパーで食材を買って、アパートに帰ると、部屋の鍵が開いていた。玄関には茶色のローファーが一足。部屋からは、シチューの香りが漂ってくる。
「ただいま」
私が部屋に入ると、
「お帰り。今日は病院だったの?」
「その通り。宮地は今日バイトないんだ?」
私はスクールバックを片付け、ソファーに座ってテレビをつける。
「今週は金曜日と土曜日だけ」
「それは大変だね。一番忙しいじゃん。休み明けテストだけど大丈夫なの?」
宮地は洋食店でバイトしている。童話をテーマにした、部屋の内装や食器もメルヘンチックな店で、私も一度だけ働いている宮地を見にいったことがあった。宮地は可愛らしい制服を着て、機敏にちゃっちゃかとホール内を動き回っていた。
「私は毎日勉強してるから大丈夫なのよ」
宮地がコンロの火を止め、ハンガーにエプロンをかける。
やっぱり、宮地は真面目だ。学校にも毎日来て、授業をさぼらない。そのうえ、テストの成績もいい。私みたいな劣等生とは大違いだ。
「じゃあ、勉強の息抜きに宮地が働いてるところ、見に行こうかな」
「絶対にやめて」
宮地が睨み付けてくる。アイドルのような顔立ちをした宮地は、学校やバイト先でかなり可愛い子ぶっているが、実際は何かと冷めているし、すぐ怒るし、可愛げがなかった。友達の前ではふわふわした笑顔で愛嬌を振りまいているくせに、私の前ではにこりともしない。
「分かったよ。絶対行かないから」
「最初から来る気もないくせにそんなこと言わないで」
「はいはい」
来るなと言われると、行きたくなる。でも、あの店は美味しいけど高い。一皿千三百円のオムライスは、バイトもしていない高校生の私にとってはかなりきつい。
宮地がロールパンをオーブンで軽く温め、皿の上に乗せる。私はその間に飲み物を用意する。スープカップにシチューを流し込み、スーパーで買ってきたカルパッチョを机の中心に置いて、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
シチューはまだ薄っすらと白い湯気を立てていた。宮地が、スプーンですくったシチューに、小さく息を吹きかけている。宮地と夕食を食べていると、時々、何故私達が今、こんなことをしているのかと不思議に思うときがある。
宮地は私の元恋人だった。一年の七月から付き合い始めて、すぐに別れた。私と宮地の間にはキラキラした甘い恋愛感情などなく、どちらも相手を愛するのが下手だった。相手が踏み込んでくると、自分が一歩下がる。距離の詰めかたが分からずに、どちらもジリジリと相手の様子を伺って、やけに気疲れしたのを覚えている。できれば、宮地と付き合っていたときのことは思い出したくない。羞恥やらならんやらが胸に蘇って、歯茎のあたりがゾワゾワする。
宮地と私は、友達ではない。そうしようと約束したわけではないが、学校では宮地とは極力話さないようにしていた。宮地の方からも話しかけてこない。話しかけてきても、周りに人がいるときは、私のことを荻原さんと呼んで、徹底的に他人のふりをする。宮地は、クラスの大人しめな子が集まったグループの中で、姫のように扱われている。本人もそのグループの中にいると安心するらしく、楽しそうだった。
友達でも恋人でもない私達は、一体何なのだろう。もちろん、宮地と関わるようになってから、宮地の夢を見ることが何回もあった。宮地は幼い顔立ちと甘い服装の下で、色々なものを抱えていたが、私は宮地の希望にも絶望にも向き合ってやろうと思った。宮地も、私の病気については伝えていた。
宮地の付けているリボンの髪飾りは、私達が付き合い始めたころ、私がプレゼントしたものだ。宮地は毎日この髪飾りをつけている。それが、宮地なりの誠意なんだと私は受け取っている。
関係性に名前がつかなくても、私達はだらだらと共に時を過ごした。家に帰ったら、たまに宮地がいる。そして、一緒に夕飯を食べる。それが私の、学校外での日常だった。
「宮地ってさ、猫宮と喋ったことある?」
「なくはないけど、あの子って結構派手なグループにいるでしょう? あんまり関わりはないわ」
「そっか」
確かに、宮地と猫宮が話しているところを見たことがない。それに、宮地の友人達は、猫宮の属しているグループの、派手な男子達は苦手だろう。
私はロールパンをちぎって口の中にいれる。点けっぱなしのテレビが、明日の天気を伝えていた。
「猫宮さんがどうかしたの?」
「私、猫宮にキスされたんだ」
あくまでも冗談っぽく、ふざけ調子に言う。宮地が食事をしている手を止める。宮地の瞳の温度が急激に下がった。
「妄言も行き過ぎると笑えないわよ」
「だよねー」
私が笑うと、宮地が呆れたようにため息をついた。やっぱり、信じてもらえなかった。だけど、妄言扱いされるのはいただけない。これじゃあまるで私が猫宮のことが好きな妄想女みたいじゃないか。
私と宮地は一回もキスをしたことがなかったな、と思い出す。手を繋いだこともなかった。私達には、相手に何があっても触れないという、暗黙の了解があった。それは、付き合っていた頃からずっとそうで、今も続いている。
宮地は本当に、他人の感情や、その場の空気を読むのが上手いと思う。宮地は、私がされたくないことを決してしなかった。だから私は、宮地の前でならマスクを外すことができる。
「大体、なんで猫宮さんなの? 兎斗はああいうタイプ苦手だと思ってたわ」
「だから、嘘だってば。キスなんてされてないから安心してよ」
自分から出した話題なのに、掘り下げられるのが嫌で誤魔化す。猫宮のことなんて思い出したくもない。
「なんで兎斗がキスされてないことに私が安心しなきゃいけないのよ」
宮地が怒ったように言う。まぁ、その通りかと思い、私は笑う。恋人でもなんでもない宮地が嫉妬したり安心してくれるわけがない。分かってはいたけど、ちょっとからかいたくなっただけだ。
「だってみゃーちは私が誰かとキスしたらショックでしょ?」
宮地は一瞬、素の表情に戻って私のことを見つめたが、すぐにまた不機嫌そうな顔をした。それを見て、私は思わず笑みを浮かべる。宮地は、私にみゃーちって呼ばれるのに弱い。そうやって甘えれば、ご飯も作ってくれるし、お皿も洗ってくれる。
「ショックな訳ないでしょ? あなたが誰と何しようが私には関係ないんだから」
「ふーん」
宮地が食事を終わらせて、「ごちそうさまでした」とつっけんどんに言うと、食器を片付けにいく。私も空になった食器を重ねて、流し台へ持っていく。
狭いキッチンで、二人で食器を片付ける。宮地がスポンジで皿を洗い、私がふきんで水分を拭き取る。もう何年もこうしていたかのように、私達の息はぴたりとあっている。
私は宮地に新しい恋人が出来たときのことを考える。宮地が誰と何をしようと、私には関係ないのかもしれない。でも、宮地に恋人が出来たら、ここで一緒にご飯を食べることもなくなるだろう。
一人の夕食は、退屈だなと思う。思っても、宮地には絶対に言わないけれど。
片付けを終えると、宮地は家に帰っていった。お風呂を洗おうと洗面所に行くと、宮地がもう洗っておいてくれたようだった。
金曜日、土曜日、と宮地は宣言通り、私の家に来なかった。私は休日明けのテストに備えて、家で勉強をしていた。私の通っている学校は、ここら辺では一番とされている進学校だ。だからこそ、親も私の一人暮らしをしぶしぶ認めてくれた。私は親に、好きな小説の舞台になっている学校だから、家から遠いけどどうしても行きたいと主張していたが、実のところ、この学校には何の思い入れもない。とりあえず、家族から離れて生活をしたかった。
一人暮らしは、家事も掃除も洗濯も、全部一人でやらなければいけないのが億劫だが、家族と一緒に暮らすよりかはまだ良かった。一番の問題は、学校での勉強面だった。やはり進学校なだけあって、やっていることのレベルが高い。
中の下くらいを取ることができれば上出来。テストはいつも、そんな姿勢で取り組むようにしていた。追試に引っかからなければ、それでいい。今回のテストは、前回よりも範囲が狭く、内容も比較的覚えやすかった。私はテスト前に一気に詰め込むタイプなので、土曜日、日曜日はほとんど勉強漬けで、エナジードリンクを飲み、睡眠時間も極力減らした。
テスト当日は、学校に登校する際、少し足がふらついたが、テスト自体は無事に終わり、追試の心配も今のところなさそうだった。
テストの回収が終わって、一息ついていると、担任が「それじゃあ、席替えするから、そっちのほうから一人ずつくじを引いていってね」と言って、紙袋を持って教卓に立った。私はテスト終了後に席替えの予定があったことを思い出して、うんざりした。もう疲れているので、早く家に帰りたかった。自分の番になって、くじを一枚引いて席に戻った私は、黒板に書かれた席順を見て、くじに書いてあった番号を探す。
