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 幼い頃、うさぎを飲み込んだ。人の言葉を喋る白いうさぎだった。私がそのうさぎとどんな会話をしたのかは、今はもう覚えていない。ただ、白い煙をまとったうさぎが、私の喉をこじ開けて、身体の奥深くへと潜り込んでいくときの、あの不快感は今でもありありと思い出せる。

 それ以来、そのうさぎはずっと私の中で生き続けている。

 

 学生生活を送る上での私のモットーは、君子危うきに近寄らずである。賢い人間は自分の振る舞いを慎み、危険なところには近づかないという意味のことわざだ。このことわざは非常に的を得た、素晴らしいものだと私は思う。私は自分のことを賢いとは思っていないが、それなりに常識人であることを自負している。危なそうな人間には関わらない。面倒事には首を突っ込まない。平凡でありふれた日常の尊さを私はよく知っているので、誰かに巻き込まれて起こる変化よりも、一人で過ごすコンスタントな毎日を愛している。

 友達も恋人も欲しいとは思わない。私は他人とできるだけ関わらずに生きていく必要がある。なぜなら、私の中にいるあいつは人の夢を欲するからだ。他人の無意識の中に潜む欲望も、絶望も、幸福も、あいつはすべて喰ってしまう。どれだけ食べてもまだ飽き足らず、あいつは私の中でいつまでも腹を空かせている。

 他人の内面まで、見たくはない。だから私は、こうしていつも一人で行動している。寂しいとか、悲しいとか、思ったことはない。孤独は他人を求めるから生まれるものだ。何も望まなければ、一人でいることは生ぬるくて心地が良い。その心地良さの中で揺らめく私は、時々自分の声すら忘れてしまう。けれど、それがむしろ嬉しくもあった。自分がどんどん透明になっていくような、そんな感覚が愉快だった。このまま消えてしまっても、悪くはないなと思う。きっと、夢も現実も、大した違いはないだろうから。

 

 一昨日から読み始めた本が、あと少しで読み切れそうだった。次の授業は体育だったが、そこまで早く体育館に行っても仕方がないので、授業が始まるギリギリまでここで本を読もうと思った。もう、更衣室からはみんないなくなって、部屋の中には私一人だった。

 小さな窓が一つあるだけの更衣室は、昼間も電気をつけないと薄暗い。制汗剤や香水の甘酸っぱい香りが混じりあって、鼻の奥がひりひりする。ベンチに腰掛けた私は、背中を丸めて文庫本に顔を近づける。天井の蛍光灯は煌々と白い光を放ち、細かく黒い文字達がはっきりと浮かび上がっているように見えた。文章も、ラストに向かってどんどん勢いを増していく。なかなか面白い。そう思いながら、私が文字を目で追っていると、唐突に部屋のドアが開いた。入ってきたのは、同じクラスのねこみやだった。社交的な優等生で、男子にも女子にも人気があり、クラスのカーストの中でも上位にいるような、私とは何の関わりもないタイプの女子だ。私はすぐに姿勢を正し、つけていたマスクの針金の部分をキュッと摘まんだ。そしてまた、何事もなかったかのように本を読み始めたが、はっきり言って猫宮が部屋に入ってきたことで、興が冷めてしまっていた。せっかく一人で盛り上がっていたというのに、猫宮のせいで台無しだ。猫宮は私の気も知らずに、鼻歌まじりに服を着替え始めた。私はしばらく、こちらに背を向けてジャージに着替える猫宮を睨み付けていたが、白い二の腕が露わになったとき、どうすればいいのか分からなくなって、下に視線を落とした。

 読んでいた本を閉じて、猫宮に聞こえないくらい静かにため息をつく。もう授業へ向かおうかと、立ち上がろうとしたとき、部屋の鍵が掛けられる音がした。

 私はドアの方を見て、目を瞬く。聞き間違いであることを信じてドアノブを捻ったが、扉は開かなかった。最近、朝のホームルームで、担任に言われたことを思い出した。どこかのクラスの体育中に、更衣室から女子生徒の制服が何着か奪われる事件があったそうだ。制服なんて盗んでどうするんだと私は思うが、その事件以降、体育の授業中は教師によって更衣室に鍵が掛けられることになっていた。

 ドアの向こうの足音はすでに遠のいていて、私が大声を出しても、鍵を掛けた教師が戻ってくることはなさそうだった。最も、そんなことをするくらいなら、この部屋で一時間を過ごした方がまだいいのだが。

 私一人だけで閉じ込められたのだったら、それでも良かった。しかし、問題は猫宮と部屋で二人きりだということだった。猫宮と会話したことなんて、全くといっていいほどない。そんな女子と一時間同じ部屋で過ごすと思うと、気が重かった。