一番後ろの、廊下側の席だ。教師との距離が近い最前列の席よりかは、気が楽だし、悪くはなかった。全員のくじを引き終わって、新しい席に移動する。机の位置を整えていると、とんとんと肩を叩かれて、私は不快感を覚えながらも顔をあげる。
私の肩を叩いたのは、猫宮だった。私の隣の机には、猫宮のスクールバックが掛けられていて、私はその意味を一瞬で理解する。
「よろしくね! 兎斗ちゃん」
よりによって、一番隣の席になって欲しくないやつが、私の隣の席になった。よろしくしたくない。私は猫宮の言葉を無視して、椅子に座る。最悪だ。今日は本当についていない。近年稀にみる厄日だ。
私の方を見て、ニコニコと笑顔を浮かべる猫宮に対して、担任が声をかける。
「猫宮さん。後でみんなのノートをまとめて、職員室まで持ってきてください。あぁ、でも一人で持ってくるのも大変でなので、荻原さんも手伝いをお願いします」
「はい。分かりました」
絶対に嫌だと思いながらも、返事をする。猫宮と二人きりになりたくない。しかし、担任がそれを察してくれることなどもちろんなく、笑顔で「よろしくお願いします」と言われた。私の隣で、猫宮がふふふと満足そうに笑ったので、癪に障った。
席替えも終わり、クラスメイト達が下校していくなか、私達は四十人分のノートを半分ずつに分けて、職員室へ運んだ。階段を下りていると、案の定猫宮が話しかけてきた。鬱陶しいな、と顔をしかめても、効果はない。猫宮は結構しつこく、図太い。
「隣の席になれたね。嬉しいな。私、兎斗ちゃんと隣の席になれますようにって、お願いしながらくじ引いたんだよ」
そんな恐ろしいお願いをしていたのか、と思う。私は逆に猫宮の隣にだけはなりたくないと思っていた。
「嬉しくない」
「ええっ。なんで?」
猫宮は驚いた顔をするが、わざとらしかった。猫宮は、私が猫宮に向ける嫌悪でさえ喜んで弄ぼうとしているように感じる。私の気持ちを知っているくせに、なんでこんなに私に関わろうとするのだろう。
「あなたの隣の席にだけはなりたくなかった」
ただでさえ、意識的に猫宮を避けるのは面倒なのに、隣の席になってしまえばいつも側にいることになる。一番隣になりたくないやつが隣の席になるなんて、私の引き運が悪いのか、猫宮の引き運が強いのかのどちらかだ。
「あなた、じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでよ。私、雪って名前なんだよ」
猫宮の名前は知っていた。明るい笑顔がふっと解けた時の儚い横顔。真っ白な綺麗な肌。名は体を表すというが、確かに猫宮には、雪という名前が合う。名前で呼ぼうとは思わないが。
「名前を呼び合うほど親しくないから」
階段の踊り場で、猫宮が私に身体を寄せた。ノートを運んでいた私の手が揺れる。
「だって、私達、キスした仲でしょ?」
猫宮が耳元で囁く。ぞわっとした感覚が全身を走り抜けて、耳が熱くなる。男の子達の声が聞こえてくると、雪はふっと私から身体を離した。
そっちが無理やりしてきただけで、私はしたいなんて思っていなかった。あれは猫宮が勝手にやってきたことなのに。
私が足元を睨み付けながら階段を下っていると、猫宮が「兎斗、耳真っ赤だよ」と言って、くすくす笑った。
「うるさい」
どさくさに紛れて私の名前を呼び捨てにしてくるところもムカついた。猫宮は私の誰にも踏み込ませたくない領域に、臆することなく踏み込んでくる。
「意外と可愛いところもあるんだね」
可愛いなんて、言われたくない。本当にうざったい。苛立った私は、何も答えなかった。
職員室にノートを届けて、私と猫宮は、無言で長い廊下を歩いた。さっさと帰りたい。そう思っていたら、急に暴力的な眠気が襲ってきて、意識がふっと途切れた。立っていられなくなった私は、床に倒れ込む。身体に鈍い衝撃が走る。睡眠時間をちゃんと取らなかったツケが回ってきたのかもしれない。こんなところで、眠りたくない。そう強く思っても、とろとろとした生暖かい睡眠欲は、全身を支配して、私は動けなくなっていった。
‡‡‡‡‡‡‡‡
低いブザー音が響いた。私は観客席の一番前、真ん中の席に座っていた。左右の席にも、その後ろに延々と続いている席にも、誰一人座っていない。ステージには、ワインレッドの重たそうな垂れ幕が掛かっている。ざわざわと、様々な声が混じりあって聞こえるが、そのどれもが、はっきりとは聞き取れない。
ワインレッドの幕がゆっくりと上がっていく。観客席の端から、白いうさぎが走ってきて、私の隣の席に座った。うさぎのつぶらな黒い瞳が、ステージから降り注ぐ強い光で、艶を帯びていく。
幕が上がりきると、ステージに映像が映し出される。飾り付けされたクリスマスツリーの下で、絵本を読んでいる幼稚園児くらいの女の子がいた。女の子は暖かそうなセーターを着ていて、絵本に夢中になっていた。頬を赤色に染めた幼いその顔には、今の猫宮の面影がある。きっとこの子が、幼少期の猫宮だろう。部屋には、たくさんのおもちゃや、ぬいぐるみがある。壁には、クレヨンで描かれた絵が貼ってあった。雪の母親と雪が手を繋いでいる絵だった。
猫宮は、絵本を読み終わると、また新しい本を持ってきて、隣に置いた白い猫のぬいぐるみに読み聞かせをしていた。眠くなってきたのか、猫宮はうつらうつらと舟を漕ぎ始める。その時、廊下の方からつんざくような悲鳴が聞えた。ハッと目を覚ました猫宮が部屋を飛び出すと、下の階からは灰色の煙が立ち上ってきていた。
驚いた猫宮は一歩後ずさったが、母親の声が聞こえると、階段を数段下りて、「お母さん」と叫んだ。下の階では、オレンジ色の炎が揺らめき、急速に威力を増していく。
「お母さん!」
猫宮は再度大きな声で叫ぶが、母親からの返事はなかった。炎は階段にも燃え移り、勢い良く猫宮に近づいてくる、猫宮は先ほどの部屋に逃げ込こみ、ドアを閉めるが、ドアもすぐに焼け焦げてしまった。灰色の煙は
「綺麗だね」
私の隣でうさぎが言った。うさぎは私と同じ声をしている。
「最悪」
私が呟くと、ブザーが鳴って、赤い幕がゆっくりと下りていった。まだばちばちと何かが爆ぜる音が聞こえていたが、幕が完全に下りると、その音もぴたりと聞こえなくなった。
‡‡‡‡‡‡‡‡
目を覚ますと、私は空き教室の隅で、壁に寄りかかって座っていた。窓からは黄金色の陽の光が差し込み、宙に舞う埃がきらきらと輝く。左手にぬくもりを感じて視線をやると、私の隣では猫宮が眠っていて、私は猫宮と手を繋いでいた。
どうして、こんなことになったんだ。私は他人の体温と自分の体温が重なり合っていることに不快感を抱く。私が倒れたから、猫宮がこの教室に運んできてくれたのだろうか。猫宮は穏やかな寝顔で規則正しい寝息を立てていた。私が猫宮から手を離そうとすると、猫宮がぴくりと動いて目を覚ました。あくびをして、目を擦った猫宮は、まだ少し眠たそうな顔で、笑顔を浮かべる。手はまだ繋いだままだ。
「こんなに気持ちよく眠れたの、久しぶりかもしれない。今日は変な夢、見なかった」
猫宮はそう言って、私の腕をぶんぶん振ってはしゃぐ。やっぱり、私は猫宮の悪夢を喰ったんだ。猫宮のせいで、私は散々な目に遭った。また、見たくないものを見た。
私は猫宮から手を離すと、「あ、そう」と言って、長く息を吐いた。変な夢を見たせいで、精神的にも身体的にも疲れていた。
「兎斗と手を繋いでいたからかもしれない。ありがとう、兎斗」
嬉しそうな猫宮が私に肩を預けてくる。どうしてそんなに気軽に他人に触れられることができるんだろう。私は他人に触れたくないし、触れられたくない。身体をずらして、猫宮から離れる。
「別に、私は関係ない。そんなの
そう言いながら、思った。誰かの夢を喰うことで、人の役に立てたのは、初めてかもしれない。いつも私のせいで、周りに迷惑ばかりかけてきたと思っていた。病気の自分が恥ずかしかった。
こんな私の悩みが、誰かの為になって、その人が喜んでくれている。初めて、普通ではない自分を肯定してもらえた気がした。
猫宮の甘い香りが、私の制服にも染み込んでいる。随分と長い間、二人で眠っていたみたいだ。私は立ち上がって、スカートについた埃を払う。猫宮の手の柔らかさや温もりが、まだ忘れられない。触っていいよなんて、一言も言ってないのに。どこまでも厄介な奴。
「私、そろそろ帰るから。じゃあね、猫宮」
「ねぇ、私のこと、名前で呼んでって言ったでしょ?」
猫宮が立ち上がり、期待に満ちた瞳で私のことを見つめる。
「……じゃあね、雪」
まだ呼び慣れないその名前を口にすると、やけに恥ずかしくなって嫌だった。助けて貰ったお礼として、仕方なく言っただけだ。下の名前で呼び合うなんて、友達みたいじゃないか。私と猫宮は、友達なんかじゃないのに。
「うん。ありがとう。兎斗」
雪が笑顔を咲かせて頷いた。怪しい笑みを浮かべて意地悪く絡んできたり、透き通った笑顔で子供のように喜んだり、よく分からない子だ。
雪の隣の席になってから、雪がちょくちょく絡んでくるようになった。授業中、強い眠気に襲われて、机に突っ伏していると、シャープペンシルやペンで脇腹をつついてくる。昼食を食べるときも、私が空き教室に行こうとすると、一緒にご飯を食べようと言ってきてしつこかった。「絶対に嫌だ」と私が言うと、雪は不満そうに頬を膨らませ、しぶしぶ友人たちの元へ向かう。
今日も、雪がちょっかいをだしてきて、私はうんざりしていた。帰り支度をしていると、雪が私に「ねぇねぇ」と話しかけてきた。
「何?」
「今日、一緒に遊びに行こうよ」
「ごめん。今日用事があるから」
一人で帰りたくて、嘘をつく。そもそも、どうやって遊ぶのだろう。子供じゃあるまいし。友人のいない私にはそれすら分からなかったが、雪と遊ぶ気など微塵もなかった。
私が鞄を肩にかけると、雪が私の顔をじっと見つめた。
「絶対嘘でしょ。私、兎斗が嘘ついてるの、すぐに分かるから」
「エスパーみたいだね」
私は嘘が下手なのだろうか。それとも、雪の目が優れているのか。私がぞんざいに答えると、雪は「本当に、エスパーみたいに分かるんだよ」言って笑顔を見せた。気味が悪いな、と思いながら帰り支度を終えた私の手をひっぱって、雪は教室を出ていこうとする。
「ちょっと、雪」
誰かと手を繋いだ経験があまりない私は戸惑う。いや違う。これは繋いでいるわけじゃなくて、猫宮が勝手に私の手をひっぱっているだけだ。私がその手を振りほどこうとしても、雪は楽しそうに笑って、その手を離さない。そのまま、下駄箱に到着すると、雪はやっと私の手をひっぱるのをやめた。
「どこいこうかな。私、ガトーショコラ食べたい」
雪が靴を履き替えながら呟く。
「私の意思も尊重して欲しい」
「兎斗も何か食べたいものがあるの?」
雪がきょとんとした顔で首を傾げる。遊びに行くのが前提のように話す雪の無垢な表情に、長いため息が出た。他人の迷惑も考えない、なんて自分勝手な子なんだ。
「そういうことじゃない。私は雪と遊ぶなんて一言も言ってない」
「だって、兎斗も放課後は暇でしょ? 私、兎斗ともっと仲良くなりたい。兎斗は学校じゃ私と話してくれないし、学校の外でなら、私と遊んでくれるかなって思ったの」
「勝手に人を暇人認定しないでよ。私はあんまり人と関わりたくないから、学校の中も外も関係ない。雪は友達と遊んだりしないの? 私以外の子と遊べばいいんじゃないの?」
雪には、私以外にも友人がたくさんいる。そもそも、私は雪の友人ではない。雪がいつもつるんでいる友人達は、派手で声が大きく、ああいう人をノリがいいと言うのだろう。雪はそういう人達と遊んでいた方が楽しいだろうし、私はノリがいい人達とは正反対のところにいる。
「学校の友達は、学校の友達でしかないから、あんまり遊ばないよ」
雪の表情が薄っすらとした影を帯びたような気がした。こんな表情をしている雪を見たのは初めてかもしれない。あまり踏み込んではいけないことなのだろうか。クラスでも友人の多い雪は、満たされていて幸せな子だと勝手に思い込んでいた。
「私も、ガトーショコラ食べたい。そのお店、連れてってよ」
雪は驚いたように瞬きすると、嬉しそうな顔で大きく頷いた。
雪の連れていってくれた喫茶店は、最近出来たばかりのところなのか、内装も新しく、小洒落ていた。若い女性客が多いので、なんだか居心地が悪い。私と雪は、コーヒーとガトーショコラを注文し、窓際のテーブル席についた。
「ここのケーキ美味しいんだよ。私、ケーキ大好きなんだ」
雪が運ばれてきたコーヒーに口をつける。私はマスクを外すかどうか一瞬躊躇したが、人前でマスクをしたまま食事をするのはマナーが悪いので、観念して外した。コーヒーを飲み終わったら、すぐさま装着しよう。
猫宮は、私の顔をちらりと見たが、すぐに視線を外した。じっと見つめたり、何か言ったりしてこなかったのは、この前のことがあったからだろうか。いや、猫宮にそんな繊細な気遣いができるとは思えない。ただ単に、ずっと気になっていた私の顔を、そこまで気にするほどの顔ではなかったと知り、興味を失っただけなのか。やっぱり、マスクをしていないと落ち着かない。
コーヒーを一口飲むと、口の中にチョコレートのような甘みと苦味が広がった。喫茶店を名乗っているだけあって、コーヒーは美味しかった。白い粉砂糖がかかったガトーショコラも、甘さが丁度良く美味しい。
「どう、美味しいでしょ?」
雪が自慢げな顔で聞いてきた。最近の女子高生は、放課後になるとこういうところで、コーヒーを飲んだり、ケーキを食べたりしながら時間を潰すのだろうか。随分贅沢で洒落ているな、と思う。友達のいない私には関係のない世界だ。
「まぁまぁ」
「兎斗は本当に素直じゃないなぁ」
雪の言葉で、宮地に天邪鬼と言われたことを思い出した。多分、付き合っていた頃の話だ。胸のあたりがぞわぞわして、それを塗りつぶすためにコーヒーを一口飲む。
「別に。私は自分のこと素直な正直者だと思ってるけど」
「ある意味ではそうかもね。じゃあ、私は兎斗からしたら、嘘つきな子なのかも」
雪が両手で持ったコーヒーカップの中で揺れる深い茶色に目線を落としながら、どこか寂しげな口調で言った。
「雪は充分、自分勝手で正直者だと思うけど」
「兎斗の前では正直でいられるけど、みんなの前では違うんだ。だって、学校にいるときの私は本当の私じゃないもん。みんなが、こんな子がいたら都合がいいだろうなって思う子を演じてるだけ。だからね、学校にいると、時々窮屈でしかたなくなるときがあるの」
クラスにいるときの雪と、そうでないときの雪は違うと私も感じていた。クラスにいるときの雪は、素直なようでいて、他人のことを考えた言動や行動をさりげなくしている。確かに、そんな人がいてくれれば、都合がいいだろうし、クラスメイト達は、雪のその性格が雪本来の当たり前のものだと思って、自分達にとって都合がいいことにさえ気がつかないだろう。
友達の多い雪でさえ、過不足なく学校生活を送ることが出来ているわけではないんだ。雪も雪なりに、居心地の悪さを抱えながら、自分や他人に嘘をついている。
本当の雪は、もっと自分勝手で、わがままで、私の意思なんて関係なしに、自分が良ければそれで良いという強引な考えの持ち主だ。だけど、どこか優しいから、今は完全に嫌うこともできなくなっていた。
雪の話で、今まで遠い存在だと思っていたはずの雪の存在を少し近くに感じられるようになった。この病が誰かの役に立つことがあるのを教えてくれたのも雪だった。今までは、自分から人を避けていたが、雪が関わってきたことで、私の日常に少しずつ変化が生まれ始めた。
「だからね、兎斗といる時間は楽しいよ。兎斗の前では、みんなの求める私を演じなくていいから」
雪は微笑むと、コーヒーカップに口をつける。その時、店の扉が開いて、扉に付けられたベルの鳴る音がした。出入口の方に目をやると、入ってきたのは、同じクラスの女子三人組だった。確か、雪とも仲が良かった気がするが、普段関わりがないので、誰の名前も思い出せない。私は咄嗟に、ポケットからマスクを取り出して、装着する。女子三人組は、すぐに雪に気がつくと、「あれ、雪じゃん!」と嬉しそうにはしゃいでこちらにやってくる。私はさりげなく下を向いて顔を隠すが、結局すぐに気づかれてしまう。
「雪、とあれ、荻原さん? なんか、珍しい組み合わせだね」
声をかけてきたクラスメイトの方も、私の名前が思い出せないのか、少し自信なさげに言った。私は何も声を発さずに、へらへらと笑顔を浮かべて頷く。相手も、少し困ったようにぎこちなく笑っている。この状況が、とても嫌だと思った。私はきっと、この子達にとっては、邪魔者だ。人気者の雪と、根暗な私が一緒にいるのはおかしいことだ。私はここにいるべきじゃない。
「ちょっと、お腹痛いから、先に帰るね」
机に千円札を置いた私が雪に向かって言うと、雪は何か言いたげな顔をして、私のことを見た。私はそんな雪を無視して、鞄を肩にかけて店を出る。私の後ろで、騒がしくベルが鳴った。私は奥歯を噛みしめて、早歩きで店から離れた。
私は勝手に感違いをしていたみたいだ。雪が誰かといることに居心地の悪さを感じていても、私と雪は似た者同士じゃない、だって、雪には友人がたくさんいる。雪は誰かに求めてもらえる存在だ。他人を突っぱねて、誰にも求められない私とは、違う。