「あれ、授業いかないの?」

 猫宮が扉の近くにやってきて、私に聞いた。セミロングの柔らかそうな髪に、猫のような瞳。ばれない程度にメイクをしているようで、その佇まいは少し大人びている。近くでその顔を見ると、思い出したくもない記憶が脳裏に蘇って、私は顔を背けた。できるなら、話し掛けないで欲しかったが、猫宮の性格なら、普段誰とも口を聞かない私に話しかけることだって、難なくやってのけるだろう。

「鍵、掛けられてるみたいだから」

「え、本当?」

 猫宮がドアノブを捻ったが、やはり扉は開かなかった。

「多分、先生が掛けたんだと思う」

 学校でクラスメイトと会話をするのも、本当に久しぶりだった。好きでもない自分の声が自分の耳に入ってくるし、心臓が身体の中で上下しているみたいで落ち着かない。猫宮からは、ストロベリーの系の甘い香水の香りがした。

「そっか。でも、困ったね。これじゃ授業いけないし」

 猫宮は顎に手をあてて、考える仕草を見せた。部屋の中をぐるっと見回した猫宮は、部屋の中の小さな窓に近づいて、窓を開けるが、それはどう見ても人が通れる大きさではなかった。

「多分、そこからは出られないと思うけど」

 私が言うと、猫宮は窓を閉じて、笑顔を見せた。まさか、本当にあの小さな窓から外に出られると思ったのだろうか。猫宮の屈託のない笑顔を眩しく感じた私は、マスクの下で強く唇を引き結ぶ。

「だよね。兎斗ちゃんは細いからいけるかなって思ったけど、やっぱりダメか」

 さりげなく相手を持ち上げるあたり、やっぱり女子だなと思った。こういうの、一番嫌いだ。私はどんな顔をすれば分からず、わずかに首を傾げた。

「そんなことはないと思うけど」

「そんなことあるよ。足とかも細いし、羨ましいな」

 猫宮はベンチに座り、足を組む。そんなことを言う猫宮だって、足首はきゅっと細く、背中のラインも綺麗だった。そのくせ胸も大きいので、猫宮の言葉はお世辞にしか思えなかった。

「猫宮さんのほうがスタイルいいと思うけど」

 他人を褒めたのも、久しぶりだ。お世辞の応酬。女子って基本、こういうことの積み重ねだ。ぼんやりと人の会話を聞いているだけでも、それくらいは分かる。自分の思ったことを好き勝手に口にしない。どんな女子も、他の女子と関わるときは少なからず自分の気持ちを偽っているはずだ。

「そうかな? でも、最近食べ過ぎで太っちゃったから、ダイエットしなきゃ。でもダイエットって全然続かないんだ。私食べるの好きだから」

 猫宮は私の方へ顔を向けたまま、困ったように笑う。猫宮は気がついていないかもしれないが、私は昼休みに猫宮がイチゴ柄の小さな弁当箱に入った、ちまちました冷凍食品のおかずを食べている姿を見ていたし、覚えていた。小鳥が餌をついばむような食事を毎日続けている猫宮が、食べるのが好きだとはとても思えなかった。

 女子ってやっぱり、みんな嘘つきだ。

「へぇ。意外だな。猫宮さんって小食なイメージ」

 普段人と会話しなくても、口を開けば意外につらつらと言葉が出てくるものだ。別にそのことに安心感を覚えたりはしないし、人と関わらないことを目標に生活している私にとって、今の状況は非常に良くなかった。それに、私には猫宮と関わりたくない理由があった。

「小食な子には憧れるけど、私は違うかな。あ、兎斗うとちゃんも座りなよ。ずっと立ってると疲れちゃうでしょ?」

「確かに、そうだね」

 断ると面倒くさそうだったので、私は猫宮の隣に人ひとり分の距離を開けて座った。猫宮は一瞬、私と猫宮の間にある距離を不思議そうに見つめていたが、自分の方から身体を近づけてきた。猫宮の甘い香りを強く感じる。そんなに近寄らないでほしいと思ったが、顔に出さなかった。

「あと一時間、何して時間潰そっか。ね、私、兎斗ちゃんとお話してみたいと思ってたんだ。今日は臨時の委員会があったから、こんなに遅くなっちゃったんだけど、兎斗ちゃんとこうやって二人きりになれてラッキーだったかも」

「そうなの? へぇ」

 私は即席の薄ら笑いを浮かべ、猫宮に礼を言う。感謝の気持ちなどなかったし、むしろ猫宮の言葉は、私の中で恐ろしいまでに残酷に響いた。あと一時間、この子と二人きりなのか。絶対に嫌だが、どうすることもできない。

「兎斗ちゃんはいつも本読んでるけど、本が好きなの?」

「うん。まぁ、それくらいしかやることないし」

 教室内での読書は、密かな牽制のようなものだった。本を読んでいれば自然と、私は今集中しているので話しかけないでくださいという空気を作ることができる。スマホを弄っている人より、本を読んでいる人に話しかける方がハードルは高い。