自分のことが恥ずかしくて、悔しくて、腹の底にどろどろと濁った熱い何かが溜まっていく感じがした。雪が私のことを追いかけてきたら嫌だと思って、何度も角を曲がりながら進む。途中で後ろを振り返ったが、やっぱり雪の姿はなかった。
誰もいない道がオレンジ色に染まっていくのを見て、私は何で足を止めて振り返ったんだろうと思った。雪が追いかけてきてくれるのを、本当は期待していたのだろうか。雪についてきて欲しくなくて、普段は歩かないような道を歩いてきたのに。
足元に伸びた自分の影が笑った気がした。わがままで嘘つきで、都合がいい私を見透かして馬鹿にしたように、影は私の形で地面を長く灰色に染めていく。
****
翌日、雪は学校に来ると、小さな声で「ごめん」と言った。私の前ではいつも強気なはずの雪が珍しくしょぼくれているのを見て、謝るべきなのは自分勝手に家に帰った私の方だと思った。けれど、どうやって謝ればいいのか分からなかった。
「なんで、別に雪は悪くないでしょ?」
私は手元の文庫本に視線を落としながら答える。罪悪感から、目を合わせることができなかった。
「そうだけど、でも、兎斗が帰ったのは私のせいでしょ」
「だから、雪は悪くないって言ってるじゃん」
つい、強い口調になってしまった。雪は驚いたように目を見開いたが、別の友人に名前を呼ばれて、その子の元へ歩いていった。雪の背中が、いつもより小さく感じた。私はその背中を視界に入れたくなくて、文庫本の文字を目で追うが、内容は全く頭に入ってこなかった。
その日は雪が私にちょっかいをだしてくることはなかった。雪はもの言いたげな顔で、何度もこちらに視線を寄こしたが、私はそれに気がついていないフリを続けた。
放課後になって、私が一番に教室からでると、雪が私の後ろについてきて、「兎斗」と、私の名前を呼んだ。振り返った私は、泣きそうな顔をした雪を見て驚く。
「兎斗、怒ってるの? 本当に、昨日はごめんね。友達が来るなんて、思わなかったから」
苦しそうに喋る雪を睨み付ける。鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「もう、私達、関わるのやめようよ」
「え?」
雪が息を飲む気配がした。雪は真っ青な顔でこちらを見ている。
「人気者の雪と、日陰者の私は住む世界が違う。だから、話しかけないで欲しい。私達は一緒にいるべきじゃない」
雪はいつも一人の私と、孤独な心を持つ自分を重ねている。だけど、雪が孤独なのは、心だけで、雪には名前を呼んでくれる友人も、一緒に食事を取る友人もたくさんいる。私には、そんな存在すらいない。欲しいとも思わない。
私と雪は、本来別のところにいる人間だ。優等生と劣等生。人気者と日陰者。似た者同士でいた方が心地よく、対極にある人間と一緒にいるのは、精神を消耗する。そんなの、当たり前のことだ。
私と雪が一緒にいていいことなんて、ない。
「そんなもの、ないよ。そんな世界、兎斗が作ってるだけだよ! なんで兎斗と一緒にいちゃいけないの? 私は兎斗じゃないと嫌なの!」
わがままな子供のような声で叫んだ雪の目には、切実な光が宿っていた。そんな世界、兎斗が作っているだけ。その言葉が、理屈と虚勢の壁に囲まれた私の胸に突き刺さった。
「ちょっと、雪、声が大きい!」
授業が終わって教室から出てきた別クラスの生徒たちが、雪と私を不思議そうな顔で見ていた。目立ちたくないのに。最悪だ。
雪は私を強引に人気のない渡り廊下の方へ引っ張っていくと、勢い良く私の肩を掴んだ。その勢いで、私がバランスを崩して後ろに倒れると、雪は私の上に馬乗りになった。両手で私の頬を押さえて、ぐっと顔を近づけてくる。私は逃げようとするが、雪のせいで、目をそらすこともできない。
雪は猫みたいな目で、まっすぐに私のことを見つめる。ふわりとした髪が、私の耳を撫でた。
「もう、関わるのやめようなんて、絶対に言わないで。分かった?」
「……分かった」
嫌、なんて言えそうにない。だけど、私にはもう雪を避ける必要なんてなかった。
私の言葉を聞いて満足したのか、雪は満面の笑みを浮かべる。立ち上がった雪は、私に手を差し伸べた。私はため息をついて、その手に自分の手を重ねる。雪に引っ張られて立ち上がった私の手を、雪がぎゅっと握った。
「仲直りの握手だね」
「仲直りも何も、そもそも喧嘩なんてしてないんだけど」
「兎斗って本当、面倒くさい! でも、私と同じだね」
雪はけらけらと笑って、歩き出す。自分が面倒くさいのは自覚しているつもりだが、人に言われると癪だ。私は少しムっとしながら、雪の隣を歩く。
雪は私と一緒にいたいと言ってくれた。雪の友人が、私と雪の関係性を不思議に思おうと、私達には関係ないのかもしれない。
じゃあ、私はどうなんだろう。私は雪と一緒にいたいのだろうか。今はまだ、よく分からない。けれど、それでもいいと思った。雪と一緒にいる時間は、つまらなくもなかった。
「それで、前回の診察室から丁度一週間ぶりだけど、何か変化はあった?」
診察室で向き合う一週間ぶりの先生は、相変わらずといった感じだった。この人は何年たっても、子供っぽい性格と、変わらない容姿をしていそうだと思う。
「先生、この一週間のうちにちょっと太りました? ラーメンの食べ過ぎじゃないですか? ほどほどにしたほうがいいですよ」
いつものように、からかってみる。先生は私にからかわれると、少女みたいにむくれる。
「失礼な。私は十代の頃からこのスリムなプロポーションを維持してるんだから。あと、私はラーメンも好きだけど、毎日ラーメンみたいな生活はしてないからね」
「あれ、先生って永遠の十八歳じゃないんですか。十代の頃って、もう十代終わっちゃったみたいな言い方してますけど、まだ十代ですよね?」
これもいつものやり取りだ。発言の矛盾を私に突かれ、先生は悔しそうに頬を膨らませる。
「まだ十八ですけど?」
「へぇ」
先生の苦し紛れの言葉に私がにやついていると、先生はわざとらしく咳払いをして、カルテを開いた。
「それで、そのクラスメイトの夢はどうなったの?」
私は、雪の隣で眠った日のことを思い出した。オレンジ色の炎も、その熱も、実際にその場にいたかのように鮮明に思い浮かべることができる。あの日以来、雪の夢は見ていないが、雪と関わりを持っている限り、私はまた雪の夢を喰ってしまうのだろう。
「また、見ましたよ。その子が火事で死んでしまう夢。先生、私達って、本当に他人の夢を取り込んでいるんだと思います。私がその子の夢を見たとき、いつも悪夢ばかり見るその子はその夢を見ませんでした」
先生は少し困ったような顔で、鼻の頭をかいた。
「うん。でもさ、今のところ、その証明はハッキリとはできないんだよ。兎斗の話だって偶然って言っちゃえば、そういうことになっちゃうから」
「……そうですか」
他人の夢を取り込んだという証明ができない限り、夢喰い症候群にかかった人間の証言は、事実ではなく、妄想の類として扱われる。分かってはいたことだが、先生にそう言われると、どうして理解してもらえないのかと、歯がゆい気持ちになる。
「でも、私は兎斗の話を信じているけどね。私も夢喰い症候群の患者は、本当に他人の夢を取り込んでいると思っているよ。でも、今のところは、こうやってカウンセリングをしたり、人によっては安定剤を出したりして、なんとかやっていくしかない状態なんだよ」
「はい」
今まで、色々な病院で、色々な医師にカウンセリングをしてもらった。必要最低限の形式的なカウンセリングだけで、三分程で診察が終わる先生もいた。毎回三十分以上時間をかけて診察し、聞かれたくないことにまで踏み込んでくる先生もいた。自分の見た夢の話をしていると、この人達は私の話を本当に信じているのだろうか、と思うことがよくあった。みんな、私の言うことなんて、妄想だと思っていて、仕事中だから仕方なく話を聞いているだけなんじゃないか。本当は私のことも、夢喰い症候群のことも、どうでもいいんじゃないか。病院に行くたびに不信感が募っていって、通院がだんだん苦痛になっていった。
今の先生と話していると、気が楽になる。私にとっては、信頼できる大人なんて、この人くらいしかいない。先生がこの診察室にいるという事実だけで、頭の中にフラッシュバックする悪夢の数々が、微かに霞んでいくような気がした。
「でもさ、兎斗も結構変わったと思うよ。もちろん、いい方向にね。昔は私に対しても、夢喰い症候群に対しても、敵意剥き出しだったけど、今は向き合おうとしてくれてるでしょ? まぁ、関わりのある人間の夢を見るから、誰とも関わらないとか、ちょっと極論だけどさ、それが兎斗なりの病気との向き合い方だからね」
私は頷いて、マスクの針金の部分をきゅっとつまんだ。今の私が病気と向き合うことができているのは、先生のおかげだと思ったが、私はそれを口にできるほど、素直じゃなかった。
「それじゃあ、また来週。兎斗が来てくれるのを楽しみにしてるよ」
「ありがとうございます」
私は診察室を出て、待合室のソファーに座って文庫本を開く。私の病気が、人の役に立ったかもしれないことは、誰にも言わずに、私だけの秘密にしておこうと思った。それくらいなら、先生も許してくれるだろう。
月曜日の朝、私が教室の席に着くと、クラスの男女グループと会話していた雪がこちらにやってきて言った。
「ねぇ、これから私のこと毎日家まで送ってよ」
私は顔をしかめて答える。
「やだよ。面倒くさい」
そもそも、雪の家を知らないし、ただでさえ、夕飯の買い出しや通院など、他の高校生と違ってやることがたくさんあるのに、雪をわざわざ家まで送りたくない。しかも、毎日送らないといけないなんて、絶対に嫌だ。
「じゃあ、私と勝負してよ。今日の体育の五十メートル走で、早いほうが勝ち。負けた方は、勝った人の言うことを聞く、とか」
私は少しの間思案した。雪は運動部に入っているわけではないから、体育の時間くらいしか、運動する機会がない。私も、足は遅いほうではないので、もしかしたら私が勝てるかもしれない。
「じゃあ、いいよ。それで。私が勝ったら、授業中、私にちょっかいだしてこないで」
ある程度の勝算がある勝負だったので、私が勝った場合の特典もちゃんと指定する。これで、授業中もだらだらと過ごすことができる。
「うん。分かった。私、絶対負けないよ」
雪は自信満々の表情で頷いた。
体育の時間の五十メートル走では、雪と私が隣で走ることになった。今日の天気は快晴で、くっきりした青色の空に、真っ白な曇が浮かんでいた。校庭の砂はきらきらと輝き、風はひんやりと爽やかに頬を撫でる。私達の走る番になって、私と雪は隣に並んだ。私が五十メートル先のゴールを見ていると、雪がにこりと笑って言った。
「兎斗と一緒に家に帰るの、楽しみだなぁ」
「まだ勝ってもいないのに、気が早いね」
雪は私のことを、相当な運動音痴だと思っているようだが、残念ながらそれは違う。私だってそこそこ動けるし、中学の時のタイムも平均以上だった。
雪はふふっと笑い声を漏らした。
「だって、私が負けるはずないもん」
「へぇ」
その自信はどこからくるんだろうか、そう思いながら、私は気のない返事をした。
先生の合図で、私達は走りだした。私が一歩踏み出したときには、雪は私よりも先を走っていた。速い、と思った瞬間にはもう、差がつき始めていた。雪の走りはしなやかで、フォームも綺麗だった。私はだせる限りのスピードをだして走ったが、追いつけるわけがなかった。雪は私よりも先にゴールをすると、私に向かって、手を振る。その笑顔が憎たらしくて、私はさらに加速するが、もう負けは決定しているので、虚しいだけだった。
雪の走り方は、素人にはできないものだった。中学のとき、陸上でもやっていたのだろう。だから、あんなに自信満々な発言を繰り返していたのだ。
ゴールした私がマスクを引っ張って必死に息を整えていると、雪は軽やかに笑って言った。
「私、中学時代、陸上部だったんだよ。速かったでしょ?」
「聞いてないんだけど。そんなの、雪が勝つに決まってるじゃん」
私は不服な顔をする。この勝負は、私の負けがほとんど確定していたようなものじゃないか。部活で三年間鍛えてきた奴に、ちょっと走れるだけの素人が勝てるわけがない。雪はあえてそれを隠して私を勝負に誘ったのだ。
「だって私、絶対に兎斗と一緒に帰りたかったんだもん。確実に勝てる勝負しかしないよ」
「なにそれ、ずるい」
「ずるくてもいいよ。私の為だもん」
自分勝手の女王みたいな発言をした雪は、鼻歌まじりにクラスの女子グループの方へ戻っていく。どうして雪は私にこんなにこだわるんだろう。それもただの気まぐれだろうか。雪は猫みたいなので、素直だが、何を考えているのかよく分からない。私は額に浮かんだ汗を拭って、雪の後ろ姿を睨み付けていた。
その日から、私は雪を家まで送るようになった。喫茶店のことがあったからか、雪は放課後どこかに遊びに行こうとは言いださなくなった。雪は家までの道を、ゆっくりと歩いた。
私と少しでも長い間話していたいからと雪は言った。別に私は話が面白いわけでも、聞き上手というわけでもないので、どうして雪がそんなことを言うのか分からなかった。私の家と、雪の家は離れていたが、私は勝負に負けたので仕方なく、雪のことを毎日家まで送っていた。
雪はいつも、自分の家と、駅が反対方向なのをいい事に、今なら誰も見てないから、と無理やり私に指を絡めてくる。私が嫌がってもやめてくれないので、最近は抵抗することもなくなった。雪は誰かに触れていると心が落ち着くのだろうか。私には理解できない感覚だ。雪の指は細く、手は冷たかった。綺麗な手だな、といつも思うが、口には出さなかった。褒めたら、きっと雪は調子に乗るだろう。
いつものように、手を繋いで雪を家まで送っているとき、雪が言った。
「兎斗、爪長いね」
細かいところに気が付くんだな、と思った。宮地にも散々爪を切れと言われていたが、必要最低限しか切っていない。
「長いほうが落ち着くから」
雪は不思議そうに首を傾げる。雪の手はいつもちゃんと手入れされていて、つるつるしているし、爪の形も綺麗だ。
「そうかな? 長いと危ないじゃん」
「短いとすーすーするから嫌だ」
爪を切らないのにも理由があった。それは、昔からの癖が関係しているからなのだが、雪には話したくなった。
「でも、ネイルしたら綺麗かもね」
「爪に色を塗ることに何の意味があるのか分からない」
爪に色々な絵を描いたり、ラインストーンをつけたりして喜んでいる女子もいるが、私にはそういう人達の気持ちが理解できなかった。
「ネイル、可愛いじゃん。今度私が塗ってあげるよ」
雪は楽しそうに笑いながら言った。綺麗な手や、綺麗な肌を持つ雪には、私の気持ちは分からないだろうな、と思った。雪が羨ましいわけじゃない。妬んでいるわけでもない。ただ、自分を着飾ることを楽しめない人もいることを知らない雪は、幸福な女の子だと思った。
「塗らなくてもいいから。いちいち除光液で落とすのも面倒くさいし」
「私が綺麗に落としてあげるから、大丈夫。ね、夏休みになったら、お揃いでネイルしてもいいね。兎斗は何色がいい?」
お揃い、という女子の好きそうな言葉が、自分とは遠すぎて、異国の言葉のように感じる。わざわざ爪を同じ色に塗ったり、同じものを身につける必要性を感じない。女の子って本当に面倒だ。やたらと群れたがるくせに、突き放すときは容赦なく、ドライだ。
「別に、何色でもいい。雪の好きな色選びなよ」
「やっぱり、薄いピンクが可愛いかな。パールのストーンとか、ちょこっとつけたら可愛いかも」
飾りをつけると、お米を洗うときに邪魔だと思ったが、恐らく雪は普段家事をしないので、そんな想像もしないのだろう。
雪と話をしていると、雪の住む家が見えてきた。雪の住む家は、周りの家よりも新しく、綺麗だった。花や置物などの飾りのないシンプルな玄関は、隣の家の花壇が豪華な玄関よりも、かえって洗練されているように見える。
雪はこの家で家族と生活をしているのだろう。雪からは、家族の話を聞いたこともないので、雪が一人っ子なのか、そうでないのかも私は知らない。けれど、適当な理由を作って家を出て、わざわざ一人暮らしをしているどこかの誰かのほど、家族といることを嫌っているわけではないのは確かだ。
雪は家が見えてくると、私に身体を寄せて、名残惜しそうに呟く。
「もうちょっと、話していたかったな」
「明日も一緒に帰るんだから、別にいいでしょ」
私の言葉に、雪は首を横に振った。
「でも、まだまだ話し足りないよ。あーあ。ずーっと兎斗といられたらいいのにな」
雪はため息をついて、私の肩におでこを乗せた。雪にべたべたされることにも、大分慣れてきた。雪以外の他人にこんなことをされたら絶対嫌だが、雪にこうされても、もう何も思わない。耐性がついてきたのだろうか。
「教室でも隣の席だし、ずっと一緒みたいなもんでしょ。大体、なんで雪がこんなに私のことが好きなのか分からない」
雪はびっくりしたように肩を揺らして、私のことを見た。雪が動揺するのも珍しい。視線を泳がせる雪の頬が、だんだんと赤く染まっていく。
「好き……? 私、兎斗のこと好きなのかな? あれ?」
雪が両手で顔を覆って、もごもごと何か呟いているので、私は首を傾げた。こんなに私に関わってくるくせに、私のことに興味がないのなら、そっちの方が逆におかしいだろう。
「え、雪、自覚なかったの?」