「へぇ。読書が好きな子って、頭良さそうなイメージだな。私は全然、本読んだことないなぁ」

 私よりもテストの点が良い猫宮に言われても、嫌味にしか聞こえなかった。そりゃあ、多くの友人もいて、教師にも好かれる猫宮は、誰かの作った物語を必要としなくても、充分幸せに生きてけるだろう。

 やはり、カースト最上層にいる人間との会話は、神経が削られる。というより、だるい。早く解放されたかった。

「私はそんなに頭はよくないけどね。猫宮さんのほうがずっと頭が良いと思う」

「私なんて、全然だよ。友達の前では、全然勉強してないアピールしてるけど、家では勉強必死になってやってるんだ。だって、ちゃんと勉強していい点数取るより、勉強しなくてもいい点数取れるほうがかっこいいでしょ? あ、このことはみんなには内緒にしてね」

 猫宮は唇に人差し指をあてて微笑む。そのつくりごとめいた動作に、私はまた薄っぺらい笑みを浮かべて頷く。早く、授業が終わったらいいのに。

「うん。分かった」

 猫宮はその後、今見ているドラマは何かとか、好きなバンドはいるのかとか、私にいくつも質問をしてきて、ひと時も会話をとぎらせることはなかった。流石、友人が多いだけある。わずかな沈黙さえ作らせないその巧みなテクニックには、私も素直に感心していた。

 一通りの質問と雑談が終わると、猫宮は足を組み替えて、私の横顔をじっと眺めてきた。自分の顔をあまり見られたくない私は、居心地の悪さに顔をしかめそうになるのをこらえ、意地でも猫宮と目を合わせないつもりでいた。

「ねぇ、兎斗ちゃんって、どうしていつもマスクしてるの?」

「特に、意味はないけど」

 意味はないことはなかった。私は自分の顔を強く嫌悪している。目の形も、鼻の高さも、唇の薄さも、すべて気に入らない。だから、他人に見てほしくなくて、いつもマスクをしていた。そのことには、誰にも触れられたくない。猫宮のその無遠慮な視線や言葉に、腹の底に、ドロドロとした怒りが溜まっていく。

「へぇ。冬はあったかいけど、夏とかは暑くないの?」

「そんなに暑いとは思わない」

「そうなんだ」

 猫宮がふっと目を細める。そのとき、猫宮を取り巻く空気が急に変化したように思えた。どこか怪しげな、不敵な笑み。それは、いつもクラスで見る、素直で優しい優等生というイメージとは全く真逆のもので、私は思わず息を呑んだ。

「兎斗ちゃんって、私のこと気にしてるように感じるんだけど、気のせいかな?」

 意地の悪い質問が、私の喉の奥を的確に突く。余裕ありげな表情をした猫宮の瞳の奥には、挑戦的な光が宿っていた。こんな聞き方をされたら、安易に否定することもできない。逃げ場など作らせないという意思すら感じた。猫宮は黙って私の言葉を待つ。

「……猫宮さんが死ぬ夢をよく見る」

 私はそれだけ言い終わると、猫宮にも聞こえるように、大きなため息をついた。ほら、くだらないでしょ、そんな目で猫宮を見る。最近、猫宮が死ぬ夢ばかり見る。猫宮が車に轢かれる夢、火事で焼け死ぬ夢、階段で足を踏み外して死ぬ夢。そのどれもが残酷で、猫宮の夢を見るといつも最悪な気持ちなった。

 どうして、深い関わりもない猫宮の夢を見るのかは分からない。ただ、猫宮と私が関わりを持つことで、私の中のうさぎが猫宮の夢を欲し、猫宮の夢を見る回数がさらに増えることは確かだろう。

 だから、この子とは関わりたくなかったし、普段の生活の中でも避けるようにしていた。意識的に避けていたせいで、私が猫宮のことを気にしているように感じられたのだろう。本当に面倒だ。

 自分の見た夢の話をするのは苦痛だ。頭がおかしいと思われる。けれど、私だって見たくて見ているわけではない。

 猫宮は赤い舌をわずかに出し、小さく笑った。

「なにそれ、新しいプロポーズ?」

 ぐっと胸ぐらをつかまれ、私と猫宮の距離が急速に縮まる。私が目を見開くと、猫宮は私のマスクを外し、床に放った。そのまま、柔らかい唇を私の唇の上に押し付けてくる。舌の先で唇を撫でられ、全身にぞわぞわとした感覚が走る。思わず吐息が漏れそうになるのを堪えていると、猫宮が私の唇を割って中に入ろうとしてきた。私は意地でもそうさせない気持ちで、唇を固く閉ざす。身体の芯は熱を持ってうずき、視界がとろとろと白く霞む。頭がぼんやりとしてきたことに恐怖を感じた私は、猫宮の肩を突き飛ばすように押す。猫宮の身体はぐらついたが、すぐにしなやかに体勢を立て直した。えきにまみれた口元をジャージの袖で拭った猫宮は、くすくすと笑った。