「自覚とか、よく分からないし! っていうか、私は兎斗のこと大好きだけど、そういうわけじゃないっていうか……」
雪が何故かしどろもどろになっているので、私は不思議に思った。見れば、耳まで赤くなっている。
一緒に下校しようと言ってきたり、手を繋いできたり、それは明らかに好意からくるものだと思っていたが、違うのだろうか。
「そういうわけじゃないって、どういうことなのかよく分からないんだけど」
「兎斗のばかー!」
目に涙を溜めて、子供のように叫んだ雪が、逃げるように家へ帰っていった。なにがなんだか分からなかった私は、しばらくその場に突っ立っていたが、雪が戻ってくる気配もなかったので、一人で帰路に着いた。
家に帰ると、宮地がいて、夕飯を作ってくれていた。今日のメニューは肉じゃがらしい。普段はちゃちゃっと作れる料理を好む宮地が、時間のかかる煮物系を作るのは珍しい。何かいいことでもあったのだろうか。それとも、ただ単に暇なだけか。
「ただいま、宮地」
「おかえりなさい。また今日も猫宮さんと帰ってきたの?」
宮地は私と雪が一緒に下校していることを知っている。何故、私が毎日雪を家まで送っているのか、宮地が聞いてきたことはないが、宮地も私と雪の関係性を意外に思っていることは確かだ。問われないから、自分から話すこともないのだが、嫌みっぽく「兎斗にも友達ができることなんてあるのね。明日はきっと槍でも降るんじゃないかしら」と言われたときは、流石にイラッときた。
「そうだよ。雪は宮地と違って素直で可愛いよ」
雪は思っていることがすぐ顔に出るし、何より、感じたことはすぐに口にだす。私の前ではいつも怒った顔して、やたらと虚勢を張りたがる宮地とは大違いだ。
「可愛くなくてごめんなさいね」
宮地に睨み付けられた私は、外したマスクをごみ箱に捨てながら笑う。
「冗談だって、私、みゃーちより可愛い女の子なんて、世界のどこを探してもいないと思ってるから」
普段、可愛いと言われ慣れている宮地は、私に可愛いと言われると、露骨に嫌そうな顔をする。その顔が見たくて、私はしょっちゅう宮地をからかう。
「言っとくけど、世界は兎斗が思っているよりもずっと広いわよ」
「なにそれ」
宮地の意味不明な発言が面白くて、私は声を出して笑った。宮地は今頃になって自分の発言が恥ずかしくなったのか、悔しそうな顔をすると、私に背を向けて肉じゃがの味見をはじめた。私は宮地の隣に立って、宮地が口をつけた小皿とは別の、新しい小皿を戸棚から取り出す。
「美味しくできた?」
「そうね。美味しい」
宮地が私に、引き出しから出した菜箸を渡してくれたので、私はじゃがいもを一つとって、口に運ぶ。じゃがいもは出汁が染みていて、柔らかく、口の中でほろりと崩れた。
「うん。良いね」
もし、私達が真っ当に恋人をやっていたら、同じ小皿に口をつけたり、宮地がじゃがいもを私の口に運んでくれたりすることも、あったかもしれない。まぁ、私と宮地だったら、何度世界を繰り返しても、そんなことをしないと思うが。
小皿と菜箸を片付けていると、普段携帯でさっとレシピを調べて料理を作るはずの宮地が、新しいレシピ本を買ってきていることに気が付いた。肉じゃがのページに付箋が貼られている。
最近、テレビで肉じゃがの特集をやっているのを二人で見ていたとき、私が「肉じゃが食べたい」と呟いたのを、宮地は覚えていたのかもしれない。
宮地はきっといいお嫁さんになるね、と言ったら、宮地はどう思うだろうか。宮地が大人になったとき、宮地の隣には誰がいるんだろう。
宮地は、女の子しか好きにならない。多分、これからもずっとそうだろう。お嫁さんになった宮地の隣にはお嫁さんがいて、その人はきっと、可愛い宮地を本当に可愛がってくれる人なのだろうな、と思う。
「宮地は、ほんと、料理が上手になったよね」
昔の宮地は、包丁の持ち方すらなっていなくて、人参を切っても、大きさがばらばらだったが、今は随分と手慣れた様子で、包丁を扱い、綺麗に食材を切った。
「どうしたの、急に?」
宮地は
この手は、温かいのだろうか、それとも、氷のように冷たいのだろうか。触れあったことがない私達は、お互いの体温を知らない。
「なんでもないよ」
宮地が、しょっちゅうこの家に来る理由を、私は知っている。私が人と関わることを避けている理由を、宮地は知っている。
不用意に踏み込んでこない宮地が好きだ。臆病な私達は、相手にどこまで近づいていいのか、ぎりぎりのラインをいつも見定めている。それは少し疲れるけれど、だからこそ、私達はお互いのことを信頼していた。
次は、私がご飯を作ってあげようかな、と考える。宮地は甘いものが好きだから、ちょっとしたデザートを作るのもいいかもしれない。
宮地と夕飯を食べ終わった後は、二人で後片付けをした。その後はテレビを見て、午後八時を過ぎると、宮地は帰り支度を始めた。私は玄関まで宮地を見送る。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
リボンが編み込まれたリュックサックを背負い直した宮地が、ほんの一瞬だけ、ふっと悲しそうな目をしたのを、私は見逃さなかった。
「次、いつ家来れる?」
「明日」
「ふぅん。じゃあ、また明日」
私が言うと、宮近が少しだけ、ほどけるような笑みを見せた。
「そうね、また明日」
扉を開けた宮地が、外の闇に飲み込まれていく。短いスカートの端が、ふわりと揺れた。
また明日。宮地がこの部屋に来るのを、待ってるから。
声に出さず、心の中で呟く。
パタン、と静かに扉が閉まる。宮地がいなくなると、部屋の広さと静寂を、いつも遅れて思い出す。
テレビを消した私は、脱衣所で服を脱いだ。私の肌の色が、洗面所の小さな鏡を埋める。私の腕に刻まれているのは、赤黒い切り傷や、引っ掻き傷。直りかけのものは、薄っすらと白い皮を被っている。出来たばかりの傷をそっと撫でる。痛みはやってこない。醜い、と思う。自分の身体が、おぞましいもののように感じる。うさぎが私の身体に入り込んできたあと、私はなんとかしてうさぎを外に出そうとした。けれど、うさぎはいつまでたっても出てくることはなくて、次第に私はあいつを私の中で殺そうとした。その為に、自分に刃を向けるようになった。カッターやカミソリで自分の肌を削っていると、不安が紛れていくような気がした。学校にいるときも、無意識に長い爪を腕や足に突き立てて、引っ掻き傷を作ってしまう。爪を長く伸ばして、いつでも自分を傷つけられるように、極力切らないようにしているのはその為だった。
雪は私のこの癖に気がついていない。私がこんな醜い身体をしていることを、まだ知らない。ずっと、知らないままでいて欲しい。
制服も、袖の長いカーディガンも、私を守る鎧のようなものだった。最初は、雪に触れられるのが嫌だった。誰にも触れられたくなかった。宮地はそれを分かっていたから、絶対に私に触れたりしなかった。
雪と手を繋いでいると、雪の体温が私の肌に柔らかく馴染んでいく気がした。最初は気味が悪かったその感覚も、今では受け入れられるようになっていた。私がこうやって、雪と触れ合うことができるのも、鎧を纏っているからだ。
覆って、隠して、悟らせない。もうすぐ、夏が来る。太陽の熱がじりじりとアスファルトを焼いても、雪は私と手を繋ぐだろうか。肌が汗ばんでも、子猫みたいに肌をすりよせてくるだろうか。
雪なら、そうしてくる気がした。お揃いの色でネイルをしようと言ってくれたときのように、雪の目に映る私が、ただの女の子の私であればいいなと願う。こんな化物みたいな姿、雪には見せられない。
‡‡‡‡‡‡‡‡
その日の夜、また夢を見た。私はいつものように、観客席に座っていた。低いブザー音が鳴り響くと、またあいつがやってきて、私の隣の席に座った。ワインレッドの重たい幕が、ゆっくりと上がっていく。ここに座っていると、ある言葉を思い出す。この世は舞台、人はみな役者。シェイクスピアの言葉だ。舞台の上での出来事に干渉することができない私は、役者にすらなれないただの観客ということか。
ステージには映像が映し出されたが、薄暗くてよく見えない。耳を澄ますと微かに、車が風を切るような音が聞こえてくる。目を凝らして、映像を見つめる。ここは寝室だろうか。もぞもぞと、何かが動くような音がする。すると、部屋の中がぱっと明るくなり、一人の少女が部屋の電気をつけたのだと分かった。
ふわりとした髪に特徴的な猫目。その少女は、小学校低学年くらいの雪だった。パステルカラーのパジャマを着た雪は、瞳に涙を溜めて、白い猫のぬいぐるみを強く抱きしめている。
「ねぇ、起きて! お母さん!」
雪は眠っていた母親に飛びつく。雪の母親はうーんと小さく唸りながら、うすっらと目を開く。痩せ型で、髪が長く、大人しそうな顔をした雪の母親は、ゆっくりと起き上がると、雪の頬を撫でた。
「どうしたの? 雪」
雪の母親はまだ眠たそうで、目を細めながら、とろとろとした声で話した。
「あのね、ゆき、怖い夢を見たの。ほんとに怖い夢だったんだよ」
雪は泣きそうになりながら、必死に訴える。
「そっか。でも、大丈夫だよ。雪はちゃんと、ここに戻ってこられたでしょ? どんな夢でもね、いつかは消えてなくなるの」
そう言って、雪の母親は雪を抱きしめた。雪は母親の腕の中で安心したのか、目を閉じると、母親を抱き返した。雪の母親は雪の頭を優しく撫でて、雪の柔らかそうな髪の毛を愛おしそうに指で
「いい子だね。雪」
雪は母親の腕の中で深く頷くと、ふふっと嬉しそうに吐息を漏らした。ベッドの上で抱き合う二人は、世界で一番幸福な母親と娘に見えた。静かで優しいその状景を見ていると、胸の奥にちりちりと痛みが走った。目を逸らしたくなっても、この席に座ると私の視線は固定されてしまって、目に映る映像を見ているしかなかった。
うさぎを飲み込んでから悪夢ばかり見るようになった子供の頃の私が、怖い夢を見たと泣いたとき、母親はいつもうんざりしたような顔を浮かべて、「静かにしてよ」と苛立ちを吐き出すように言った。そして、すぐに眠りについた。その後から、私は悪夢を見ても、そのことを決して口にせず、誰にも知られないように隠して、押さえ込んでいた。
私は母親の腕に抱かれる幼い雪に対して、羨ましい、と思ったのだろうか。自分の子供っぽい憧憬が恥ずかしくて、胸を締め付ける感情をすぐには認められなかった。
ふかふかした水玉模様の布団の中で、二人はまた、眠りについた。母親の胸に抱かれた雪は、安らかな顔をして、寝息を立て始める。
映像はまた、光を落として、薄暗くなっていく。無意識に吐いた長い息が震えているのに気が付いた私は、苦く笑う。幸せそうな雪に憧れて、羨んで、自分の過去を掘り返しては、悲しい気持ちに浸る自分は、救いようがないくらいに歪んでいる。
闇の中に溶けていく二人の吐息を聞きながら、私はあることに気が付いた。この家には、父親がいない。
ぱち、とシャッターが鳴ったような音がして、場面が切り替わった。少し大きくなった小学校中学年くらいの雪は、どこかの病院の廊下を歩いていた。雪が病室の扉を開けると、窓際に置かれたベッドの上で、雪の母親がぼんやりと窓の外を見つめていた。雪の母親は雪に気が付くと、嬉しそうに目を細める。
雪の母親は、短い期間で、一気に老け込んだように見えた。長い髪は潤いをなくしてぱさつき、肌のハリも失われ、顔色も悪かった。笑顔にも、心なしか疲弊の色が浮かんでいる気がした。病室にいるということは、何か病気を患っているということだろうか。
「お母さん、お見舞いに来たよ!」
ランドセルを背負った雪は、母親の元に駆け寄ると、やせ細った母親を、ぎゅっと抱きしめた。母親は、雪の髪の毛に顔を埋め、静かに目を閉じる。
「ありがとう。雪」
「うん」
病室の窓からは、青い空と、深い緑色をした山が見えた。駐車場にとめられた車達は、ミニカーのように小さかった。
「今日、学校どうだった?」
「楽しかったよ。あのね、今日はみんなでドッジボールしたんだ。雪のチームが勝ったの! 雪もね、相手チームの子にボール当てられたんだよ。すごいでしょ?」
雪の母親は、雪が友達とドッチボールをする姿を想像して楽しむように、何度も頷いて、雪の背中を撫でた。
「そうなんだ。すごいねぇ。雪」
「うん! すごく楽しかったんだ」
雪は母親に褒めてもらえたことが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべる。笑った顔は、今とあまり変わらないんだな、と思う。高校生の雪も、無邪気で、眩しいくらいに明るい笑顔を見せる。
「ねぇ、雪。亜利沙はちゃんと、ご飯作ってくれてる?」
「うん。亜利沙のご飯、美味しいよ。昨日の夜は、ラーメン食べた」
雪の母親は、雪の言葉を聞いて、微かに訝しげな顔をする。
「ラーメンって、カップにお湯注いで作るやつ?」
「そうだよ! コーンとバターと、あとはハムの乗せてくれて、すごく美味しかったんだよ!」
雪は身振り手振りで、そのラーメンの美味しさを表現しようとする。それを見て、雪の母親は困ったようにため息をついた。
「じゃあ、その前の日のお夕飯は何食べたの?」
雪はしばらく、一昨日の記憶を手繰り寄せるように難しい顔をしていたが、やがてその日のメニューを思い出したのか、ぱっと表情を輝かせた。
「唐揚げだよ! 亜利沙がスーパーに連れてってくれてね、その時に買ってきたの。あ、あのね、亜利沙がスーパーに行ったときに、お菓子買ってくれたんだ。猫のキーホルダーがついてるの。こんど見せてあげるね」
「うん。ありがとう。雪。あと、亜利沙にご飯はちゃんと作りなさいって言っておいてね」
「うん。分かった」
亜利沙というのは、病院に入院している母親の代わりに雪を育てている人の名前だろうか。二人の会話を聞いている限り、しっかりした人という印象は受けない。
雪がベッドの上にちょこんと腰を下ろして、ランドセルを足元に置いた。二人は日が暮れるまで病室で会話し、雪は午後五時半を過ぎると、一人で家に帰っていった。雪の母親は、橙色に染まった窓の外に見える大切な娘の小さな背中を、悲しげに微笑みながら、いつまでも眺めていた。
また、場面が切り替わった。小学生の雪が曇天の空の下で、道端に咲いた花を摘んでいる。雪はその花を、大切そうに胸元まで引き寄せると、目を閉じて、下を向いたまま、しばらく動かなくなった。犬の散歩をしていた女の人に、「どうしたの?」と声をかけられた雪は「なんでもないです」と言って笑うと、その場から駆け出した。花を抱きながら、雪は声を上げて泣いた。雪の瞳からこぼれ落ちていった透明の涙は、アスファルトの上で溶けて、灰色の染みになった。
雪が向かったのは、広い墓地だった。大きな銀杏の木が、黄色い葉を落として、鮮やかな絨毯でもひかれているかのように見えた。古びた柵を開き、雪は一人で墓地に入っていく。手の中の花は、雪の体温で早くも元気を失いつつあった。
雪は一つのお墓の前で立ち止まると、花立に活けられた枯れた花と、摘んできたばかりの花を入れ替えた。お墓には、猫宮、と文字が刻まれていた。
雪の母親は亡くなったのだろう。雪は手を合わせて、目を瞑る。長い間、ずっとそうしていた雪はやがて、しゃがみ込んで小さな声で泣き始めた。震える雪の肩を優しく抱きしめてくれる人は、誰もいなかった。雪は腕の中に顔を埋めて、必死に声を押さえている。
カラスが鳴くと、雪は肩をびくつかせた。辺りを見回した雪は、不安そうな顔を浮かべる。いくら日中とはいえ、空は薄暗く、人ひとりいない広い墓地には、不気味な空気が漂っていた。
立ち上がった雪は、涙を拭った。お墓に刻まれた猫宮の文字を見ると、また泣きそうになっていたが、履いていたスカートをぎゅっと握って、なんとかこらえている。
「雪……」
思わず、雪の名前を呼んでいた。私の声は、雪には聞こえない。私の声が届くはずがない。そんなこと、分かっているはずなのに、悔しくて唇を噛む。ここにいると、ぼんやりと靄がかかったように痛覚が鈍くなる。手を伸ばそうとしても、観客席に座っていると、糸で縫い付けられたように、自由に身体が動かせない。
これが、雪の孤独だ。私の知らない、雪の過去だ。
また、覗いてしまった。他人の心の内側を。本人の意思に関係なく、勝手に。
こんな私、雪に気持ち悪がられてしまうだろうか。
もしも私が、あの舞台の上に立てたのなら、私は幼い雪の肩を抱いたはずだ。でもそれは、叶わない。私は観客に過ぎない。
「これで雪はひとりぼっちだね。可哀想に」
うさぎが私の声で笑う。舞台の幕が、だんだん下りていく。私が隣に座ったうさぎを睨み付けると、うさぎは「雪の母親が死んだのは僕のせいじゃないんだから、そんな顔しないでよ」と言った。
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幕が完全に閉じると、見えない観客たちのざわめきが聞こえてきて、ふっと意識が浮くような感覚がやってくる。現実世界で目を覚ました私は、時計を見る。まだ朝の五時半だ。二度寝をする気などもちろんないので、私は本を読みながら、時間を潰した。白んでいた空に、太陽の薄く眩い光が差していく。
インスタントのコーヒーを作って、牛乳を混ぜる。広がる白色を見ながら考える。
雪の孤独にも、絶望にも、向き合う覚悟はできていた。雪の笑顔は、閉じていた私の世界に差し込んだ光だった。
じゃあ、雪はどうなんだろう。孤独も、絶望も、本人さえ気がついていないかもしれない欲望も、全てを覗いてしまう私を、許してくれるだろうか。
他人に踏み込み過ぎないように、常に注意はしている。だけど、私が目にするのは、人の内側。その、奥の奥に潜んだ、誰にも見られたくない光景や感情だ。
気味の悪い私を、雪は受け入れてくれるだろうか。どこまで雪に近づいていいのか、私にはまだ分からない。
私が教室の席に着くと、学級日誌を書いていた雪が「おはよう」といつものように挨拶してきたが、その声も笑顔も少しぎこちなかった。私は「おはよ」と返事をしながら、今日見た夢を思い出して、今の雪と自分の距離を掴むのに、少し時間がかかった。
雪はちらっと私を見ると、下を向いて、頬を染めた。
「雪、顔赤いよ」
「えっ」
雪は慌てたように頬を覆う。濡れた瞳の視線が定まっていない。熱でも出したのだろうか。
「保健室で熱計ってきなよ」
「いやっ、大丈夫、大丈夫だから」
雪は首を横に振ると、机に突っ伏して、うーんと唸っていた。本当に大丈夫だろうかと思ったが、元気はありそうだったので、そんなに心配しなくてもいいだろう。私は授業が始まるまで、レシピサイトを眺めて、今日の夕飯のメニューを考えた。
下校時刻になると、担任に学級日誌を提出してきた雪が、「一緒に帰ろう」と言ってきた。
「今日は、ちょっと夕飯の買出し行ってくるから。ごめん」
「おつかい? 偉いね。兎斗」
雪が感心したように言ったので、そういえばまだ、雪は私が一人暮らしをしていることを知らないなと思った。夕飯の買い出しも、雪との下校の後に行っていた。
「おつかいとかじゃなくて、私一人暮らしだから、普通に夕飯の材料買うだけ」
「え、兎斗って一人暮らししてるの?」
「うん。私の家、この学校から結構遠いし」
本当は、学校と家が遠いから一人暮らししているのではなく、一人暮らしをするために、家から遠い学校を選んだのだが、そういうことにしておこう。
「そうなんだ。私、兎斗の家に遊びに行きたいな。ね、いいでしょ?」
雪が期待に満ちたきらきらした目で私を見つめる。別に見られて困るような部屋ではないが、家族や宮地以外の人間を部屋に入れるのは初めてだ。それに、あんな味気ない家に来ても、楽しいことなんてないだろう。
「まぁ、雪が良いなら、それでいいけど」
「じゃあ、今日は兎斗の家で、兎斗の作ったご飯食べる!」
「え、今日来るの?」
急だな、と思う。今日は、宮地が家に来ることになっている。雪と宮地はクラス内でもそんなに関わりがないので、雪が良くても、宮地がどう思うか分からない。私が考え込む仕草を見せると、自分勝手の女王の雪はむっとした。
「なんでダメなの?」
「別にダメなわけじゃないけど」
でも今日は先客がいる。そう言おうとしたら、雪は「じゃあ、今日は兎斗の家で遊ぶ」と言って、鼻歌まじりに歩き出した。これは断れそうにないな、と思った私は、ため息をつく。
「家には遊ぶようなものとかもないけど」
「いいの。兎斗と遊ぶから」
女子高生同士が家の中でどう遊ぶのか、私には分からない。本当に、雪とは感覚や価値観だとかが違っていて、隣にいるだけで何かと忙しいし、疑問も驚きも絶えない。雪はいつものように私と手を繋ごうとして、ここが学校だということに気が付いたのか、人差し指を唇にあてて微笑む。私は呆れ顔で雪のことを見た。
近所のスーパーに寄って、夕飯の材料を買った。今日はカルボナーラを作る予定だ。デザートには簡単なティラミスを作る。私がカートを押して、家にある調味用や食材を思い出しながら、必要なものをカゴに詰めていると、雪は私の周りをふらふらと歩き回り、野菜や肉を見ているのが退屈になったのか、お菓子コーナーへ向かった。子供みたいだな、と思う。しばらくして戻ってきた雪は、クッキーやチョコレート菓子などを抱えていた。
「二人でお菓子パーティーしようよ」
「駄目。そんなことしたら、夕飯食べられなくなる。ティラミスも作る予定だから」
それに今日は私と雪の二人だけではなく、宮地もいる。宮地は確かに、お菓子パーティーとかは好きそうだが、私の前ではそんな可愛いことはしないだろう。
「ティラミス! やった。私、ティラミス大好き」
「一応簡単なレシピ選んだけど、作るの初めてだから期待しないで」
それでも雪は、わくわくした顔で私を見て、何度も頷いた。
「兎斗のご飯、楽しみだな。お菓子我慢してお腹すかせておこう」
別に私は特別料理が上手なわけではないので、期待されてもそれに応えられるのか分からないのだが、雪の屈託ない笑みを見ていると、それなりに頑張って作ろうかなと思えた。宮地にも喜んでもらいたかった。
必要なものを揃えて、レジへ向かっていると、雪がお酒コーナーの方に行って、ずらっと並ぶカラフルな缶を、どれを飲むのか決めるような目で見ていた。もちろん、私達は未成年なので、まだお酒は飲めない。
「行くよ。雪」
私に呼ばれた雪が「うん」と頷いて、ついてくる。お会計を済ませて、エコバックに食材を詰める。雪は自分で買ったお菓子を鞄に入れて、携帯の画面を確認していた。母親に連絡するのだろうか、と考えて、気が付く。多分、雪の母親はもう亡くなっている。雪はあの家で、誰と生活しているんだろうか。二人が話していた、亜利沙という人だろうか。
私がエコバックを持ち上げると、雪が携帯を鞄にしまって、エコバックの持ち手の片方を掴んだ。
「二人で持てば重くないよ」
「そうだけど、恥ずかしいからやめて」
私の言葉を聞いた雪は、嬉しそうに笑う。
「恥ずかしくなっちゃえばいいよ」
私は雪のことを軽く睨み付けたが、雪は軽やかに笑うだけで、手を離さない。この調子だと、何を言っても、雪は私と一緒にエコバックを持ちたがるだろう。
「……しょうがないな」
私達はそのまま、アパートに帰った。
家に帰ると、宮地がいた。ソファーに座って、本を読んでいる。
「ただいま。宮地」
私が声をかけると、宮地は本に栞を挟んで、ゆっくりと顔上げた。そして、私の後ろに立っている人物に気が付いたのか、目を瞬く。
「猫宮さん?」
雪の方も、驚いたみたいだった。目をぱちくりさせて、宮地のことを見ている。
「黒森さん」
「今日は雪もここで夕飯食べるんだって。私がご飯作ってる間、二人で遊んで待っててよ」
そう言って、私がキッチンへ向かおうとすると、宮地がものすごく怖い顔で私を見てきた。どういうことなのか説明しなさいよ、と思っているのが、私には分かる。だけど、いちいち説明するのも面倒なので、私は知らんぷりをする。
「兎斗って、黒森さんと仲良かったんだね。学校ではあんまり話してないのに」
雪が私達のことを興味深そうに見比べる。やっぱり、クラスメイトからは、私達があまり関わりがないように見えているのだろう。
「仲が良いわけじゃないけど」と私が言うと同時に宮地も「仲が良いわけではないのだけれど」と言った。意図していないのに、宮地とばっちり目が合う。宮地が悔しそうな顔をしていたから、多分私も同じような顔をしていたのだろう。
雪は机の上に鞄を置くと、宮地の隣に腰を下ろす。
「息もぴったりだね。兎斗って、私の他に友達いたんだ」
「友達じゃない」
私と同じことを言おうとしたのか、口を開きかけた宮地は忌々しそうな顔でぐっとこらえる。
そんな私達を見て、雪は不思議そうに首を傾げた。
「友達じゃないの? じゃあ、二人はなんなの?」
「なんでもないのが私達なのよ」
足を組んだ宮地が、未だに悔しさを顔に滲ませながら言う。なんでもないのが私達。宮地も私と同じことを考えていたんだな、と思う。宮地は私の考えていることを分かっているし、私も宮地の考えていることはなんとなく分かる。教室では噛み合うことのない私達は、この場所では同じことを考えて、心地よい距離感をお互いに探っている。
「へぇ、なんでもない、か」
雪はまだぱっとしない表情を浮かべていたが、それでもいい、と思う。誰とも関わりたくないと思った私が宮地と過ごした一年以上の時間は、簡単に人に理解されないものであってほしい。
「私も夕飯作るの手伝うわ。今日は何を作るの?」
宮地が立ち上がろうとするので、私は手で制した。今日は宮地のために料理をするので、宮地にも作らせるわけにはいかない。
「いや、いいよ。今日は私が作るから。昨日の肉じゃがのお礼」
「そう。分かった。ありがとう。兎斗」
宮地は少しだけ嬉しそうな顔を浮かべた。しかし、ソファーに腰かけたとき、隣に雪がいるのに気がついて、僅かに戸惑ったような表情になる。宮地は雪と普段関わりがないので、二人きりにされたら困る、と思っているようだった。
「じゃあ、二人とも、テレビでも見て待ってよ」
「はーい!」
雪が元気よく返事をした。私は宮地の戸惑った顔を楽しみながら、キッチンへ向かう。